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2019年11月29日 (金)

容姿劣化は自然の摂理

 元モーニング娘。の道重さゆみ「劣化という言葉は私にない。常にピークです。だから、今まできょうが一番かわいいんです」アイドルとしては蓋し名言である。でもまだ30歳。本当の劣化はこれから迎える。松田聖子が紅白歌合戦で「新しい明日」を披露したが、急に老けたという声がネットで見られる。なるほどアイドル時代のような細くて甘いキャンディボイスではなくて、顔はたるみ張りが無くなった。でも56歳という年齢を考えると自然な年の取り方だとおもうのだが。中山美穂も「平成細雪」で和服を着て貫禄十分ながら、アイドル時代のミポリンのチャーミングさは消えた。もっと視聴者を驚かせたのは裕木奈江。民放ドラマ23年ぶりというが、「ポケベルは鳴らなくて」の不思議少女の面影は消えて、人生に疲れた表情が切ない。容姿の変化は女性だけではない。SMAP解散後の木村拓哉は俳優専業となって「BG 身辺警護」では大きく容貌が変わった。かつて大女優の田中絹代もメディアから「老醜」と評されたことがあった。おきゃんで可憐な娘役を期待していたオールドファンもやがて老婆役の田中絹代に慣れてきて、彼女は生涯現役で大女優の道を歩むことができた。女は中年以降が勝負かもしれない。

 

 

退屈恐怖症

5c45f2d4463b53b0190944fdd767fd39    英デイリーメールによると、退屈を常に感じる人は、心臓病や脳卒中による死亡率が、そうでない人より2.5倍も高いという。退職後の人生、やることがなくて暇をもてあます。終日テレビを見続け、飽きると長々しい欠伸をし、無聊に苦しむ。退屈恐怖症という言葉があるそうだ。ネットで調べても解説は見つからない。講談社「日録20世紀1990年」の11月29日に「若い女性に退屈恐怖症広がる」と新聞にあるだけ。新聞記事索引を調べればわかるかもしれない。新語でもあまり流行らなかったようだ。だがバートランド・ラッセルがすでに60年も前に「Fear of  boredom(退屈を恐れる心)」と題して、現代人の堪え難い特殊な退屈を分析している。

2019年11月28日 (木)

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

  芭蕉忌とよばれるのは、江戸中期以降、俳壇で芭蕉復興が叫ばれるようになってから。素丸の句に「はせを忌の古則や茶飯(ちゃめし)茶の羽織」がある。芭蕉の命日には茶飯を食べて、芭蕉が愛した茶色の羽織を着るという習慣があったらしい。溝口素丸は1795年没。芭蕉発句註解の「説双大全」を著した。

 

 

2019年11月27日 (水)

ありふれた日常

8月8日。高温注意報。近畿地方は高気圧に覆われておおむね晴れていますが、湿った空気の影響で曇っている所があります。台風9号は石垣島の南東約260㎞を北西に移動中。浅間山で小規模噴火発生。第101回全国高校野球選手権大会第1試合、智弁和歌山が米子東を8対1で破る。お風呂場を掃除。午後、読書。

11月27日。曇のち雨。午後から調理ヘルパーさん、看護師、理学療法士さん訪問看護。午前中に買い物。午後洗濯。夜入浴.明日は病院へ行く。

 

 

 

聖地奪回の十字軍を宣言(1095年)

Blackcathedral    西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀に広まった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝アレクセウス1世は、ローマ教皇に東方の実情と西欧騎士団の援助を要請を求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月17日から27日まで、クレルモン公会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年8月15日の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。(Clermont,Crusade,11月27日、世界史)

 

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2019年11月26日 (火)

租税の話

Williampitt   今年の大きな話題の一つとして、人気お笑い芸人が何年間も所得を無申告だったことが明らかになった。所得税にしろ消費税にしろ負担される国民の側からすれば嫌な話である。これからさらに高齢化が進むため、IMFのクリスタリナ・ゲオルギエバ専務理事は「日本は消費税を15%に引き上げる必要がある」と提言している。税の多くが福祉にまわされる欧州と異なり、大企業優先の日本では庶民の暮らしが成り立つのだろうか。日本は相対的貧困率はG7で2番目に高い。データを鵜呑みにするするアナリストの意見は危険であり、その国の文化と歴史を踏まえて提言すべきである。そもそも租税の歴史は古く国家の成立から始まる。古代エジプトのパピルス文書には当時の農民に対する厳しい搾取が記されている。近代的な租税制度はイギリスの経済学者アダム・スミスが1776年「国富論」を著したことに始まる。のちその学説が課税制度にも採用される。ウィリアム・ピット(小ピット、画像)宰相の時代にナポレオン戦争の戦費調達を目的として所得税が導入された。ところが評判が悪くナポレオン戦争の終結とともに廃止される。だが間もなく復活し定着する。イギリスの制度が19世紀の間に欧州に伝播する。これに対してアメリカでは所得税の導入が遅れる。1894年に導入されるが、憲法違反という最高裁判所の判決が下り、廃止される。そして長い時間をかけて累進制を検討し、1913年に所得税法が成立する。(世界史)

ヒッチコック「鳥」の恐怖

  アルフレッド・ヒッチコック。人間心理に根ざした恐怖を晩年まで描き続けてきた監督は彼をおいていない。スリラー映画の神様は研究してもしつくせない奥行きがある。代表作は「鳥」(1963) サンフランシスコの近郊にある漁村。ある日、一羽のカモメが若い女性の額を襲った。翌日、大群のカモメが押し寄せ、暖炉からは無数の小鳥が侵入してくる。やがて鳥の大軍が小学生たちを襲い、逃げまどう。町の人々は原因がわからず、若い女性は「あなたがこの町に来てから災いが起こった。魔女だ」と皆から責めたてられる。主演はティッピ・ヘドレン、スザンヌ・プレシェット、ロッド・テーラー。新聞社の社長令嬢ティッピと小学校の女教師スザンヌは対照的に描かれている。スザンヌはロッド・テーラーの元彼女。母親の反対で引き裂かれたらしい。スザンヌは鳥の襲撃に遭い死ぬ。完全なる美の持ち主であるティッピは都市社会の現代文明の象徴である、自然の象徴である鳥との対立構造が基本になっている。しかしティッピとスザンヌの2人の女性も対照的である。やや倦怠感が感じられるスザンヌはタバコをふかし、虚ろなまなざしをしている。人工的なものは自然の脅威の前には無力であるというメッセージが感じられる。

 

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2019年11月25日 (月)

「せ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Theodore_roosevelt     第26代アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルト。1888年アメリカ・スペイン戦争がはじまると義勇軍をつくり、英雄とされた。1900年に副大統領となり、翌年マッキンリーの暗殺で大統領に昇任、1904年再選された。

セオドア・リチャーズ
セオドア・ルーズベルトセシリア・チャン
セシル・オーブリ
セシル・ジョン・ローズ
セス・ローゲン
ゼーバルト・ベーハム
セダ・バラ
セバスティアン・ブラント
セブティミウス・セウェレス
セべクネフェル女王
セリーヌ・ディオン
セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・エセーニン
セルゲイ・ブブカ
セルゲイ・プロコフィエフ
ゼルゲイ・ボンダルチュク
セルゲイ・ラフマニノフ
セルジオ・メンデス
セルジュ・レジア
セルジョ・マッタレッラ
セルジョ・レオーネ
セルマ・トッド
セルマ・ブレア
セルマ・ラーゲルレーヴ
セレーナ・ゴメス
セーレン・オービエ・キェルケゴール
セロニアス・モンク
センタ・バーガー
センメルヴェイス・イグナーツ

 

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 セルマ・トッド

王莽の簒奪

   紀元8年のこの日、王莽が新を建国した。前漢が滅亡。新王朝(AD8-23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。(11月25日)

 

 

 

 

2019年11月24日 (日)

カナの婚礼

 ナポレオン時代、ルーヴル美術館の収蔵品は、イタリア遠征、エジプト遠征で、膨大な数にふくれあがった。ルーヴルで一番大きな絵画「カナの婚礼」も、ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョレー修道院の食堂に飾られていたが、ナポレオンによって1798年フランスに運ばれた。縦666㎝、横990㎝の最大の絵画の作者パオロ・カリアーリ、通称ヴェロネーゼは15世紀末、ヴェネツィア派の画家で、多くの祭壇画、壁画を制作したが、演劇的な空間の大画面の「饗宴図」で知られる。「カナの婚礼」(1562年)は婚礼に招かれたキリストが、瓶のなかの水をワインに変えたという最初の奇跡を主題に描かれたもの。

2019年11月23日 (土)

ヤン・クペツキー

中央ヨーロッパ18世紀の最も重要な肖像画家の一人。1667-1740。チェコのプラハのプロテスタントの両親に生まれ、生涯の大半をハンガリー、ウィーン、ローマなどの外国で過ごしたが、常にチェコ人としての意識を持ち続けた。ウィーンで画家の修業をし、20歳でイタリアへ行く。ローマでは窮乏生活ののち、急激に認められ、1707年ウィーン移住の際には、既に芸術家として十分な地位と高い評価を得ていた。1723年、市民が大きな力をもっていたニュルンベルクに移って以来、従来のフランス風の貴族的肖像画が減少し、北方的レアリスムに基づく現実描写への指向が次第に強まってくる。肖像画を描く際、彼はしばしば毛皮とか生地をきわめて綿密に描写した。彼の作品においてはコピーが大量に遺されているため、作品の帰属についての議論が生じやすい。クペツキーは故郷のボヘミアを例外的にしか(1712年、1716年)訪れていないが、チェコ国内の絵画、とりわけ肖像画の形式に大きな影響を与えた。代表作「カール・ブルーニの肖像」「フランチシカ・ヴシノヴァーの肖像」「絵画のアレゴリー」。Jan Kupecky。(プラハ国立美術館展図録 1980年)

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

 

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2019年11月22日 (金)

大統領暗殺に隠された疑惑

22997002000   11月22日は歴史的事件の特異日である。1497年ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端の喜望峰を通過した。1620年清教徒らのメイフラワー号がアメリカ東海岸のプリマスに到着した。そして1963年、米大統領は11月22日現地時間12時30分にテキサス州ダラス、デイリープラザ広場で暗殺された。リー・ハーベイ・オズワルドが逮捕されたが、事件2日後、移送途中でダラスの劇場主ジャック・ルビーによって射殺された。後にルビーは、オズワルドを殺した理由について「ケネディへの愛とジャクリーン夫人への同情からだった」と証言した。ケネディ暗殺はオズワルドの単独犯なのか複数犯がいるのは背後関係は謎に包まれている。①オズワルドはケネディ暗殺後直ちにソ連に逃亡する計画だったらしい。ソ連大使館で外交官ワレリー・ウラジミロヴィチ・コスティコフと面会していた。コスティコフは表向きは外交官だが、要人の暗殺や誘拐を専門にするKGB第13総局に所属していた。②オズワルドは暗殺の前メキシコシティでキューバ大使館に行ったりして、シルヴィア・デュランという大使館職員と愛人関係にあった。③オズワルドは逮捕された翌日、70人の警官が見守る中ジャック・ルビーによって殺害される。犯人は本当にオズワルドなのだろうか?

