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2019年11月27日 (水)

ありふれた日常

8月8日。高温注意報。近畿地方は高気圧に覆われておおむね晴れていますが、湿った空気の影響で曇っている所があります。台風9号は石垣島の南東約260㎞を北西に移動中。浅間山で小規模噴火発生。第101回全国高校野球選手権大会第1試合、智弁和歌山が米子東を8対1で破る。お風呂場を掃除。午後、読書。

11月27日。曇のち雨。午後から調理ヘルパーさん、看護師、理学療法士さん訪問看護。午前中に買い物。午後洗濯。夜入浴.明日は病院へ行く。

 

 

 

2019年11月26日 (火)

ヒッチコック「鳥」の恐怖

  アルフレッド・ヒッチコック。人間心理に根ざした恐怖を晩年まで描き続けてきた監督は彼をおいていない。スリラー映画の神様は研究してもしつくせない奥行きがある。代表作は「鳥」(1963) サンフランシスコの近郊にある漁村。ある日、一羽のカモメが若い女性の額を襲った。翌日、大群のカモメが押し寄せ、暖炉からは無数の小鳥が侵入してくる。やがて鳥の大軍が小学生たちを襲い、逃げまどう。町の人々は原因がわからず、若い女性は「あなたがこの町に来てから災いが起こった。魔女だ」と皆から責めたてられる。主演はティッピ・ヘドレン、スザンヌ・プレシェット、ロッド・テーラー。新聞社の社長令嬢ティッピと小学校の女教師スザンヌは対照的に描かれている。スザンヌはロッド・テーラーの元彼女。母親の反対で引き裂かれたらしい。スザンヌは鳥の襲撃に遭い死ぬ。完全なる美の持ち主であるティッピは都市社会の現代文明の象徴である、自然の象徴である鳥との対立構造が基本になっている。しかしティッピとスザンヌの2人の女性も対照的である。やや倦怠感が感じられるスザンヌはタバコをふかし、虚ろなまなざしをしている。人工的なものは自然の脅威の前には無力であるというメッセージが感じられる。

 

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2019年11月24日 (日)

カナの婚礼

 ナポレオン時代、ルーヴル美術館の収蔵品は、イタリア遠征、エジプト遠征で、膨大な数にふくれあがった。ルーヴルで一番大きな絵画「カナの婚礼」も、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョレー修道院の食堂に飾られていたが、ナポレオンによって1798年フランスに運ばれた。縦666㎝、横990㎝の最大の絵画の作者パオロ・カリアーリ、通称ヴェロネーゼは15世紀末、ヴェネツィア派の画家で、多くの祭壇画、壁画を制作したが、演劇的な空間の大画面の「饗宴図」で知られる。「カナの婚礼」(1562年)は婚礼に招かれたキリストが、瓶のなかの水をワインに変えたという最初の奇跡を主題に描かれたもの。

2019年11月23日 (土)

ヤン・クペツキー

中央ヨーロッパ18世紀の最も重要な肖像画家の一人。1667-1740。チェコのプラハのプロテスタントの両親に生まれ、生涯の大半をハンガリー、ウィーン、ローマなどの外国で過ごしたが、常にチェコ人としての意識を持ち続けた。ウィーンで画家の修業をし、20歳でイタリアへ行く。ローマでは窮乏生活ののち、急激に認められ、1707年ウィーン移住の際には、既に芸術家として十分な地位と高い評価を得ていた。1723年、市民が大きな力をもっていたニュルンベルクに移って以来、従来のフランス風の貴族的肖像画が減少し、北方的レアリスムに基づく現実描写への指向が次第に強まってくる。肖像画を描く際、彼はしばしば毛皮とか生地をきわめて綿密に描写した。彼の作品においてはコピーが大量に遺されているため、作品の帰属についての議論が生じやすい。クペツキーは故郷のボヘミアを例外的にしか(1712年、1716年)訪れていないが、チェコ国内の絵画、とりわけ肖像画の形式に大きな影響を与えた。代表作「カール・ブルーニの肖像」「フランチシカ・ヴシノヴァーの肖像」「絵画のアレゴリー」。Jan Kupecky。(プラハ国立美術館展図録 1980年)

2019年11月21日 (木)

