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2020年1月31日 (金)

五つ子誕生の日

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    1976年月のこの日、鹿児島市立病院でNHK政治部記者山下頼充、紀子夫妻に五つ子が誕生。5人は元気に今年で44歳になる。世界には、オーストラリアの九つ子をトップに、メキシコで八つ子、スウェーデン、ベルギー、アメリカの七つ子が知られている。(1月31日)

2020年1月30日 (木)

孝明天皇、急死の謎

  幕末激動期のなか孝明天皇は1866年年12月25日(新暦1867年1月30日)崩御した。この日は明治7年から明治45年までは、国の祭日として孝明天皇祭が実施されていた。孝明天皇の急死をめぐって、痘瘡病気説と毒殺説が生まれたが、真相はいまだに不明である。 幕末維新史を専門とする国立大学系の学者の方には、孝明天皇毒殺説はとるにたらぬ俗説であるとされる人が多い。佐々木克は「岩倉具視」(吉川弘文館)において、「古くからの俗説に、孝明天皇の死因は毒殺で、それを計画したのが岩倉だという説がある。岩倉犯人説は、岩倉が王政復古を構想し、その実現のためには幕府との協力体制を維持しようとする孝明天皇が邪魔であったからという、あまりにも単純・短絡的な考えに基づいた理由付けによるものである。岩倉にとって孝明天皇は欠くことのできない存在であったことは、いま述べた通りである。そして死因が悪性の天然痘であったことは、病理学的に検討した結果明白になった。毒殺説は岩倉の構想を深く検討しない上に、当時の朝廷内外の政治状況を正確に把握しないでなされた、まったくの妄説である。」(本書99頁)

    そして、佐々木克は原口清の文献をあげている。「孝明天皇は毒殺されたのか」(日本近代史の虚像と実像1巻 大月書店 1990年、「孝明天皇と岩倉具視」(名城商学39巻別冊、名城大学商学会、1990年)

   佐々木克は、大久保利謙の弟子にあたる学者で、岩倉関係の史料を全て渉猟したうえでの見解であり、傾聴すべきであろう。ただ、岩倉が天皇毒殺という謀事を日記や書簡に得意げに書き残すことはしないであろう。孝明天皇の死を知った岩倉は、翌日の坂本静衛に宛てた手紙で「仰天恐愕…千世万代の遺憾」と嘆いていた。これほどまで落胆したのは、この手紙で「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」として、岩倉を弁護しているが、犯人と思われないように知人に証拠として残る手紙を書くという工作は誰しもやるこではないだろうか。

   孝明天皇毒殺説は、俗説として一笑に付す事柄ではなく、かなり真面目な日本史通史にも必ず記述されている歴史的事件である。昭和40年代からのシリーズ物「日本の歴史」において孝明天皇の急死をどのように記述しているか列挙する。

中央公論社「日本の歴史、第19巻、開国と攘夷」(昭和41年)小西四郎(東京大学教授)著

    こうして見ると、毒殺説はどうも風説にすぎないように思われる。東京大学史料編纂所の吉田常吉氏は、この問題について論じている中で、「天皇も疱瘡にかかられる可能性がある」との見解を示し、「当時天皇の御周囲で、疱瘡をわずらっていた者が全然なかったとはいいきれない」と、例えば天皇の側近に奉仕した公卿の子女で疱瘡にかかった者があるとか、あるいは同じころ関白二条斉敬の二人の男の子が痘瘡で死亡したことなどをあげている。さらに孝明天皇毒殺事件については、それが「白か、黒か、読者諸君に正面きって切り込まれると、筆者は困る。推論に推論を重ねたうえでの筆者の論旨なのだから、そこは諸君の良識にまつ以外にない。ただ筆者の見解を述べるならば、毒殺事件そのものは、確乎たる史料がない限り、従来の定説を覆すわけにまいらぬ。云々」と。わたしもこれと同意見である。

文英堂「国民の歴史、第18巻、開国」(昭和45年)高橋磌一著

  慶応2年12月25日に、孝明天皇が36歳で急死したのも、謀略のにおいがする。痘瘡わわずらっていたとはいえ、だいぶ容態もよくなっていたのが急変し、「御九穴から御出血」という異常な死を迎えたのである。徹底した攘夷論者ではあったが、幕府打倒などは毛頭考えていなかった天皇は、討幕派にはやっかいな存在となっていたことはじゅうぶん考えられるのである。

「日本の歴史23 開国」芝原拓自(名古屋市立大学)昭和50年

    天皇のこのふしぎな死が、毒殺説を流布させる一根拠ともなった。その風評や憶測はたちまちひろがり、犯人をさしむけたのは岩倉具視だとさえ、まことしやかにささやかれた。その噂は、死去から一週間後には、長州の一豪商の日記にさえ登場し、通訳官サトウの記録のなからもでてくる。しかし、王政復古から戦前をつうじて不敬の毒殺説はタブーとなり、宮内庁編「孝明天皇紀」などは、もちろん病死として史料を配列している。けれども、かんじんの24日夜のことについては、なぜか典医たちの医学的な記録はなく、真相はいまだに不明である。戦後になってねづまさし(禰津正志)氏などは、この病状急変と死のようすこそ、古くから中国や日本でみられた砒素による毒死に特有であることなどを根拠にして、毒殺説にかたむいている。他方、吉田常吉氏などは毒殺説に確証なしとし、病死であったろうと推定している。ところが、昭和50年4月4日付の「サンケイ新聞」の記事によれば、近江八幡市の開業医伊良子光孝氏宅の蔵から孝明天皇の典医をつとめていた同氏祖先光順の日記形式のカルテ「拝診日記」が発見され、そのカルテの天皇死去当日の描写は暗に薬物中毒症状をにおわせるものである、と紹介されている。

    奈良本辰也(立命館大学教授)著「明治天皇即位の舞台裏、孝明天皇崩御と討幕工作」(歴史読本、昭和52年12月)

   日本医学史学会の佐伯理一郎氏などは、これらの日記を検討した結果、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(日本医事新報)と大胆な断定を下している。

                 * * * * *

 奈良本辰也が引用した京都の佐伯理一郎医学博士の説とは、昭和15年7月に日本医史学学会関西支部大会で発表したものである。当時の侍医の織部正伊良子光順の病床日記を資料とし、「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官にでている姪をして天皇に一服毒を盛らしめたものである」としている。

    新人物往来社など一般歴史雑誌の読物などは孝明天皇毒殺説を支持する記事が多い。国立系の学者は、とるにたらぬ俗説として斥けるであろう。しかし孝明天皇毒殺説をとると、聡明な明治天皇は毒殺犯をさがして必ずや復讐すると考えられるので、鹿島昇の明治天皇すりかえ説がセットになって浮上する。ただし、大室近祐の証言、あるいは存在そのものが実在性があるのか一読する限りでは確証できない。いまだ孝明天皇急死には事件性が認められ、幕末・明治の宮中には謎が多い。

「巴里祭」と「舞踏会の手帖」

  トーキー黎明期、フランスの新鋭監督ルネ・クレールがトーキーに取り組んだ第一作が「巴里の屋根の下」(1930年)である。クレールは、アメリカの初期のトーキーの通弊ともなっていた台詞と音楽の乱用の愚を見て取り、映画はたとえトーキー作品になっても映像が優先すべきだという主張のもとに情緒的なパリの下町を見事に描いた。3年後の「巴里祭」(1933年)では前作を遥かにに凌ぐ作品となっている。主題歌の「巴里恋しや」は、登場人物の誰にも歌われない歌であるが、タイトル・バックから全編にコーラスや演奏で繰り返しあらわれる。この歌を作曲したのはモーリス・ジョベール(1900-1040)という新鋭の作曲家で、「舞踏会の手帖」(1937年)などでも知られるが、第二次世界大戦に従軍し、40歳で戦死したことが惜しまれる。

「巴里恋しや」や「舞踏会の手帖」のエレガントなワルツは今聞いても華やかな夢のような若い頃を思い出させてくれる。

 

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 モーリス・ジョベール

 

 

 

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  巴里祭

 

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  舞踏会の手帖






 

 

ガンジーは何故ノーベル平和賞を授与されなかったのか?

