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中国で発生した新型肺炎は、韓国、日本、イタリアなどに急速に拡大。北米・中東にも飛び火し、死者、感染者が確認された。WHOは24日、世界的な大流行を意味する「パンデミック」に備えるよう各国に呼び掛けた。人類の歴史の中で、なんどとなく疫病・感染症の大流行が記録されているが、およそ100年に1回の周期で起こる伝染病の危機ではないか。1918~19年のスペイン風邪、そして17世紀、19世紀のペストの大流行。とくに 中世ヨーロッパのキリスト教社会ではネコは魔女の手先とされたため、大量のネコが殺された。そのためにネズミが増えて、ペストが大流行。「死の舞踏」とは14世紀に黒死病によって大量の死亡者が出た頃にはじまった教訓劇で、上は法王から下は農民にいたるまで、人間はすべて死んで、審判をうけなければならないという覚悟をうながしたものである。また舞踏をすれば死神にとりつかれないという、迷信によっているのが多い。絵画、文学など主要テーマとなる。ホルバインの版画集(1538年)は特に有名。文学ではストリンドベルイの戯曲「死の舞踏」(1901年)やクローデルの詩などがある。17世紀フランスの劇作家ピエール・コルネイユの言葉「人生は一歩一歩、死に向っている」もそのような西洋の思想が背景にあるのかもしれない。日本人の2018年の平均寿命は女性が87.32歳、男性が81.25歳。しかし驚くことに世界では平均寿命が40歳以下の国もある。原因は主に貧困、医療水準の低さ、政治による紛争の影響、生活環境など様々な要因があげられる。(La Danse Macabre,Pierre Corneille)
羽黒山北麓と、蛇行して南流する北上川とに囲まれた平野に立地する石巻村住吉町(現・石巻市)で、明治16年2月20日、志賀直哉(1883-1971)は生まれた。兄の直行は、前年、満2年8ヶ月で早世。父直温は第一銀行石巻支店員としてこの地に在勤中で31歳、母銀は元勢州亀山藩の家臣佐本源吾の4女で21歳であった。2年後には一家は東京麹町内幸町へ移転しているので、幼い志賀直哉には石巻の記憶はないが、志賀は生涯に3度も石巻を訪れている。
明治政府は石巻と小倉を日本の2大要衝視し、明治4年4月に東山道鎮台本営を設置したが、同年11月仙台に移された。昭和10年代には鰹の水揚げ全国一になっている。平成23年、東日本大震災での石巻の被害は甚大で、死亡者数3014人、行方不明者2770人、避難者数7632人。(平成23年5月20日)。
フランス中東部、ライン川西岸地域。ドイツに近い地域がアルザスである。呼称は2016年、グラン・テスト地域国となる。アルザス・ロレーヌは鉄鉱石・石炭を産出するため、しばしば仏独間で係争地となったことで知られている。1648年のウェストファリア条約によりアルザスはフランス領となるが、1871年のフランクフルト条約によってドイツ領となる。1918年までドイツ領でドイツ化された。第一次大戦では激戦地になり、ドイツの支配下におかれたが、第二次大戦は仏米連合軍により奪還され、戦後はフランス国土となる。
世界史上において二人の有名なフリードリヒ2世がいる。ひとりは18世紀プロシアの:「啓蒙専制君主」フリードリヒ大王(1712-86)である。そしてもうひとりは13世紀神聖ローマ皇帝の「最初の近代君主」フリードリヒ2世(1197-1250)である。ここでは後者の13世紀のフリードリヒのイタリア政策について論ずる。
地中海の中央に位置するシチリアは、当時ノルマン人が支配しており、ヨーロッパ最高の文化を誇っていたが、ノルマン朝はドイツの神聖ローマ帝国に征服された。神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシチリア王となったが、1197年ギリシア外征中に死んだ。やがてハインリヒに嫁いだ王女との間に生まれたフリードリヒ2世が戴冠した。幼くして孤児となり、ローマ法王に養われて成人した身でありながら、フリードリヒの一生は法王との対立に終始した。