濃姫の最期

   来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で沢尻エリカの代役が川口春奈と発表される。「天地人」では織田信長(吉川晃司)は天下を目前にしながら、明智光秀(鶴見辰吾)の謀反にあい本能寺にて自害する。本能寺の変のドラマでいつも気になるのが信長の正室の濃姫(帰蝶)と光秀の正室の凞子の存在である。とくに濃姫の没年は不詳であるが、一説には1556年に22歳で病死した、1582年の本能寺の変で信長とともに死んだ、1612年に78歳で逝去した、と諸説ありその死は謎に包まれている。濃姫の墓所、墓石すら特定されていない。数年前の大河ドラマ「功名が辻」では、明智光秀(坂東三津五郎)と濃姫(和久井映見)とのラブロマンスが全面的に描かれており興味深かった。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の春風亭小朝と内田有紀とのロマンスはもちろん無かった。本能寺の変で勇敢に戦い、その生涯を閉じるのだろうか。

    観月ありさ「濃姫Ⅱ」では濃姫と光秀が幼馴染みという設定であった。光秀の父(光綱)と濃姫の母(小見の方、斎藤道三の妻)は共に光継の子。つまり2人は従兄妹の関係。出生年は、濃姫が1535年、光秀が1528年で7歳上。男女の親密な関係があったのだろうか。

 

 

2019年11月20日 (水)

日本歌謡史男性アイドル編

   NHK「鶴瓶の家族に乾杯」久しぶりに西郷輝彦が登場していた。数年前に癌を患い痩せている。町の人も白髪の姿に驚いている様子。中年の女性が「西郷さんといえば歌手よりも時代劇のスターという感じです」と。この言葉を西郷自身はどう受け止めていたのか。歌手西郷輝彦は「星のフラメンコ」に代表されるが、歌謡史においては必ずしも高い評価がされていない。しかし私はとても重要な役割を果たした男性歌手だと思っている。60年代ポップス界は創成期であり、お手本はエルビス・プレスリーであった。カントリー・ウェスタンやロカビリー旋風が過ぎた後、揺り戻しに日本的な青春歌謡のブームがやってきた。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家の登場である。ところがビートルズ来日によってグループ・サウンズの大流行で橋幸夫と舟木一夫はピンチに立たされる。西郷はもともとブリスリーが好きで、ビートが利いたリズム・サウンドが得意だった。70年代に入ると「真夏のあらし」や「情熱」「略奪」「愛したいなら今」とロックポップ色を前面に出した曲をリリースする。西郷のポップス・サウンドはにしきのあきら、西城秀樹に継がれていく。西城の曲「情熱の嵐」も西郷の「真夏のあらし」と「情熱」を足して割ったタイトルだ。2000代になるとJポップ全盛となるが、流行とは不思議なもので、元型を創設したミュージシャンのことはすっかり忘れされるものらしい。またネット記事のほとんどは商業ベースであり、公平性・客観性・中立性が確保されず、正当な評価は生まれない。とくに音楽というジャンルは好みがあるので顕著である。歌の上手下手ではなく、歌謡史の流れでみると西郷輝彦という歌手はとても重要な位置づけをもつと考えている。僕の意見に賛同する人は少ないだろう。

 

 

2019年11月18日 (月)

お蔭参り

沿道の人びとの好意のおかげによって旅行したことからいう。江戸時代、主人の父兄に話さず、費用も持たず、伊勢神宮に参詣すること。江戸期、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、寛永15年(1638年)の記録がもっとも古い。慶安の「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたという。後期には、1830年、1855年4、1867年、お蔭参りが流行した。

 

 

 

2019年11月14日 (木)

三日見ぬ間の桜かな

Img_0001_3 加治川の桜

 

 「世の中は三日見ぬ間に桜かな」三日外に出ないでいたら、桜の花が咲き揃っていたという俳句。あるいは、散っていたのかもしれない。この大島蓼太の句は世の中の移り変わりの早さを桜に例えたものとして受け止められ、「三日見ぬ間の桜」ということわざになっている。安倍総理の「桜を見る会」が来年は中止となった。開催費用は5518万円かかる。消費税も増税し、自然災害の復旧の中、税金がこんなムダ金に使われている。いま世の中は全国的に冬到来、北海道は吹雪。北国は急速に冬が訪れる。長かった我が世の春も冬が近づいているのかもしれない。

 

2019年11月13日 (水)

