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トーキー黎明期、フランスの新鋭監督ルネ・クレールがトーキーに取り組んだ第一作が「巴里の屋根の下」(1930年)である。クレールは、アメリカの初期のトーキーの通弊ともなっていた台詞と音楽の乱用の愚を見て取り、映画はたとえトーキー作品になっても映像が優先すべきだという主張のもとに情緒的なパリの下町を見事に描いた。3年後の「巴里祭」(1933年)では前作を遥かにに凌ぐ作品となっている。主題歌の「巴里恋しや」は、登場人物の誰にも歌われない歌であるが、タイトル・バックから全編にコーラスや演奏で繰り返しあらわれる。この歌を作曲したのはモーリス・ジョベール(1900-1040)という新鋭の作曲家で、「舞踏会の手帖」(1937年)などでも知られるが、第二次世界大戦に従軍し、40歳で戦死したことが惜しまれる。
「巴里恋しや」や「舞踏会の手帖」のエレガントなワルツは今聞いても華やかな夢のような若い頃を思い出させてくれる。
インド独立の父マハトマ・ガンジーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた。しかし受賞することなく、1948年1月30日、ヒンドゥー・nationalismの活動家ナートゥーラ―ム・ゴドセに射殺された。のちにノーベル財団は次のような理由をあげている。1937年は、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。1947年は、ガンジーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしていた。1948年は、故人に対してノーベル賞を与えるかで議論された。当時は規定で除外されていなかったが、最終的に、故人に賞を与えるのは不適切だという結論となり、以降、ノーベル平和賞は政治的に利用される権威付けの道具となってしまった。(Karamchand Gandhi)
「塩の行進」の銅像。1930年、イギリスによる塩の専売制に反対運動を行なった。先頭がガンジー。
チコちゃんに叱られる。鍾乳洞はどうしてできるの?海底で貝殻やサンゴ、海百合等のカルシウム分を多く含んだ海の生物の死骸が長い時間をかけて積み重なり、固い岩石に変化し石灰岩が形成される。それが地殻変動によって地上に隆起し、雨水や地下水によって浸食を受けて洞穴ができた。日本では秋芳洞(山口県)安家洞(岩手県)竜河洞(高知県)白雲洞(広島県帝釈台)星野洞(沖縄県)などが有名である。
ズーズー弁の分布 東篠操編「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)
むかし民俗学の柳田国男は「かたつむり」(蝸牛)の方言が東北地方の北部と九州でツブリであり、関東や中国でカタツムリ、中部や四国でマイマイ、そして京都を中心とする近畿地方で、デデムシのように分布することを発見し、これによって、かつて蝸牛の方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシのように変化し、それぞれが東西または南北へ放射されたと推定した。柳田の仮説を後の学者は方言周圏論と名づけたが、よくわからないところも多い。語彙には認められるものの、音、アクセントにはあてはまらないとする説もある。
東北地方の方言の特徴は、「し」と「ず」、「ち」と「つ」、及び「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別をつけないので、「ズーズー弁」と言われることが多い。歴史的経緯から近畿地方の古い語彙は地方に残っていることが多いといわれる。近畿地方から遠く離れているはずの東北地方で古語が残っていることは一般的に知られているが、出雲弁、安来弁、米子弁といわれる雲伯方言にも東方地方の方言との類似性が高いことが国立国語研究所などの調査で明らかになった。これを推理小説の犯人捜査に上手に取り入れたのが、松本清張の「砂の器」である。
