飯田蛇笏と門人たち
飯田蛇笏(1885-1962)はホトトギスを代表する俳人で、甲斐の自然と生活をとらえた端厳荘重な作風で知られる。明治18年4月26日、山梨県東八代郡境川村に生まれる。本名は飯田武治(いいだたけじ)。飯田家は旧幕時代苗字帯刀を許された大地主であった。早稲田大学時代、高浜虚子の「俳諧散心」に参加し、本格的に俳句への道を歩み始める。明治42年、一切学術を捨て、所蔵の書籍全部を売り払い、家郷に帰り、田園生活に入る。以後、生涯を山梨で過ごし、山国の自然や生活を舞台に、風土に生きる心を詠い続けた。大正初年代、俳誌「キララ」の主選者に迎えられ、その後、主宰となって、誌名を「雲母」と改めた。昭和初年には、「山廬集」をはじめとする句集、随筆集、評論集を刊行。戦中、戦後にかけて、両親をはじめ、三人の子供の死に遭遇、句境は、次第に深まり、戦後も秀作の数々を詠み続けた。生前、一基たりとも句碑の建立を許さなかったが、没後建てられた唯一の句碑がある。
芋の露 連山影を 正しうす
秋のすがすがしい朝、戸外に出てみると、芋畑の芋の葉にはびっしょりと露が降りていて、大粒の露の玉が朝日に白くきらめいている。畑のはるか前方には、周囲をとりまくようにして、南アルプスの山脈が、澄み渡った秋空に高くそびえ、姿を正すかのようにくっきりと連なっている。蛇笏30歳の時の俳句。平面的なホトトギス俳句とは異なり、内に張る気迫をもって、自然にきびしく向きあう姿勢から生まれた、静かだが、寸分のゆるみもない、力が満ちた作である。
くろがねの 秋の風鈴 鳴りにけり
刈るほどに やまかぜのたつ 晩稲(おくて)かな
雪晴れて わが冬帽の 蒼さかな
山国の 虚空日わたる 冬至かな
をりとりて はらりとおもき すすきかな
雪山を はひまはりゐる こだまかな
山の童の 木莵(くず)とらへたる 鬨あげぬ
地靄して こずゑにとほく 春鶫(はるつぐみ)
温情あふれる人柄により蛇笏には門人も多かった。西島麦南(1895-1981)、松村蒼石(1887-1982)、中川宋淵(1907-1984)、佐々木有風(1907-1959)、柴田白葉女(1906-1984)、高橋淡路女(1890-1955)などすでに故人となられた。柴田白葉女は昭和59年、NHKの取材を装った刑務所から出所した男・安田則夫に椅子で撲殺され2000万円の株券を盗まれた。犯人は服役中に読んだ俳句雑誌で犯行を思いついたという。恐ろしい話である。
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