    リンカーン、ケネディの暗殺事件には謎が多い。そして不思議なことに両大統領の暗殺事件には奇怪な幾つかの共通点がみられる。①この2人の大統領は市民権利拡大のために積極的にはたらいた②2人は後頭部を銃で撃たれた③暗殺現場に夫人が同伴していた④ともに暗殺された日は金曜日だった。⑤場所はリンカーンは「フォード劇場」、ケネディはフォード車(フォード社が製造するリンカーン・コンチネンタル)。⑥2人とも4人の子供がいた。⑦2人とも60年に大統領に就任している。(リンカーンは1860年、ケネディは1960年)⑧次の大統領の名はいずれもジョンソンだった。(リンカーンはアンドリュー・ジョンソン、ケネディはリンドン・ジョンソン)⑨リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは1839年、リー・ハーヴェイ・オズワルドは1939年に生まれた。そして最後に、リンカーンにはケネディという名の秘書がいて、ケネディにはリンカーンという名の秘書がいた。この不思議な、共通点をあなたはどう推理するだろう?

 

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「いい夫婦の日」雑感

   トルストイは82歳で家出して、いわば野垂れ死にしたため妻のソフィアは悪妻だったという説が世の中にでまわっていた。しかし最近ではソフィアについては悪妻どころか、献身的だったという説もでてきた。悪妻といえば哲学者ソクラテスの妻クサンティッペが悪妻の代名詞となっているが本当だったか否かは定かでない。ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ、モーツァルトの妻コンスタンツェ、韓国のトンイ、北条政子、淀君、篤姫、漱石の妻の鏡子夫人なども同様である。むしろ悪妻転じて良妻に代わることのほうが多い。

    今日は「いい夫婦の日」。ハリウッドで一番のおしどりカップルといえばウィル・スミスとジェーダ・ピンケット・スミスだろう。男女1人ずつの子どもがいて俳優としての道を歩みはじめている。日本では理想の夫婦だと思う有名人ランキング1位は三浦友和・山口百恵夫妻。あの壇蜜も「いい夫婦の日」に婚姻届を提出した。思えば今年は「令和元年」という大きな節目の年で、著名人の結婚ラッシュが続いた。小泉進次郎&瀧川クリステル、菊池桃子&高級官僚、蒼井優&山里亮太、嵐の二宮和也、新川優愛の「ロケバス婚」などなど。数年前の「おひとりさまブーム」は消滅して晩婚、再婚も流行っている。女性が政府が掲げた「女性が輝く社会」に違和感を抱だき、年金だけでは生きていけず、やはり安心できるパートナーがいたほうがいいと考えたのだろう。ドラマ「彼氏をローンで買いました」は高収入のエリートと結婚して専業主婦の座に就くことを夢見る現代女性の本音がむき出しのラブコメディになっている。令和元年、ほかに篠田麻里子、三倉茉奈、高橋みなみ、徳永えり、黒川芽以、貫地谷しほり、多部未華子、安藤なつ、イモトアヤコ、橋本マナミら美女たちが令和婚を成就した。(Will Smith,Jada Pinkett Smith、11月22日)

2019年11月21日 (木)

濃姫の最期

   来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で沢尻エリカの代役が川口春奈と発表される。「天地人」では織田信長(吉川晃司)は天下を目前にしながら、明智光秀(鶴見辰吾)の謀反にあい本能寺にて自害する。本能寺の変のドラマでいつも気になるのが信長の正室の濃姫(帰蝶)と光秀の正室の凞子の存在である。とくに濃姫の没年は不詳であるが、一説には1556年に22歳で病死した、1582年の本能寺の変で信長とともに死んだ、1612年に78歳で逝去した、と諸説ありその死は謎に包まれている。濃姫の墓所、墓石すら特定されていない。数年前の大河ドラマ「功名が辻」では、明智光秀(坂東三津五郎)と濃姫(和久井映見)とのラブロマンスが全面的に描かれており興味深かった。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の春風亭小朝と内田有紀とのロマンスはもちろん無かった。本能寺の変で勇敢に戦い、その生涯を閉じるのだろうか。

    観月ありさ「濃姫Ⅱ」では濃姫と光秀が幼馴染みという設定であった。光秀の父(光綱)と濃姫の母(小見の方、斎藤道三の妻)は共に光継の子。つまり2人は従兄妹の関係。出生年は、濃姫が1535年、光秀が1528年で7歳上。男女の親密な関係があったのだろうか。

 

 

2019年11月20日 (水)

日本歌謡史男性アイドル編

   NHK「鶴瓶の家族に乾杯」久しぶりに西郷輝彦が登場していた。数年前に癌を患い痩せている。町の人も白髪の姿に驚いている様子。中年の女性が「西郷さんといえば歌手よりも時代劇のスターという感じです」と。この言葉を西郷自身はどう受け止めていたのか。歌手西郷輝彦は「星のフラメンコ」に代表されるが、歌謡史においては必ずしも高い評価がされていない。しかし私はとても重要な役割を果たした男性歌手だと思っている。60年代ポップス界は創成期であり、お手本はエルビス・プレスリーであった。カントリー・ウェスタンやロカビリー旋風が過ぎた後、揺り戻しに日本的な青春歌謡のブームがやってきた。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家の登場である。ところがビートルズ来日によってグループ・サウンズの大流行で橋幸夫と舟木一夫はピンチに立たされる。西郷はもともとブリスリーが好きで、ビートが利いたリズム・サウンドが得意だった。70年代に入ると「真夏のあらし」や「情熱」「略奪」「愛したいなら今」とロックポップ色を前面に出した曲をリリースする。西郷のポップス・サウンドはにしきのあきら、西城秀樹に継がれていく。西城の曲「情熱の嵐」も西郷の「真夏のあらし」と「情熱」を足して割ったタイトルだ。2000代になるとJポップ全盛となるが、流行とは不思議なもので、元型を創設したミュージシャンのことはすっかり忘れされるものらしい。またネット記事のほとんどは商業ベースであり、公平性・客観性・中立性が確保されず、正当な評価は生まれない。とくに音楽というジャンルは好みがあるので顕著である。歌の上手下手ではなく、歌謡史の流れでみると西郷輝彦という歌手はとても重要な位置づけをもつと考えている。僕の意見に賛同する人は少ないだろう。

 

 

「赤壁の戦い」はどこまでが史実か

    208年のこの日、曹操軍が揚子江の赤壁で孫権・劉備の連合軍に敗れた。赤壁の戦いは中国戦史上、最も有名な戦役のひとつである。この戦役の結果、魏、蜀、呉の国が天下を三分して鼎立するようになった。208年秋、20万の大軍を率いて曹操は南征した。これに対して孫権と劉備は同盟を結んで曹操と対決することにし、周瑜を総司令官に任命した。周瑜は、3万の水軍を率いて赤壁で、曹操の水軍に火攻めをかけ、一戦にして打ち破った。この有名な三国志の物語をアジアの人気俳優が競演するというジョン・ウー監督の映画「レッド・クリフ」が話題となった。魏の船団は、船と船を鉄のくさりで連結しているので、降伏を装って呉将黄蓋軍が火船を衝突させるという火計を企てる。ところが、真冬のため、東の風が吹かない。諸葛孔明は高台を築き風を祭って、東風をよび、火は風にあおられて曹操軍は敗走する。後世、この崖が火で赤くそまったため、赤壁という名がつけられたという。だがこういった話はほとんど後世のつくり話で、史実は映画のようなものではないらしい。曹操の陣営に疫病がはやったため、自ら軍船を焼いて北へ引き上げたという。その理由として①赤壁の戦いのあと、周瑜の地位は上がらず、加封もされていない②孔明の「後出師の表」の中で、過去に曹操が喫した敗戦を数々上げているが、その中に赤壁の戦いが出てこない③「資治通鑑」には「赤壁の戦いの1年後に、曹操が周瑜に投降するように認めさせた」との記載がある、などの理由から曹操は赤壁の戦いで敗れたのではないと考えられる。華蓉道で敗走した曹操を関羽が情けをかけて見逃したという話も創作であろう。(11月20日)

2019年11月19日 (火)

ゲティスバーグ演説

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  1863年7月3日、アメリカ独立戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは北軍の勝利で終結した。戦場に横たわる戦死者の数は、南軍北軍合わせて数千人にのぼった。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

水洗トイレの話

Kani_img_01     本日は「世界トイレの日」。2010年のヒット曲「トイレの神様」。近代流行歌100年の歴史を振り返っても、トイレ、便所、うんこ・糞尿を歌った楽曲は少ない。「汚穢屋の恋歌」「いぼ痔のバラード」なんて無いよね。な~んでか?それは「トイレの神様」の歌を聴いても多くの人が水洗トイレをイメージするようになったからだ。一部のお年寄りはまだ溜め置き式、汲み取り式を想像する。溜め置き式が一般的で長く続いたのは農業の肥料としてリサイクルしていたことと関係する。水洗化が普及したのは昭和40年代だが遅いところは昭和50年代半ばになっても水洗化していない地域が都市部でもあった。屎尿を肥料としていたころは、回虫の寄生率は高かった。昭和30年代、毎年、小学校では肛門にシールを貼ってぎょう虫検査を行う。半数以上の子どもが回虫をもっていた。立小便はするし、野原で脱糞する女子もいた。昭和でもそんなだから幕末江戸期や明治期はどうだろう。これが意外にも清潔だったらしい。外国人の記録では当時のパリやロンドンでは悪臭が漂うほど路上に汚物があったが、日本は「一滴のこらず」都市の外に出されて、肥料となるというリサイクルシステムが確立されていた。都市に汲み取り人が屎尿を買い取りに来る。だが都市衛生が優れていたということではない。江戸の長屋は共同便所だが、尿は下水に放たれ、川にそのまま流れていた。立小便は当たり前だった。「トイレの神様」では亡くなったお祖母ちゃんを思い出して感動するだろうが、実は影で苦労した汚穢屋さんや下水道整備事業と屎尿処理技術の発達、すなわち地方自治体の半世紀にわたる努力の賜物と考えている。(11月10日,11月19日)

2019年11月18日 (月)

お蔭参り

沿道の人びとの好意のおかげによって旅行したことからいう。江戸時代、主人の父兄に話さず、費用も持たず、伊勢神宮に参詣すること。江戸期、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、寛永15年(1638年)の記録がもっとも古い。慶安の「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたという。後期には、1830年、1855年4、1867年、お蔭参りが流行した。

 

 

 

ウィリアム・テルは実在したか?