東京蒲田操車場で殺人事件が発生した。しかし被害者の身許が不明で捜査は難航する。迷宮入りかと思われた矢先、被害者が殺される直前にある男と会っていたことが判明した。2人の会話のなかで交わされていた「カメダ」という言葉、地名か?人の名か?今西警部ら捜査班は事件解明のために奔走する。そして殺害された被害者の東北弁「カメダ」から、島根県亀嵩(かめだか)を探し出した。当時は仁多町だったが、2005年に奥出雲町に変更している。しかし、この亀嵩という地名は小説、映画などで相当に知られており、奥出雲よりポピュラーな地名ではないだろうか。「この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、亀嵩はその宍道から数えて十番目の駅だった。亀嵩の地形はまさに出雲の奥地である。たった今、国語研究所で見せてもらった資料のズーズー弁の使われている地方のどまん中だった」(「砂の器」)
町には湯野神社があり、「風土記」に「湯野、小川、源出玉峰西流云々」とあり、亀嵩の旧地名であろう。
蒲生氏郷。父は蒲生賢秀、母は後藤但馬守の女。弘治2年、近江国蒲生郡日野城に生まれる。はじめ賦秀、のちに氏郷と改名、大坂で洗礼を受けレオンと称した。主家の六角氏が内紛により力を弱めた永禄11年、父賢秀は、織田信長と結ぶため、氏郷を人質として岐阜に差し出した。そこで元服し賦秀と名乗り、信長の近習となった。翌12年、伊勢出陣に従い武功をあげ、信長の女冬姫を室とし、以後、父賢秀とともに、織田軍の中核として各地を転戦した。天正10年の本能寺の変では、安土城を退去した信長の家族を日野城に迎え、明智光秀の襲来に備えた。同11年に羽柴秀吉と結び、秀吉と敵対する滝川一益の亀山城などを攻め、その功ににより亀山城を与えられた。翌12年には伊勢12万石を与えられ、松ヶ島城主、同16年、正四位下近衛少将となり、新たに松坂城を築きこれに移った。天正18年、小田原攻め後には陸奥・越後を治める会津に移封され42万石に、翌年、九戸の乱鎮定の功で、さらに18万5000石を加増された。実高は92万石の大大名であった。文禄元年、朝鮮出兵のため肥前国名護屋城に赴くが、下血するなど体調がすぐれず、翌2年には帰国、3年に上洛するが、翌年、病状が悪化し伏見の自邸で没した。秀吉が、氏郷の力を恐れ毒殺したという説があるが、俗説である。
3万年前の東アジアは、気候が寒冷化し、年平均気温は今日より7~8度も低かった。そのため海面が下がって日本海が生まれ、そのまわりに陸橋が形成される。この陸橋沿いに大陸から北方系の哺乳動物が南下し、それを追って人びとも南下したようである。気候は1万5千年前から温暖化に向かい、降水量の増加にともなって、ブナやナラ類の落葉広葉樹の森が形成されたという。そして、約1万3千年前、バイカル湖周辺に住んでいた人びとが移動し、一派はサハリンから北海道を南下して本州の日本海側に到着、別の一派は朝鮮半島から幅約7.5キロの陸橋を南下して九州へ入った。彼らの食糧源は、森のナッツ類や山菜、動物やサケ、マスなどの川魚であったろう。また沿海州から日本海を渡って直接能登半島に住みイルカ漁をして定住していた民族もいる。
2010年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で2万年前の旧石器時代の人骨が発見されたことは重要である。1万数千年より前の旧石器時代の人骨は10例ほどあるが港川人は約18000年前、 浜北人は14000年前で、今回が最古である。
地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世と完新世に分けられる。戦前の考古学界では、更新世には日本列島にはまだ人類は住んでいなかったと考えられていた。ところが昭和24年、群馬県岩宿の関東ローム層の中から打製石器が発見され、それが契機となり、日本にも旧石器文化があると考えられるようになった。考古学の時期区分として、世界的には更新世に属する人類文化を旧石器文化と呼ぶ。ただし、後続する時代については、日本では「新石器時代」ではなく、「縄文時代」「弥生時代」というのが一般である。