Mahatmagandhi     インド独立の父マハトマ・ガンジーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた。しかし受賞することなく、1948年1月30日、ヒンドゥー・nationalismの活動家ナートゥーラ―ム・ゴドセに射殺された。のちにノーベル財団は次のような理由をあげている。1937年は、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。1947年は、ガンジーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしていた。1948年は、故人に対してノーベル賞を与えるかで議論された。当時は規定で除外されていなかったが、最終的に、故人に賞を与えるのは不適切だという結論となり、以降、ノーベル平和賞は政治的に利用される権威付けの道具となってしまった。(Karamchand Gandhi)

 

 

 

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  「塩の行進」の銅像。1930年、イギリスによる塩の専売制に反対運動を行なった。先頭がガンジー。

 

 

チャールズ1世の処刑

King_charles_i_1628_ad   英国王の名前は、1000年の歴史でもリチャード、エドワード、ヘンリー、ウィリアム、チャールズ、ジョージ、ジョンなど10種類くらいしかない。1649年のこの日、チャールズ1世が清教徒革命で処刑された。12年後、王政復古によりクロムウェルの墓が暴かれ、遺体の首が刎ねられたのも今日である。チャールズ1世は英国史でも有名な国王の1人で、関ヶ原合戦の年に生まれたので、1600年から1649年と生没年が記憶しやすい。

    王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。

 

   1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。(Charles,Henrry,William)

 

 

 

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2020年1月29日 (水)

草城忌

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

 

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

 

 

2020年1月27日 (月)

実朝暗殺の謎

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   鶴岡八幡宮の石段わきには「公暁の隠れ銀杏」といわれるイチョウの大木がある。高さ約30m、周囲6.8m、樹齢800年以上ともいわれている。ところが2010年3月夜の強風のため、この大木が倒れてしまった。樹齢800年であれば、公暁が隠れたイチョウの木はこれ以前の木かもしれない。それにしても「公暁の隠れ銀杏」の話は江戸時代以降に見られることで、慈円の「愚管抄」などの鎌倉時代の文献には、イチョウのことは一つも書かれていない。このことから史実ではなさそうだ。

    この実朝暗殺が、公暁一人の計画でなかったことはほぼ推察できる。しかし、これが北条義時の陰謀であるのか、あるいは三浦義村が暗殺計画の黒幕であるのか(永井路子の小説『炎環』)、さまざまな憶測は可能であるが、その真相はいまだに歴史上の謎につつまれている。

2020年1月26日 (日)

帝銀事件と三菱銀行人質事件

Yohgisha    帝銀事件と三菱銀行人質事件。東京と大阪に起こった2つの事件は51年の隔たりはあるがともに1月26日に発生している。1948年、東京豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員12名が毒殺され、現金・小切手18万1千円が強奪された。警察は毒物の専門的知識を持つ者の犯行として、犯人像を旧関東軍の細菌兵器研究部隊(731部隊)関係者とみていた。ところが事件から7ヵ月後、突如、捜査方針が転換した、8月22日、テンペラ画家平沢貞通が逮捕された。物的証拠がなく、毒物の入手経路も判明しないまま、昭和30年に平沢の死刑が確定した。しかし、死刑は執行されず、平沢は昭和62年95歳で獄死した。
    昭和54年1月26日、三菱銀行北畠支店で強盗事件が発生した。犯人梅川昭美は猟銃で警官と行員4人を殺害し、客らを人質に42時間籠城、28日に梅川は射殺された。

2020年1月25日 (土)

鍾乳洞

チコちゃんに叱られる。鍾乳洞はどうしてできるの?海底で貝殻やサンゴ、海百合等のカルシウム分を多く含んだ海の生物の死骸が長い時間をかけて積み重なり、固い岩石に変化し石灰岩が形成される。それが地殻変動によって地上に隆起し、雨水や地下水によって浸食を受けて洞穴ができた。日本では秋芳洞(山口県)安家洞(岩手県)竜河洞(高知県)白雲洞(広島県帝釈台)星野洞(沖縄県)などが有名である。

 

「東風吹かば」の歌は偽作!?

Pn2008072401000656___ci0003   本日は「左遷の日」といわれる。901年のこの日、右大臣の菅原道真が九州の大宰府に左遷された。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠み、この日、都を旅立った。そして道真は無念の思いを抱きながら、2年後に亡くなった。のちに道真は「学問の神様」として神格化され、全国各地に天満宮がつくられた。毎月25日は天神さんの日として縁日が開かれる。そのうち新年最初の1月25日は初天神として参拝客で賑わう。

  道真の詩文には偽作と思われるものが数多くある。もっとも有名な「東風吹かば」の歌には2種ある。初出は「こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわするな」(拾遺和歌集巻第14雑春)もう一つは「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」(宝物集)。一般に「春な忘れそ」のほうが人口に膾炙していると思われる。歌は道真が宇多法皇に別れ際に詠んだとされるが、いずれにしても道真の死後から100年から180年も経って世に現れた歌である。漢学者の道真の真作であるとは考えにくいが、仮託が許される文学風土なので、この歌にケチをつける人は誰もいない。(1月25日)

 

 

2020年1月24日 (金)

カリフォルニア・ゴールドラッシュ

   1848年1月24日、カリフォルニア州(当時はまだ州になっていない)サクラメント付近のコロマ村のサッターズ・ミルというところで、スイス移民の大農経営主ジョン・サッターに雇われていた大工のジェームズ・マーシャルが、製材用の水車小屋を建て、水車を動かす放水路を掘っていたとき砂金を発見した。彼はサッターに報告した。はじめは信じないサッターも実物を見て驚喜するが、秘密にしておくことにした。しかし、他の使用人からうわさは広まり、カリフォルニアは一気に沸く。しかも、ジェームズ・ポーク大統領が年次報告で、金脈発見に言及したことが拍車をかけた。翌年から、世界中から一攫千金を夢見る30万人もの人々が、シエラ・ネヴァダ山脈に殺到した。カリフォルニアの金の産出額は、1858年までに金の採掘量は、約5億5000万ドルにものぼった。この大量の金は、通商・金融界に流通して、インフレ効果を伴いながら1850前半に世界的な好景気をもたらした。カリフォルニアは約12万人となり、1850年に州になり、サンフランシスコは小村から世界に知られたブームの町に成長した。コロマ村はまもなく、エルドラード(黄金郷)郡となる。(Coloma,Sutter' Mill )

 

 

ローマ皇帝カリグラ暗殺される

Originalheadofcaligula   第3代ローマ皇帝カリグラは悪名高い狂人である。カリグラとは、正式の名前ではない。本名はガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス、という。初代皇帝アウグストゥスの娘ユーリアと、アウグストゥスの右腕といわれた将軍アグリッパとの間に生まれたアグリッピーナを母に持ち、これもローマの名家の出であるゲルマニクスを父として、西暦12年8月31日に生まれ、41年1月24日に没した。

   カリグラという愛称も、「小さな軍靴」という意味だ。ローマ軍団の兵士たちは、「カリガ」と呼ぶ。25歳で即位した直後のカリグラ帝は民衆に愛され、高貴で穏健な君主だった。ところが10ヵ月のちに、重い病に罹り、回復したのちは人が変わったように暴君となった。西暦41年、カッシウス・カエレアら数人の近衛隊の者によって暗殺された。カリグラだけでなく、妻も幼い娘も殺されたという。

ところで1月24日はカリグラの命日ではあるが五賢帝の一人ハドリアヌス帝の誕生日(西暦76年)でもある。 Caligula、Hadrianus

2020年1月23日 (木)

青森歩兵第五連隊 八甲田山雪中行軍遭難事件

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   日本陸軍は対ロシア戦に備えて、雪中行軍の訓練を計画した。開戦した場合、津軽海峡と陸奥湾を封鎖されると、青森・弘前、青森・八戸間の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用せざるを得なくなるが、雪深い冬期の交通が可能か否か、未だ確認されていなかった。そのため陸軍の実験行軍を決定、青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第31連隊に八甲田山の縦走を命じた。明治35年1月23日6時、青森歩兵第五連隊215人(神成文吉、山口鋠)は出発する。だが途中、吹雪のため進退を決するべく作戦会議が開かれた。悪天候を見れば退却は明らかであったが、大隊長の決断で前進が決まった。こうして猛吹雪で道を迷って彷徨、25日には199人が凍死した。この大惨事は準備不足と天候の急変が原因であるが、加えて指揮官の無謀な判断が多大な犠牲を強いる結果となった。同じ時期、反対側の三本木から青森へ進んだ弘前歩兵第31連隊(福島泰蔵)は11日間にわたる全行程を踏破し、無事に青森に帰還している。新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は二隊を対比し、自然との闘いを迫真の筆致で描いている。

2020年1月22日 (水)

東西冷戦と雪どけ、そして終結

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米ソ首脳のウィーン会談(1961年6月)

 

220pxbernard_baruch_cph_3b33468    第二次世界大戦後のアメリカとソ連との対立は、殺戮を伴う直接手段にはいたらなかったが、国際緊張が続く状態であったため、この情勢を「冷たい戦争」と表現した。「冷戦」(Cold War)という語は、バーナード・バルーク(画像、1870-1965)が1947年4月16日に初めて使い、ウォルター・リップマン(1889-1974)がこの年に出版した著書のタイトルに使い、1948年10月24日、バルークが上院で「冷戦」という言葉を使った事から、ジャーナリズムに定着した。だが、この冷たい戦争も長くは続かなかった。両陣営は平和のうちに共存することができる、という声が高くなり、ここに「雪どけ」が始まった。「雪どけ」は、ロシアの作家イリヤ・エレンブルグの小説(1955年)の題名である。

    東西の対立が続くなか、ドイツ、ベトナム、朝鮮半島が二分された。そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争など米ソの代理戦争が起こり、巨額の軍事費は、米ソ両国の経済にとって大きな負担となった。そして日本は西側諸国の一員として冷戦体制に組み込まれ、ベトナム戦争では米軍の出撃基地となった。今なお米軍基地がおかれるなど、沖縄は米軍のアジアでの前線基地となっている。1989年11月ベルリンの壁崩壊からおよそ2年後、ソビエト連邦が消滅した。1991年冷戦は終結した。( Barnard Baruch,Walter Lippmann,Ilya Ehrenburg、世界史 )

