マフィアの日
1282年のこの日、シチリアでシャルル・ダンジューの圧制に対し暴動(シチリアの晩鐘事件)が起こった。反乱の合言葉が「Morte alla Francia Italia anela(全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べるとマフィア(mafia)となる。(3月30日)
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1282年のこの日、シチリアでシャルル・ダンジューの圧制に対し暴動(シチリアの晩鐘事件)が起こった。反乱の合言葉が「Morte alla Francia Italia anela(全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び)」の各単語の頭文字を並べるとマフィア(mafia)となる。(3月30日)
ペリーは、日本の鎖国を開国へ導いたことで知らない人はいないほど有名であるが、1854年の日米和親条約は鎖国をとく条約として小学校で習うが、実は通商のことが決められていないので、まだ開国していないとする学者も多い。本当の開国は4年後の1858年6月ハリス(画像)の日米修好通商条約の締結によってである。主な内容は、①神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市②自由貿易許可③別冊貿易章程による関税納付(関税自主権欠如)④領事裁判権の許容⑤居留米人の遊歩区域設定(開港場の10里四方)、という条項を含む不平等条約であった。
幕末で初代駐日総領事タウンゼント・ハリス(1804-1862)は唐人お吉との悲話で知られるが、それは50歳代以降のことであり、アメリカでは教育委員として活躍した人であることは日本でほとんど知られていない。ハリスはニューヨークのサンデーヒルの貧しい家に生まれたが、公共図書館を利用して独学で語学を習得し、その苦学時代の経験を通じて、教育行政に関心をもった。1846年にニューヨーク市の教育局長となり、授業料の無料化や貧困家庭の子供たちの向上に尽力した。現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせた星条旗や書簡が保存されている。幕府が夜伽女性として派遣した斎藤きち(1841-1890)はハリスはわずか3日で解雇しており、唐人お吉の物語は作り話である。
お吉はかつての恋人又五郎(鶴松)と同棲。冷たい世間の噂のため酒と博打におぼれ、それが原因で離婚し、又五郎は急死。お吉は1872年から下田で小料理屋を開いたが酒癖が昂じて失敗し破産する。1890年3月27日、稲生沢川(静岡県下田)に転落して水死した。(Townsend Harris )
「ワット・タイラー」イギリスの農民一揆の指導者。1381年、ロンドン市長の謀略によって斬殺される。▽「ワイアット・アープ」OK牧場の決闘で知られる保安官。▽「ワイナ・カパック」インカ帝国11代皇帝。▽「ワシーリー・ドクチャ―エフ」気候や生物の影響を受けて土壌が生成されるという近代土壌学を最初に提唱したロシアの地質学者。▽「ワヒディン・スディロフソド」インドネシアの医師、民族主義運動の先覚者。▽「ワルデマル・ボンゼルス」ドイツの児童文学作家。代表作「蜜蜂マーヤとその冒険」「インド紀行」。▽「ワレリー・ポリャコフ」ロシアの宇宙飛行士。▽「ワン・ワイタヤコーン」タイ国の外相。1891-1976。Wan Waithayakon
ワイアット・アープ
ワイナ・カパック
ワイルド・ビル・ヒコック
ワシリー・バーヴロヴィチ・アクショーノフ
ワシリー・カンディンスキー
ワシリー・ドクチャーエフ
ワシントン・アーヴィング
ワチラロンコン
ワット・タイラー
ワーナー・バクスター
ワヒディン・スディロフソド
ワールター・グロピウス
ワルガシュ
ワルデック・ルソー
ワルデマル・ボンゼルス
ワレリー・ポリャコフ
ワレンチナ・テレシコワ
ワン・ビンナ
ワンガリ・マータイ
ワンへレーラ
ワン・ワイタ・ヤーコーン
庭で行水する女性や女湯の板塀の節穴から覗いたりする変態男を「出歯亀」という。近年はあまり耳にしない言葉だが、携帯などでスカートの中を盗撮することも「出歯る」行為だろう。「明治の末の変態性欲者、植木職の池田亀太郎(当時35歳)に由来。出歯の亀太郎の意。女湯をのぞくなど、変態的なことをする男の蔑称」と広辞苑にある。 出歯るという動詞が出来た。出歯亀事件は当時の新聞に大々的に報道され、「出歯亀」は流行語となった。
明治41年3月22日、植木職兼鳶職の池田亀太郎は、近所の大久保村(東京都新宿区)にある藤の湯の女湯をのぞているうちにムラムラとなり、官吏の妻・幸田ゑん子(28歳)のあとをつけ、空き地に引きずり込んで強姦し、殺害した。彼はすぐに獄舎につながれたが、特赦で5年後には釈放された。だが悪い癖というものはそう簡単には治らない。その後ものぞきを重ね、15年後にふたたび逮捕された。そのとき彼は55歳。雀は百まで踊りを忘れないそうだが、亀太郎は55歳までのぞきを忘れずというわけか。池田が出っ歯であったところから、出歯亀ということばが生まれた。しかし亀太郎の犯罪はのぞきや痴漢、ストーカーというよりも暴行殺害という凶悪犯人である。出歯がユーモアをさそうのかもしれないが、日本語にその名の一文字を残し、権威ある辞書「広辞苑」にその名前を連ねるとは、なんとも幸運な奴であろうか。(参考:小林祥次郎「人名ではない人名録」)