水の都ベネチアが浸水

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   イタリア・ベネチアの歴史地区が12日、高潮の被害を受けて水没した。中心部にある観光名所のサンマルコ広場は一面、数センチの高さにので浸水し、文字通りの「水の都」となっている。ところでベネチアはヴェネチア、ベニス、ヴェニスなど様々に表記されることがある。文学では「ヴェニスの商人」「ヴェニスに死す」だが、歴史の教科書では「ヴェネチア共和国」である。外国地名の表記は、「できるだけ原音に近く、同時に読みやすい表記を用いる。ただし、慣用の固定しているものは、これに従う」(朝日新聞の用語の手びき)これに従えば、イタリア語のヴェネチアが一番原音に近い。ところが「ベニスの商人」「ヴェニスの商人」という英語が早くに知られ、慣用が固定しているともいえる。ついついヴェネチアではなく、ベニスと言ってしまうことが多い。

2019年11月11日 (月)

スペインの地理的位置と特色

Spmap111  スペインはイベリア半島に位置し、半島の約5分の4を占め、西に国境を接するポルトガルが残り約5分の1を占めている。イベリア半島は、地中海の入口を塞ぐような形で突出しており、南端はジブラルタル海峡をへだてて南のアフリカ大陸に対している。フランス、アンドラと国境を接するが、ピレネー山脈の高峻な山々に隔てられるため、西ヨーロッパでは「ピレネーの向こうはアフリカ」とも言われてきた。現在のスペインの国土は、半島部のほかに、地中海のバレアレス諸島、大西洋のカナリア諸島から構成されている。またこれらに加え、対岸の北アフリカカにはセウタとメリリャの2都市を有している。

   スペイン内戦に勝利したフランコは、第二次大戦では中立国ではあるものの親枢軸国側であったため、戦後は各国から冷遇された。

  イギリスとの間には、1713年のユトレヒト条約以来イギリスが領有しているジブラルタルの問題がある。

 

 

2019年11月10日 (日)

すめらぎのいやさか祝う旗の波

 天皇陛下の即位に伴う祝賀パレードが本日、行われる。午後3時、皇居・宮殿を出発し、オープンカーに乗り、桜田門の交差点を通り、国会議事堂を経て、青山通りの交差点を曲がって、赤坂御所へ向かう。我々日本人にとって「天皇」とはなにかを考えるよき日となる。天照大神から地上の支配を命じられた初代、神武天皇が即位したのも11月10日のことである。万世一系である天皇家は今上天皇の誕生で126代目を数え、象徴天皇制から3代目となる。もちろん天から降りてきたという大王の神話は創作されたものであろうが、この千数百年の永き伝統は世界皇室をみても比類なく、各国メディアも注目している。

不思議な偶然の一致

    すでに知る人ぞ知る天皇家の不思議。偶然とはいえ、あまりに偶然すぎることである。2人は揃って皇室に入ることは生まれたときからの運命だったに違いない。

 

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    名前を並べて、互いに読んでみると、このようになる。やはり不思議な偶然の一致である。

 

2014年、高倉健が亡くなった11月10日は、奇しくも森繁久彌(2009年死去)と森光子(2012年死去)の命日。歌舞伎をのぞく演劇・映画・放送分野の俳優で、過去4人しか受賞していない文化勲章の受賞者が同じ命日というのはあまりに偶然すぎる。

 

    惨劇の日が重なることがある。池田小学校事件(2001年)と秋葉原通り魔事件(2008年)は6月8日の同日。2013年の米サンタモニカの大学で起きた銃乱射事件は現地では6月7日だが日本時間では8日である。

2019年11月 9日 (土)

お涙頂戴式の映画史

95ca00e4   オペラ・映画・ドラマなどで地球上どこかでいつも上演や放送されているのはデュマの「椿姫」(1848)だそうだ。美しくて若い女性と青年がふとしたことで出合い愛し合う。やがて真実の愛が生れる。だが、病魔は着実にヒロインの身体を蝕んでいく。このようなストーリーを難病ものという。通俗的な物語も多いが、最も多くの人に愛される話である。その証拠には、「椿姫」を基本パターンとした物語は数限りなくある。もちろんドキュメンタリー風なものや手記のようなものも多くある。日本では「不如帰」(1898)や「野菊の墓」(1906)が元祖か。映画にもなった「絶唱」や「愛と死を見つめて」は純愛ブームといわれた。21世紀になって、「世界の中心で、愛をさけぶ」「1リットルの涙」「タイヨウのうた」「余命1ヶ月の花嫁」などヒロインが不治の病に侵される話は多い。「恋空」は男性が他界する映画だった。「世界の終わりに咲く花」はまだ見ていない。最近は一家の柱である父親が幼い子どもを残して死ぬという話も涙をそそる。古くは「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」、最近では「天国で君に逢えたら」がある。韓国映画は「八月のクリスマス」「私の頭の中の消しゴム」など難病ものは多数ある。