それはさておき、日本人のルーツに関してはまだ解明されない点が多い。日本人を含むモンゴロイドは古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けられる。現代日本人には新モンゴロイド的特徴が色濃く認められるが、人類学的見地からは、日本人の基層は南方の古モンゴロイドであったと考えられている。最近のDNAの調査によると、縄文人と東南アジア人とのDNAの塩基配列を比較したところ、両者に共通の起源をもつ可能性が明らかとなった。南西諸島から旧石器時代の人骨が出土することは、考古学上の資料からも、日本人の南方起源が有力となってきたということである。1967年、沖縄県島尻郡志頭村港川の海岸に近い石切り場で人骨が発見された。この人骨は、約1万8000年前から1万7000年前のものと推定される。
日本全国各地の地名をおり込んだ歌謡曲。「函館の女」「知床旅情」「津軽海峡冬景色」「港町ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「女ひとり」「柳ケ瀬ブルース」などなどご当地ソングが無数にある。日本列島最北端は原みつるとシャネル・ブルースの「稚内ブルース」か。今話題の明智光秀の生誕地、岐阜県可児市(かにし)。森昌子が「可児市音頭」(1982年)に歌っている。数でいえば東京や横浜ソングが多いが、なぜか長崎にヒット曲が多く、神戸はあまりヒットしないというジンクスが歌謡界にはある。長崎という町は旅人の心を酔わせる不思議な魔力がある。踏む足に柔らかな石畳の面に唐寺の甍に、そして古びた西洋館の蘇鉄をふるわす海風に沃しい異国の香りが漂う。そんなエキゾチックな魅力がある長崎は、戦前から流行歌の格好の歌所となった。由利あけみ「長崎物語」(昭和14年)、樋口静雄「長崎シャンソン」(昭和21年)、小畑実「長崎のザボン売り」(昭和23年)、藤山一郎「長崎の鐘」(昭和24年)と長崎物は必ずヒットするといわれた。昭和40年代に入り、魅惑のムード歌謡の時代もご当地ソングのナンバー・ワンは長崎だった。高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」(昭和43年)、青江三奈「長崎ブルース」(昭和43年)、そして内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」(昭和44年)の大ヒットへと続く。「長崎は今日も雨だった」も「思案橋ブルース」のヒットがなければ、世に知られることは無かったかもしれない。ところで思案橋とは歌のせいで、長崎の橋だけと思われがちであるが、もともと江戸が元祖で元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋が近くにあり、「行こうか戻ろうか」と思案したので思案橋という名がついたといわれている。
ないているような 長崎の街
雨に打たれて ながれた
ふたつの心は かえらない
かえらない 無情の雨よ
ああ 長崎 思案橋ブルース
ところで長崎で一番有名な橋は、やはり眼鏡橋だろう。石造2連アーチ橋と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えるところから、この名がついたのだろう。寛永11年に興福寺の住職・黙子如定禅師(1597-1657)が造ったものである。昭和57年7月の長崎大水害では崩壊したが、復旧された。画像は昭和40年代前半のもので、周辺マンションなどが建設される以前の眼鏡橋の景観がうかがえる。
近年のご当地ソングの傾向は「五能線」(水森かおり)や「尾曳の渡し」(森山愛子)「只見線恋歌」(奥山えいじ)といったようにあまり知られていない地名が好まれるようである。五能線は秋田県能代駅と青森県川部駅を結ぶ日本海の絶景で人気のローカル線。尾曳の渡しは群馬県館林にある。只見線は福島県会津若松駅から新潟県小出駅を結ぶローカル線。尾瀬沼を水源とする全長約145㎞の只見川が知られる。
全世界の人類72億人に、厳密にいって純粋種というものがないように、日本人もまた、混血によって成った雑種である。ただ、その雑種性が、日本列島で混血して成ったものか、どこからか来たものなのか、さまざまな説がある。日本人の幼児には臀部、腰部など皮膚に青色の斑点がみられる。これを蒙古斑と命名したのは、明治お雇い外国人として東京大学に招かれた医学者エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。蒙古斑は日本人には95%以上の割合で見られるが、中国人(漢民族)、韓国人には少ない。アジアでもタイ人などは「トゥック・ムック」(インクのケツという意)といって蒙古斑がでる子が半数近くいるらしい。