カンボジア略史
UNIT1.概観
カンボジア(Canbodia)は紀元前後からメコン、トンレサップ両川流域にクメール族によって古代文化が開いた地域である。宗教はクメール王朝時代はヒンドゥー教であったが、タイの植民地となって小乗仏教になった。古い中国の文献には扶南(フナン)国、眞臘(シンロウ、チェンラ)国の名で知られた。日本語「カボチャ」の語源は、16世紀ポルトガル船に積み込まれたカボチャがカンボジア産だったことから、その名がついたといわれる。朱印船が「簡浦寨(カンボジア)」へ渡航した記録が多く残っている。明末の地理書「東西洋考」(張燮撰)には「東埔寨」の名で記されている。
UNIT2.クメール帝国
インド文化の東漸で、メコン川流域の平野部を中心にインド人が先住民のクメール人を支配して東南アジア最初の国家「扶南(フーナン)王国」を成立。(紀元1世紀ころ)2世紀頃まではまったく未開のままであったが、3世紀初めにはカンボジア、コーチシナ、マレー半島を支配。農業を基盤とする国家であったが、海上貿易も発達。海港都市オケオ(Oc-eo)の遺物から、公用語としてサンスクリット語を用い、仏教やヒンドゥー教を奉じ、インド的な工芸技術が発達していたことがわかる。遺物の中には、遠くローマや中国(漢)との交渉を示すものがある。
6世紀末、クメール人(眞臘)がおこり、7世紀前半、扶南を滅ぼす。705年頃、北の陸眞臘(ラオス)と南の水眞臘(カンボジア)に分裂。一時水眞臘はジャワのシャイレンドラ朝に支配される。802年、クメール族は南北を統一し、ジャヤバルマン2世のときアンコール地域を中心としたカンボジア王国は最盛期を向かえ、その繁栄は13世紀初頭まで続いた。アンコール遺跡群に特に関わったとされる王はスーリヤヴァルマン2世(1113-1145年)のアンコール・ワットとジャヤバルマン7世(1181-1218年)のアンコール・トムといわれる。14世紀以降シャム、ベトナムから攻撃され衰える。アンコール・ワットはヒンドゥー教のヴィシュヌ神を祀る寺院としてクメール時代に建立された。
UNIT3.仏日のカンボジア支配
1863年、フランスの保護国となったが、王制は存続。第二次世界大戦中、日本軍が進駐したが、1941年シアヌーク国王は即位。1945年3月、独立を宣言したが、日本の敗戦により、フランスの支配にもどる。
UNIT4.シアヌーク時代
シアヌーク国王は1953年11月、フランスから完全独立を達成。1955年、王位を父スラマリットに譲り退位。以降シアヌークは首相、元首として独自の中立政策をとるが、ベトナム戦争で解放戦線側を支持しアメリカに敵対政策をとる。
UNIT5.ロン・ノル政権
1970年3月、親米派のロン・ノル元帥が外遊中のシアヌークから元首の地位を奪い実権を掌握。10月クメール共和国と改称して共和制に移行、1973年3月大統領に就任した。シアヌークは北京に亡命し、1970年3月、カンボジア民族統一戦線を結成。1975年4月17日、共産党がプノンペンを陥落させ実権を掌握。
option ユネスコ世界文化遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡はいつ頃造営されたのか?
カンボジアのアンコールには二大遺跡がある。9世紀末に第1次アンコール・トムが建設されたのが、大建築の序曲で、12世紀前半、ジャヤバルマン2世によって、30年の歳月をかけて建設された。続いて13世紀の初め、ジャヤバルマン7世によって、現在に残る一辺約3㎞の正方形をした第4次アンコール・トムが造営された。この建物は当初、ヴィシュヌ神を祭るヒンドゥー教の祠堂であったが、後世仏教寺院に変更され、他の多くの遺跡がタイ族の侵入によって放棄され、熱帯の巨木にうずもれて忘れられていた。
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