    洋画で難病+純愛といえば、「ある愛の詩(ラブストリー)」(1970)が決定版である。それまでの恋愛映画では「哀愁」は戦争&交通事故、「慕情」は男が戦場での不慮の死だった。西洋では不治の病は「椿姫」と重なるので、さける傾向にあったといえる。英語ではtearjerkers(お涙頂戴式の映画)。

 

 

2019年11月 7日 (木)

カンボジア略史

Photo アンコール・ワット

 

UNIT1.概観

  カンボジア(Canbodia)は紀元前後からメコン、トンレサップ両川流域にクメール族によって古代文化が開いた地域である。宗教はクメール王朝時代はヒンドゥー教であったが、タイの植民地となって小乗仏教になった。古い中国の文献には扶南(フナン)国、眞臘(シンロウ、チェンラ)国の名で知られた。日本語「カボチャ」の語源は、16世紀ポルトガル船に積み込まれたカボチャがカンボジア産だったことから、その名がついたといわれる。朱印船が「簡浦寨(カンボジア)」へ渡航した記録が多く残っている。明末の地理書「東西洋考」(張燮撰)には「東埔寨」の名で記されている。

 

UNIT2.クメール帝国

 インド文化の東漸で、メコン川流域の平野部を中心にインド人が先住民のクメール人を支配して東南アジア最初の国家「扶南(フーナン)王国」を成立。(紀元1世紀ころ)2世紀頃まではまったく未開のままであったが、3世紀初めにはカンボジア、コーチシナ、マレー半島を支配。農業を基盤とする国家であったが、海上貿易も発達。海港都市オケオ(Oc-eo)の遺物から、公用語としてサンスクリット語を用い、仏教やヒンドゥー教を奉じ、インド的な工芸技術が発達していたことがわかる。遺物の中には、遠くローマや中国(漢)との交渉を示すものがある。

    6世紀末、クメール人(眞臘)がおこり、7世紀前半、扶南を滅ぼす。705年頃、北の陸眞臘(ラオス)と南の水眞臘(カンボジア)に分裂。一時水眞臘はジャワのシャイレンドラ朝に支配される。802年、クメール族は南北を統一し、ジャヤバルマン2世のときアンコール地域を中心としたカンボジア王国は最盛期を向かえ、その繁栄は13世紀初頭まで続いた。アンコール遺跡群に特に関わったとされる王はスーリヤヴァルマン2世(1113-1145年)のアンコール・ワットとジャヤバルマン7世(1181-1218年)のアンコール・トムといわれる。14世紀以降シャム、ベトナムから攻撃され衰える。アンコール・ワットはヒンドゥー教のヴィシュヌ神を祀る寺院としてクメール時代に建立された。

 

UNIT3.仏日のカンボジア支配

   1863年、フランスの保護国となったが、王制は存続。第二次世界大戦中、日本軍が進駐したが、1941年シアヌーク国王は即位。1945年3月、独立を宣言したが、日本の敗戦により、フランスの支配にもどる。

 

UNIT4.シアヌーク時代

   シアヌーク国王は1953年11月、フランスから完全独立を達成。1955年、王位を父スラマリットに譲り退位。以降シアヌークは首相、元首として独自の中立政策をとるが、ベトナム戦争で解放戦線側を支持しアメリカに敵対政策をとる。

 

UNIT5.ロン・ノル政権

   1970年3月、親米派のロン・ノル元帥が外遊中のシアヌークから元首の地位を奪い実権を掌握。10月クメール共和国と改称して共和制に移行、1973年3月大統領に就任した。シアヌークは北京に亡命し、1970年3月、カンボジア民族統一戦線を結成。1975年4月17日、共産党がプノンペンを陥落させ実権を掌握。

option ユネスコ世界文化遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡はいつ頃造営されたのか?

