NHK大河ドラマ「風林火山」(2007)は、歴史ドラマの醍醐味を存分に見せてくれた作品だった。原作は井上靖(1907-1991)が「小説新潮」に昭和28年10月から29年12月まで15回にわたり連載した中編小説である。同じ年には井上靖の代表作ともいえる「あすなろ物語」を「オール読物」(昭和28年1月から6月)に連載している。
井上靖(1907-1991)は北海道上川郡旭川町で生まれ、伊豆湯ヶ島で幼年時代を、沼津で中学時代を、金沢で四高時代を、大阪で新聞記者として過ごしてきた。「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的物語と「風林火山」「信松尼記」(昭和29年群像3月号)などの歴史小説と異なるジャンルを並行して書き上げる多作の作家だった。なぜ井上靖は実在性を疑問視される山本勘助を小説にしたのだろうか。単行本の帯には次のように書かれている。
戦国時代には合戦に当って、作戦を指導し、秘策を練るというものがあった。彼自身は一軍の大将でもなければ、英雄でも豪傑でもない。併し合戦の勝敗は、この匿れた孤独の作戦者に負うところが極めて多かったようである。「風林火山」の主人公は、武田信玄の軍師山本勘助である。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ疑わしいが、それをふと一人の軍師の自己韜晦として想像した時、筆者は堪らなく勘助を、そのような人物を書いてみたいと思った。
同じ新聞記者出身の作家である司馬遼太郎と比較すると、司馬は歴史の史観を重要視するのに対して、井上は歴史スペクタルとしての歴史読物的な要素に関心があるように思える。
天文11年6月、武田晴信は、諏訪に侵攻、桑原城を急襲した。諏訪頼重は桑原城を開城、降伏した。晴信は頼重を甲府に連行すると、切腹を命じた。頼重の息女で15歳の諏訪姫(小説・ドラマでは由布姫)は美貌の少女だった。晴信は姫を側室にした。武田の重臣たちは、いかに女人といえ、敵の片割れをお側に召すことはよろしからずと反対したが、山本勘助だけが、もし諏訪姫に男児ができれば、諏訪の遺臣や一族も、滅びた家名がつながるとして、賛成し、勘助の助言により姫を側室に迎えることができたという。
第16回「運命の出会い」の場面の原作小説の一節。姫は辱めをうける前に自害を、という周囲の説得を拒否した。
勘助はそれまで呆然と姫の方に見惚れていたが、いきなり立ち上がると、姫の腕を掴み、「なぜ、自刃するのがお厭です」と言った。勘助の手を振り解こうとしながら、頼重の女は下から勘助の顔を見上げた。その時は、いつか見たあの敵意ある眼眸だった。「みんな死んで行く。せめてわたし一人は生きていたい」姫は言った。その言葉は勘助が今までに耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。「わたしまでが死んでどうなるの。わたしは生きて、この城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の眼で見たい。死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。自分で死ぬなんて厭!」憑かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。
山本勘助。幼少期に疱瘡を患って隻眼となり、片足も不自由だったといわれる。三河国牛窪の生まれといわれ、川中島合戦に討死した(1561年)と「甲陽軍鑑」に伝えられるが、その実在性には疑問があった。小幡景憲の「甲陽軍鑑」が江戸時代に編集された偽書・虚構としてみられてきたからである。ところが1969年に、勘助の名が書かれた史料「市河(市川)文書」が発見された。1557年(弘治3年)6月23日市河藤若宛武田晴信書状に、市河藤若への使者の山本菅助がみえる。実在の人物を小幡景憲が甲州流軍学の始祖に仮託したものかも知れない。また「甲陽軍鑑」は、戦国時代特有の表現が使われ、正確に写し留めている部分も認められ、偽書説を否定する意見もでてきている。このように「風林火山」をめぐる問題は、ドラマと小説との虚構性だけではなく、史料と史実との食い違いがあるからといって、すべてを否定するのではなく、再検証して、史料としての可能性を探る動きが歴史界にもでてきた。山本勘助とはそのような象徴的な人物であり、その人物に焦点をあてた井上靖の先見性を評価すべきであろう。
「風林火山の旗」は、「孫子の旗」「四如の旗」ともいい、武田晴信が孫子の兵法書に通じていたことから、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」から抜粋したもの(孫子四如の略語)であることは広く知られている。「甲陽軍鑑」には「黒地に金をもってこの四つの語を書きたり、旗は四方なり」とある。現在、恵林寺や雲峰寺に所蔵している「四如の旗」は江戸時代のもので、「甲陽軍鑑」に記載されたデザインとは大きく異なる。ともかく16文字(四字四連句)「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と14文字(七字二連句)「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と二種のデザインが見られる。16文字と14文字の2文字の違いは、一行目と二行目に「其」の字を入れ、全体を整えたものである。ところで「風林火山」の句の孫子の真意であるが、軍争篇(陣取り合戦)にあることから、軍事行動のカムフラージュ作戦をのべたものであるらしい。ドラマで山本勘助は「戦わずして勝つ」という軍略を述べていたが、「戦いに勝つには相手の裏をかき、自分の有利な条件になるよう臨機応変に物事を良く見計らった上で行動する」という意味にとらえ、調略の重要性を唱えており、屈強な武田の騎馬軍団の軍事行動と大きくことなる点も興味深い。
かつて「山本勘助の家紋は何か」など話題になったことがある。最近は山本家が「三つ巴」であることから「左三巴」(ひだりみつどもえ)といわれるようになった。観光地の土産品のグッズとして堂々と売られている。
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