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2020年2月18日 (火)

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とシチリア

200pxfrederick_ii_and_eagle   世界史上において二人の有名なフリードリヒ2世がいる。ひとりは18世紀プロシアの:「啓蒙専制君主」フリードリヒ大王(1712-86)である。そしてもうひとりは13世紀神聖ローマ皇帝の「最初の近代君主」フリードリヒ2世(1197-1250)である。ここでは後者の13世紀のフリードリヒのイタリア政策について論ずる。

   地中海の中央に位置するシチリアは、当時ノルマン人が支配しており、ヨーロッパ最高の文化を誇っていたが、ノルマン朝はドイツの神聖ローマ帝国に征服された。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシチリア王となったが、1197年ギリシア外征中に死んだ。やがてハインリヒに嫁いだ王女との間に生まれたフリードリヒ2世が戴冠した。幼くして孤児となり、ローマ法王に養われて成人した身でありながら、フリードリヒの一生は法王との対立に終始した。「最初の近代君主」あるいは「13世紀を通じて最大の変わり者」とまでいわれるフリードリヒは、ノルマン文化を血と肉とした当時最高の教養人だった。ナポリに世界最初の大学を開き、アラビア語に訳されていたギリシア哲学やアラブの学者たちの著作をラテン語に翻訳させたのは彼である。彼はまた、キリスト教の道徳律には完全な嫌悪を示し、科学的精神を重んじた。そして、教会組織を難ずる点ではルターよりも300年先んじた男といわれるほどで、教皇庁と対立するのは当然のことだった。法王は彼を破門したが、第6回十字軍として出征した彼は、1229年2月18日、アイユーブ朝アル・カーミルと10年間の休戦協定を結び、話し合いにより一兵も失わずに聖地エルサレム返還を合意する。現代の国際政治学の見地から見れば最良の解決策であり、ノーベル平和賞ものの業績だが、このようなやりかたは十字軍の精神にもとるものとして法王の怒りを増すばかりだった。かくしてヨーロッパは皇帝派と法王派に分かれて争うことになり、フリードリヒは1250年シチリアの富を軍備に変えて、アラブ騎兵を先頭に全軍をあげてローマへ進撃したが、その城門を目前にしたところで急死した。ローマは救われ、フリードリヒの子孫はその後20年足らずのうちに根絶やしにされた。1273年、ハプスブルグ家が皇帝位に就くまで続いた大空位時代とは、この間の皇帝派対法王派の紛争を指す。こうしてシチリアは、法王の息のかかったフランスのブルボン家の「シチリアの晩祷事件」(1282年)の後はスペインのアラゴン家のものとなって、急速にヨーロッパの辺境と化していく。(参考:牟田口義郎「世界歴史の基礎知識1」有斐閣)

 

 

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