Chwilliamtell   1307年のこの日、ウィリアム・テルが息子の頭上のリンゴを射抜いた日。

    当時スイスは神聖ローマ帝国に支配されていた。ここにテルという弓の上手な猟師がいた。代官ゲスラーに捉えられたテルは、テルの息子の頭にリンゴをのせ、それを射ぬけと命じられた。テルは息子の頭に載せたリンゴに狙いを定めると、見事にリンゴを射落とした。「リンゴが落ちた!」「おお子どもは生きている!」やはりテルの弓矢はたしかだった。が、代官はテルが矢をはなつまえに。もう1本の矢を抜いておいたのをとがめた。テルの矢は代官の胸を貫いた。みんなは敵のとりでをうちこわし、守備兵を追い払った。スイス人は自由と独立をさけんだ。テルの息子の名前はシラーの戯曲によると「ヴァルター」となっている。ヴァルター・テル。ちなみに代官の名前は、ヘルマン・ゲスラー(またはアルブレヒト・ゲスラー、おそらく伝説上の人物か)ウィリアム・テルの名が記された歴史的な史料が見つかってないため実在性は否定されるが、スイス人のおよそ6割はテルが実在したと信じている。(William Tell,Walter,Hermann Gessler,11月18日)

オランス(「オ」 事項索引)

Virgin_orans_conch_of_apse  「オランス」ラテン語で「祈り」のこと。両手を広げ、天に向かって祈る姿は、十字架の型になっている。▽「大山祇神」山の神霊を統轄する神を意味する。▽「オケラ(朮)」キク科の多年草。花は白~ごくうすい紅色で、筒状花で、秋開花。根茎は白朮(ビャクジュツ)と称する漢方になる。▽「おしらさま」東北地方で広く信仰されている家の神様。▽「オタワ協定」1932年、カナダのオタワで開かれたイギリス帝国経済会議で結ばれた協定。世界恐慌に対処するため、ブロック経済を構成し、外国商品に対しては高関税を課し、一定の成果をみるが、そてまでの自由貿易から保護貿易へと転換する。▽「オネーギン」プーシキンの小説。▽「オプシーナ」19世紀、ロシア正教を中心とした精神的な共同体。▽「オプティマテス」共和政末期の政治一派。日本では閥族派、元老院派と呼ばれる。▽「岡倉天心」近代日本美術の発展に功績を残した美術運動家。▽「オペラ座」パリ・オペラ座はルイ14世のもと、1661年に王立舞踏アカデミーが創立。オペラハウスは1875年1月に杮落しを迎えた。建築デザインはコンクール形式で行われ、当時無名だった35歳の建築家、シャルル・ガルニエが栄冠を手にした。古典様式とナポレオンが好んだバロック様式を取り入れた絢爛豪華な意匠が施されている。▽「オル・チキ文字」インド東部のサンタル人、ラグナート・ムルムにより、サンタル語を表記するために考案された文字。現在、サンタル語のインドでの話者人口は600万人を超えている。(おおおお)

 

オアシス
オアハカ州(メキシコ)
オアフ島(ハワイ諸島)
オイカワ
オイケン,ルドルフ・クリストフ
オイデュブス王
奥入瀬川
オイラート
オイラーの定理
花魁(おいらん)
奥羽山脈
オーウェン,ロバート
オームの法則
オーリニャック文化(旧石器後期)
オーロラ
王安石
横隔膜
欧化主義
黄金海岸
王水
王政復古
負うた子に教えられる
応仁の乱
黄熱病
黄檗宗(臨済宗の一派)
近江泥棒伊勢乞食
近江八幡
オウム真理教
オウン・ゴール
大分
大垣
大きいことはいいことだ
大久保利通
大隈重信
大蔵省
大阪
大塩の乱
大相撲
大台ケ原
大津事件
大鳴門橋
大村益次郎
大宅文庫
大山祇神(おおやまつみのかみ)
欧陽脩
大和田建樹
御陰参(おかげまいり)
岡崎
岡崎フラグメント
岡場所(おかばしょ)
男鹿半島(秋田県)
オカピ
陸稲(おかぼ)
岡目八目(当事者でない立場にいる者には、かえって物事の真相やよしあしがよくわかること)
オカリナ
オカルト
おかんこ船
隠岐(島根県)
荻江節
置き字
オキシドール
沖田総司
沖縄
オクターブ
奥の細道
奥むめお
オクラドニコフ洞窟
小栗忠順
オーケストラ
桶狭間の戦い
おけら(朮)
小河内ダム(東京都)
オゴタイ・ハン国
尾崎行雄
大仏次郎
小沢一郎
オーシャン島(ギルバート諸島)
おしらさま
オシリス神
オスグッドシュラッター病
オストラコン
オーストラリア
オーストリア
オスプレイ
オズボーン,ヘンリー・フェアフィールド
オスマン朝
オスマン・トルコ
オスロ
尾瀬沼(群馬・福島県境)
オゾン層
小樽
オタワ(カナダ)
オタワ会議
落合直文
オックスフォード大学
オッペケペー節
御局(おつぼね)
オドアケル

オートポシー(autopsy 検死解剖)
オドンターグ(odontagra 抜歯用の器具)
小名浜(いわき市)
鬼のいないうち、洗濯しましょ
鬼のへそをたですで食う
オニヤンマ
オネーギン
帯に短したすきに長し
御百度(おひゃくど)
オプシーナ
オプジーボ
小渕恵三
オプティマテス
オペト祭り
オペラ座
オベリスク(Obelisk)
オホーツク海
溺れ谷
溺れる者は藁をも掴む
思い立ったが吉日
オヤケアカハチ
オランス
オランダ
オリエント文明
オリオン
オリザニン
オリノコ川(ベネズエラ)
オリーブ
オリーブの首飾り(ポール・モーリア)
オリンピアの祭典
オリンピック
オルガン
オルゴール
オル・チキ文字
オルテガ・イ・ガセット,ホセ
オルトク(斡脱)
オルドス
オルドビス紀
オルニチン
オルメカ文明
オルレアンの少女
オレイン酸
オレゴン州(アメリカ)
オロス族
恩貸地制度(ベネフィキウム)
俺たちに明日はない(アーサー・ペン監督の映画)
尾鷲(三重県)
遠賀川(福岡県)
音楽
御嶽山
オンタリオ湖
温度
オンド・マルトノ
オンドル(朝鮮・満洲の民家の暖房設備)
女大学
女手(おんなで) 女の筆跡
女の一生(モーパッサンの小説)
音便

 

 

 

 

2019年11月17日 (日)

女王エリザベス1世の誕生

Elizabeth01  1585年のこの日、イングランド女王エリザベスが即位した。   

  男子の世継ぎを望む英王ヘンリー8世(1491-1547)は、最初の妻アラゴンのキャサリンには成人できる子供を産むことができないと確信し、数年前から離婚を切望していた。6歳年上のキャサリンは、6人の子供を産んだが、生きて残っているのは娘メアリーただ1人だけであった。ヘンリー8世は、子供が死んだのは、正しくない結婚を神が罰しているためと考えた。ふつうならば、教皇クレメンス7世は離婚したいヘンリー8世の望みを聞き入れたであろう。ローマ教皇はこのような場合、一般にものわかりがよく、国家の問題がからんでいればなおさらのことだった。ところが、キャサリンは神聖ローマ帝国皇帝カール5世の叔母であり、この皇帝は家族の忠誠という感情とはまったく別に、きわめて道徳堅固な人物であって、離婚など我慢がならなかった。皇帝が教皇に加えることのできる制裁は、王が及ぼしうる圧力などとは比較にならないほど強大であった。

   しかしともかく、ヘンリー8世は1532年、侍女のアン・ブリーン(アン・ブリン、アン・ボレーン、1507-1536)を見初め二人は恋におち、アン・ブリーンは妊娠した。1533年1月25日に内密に結婚して、息子が正統の子であり、承認された王位継承者となることを保証した。しかし、ヘンリーとキャサリンの離婚の問題はなお未解決のままであった。ローマから離婚の承認を取りつける望みはなく、したがってカンタベリー大主教の手でかたをつける以外になかった。運良く、そのとき大主教のポストが空席になっていた。ウォーラム大主教は前年に死んだばかりであった。王は、聡明な若いケンブリッジの神学者トマス・クランマーを大主教に任命した。王室の主祭をしていた彼は、以前から離婚に対する支持を表明していたのである。3月30日、新任の大主教は正式に受任された。彼は通常教皇に対して行なう服従の宣誓をしたが、神の法、そしてイギリスの王、王国、法、およびその国王大権に反するいかなるものにも縛られないことを公式に宣言して、ヘンリー8世の離婚のための道を開いた。この上訴法は、イギリス大主教を、ローマとは関係なく、英国国教会法の最高の権威と認めるものである。聖職受任後ただちに、クランマーは議長としてヘンリー8世とキャサリンの結婚が神の法に反するものであることを決定し、5月10日、ダンスタブルで法廷を開いた。キャサリンは教皇の法廷に出されている問題を審理する権限をクランマーに認めず、出廷しなかった。5月23日、大主教は判決を下し、教皇はヘンリー8世の場合のような結婚に承認を与える権限をもたず、王とキャサリンはこれまで夫婦であったことはないと宣言した。5日後、クランマーはヘンリーとアン・ブリーンが合法的に結婚したと宣言し、6月1日、アンはウェストミンスター・アビーで王妃の座についた。7月11日、遅ればせながら教会の権威を守るため、ローマ教皇は破門の宣告文を作成し、9月にこれを送付した。その結果、ヘンリー8世はローマとのつながりをすべて断ち切ったのであり、イギリスの宗教改革は進展していった。

