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2019年11月 6日 (水)

桂離宮と八条宮智仁親王

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    桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮というのは豊臣秀吉が一時智仁親王を猶子に迎えたが、淀の方に鶴松が生まれたので養子わとりやめ、親王のために創立した宮家であった。八条宮智仁親王は幼少の頃よりすぐれた文才があり、早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。

  桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。なおタウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、現在の研究では小堀遠州が直接関わったことはないとされている。

 

 

 

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