   カンボジアのアンコールには二大遺跡がある。9世紀末に第1次アンコール・トムが建設されたのが、大建築の序曲で、12世紀前半、ジャヤバルマン2世によって、30年の歳月をかけて建設された。続いて13世紀の初め、ジャヤバルマン7世によって、現在に残る一辺約3㎞の正方形をした第4次アンコール・トムが造営された。この建物は当初、ヴィシュヌ神を祭るヒンドゥー教の祠堂であったが、後世仏教寺院に変更され、他の多くの遺跡がタイ族の侵入によって放棄され、熱帯の巨木にうずもれて忘れられていた。

2019年11月 6日 (水)

桂離宮と八条宮智仁親王

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    桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮というのは豊臣秀吉が一時智仁親王を猶子に迎えたが、淀の方に鶴松が生まれたので養子わとりやめ、親王のために創立した宮家であった。八条宮智仁親王は幼少の頃よりすぐれた文才があり、早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。

  桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。なおタウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、現在の研究では小堀遠州が直接関わったことはないとされている。

 

 

 

2019年11月 4日 (月)

珈琲とバッハ

Bachandcoffee    コーヒーはもともとイスラム世界にあるもので、イスタンブールには早くからコーヒー店があった。ロンドンでは1654年に開業したクイーンズ・レイン・コーヒー・ハウスが古く、17世紀中頃には新聞や雑誌を読んだりする、情報収集の場としても広がっていた。ただし女性が出入りすることはなく、男性客のみが対象であった。17世紀の終わりには、2000軒ものコーヒーハウスがロンドンにあった。J・S・バッハ(1685-1750)が住むライプツィヒにもコーヒーハウスが8軒あり大繁盛している。もちろんドイツでも「女性はコーヒーを飲むべきではない」とされていた。このような風潮に反発する女性の声を代弁したのが詩人のピカンダーで、「おしゃべりをやめて、お静かに」(1732)という、コーヒー好きの娘リースヒェンと、なんとかコーヒーを止めさせようとする父親シュレンドリアンの様子をコミカルに風刺した。バッハは1734年にこの詩に曲をつけ、「コーヒーカンタータ」をつくった。バッハも遺品からコーヒー・カップやポットがあり、コーヒーを好んでいたらしい。「1000回のキスより愛おしく、マスカテル・ワインより甘美だ」と言っている。イギリス、ドイツに遅れてコーヒーが広まったフランス。1715年にルイ14世の命により、当時ブルボン島と呼ばれていた自然豊かな島にコーヒー豆が栽培された。しかしルイ14世の時代、宮廷ではコーヒーはさほど普及せず、次代のルイ15世の時代にコーヒーは普及する。(Bach,Cofee Cantata,Schweight still,plaudert nicht)

「お転婆」の語源

 江戸時代は蘭学が盛んでオランダ語に由来する外来語は多くある。「アスベスト」「インキ」「エレキ(エレキテル)」「「オリーブ」「オルゴール」「ガス」「ガラス」「カバン」「ペスト」「ペン」「マドロス」「メス」「ヨードチンキ」「ランドセル」などなど日本語として定着した言葉は数多くある。ポン酢は、柑橘類の果汁を意味する「PONS(ポンス)」に由来する。

   男勝りの活発な女の子を「お転婆」という。その行動の1つの典型として、「おはなはん」のように「木登り」する女の子というのがある。

   語源は一般にはオランダ語のオンテンバールontenbaar(馴らし難い)から日本語への借用と考えられている。しかし事物起源は例にもれず常に論争の元であり諸説も多い。①天馬(てんば)の変化。②顛婆(てんば)の変化。③伝播(でんぱ)の変化。④女の子の足早に歩く様子のテバテバのテバにオのついてオテバから。⑤勢いよく跳ね回る「お伝馬」から。

2019年11月 3日 (日)

まぼろしの大松監督

   最近の俳優は一定のイメージに捉われず、どんな役にも挑戦するタイプが増えてきた。松山ケンイチや小栗旬、鈴木亮平など「ど根性ガエル」「ルパン三世」「変態仮面」にみえる。かつてモンゴメリー・フォード主演のマカロニウエスタンを見ていると、仲代達矢が悪党の一味で出演していた。「七人の侍」のエキストラから文化勲章にいたるまで、ヒーローから悪役まで何でも演じてきたという感じがする。俳優には高倉健や吉永小百合のように一定のイメージの範囲で演じるスターとどんな役でも演じられる幅広い役者の2つのタイプがある。あのゲーリー・クーパーやジョン・ウェインといえば西部劇スターだが、長いキャリアの作品には「マルコ・ポーロの冒険」(1938)や「ジンギスカン」(1956)もある。金田一耕助やサスペンスドラマでお馴染みの古谷一行にも諸葛孔明を演じたことがある(「三国志の大地」(1993)。田中裕子の西太后(「蒼穹の昴」2010)もかなり異色の作品である。丹下左膳で知られる大河内伝次郎が十和田湖のマスの養魚に成功した偉人、和井内貞行を演じたことがある。「われ幻の魚を見たり」(1950)は名作だった。NHK大河「いだてん」では鬼の大松博文が登場する。しかし彼を演じた徳井義実が申告漏れの指摘を受けて放送時にほとんど出演シーンがカットされたのは残念だ。