   この問題では王の個人的な欲求が、たまたま国民の熱望と一致した。彼らは民族主義と教会に対する幻滅の波のなかで、なんとかローマの影響から逃れたいと強く望んでいた。しかし、そのほかの問題については、このような一致は見られなかった。キャサリンの屈辱に民衆は深く憤り、ヨーロッパは衝撃を受け、教皇と皇帝は辱められた。9月7日の日曜日の午後、アン王妃は女子を産んだ。次の水曜日、この子はエリザベスと名づけられた。エリザベス(1533-1603)はのちに、イギリスで最も偉大な君主となった。アン王妃は1536年、姦通罪の汚名を受け斬首された。(ElizabethⅠ,Anne Boleyn,11月17日)

2019年11月16日 (土)

桐生鹵簿誤導事件

Img29130f38zikezj   鹵簿(ろぼ)とは行幸の行列のこと。1934年11月16日、群馬県桐生市で昭和天皇の警備の先導車が道順を間違え、責任を感じた本多重平警部(当時42歳)が翌日自殺を図った。幸い、素手で刃物を持っていたため、突く力が弱く、一命を取り止めた。本多にはその後も後遺症が残った。1969年、68歳で没した。この事件は、天皇がどれほど現人神であったかをまざまざと示している。戦前、すべての小学校には御真影と教育勅語が奉納してある奉安殿が設けられ、火事で御真影を焼失したため責任を取って自殺した校長がいたという。しかし天皇を神のように崇めてみても、日本国民は現世の救いを与えられることはないが、令和のいま再び戦前のような天皇の神格化が進んでいる。松本清張の短編「尊厳」はこの事件を題材にしている。

2019年11月15日 (金)

歴史のヒーロー龍馬の暗殺者

    慶応3年11月15日、龍馬は京都近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺された。暗殺グループは京都見廻組という説が有力である。見廻組は佐々木只三郎(1833-1868)を与頭とし、渡辺吉太郎、高橋安三郎、桂早之助、土肥仲茂、桜井大三郎、今井信郎らが暗殺に関与していたとされる。近年、龍馬を斬ったとされる小太刀が発見された。刀の持ち主は見廻組の一人である桂早之助である。つまり佐々木只三郎の指揮のもと桂早之助が龍馬を斬ったのだ。だが佐々木も桂も翌年の鳥羽伏見の戦であっけなく戦死したので、事件の詮議はされなかった。新史料の小太刀の鑑定については未だ謎が残る。只三郎は明治20年まで生きていたという異説もある(「会津剣道誌」1967年)。ネット上では佐々木只三郎の晩年の写真を見ることができる。

 

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   だが龍馬の暗殺犯を当時海援隊は紀州藩の三浦休太郎と見ていた。海援隊士は三浦の常宿・天満屋を襲撃している。新選組が三浦を護衛したので逃げのびた。やはり龍馬暗殺に新選組が関与していたという説も捨てきれない。新選組の前野五郎(1845-1892)は三浦休太郎と親しく、天満屋事件のときも同席している。前野には実に不審な行動が多い。佐幕と尊皇を渡り歩いている。鳥羽伏見の戦で敗走した前野は甲州勝沼に参戦。その後、永倉新八をたよって靖兵隊へ入隊し東北各地を転戦した。のち薩摩に従軍の加納道之助に投降、ここで薩摩軍に加えられたという。加納は新選組から離脱し高台寺党を結成し、のち薩摩軍に加わった。おそらく前野とは新選組時代からの仲間だったであろう。前野が龍馬暗殺犯だったと知った薩摩の桐野らは近江屋事件を不問にしたと考えられる。明治になって前野は札幌の薄野で妓楼を経営して財産を築いた。その私財を投じて、岡本監輔の千島開発に出資し、自ら択捉島へ渡った。明治25年4月19日、沙那郡磯谷山中に狩猟中、磯谷川に架かる丸太橋から転落、渓流に押し流されるうちに、猟銃が暴発、弾丸が喉から頭を貫いて即死した。そして近江屋事件は迷宮入りとなった。

インカ帝国滅亡

Pizarromap   1533年のこの日、フランシスコ・ピサロ(1478-1541)がインカ帝国の首都クスコに無血入城した。

  スペインの軍人ピサロはインカの黄金に関する噂を聞いて南米大陸の西海岸を探検し、スペイン宮廷の援助を受けて180人の兵士とともにパナマを出発(1531年)、アンデス山脈を越えてペルーのインカ帝国にいたり、1531年11月、インカ皇帝の率いる2万の敵軍を破ってクスコに入り、皇帝アタワルバを処刑して(1533年7月26日)、11月15日クスコに入城し、インカ帝国を滅ぼした。

生没同日の著名人

Photo     坂本龍馬は慶応3年(1867年)のこの日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺された。旧暦で奇しくも龍馬の誕生日と同日であった。歴史上、生れた日と死んだ日が同日の著名人がいる。太宰治は昭和23年6月13日、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺した。2人の遺体は奇しくも太宰の誕生日である6月19日に発見された。そのため今官一(1909-1983)によって6月19日を「桜桃忌」と名づけられた。ウィリアム・シェークスピアは正確な誕生日は不明であるが1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録に残っており、推定で23日が誕生日とされ、1616年の同日に、この世を去っている。室町幕府6代将軍足利義教は1441年の誕生日に赤松義祐に暗殺された。国学者の夏目甕麿(1773-1822)は溺死している。(旧暦同日)夏目は当時伊丹に住んでおり、昆陽池で遊んでいて溺れた。冒険家植村直己(1941-1984)は2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日以降は連絡が取れなくなって、消息不明となった、命日は2月13日としている。

   ラファエロ・サンティ、ポルトガル王エンリケ1世、リロイ・ジェームズ(熊本洋学校指導者)、イングリッド・バーグマン、五姓田芳柳(洋画家)、小津安二郎、藤間林太郎、船越英二、バッキー・ハリス(米野球選手)なども誕生日と命日が同じ(生没同日)である。(11月15日)

 

 

 

 

2019年11月14日 (木)

三日見ぬ間の桜かな

Img_0001_3 加治川の桜

 

 「世の中は三日見ぬ間に桜かな」三日外に出ないでいたら、桜の花が咲き揃っていたという俳句。あるいは、散っていたのかもしれない。この大島蓼太の句は世の中の移り変わりの早さを桜に例えたものとして受け止められ、「三日見ぬ間の桜」ということわざになっている。安倍総理の「桜を見る会」が来年は中止となった。開催費用は5518万円かかる。消費税も増税し、自然災害の復旧の中、税金がこんなムダ金に使われている。いま世の中は全国的に冬到来、北海道は吹雪。北国は急速に冬が訪れる。長かった我が世の春も冬が近づいているのかもしれない。

 

2019年11月13日 (水)

水の都ベネチアが浸水

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   イタリア・ベネチアの歴史地区が12日、高潮の被害を受けて水没した。中心部にある観光名所のサンマルコ広場は一面、数センチの高さにので浸水し、文字通りの「水の都」となっている。ところでベネチアはヴェネチア、ベニス、ヴェニスなど様々に表記されることがある。文学では「ヴェニスの商人」「ヴェニスに死す」だが、歴史の教科書では「ヴェネチア共和国」である。外国地名の表記は、「できるだけ原音に近く、同時に読みやすい表記を用いる。ただし、慣用の固定しているものは、これに従う」(朝日新聞の用語の手びき)これに従えば、イタリア語のヴェネチアが一番原音に近い。ところが「ベニスの商人」「ヴェニスの商人」という英語が早くに知られ、慣用が固定しているともいえる。ついついヴェネチアではなく、ベニスと言ってしまうことが多い。

残虐刑の歴史

Img1e3111ecx344yo   1873年のこの日、明治政府は火あぶり、磔刑などの残虐刑を廃止した。これら残虐刑は古代からあったがとくに戦国武将たちが実施していた。武田信玄の残虐性は父の信虎譲りのものであろう。斎藤道三や蒲生秀行の「牛裂き」の刑も知られている。戦国武将の中でも、最も大量に残虐刑を行ったのは、やはり織田信長でろう。比叡山焼打ち、荒木村重一族の処刑などをみると、始皇帝、ネロ、ジンギスカン、ヒトラーに劣らぬ残酷さである。豊臣秀吉の行ったキリシタン弾圧も有名である。耳をそぎ、首に縄をつけ、全員を数珠つなぎにして京都より博多まで、1ヵ月も見せしめにして、長崎で磔刑にした。戦国乱世の弱肉強食の世が人を狂わし、権力者を全て異常にさせたものであろう。しかし、この残酷刑は江戸時代も踏襲された。主殺し、親殺し、関所破り、キリシタン等の重大犯に科せられる処刑は磔刑であった。受刑者を十字架にかけ手足を縛りつけ、首と腰の所も縛り、全く動けないようにしてから、着物の左右の脇の辺りをさいて肌を出すのである。その左右のわき腹の辺りから肩に突き出す様に処刑用の長い槍を「ありゃ、ありゃ」とかけ声を掛けながら、まず「見せ槍」を行い、その後一気に左右より処刑人が交互に数十回突き刺すのである。初めは血や臓物が飛び出してくるが、そのうちに大きな穴が開いて何も出なくなる。それでも突き刺し続け、最後には咽喉を右から貫いて、止めを刺したという。丸橋忠弥、平井権八、国定忠治、佐倉惣五郎夫妻らが磔刑となった。(11月13日)

 

 

2019年11月12日 (火)

苦海女神龍(アジア共通の歌謡曲)

