蘇我入鹿暗殺
中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺して、権力を奪った政変を「大化の改新」と覚えたが、今の歴史教育では入鹿暗殺事件は「乙巳の変(いつしのへん)」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的である。
皇極4年6月12日、飛鳥板蓋宮の大極殿。蘇我入鹿は儀式に参加するため入朝した。蘇我石川麻呂が上表文を読み上げるが、その声が震えている。不審に思った入鹿がその理由を問うた時、長槍を持った中大兄皇子が殿側から躍り出てきた。さらに佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田が出てきて刀を振り下ろし、入鹿の頭と肩、片脚を斬って殺害した。大雨が降って水が溢れた庭に、入鹿の死体は投げ捨てられ、障子で覆いをかけられた。入鹿暗殺を知った漢直の一族は、蘇我氏の館に参集したが、中大兄皇子が巨勢徳陀古を派遣して説得すると、退散してしまった。味方を失つた蝦夷は、翌13日、館に火を放ち、「天皇記録」「国記」などの珍宝もろとも、炎の中に消えていった。こうして朝廷で長年の権勢を誇った蘇我本宗家は滅びたのであった。
ともかく645年という年号は、わが国で初めて年号をたてて大化元年とした、記念すべき年であり、記憶されるべき出来事であることには間違いない。大化改新によって律令による政治が確立されたとされる。
無事故(645)で終わった大化の改新
変事、中大兄皇子は葛城皇子と名乗っていた。
6月12日、葛城皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す
6月13日、蘇我蝦夷が自害
6月14日、皇極天皇、軽皇子に譲位(孝徳天皇)
軽皇子が乙巳の変の黒幕ではないかという説や「646年」説もある。また近年、「大化の改新」そのものがなかったという説もある。日本書記の詔には、漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれている。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことで事実としておかしいというのが理由とされる。
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始めうっかり「乙女の恋と大化の改新」と読んでしまった。
投稿: 通りすがり | 2011年6月12日 (日) 09時05分