前九年の役
平安中期、陸奥の豪族安倍氏は俘囚の長として絶大な勢力をもち、頼時の時には、北上川流域の6郡を領有して、貢租・徭役を拒んで国司に従わなかった。永承年中、陸奥守藤原登任は頼時を攻めたが、かえって敗退した。そこで朝廷は1051年、前相模守源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任命し、安倍氏の制圧に当たらせた。頼時は頼義の在任5年間は帰順したが、1056年任期終了のときに至って反旗を翻したので、朝廷は頼義を重任して征伐させた。頼義はそこで俘囚の懐柔をはかり、頼時の一族安倍富忠を味方につけて1057年頼時を鳥海柵で敗死させた。しかし余党の反抗はやまず、同年11月河崎柵での戦いには、頼時の子貞任・宗任らに完敗し、頼義の子義家はかろうじて重囲を逃れた。しかも貞任らは諸郡に横行し官物を徴集したが、頼義はこれを制止できなかった。こうして1061年、頼義の再度の任期も終わったので、朝廷は高階経重を陸奥守に任じたが、在地民が頼義に従い経重の指揮を受けなかったため、経重はむなしく帰京し頼義が引き続き事に当たった。頼義は武力強化のため出羽の俘囚長清原光則および弟武則の援兵をこい、これに応じた武則とともに、翌年8月から9月にかけて貞任・宗任らを小松柵・衣川柵・鳥海柵に破り、9月中旬厨川でついに貞任およびその一族を殺した。その翌年2月には貞任らの首級を京都へ送った。朝廷は頼義の功を賞して伊予守に任命し、義家は出羽守に叙せられた。
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