ベルツは日本人の形質をみるうち、日本人はいろいろな民族が混血している新人種であると考えた。日本人混血説である。「日本人の体質」(邦訳なし)を著し、①アイヌ型②満洲・朝鮮型③マレー・モンゴル型の3種であるとした。このような日本民族の形成と起原に関しては戦前の皇国史観のなかではタブーであったが、戦後すぐに、江上波夫の騎馬民族説などの新説が現れた。日本人の支配者層をなす天皇家の祖先は、アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島に進出し、そこから九州を経て、大和にはいり、日本を統一したというのである。ソ連のピョートル・グズミッチ・コズロフが発見した北蒙古ノイン・ウラから紀元前後の匈奴の王・貴族の古墳が多数発見された。もちろんこの時代の匈奴(丁零、夫餘)はモンゴル人ではない。通常モンゴル人は7世紀からといわれる。ノイン・ウラの民族はアーリア系であると考えられる。だが日本人のルーツといえる文化をもっている。かつて仁徳・応神陵など前方後円墳は日本独自といわれたが、現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されている。ノイン・ウラからも多数の前方後円墳が発掘されている。近年、宝来聡教授は、Y染色体を研究した結果、約5万年前ころチベットに住んでいた人たちが中国・朝鮮を経由して日本列島にやってきたと説いている。(参考;江上波夫「国家の成立と騎馬民族」季刊東アジアの古代文化6、1975年、梅原末治「北蒙古ノイン・ウラの遺物」)
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BSプレミアム「偉人たちの健康診断」耽美派の永井荷風をみる。 荷風は若い頃から腹痛に悩まされていた。日記「断腸亭日乗」は花の名前に由来するが、過敏性腸症候群にも関係するらしい。ゲストの関根、井森、竹山らが荷風文学を一度も読んでいないようで、作品や文体にはほとんどふれないところがお気楽な番組だ。大金を残して孤独死するのは悲しい。空襲で家が焼かれたこともあるが、再婚して身の回りを世話する人がいれば、吐血したときも応急手当ができて、死期をのばせたかもしれない。谷崎や志賀よりも先輩だが、文学的な評価は高い。荷風の係累を調べる。三島由紀夫の祖母の夏子は、永井岩之丞の長女で、三河出身の永井尚志(1816-1891)の孫。(岩之丞は養子) 夏子は内務官僚の平岡定太郎(1863-1942)に嫁ぐ。子が平岡梓、孫が三島由紀夫。一方、永井荷風の父、永井久一郎(1852-1913)も内務官僚で、祖父・永井匡威(まさたけ)は尾張藩士。ともに尾張藩永井家の血脈をつぐ親戚筋にあたる。荷風との仲は一般に悪かったといわれるが、漢学の教養や父の愛した漢詩を床の間に飾っていることをみると実は父を尊敬していたのではないだろうか。
平安中期、陸奥の豪族安倍氏は俘囚の長として絶大な勢力をもち、頼時の時には、北上川流域の6郡を領有して、貢租・徭役を拒んで国司に従わなかった。永承年中、陸奥守藤原登任は頼時を攻めたが、かえって敗退した。そこで朝廷は1051年、前相模守源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任命し、安倍氏の制圧に当たらせた。頼時は頼義の在任5年間は帰順したが、1056年任期終了のときに至って反旗を翻したので、朝廷は頼義を重任して征伐させた。頼義はそこで俘囚の懐柔をはかり、頼時の一族安倍富忠を味方につけて1057年頼時を鳥海柵で敗死させた。しかし余党の反抗はやまず、同年11月河崎柵での戦いには、頼時の子貞任・宗任らに完敗し、頼義の子義家はかろうじて重囲を逃れた。しかも貞任らは諸郡に横行し官物を徴集したが、頼義はこれを制止できなかった。こうして1061年、頼義の再度の任期も終わったので、朝廷は高階経重を陸奥守に任じたが、在地民が頼義に従い経重の指揮を受けなかったため、経重はむなしく帰京し頼義が引き続き事に当たった。頼義は武力強化のため出羽の俘囚長清原光則および弟武則の援兵をこい、これに応じた武則とともに、翌年8月から9月にかけて貞任・宗任らを小松柵・衣川柵・鳥海柵に破り、9月中旬厨川でついに貞任およびその一族を殺した。その翌年2月には貞任らの首級を京都へ送った。朝廷は頼義の功を賞して伊予守に任命し、義家は出羽守に叙せられた。