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   「最愛」(1984)は柏原芳恵の21枚目のシングル。オリコンチャートでは最高位8位だった。芳恵のヒット曲は「春なのに」「ハローグッバイ」「花梨」など多数あるので、日本ではそれほど知られていないかもしれない。だが「最愛」はアジア圏ではとても広く知られた歌である。香港のアイドル歌手ヴィヴィアン・チョウ(周慧敏)が「最愛」をカバーして大ヒットしたからだ。上海でのコンサートでもラストに歌う曲でファンにはたまらない極上の一曲である周慧敏はスタイル抜群のとても美しい歌手である。河合奈保子の「ハーフムーン・セレナード」も中国では「月半小夜曲」として広く知られている。水越恵子の「Too Far Away」も日本ではそれほどヒットしなかったが、韓国ではジョンフンなどがカバーして今では名曲となっている。

 

蔡淳佳(ツァイ・チュンジア)はシンガポールの歌手だが、中国語で「涙そうそう」や「雪の華」をカバーしている。「療傷系紙片人」と呼ばれ、いやし系の紙のように痩せている美人という意味。

日本の歌曲はアジア各国で知られているというのは戦前からのことで、日帝植民地支配による影響が大きい。だがアジアの歌姫テレサ・テンが歌ってアジアで広まった日本の歌謡曲は多い。「グッド・バイ・マイ・ラブ」「長崎は今日も雨だった」「港町ブルース(苦海女神龍)」「襟裳岬」「北国の春」「昴」などなど。梓みちよの「渚のシャララ」などは本国日本よりも海外で知られている。

 

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Vivian Chow

2019年11月11日 (月)

第一次世界大戦停戦日

  戦争は泥棒をつくり、平和が彼らを絞首刑にする (西洋の諺) 

 

Img_0001     1918年11月11日、主戦場となったヨーロッパの各国では、この日を祝日にしている。第一次世界大戦の正確な人的被害は特定できないが、死者・行方不明が約1000万人、と推定されている。

    ドイツ代表団のマティアス・エルツベルガー団長(中央党議員)が、コンピエーニュの森(フランス北部オアーズ県)の鉄道列車の中で、休戦協定に調印した。エルツベルガーは「ドイツ国民は50ヵ月にわたりあなた方敵国に対抗してきたが、今後はいかなる暴力にもかかわらず、自由と統一を維持するだろう。7000万国民は苦しんでいる。しかし、死にはしない」

   これに対してフェルデイナン・フォッシュは一言、「たいへん結構だ」と答え、握手もせずに列車から出ていった。(Compiegne)

 

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 この列車の中で休戦協定は署名された

スペインの地理的位置と特色

Spmap111  スペインはイベリア半島に位置し、半島の約5分の4を占め、西に国境を接するポルトガルが残り約5分の1を占めている。イベリア半島は、地中海の入口を塞ぐような形で突出しており、南端はジブラルタル海峡をへだてて南のアフリカ大陸に対している。フランス、アンドラと国境を接するが、ピレネー山脈の高峻な山々に隔てられるため、西ヨーロッパでは「ピレネーの向こうはアフリカ」とも言われてきた。現在のスペインの国土は、半島部のほかに、地中海のバレアレス諸島、大西洋のカナリア諸島から構成されている。またこれらに加え、対岸の北アフリカカにはセウタとメリリャの2都市を有している。

   スペイン内戦に勝利したフランコは、第二次大戦では中立国ではあるものの親枢軸国側であったため、戦後は各国から冷遇された。

  イギリスとの間には、1713年のユトレヒト条約以来イギリスが領有しているジブラルタルの問題がある。

 

 

パリの美術館・博物館

  パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。日本では美術館・博物館という区別が明示されるが、フランスではすべてミュージアム(ミュゼ)である。だから、フランスの展示施設を日本語に直すときには、収蔵品の性格にしたがって、ルーヴル美術館とか自然史博物館とか、選択がなされている。ルーヴル美術館は古代から19世紀にわたり、ルーヴルの続き、つまり19世紀の終わりから20世紀に関する芸術は、オルセー美術館と国立現代美術館が紹介している。パリにはルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、モンパルナス美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)がある。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館や素朴派の画家たちの作品を集めたパリ市立アル・サン・ピエール素朴派美術館がある。

 

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  ジャックマール・アンドレ美術館

 

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

 

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

 

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

 

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 ケ・ブランリ美術館

 

  欧州初公開された「風神雷神図屏風」。チェルヌスキ美術館はパリ8区、モンソー公園沿いのヴェラスケス通り7番地にある。

 

 

箸を普及させたのは聖徳太子だった!?

14   本日は「箸の日」。中国で箸が使用されたのは古く、 「史記」の十二諸侯年表に、殷の箕子が、紂王がぜいたくな象牙の箸を作ったとき、この調子では、ぜいたくは極まるところがなく、国を滅ぼすことになるだろうと憂えて泣いたという記事が見える。河南省安陽県から最古とみられる殷代の青銅製の二本箸が出土しており、紀元前1000年頃とみられている。このころの箸は、実用的なものではなく、祭祀用のものだったろうといわれる。先秦時代までは「挟」と呼ばれていたが、秦時代になると「箸」となって、ふつうの食卓で使われるようになり、漢代になると、箸と匙を使う食事作法が普及したようだ。日本に箸が伝来したのは遅く、3世紀、卑弥呼の時代でも「魏志倭人伝」に「倭人は手食する」とあることから箸を使っていなかったらしい。7世紀に小野妹子ら遣隋使が中国から帰国したときに箸があり、中国の食事作法が伝来した。ところが習慣で人々は手づかみの食事が続いていた。遣隋使に対する返礼の使節団が隋からやって来たとき、対面のために聖徳太子が役人たちに箸の使用を求めたのが箸が普及するきっかけとされる。8月4日,11月11日

2019年11月10日 (日)

すめらぎのいやさか祝う旗の波

 天皇陛下の即位に伴う祝賀パレードが本日、行われる。午後3時、皇居・宮殿を出発し、オープンカーに乗り、桜田門の交差点を通り、国会議事堂を経て、青山通りの交差点を曲がって、赤坂御所へ向かう。我々日本人にとって「天皇」とはなにかを考えるよき日となる。天照大神から地上の支配を命じられた初代、神武天皇が即位したのも11月10日のことである。万世一系である天皇家は今上天皇の誕生で126代目を数え、象徴天皇制から3代目となる。もちろん天から降りてきたという大王の神話は創作されたものであろうが、この千数百年の永き伝統は世界皇室をみても比類なく、各国メディアも注目している。

不思議な偶然の一致

    すでに知る人ぞ知る天皇家の不思議。偶然とはいえ、あまりに偶然すぎることである。2人は揃って皇室に入ることは生まれたときからの運命だったに違いない。

 

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    名前を並べて、互いに読んでみると、このようになる。やはり不思議な偶然の一致である。

 

2014年、高倉健が亡くなった11月10日は、奇しくも森繁久彌(2009年死去)と森光子(2012年死去)の命日。歌舞伎をのぞく演劇・映画・放送分野の俳優で、過去4人しか受賞していない文化勲章の受賞者が同じ命日というのはあまりに偶然すぎる。

 

    惨劇の日が重なることがある。池田小学校事件(2001年)と秋葉原通り魔事件(2008年)は6月8日の同日。2013年の米サンタモニカの大学で起きた銃乱射事件は現地では6月7日だが日本時間では8日である。

2019年11月 9日 (土)

夜郎国と李白

    李白(701-762)は、755年11月9日の安禄山の乱の時、揚子江方面で旗揚げした永王璘(りん)の叛軍に加わった罪で夜郎へ流罪されることになった。夜郎への旅の途中、妻の宗氏にあてた李白の詩「南のかた夜郎に流されて内に寄す」がある。

 

    南流夜郎寄内

 

 夜郎 天外 離居を怨む

 

 明月 楼中 音信疎なり

 

 北雁 春帰って 看み尽きんと欲し

 

 南来 得ず 予章の書

 

(通釈)私は夜郎というさいはての地に向かいつつ、きみと離ればなれの暮らしを嘆いている。月あかりのもとの高楼にいるきみからは、たよりもなかなか届けられない。北へ飛ぶ雁は春となって帰ってゆき、私が見送るうちにすっかりいなくなりそうだが、私は雁たちと反対に南へ来てしまい、予章にいるきみからの手紙を受け取ることができないのだ。

    従来、李白は夜郎に向かう途中で恩赦により引き返したという説が有力であった。「NHK古典講読,漢詩李白、2007年4月ー9月」の年譜を見ても「乾元2年(759年)3月、夜郎に至たらぬうちに恩赦に遇う」とある。しかし、近年の研究によると、李白は夜郎に到着し、逗留したのち、恩赦により引き帰したと考えたほうが妥当であろう。(胡大宇「李白と夜郎」、『夜郎研究』貴州民族出版社、2000年)

    ところで夜郎といえば、「夜郎自大」という四字熟語が想起されるが、この李白の時代の夜郎とは、中心的な所在地が大きくことなる。漢代の夜郎国は貴州省の西部、西南部にあり、唐代の郡県の夜郎は貴州省北部の桐梓(とうし)県夜郎壩に治所が置かれた夜郎郡夜郎県である。唐代夜郎県は五代、北宋と642年から1120年まで設置された。

トルストイとチェス 

Counttolstoy_prokudingorsky_r   ロシアの文豪トルストイは、大のチェス好きであった。大学生のころ、ペテルスブルグのチェスクラブの常連であった。そこでいつもツルゲーネフと、チェス盤をはさんで向かい合っていたという。1864年に、妻の弟にあてた彼の書簡があり、それには「きみはチェスをやっていますか。私は、チェスや本や狩猟のない生活なんて、想像もできません」と書かれている。

トルストイの晩年の生活では、チェスはさらに重要なものとなっていた。チェスは、夕方の日課だった。相手をつとめたのは、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル(1875-1961)という若いピアニストであったが、2人は15年間に600局以上のケームをしたといわれている。ゴリデンヴェイゼルはトルストイの最期を看取った1人だが、回想録にはチェスのことが詳しく書かれている。

 

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 ゴリデンヴェイゼル

 

Leo Tolstoy,Alexander Goldenweiser

 

 

ベルリンの壁崩壊

Ss20121003b1   1989年のこの日の夜、東西のドイツを二分してきた壁はに市民が殺到し混乱の中で国境閲覧所が開放され、翌日にベルリンの壁の撤去作業が始まった。ドイツ語でMauerfallという。翌年の10月3日、東西ドイツが45年ぶりに統一され、ドイツ連邦共和国が誕生した。