国民食、カレーライスの謎

Yukichi_s   今日はカレーの日。1982年に全国学校栄養士協議会が1月22日の給食のメニューをカレーにすることを決め、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出されたことにちなんで定められた。インド発祥の料理にして、今や日本の国民食といわれるカレーライス。カレーはタミル語「カリ(kari)」から転じたもので、「汁」という意味である。1908年に海軍が手軽に肉と野菜をバランスよくとれる食事としてカレーライスを採用したことが普及した理由といわれる。そして文献の中でカレーを初めて紹介した人物は福沢諭吉(1835-1901)であるということもクイズなどで知られている。福沢は「増訂華英通信」(1860)に簡単な意味やカタカナの発音を付記し刊行した。「Curry」は「加兀 (コルリ)」とある。はたして福沢がカレーを賞味していたかどうか定かではない。1864年には岩松太郎が著書「航海日誌」の中で、船中でアラビア人がカレーらしきものを食するのを目撃している。1871年、留学生の山川健次郎が船上で「ライスカレー」を注文するも口に合わずご飯だけを食べたと記載している。

 

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左2段目にCurryの語がみえる(増訂華英通信)

2020年1月21日 (火)

砂の器「亀嵩」

Img_0005 ズーズー弁の分布 東篠操編「日本方言地図」音韻分布図(金田一春彦作図)

 

   むかし民俗学の柳田国男は「かたつむり」(蝸牛)の方言が東北地方の北部と九州でツブリであり、関東や中国でカタツムリ、中部や四国でマイマイ、そして京都を中心とする近畿地方で、デデムシのように分布することを発見し、これによって、かつて蝸牛の方言がナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デデムシのように変化し、それぞれが東西または南北へ放射されたと推定した。柳田の仮説を後の学者は方言周圏論と名づけたが、よくわからないところも多い。語彙には認められるものの、音、アクセントにはあてはまらないとする説もある。

   東北地方の方言の特徴は、「し」と「ず」、「ち」と「つ」、及び「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別をつけないので、「ズーズー弁」と言われることが多い。歴史的経緯から近畿地方の古い語彙は地方に残っていることが多いといわれる。近畿地方から遠く離れているはずの東北地方で古語が残っていることは一般的に知られているが、出雲弁、安来弁、米子弁といわれる雲伯方言にも東方地方の方言との類似性が高いことが国立国語研究所などの調査で明らかになった。これを推理小説の犯人捜査に上手に取り入れたのが、松本清張の「砂の器」である。

東京蒲田操車場で殺人事件が発生した。しかし被害者の身許が不明で捜査は難航する。迷宮入りかと思われた矢先、被害者が殺される直前にある男と会っていたことが判明した。2人の会話のなかで交わされていた「カメダ」という言葉、地名か?人の名か?今西警部ら捜査班は事件解明のために奔走する。そして殺害された被害者の東北弁「カメダ」から、島根県亀嵩(かめだか)を探し出した。当時は仁多町だったが、2005年に奥出雲町に変更している。しかし、この亀嵩という地名は小説、映画などで相当に知られており、奥出雲よりポピュラーな地名ではないだろうか。「この亀嵩の位置は、鳥取県の米子から西の方に向かって宍道という駅がある。そこから支線で木次線というのが、南の中国山脈の方に向かって走っているのだが、亀嵩はその宍道から数えて十番目の駅だった。亀嵩の地形はまさに出雲の奥地である。たった今、国語研究所で見せてもらった資料のズーズー弁の使われている地方のどまん中だった」(「砂の器」)

   町には湯野神社があり、「風土記」に「湯野、小川、源出玉峰西流云々」とあり、亀嵩の旧地名であろう。

 

 

蒲生氏郷

蒲生氏郷。父は蒲生賢秀、母は後藤但馬守の女。弘治2年、近江国蒲生郡日野城に生まれる。はじめ賦秀、のちに氏郷と改名、大坂で洗礼を受けレオンと称した。主家の六角氏が内紛により力を弱めた永禄11年、父賢秀は、織田信長と結ぶため、氏郷を人質として岐阜に差し出した。そこで元服し賦秀と名乗り、信長の近習となった。翌12年、伊勢出陣に従い武功をあげ、信長の女冬姫を室とし、以後、父賢秀とともに、織田軍の中核として各地を転戦した。天正10年の本能寺の変では、安土城を退去した信長の家族を日野城に迎え、明智光秀の襲来に備えた。同11年に羽柴秀吉と結び、秀吉と敵対する滝川一益の亀山城などを攻め、その功ににより亀山城を与えられた。翌12年には伊勢12万石を与えられ、松ヶ島城主、同16年、正四位下近衛少将となり、新たに松坂城を築きこれに移った。天正18年、小田原攻め後には陸奥・越後を治める会津に移封され42万石に、翌年、九戸の乱鎮定の功で、さらに18万5000石を加増された。実高は92万石の大大名であった。文禄元年、朝鮮出兵のため肥前国名護屋城に赴くが、下血するなど体調がすぐれず、翌2年には帰国、3年に上洛するが、翌年、病状が悪化し伏見の自邸で没した。秀吉が、氏郷の力を恐れ毒殺したという説があるが、俗説である。

 

薩長同盟

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  江戸幕府に反抗をするため薩摩藩と長州藩との間で結ばれた慶応2年の軍事同盟を「薩長同盟」というが、その日は1月の21日説と22日説とがある。京都二本松の薩摩藩邸で、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁、木戸孝允、坂本龍馬が同席した。龍馬の「坂本龍馬手帳摘要」の22日付には、「木圭(桂)、小(小松)、西(西郷)、三氏と会う」と記載されている。だが龍馬と同行して寺田屋で待機していた三吉慎蔵の日記には「21日、桂小五郎、西郷との談判約決の次第」と記されており、薩長同盟の期日の決定を欠き定説はないが、一般に21日が有力である。(1月21日)

 

 

レーニン・デー

Nikolailenin2225    ロシアの革命家、ソビエト連邦の建国者ウラジーミル・イリイッチ・レーニン(1870-1924)は、1924年1月21日に53歳で他界した。死因は、その精力的な仕事からくる過労といわれているが、1918年8月30日、モスクワの工場労働者に演説中、左翼エスエルの35歳女性党員ファーニャ・カプランから2発の銃弾を受けた際の後遺症も死を早めたともいわれる。1922年5月26日、レーニンは第1回目の発作に見舞われた。10月2日、彼は再びオフィスの仕事に向かいはじめたが、断続的に、しかも短時間しか続けられなかった。12月16日、第2回目の発作が起こり、右の腕と脚が麻痺状態に陥った。1924年1月21日午後6時50分、モスクワ近郊のゴルキで亡くなくなった。遺体はモスクワのレーニン廟に現在も保存されている。

    ところで、レーニンという名はペンネーム(偽名)である。本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ。1901年末、「N・レーニン」という変名を初めて使ったがその由来には諸説がある。①シベリアの大河レナ川に因んで、「レナ川の人」という意味②レナという級友の名前③N・レーニンという変名のNはニコライの略。(Vladimir Iliich Lenin)

2020年1月20日 (月)

日本人はどこから来たか?

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  3万年前の東アジアは、気候が寒冷化し、年平均気温は今日より7~8度も低かった。そのため海面が下がって日本海が生まれ、そのまわりに陸橋が形成される。この陸橋沿いに大陸から北方系の哺乳動物が南下し、それを追って人びとも南下したようである。気候は1万5千年前から温暖化に向かい、降水量の増加にともなって、ブナやナラ類の落葉広葉樹の森が形成されたという。そして、約1万3千年前、バイカル湖周辺に住んでいた人びとが移動し、一派はサハリンから北海道を南下して本州の日本海側に到着、別の一派は朝鮮半島から幅約7.5キロの陸橋を南下して九州へ入った。彼らの食糧源は、森のナッツ類や山菜、動物やサケ、マスなどの川魚であったろう。
   2010年、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で2万年前の旧石器時代の人骨が発見されたことは重要である。1万数千年より前の旧石器時代の人骨は10例ほどあるが港川人は約18000年前、 浜北人は14000年前で、今回が最古である。

  地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世と完新世に分けられる。戦前の考古学界では、更新世には日本列島にはまだ人類は住んでいなかったと考えられていた。ところが昭和24年、群馬県岩宿の関東ローム層の中から打製石器が発見され、それが契機となり、日本にも旧石器文化があると考えられるようになった。考古学の時期区分として、世界的には更新世に属する人類文化を旧石器文化と呼ぶ。ただし、後続する時代については、日本では「新石器時代」ではなく、「縄文時代」「弥生時代」というのが一般である。

  それはさておき、日本人のルーツに関してはまだ解明されない点が多い。日本人を含むモンゴロイドは古モンゴロイドと新モンゴロイドに分けられる。現代日本人には新モンゴロイド的特徴が色濃く認められるが、人類学的見地からは、日本人の基層は南方の古モンゴロイドであったと考えられている。最近のDNAの調査によると、縄文人と東南アジア人とのDNAの塩基配列を比較したところ、両者に共通の起源をもつ可能性が明らかとなった。南西諸島から旧石器時代の人骨が出土することは、考古学上の資料からも、日本人の南方起源が有力となってきたということである。1967年、沖縄県島尻郡志頭村港川の海岸に近い石切り場で人骨が発見された。この人骨は、約1万8000年前から1万7000年前のものと推定される。

 

 