本日は作家の村上春樹、71歳の誕生日である。「cohort(コーホート)」とは、おもに同じ年次または同じ期間に生まれた人口をいう。わが国では、1947年から1949年の間に生まれた第一次ベビーブーム世代のことを指すコーホート「団塊の世代」がよく知られる。初めての戦争体験を持たない世代であるから、戦後の新しい価値観の下で育ち、「受験戦争」「グループサウンド」「全共闘」「ニューファミリー」など文化・風俗面で特徴ある社会現象が生まれた。毎年ノーベル賞の時期になると名前がでてくる作家・村上春樹(1949年生まれ)は団塊の世代である。現在、67歳から65歳、会社を退職した人も多かろうが、政治面では活躍する年代である。しかし、団塊の世代で将来、日本のリーダーとなる人材はなかなか見当たらない。安倍政権発足当初、記者のインタビューに「団塊世代には人材がいない。団塊世代を飛び越して世代交代は進む」と答えた。近年の首相の生れ年を記すと次のようになる。
小泉純一郎 1942年
安倍晋三 1954年
福田康夫 1936年
麻生太郎 1940年
鳩山由紀夫 1947年
菅直人 1946年
野田佳彦 1957年
安倍晋三 1954年
団塊の世代で首相になれたのは鳩山だけ。意外かもしれないが、次の菅は1946年生れであって、団塊の世代には含まれていない。団塊の世代の時代はもう過ぎ去ってしまった。
山本有三青少年文庫の閲覧室風景
真実一路の旅なれど
真実、鈴ふり、思い出す
白秋「巡礼」
本日は山本有三忌。北原白秋の詩で始まるこの有名な山本有三(1887-1974)の小説「真実一路」をはじめ「路傍の石」「波」「生きとし生けるもの」を文庫本で読んだのは中学生ころだっただろう。もちろん主人公の義夫や吾一などの正義感やヒューマニズムに共感を覚えた。だが長じて高校生になる頃、彼が戦時中、近衛文麿と親しい関係にあることや、戦後保守政治家になったことなどを知ると、熱も急速に冷めてしまった。宮本百合子は山本の諸作品を、社会問題を扱うとみせかけて、根本的な問題を棚上げしている、という鋭い指摘をしている。おそらくこれが今日的な作家山本有三に対する一般的な評価であろう。しかし彼の小説の多くは新聞の連載小説として発表されたものが多く(「生きとし生けるもの」「波」「風」「女の一生」「路傍の石」)、いかに大衆に支持され、大きな影響を与えたかはいうまでもない。昭和33年、東京都三鷹の旧居が「有三青少年文庫」として開館されたことは夙に知られている。ケペルが蔵書を一般に開放して文庫を開くことも、つまりは少年期に読んだ山本有三への共感があったからかもしれない。
勇気を自慢しあって、鉄橋にぶらさがった吾一を次野先生にやさしく諭す。「愛川、おまえは自分の名前を考えたことがあるか。吾一というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかないという意味だ。世界に、なん億の人間がいるかもしれないが、おまえというものは、世界中に、たったひとりしかいないんだ。そのたったひとりしかいないものが、汽車のやってくる鉄橋にぶらさがるなんて、そんなむちゃなことをするんじゃない」
山本有三は、「光をもとめることが生あるものの本性である」という根本思想にたって、人間いかに生きるべきかを一貫してテーマとした作家であった。
西洋歴史にまつわる格言や名文句の類が歌謡曲の歌詞で引用されることはほとんどない。阿久悠の作詞「ジョニィへの伝言」二番目の歌詞で「サイは投げられた」と使われている。紀元前49年1月10日、カエサルはローマの属州ガリア・チザルピナと都ローマの境のルビコン川まで来た。ここで軍を率いて川を渡ると必ず市民戦争になる。だがカエサルは目的達成を前にひるむような男ではない。プルタルコスによると、カエサルはギリシャの詩人メナンドロスの言葉を引用した。Anerriphtho kybos (賽は高く投げられた) これをラテン語に翻訳して、アーレア・ヤクタ・エスト Alea iacta est.とプルタルコスは書いている。「賽は投げられた」という言葉はどんな結果になるかわからないが冒険に目をつぶって飛び込むようなときに、よく使われることわざとなった。(Caesar,Rubicon) 世界史こぼれ話
