明暦の大火
1657年1月18日午後2時ごろ、江戸本郷丸山町(文京区)の本妙寺からでた火は、おりからの西北のカラッ風にあおられて、湯島・神田に広がり、さらに日本橋一帯から八丁堀・霊岸島・鉄砲洲・佃島・隅田川をこえて深川にまで飛び火した。このとき、浅草見附門では伝馬町の囚人が解き放たれたことを知らない番人が、囚人の脱獄と勘違いして門をしめたため、火に追われた人びとが逃げ場を失って焼死したり、見附門を乗り越えたが神田川で溺死したりした。また、江戸防衛の目的から隅田川に千住大橋・両国橋のほかは橋がかけられていなかったことが、多くの犠牲者をだす原因となった。翌19日午前10時ごろ、小石川伝通院表門下の与力屋敷からでた火が、またたくまに燃え広がり、江戸城内濠をこえて北の丸の幕府重臣の屋敷を焼き尽くし、さらに天守閣・本丸・二の丸・三の丸の豪華な大建築もつぎつぎに焼け落ちた。その夕方にも麹町の町屋から火の手があがり、桜田一帯の大名屋敷を焼き尽くした。火は、山王荘から日比谷・芝まで燃え広がった。家康・秀忠・家光の3代50年間で築きあげた江戸城と江戸の町は、わずか2日間の火災で壊滅してしまった。この火災ののち、幕府は再び江戸の本格的な町づくりに取り組み、大名屋敷や神社・寺院の移転、火除地(広小路)の設定、隅田川の架橋など、防災体制の強化につとめた。明暦の大火の死者数は諸説あるが3万から10万と記録されている。
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