ティファニーで朝食を

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   1993年のこの日、永遠の妖精オードリー・ヘプバーンが死去した。ヘプバーンの代表作は「ティファニーで朝食を」である。トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の初版が出たのは1958年の秋だった。それから3年後にオードリー・ヘプバーンで映画化され、主題曲「ムーン・リヴァー」と共に世界的に知られるようになったので小説よりも映画のイメージが強いことは否めない事実である。しかし原作のホリー・ゴライトリーという女性を読者の想像力に委ねるために、最近刊行された村上春樹の新訳では、本のカヴァーには映画のシーンなどを使っていないような配慮もされている。滝口直太郎の訳と一部分を比較してみただけの印象であるが、村上訳はこなれた平易な現代語でより読みやすくなっている感じがする。

   ホリー・ゴライトリーはニューヨークのアパートに、猫だけが同居のひとり暮らしをしている。彼女をとり巻くあまたの男性のうちには、映画人とか百万長者とかブラジルの外交官とかさまざまな人間がいたが、もともと籠の鳥になることを望まない野性の女ホリーは、自分の属する住所も持たず、名刺のアドレスには「旅行中」と印刷してある。時あたかも1940年代の初め、アメリカの社会は「いやな赤」の恐怖におののいている。ダイヤモンドなど大嫌いな彼女だが、ティファニーの宝石店にはよく足をはこぶ。そこのどっしりと落ちついた雰囲気の中に立った彼女は「いやな赤」の恐怖から救われ、いつの日にかはこのような所に住んで、「朝食」を取れるようになれればよいのにと思う。

   同じアパートに無名作家のポールが住んでいて、ホリーに好意を持つようになる。ある日、二人はセントラル・パークで乗馬を楽しんでいるとき、馬があばれ出して五番街にとび出し、やっと警察官にとりおさえてもらう。ところが、ホリーがマリファナを使っていることがばれ、麻薬密輸のギャングとかかわりがあるのではないかということになって大きなスキャンダルになる。これより前、ホリーは毎週木曜日にシング・シング刑務所に収容されていたギャングの幹部を訪問し、週100ドルの報酬をもらっていたことがバレる。このスキャンダルのおかげで、結婚の相手を夢見ていたブラジル外交官ホセに逃げられ、保釈中にもかかわらずブラジルにホセを追いかけて行く。

  映画ではオードリー・ヘプバーンがジョージ・ペパードと結ばれハッピー・エンドとなっているが、原作ではホリーはブラジルに渡り、さらにアフリカまで放浪の旅を続けることになっている。

    小説にはもちろん映画主題歌「ムーン・リヴァー」は登場しないが、ホリーがギターを爪びきながら歌う場面が一箇所ある。その歌詞を紹介する。(滝口直太郎訳)

   眠りたくもなし、

   死にたくもない、

   ただ旅して行きたいだけ、

   大空の牧場通って。

    村上の新訳では「眠りたくもない、死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」とある。(1月20日)

 

 

土田耕平「大寒小寒」

   「おおさむ こさむ 山から こぞうが とんでくる…」冬のさむい晩、三郎はおばあさんとこたつにあたっていた。大寒小寒の歌は、こんなさむい晩に、おばあさんが口くせのようにうたう歌だ。   「おばあさん。こぞうが、なぜ山からとんでくるの?」と三郎がきくと、おばあさんは、「山は、さむうなっても、こたつもなければお家もない。それでとんでくるのだろうよ」という。また三郎が「こぞうって、お寺のこぞうかい?」「山のこぞうは、木のまたから生れたから、ひとりぼっちだよ」「おばあさんもないの?」「ああ、ないよ」「それで、着物は着ているかい?」「おおかた、木の葉の着物だろうよ」   三郎には、頭を青くそりこくった赤はだしの山こぞうが、目に見えるように思われた。おおきくなって、三郎は東京で暮らすようになったが、毎年冬になると、大寒小寒の歌を思いだし、おばあさんを思いだすのであった。(土田耕平「大寒小寒」)。

本日は一年中で、最も寒い日と言われる「大寒」。大寒の句でよく知られるのは、「大寒の埃の如く死ぬる」(高浜虚子)、「大寒や転びて諸手つく悲しさ」(西東三鬼)あたりだろうか。

2020年1月19日 (日)

長崎は今日も雨だった

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   日本全国各地の地名をおり込んだ歌謡曲。「函館の女」「知床旅情」「津軽海峡冬景色」「港町ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「女ひとり」「柳ケ瀬ブルース」などなどご当地ソングが無数にある。日本列島最北端は原みつるとシャネル・ブルースの「稚内ブルース」か。今話題の明智光秀の生誕地、岐阜県可児市(かにし)。森昌子が「可児市音頭」(1982年)に歌っている。数でいえば東京や横浜ソングが多いが、なぜか長崎にヒット曲が多く、神戸はあまりヒットしないというジンクスが歌謡界にはある。長崎という町は旅人の心を酔わせる不思議な魔力がある。踏む足に柔らかな石畳の面に唐寺の甍に、そして古びた西洋館の蘇鉄をふるわす海風に沃しい異国の香りが漂う。そんなエキゾチックな魅力がある長崎は、戦前から流行歌の格好の歌所となった。由利あけみ「長崎物語」(昭和14年)、樋口静雄「長崎シャンソン」(昭和21年)、小畑実「長崎のザボン売り」(昭和23年)、藤山一郎「長崎の鐘」(昭和24年)と長崎物は必ずヒットするといわれた。昭和40年代に入り、魅惑のムード歌謡の時代もご当地ソングのナンバー・ワンは長崎だった。高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」(昭和43年)、青江三奈「長崎ブルース」(昭和43年)、そして内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」(昭和44年)の大ヒットへと続く。「長崎は今日も雨だった」も「思案橋ブルース」のヒットがなければ、世に知られることは無かったかもしれない。ところで思案橋とは歌のせいで、長崎の橋だけと思われがちであるが、もともと江戸が元祖で元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋が近くにあり、「行こうか戻ろうか」と思案したので思案橋という名がついたといわれている。

 

 ないているような 長崎の街

 雨に打たれて ながれた

 ふたつの心は かえらない

 かえらない 無情の雨よ

 ああ 長崎 思案橋ブルース

    ところで長崎で一番有名な橋は、やはり眼鏡橋だろう。石造2連アーチ橋と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えるところから、この名がついたのだろう。寛永11年に興福寺の住職・黙子如定禅師(1597-1657)が造ったものである。昭和57年7月の長崎大水害では崩壊したが、復旧された。画像は昭和40年代前半のもので、周辺マンションなどが建設される以前の眼鏡橋の景観がうかがえる。

 近年のご当地ソングの傾向は「五能線」(水森かおり)や「尾曳の渡し」(森山愛子)「只見線恋歌」(奥山えいじ)といったようにあまり知られていない地名が好まれるようである。五能線は秋田県能代駅と青森県川部駅を結ぶ日本海の絶景で人気のローカル線。尾曳の渡しは群馬県館林にある。只見線は福島県会津若松駅から新潟県小出駅を結ぶローカル線。尾瀬沼を水源とする全長約145㎞の只見川が知られる。

 

 

アイヌ人のルーツは縄文人か?

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      悪魔払い(ウニエンテ)の儀式

   自民党の麻生太郎が15日の講演会で、「2000年の長きにわたり、1つの民族、1つの王朝が続いている国は日本しかない」と発言している。翌日すぐに謝罪したものの、むかしから日本が単一民族国家と自慢する政治家はあとを絶たない。アイヌ民族が先住民であることは歴史的に明らかであり、また象徴天皇を一つの王朝と認識することも憲法の精神から不適切な表現である。日本人の形態や遺伝的性質から、アイヌ、本土日本人、琉球の3つの集団に分かれる。本土日本人つまりヤマト民族は渡来系の弥生民族であり、アイヌのルーツは縄文人と考えられる。アイヌ語は、大きくは北海道方言、樺太方言、千島方言とに分かれる。北海道の多くの地名や、トナカイ、ラッコ、オットセイ、シシャモなどの単語など、知らないうちに日本語になったアイヌ語も多い。アイヌ語は文字のない言語で、表記はローマ字やカタカナが使われる。文法面では、否定辞が動詞の前にくる以外は、日本語とほとんど語順が同じで、学びやすい言語の一つである。

 

 アッシ(着物)

 

 イコロ(お金)

 

 イトウ(神にささげる祭具)

 

 イヨマンテ(熊送り)

 

 ウタリ(仲間)

 

 カムイ(神)

 

 カムイワッカー(酒)

 

 キムンカムイ(ヒグマ)

 

 ク(弓)

 

 コタン(村)

 

 チセ(家)

 

 チャランケ(なんくせ)

 

 ヌブリ(山)

 

 ノンノ(花)

 

 ハボ(母)

 

 ピリカ(美しい)

 

 ベツ(川)

 

 ミナ(父)

 

 メノコ(女)

 

 ユーカラ(詩曲)

 

 ワッカー(水)

 

 

水師営の会見

   1905年1月5日、午前11時40分から旅順の水師営で第3軍司令官乃木希典とロシア軍の司令官ステッセルとの会談が行われた。5日前の1月1日、旅順の要塞が陥落し、3日には旅順の開城規約が本調印された。日本軍はこの戦闘に155日間を費やし、死傷者5万9000人という犠牲をはらっていた。両将軍はたがいの健闘をたたえ、乃木は、天皇からステッセルに武士としての面目と名誉を全うするようにとのことばがあったことを伝えた。ステッセルは、乃木の2人の子息が戦死したことに哀悼の意を表し、乃木は武士の家に生まれた者としてよい死に場所をえたと答え、たがいに胸襟を開いて語り合った。またステッセルから乃木将軍にピアノが贈られた。現在、金沢学院大学に「ステッセルのピアノ」として所蔵・保管されている。

