蒙古襲来
文永11年(1274)11月4日、モンゴルと高麗の連合軍3万が博多方面に襲うて来た。また7年後の弘安4年(1281)にも、モンゴル・高麗連合の東路軍4万のほかに范文虎の率いる江南軍10万が北九州に来襲。両度とも大風に妨げられて敗退したが、日本はまさに長夜の夢を覚まされたのであった。モンゴルのフビライはさらに第3回目の遠征軍を企てたが、軍費過重に悩む江南人民の反抗から中止を余儀なくされた。一方幕府は異国警護番役を継続して警戒を厳にし、さらに北条氏一門を派遣して九州地方の軍事行政裁判機関である鎮西探題を設置した。しかし、防備の負担は経済的困窮をまねき、戦後めだってきた庶子独立の傾向は幕府の基礎である御家人体制をゆるがしはじめひいては北条得宗家滅亡につながり、南北朝の内乱となってゆくのである。
しかし最近の研究、考古学上の発見などにより、元寇(蒙古襲来)は神風で撃退したという定説が否定されようとしている。とくに第一回の文禄の役では暴風はなかった。弘安の役では台風は来て艦船に被害を与えているが、艦船の作りが粗雑であるという指摘もある。結論として、モンゴル軍を撃退したのは神風ではなく、鎌倉武士の頑張りや食糧が不足し兵站の確保ができなかったことにあると考えられる。神風伝説は水戸光圀の「大日本史」による尊王思想が端緒であるが、太平洋戦争時の神風特攻隊にみられるように政治的に利用された。
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