日本映画チャンネル「九十九本目の生娘」を見る。新東宝の1959年の作品。妖刀を鍛えるために処女の生き血を捧げるという猟奇的な因習の残る山村を舞台に部落民と菅原文太ら警察との闘いが見せ場。だが事実上の主役は、娘を浚うお歯黒の老婆の怪演が印象的である。演じるは原泉かと思ったが、クレジットで五月藤江と確認。
瀧廉太郎が作曲した有名な唱歌「箱根八里」の一番の歌詞に「一夫関に当たるや、萬夫も開くなし」(作詞者は鳥居忱)とある。大意は、箱根の山は難所で一人が守備にあたれば万人が攻めてもこれをうちやぶることができないということ。一般に李白の「蜀道難」の「一関に当たれば、万夫も開く莫し」からの引用と説く本が多い。元ネタは李白よりも数百年前の左思(3世紀の人)の「蜀都賦」の「一人守隘、萬夫莫向」である。『文選』に所収されている。
盤古が天地を分けしより、三皇五帝夏商の君、周朝、紂を伐ち天下を興し、代々相承ぐ八百年の春・・・・」これは元・明に流行した「三国志」歴史講談の冒頭である。中国人の歴史は、必ず「三皇五帝夏殷周」とするのがお決まりである。始皇帝が定めた「皇帝」という尊号には、その功と徳が古代の三皇五帝よりも大であるという意味が含まれていた。だが三皇五帝に誰を数え上げるかについては、諸説あり、それゆえに、個々の人名よりも数字の枠組みに意味があるとする。三皇五帝で、どの説にも必ず入っているのは、黄帝、堯、舜である。しかしこれらは伝説上の帝王で、夏朝の実在も立証されていないので、中国古代文明の帝王の存在は、いまのところ紀元前1400年頃とみてよい。
中国に比べて、エジプトやメソポタミアでは、大河流域での大規模灌漑文明が誕生し、中央集権的王の出現も早かった。古代エジプトの君主の称号は「ファラオ」といい、ナルメルとする説やメネスとする説がある。紀元前3100年頃のエジプト・ティニスに都したナルメル王は上下エジプトを統一した。彼は半ばメンフィスの神話上の建設者メネスと同一視される。ファラオは元来エジプト語で「大きな家」per(家)-O(大きな)を意味する語から由来するもりであるが、新王国以後は「神の化身」として用いられた。メソポタミアではシュメール人の都市の支配者はエン(主人)と呼ばれ、神殿の大祭司を兼ねていた。それが軍事力をもち世俗的王となり、「ルーガル」と呼ばれた。最初のルーガルは、キシュのメバラゲシ(前2700年頃)といわれる。次にウンマのルガルザゲシ(画像、前2380年)が現れる。最終的にメソポタミアを統一したのは異民族のアッカドのサルゴン1世(前2350年)である。世界史、lugalkisalsi、ルガルキサルシ。
カスティーリャ王国エンリケ4世が1474年、亡くなると異母妹のイサベル1世(1451-1504)がセゴビア城(アルカサス・デ・セゴビア)で即位した。イサベルはアラゴン王フェルナンドと結婚して、1479年には両国が統一してスペインが誕生した。1492年1月2日、グラナダが陥落しナスル朝が滅亡、国土回復運動(レコンキスタ)は終わり、同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていった。セゴビア城は1862年に罹災した。この時の罹災がどの程度であったかは分からないが、本体は石造なので木造建築のように全焼することはなかっただろう。1862年から再建に取り掛かり、ようやく完成したのが現在の姿である。
大晦日、年越しそばを食べている頃、テレビの紅白から歌が流れていた。星野源が最近オープンしたばかりの渋谷スカイの屋上で新曲「Same Thing」を披露している。全編英語でテロップも訳詞がないので正確な意味は自分にはわからない。「Wabi sabi Make it messy」。「わびさび」とは「もの静かなふかいおもむき」のことで日本精神にも通じるもの。「messy」とは「取り散らかす」「整然としていない」「乱雑な」という意味で、相反する言葉だ。「雨が降ったって日の光がさしていたって僕にはどっちでもいいのさ」という、まるで禅哲学の悟りのような深い内容の意味らしい。J-POPもいつまでも欲望の資本主義や利潤を追求するばかりでなく、日本文化や音楽を世界にむかって発信しようとする意図が感じられ、愉快に思った。
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