「最初の近代君主」あるいは「13世紀を通じて最大の変わり者」とまでいわれるフリードリヒは、ノルマン文化を血と肉とした当時最高の教養人だった。ナポリに世界最初の大学を開き、アラビア語に訳されていたギリシア哲学やアラブの学者たちの著作をラテン語に翻訳させたのは彼である。彼はまた、キリスト教の道徳律には完全な嫌悪を示し、科学的精神を重んじた。そして、教会組織を難ずる点ではルターよりも300年先んじた男といわれるほどで、教皇庁と対立するのは当然のことだった。法王は彼を破門したが、第6回十字軍として出征した彼は、1229年2月18日、アイユーブ朝アル・カーミルと10年間の休戦協定を結び、話し合いにより一兵も失わずに聖地エルサレム返還を合意する。現代の国際政治学の見地から見れば最良の解決策であり、ノーベル平和賞ものの業績だが、このようなやりかたは十字軍の精神にもとるものとして法王の怒りを増すばかりだった。かくしてヨーロッパは皇帝派と法王派に分かれて争うことになり、フリードリヒは1250年シチリアの富を軍備に変えて、アラブ騎兵を先頭に全軍をあげてローマへ進撃したが、その城門を目前にしたところで急死した。ローマは救われ、フリードリヒの子孫はその後20年足らずのうちに根絶やしにされた。1273年、ハプスブルグ家が皇帝位に就くまで続いた大空位時代とは、この間の皇帝派対法王派の紛争を指す。こうしてシチリアは、法王の息のかかったフランスのブルボン家の「シチリアの晩祷事件」(1282年)の後はスペインのアラゴン家のものとなって、急速にヨーロッパの辺境と化していく。(参考:牟田口義郎「世界歴史の基礎知識1」有斐閣)
バルト海南岸地帯でポーランド、一部ドイツにかけての歴史的地名ポメラニア。ポメラニアはラテン語・英語で、ドイツ語ではポンメルン、ポーランド語ではポモージェという。スビッツ系に属する小犬ポメラニアンはこの地名にちなんでいる。ポモージェ地方は、ポモージェ・グダニスキェとポモージェ・サホドニュの東西二地域に分けられる。ウィスラ川に沿う東部のグダニスキュは、現在のグダニスキュ県の大部分とビドゴシュチ、コシャリン両県の一部、またオドラ(オーデル)川沿いの西部はシチュチン、コシャリン両県および東ドイツ領のロストック地方とノイブランデンブルク地方の東部を含む。大部分が湖沼の多い平野部で、この両地方は5世紀からスラブ人の一種族ポモジェ人(Pomorze)が住む。この地方は合併と分裂の歴史を繰り返し、10世紀には、神聖ローマ帝国、デンマーク、ドイツ騎士団、ポーランド王国、スウェーデンなど周辺諸国との間で争奪されてきた。14世紀初めにドイツ十字軍団の支配を受けてゲルマン化した。18世紀まではいくつかの侯国に分かれたが、1871年のドイツ統一により、ポメラニアはドイツ領となる。19世紀にはゲルマン化がいっそう強まった。第二次大戦のドイツ敗戦により、全域はソ連軍の占領下となる。冷戦時代、東部はポーランド、西部以西は東ドイツに統合されたが、大規模なソ連軍が駐屯していた。1990年代になるとソ連軍はこの地から引き上げた。
前7~前6世紀の頃に生じた中国社会の激動と変化は、文化・思想の上にも及んできた。この時期には後代の東洋文化の基底となる多くの思想・学問・技術が起こっている。周代の宗法がくずれ、封建制度がすたれ、氏族的秩序に代わって個人の実力主義の世となり、各国の君主は才能ある者を求め、能力によって人材を登用し、自国の富国強兵をめざしたため、諸種の思想が活発に展開した。一般にこの時期の多彩な思想家を総称して諸子百家あるいは九流百家と呼び、儒家、道家、墨家、名家、法家、陰陽家、縦横家、兵家、農家などがそれである。
儒家は春秋時代の末に孔子が現れ、古典の教養を重視し、その弟子たちに「周易」「書経」「詩経」「春秋」などの経書を通じて夏・殷・周のいわゆる先王の道を学ぶことを奨励した。孔子の思想は、仁を説き、仁の根本は孝悌なりとし、この孝悌に忠という公平の心と、恕という同情とを加えて、隣人郷人を愛し、次第に範囲をひろめて遂に人類全体に仁すなわち博愛を実行することを説く。孝悌は宗法社会の秩序を維持する根本道徳であり、この孝悌を中心とする道徳を以て政治を行うべきことを彼は主張する。孔子の死後、七十子の徒といわれる多くの弟子たちは、孔子の提唱した仁愛と礼楽の理想を受け継ぎ、儒家という思想的集団を形成し、次の戦国時代にかけて曾参の「孝経」、子思の「中庸」、孟軻の「孟子」などが著わされた。また孔子一問の問答が「論語」にまとめられた。
