NHKザ・プロファイラー「劉邦」。漢王朝を開いた劉邦は、40歳までは酒と女性が大好きな「ダメおやじ」。だが民衆に圧制をしいた秦の打倒に立ち上がる。ライバルは楚の名将軍の孫で24歳の項羽。圧倒的武力で道を切り開いた項羽と、人を信じ人に愛された劉邦。劉邦は何度も項羽に敗れながらも、最後には勝利し、皇帝となって「漢」を一代で築いた。人生の半ばすぎから一発逆転に成功した、劉邦の秘訣を探る。
項羽(前232-前202)は姓は項、名が籍、字が羽。つまり正式な名前は項籍であるが、一般に項羽と記されることが多い。 項羽は秦王政15年(前232年)、楚の下相(かしょう)、現在の江蘇省宿遷に生まれた。羽(う)とは、字(あざな)、つまり呼び名である。項氏は、代々楚の将軍をつとめる名門の家柄で、項(河南省項域)に封ぜられて食邑を得たために、項をその姓にしたといわれる。項羽の末の叔父に項梁がいて、項梁の父すなわち項羽の祖父は、楚の名称項燕である。項羽は幼くして孤児となり、項梁に養われた。項羽の父・母の名前を調べたがわからなかった。 2014年放送のNHK「古代中国よみがえる伝説 項羽と劉邦~王者の条件」では、項羽の子孫が現在もおり、項羽は項家の29代目となるが、両親の名前は明らかではなかった。
漢高祖劉邦(前247-前195)、姓は劉、名は邦、字は季。実は、生まれた年が分からない。死んだ年は史書に記されている(紀元前195年6月1日)。「漢高祖12年(前195)4月、黥布(:げいふ)を撃ったときの傷がもとで病み、長楽宮で崩ず」とある。ただし卒年が62歳、60歳、あるいは53歳などがあり、逆算すると生年は前256、前249、前247年となる。いずれにせよ、劉邦のほうが項羽より年長であったことは間違いない。 本籍だけは沛郡豊県中陽里(江蘇省徐州市沛県)と、やけに詳しく記されている。
劉邦の家はごく平均的な農民であった。父は劉太公、母は劉媼。彼には、長兄に劉伯、次兄に劉喜、異母弟に劉交がいる。劉邦は末っ子で劉季(りゅうき)、つまり「劉の末っ子」と呼ばれていた。
ところで劉邦の家族の名前をみると「父の名は父親といい、母の名は劉氏の老母という」という程度の意味である。漢の創業者である劉邦の家系のことは司馬遷の時代にすでにほとんどわからなかった。
劉邦自身の名である「邦」というのも、もっともらしい名がつけられているが、それほどの意味がある文字でない。劉邦の字は「李」(末っ子)というのだが、ある人は李が本名で、邦というのは皇帝になってからつけられた名前だという説もある。なぜなら史記、漢書には劉邦という記録はない。後漢の荀悦の「漢紀」に「劉邦」の名前がはじめて記されている。ともかく劉邦の出自は微賤なものであったからその名も知れず、だから史記漢書の著者はよんどころなく太公、劉媼などと記したのである。しかし近年の説では、曽祖父は劉清、祖父は劉仁浩といい、豊城の西北6㎞の地、金劉塞村に古碑があり、裕福な農夫だったことがわかった。従って史書に両親の名がないのは、忌諱に触れるのを憚ってあえて記録しなかったと考えられている。
劉邦の容貌は生まれつき隆準(鼻が高い)で竜顔、あごひげほおひげが美しく、左の股に72の黒子があったという。72という数字は9と8かけたもので、九は天の数、八は地の数とされるから、天地の徳をあわせもった人、すなわち天子たるべき人であることを示したもので、五行思想にもとづいて後世に付け加えられた話であろう。「古代中国よみがえる伝説」では劉邦は4人兄弟の末っ子とあるが、3男であろう。また江蘇省豊県の「劉清之墓」遺跡は観光地を目的に近年整備されたもので考古学的な裏付けがあるようには見えない。
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