愛された国王・アンリ4世
1598年のこの日、フランス国王アンリ4世は「ナントの勅令」を発布した。アンリ3世(在位1574-1589)が熱狂的なドミニコ会士の凶刃によって暗殺されヴァロア朝が絶えると、1589年、ナヴァル王であったブルボン家のアンリ4世(1553-1610、在位1589-1610)がフランス国王に登った。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、その一方、1598年にはナントの勅令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。ブルボン家のアンリ4世は35歳、均斉がとれた身体、活気にあふれ、威厳に満ちた歴戦のつわもの、柔軟な知性と明敏な政治力を持っていた。プロテスタントとカトリック双方の信頼を勝ち得て、フランスの王権は急速に強化された。シュリー公(マクシミリアン・ド・べテューヌ、1559-1641)を財務官に起用して、財政改革と農業保護にあたらせた。王とほとんど同年輩で、その同志にして友人、宗教内乱歴戦の勇将、王に改革をすすめこそすれ、自分はつねにルターとカルヴァンの肖像を壁にかけていた気難しく頑固な人物は、勤勉そのもの、吝嗇なまでに節約家であった。「耕作と牧畜とはフランスの二つの乳房」とは、彼の有名な言葉である。シュリー公にとって国土の復興とは、フランス農村の立て直しをはかることであった。農業とそれに従事する人間だけが、フランスに国富と平和をもたらす、というのが、彼の信念であった。もちろんシュリー公の仕事にも限界はあった。農業中心で商業、工業にはあまり関心がなかった。だが、明敏なアンリ4世は養蚕、絹織物、ゴブラン織などの工業をおこし、海外貿易に力をいれた。サミュエル・ド・シャンプラン(1567-1635)がカナダを探検してケベック植民地などの建設がはじめられ、東インド会社がつくられたのも、アンリ4世の治世のことである。
アンリ4世は色事でも勇名をはせたが、一説に恋人の数は56人以上に及ぶという。最初の妻であるマルグリッド・ド・ヴァロアとはサン・バルテルミの虐殺という忌まわしい事件のため別居状態が続き、子供もなかった。アンリ4世はガブリエル・デストレとの結婚を望んでいたが、1599年4月にガブリエルは24歳の若さで急死した。身分の低さからガブリエルを嫌ったマルグリッドも、メディチ家の娘マリー・ド・メディシス(1573-1642)との縁組には応じた。国王47歳、新しい王妃は26歳であった。二人の結婚式は、1600年10月5日にフィレンツェ大聖堂で挙行された。アンリ4世は政務多忙のためフランスを離れられなかったので、トスカーナ大公が新郎の代理となった。荘厳な結婚式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金襴緞子で飾られた豪華なガレー船でマルセイユに向けて船出した。そしてリヨンで初めてアンリ4世にまみえ、1600年11月にその地で結婚の儀は完了をみた。イタリア人のマリーはフランス語が喋れなかったため宮廷での暮らしは孤独だった。それを紛らすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりする生活だった。だが翌年の9月には世継ぎであるルイ13世を出産した。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に王政の全権をマリーに与える布告を出した。夫妻の生活を取戻しやっとこれから王宮での穏やかな生活を送ることができると思われたが、1610年5月14日、狂信的なカトリック教徒フランソワ・ラヴァイヤックによってアンリ4世は暗殺された。国民の驚き、悲しみは、祖父により、父によって、子々孫々にまで語りつがれた。フランスの王のなかで、これほど死をいたまれた王はあるまいといわれる。勇敢で良識があり、陽気で豪放で庶民的なこの王はまことに国民から敬愛されていた。(4月13日)
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