孔子より少し遅れて現れたのが墨子で、儒家の仁を別愛として排斥し、兼愛交利を説き、またその礼教を煩雑とみて素朴主義を採り、勤労と倹約を尊んで、戦争を憎んだ。墨子の集団は宗教結社に似た同志的感情で結ばれ、戦国時代を通して大きな勢力を持っていた。
楊朱は前4世紀前半ごろに出て快楽説をとり、墨家の兼愛に対して為我(自愛)説を立てた。彼は道家の系統を引いている。道家は老子および荘子によって代表される。老子は何時ごろの人であるかよく分からないが、荘子は前4世紀、孟子とほぼ同時代の人である。道家思想の出発点は、世の中の混乱は人々が知識と欲望を求め過ぎるところにあるとみて、無為にして自然の道に従えばよいと主張する所にある。そして宇宙の最高原理である道は無であり、人の感覚を越えた存在であるとし、道の体現者である王への服従を説いた。
名家は独特の論理学が発達し、既成の概念にとらわれずに対象を認識することを主張した恵施や、ものの名と実とは一致すべきだと説いた公孫龍などが現れた。しかし名家は概念そのものを体系化することができず、ついに詭弁論理学に陥ってしまった。白馬非馬論・堅白異同論などが有名である。
法家は春秋末期より各国で成文法が作られ、また商鞅のように新法の制定によって秦に重く用いられたものもあるが、法治こそ国家支配の根本原理であるとして、法家思想の体系化を行ったのは、前3世紀末に出た韓非である。彼は初め李斯とともに荀子に学び、荀子の礼を尊ぶ思想から出て、法家思想へと進んだ。「韓非子」は彼の著作である。なお李斯は秦の始皇帝の宰相として法家思想を実行した。
陰陽家は万物の生成と変化や宇宙間の現象をすべて陰陽二気の働きによってを説明しようとした。陰陽説は、後には五行説と結びついて陰陽五行説とも言われ、しだいに迷信化していった。五行説は木火土金水の5要素の循環あるいは相克から宇宙間の現象を説こうとするものである。
兵家は諸侯の国々において対外関係の解決を軍事に求める以上は、兵法によらなければならないと説くものである。孫武、呉起賀活躍し、「孫子」「呉子」などが著わされた。
縦横家は軍事によるよりも弁論によって対外関係を有利に展開させようと説くもので蘇秦、張儀のような外交戦略家が現れ、その活躍のさまは「戦国策」に描かれている。このような外交戦略家を諸侯は争って迎えたが、なかでも斉の王族孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君などは有名である。
農家は農業改革を推し進める者たちで、その農家の中でも重税を否定し、逆に素朴な農耕社会を理想とする神農家などがあげられる。君主も民も平等に農耕すべきとする平等説を主張した。
戦国時代の初め、儒家の思想は魯・衛を中心として黄河以北に、墨家は比較的広く、道家は黄河以南に伝わったが、これら学派の集まったのは斉の都臨淄であった。斉の威王・宣王の学術奨励によって稷門の下に集まる諸派の学士70余人によって「稷下の学」と呼ばれる学問が発達した。しかし、斉は諸国の討伐にあい、学士も分散した。やがて秦が統一をすると、各地に分散した各派の学者たちは、宰相呂不韋のもとに集まり、儒家の思想を中心とした各学派の説を折衷した「呂氏春秋」を編纂することになったのである。(参考:大澤陽典「アジアの歴史」法律文化社)
日本は過去、歴代126人天皇の中で、8人10代の女性天皇が在位した。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町天皇である。ただし斉明天皇は皇極天皇の、称徳天皇は孝謙天皇の重祚。つまり同一人物である。