    前夜から、それまで東西ベルリンの境界の象徴だったブランデンブルク門の周囲には、シャンパンや新国旗を手にした約100万人の市民が集い、統一国家誕生の時を待ち受けた。午前0時を期して、門の脇に建つ旧帝国議会前の広場で開催された統一記念式典の壇上に立ったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が「われわれは、みずからの意思にもとづいて統一を自由のうちに完了する」と宣言。この瞬間、人々の頭上には花火がきらめき、ライトアップされたブランデンブルク門をバックにいくつもの国旗が振られ、歓声の渦がまきおこった。新生ドイツは、人口約8000万人、面積約35万7000K㎡、国民総生産1兆4200億ドルの経済大国として欧州の中央に位置する。新生ドイツの大統領は2013年現在まで6人。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー、ローマン・ヘルツォーク、ヨハネス・ラウ、ホルスト・ケーラー、クリスティァン・ヴルフ、ヨアヒム・ガウク。(10月3日)

 

 

お涙頂戴式の映画史

95ca00e4   オペラ・映画・ドラマなどで地球上どこかでいつも上演や放送されているのはデュマの「椿姫」(1848)だそうだ。美しくて若い女性と青年がふとしたことで出合い愛し合う。やがて真実の愛が生れる。だが、病魔は着実にヒロインの身体を蝕んでいく。このようなストーリーを難病ものという。通俗的な物語も多いが、最も多くの人に愛される話である。その証拠には、「椿姫」を基本パターンとした物語は数限りなくある。もちろんドキュメンタリー風なものや手記のようなものも多くある。日本では「不如帰」(1898)や「野菊の墓」(1906)が元祖か。映画にもなった「絶唱」や「愛と死を見つめて」は純愛ブームといわれた。21世紀になって、「世界の中心で、愛をさけぶ」「1リットルの涙」「タイヨウのうた」「余命1ヶ月の花嫁」などヒロインが不治の病に侵される話は多い。「恋空」は男性が他界する映画だった。「世界の終わりに咲く花」はまだ見ていない。最近は一家の柱である父親が幼い子どもを残して死ぬという話も涙をそそる。古くは「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」、最近では「天国で君に逢えたら」がある。韓国映画は「八月のクリスマス」「私の頭の中の消しゴム」など難病ものは多数ある。

    洋画で難病+純愛といえば、「ある愛の詩(ラブストリー)」(1970)が決定版である。それまでの恋愛映画では「哀愁」は戦争&交通事故、「慕情」は男が戦場での不慮の死だった。西洋では不治の病は「椿姫」と重なるので、さける傾向にあったといえる。英語ではtearjerkers(お涙頂戴式の映画)。

 

 

2019年11月 8日 (金)

ルーヴル美術館

    パリはいうまでもなく世界で最も美しい観光都市であり、主要な名所旧蹟を訪れるだけでも数日間は要する。ルーヴル界隈の美術館、博物館だけでも大小100近くある。なかでもルーヴル美術館は世界中から年間800万人の来館者が訪れる。美術品が40万点以上収蔵しており、3万5000点が展示されている。宮殿の美術品を公開したのは1763年11月8日のことで、ルーヴル美術館のはじまりである。

    建物は3翼に分かれており展示は、リシュリー翼、ドノン翼、シュリー翼からなっている。フィリップ2世(在位1180-1223)が1200年ころにパリ右岸の町を防備するために要塞を築いたのがはじまりで、14世紀にシャルル5世、16世紀にフランソワ1世(在位1515-1547)が改修して王の居城に改め、次いでアンリ2世(在位1547-1559)が改造拡張し、その後も大規模な工事が続けられた。宮殿ルーヴルが美術館に生まれ変わったのは1793年8月10日。この時、王家の美術品は市民のものとなった。ほぼ現在の形になったのは、19世紀ナポレオン3世の時代である。このようにルーヴル美術館は開館以来220年の歴史を刻んできた。

 

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「鉛筆をけずる若いデッサン画家」シャルダン 1737年

 

( keyword;Musee du Louvre )

昆布茶の歴史

Konbui  立冬の昆布茶すする昼餉かな

   本日は立冬、暦の上では冬が始まります。だんだんと寒くなってきましたが、昼下がり夫婦一緒にあたたかいこぶ茶を飲むと心も体もあったまる。じいさん、ばあさんの何もない一日ですが、不図この「昆布茶」を発明した人は誰なのか疑問がわく。こぶ茶の歴史は確かな記録が残ってないので定かではないが、江戸時代には既に刻み昆布を熱湯に入れて飲んでいたらしい。現在のような粉末状の昆布に各種調味料を加えた形の「こぶ茶」が発明されたのは大正時代のこと。1918年に藤田馬三(1894年生まれ)がお湯を注ぐだけで簡単に作れる昆布茶を考案した。

 

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 玉露園の創業者、藤田馬三

 

 

 

 

 

 

紀文度胸千両の蜜柑船

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   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

2019年11月 7日 (木)

カンボジア略史

Photo アンコール・ワット

 

UNIT1.概観

  カンボジア(Canbodia)は紀元前後からメコン、トンレサップ両川流域にクメール族によって古代文化が開いた地域である。宗教はクメール王朝時代はヒンドゥー教であったが、タイの植民地となって小乗仏教になった。古い中国の文献には扶南(フナン)国、眞臘(シンロウ、チェンラ)国の名で知られた。日本語「カボチャ」の語源は、16世紀ポルトガル船に積み込まれたカボチャがカンボジア産だったことから、その名がついたといわれる。朱印船が「簡浦寨(カンボジア)」へ渡航した記録が多く残っている。明末の地理書「東西洋考」(張燮撰)には「東埔寨」の名で記されている。

 

UNIT2.クメール帝国

 インド文化の東漸で、メコン川流域の平野部を中心にインド人が先住民のクメール人を支配して東南アジア最初の国家「扶南(フーナン)王国」を成立。(紀元1世紀ころ)2世紀頃まではまったく未開のままであったが、3世紀初めにはカンボジア、コーチシナ、マレー半島を支配。農業を基盤とする国家であったが、海上貿易も発達。海港都市オケオ(Oc-eo)の遺物から、公用語としてサンスクリット語を用い、仏教やヒンドゥー教を奉じ、インド的な工芸技術が発達していたことがわかる。遺物の中には、遠くローマや中国(漢)との交渉を示すものがある。

    6世紀末、クメール人(眞臘)がおこり、7世紀前半、扶南を滅ぼす。705年頃、北の陸眞臘(ラオス)と南の水眞臘(カンボジア)に分裂。一時水眞臘はジャワのシャイレンドラ朝に支配される。802年、クメール族は南北を統一し、ジャヤバルマン2世のときアンコール地域を中心としたカンボジア王国は最盛期を向かえ、その繁栄は13世紀初頭まで続いた。アンコール遺跡群に特に関わったとされる王はスーリヤヴァルマン2世(1113-1145年)のアンコール・ワットとジャヤバルマン7世(1181-1218年)のアンコール・トムといわれる。14世紀以降シャム、ベトナムから攻撃され衰える。アンコール・ワットはヒンドゥー教のヴィシュヌ神を祀る寺院としてクメール時代に建立された。

 

UNIT3.仏日のカンボジア支配

   1863年、フランスの保護国となったが、王制は存続。第二次世界大戦中、日本軍が進駐したが、1941年シアヌーク国王は即位。1945年3月、独立を宣言したが、日本の敗戦により、フランスの支配にもどる。

 

UNIT4.シアヌーク時代

   シアヌーク国王は1953年11月、フランスから完全独立を達成。1955年、王位を父スラマリットに譲り退位。以降シアヌークは首相、元首として独自の中立政策をとるが、ベトナム戦争で解放戦線側を支持しアメリカに敵対政策をとる。

 

UNIT5.ロン・ノル政権

   1970年3月、親米派のロン・ノル元帥が外遊中のシアヌークから元首の地位を奪い実権を掌握。10月クメール共和国と改称して共和制に移行、1973年3月大統領に就任した。シアヌークは北京に亡命し、1970年3月、カンボジア民族統一戦線を結成。1975年4月17日、共産党がプノンペンを陥落させ実権を掌握。

option ユネスコ世界文化遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡はいつ頃造営されたのか?

   カンボジアのアンコールには二大遺跡がある。9世紀末に第1次アンコール・トムが建設されたのが、大建築の序曲で、12世紀前半、ジャヤバルマン2世によって、30年の歳月をかけて建設された。続いて13世紀の初め、ジャヤバルマン7世によって、現在に残る一辺約3㎞の正方形をした第4次アンコール・トムが造営された。この建物は当初、ヴィシュヌ神を祭るヒンドゥー教の祠堂であったが、後世仏教寺院に変更され、他の多くの遺跡がタイ族の侵入によって放棄され、熱帯の巨木にうずもれて忘れられていた。

室町幕府の成立

Sc_10     室町幕府の成立時期は、幕府の施政方針が建武式目として確立された1336年11月7日とする説と、足利尊氏が征夷大将軍となった1338年の2説があるが、むかしは1338年説が主流だったが今日では前者1336年が有力説である。尊氏は幕府を開いたのちも、南北朝の対立は続き、なかなか全国を統一することができなかった。尊氏の孫義満の代になってようやく基礎が固まった。1392年南北朝は合一した。現在、京都市上京区今出川室町の東北角に「従是東北足利将軍室町第址」と記された石標が立っている(画像)。室町幕府の遺構が全く確認できず、位置を示す唯一の目安となっている。

2019年11月 6日 (水)

桂離宮と八条宮智仁親王

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    桂離宮は、京都の西南、桂川の西岸に位置する。ここは、急峻な谷あいを過ぎて嵐山に出た保津川が大堰川と名を変え、さらに桂川となって緩やかに蛇行しながら川幅を広げて南下するところである。桂川のほとりにあるこの地は、平安時代から名高い行楽地であったが、慶長の末年に八条宮領となると、智仁(ともひと)親王によって別荘が造られた。八条宮というのは豊臣秀吉が一時智仁親王を猶子に迎えたが、淀の方に鶴松が生まれたので養子わとりやめ、親王のために創立した宮家であった。八条宮智仁親王は幼少の頃よりすぐれた文才があり、早くから細川幽斎に歌道を学び、当代の宮廷を代表する文化人に成長した。工事は1620年から数年のうちに進められ、さらに智忠親王の代になって、寛永の末年から新書院などの増築があり、かつ後水尾天皇を迎えるために整備された。その後も長く宮家のものとなっていたが、1881年絶家によって、2年後宮内省に移され、離宮となった。

