トレドとエル・グレコ
トレドはスペイン・カスティーリャ・ラマンチャ州にある。マドリードから南に71㎞の距離で、町の三方をタホ川で囲まれている。起源は例にもれず常に論争の元であり、時の流れという暗闇の中に見失われています。考古学では先史時代の遺跡も出土されているが、トレドに関しての最初の文献資料はローマ時代のものであり、要塞化された町であったと述べられています。紀元前190年にローマ衛士マルコ・フルビオ・ノビリオルの率いる軍隊によって征服が行われた。後日、ローマの歴史家ティト・リビオは彼の書物の中で、ローマの領地になってからは「トレトゥム」と呼ばれたとある。やがて5世紀にはゲルマン系の蛮族にイベリア半島は征服されてしまい、トレドも西ゴート王国の支配下に入った。レオビヒルド王はトレドをその王国の首都とし、トレドはそこに最初の輝かしい時代を迎えた。しかし712年にウマイヤ朝の指揮官ターリク・文・ジャードによって征服され、その町をトライトラと名付けられた。しかしアラビア人による占領も373年間にしか及びませんでした。カスティーリャ王国の国王配下アルフォンソ6世の指揮下にキリスト教徒の軍隊が1085年5月28日にトレド侵入に成功したからです。16世紀に、皇帝カルロス5世はトレドを広大な帝国の中心地、首都としたのです。だが1561年フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、トレドはゆるやかに衰退を始める。その頃、この町にギリシャ出身の若き画家エル・グレコがやってくる。彼はヴェネツィア・ローマに学んだのち、強烈な色彩・自由な構図を特徴とする多くの肖像画・宗教画をトレドに残している。
クレタ島に生まれたドメニコス・テオトコプーロス(1541-1614)が、いつスペインにやって来たのかわかっていない。1577年の春にはトレドで暮している。36歳のときである。生涯の大半をトレドで過ごしたが、ギリシア人であることに固執した。人は彼を「エル・グレコ」(スペイン語でギリシア人を意味する)と呼んだ。彼が描いたトレドの風景は、今日の景観と比べてみてもあまり違いがないといわれる。エル・グレコはトレドで何度も住まいを変えたが、最も長く暮したのはビリェーナ侯爵邸の主翼に隣接する多数の部屋で、そこは豪華をきわめた。彼の死後、屋敷は荒れ果てたものの、のちにもとの場所に再建され、現在はエル・グレコ美術館となっている。
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