2月14日放送の日本テレビのクイズ番組「頭脳王」でパーソン・ウィームズを問う設問があった。 ワシントンといえば桜の木の逸話で知られる。ジョージは、叔父さんから斧を借りると、ためし切lりがしたくなった。そして庭にある一本の桜の木が目についた。「よし、あれを切ってみよう」と思いたった。父のオーガスチンが帰ってきて驚いた。「だれだ、あの桜の枝を切ったのは」そしてジョージに訊ねた。「お前だね。桜の枝を切ったのは」「はい、ぼくが切りました」とジョージは正直にいいました。「ジョージ、お前のしたことはたしかに悪い。切った木はもとにもどらないからね。でもねぇ、わたしはお前が正直にわびてくれたので、とてもうれしいよ。よし、許してあげよう」ジョージは「ほんとうに、ぼくが悪かったと思います。これからは気をつけます」と心から反省した。あまりにも有名なこの逸話は、後世の伝記作家パーソン・ウィームズ(メーソン・ロック・ウィームズ)が子ども向けの本「The Life of Washington」(1800年)で書いた創作といわれている。
本日は菜の花忌。小説家・司馬遼太郎の1996年の忌日。筆名の由来は、「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)から来ている」とある。この説明は事実であるものの、寺内大吉の証言(上田正昭との対談)によれば、司馬(当時は福田定一)は深い意味で考えてつけたのではなく、「ペンネームはとっさにつけたらしいです」と語っている。「講談倶楽部」という雑誌の懸賞応募作品「ペルシャの幻術師」で初めて、司馬遼太郎のペンネームを使ったが、寺内の記憶によれば、司馬は自分がどんなペンネームを使ったかまるっきり覚えていなかったという。懸賞に応募する時にたまたまつけたので、「さあ、なんて名前だったかな」と言っていた。それを聞いた上田は「いや~僕はもっと深い意味があるのかなと思っていましたが」と答えた。寺内は「深い意味でつけたやつはダメなんですよ。気軽につけたやつが案外良いのです。変に姓名学みたいに凝った奴がダメなんでね」と語った。出典は、「姫路文学館紀要9」2003年3月所収の「青春の司馬遼太郎」より。
催眠術ブームに便乗、「異常性格や神経症的体質、苦悩を解消」とビラで宣伝し、若い女性などの患者を集めて3年間に1400人から1億円近くの治療費を騙しとった催眠カウンセラー北野正治が1975年のこの日、逮捕された。北野はインチキ療法を行い、性交、わいせつ行為を繰り返していた。さらに驚くべきことに40年後も北野は2015年スーパーテクニック催眠と称してウェブサイト上で何でも治せると誇大広告していた。特定商取引法違反で逮捕されている。(2月12日)
ブラジャーは1889年にフランスのエルミニー・カドルが発明し、1913年2月12日、アメリカのメアリー・フェルプス・ジェイコブ(1891-1970)によって発明、特許をとったとされる。これを記念して「ブラジャーの日」が制定されている。
日本には大正末期に登場し、大正15年に「乳房バンド」の広告が掲載された。昭和4年には「乳房バンド」のほかに「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名で広告や通信販売欄に掲載されているから、日本でも製造が始まったと見られる。このほか、松岡錠一もこのころブラジャーを生産した(「日本洋装下着の歴史」)。これらは薬局、小間物店、デパートで売られていた。日本でブラジャーという用語が登場するのは1930年代である。しかし一般に普及するには至らず、広く使用されるのは1950年代以降である。日活映画「憎いあンちくしょう」(1962)で浅丘ルリ子の下着姿が話題となった。
(横田尚美「1920年代の日本女性洋装下着」『ドレスタディ』vol33)Mary Phelps Jacobs,Hermine Cadille,brassiere
(左上)1920年代のスリップ(右上)1920年代のブラジャー(右中)1920年代のパンティ、下の2点は1920年代のコルセット
人気アイドル、ポップス、洋楽、クラシックから懐かしい歌謡曲まで多彩なジャンルの曲をなんでも聴く。家入レオの新曲「ずっとふたりで」。福士蒼汰主演のドラマ「愛したって、秘密はある」の主題歌。家入&福士のコンビは多いように感じたら今回で四度目。「太陽の女神」(海の上の診療所)、君がくれた夏、僕たちの未来(お迎えデス)