710年のこの日、元明天皇が藤原京から平城京に都を移す。仏教によって国家の安定をはかる鎮護国家思想は奈良時代の特徴である。
仏教の広がり
聖武天皇(701-756)は天平13年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けることにした。大仏造立などの大事業も、その仏教信仰に基づいたものである。造立時の大仏は表面が黄金で覆われていた。昭和48年から50年にかけて兵庫県小野市で記録にない古い廃寺跡が発見された。7世紀後半頃に建立された古代寺院跡で現在の地名から広渡廃寺跡」(こうどはいじあと)と呼ばれている。(小野市広渡町304-1)東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっている。
平城京と貴族の生活
平城京が唐の長安や北魏洛陽城を模倣したものであることは、むかしから言われてきたが、近年の研究によれば、藤原京の発展したもので、直接長安を模したものではないとする考えもある。しかし続日本紀に、「帝王が都を作って壮麗でなければ万国の使者をいかんせん」とあることから、中国を意識していたことは明らかである。ただし、異民族の侵入を防ぐのが第1の目的であった中国の都城に対して、日本の都は軍事的色彩の濃いものではなく、きわめて政治的な都市であった。
地方と人々の生活
全国の国々は畿内(大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分けられた。諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成されていた。中央と地方を結ぶ交通制度としては、都を中心に畿内から七道の諸国に向かう官道が整備され、約16㎞ごとに駅家を設ける駅制度がしかれ、役人が公用に利用した。各地で一定の規格の道幅(6-12m)をもって直線的に伸びる古代の官道遺跡が発掘調査により発見されている。(3月10日)
一寸の光陰軽んずべからず
未だ醒めず池塘春草の夢
階前の梧葉巳に秋声
古来、日本人にはお馴染みの漢詩である。人間、すぐ老齢にいたるが、学問はなかなか成就しがたい。だから、ほんの少しの時間も無駄にせずに勉強せよ、という教育的な名詩。南宋の儒学者、朱熹(1130-1200)の「偶成」という。ところが最近の研究で朱熹の作ではない可能性が高いことがわかった。中国の朱熹全集をいくらさがしても見当たらない。柳瀬喜代志によって「滑稽詩文」に「寄小人」という題で似た詩があることがわかった。この詩が朱熹の作として登場したのは明治の漢文教科書によってである。本来の作者は観中中諦(1342-1406)という五山の僧侶らしい。それにしても、「偶成」が朱熹でなかったというのは、日本人のユーモアを感じる話である。
ところで「池塘春草の夢」とはなにか。これは謝霊運が、ある時「池塘生春草」という句を得て大層得意であった。今この詩にこの句を取ったのは「若いときに自分の才能に得意がっていると、悲しい老いが直ぐに来るぞ」と暗に知らしているのである。(謝霊運「登池上楼」)
参考:「いわゆる朱子の「少年老易く学成り難し」 「偶成」詩考 柳瀬喜代志 岩波「文学1989年2月号
岩山泰三「少年老い易く学成り難し、とその作者について」 月刊しにか8-5、1997.5
1946年、チャーチル英首相が米ミズーリ州でソ連を非難する「鉄のカーテン」の演説から「冷戦」と呼ばれる1つの時代が始まった。そして東西冷戦時代といえば資本主義国と共産圏との戦い、つまりアメリカ対ソビエト連邦の構図がイメージされやすい。東側のソ連・中国といえば同じマルクス・レーニン主義を標榜し、結束が固いと思われがちだが、実際はそう単純ではなかった。ひとつの要因は偉大なる中国毛沢東の存在であった。毛沢東は中国革命を指導して中国の民族解放をなしとげ、社会主義化を推進した。1949年の中華人民共和国の成立から1954年の憲法実施にかけての時期は、毛沢東が劉少奇との協力のもとに最もソ連に接近しようとしていた時代で「向ソ一辺倒」時代と呼ばれている。1953年から1955年にかけてはソ連からの経済援助を前提とした第一次五ヵ年計画が開始された。しかし、このようなソ連モデル尊重の考え方は、徐々に変化していった。1959年以後毛沢東とフルシチョフとの対立は急激に深まっていった。1958年、毛沢東は「社会主義建設の総路線」「人民公社」「大躍進」のいわゆる「三面紅旗」の急伸路線を指導した。この時期、日本の高名な古代中国史家である貝塚茂樹(1904-1987)が「毛沢東伝」(1959)を著したときはずいぶんと話題になった。存命中の政治家評伝を書くと単なる偉人伝になりがちだが、貝塚がどう評価したのか、再読してみたい。その後、1967年中国はプロレタリア文化大革命期に入る。1969年3月、中ソ国境ウスリー川の中州、珍宝島において武力衝突が発生する。さらに新疆ウイグル自治区の流血事件は、中ソ関係を一挙に悪化させた。1971年10月、中国は国際連盟に加盟し、1972年2月にはニクソン米大統領が訪中し、中ソ対立の深刻さは現状を反映したものとなった。
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