奈良時代の都と地方
710年のこの日、元明天皇が藤原京から平城京に都を移す。仏教によって国家の安定をはかる鎮護国家思想は奈良時代の特徴である。
仏教の広がり
聖武天皇(701-756)は天平13年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けることにした。大仏造立などの大事業も、その仏教信仰に基づいたものである。造立時の大仏は表面が黄金で覆われていた。昭和48年から50年にかけて兵庫県小野市で記録にない古い廃寺跡が発見された。7世紀後半頃に建立された古代寺院跡で現在の地名から広渡廃寺跡」(こうどはいじあと)と呼ばれている。(小野市広渡町304-1)東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっている。
平城京と貴族の生活
平城京が唐の長安や北魏洛陽城を模倣したものであることは、むかしから言われてきたが、近年の研究によれば、藤原京の発展したもので、直接長安を模したものではないとする考えもある。しかし続日本紀に、「帝王が都を作って壮麗でなければ万国の使者をいかんせん」とあることから、中国を意識していたことは明らかである。ただし、異民族の侵入を防ぐのが第1の目的であった中国の都城に対して、日本の都は軍事的色彩の濃いものではなく、きわめて政治的な都市であった。
地方と人々の生活
全国の国々は畿内(大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分けられた。諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成されていた。中央と地方を結ぶ交通制度としては、都を中心に畿内から七道の諸国に向かう官道が整備され、約16㎞ごとに駅家を設ける駅制度がしかれ、役人が公用に利用した。各地で一定の規格の道幅(6-12m)をもって直線的に伸びる古代の官道遺跡が発掘調査により発見されている。(3月10日)
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