やかんの湯気

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    蒸気機関を改良した技術者ジェームズ・ワットは1736年のこの日、スコットランド・グリーノックの大工の子として生まれる。1763年グラスゴーでのこと。家族そろってのティータイム。ワット家では、食卓のヤカンが沸騰している。息子がヤカンの口をふさぐと、沸騰した蒸気の力で蓋がカタカタと音をたててもちあがった。それをみんなが楽しそうに眺めていた。だがワットはふと「蒸気の力」に気づいた。その日からワットはニューコメン機関の改良に関心を抱くようになり、新しい蒸気機関を発明したという。このワットの有名な逸話は実は、作り話である。17世紀のウスター卿が炉の上の鉄瓶の蓋が湯気で持ち上がるのをみて、蒸気ポンプを作ったという逸話をワットにすりかえたものらしい。

   スコットランド南西部のグラスゴーは産業都市。「国富論」を著わした経済学者アダム・スミス(カコーディー出身)はグラスゴー大学で学び、ジェームズ・ワット(グリーノック出身)はグラスゴー大学で機械工作の仕事に従事していた。(James Watt,Adam Smith,Glasgow,Greenock,Kirkcaldy,1月19日)

明智光秀が謀反を起こした本当の動機は?

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

NHK大河「麒麟がくる」いよいよ本日スタートする。

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀(1526-1582)は本当は言っていない。頼山陽「日本外史」(1827)に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

 

 

 

 

2020年1月18日 (土)

日本人の祖先はバイカル湖周辺に住んでいた民族が移動した!?

Img_64816_10401509_0 全世界の人類72億人に、厳密にいって純粋種というものがないように、日本人もまた、混血によって成った雑種である。ただ、その雑種性が、日本列島で混血して成ったものか、どこからか来たものなのか、さまざまな説がある。日本人の幼児には臀部、腰部など皮膚に青色の斑点がみられる。これを蒙古斑と命名したのは、明治お雇い外国人として東京大学に招かれた医学者エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)である。蒙古斑は日本人には95%以上の割合で見られるが、中国人(漢民族)、韓国人には少ない。アジアでもタイ人などは「トゥック・ムック」(インクのケツという意)といって蒙古斑がでる子が半数近くいるらしい。ベルツは日本人の形質をみるうち、日本人はいろいろな民族が混血している新人種であると考えた。日本人混血説である。「日本人の体質」(邦訳なし)を著し、①アイヌ型②満洲・朝鮮型③マレー・モンゴル型の3種であるとした。このような日本民族の形成と起原に関しては戦前の皇国史観のなかではタブーであったが、戦後すぐに、江上波夫の騎馬民族説などの新説が現れた。日本人の支配者層をなす天皇家の祖先は、アジア大陸北方の騎馬民族が朝鮮半島に進出し、そこから九州を経て、大和にはいり、日本を統一したというのである。ソ連のピョートル・グズミッチ・コズロフが発見した北蒙古ノイン・ウラから紀元前後の匈奴の王・貴族の古墳が多数発見された。もちろんこの時代の匈奴(丁零、夫餘)はモンゴル人ではない。通常モンゴル人は7世紀からといわれる。ノイン・ウラの民族はアーリア系であると考えられる。だが日本人のルーツといえる文化をもっている。かつて仁徳・応神陵など前方後円墳は日本独自といわれたが、現在では韓国の全羅道地域でも前方後円墳が確認されている。ノイン・ウラからも多数の前方後円墳が発掘されている。近年、宝来聡教授は、Y染色体を研究した結果、約5万年前ころチベットに住んでいた人たちが中国・朝鮮を経由して日本列島にやってきたと説いている。(参考;江上波夫「国家の成立と騎馬民族」季刊東アジアの古代文化6、1975年、梅原末治「北蒙古ノイン・ウラの遺物」) 

 

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 天皇家の祖先が紀元前後いたと思われる故地

 

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応仁の乱 その概要

 1467年から1477年の11年間にわたり、関東以東および南九州を除く諸国の大小名が、細川勝元(東軍)と山名持豊(西軍)とに分かれ、京都を主戦場として戦った大乱。原因は室町将軍義政は奢侈を好み、政治は夫人の日野富子やその閥族、政所執事の伊勢貞親や禅僧李瓊真蘂らの寵権臣のなすがままに動かされていた。義政は管領の斯波、畠山両氏や大名家の家督相続争いの裁許にも厳正を欠き、ために領国内両分の武力抗争にまで発展していった。政治紊乱に乗じて土一揆が類発し、おりから連年の旱水害で続出した難民が京都に流入するなど、社会不安も増大して京畿は戦雲におおわれた。始まりは、1467年1月畠山義就が上御霊社の畠山正長を襲い、応仁の乱がおこる。その後、将軍家に継嗣問題がおこり、細川、山名をそれぞれ盟主とする両党が形成されて中央決戦となった。勝元は宗全追討を将軍義政に強請し、1468年6月8日に足利義視を総大将とする追討軍を編成したが、山名方も畠山義就軍が到来し、8月には長門の大内政広の大軍が入京したので勢いづいた。ここで勝元は後土御門天皇、後花岡上皇を迎えたが、義政が伊勢貞親を召したのに動揺した義視が出奔してしまった。かくて9月から山名方の将軍家奪還の戦いとな、10月に相国寺の激戦がおこった。これが互角に終わり、応仁の乱は長期戦化する。1473年、持豊、勝元が相次いで死去するに及んで京都の戦火は下火となり、斯波義廉がまず領国に帰ったのをきっかけとして、諸守護大名は単独にに講和して帰国するものも現れた。1477年11月、大内政弘が義政に懐柔されて右京太夫に任ぜられ所領を安堵されて帰国するにおよんで中央の戦争は終幕を告げた。この乱の結果、室町幕府は完全に無力を暴露し、もはや全国的政権の実を失うことになる。また多くの守護大名たちも戦国の争乱の中で滅んでいった。

 

 

 

 

 

厄神詣で

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多井畑厄神(神戸市須磨区)毎年1月18日から1月20日まで行われる厄除け祭には多くの参拝者で賑わう

    男42歳、女33歳の大厄を初め、その他の厄年にあたった人が、厄難をまぬかれるために厄払いをする。厄払いにもいろいろ方法がある。家を出て身につけたものをわざと途中で落とし、顧みず、乞食などに拾わせる。褌を落としてくるふぐりおとし。年の数だけの銭を包む厄払いの包み銭など。厄神参り、厄神詣でと呼ばれるものもある。

   「やあらめでたや、こなたの御寿命申さば、鶴は千年、亀は万年、浦島太郎が八千歳、東方朔が九千歳、三浦の大介百六つ。かかるめでたき折柄に、いかなる悪魔が来るとも、西の海へさらり」などという。

2020年1月17日 (金)

尾崎紅葉「金色夜叉」

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    かつて1月17日は「金色夜叉」熱海の海岸だった。やがてその日は山口百恵の誕生日に代わり、平成7年以降からは阪神大震災の日になった。「明治は遠くなりにけり」である。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

Photo_2   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。

 

 

2020年1月16日 (木)

永井荷風再考

 BSプレミアム「偉人たちの健康診断」耽美派の永井荷風をみる。 荷風は若い頃から腹痛に悩まされていた。日記「断腸亭日乗」は花の名前に由来するが、過敏性腸症候群にも関係するらしい。ゲストの関根、井森、竹山らが荷風文学を一度も読んでいないようで、作品や文体にはほとんどふれないところがお気楽な番組だ。大金を残して孤独死するのは悲しい。空襲で家が焼かれたこともあるが、再婚して身の回りを世話する人がいれば、吐血したときも応急手当ができて、死期をのばせたかもしれない。谷崎や志賀よりも先輩だが、文学的な評価は高い。荷風の係累を調べる。三島由紀夫の祖母の夏子は、永井岩之丞の長女で、三河出身の永井尚志(1816-1891)の孫。(岩之丞は養子) 夏子は内務官僚の平岡定太郎(1863-1942)に嫁ぐ。子が平岡梓、孫が三島由紀夫。一方、永井荷風の父、永井久一郎(1852-1913)も内務官僚で、祖父・永井匡威(まさたけ)は尾張藩士。ともに尾張藩永井家の血脈をつぐ親戚筋にあたる。荷風との仲は一般に悪かったといわれるが、漢学の教養や父の愛した漢詩を床の間に飾っていることをみると実は父を尊敬していたのではないだろうか。

 

 

オクタヴィアヌス

Scaugustus

紀元前27年のこの日、ローマ政界一の実力者ガイウス・オクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥス(尊厳者)の尊称を受けた。この結果、オクタヴィアヌスが軍隊の駐屯が必要とされる属州の大半を統治することになり、事実上の専制君主、初代皇帝となり、ローマ帝政が開始されることになる。(1月16日、Augustus)

 

 

 

 

 

 

2020年1月15日 (水)

