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2020年5月20日 (水)

越中人国記

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 戦国大名朝倉義景

  越中とは西に加賀、北に能登、東に越後に囲まれた国であるが、国境は時代により変動する。ここではだいたい現在の富山県とする。古代の越中の国府はいまの高岡市伏木の地であった。732年田口朝臣年足が越中守に任ぜられたのが越中の国司の初めで、大伴家持が国司に任ぜられたのは746年である。保元の乱後の平氏の全盛期に平教盛、盛俊、業家らが相次いで越中の国司となった。1183年、源義仲は平氏の大軍を礪波山の倶利加羅峠(加賀と越中との境)で破り、入京した。鎌倉幕府が越中においた歴代守護の名は明らかでないが、1223年、名越朝時を北陸道の守護に任じて以来、名越氏が歴代越中の守護であった。建武中興に際して中院定清が越中守に任じぜられているが、足利尊氏の命を受けて守護普門蔵人利清らに攻撃され石動山に敗死した。建武以来30余年の間、越中の国は宗良親王の意を奉じた宮方と足利方の武士との抗争が続いた。戦国時代になると、朝倉氏7代当主の孝景のときに、一乗谷に本拠地を移して、戦国大名化する。そして11代当主に義景がつくと、越前だけでなく、加賀の南部、若狭などを支配し、近江の浅井氏と同盟を結んで、勢力を取り戻す。織田信長の配下の佐々成政は1573年、朝倉義景を、1581年には上杉氏を討ち富山城に居城した。本能寺の変後、成政は織田信雄をたて主家の再興を夢み、豊臣秀吉と同心する前田利家を駆逐し、北越をその手に収めようとしたが、秀吉に降ってより越中の支配権は前田利家に移った。越中は江戸時代を通じて長く前田家加賀百万石の所領であった。

    民間では藩農政の末端を預かる初期の十村に、鳥尻村刑部、鳥村次郎右衛門、戸出村又右衛門、津幡江村宅助らがある。新田開発の功労者には、牛ヶ首用水四万石を開いた八町村善左門をはじめ、石黒信由、椎名道三、五十嵐篤好があり、また町人では塩野の開発者岡田屋嘉兵衛が知られる。富山売薬の開祖は富山藩2代藩主前田正甫と伝えられるが、富山の町人松井屋源右衛門が反魂丹の看板を掲げて諸国販売の途を開いた。冨商茶の木屋三郎右衛門も売薬商人で、一家相伝の奇応丸、熊参丸販売で財を築いた。阿曽三右衛門は礪波郡で福光、福野、津沢の3町を、また米屋少兵衛は婦負郡で八尾の町を開いた。文化の面では、瀬戸村彦右衛門は越中瀬戸焼の開祖であるが、ほかに色漆で知られる城端塗の小原治五右衛門、富山青貝細工の杣田光正、画家では虎の絵で知られる岸駒、明清画風の谷口藹山、京都大内裏便殿の絵を描いた吉田公均ら、ほかに天文暦学家の西村太冲(城端町簑谷)、蘭方医黒川良安(上市町)がある。明治にはいると、海運業で成功した馬場道久(東岩瀬)、安田善次郎(伏木)は上京して成功し、安田財閥を築いた。小説家の堀田善衛(高岡市)、歌人の渡辺順三(富山市)がある。

 

 

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