Family Song 星野源 過保護のカホコ
forevermore 宇多田ヒカル ごめん、愛してる
大丈夫です ソリョン(オレンジ・マーマレード)
しるし Mr.Children(14才の母)
My Buddy 超特急(警視庁いきもの係)
TT TWICE
明日晴れるかな 桑田圭祐(プロポーズ大作戦)
もう一度 竹内まりあ(定年女子)
あすの花嫁 吉永小百合
枯葉(日本語) ナット・キング・コール 1965年
煙が目にしみる エンディー堀 1962年
カフを組み合わせた水銀血圧計はイタリアの医師シピオーネ・リヴァロッチ(1863-1937)によって1896年に発明された。Scipione Riva- Rocci
シベリア、極東ロシアの東南端に位置する日本海沿岸にある地方。面積165,900㎢でおよそ北海道の2倍の広さがある。主都はウラジオストック。日本では慣用的にこの地域を「沿海州」と呼んでいるが、ロシア語では「プリモーリエ地方」Primorskii kralと呼ばれる。
森下典子のエッセイ「日々是好日 お茶が教えてくれた15のしあわせ」の映画化。典子はお茶を習い始めて二十五年。就職につまづき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々、失恋、父の死という悲しみのんなで、気づけば、そばに「お茶」があった。題名となった禅語の「日日是好日」にちにちこれこうじつの意味は、毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではない。日日是好日とは、日々の苦しみ、喜び、楽しみなどというこだわり、とらわれをきっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地のことである。
昨夜のドラマ「最高の離婚SP 2014」は面白かった。名言集「結婚とは長い拷問です」「男はプラモデルが好きで女はお人形が好きなんだよね。女は完成品を求めて男は未完成を求める」「離婚の原因が何かわかりますか?結婚です。結婚するから離婚するんです。朝目が覚めるとつらいなあと思って、夜寝るときつらいなぁって思います」
だが健康で長生きできるかどうかは血圧、血糖値、筋力、喫煙などの要因のほか、学歴や伴侶の有無が関係しているというアメリカの調査結果がある。つまり「伴侶なし」は長寿をのぞむなら危険要因の一つと考えられる。老後、家庭内での不慮の事故の際、緊急対応も伴侶がいるかいないかで生死がわかれる。いくら資産家であっても孤独死より、家族に看取られて最期を終えたいものである。
多くの人が憧れるスターも最期はかならず来る。マリリン・モンローはジム・ドハティ、ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーと再々婚するがいずれも離婚。ケネディ大統領との交際も噂される中、謎の自殺を遂げている。オードリー・ヘプバーンはメル・ファーラー、アンドレア・ドッティと再婚するも上手くいかず、ロバート・ウォルターズと事実婚で、幸福な最期を送ることができた。日本を代表する歌手、美空ひばりも離婚後、不遇が続いた。ながい老後をひとりで生きるかどうか、人生50歳台は決断の時機だろう。
細長く焼いたシュークリームの上にチョコレートをかけたエクレア。正式名称は、フランス語でエクレール・オ・ショコラ。「エクレール」とは「稲妻・雷」のこと。中からシュークリームが飛び出すので、電光石火のごとく一瞬にして食べてしまうようにという意味で、こう名づけられたといわれる。
エクレアはいつ頃から作られたのだろうか。19世紀初頭、フランスの菓子職人アントナン・カレームが外相タレーラン邸に出入りし、パーティの引き菓子として、エクレアを初めて作ったと言われている。日本には明治維新前後に、横浜の外国人居留地にあるフランス人の経営する洋菓子店で作られた。(eclair au chocolat)参考:「雑学全書」知恵の森文庫