前九年の役

平安中期、陸奥の豪族安倍氏は俘囚の長として絶大な勢力をもち、頼時の時には、北上川流域の6郡を領有して、貢租・徭役を拒んで国司に従わなかった。永承年中、陸奥守藤原登任は頼時を攻めたが、かえって敗退した。そこで朝廷は1051年、前相模守源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任命し、安倍氏の制圧に当たらせた。頼時は頼義の在任5年間は帰順したが、1056年任期終了のときに至って反旗を翻したので、朝廷は頼義を重任して征伐させた。頼義はそこで俘囚の懐柔をはかり、頼時の一族安倍富忠を味方につけて1057年頼時を鳥海柵で敗死させた。しかし余党の反抗はやまず、同年11月河崎柵での戦いには、頼時の子貞任・宗任らに完敗し、頼義の子義家はかろうじて重囲を逃れた。しかも貞任らは諸郡に横行し官物を徴集したが、頼義はこれを制止できなかった。こうして1061年、頼義の再度の任期も終わったので、朝廷は高階経重を陸奥守に任じたが、在地民が頼義に従い経重の指揮を受けなかったため、経重はむなしく帰京し頼義が引き続き事に当たった。頼義は武力強化のため出羽の俘囚長清原光則および弟武則の援兵をこい、これに応じた武則とともに、翌年8月から9月にかけて貞任・宗任らを小松柵・衣川柵・鳥海柵に破り、9月中旬厨川でついに貞任およびその一族を殺した。その翌年2月には貞任らの首級を京都へ送った。朝廷は頼義の功を賞して伊予守に任命し、義家は出羽守に叙せられた。

ブラック・ダリア殺人切断事件

C54e9a92c3d68f785bcee2d660aaa030     戦争中の殺人事件の増加や、簡単に人を殺す風潮は、多くの人間が戦地で死んでいく状況で生命の価値が軽視されていたことと強く結びついている。戦争によって人間性を踏みにじられた軍人たちが、どのような精神状況で終戦直後を生き抜いたか知ることはなかなかできない。世界的にみても終戦直後の数年は犯罪は、暴力犯罪は55%、性犯罪はほぼ40%も増加した。日本においても金田一耕助シリーズの小説にみえる猟奇的な犯罪が多く終戦直後という時代設定にしているという事も無関係といえない。

   1947年1月15日、ロサンゼルスで起きたエリザベス・ショート(1924-1947)という若い女性の迷宮入りとなった悲惨な殺人事件がよく知られている。女優志望の被害者エリザベスは売春婦・ウェイトレスなどをして稼いでいたが、いつも黒い下着を身につけていたことから、ブラック・ダリアと呼ばれている。女性の死体はウエストの下で2つに切断されていた。片方の大腿には「BV」の文字が刃物で刻まれており、一方の乳房は半ば切り取られ、口の両端は頬まで深く切り裂かれていた。そして死体からは、明らかに血液が抜かれていた。このアメリカ犯罪史上、最も有名な猟奇殺人では40人あまりの嘘の自白があった。この事件では、男性だけではなく女性からも自首してきて、虚偽の自白をした。彼女たちの告白には、べスが自分の男を盗んだので殺したというものが多かったが、自分を捨ててほかの女のもとに走ったので殺したと言った女性もいた。結局、事件から70年近くが経つが真犯人は判らず、迷宮入りとなってしまった(Black Dahlia,Elizabeth Short)

2020年1月14日 (火)

ボギーあんたの時代はよかった

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  ハンフリー・ボガート(1899-1957)は死後半世紀以上がたつが男のダンディズムの象徴になっている。だが彼の初期の出演作29本のうち半分は殺されるか死刑になる役だった。共演者といえば、ジェームズ・ギャグニー、エドワード・G・ロビンソン、ジョージ・ラフトといったギャングスターばかり。恐いという印象がある。ところが実際のボガートは「とても傷つきやすく、穏やかな人だった。そして嘘と名のつくものはすべて嫌った」とローレン・バコールはいう。「マルタの鷹」(1941年)の探偵サム・スペード役で大スターとなった。3度離婚し、最後の妻はローレン・バコール。1957年1月14日、咽喉ガンで死去。

 

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  ハードボイルド映画で花をそえたヒロインたち。ベティ・デイビス(化石の森、札つき女、倒れるまで、愛の勝利)、シルビア・シドニー(デッド・エンド)、ジョーン・ブロンデル(身代わり花形)、プリシラ・レーン(彼奴は顔役だ)、メアリー・アスター(マルタの鷹)、アイダ・ルピノ(ハイ・シエラ)、イングリッド・バーグマン(カサブランカ)、ローレン・バコール(脱出、三つ数えろ、潜行者、キーラーゴ)、バーバラ・スタンウィック(第二の妻)、キャサリン・ヘプバーン(アフリカの女王)、ジェニファー・ジョーンズ(悪魔をやっつけろ)、エヴァ・ガードナー(裸足の伯爵夫人)、オードリー・ヘプバーン(麗しのサブリナ)。

 

 

「ドミニク」男女共用名前

 70年代活躍したドミニク・サンダという美人女優がいた。そのためドミニクは女性に使われる名と思っていたら、一般には男性のほうが多い。フランスの画家アングルはドミニク・アングルである。英国俳優ドミニク・クーパー、ドミニク・モナハンなど。フランスでは女性名は男性名に「e」をつける。例えばシモン(Simon)はシモーヌ(Simone)。ドミニクはDominiqeともとからe がついているので男女同形である。 

西洋には男女かかわらず使える名は多くないが、日本では男女関係なく使える名は多い。大相撲の若の里の下の名前は「忍(しのぶ)」である。耐え忍ぶ若の里にピッタリの名。女優の中山忍のように「しのぶ」は女性名にも多く使われている。忍、薫、千秋、千里、泉、静香、恵、潤、歩、飛鳥、晴美などは男女に関係なく使える名前である。近年、男女共用名前、ユニセックスな名前は増える傾向にある。

小山内薫と八千草薫

山川千秋と鎌倉千秋

大江千里と海原千里

柳田泉と森泉

亀井静香と荒川静香

若草恵と横須賀恵

松本潤と長谷川潤

加藤歩と伊藤歩

片岡飛鳥と斎藤飛鳥

曽根晴美と井上晴美

 

 

 

 

 

 

額田大王

万葉集初期の女流歌人。鏡王の娘で、はじめ大海人皇子の愛を受けて十市皇女を産んだが、のちに天智天皇に愛されて近江大津宮に仕えた。壬申の乱後は、大和遷都に伴って大和に帰り住んだらしい。有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」は661年1月14日の作。大意は「伊予の熟田津で、舟遊びをしよう、と月の出を待っているうちに、月も昇り、潮もいい加減になってきた。さあもう漕いで出ようよ。」

 

2020年1月13日 (月)

源頼朝没す

  1199年のこの日、源頼朝死去す。享年51歳。前年12月27日の相模川橋供養の際に落馬したのが原因といわれている。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主役・北条義時は小栗旬が演じるが、頼朝は未定である。これまで大河ドラマでは過去6人が頼朝を演じている。「源義経」(1966年)は芥川也寸志、「新平家物語」(1972年)は高橋幸治、「草燃える」(1979年)は石坂浩二、「炎立つ」(1993年)は長塚京三、「義経」(2005年)は中井貴一、「平清盛」(2012年)は岡田将生がそれぞれ演じた。頼朝の容貌は「顔大ニシテ、たけ低く、容貌花美ニシテ、景体優美也」(源平盛衰記)とみえる。大河では痩身タイプが多い。現代の日本社会でも、武士の評価は高く、政治家や企業経営者のなかには、前近代の武将に、その模範を見出す人が多く、お手本となる人物である。しかしながら政略家で、また容赦なく弟の義経を殺そうとしたりして、狡猾・陰険なイメージがあるため、いまイチ人気は高くない。(1月13日)

 

 

2020年1月12日 (日)

団塊の世代、コーホートとしての特徴

001123454  本日は作家の村上春樹、71歳の誕生日である。「cohort(コーホート)」とは、おもに同じ年次または同じ期間に生まれた人口をいう。わが国では、1947年から1949年の間に生まれた第一次ベビーブーム世代のことを指すコーホート「団塊の世代」がよく知られる。初めての戦争体験を持たない世代であるから、戦後の新しい価値観の下で育ち、「受験戦争」「グループサウンド」「全共闘」「ニューファミリー」など文化・風俗面で特徴ある社会現象が生まれた。毎年ノーベル賞の時期になると名前がでてくる作家・村上春樹(1949年生まれ)は団塊の世代である。現在、67歳から65歳、会社を退職した人も多かろうが、政治面では活躍する年代である。しかし、団塊の世代で将来、日本のリーダーとなる人材はなかなか見当たらない。安倍政権発足当初、記者のインタビューに「団塊世代には人材がいない。団塊世代を飛び越して世代交代は進む」と答えた。近年の首相の生れ年を記すと次のようになる。

小泉純一郎    1942年
安倍晋三   1954年
福田康夫   1936年
麻生太郎   1940年
鳩山由紀夫    1947年
菅直人     1946年
野田佳彦   1957年
安倍晋三   1954年

団塊の世代で首相になれたのは鳩山だけ。意外かもしれないが、次の菅は1946年生れであって、団塊の世代には含まれていない。団塊の世代の時代はもう過ぎ去ってしまった。

2020年1月11日 (土)