 

 

2019年11月 1日 (金)

リスボン地震

Photo_2  1755年のこの日、ポルトガルのリスボンで大地震が起きた。当時、地震は「神の罰」だと考えられ、その強大な力の前では、人間はただ祈り、受け入れるしかなかった。このため復旧の気運が高まらなかった。

  リスボンは英語で、ポルトガル語では「リジュボア」と発音する。ローマ帝国時代の古名オリシポが転訛したものである。さらに、古名の語源は、フェニキア語のアリス・イポ(alis ibbo、良い港)である。ここを最初に開いたのはフェニキア人である。その後、ローマ時代から西ゴート王国時代を経て、8世紀にはアフリカから新たに侵入してきたイスラム教徒の支配下に入る。その後、国土回復運動に際し、1147年に初代ポルトガル王アフォンソ・エンリケシュがリジュボアを占領すると、王はサラセン軍が築城した丘上の城を整備して、サン・ジョルジュと名付けて居城とした。またマヌエル1世(在位1495-1521)は10㎞下ったテージョ河の河口にベレン城(画像)を築いた。1515年から1521年にかけてのことである。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見やカブラルのブラジル発見などポルトガルの黄金時代が築かれた。1569年にはペストにより6万人の死者が、1755年11月1日、午前9時40分、マグニチュード9の巨大地震がリスボンを襲い、津波と火災により10万人の死者を出した。ポンバル侯爵(1699-1782)はリスボンを復興計画にもとづき防災都市にした。欧州諸国はリスボンに救援物資を送り、リスボン地震がもたらした影響は思想や文化にまで及ぼしている。(Lisboa,Olisipo)

 

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 ポンパリーナ様式の耐震構造

温故知新

Photo     「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に源氏物語に関する記事があることから、この日が「古典の日」と定められている。司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今日でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味に解するかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。古事記、万葉集、源氏物語、枕草子、百人一首など古典の研究も図書館が整備されたことで、新研究が盛んである。

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灯台記念日

Photo   灯台の歴史は古く紀元前280年、アレキサンドリア港に対面するファロスPharos島に建てられたファロス灯台、高さ約180mの石積塔、樹脂混合草木燃焼式の大灯台が世界最初のものとされる。現在でもロマンス諸語でファロスという語が灯台を意味するのはこれからきている。(フランス語ファールPhare、イタリア語ファーロfaro、ポルトガル語farol、スペイン語faro)

    わが国では664年に天智天皇が遣唐使船などの船舶に利便を与える目的で、壱岐、対馬、筑紫に烽(とぶひ)をともしたものが始めとされている。それはのちに狼煙(のろし)といわれるようになった。江戸時代の燈明台は、18世紀以後商品流通の増大に伴う海運の発展のため夜間の航海や出入港が頻繁になると、廻船の安全を期して岬や主要港など100ヶ所以上もの燈明台が設けられ、重要なものは航路図上に記入されるようになった。

   幕末の開国後、外国船の出入港と幕府海軍軍艦船の増加を契機に、光力の強い西洋式灯台が必要となり、慶応3年外国貿易税率改訂に伴う約定として剣崎以下15ヶ所の洋式灯台設置が決定し、別に江戸湾付近の整備のため城ヶ島、品川などが追加された。建設事業は外国人技術者と購入機材によって進められたが、幕府倒壊後は新政府がひきつぎ、明治元年11月1日、日本初の洋式灯台、観音崎灯台(神奈川県横須賀市)が起工、明治2年2月に完成、点灯を始めた。その強い光力は旧式の燈明台とは段違いで、近代的照光装置の威力を発揮した。使用燃料は当初は植物性油で、のちに高能率の石油に変えた。また蒸気船の普及などから洋式灯台の設置は急ピッチで進み、明治9年には北は納沙布岬、南は九州南端の佐多岬まで30余ヶ所に達し、明治末年には100ヶ所を超えた。大正末期にはより強力な光源の電気化が始まり、それが普遍化した現代では機械類の自動化が急速に進んでいる。(参考:石井謙治「国史大辞典」,11月1日)

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