現代の日本家屋は様式のフローリング床が多いので、室内履きのスリッパを使用する家庭が一般的なスタイルである。日本でスリッパという呼び名があるのは、江戸末期にオランダ医シーボルトが伝えた「上沓(スリップルス)」から来ているという説がある。明治初頭、室内で靴を脱ぐ習慣の無い西洋人が土足で屋内へ入り込む問題が生じたため、それを解決するために徳野利三郎が1907年(1876年という説もある)に発案した上履きが、現在のスリッパの原型であると言われる。当時は、靴の上から履くためのものだった。
アジアや西洋の中世に起源をもつスリッパであるが、実際の形状にはさまざまで例外も多い。概して、かかと部分の高さがまったくないか、あってもくるぶしより低い、ヒールはないか、あっても低い、という特徴がある。典型はイスラム、インドのバブーシュカ(16世紀)と呼ばれるはきものや、朝鮮の婦人用のはきものなどに見られる。また西欧ルネサンス期の婦人用の室内ばき、タントゥフルと呼ばれたオーバーシューズの一種、さらに16世紀以降婦人用として流用したミュールなどもこの種に属する。のち、外出用のはきものが一般に閉鎖的で足にぴったりした形に変化すると、slipperの形状は欧米では室内ばきとして発達し、今では自室や風呂場など限られて使用されている。
2019年の大ヒットコメディ映画「翔んで埼玉」。原作は魔夜峰央が37年も前に描いた作品。主題歌はなわが歌う「埼玉県のうた」の原曲も2003年のもの。埼玉県を揶揄した「ださいたま」というタモリの造語も1981年の流行語である。自虐ユーモアの風潮はなぜか広く定着して現在も続いている。埼玉は東京都に隣接する東京のベッドタウンだが、東京都に虐げられ、差別されてきた自虐ネタをユーモアに昇華している。もはや「ダさいたま」とは言わせないと県民も熱く支持する。こまつな、ブロッコリー、ねぎ、ほれんそうの収穫量は全国有数で近郊農業がさかんである。そして、埼玉県には鳥取県の10倍の市がある。埼玉県の市の数は40市である。上尾(あげお) 朝霞(あさか) 入間(いるま) 桶川(おけがわ) 春日部(かすかべ) 加須(かぞ) 川口(かわぐち) 川越(かわごえ) 北本(きたもと) 行田(ぎょうだ) 久喜(くき)熊谷(くまがや) 鴻巣(こうのす) 越谷(こしがや) さいたま 、坂戸(さかと) 幸手(さって) 狭山(さやま) 志木(しき) 白岡(しらおか) 草加(そうか) 秩父(ちちぶ) 鶴ヶ島(つるがしま) 所沢(ところざわ) 戸田(とだ) 新座(にいざ) 蓮田(はすだ) 羽生(はにゅう) 飯能(はんのう) 東松山(ひがしまつやま) 日高(ひだか) 深谷(ふかや) 富士見(ふじみ) ふじみ野(ふじみの) 本庄(ほんじょう) 三郷(みさと) 八潮(やしお) 吉川(よしかわ) 和光(わこう) 蕨(わらび)
市の数がいちばん少ない県は鳥取で、鳥取・倉吉・米子・境港の4市である。
豪栄道や貴景勝を生んだ埼玉栄高校相撲部が有名。ところで只今、流行りの「埼玉ポーズ」って知ってる?手をオッケーサインの形にして胸の前でクロスさせ、左足を少し前に出す。広告クリエーターの鷺谷政明さんが考案したもので、ちょっとDAIGOの「ウッシュ」のポーズに似ているけど、埼玉県の県鳥「シラコバト」を表現しているという。
バレーボールはいつごろから始まったのか。1895年2月9日、アメリカでウィリアム・G・モーガン(1870-1942)が考案した。最初はミントネットと呼んでいた。1908年、アメリカに留学していた大森兵蔵(1876-1913)が日本に最初にバスケット・ボールとともに紹介した。1913年F・Hブラウンが東京・神田のYMCAで公開したのをきっかけに広まったといわれている。バレーボールが考案された当初、集まった選手たちが2チームに分かれてボールを打ち合い、落としたほうの失点という単純なルールだった。日本へ伝わったときもルールは明確に決まっていたわけではなく、1チーム12人であったり9人であったり規定はなかった。(Volleybaii,Mintonette,William Morgan)