敵に塩を送る

   1569年のこの日(新暦1月27日)、上杉謙信が、塩不足に悩む交戦中の武田信玄に塩を送ったとされる。この故事にちなみ本日を「塩の日」としている。

   甲斐の国は、海に面していないので、塩を作ることができなかった。塩は交易によって他国から購入するしかなかった。そこで今川氏真と北条氏康は共謀して甲斐への塩の輸送を断つ「塩留(しおどめ)」を行った。これを聞いた上杉謙信は今川・北条の行為は卑怯だとして、宿敵信玄に義塩を送ったという。この話は、江戸時代の学者、頼山陽によって有名となった「敵に塩を送る」だが、実際に行われたかどうかは定かではない。塩留は現在の経済制裁によく似ている。(1月11日)

 

 

2020年1月10日 (金)

賽は投げられた

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   西洋歴史にまつわる格言や名文句の類が歌謡曲の歌詞で引用されることはほとんどない。阿久悠の作詞「ジョニィへの伝言」二番目の歌詞で「サイは投げられた」と使われている。紀元前49年1月10日、カエサルはローマの属州ガリア・チザルピナと都ローマの境のルビコン川まで来た。ここで軍を率いて川を渡ると必ず市民戦争になる。だがカエサルは目的達成を前にひるむような男ではない。プルタルコスによると、カエサルはギリシャの詩人メナンドロスの言葉を引用した。Anerriphtho kybos (賽は高く投げられた) これをラテン語に翻訳して、アーレア・ヤクタ・エスト Alea iacta est.とプルタルコスは書いている。「賽は投げられた」という言葉はどんな結果になるかわからないが冒険に目をつぶって飛び込むようなときに、よく使われることわざとなった。(Caesar,Rubicon) 世界史こぼれ話

2020年1月 9日 (木)

内村鑑三不敬事件

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   近代日本思想におけるウッチャン、ナンチャン、そしてマルチャンとは、内村鑑三、南原繁、丸山真男。明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。

   しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2020年1月 8日 (水)

気になる老婆

   日本映画チャンネル「九十九本目の生娘」を見る。新東宝の1959年の作品。妖刀を鍛えるために処女の生き血を捧げるという猟奇的な因習の残る山村を舞台に部落民と菅原文太ら警察との闘いが見せ場。だが事実上の主役は、娘を浚うお歯黒の老婆の怪演が印象的である。演じるは原泉かと思ったが、クレジットで五月藤江と確認。

 

平成スタートの日

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   1989年1月7日、足掛け64年にわたった「昭和」が幕を閉じた。昭和天皇は87歳と8ヵ月のご生涯だった。翌日から新しい元号「平成」がスタートした。この年、亡くなった方々には著名人が多い。2月9日に漫画家の手塚治虫、4月27日に松下幸之助、6月24日に歌手の美空ひばりが他界し、まさしく昭和の終焉を感じさせた。この年はまだバブル景気といわれた後半の時期にあたる。消費者は高額商品を買うこと、「生活の豊かさ」を感じ、海外の高級ブランド品や高機能の家電製品を買いあさった。しかし1990年をピークに景気は下降し、バブルは崩壊し、長い平成不況が続く。俳優の平泉征は、このころ芸名を「平泉成」と改名した。すると脇役として次々が舞い込み、「平成」期になって売れ出した。(1月8日)

 

 

2020年1月 7日 (火)

七草がゆ

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    きょうは七草粥。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、すずな、すずしろ、春の七草を刻んで食べる。万病を除くおまじないであるが、おせち料理で疲れた胃を休める効能もある。泉隆寺(神戸市中央区)は古来から水はけが良く、良質の大根を産出してきたらしい。起源は中国で、毎年1月7日に7種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが平安時代中期頃に日本に伝わり七草がゆが生まれた。醍醐天皇のときにこの地で栽培した若菜(七草のすずしろ=大根)を宮中へ献上したのが由来となって、若菜をそえて、食する習わしが広まった。別名「若菜寺」と呼ばれる泉隆寺では、いまでも七草がゆ法要が行われている。

2020年1月 6日 (月)

良寛忌

    良寛は竹が好きだった。ある年のこと、庵の床下の地面に一本の竹の子が芽を出し、すくすくと育って床板に届くようになった。それを見つけた良寛は、すぐに床板を外して、成長していく竹の子を楽しんで見守っていた。やがてそれが天井を突くまでに伸びると、今度は天井板を破り、屋根まで壊して竹の成長を妨げないようにしてやった。雨が漏っても平気なものである。雪が吹き込む季節を迎えても、それを風流と受けとめて、庵に坐しながら、「大きくなった、大きくなった」と竹を愛で、夜には星をあおいで暮らしたという。(1月6日)

箱根八里

  瀧廉太郎が作曲した有名な唱歌「箱根八里」の一番の歌詞に「一夫関に当たるや、萬夫も開くなし」(作詞者は鳥居忱)とある。大意は、箱根の山は難所で一人が守備にあたれば万人が攻めてもこれをうちやぶることができないということ。一般に李白の「蜀道難」の「一関に当たれば、万夫も開く莫し」からの引用と説く本が多い。元ネタは李白よりも数百年前の左思(3世紀の人)の「蜀都賦」の「一人守隘、萬夫莫向」である。『文選』に所収されている。

 

時は金なり

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時は金なり

Time is money.

 

人とメロンは中味がわからぬ

 

Men and melons are hard to know.

 

生きんがために食え、されど食わんがために生くるなかれ

 

Eat to live,and not live to eat.

 

天は自ら助くる者を助く

 

Heaven helps those who help themselves.

 

早寝、早起きは、人を健康にし、金持ちにし、そして賢くする

 

Early to bed and early to rise,makes a man healthy,wealthy,and wise.

 

    いちばん有名なのは「時は金なり」だろう。すべてがフランクリンの創作というわけではないが、古いことわざにも彼の工夫が入っている。「時は金なり」の語源は複雑である。原典ははっきりとしないが、起源はかなり古く、ギリシアの哲学者ディオゲネスの文献に「時は人間が消費しうるものの中で最も貴重なものである」というのがあり、ローマの詩人ホラティウスは「その日を生きること」と言っている。そしてラテン語になって「時は高い出費」となる。16世紀フランスの作家ラブレーの文献にも見える。アメリカで最初に金言として使用したのはフランクリンだろう。フランクリンがカレンダーを出版し、勤勉に仕事にはげむことの大切さを簡潔な言葉に表したものとして、その功利精神がアメリカ人に広く受け入れられた。フランクリンの小論文「若き商人への手紙」(1748年)に次のようにみえる。「憶えておくこと。時は金なり」 (Remember,that Time is Money,1月6日)

 

 

 

 

2020年1月 5日 (日)

世界最初の王ファラオ、ルーガル、皇帝

   盤古が天地を分けしより、三皇五帝夏商の君、周朝、紂を伐ち天下を興し、代々相承ぐ八百年の春・・・・」これは元・明に流行した「三国志」歴史講談の冒頭である。中国人の歴史は、必ず「三皇五帝夏殷周」とするのがお決まりである。始皇帝が定めた「皇帝」という尊号には、その功と徳が古代の三皇五帝よりも大であるという意味が含まれていた。だが三皇五帝に誰を数え上げるかについては、諸説あり、それゆえに、個々の人名よりも数字の枠組みに意味があるとする。三皇五帝で、どの説にも必ず入っているのは、黄帝、堯、舜である。しかしこれらは伝説上の帝王で、夏朝の実在も立証されていないので、中国古代文明の帝王の存在は、いまのところ紀元前1400年頃とみてよい。

 

Lugalkisalsi  中国に比べて、エジプトやメソポタミアでは、大河流域での大規模灌漑文明が誕生し、中央集権的王の出現も早かった。古代エジプトの君主の称号は「ファラオ」といい、ナルメルとする説やメネスとする説がある。紀元前3100年頃のエジプト・ティニスに都したナルメル王は上下エジプトを統一した。彼は半ばメンフィスの神話上の建設者メネスと同一視される。ファラオは元来エジプト語で「大きな家」per(家)-O(大きな)を意味する語から由来するもりであるが、新王国以後は「神の化身」として用いられた。メソポタミアではシュメール人の都市の支配者はエン(主人)と呼ばれ、神殿の大祭司を兼ねていた。それが軍事力をもち世俗的王となり、「ルーガル」と呼ばれた。最初のルーガルは、キシュのメバラゲシ(前2700年頃)といわれる。次にウンマのルガルザゲシ(画像、前2380年)が現れる。最終的にメソポタミアを統一したのは異民族のアッカドのサルゴン1世(前2350年)である。世界史、lugalkisalsi、ルガルキサルシ。

 

 

 

 

松井須磨子の墓

E4c141eac3fb65f390685e698c14687e    東京都新宿区弁天町の多聞院に大正時代に一世を風靡した新劇女優松井須磨子の墓がある。長野県清野村に生れた須磨子は17歳で上京。1908年坪内逍遥が主宰する文芸協会演劇研究所第1期生になる。1913年、演出家島村抱月と芸術座を旗揚げし、トルストイ原作の「復活」のカチューチャ役が当たり人気女優になる。「カチューシャの唄」も大ヒットし、日本の流行歌第1号といわれる。しかし、1918年抱月はスペイン風邪のため急死すると、2ヵ月後の1月5日に後を追って自殺した。その遺書には抱月と同じ墓に埋めてほしいと書かれていたが、はたされなかった。

