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2020年7月24日 (金)

半済令

   1352年のこの日、室町幕府 が近江・美濃・尾張で「半済令」を施行する。半済(はんぜい)とは、荘園年貢の半分を、荘園領主以外のものに納めることをいう。南北朝・室町時代に、室町幕府や守護大名によってさかんに行われた。この時代には、半済のほかに、三分一済、四分一済、五分一済などという言葉もあり、それぞれ荘園年貢が武家方に納めさせられることもあった。半済の実施は、すでに前代鎌倉末期に、和与中分・下地中分などによって、自分の所領の半分を失った荘園領主にとっては、一大脅威であった。ようやく確保しえた所領の半分のそのまた半分、つまり初めからすると4分の3の所領と荘園年貢を失うことになるのであるから、荘園領主にとっては、半済の実施はまさに死活の問題であった。もともと半済は、南北朝内乱期に室町幕府が、その戦費としての兵糧料や、配下の武将への恩賞の対象として、臨時に措置した便法であったが、ひとたび半済が行われると、各地の武将はかってに半済を強行した。彼らは半済どころか、寺社本所領そのものまでも押領するという状況であったので、室町幕府は、しばしば半済停止令や本所領押領の禁止令を出した。しかし幕府自身もその財源確保のため、半済を法文化する必要にせまられた。1352年の追加法は、幕府が半済の施行範囲を明示した最初の法令であった。この年、全国的な争乱(観応の擾乱)が続いており、軍費・兵糧調達のため、近江以下8ヵ国に半済実施を命じている。さらに義満が将軍に就任した1368年、幕府はさらに一歩をすすめて、皇室領・摂関家渡領・寺社一円所領への半済は禁止したが、そのほかの諸国の本所領への半済は、これを暫定的に認めた。以後この法令は、幕府によって引きつづき施行されている。応仁文明の大乱期には、半済はさらに守護大名によって、皇室領・寺社本所領の差別なく、一国平均の課役として強行された。こうして半済は、荘園体制を切りくずす一役をになう結果となった。(参考:杉山博「世界大百科事典」)7月24日

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