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2020年3月 4日 (水)

冷戦時代と毛沢東

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Img_1605847_52395682_2   1946年、チャーチル英首相が米ミズーリ州でソ連を非難する「鉄のカーテン」の演説から「冷戦」と呼ばれる1つの時代が始まった。そして東西冷戦時代といえば資本主義国と共産圏との戦い、つまりアメリカ対ソビエト連邦の構図がイメージされやすい。東側のソ連・中国といえば同じマルクス・レーニン主義を標榜し、結束が固いと思われがちだが、実際はそう単純ではなかった。ひとつの要因は偉大なる中国毛沢東の存在であった。毛沢東は中国革命を指導して中国の民族解放をなしとげ、社会主義化を推進した。1949年の中華人民共和国の成立から1954年の憲法実施にかけての時期は、毛沢東が劉少奇との協力のもとに最もソ連に接近しようとしていた時代で「向ソ一辺倒」時代と呼ばれている。1953年から1955年にかけてはソ連からの経済援助を前提とした第一次五ヵ年計画が開始された。しかし、このようなソ連モデル尊重の考え方は、徐々に変化していった。1959年以後毛沢東とフルシチョフとの対立は急激に深まっていった。1958年、毛沢東は「社会主義建設の総路線」「人民公社」「大躍進」のいわゆる「三面紅旗」の急伸路線を指導した。この時期、日本の高名な古代中国史家である貝塚茂樹(1904-1987)が「毛沢東伝」(1959)を著したときはずいぶんと話題になった。存命中の政治家評伝を書くと単なる偉人伝になりがちだが、貝塚がどう評価したのか、再読してみたい。その後、1967年中国はプロレタリア文化大革命期に入る。1969年3月、中ソ国境ウスリー川の中州、珍宝島において武力衝突が発生する。さらに新疆ウイグル自治区の流血事件は、中ソ関係を一挙に悪化させた。1971年10月、中国は国際連盟に加盟し、1972年2月にはニクソン米大統領が訪中し、中ソ対立の深刻さは現状を反映したものとなった。

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