2020年1月 4日 (土)

チンボラソ山

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  高さだけが山の魅力の尺度ではない。南米エクアドルにチンボラソ山(標高6267m)がある。もちろん世界最高峰はエベレスト(標高8848m)だが、18世紀まではチンボラソが世界一高い山と考えられていた。アレキサンダ・フォン・フンボルト(1769-1859)とエメ・ボンプラン(1773-1858)の2人は1799年から1804年にかけて南米へ学術探検をおこなった。オリノコ川の探検を終えて、チンボラソを登った。2人は頂上から450mのところまでは行ったが、割れ目があって渡れず、そこから引きかえした。しかし、5875m地点まで登ったというのは、当時の最高記録だった。その後も長い間、登山家たちを寄せつけなかった。初登頂は1880年1月4日、スイス・アルプスのマッターホルンの初登頂者として有名なイギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)である。(Chimborazo,Ecuador)

2020年1月 3日 (金)

鴎外、漱石の墓

    明治29年1月3日、根岸の子規庵で俳句会が催された。第1回には夏目漱石、内藤鳴雪、高浜虚子、五百木瓢亭、河東可全、第2回には森鴎外、河東碧梧桐らが加わった。つまり子規、漱石、鴎外の3人が揃ったのはこの時だけであろう。記録によれば、漱石と鴎外が会ったのはこれが初めてであり、両者は互いに言葉をかわすことはなかったという。実際に5歳の年の差があり、漱石が作家となったのも鴎外の存在があったからであるという江藤淳の指摘がある。表面冷ややかで無関心を装い、鴎外と漱石の親しい交友は生まれなかったがお互いに敬意を抱いていたと思われる。

 

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三鷹禅林寺 鷗外墓 隣に後妻の志げ子の墓がある

 

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 雑司ヶ谷霊園 漱石、鏡子、ひな子(五女)

2020年1月 2日 (木)

セゴビア城とイサベル1世

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セゴビアの城

  カスティーリャ王国エンリケ4世が1474年、亡くなると異母妹のイサベル1世(1451-1504)がセゴビア城(アルカサス・デ・セゴビア)で即位した。イサベルはアラゴン王フェルナンドと結婚して、1479年には両国が統一してスペインが誕生した。1492年1月2日、グラナダが陥落しナスル朝が滅亡、国土回復運動(レコンキスタ)は終わり、同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていった。セゴビア城は1862年に罹災した。この時の罹災がどの程度であったかは分からないが、本体は石造なので木造建築のように全焼することはなかっただろう。1862年から再建に取り掛かり、ようやく完成したのが現在の姿である。

初夢に見ると縁起が良いとされる七福神と富士山

 昔から初夢で1年の吉凶を占う風習がある。一般には正月2日の夜の夢が初夢とされている。室町時代から良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「永き世の遠い眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。また古来から目出度い夢の順序をいったものに「一富士、二鷹、三茄子」が夢に現れれば吉兆とされているが、科学的な根拠はない。その由来についても諸説ある。「一富士二鷹三茄子四扇五煙草六座頭」で駿河国の名物をうたったものだという説がある。また曽我兄弟の富士の裾野の仇討ち、鷹の羽根のぶっちがいを紋所とする赤穂浪士の仇討ち、荒木又右エ門の伊賀上野の仇討ちを暗示しているという説もある。近頃の説では、「一富士」は「不死」に通じ、「二鷹」は「高・貴」に通じ出世栄達、「三茄子」は「成す」に通じ子孫繁栄を読み取り、人間の三大欲望が叶えられる吉兆としての初夢縁起とするものである。

   「四扇」は末広がりで、財産や子孫繁栄を示す。「五煙草」は煙がたち昇ることから、出世、栄達を示している。「六座頭」とは、むかし僧の姿をした盲目の人のことで、盲目の人の目が開く瞬間を見られるのは幸運とされたからである。俗説には坊主は、毛がない、つまり「怪我ない」に通じるとも。また、単純に、富士は日本一の山であり、鷹は強い鳥、茄子は物事が「成す」にひっかけたものという説もある。ちなみに、このあと四は葬式、五は火事という説もある。一見、縁起が悪そうだが、夢で出会えば、実人生では出会わない、と解釈されている。(参考:「3秒に1回驚く雑学の本」、1月2日)

 

 

 

 

2020年1月 1日 (水)

わびさびと「MESSY」

   大晦日、年越しそばを食べている頃、テレビの紅白から歌が流れていた。星野源が最近オープンしたばかりの渋谷スカイの屋上で新曲「Same Thing」を披露している。全編英語でテロップも訳詞がないので正確な意味は自分にはわからない。「Wabi sabi Make it messy」。「わびさび」とは「もの静かなふかいおもむき」のことで日本精神にも通じるもの。「messy」とは「取り散らかす」「整然としていない」「乱雑な」という意味で、相反する言葉だ。「雨が降ったって日の光がさしていたって僕にはどっちでもいいのさ」という、まるで禅哲学の悟りのような深い内容の意味らしい。J-POPもいつまでも欲望の資本主義や利潤を追求するばかりでなく、日本文化や音楽を世界にむかって発信しようとする意図が感じられ、愉快に思った。

 

 

初心忘るべからず

    一年の始めの月を象徴するにふさわしい色は、何といっても白だろう。真っ白な雪、お供えやお雑煮の餅、社に詣でると魔除けのための白い色。「清浄」、「真っ白な心」、「純粋な心」、「素朴」、「初心」どれもいい言葉だ。そして「初心忘るべからず」という言葉を連想する。

   広辞苑をみると「学び始めた当時の気持ちを忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意」とある。つまり、ある程度、技量がついて自信をもち始めた時期が「慢心」という陥穽にはまる時期であり、この時期こそ「初心を」といさめているのである。

   出典は、世阿弥の「当流に、万能一徳の一句あり。初心忘るべからず」(『花鏡』)である。世阿弥(1363-1443)は観阿弥の子で足利義満に認められて、以後その支援をえて、二条良基ら当代一流の文化人との交流をつうじて芸道・学問に精進し、名声をたかめ、乞食の所行とさげすまれてきた猿楽を室町時代を代表する芸能にまで押し上げることに貢献した。生まれたままの心で、初心を忘れず、自然に感謝し、小さい一草一花の美しさに新鮮な喜びを感じたいものである。(1月1日)

 

 

正月から早々に死ぬことについて

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    昨夜の紅白で竹内まりやが「いのち歌」を歌っていた。教科書に載っていたり、学校の合唱曲としてとても有名な曲だそうだ。たしかに生まれてきたことに感謝する内容でわかりやすく若い人に向いている。だが万人向きではない。老人会で披露すると少し年寄りにはキツイ歌詞がある。「いつかは誰でもこの星にさよならをする時が来るけれど命は継がれていく」。つまりあなたは死ぬが子孫がいるじゃないか、ということ。良い歌とは婉曲的で詩的な余韻があるものだ。人がいつか死ぬのは当たり前のことだが、合唱で大勢の人からいわれたくないものである。ひっそりと静かに死にたい。さしずめ竹内まりやは現代の一休だろう。

   一休和尚は正月早々、竹棒の先にされこうべをさすと、洛中へと歩き出した。町中に入ると、家々の門の口にこの髑髏を差し出して、「御用心、御用心」といいながら、歩きまわる。正月気分で祝っているところへ、髑髏であるからたまったものではない。どの家も門を閉ざしてしまった。

   一休いわく「この髑髏よりめでたいものはない。目が出て、穴ばかりが残ったのを目出たしという。人間、死んでこの髑髏にならねば、めでたいことはひとつもない」一休、歌っていわく。

 門松は 冥途の旅の 一里塚

    めでたくもあり めでたくもなし

 (参考:『禅門逸話選』 禅文化研究所)

年賀状の由来

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   郵便も やや遠のきし 六日かな (蘭聚)

 正月の楽しみは年賀状だろう。江戸時代には武家も町人も、年始回りで、新年の挨拶をした。江戸城には元日早朝から、将軍家に挨拶する人たちがぞくぞくと集まってきた。町人も得意先や近所に年始回り。職人は親方のところへ、子供も寺子屋のお師匠さんに挨拶に行った。ただ、年始回りに行ったが、先生も年始回りに行って留守だった、とか、あまりに年始客が多すぎていちいち顔を出していられない、という場合もあった。そういうときは、玄関に置いてある帳面に名前を書いて帰った。それでも、先生の家が遠方だったりして、どうしても回りきれないところが出てくる。そのため、松の内が終わってから、年賀状を書いて飛脚に託したり、お使いの人に持って行かせたりした。

   明治になっても、年始回りの習慣は続いた。ただ、社会的にも個人的にも人々の交際範囲は広がり、松の内の年始回りでは追いつかなくなった。いきおい、年賀状ですませるのだが、その時期に日本にも普及しだした郵便制度である。明治6年、郵便葉書の発行により、はがきで年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。もちろん、このころは年が明けてから書いた。ところが、知恵者がいて、正月に配達する年賀状を暮れのうちから受けつけたらどうだろう、と思いついた。明治32年、年賀郵便特別取扱制度ができた。明治38年には全国どこの郵便局でも前年のうちに年賀状を受け付けることになった。(1月1日)

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