  桂離宮は敷地約45000㎡、そのうちには桂川の水をひき入れた大きな池があり、建築物はその周囲や島に点在する。主屋である書院は池の西にあり、中書院、新書院と雁行している。中門から古書院御輿寄りにいたる中庭には、苔の中に敷石が直線的に配され、離宮中での見どころの一つである。古書院と中書院は最初の造営のときのもので、ほとんど装飾のない簡素な書院で、数奇屋造りの手法をとりながら端正さを失っていない。観月のための竹簀子露台、中書院奥の庭をみる広い緑と腰掛など、庭園に密着した意匠がみられる。新書院は増築部で、桂棚といわれる複雑な形のたなは名高いが、意匠的には前2者に及ばない。しかし床の高い清素な外観は古書院などとの調和をよく保っている。1933年来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、「日本建築の最高作」と絶賛している。なおタウトは桂離宮を作ったのは小堀遠州としているが、現在の研究では小堀遠州が直接関わったことはないとされている。

 

 

 

馬琴忌

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 鏑木清方「曲亭馬琴」 明治40年

  嘉永元年、1848年のこの日、滝沢馬琴は「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴は82年の生涯を閉じた。滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、父・滝沢興義、母・吉尾門左衛門の娘お門の五男として、江戸深川に生まれた。安永5年から天明7年の間、はじめ松平、次に戸田、水谷、小笠原、有馬の各家に仕えたが持前の傲慢な性格と不遜な野望が禍をして、いずれも短期で仕を辞している。寛政元年頃、亀田鵬斎に入門、石川五老から狂歌を学ぶ。翌年山東京伝を訪ねて知遇を得、京伝から貰った大栄山人の号で「用尽二分狂言」を刊行したのが戯作生活のはじめで、旺盛な創作活動が開始された。

  「南総里見八犬伝」(1814-1842)の第1輯が刊行されたのは、馬琴が48歳の時で、最後の第9輯帙下の下編の刊行を見たときは、馬琴は78歳に達していた。つまり八犬伝は28年という長年月を費やされて完成されたものであった。

   天保4年の秋のある朝のことである。67歳の馬琴は右目が見えなくなっていることに気づいた。長年の執筆の疲労が表れたのである。それでも左目がみえるので、苦にすることもなく書き続けていると、天保9年からは左目もかすみだし、11年の夏になるとまったく朦朧たる状態になり、原稿も手探りで書くようになった。八犬伝の完成のため、息子の宗伯(天保6年死亡)の嫁お路(みち)に口述筆記させることで完成しようとした。ところが、お路は無筆に近く、まず字の書きようから教えねばならない。八犬伝は、普通の読本以上に難字僻句が多用されているから、これを教わるお路の苦労は並大抵のものではない。ついには辛さのあまり泣き出すほどである。その内にはお路も仕事になれて、八犬伝の名前くらいは空で書けるようになり、進度もはかどるようになった。そして天保13年(1842年)8月20日、「南総里見八犬伝」が完成した。日本で最も長い小説、いな、世界でも有数の長編小説である。八犬伝の完成のうらには、一人の寡婦の血のにじむような苦闘があったのである。(参考:「南総里見八犬伝」日本の古典16、世界文化社)11月6日

2019年11月 5日 (火)

チューリップと風車だけじゃないオランダ

Photo_2  1649年の秋、哲学者デカルトが隠棲の場所として選んだのはオランダだった。鎖国の江戸幕府がヨーロッパで唯一交易を許したのもオランダである。1579年のユトレヒト同盟によって宗教的自由を勝ち得たオランダは、1581年スペインから分離宣言し、1648年のウェストファリア条約で独立を認められた。そして17世紀には東インド会社を中心とした世界的商工業国家へと繁栄していた。徳川幕府がオランダから海外情報を得ていたことは正解だったといえる。1688年英国議会の要請により国王に招請されたオランダのオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム2世)は軍勢を率いてイギリスに上陸した。この蘭英の連合は、オランダにとって、不利益となる。以降、オランダは衰退する。植民地戦争にイギリスに敗れ、ナポレオン統治下のフランスに併合される。このような事情を徳川幕府が知っていたかは定かではない。1815年のウィーン会議でオランダ王国が成立し、1839年ベルギー、1890年ルクセンブルクが分離し、現在の国土となった。

Photo     オランダは立憲君主制の国である。現在はベアトリクス女王だが4月30日にウィレム・アレクサンダーに王位を譲位する予定である。野球オランダ代表はキュラソー、アルバなどカリブの島の選手たちが活躍している。国際試合で気付くことだが、オランダの国名は「ネーデルラント(the Nederlands)」である。日本語では慣例としてHolland(ホラント)州にちなむ俗称「オランダ(Holanda)」で呼ばれている。ネーデルランドとは「低地の国」という意味。オランダは低地で運河が多い。小川の多い地域ではフィーエルヤッペンという遊びがある。

 

Overzicht_accommodatie_hs_nfm_2010_  オランダ北東にあるフリースランド州には250年以上前から行われている伝統的スポーツで、棒高跳びのように長い棒を川や運河に差しジャンプしてよじのぼり出来るだけ遠くに飛ぶことを競うフィーエルヤッペン fierljeppen である。

 

 

ツタンカーメンの呪い

Photo    古代エジプト第18王朝の王ツタンカーメンの墓は1922年のこの日、盗掘を免れて完全な状態で発見された。ところが発見者の1人カーナボン卿が翌年に毒虫に刺されて死んだ。と、思うと、つぎつぎに発掘に関係した人々が変死を遂げた。それは「ファラオの呪い」のためであり、ツタンカーメン王の墓には、「ファラオの休息を乱した者には、たちまち死が襲うだろう」という呪いの銘文が刻まれている。ファラオとは「ペル・アア」(大いなる家)という古代エジプト語のギリシア語形で、もともと王ではなく、王宮を指すのに使われていた。「大いなる家」は神殿領や貴族の所領のような小さなペウル(家)の課税を行うことになっていた。新王国時代以降、この用語は王自身を指すのにしばしば使われるようになった。(11月5日、Tut-ankh-Amen,pharaoh)

2019年11月 4日 (月)

メソポタミアにおける灌漑文明の形成

Sumerian  世界最古の農耕遺蹟はどこか?1948年、50-51年にアメリカの考古学者ロバート・J・ブレイドウッドらが北イラク、キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にあるジャルモ遺跡を発掘した。紀元前7000年頃から紀元前4950年に存在した遺跡で、レバントのイェリコやアナトリアのチャタル・ヒュコク遺蹟とほぼ同時期に存在していた。ジャルモ遺蹟は定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともかくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。とくにラガシュは、紀元前2500年頃から紀元前2000年頃まで、時にはメソポタミアの中心都市として、時には他の帝国の属国として、変遷を遂げながらも存続した。紀元前21世紀の半ばにはラガシュが世界で一番人口の多い都市であった。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。メソポタミアとはギリシア語で、メソは「間」、ポタモスは「川」のことで、「川と川の間の地」という意味である。

  ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

 

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珈琲とバッハ

Bachandcoffee    コーヒーはもともとイスラム世界にあるもので、イスタンブールには早くからコーヒー店があった。ロンドンでは1654年に開業したクイーンズ・レイン・コーヒー・ハウスが古く、17世紀中頃には新聞や雑誌を読んだりする、情報収集の場としても広がっていた。ただし女性が出入りすることはなく、男性客のみが対象であった。17世紀の終わりには、2000軒ものコーヒーハウスがロンドンにあった。J・S・バッハ(1685-1750)が住むライプツィヒにもコーヒーハウスが8軒あり大繁盛している。もちろんドイツでも「女性はコーヒーを飲むべきではない」とされていた。このような風潮に反発する女性の声を代弁したのが詩人のピカンダーで、「おしゃべりをやめて、お静かに」(1732)という、コーヒー好きの娘リースヒェンと、なんとかコーヒーを止めさせようとする父親シュレンドリアンの様子をコミカルに風刺した。バッハは1734年にこの詩に曲をつけ、「コーヒーカンタータ」をつくった。バッハも遺品からコーヒー・カップやポットがあり、コーヒーを好んでいたらしい。「1000回のキスより愛おしく、マスカテル・ワインより甘美だ」と言っている。イギリス、ドイツに遅れてコーヒーが広まったフランス。1715年にルイ14世の命により、当時ブルボン島と呼ばれていた自然豊かな島にコーヒー豆が栽培された。しかしルイ14世の時代、宮廷ではコーヒーはさほど普及せず、次代のルイ15世の時代にコーヒーは普及する。(Bach,Cofee Cantata,Schweight still,plaudert nicht)

「お転婆」の語源

 江戸時代は蘭学が盛んでオランダ語に由来する外来語は多くある。「アスベスト」「インキ」「エレキ(エレキテル)」「「オリーブ」「オルゴール」「ガス」「ガラス」「カバン」「ペスト」「ペン」「マドロス」「メス」「ヨードチンキ」「ランドセル」などなど日本語として定着した言葉は数多くある。ポン酢は、柑橘類の果汁を意味する「PONS(ポンス)」に由来する。

   男勝りの活発な女の子を「お転婆」という。その行動の1つの典型として、「おはなはん」のように「木登り」する女の子というのがある。

   語源は一般にはオランダ語のオンテンバールontenbaar(馴らし難い)から日本語への借用と考えられている。しかし事物起源は例にもれず常に論争の元であり諸説も多い。①天馬(てんば)の変化。②顛婆(てんば)の変化。③伝播(でんぱ)の変化。④女の子の足早に歩く様子のテバテバのテバにオのついてオテバから。⑤勢いよく跳ね回る「お伝馬」から。

ミハイル・ロマノフ

   1609年から1612年までロシア・ポーランド戦争おこる。ロシアでは皇帝不在の空位期間に陥ったが、1612年のこの日、ロシア国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻して、その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国議会にてミハイル・フョードロヴッチはツァーリに選出された。ロマノフ朝のはじまりである。(11月4日)

 

 

 

 

平民宰相原敬暗殺さる

    大正10年11月4日、午後7時20分、総理大臣原敬(1856-1921)が、東京駅改札口付近で中岡艮一(1903年生まれ。当時19歳)に短刀で胸を刺された。すぐに駅長室に運び込まれたが、傷は右肺部から心臓に達し、数分後に絶命した。享年65歳だった。