祈願や報謝のために、社寺に絵馬を奉納する習俗の起源はいつからかはっきりとわからない。絵馬といっても画家の手になる大絵馬から、庶民の切ない個人祈願の小絵馬までさまざまである。最古の絵馬は、古代における神への生馬献上の習俗に発する。1999年に難波宮跡から出土した飛鳥時代のものが7世中頃とみられる。平安時代の今昔物語に「板に書きたる絵馬有り」と見え、その起源は平安時代(12世紀前半)に認められる。だが民間祈願の絵馬奉納が江戸期にどの程度普及していたかは分からない。子供誕生に際し絵馬を奉納する習俗が昭和期戦前に各地に見える。子供の氏子入りの行事と、子供の成長の無事を祈願する目的である。絵柄は武者絵であるが、戦時中は肉弾三勇士のような戦時色の濃いものとなった。戦後は干支が一般的である。近年は、安産祈願した神社に無事に生まれたお礼と挨拶をし、安産祈願のときの絵馬にお礼を書いて、3人の名前を記入して奉納するらしい。参考:奈良県立橿原考古研究所「飛鳥宮と難波宮・大津宮」2014年
野球という球技はアメリカが発祥と言われていますが、実は原型となったスポーツは、イギリスの国民的球戯クリケットにその起源をみることができる。クリケットがラウンダーズ(バットとボールを用いる一種の遊び)となり、1830年にアメリカでラウンダーズを模倣したダウンボールが始まった。イギリスで1774年に刊行された「小さなかわいいポケットブック」に野球に関する記述が見つかる。これがアメリカに広まってベースボールとなっていった。だがクリケットは11人制。(ちなみにサッカー、ホッケーも11人) 実はアメリカのダウンボール(野球)も11人だった。なぜ1846年の野球規則で9人になったのだろうか?
そもそも野球は3及び3の倍数が重んじられている。9回交互に攻守を行う。打者はストライク3つでアウトになり、3アウトで攻守を交替する。このようにすべて3×3が基本である。
球戯で歴史あるスポーツといえばボウリング。メソポタミアや古代エジプト時代にすでにあったといわれる。3世紀頃にはドイツの宗教儀式に取り入れられる。中世にはボウリングは神意をはかるものとして行われ、ピンが倒れれば罪が赦された。ただしピンの数は国や時代によって異なっていた。16世紀の宗教改革の時代、ドイツのマルティン・ルターは「ピンの数は9本でなければならない」と主張した。ルターはボウリングの愛好家であり、アウグスティヌスの考えに沿った、神・キリスト・聖霊の三幅対(trias)によるものである。つまりキリスト教理によって、ボウリングのピンの数は9と定められた。
その後、ボウリングはスポーツとして1840年代のアメリカで大流行したが、ピンが9個あるので、ナインピース(ninepins)、日本では明治に「九柱戯」と訳された。新教の国アメリカでは、ボウリングも野球もキリスト教理の3×3=9の影響の下に普及していったのである。
大相撲初場所は幕尻の徳勝龍が初優勝した。もうすぐ福祉大相撲。第1回慈善大相撲(1967年)に出演した解説者・北の富士さんは東京ぼん太「マアいろいろあらァな」を歌ったらしい。本人は全然記憶にないと否定。「俺には持ち歌、ネオン無情があるよ」真相は不明だが、選曲はナイスだ。「夢のチボーもないね」と栃木訛りのコメディアン、「東京ぼん太」のように地名と同じ名前をもつ有名人を調べる。東京ぼん太、横浜流星、横須賀昌美(女優)、千葉雄大、千住真理子(バイオリニスト)、赤坂晃(光GENJI)、渋谷哲平、大久保加代子、綾瀬はるか、町田啓太、日野啓三(作家)、野田佳彦、川口春奈、島田紳助、大島優子、伊豆肇、名古屋章、大坂志郎、神戸一郎、大津びわ子(ラジオパーサナリテイ)、金沢碧(女優)、堺正章、茨城のり子(詩人)、池田大作(大阪府池田市)、布施明(大阪府布施市)、芦屋雁之助、福山雅治、広島日出国(マラソン)、土佐礼子(マラソン)、讃岐裕子(歌手)、仙台太郎、羽生結弦、伊達公子(テニス)、天童よしみ、久慈あさみ、秋田雨雀、佐渡豊、輪島大士(相撲)、加賀まりこ、山口百恵、長門勇、小野田寛郎、福岡翼(芸能レポーター)、長崎慶一(大洋ホエールズ)、宮崎奕保(永平寺貫主)。最近では岡山天音が優れた演技力により映画ドラマに活躍している。この他にもきっといろいろあるよね。ウィキペディアでも人の名字に使われる地名は「キリがないカテゴリ」とされている。
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