アイルランドの修道院
アイルランドでは5世紀はじめに聖パトリックによってキリスト教が布教され、修道院を中心として栄えた。その聖所は、たいてい人里離れたところや離島にある。イギリスのアイオナ、リンディスファーンなど何れも離島である。アイルランドでは世俗を離れて隠修者として信仰生活をすることが好まれたのである。
ブリタニアにおいてキリスト教はすでにローマ時代末期に存在していたが、アングロ・サクソン人の侵入と共に一掃された。432年、ローマ教皇ケレスティヌス1世から布教の命を受けたパトリキウス(387-461)はアイルランドに司教として派遣された。30年間にわたる彼の布教はケルト人のドルイド教の神々を認めながら、除々にキリスト教に吸収していき、やがてキリスト教と土着の宗教との融合に成功した。のちにパトリキウスはアイルランドの守護聖者となり聖パトリックと呼ばれる。アイルランドにおけるカトリックは世俗から離れて修道院を中心とする信仰生活が栄えた。
アイルランド修道僧コルドバ(521-597)は、563年、アイルランドを離れ、12人の仲間と共にアイオナ島に修道院を創建し、ここを伝道の拠点とした。アイオナは中世ケルト教会では最も格式の高い修道院であった。
七王国の一つであるノーサンブリア王オズワルドは、635年、アイオナ修道院(へブリディーズ諸島)から司教エイダン(?-651)を招いて、リンディスファーンに修道院を開かせた。現在もリンディスファーンは司教の聖カスバートの名によって広く知られている。これらアイルランドの修道士たちによる布教活動により、キリスト教はスコットランドからイングランド北部にまで伝えられた。
アイルランドで開花したキリスト教文化は、ローマ帝国の崩壊後も「西方の島」(エリン)で栄え、中世初期、逆に大陸に送り込む役割を演ずることとなった。しかしアイオナ、リンディスファーンのアイリッシュ・キリスト教は、664年のウィットビー宗教会議で復活祭の算定方法をめぐってローマ・キリスト教と衝突した。リンディスファーン司教コルマンは妥協を拒み、この地を去った。指導者を失った修道院は急速に凋落してゆく。司教カスバートは荒廃した修道院を建て直すべく尽力した。彼が687年に亡くなると、その墓所を詣でる人々が後を絶たなかった。そしてリンディスファーン島は聖カスバートの聖なる島として広くその名を知られるようになった。793年ヴァイキングがリンディスファーン島の修道院を襲撃した。
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