    原敬は、京都で開かれる政友会支部大会に出席するため、東京駅に来ていたが、見送りの中橋徳五郎文相(1861-1934)と談笑していたとき、凶行にあった。暗殺犯の中岡は、国鉄大塚駅運轍手で、9月28日の安田善次郎(1838-1921)を殺害した国粋主義者・朝日平吾(1890-1921)に感激し、犯行を決意したといわれる。

    この暗殺事件で原内閣は翌日総辞職し、高橋是清(1854-1936)が政友会総裁を継ぎ、新内閣を組織した。

    敬には実子がなく、兄の二男の原貢(1902-1983)を明治44年に養子にしていた。原貢は大正10年、慶応予科を中退して、大正10年11月に英国に留学に向かう途中で養父の死を知る。11月5日夜、マラッカ海峡を航行中の船上で電報を受け取った。帰国せずにそのまま留学せよ、という命令により翌年まで英国に滞在。昭和15年から昭和21年まで同盟通信社に勤務する。戦後は原奎一郎という筆名で小説家となる。代表的なものは「原敬日記」の編集、「ふだん着の原敬」「原敬をめぐる人びと」など。ほかに「恋愛実技」「恋愛成功法」(昭和34年)という著書もある。

   ところで暗殺犯の中岡艮一への判決は無期懲役であったが、数度の恩赦により、昭和9年に出獄している。戦後の消息については不明である。

2019年11月 3日 (日)

まぼろしの大松監督

   最近の俳優は一定のイメージに捉われず、どんな役にも挑戦するタイプが増えてきた。松山ケンイチや小栗旬、鈴木亮平など「ど根性ガエル」「ルパン三世」「変態仮面」にみえる。かつてモンゴメリー・フォード主演のマカロニウエスタンを見ていると、仲代達矢が悪党の一味で出演していた。「七人の侍」のエキストラから文化勲章にいたるまで、ヒーローから悪役まで何でも演じてきたという感じがする。俳優には高倉健や吉永小百合のように一定のイメージの範囲で演じるスターとどんな役でも演じられる幅広い役者の2つのタイプがある。あのゲーリー・クーパーやジョン・ウェインといえば西部劇スターだが、長いキャリアの作品には「マルコ・ポーロの冒険」(1938)や「ジンギスカン」(1956)もある。金田一耕助やサスペンスドラマでお馴染みの古谷一行にも諸葛孔明を演じたことがある(「三国志の大地」(1993)。田中裕子の西太后(「蒼穹の昴」2010)もかなり異色の作品である。丹下左膳で知られる大河内伝次郎が十和田湖のマスの養魚に成功した偉人、和井内貞行を演じたことがある。「われ幻の魚を見たり」(1950)は名作だった。NHK大河「いだてん」では鬼の大松博文が登場する。しかし彼を演じた徳井義実が申告漏れの指摘を受けて放送時にほとんど出演シーンがカットされたのは残念だ。

 

 

2019年11月 2日 (土)

白秋忌

Img24aa7f18zikczj   からたちも秋はみのるよ

 

  まろいまろい金のたまだよ

 

   今日は白秋忌。「からたちの花」の詩が「赤い鳥」に発表されたのは、大正13年。白秋はやがて40歳になろうとする頃だった。

   北原白秋(1885-1942)。本名は隆吉。生地は福岡県山門郡沖靖村。海産物問屋、柳河藩の御用達を勤めた家の生まれ。白秋の小学生のころ、柳川の家の路地に咲くからたちの花をながめながら通学したという。当時、次々と新作童謡を発表していた。「砂山」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」など、今なお歌い継がれている同様が数多く残されている。白秋は2番目の妻、江口章子と離婚した後、菊子夫人と再婚している。ところが昭和12年、眼疾のため失明する。昭和17年、腎臓病で没した。享年57歳。(11月2日)

 

 

2019年11月 1日 (金)

リスボン地震

Photo_2  1755年のこの日、ポルトガルのリスボンで大地震が起きた。当時、地震は「神の罰」だと考えられ、その強大な力の前では、人間はただ祈り、受け入れるしかなかった。このため復旧の気運が高まらなかった。

  リスボンは英語で、ポルトガル語では「リジュボア」と発音する。ローマ帝国時代の古名オリシポが転訛したものである。さらに、古名の語源は、フェニキア語のアリス・イポ(alis ibbo、良い港)である。ここを最初に開いたのはフェニキア人である。その後、ローマ時代から西ゴート王国時代を経て、8世紀にはアフリカから新たに侵入してきたイスラム教徒の支配下に入る。その後、国土回復運動に際し、1147年に初代ポルトガル王アフォンソ・エンリケシュがリジュボアを占領すると、王はサラセン軍が築城した丘上の城を整備して、サン・ジョルジュと名付けて居城とした。またマヌエル1世(在位1495-1521)は10㎞下ったテージョ河の河口にベレン城(画像)を築いた。1515年から1521年にかけてのことである。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見やカブラルのブラジル発見などポルトガルの黄金時代が築かれた。1569年にはペストにより6万人の死者が、1755年11月1日、午前9時40分、マグニチュード9の巨大地震がリスボンを襲い、津波と火災により10万人の死者を出した。ポンバル侯爵(1699-1782)はリスボンを復興計画にもとづき防災都市にした。欧州諸国はリスボンに救援物資を送り、リスボン地震がもたらした影響は思想や文化にまで及ぼしている。(Lisboa,Olisipo)

 

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 ポンパリーナ様式の耐震構造

温故知新

Photo     「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に源氏物語に関する記事があることから、この日が「古典の日」と定められている。司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今日でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味に解するかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。古事記、万葉集、源氏物語、枕草子、百人一首など古典の研究も図書館が整備されたことで、新研究が盛んである。

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犬の日

29154f84dad74bc592d4216e5bb50e36    「犬は人とともに生活し、怜悧で従順で、しかも犬ほど人類社会に貢献している動物しない」(大野淳一『犬・その銘柄』)11月1日はワンワンワンの語呂合わせから「犬の日」としている。ドッグショーなどでは、犬種の雄雌、年齢で区別されて審査される。雄犬はドッグ、雌犬はビッチ。

    犬の頭数の世界的な増加は人間の増加に匹敵するといわれる。いまや人間の住む世界各地で犬の姿が見られ、家犬の品種は400を超えるが、これらの品種はいずれも人為的淘汰の恩恵を受けて今日に至っている。というのも、大型犬のグレートデンであれ、小型犬のチワワであれ、犬はすべて、先史時代の猟人に飼い馴らされたオオカミの末裔だからである。

    今日の家犬は長い年代を経て人間に飼育されているので、その形態の変化や大小が非常にちがってきていて、一種の動物として、犬ほど形態や大きさのちがう動物は他に見ることができない。これは犬の遺伝子が多数であることにもよるが、その祖先が多元的であり、長い人為的選択をくり返してきたためと思われる。そして多数の品種が生じたのである。また形態ばかりでなく、性質も非常にちがっているので、古くから世界の各地方で、番犬・狩猟犬・愛玩犬が発達し、北方地方ではそり犬のような運搬用に用いられ、またある地方では食犬として食用に供せられていた。人類の生活が複雑化するにつれて、狩猟犬もその獲物によって特長をもつ犬種が生じ、愛玩犬も種々の形のものが発達し、さらに牧羊犬が生じ、各種の軍用犬・警察犬のような高度の性能の犬や、盲導犬のような特別な性能をもつものもつくられるようになってきた。犬を人間の目の代わりに利用しようとすることは古代ローマ時代からみられるが、近代になっては1819年にウィーンの神父ヨハン・ヴィルヘルム・クライン(1765-1848)が、犬の首輪に細長い棒をつけれ盲導犬として訓練したのがはじまりとされている。

    原始的な犬は現在も野犬となっているオーストラリア産のディンゴー犬、インド産のバリア犬などの一亜種にはいっているが、現在の家犬は次の6亜種に分けられる。ポメラニアン型、北方犬型、番犬型、青銅犬型、狩犬型、グレイハウンド型。そのほかに南米のインカ犬型も一亜種とされている。(11月1日、Johann Wilhelm Klein)

灯台記念日

Photo   灯台の歴史は古く紀元前280年、アレキサンドリア港に対面するファロスPharos島に建てられたファロス灯台、高さ約180mの石積塔、樹脂混合草木燃焼式の大灯台が世界最初のものとされる。現在でもロマンス諸語でファロスという語が灯台を意味するのはこれからきている。(フランス語ファールPhare、イタリア語ファーロfaro、ポルトガル語farol、スペイン語faro)

    わが国では664年に天智天皇が遣唐使船などの船舶に利便を与える目的で、壱岐、対馬、筑紫に烽(とぶひ)をともしたものが始めとされている。それはのちに狼煙(のろし)といわれるようになった。江戸時代の燈明台は、18世紀以後商品流通の増大に伴う海運の発展のため夜間の航海や出入港が頻繁になると、廻船の安全を期して岬や主要港など100ヶ所以上もの燈明台が設けられ、重要なものは航路図上に記入されるようになった。

   幕末の開国後、外国船の出入港と幕府海軍軍艦船の増加を契機に、光力の強い西洋式灯台が必要となり、慶応3年外国貿易税率改訂に伴う約定として剣崎以下15ヶ所の洋式灯台設置が決定し、別に江戸湾付近の整備のため城ヶ島、品川などが追加された。建設事業は外国人技術者と購入機材によって進められたが、幕府倒壊後は新政府がひきつぎ、明治元年11月1日、日本初の洋式灯台、観音崎灯台(神奈川県横須賀市)が起工、明治2年2月に完成、点灯を始めた。その強い光力は旧式の燈明台とは段違いで、近代的照光装置の威力を発揮した。使用燃料は当初は植物性油で、のちに高能率の石油に変えた。また蒸気船の普及などから洋式灯台の設置は急ピッチで進み、明治9年には北は納沙布岬、南は九州南端の佐多岬まで30余ヶ所に達し、明治末年には100ヶ所を超えた。大正末期にはより強力な光源の電気化が始まり、それが普遍化した現代では機械類の自動化が急速に進んでいる。(参考:石井謙治「国史大辞典」,11月1日)

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