漢室再興を掲げた蜀の昭烈帝
221年のこの日、漢の劉備が皇帝に即位する。蜀が成立する。在位は221-223年。前漢景帝の子中山靖王劉勝の子孫と称した。幼くして父に死なれ、母と草履売りや蓆織りで暮らしを立てた。若いときから読書を好まず豪侠たちと交わりを結び、関羽・張飛はこのころよりかれに従っている。黄巾の乱の際に手柄を立てたが、根拠地を持たないかれは、各地を転々とし、公孫瓚、曹操、袁紹などのもとに身を寄せる。以前より曹操とは親交があったが、次第に曹操と敵対するようになる。201年、汝南で曹操に敗れ、荊州の劉表のもとに走る。207年、劉備は野に隠れていた諸葛亮を三顧の礼をもって迎える。208年、曹操が南征を開始すると、劉表のあとを継いだ劉琮は、戦わずして荊州をあけわたした。劉備はあわてて南方の江陵へ撤退することにしたが、急迫した曹操の軍に当陽の長坂でついに追いつかれてしまった。この戦いで、劉備は惨敗を喫し、一時は妻子を見捨てて逃げるといったていたらくであったが、張飛の活躍でどうやら虎口を脱することができ、道を東にとって夏口へと逃れた。ここで劉備は諸葛亮を孫権のもとに派遣し、これと同盟を結んで赤壁の戦いで曹操を撃退した。その結果、荊州の長江以南の四郡を手に入れ、209年、荊州の牧となって、はじめて根拠地を得た。
211年、蜀の領主劉璋の招きに応じて、みずから蜀にはいり、翌年、劉璋に反旗をひるがえし、214年、ついに成都を開城させて、益州の牧となった。曹丕が献帝の禅譲を受けて魏王朝を創建すると、221年、漢室再興の大義名分を掲げて帝位についた。しかし、関羽の仇を取るため、群臣の反対を押しきって東征を断行、夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗を喫した。命からがら白帝城に逃げもどったところで病に倒れ、後事を諸葛亮に託して、悶々たるうちに永安の地で没した。223年4月24日のことである。享年63歳。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本 中国史シリーズ1、4月6日)
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