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2019年10月31日 (木)

マイクを持った女優たち

   Youtubeを検索すると懐かしい映画のワンシーンを見ることができる。高峰三枝子の「懐かしのブルース」、奈良光枝の「悲しき竹笛」(「或る夜の接吻」主題歌)、倍賞千恵子「下町の太陽」、「寒い朝」と「川は流れる」は吉永小百合と浜田光夫の「愛と死をみつめて」のワンシーンでデュエットしている。むかしの女優はサービス満点であで、女優が歌うことは稀ではなかった。1960年代、純愛路線で吉永と人気を2分したのは本間千代子だった。「愛し合うには早すぎて」(「君たちがいて撲がいた」挿入歌)を46年ぶりに聞いた。あの世界の王貞治も「白いボール」で本間千代子とデュエットしている。昭和40年代以後、若手の人気女優は一度はレコードを出している。「小さな日記」といえば、フォーセインツが有名だが僕は岡田可愛だ。「あなたのすべてを」といえば佐々木勉が有名だが水沢有美が1967年に創唱している。水沢は断続的に今も芸能活動を続けている。最近も歌のうまい女優はいる。松たかこ、長澤まさみ、柴咲コウ、二階堂ふみ、高畑充希、上白石姉妹、森七菜、大原櫻子、福原遥、池田エライザ、三浦透子などは音楽活動にも力を入れ、新たな潮流となっている。

田中絹代 銀幕(エクラン)ぶし 1936

高峰三枝子 宵待草 1938

奈良光枝 南京花嬌子 1940

高峰秀子 煙草屋の娘 1941

轟夕起子 お使ひは自転車に乗って 1943

吉永小百合 寒い朝 1962

倍賞千恵子 下町の太陽 1962

内藤洋子 白馬のルンナ 1967

大竹しのぶ みかん 1976

薬師丸ひろ子 セーラー服と機関銃 1981

萬田久子 夏の別れ 1981

原田知世 悲しいくらいほんとの話 1982

白石まるみ 風のスクリーン 1982

沢口靖子 潮騒の詩 1984

斉藤由貴 卒業 1985

宮沢りえ ドリームラッシュ 1987

鷲尾いさ子 彼女の風 1987

観月ありさ 伝説の少女 1991

篠原涼子 恋はシャンソン 1991

牧瀬里穂 Miracle love  1991

高橋ひとみ カラフル 1991

内田有紀 TENKAを取ろう 1994 

広末涼子 MajiでKoiする5秒前  1997

松たか子   明日、春が来たら 1997

竹内結子 ただ風が吹くから 1998

深田恭子 最後の果実 1999

柴咲コウ Trust my feelings  2002

国仲涼子 琉球ムーン 2003

綾瀬はるか ピリオド 2006

沢尻エリカ タイヨウのうた 2006

新垣結衣 Make my day 2008

波瑠 I miss you  2008 

2019年10月28日 (月)

トレドとエル・グレコ

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 トレドはスペイン・カスティーリャ・ラマンチャ州にある。マドリードから南に71㎞の距離で、町の三方をタホ川で囲まれている。起源は例にもれず常に論争の元であり、時の流れという暗闇の中に見失われています。考古学では先史時代の遺跡も出土されているが、トレドに関しての最初の文献資料はローマ時代のものであり、要塞化された町であったと述べられています。紀元前190年にローマ衛士マルコ・フルビオ・ノビリオルの率いる軍隊によって征服が行われた。後日、ローマの歴史家ティト・リビオは彼の書物の中で、ローマの領地になってからは「トレトゥム」と呼ばれたとある。やがて5世紀にはゲルマン系の蛮族にイベリア半島は征服されてしまい、トレドも西ゴート王国の支配下に入った。レオビヒルド王はトレドをその王国の首都とし、トレドはそこに最初の輝かしい時代を迎えた。しかし712年にウマイヤ朝の指揮官ターリク・文・ジャードによって征服され、その町をトライトラと名付けられた。しかしアラビア人による占領も373年間にしか及びませんでした。カスティーリャ王国の国王配下アルフォンソ6世の指揮下にキリスト教徒の軍隊が1085年5月28日にトレド侵入に成功したからです。16世紀に、皇帝カルロス5世はトレドを広大な帝国の中心地、首都としたのです。だが1561年フェリペ2世がトレドからマドリードに宮廷を移すと、トレドはゆるやかに衰退を始める。その頃、この町にギリシャ出身の若き画家エル・グレコがやってくる。彼はヴェネツィア・ローマに学んだのち、強烈な色彩・自由な構図を特徴とする多くの肖像画・宗教画をトレドに残している。

    クレタ島に生まれたドメニコス・テオトコプーロス(1541-1614)が、いつスペインにやって来たのかわかっていない。1577年の春にはトレドで暮している。36歳のときである。生涯の大半をトレドで過ごしたが、ギリシア人であることに固執した。人は彼を「エル・グレコ」(スペイン語でギリシア人を意味する)と呼んだ。彼が描いたトレドの風景は、今日の景観と比べてみてもあまり違いがないといわれる。エル・グレコはトレドで何度も住まいを変えたが、最も長く暮したのはビリェーナ侯爵邸の主翼に隣接する多数の部屋で、そこは豪華をきわめた。彼の死後、屋敷は荒れ果てたものの、のちにもとの場所に再建され、現在はエル・グレコ美術館となっている。

2019年10月27日 (日)

台風情報と「避難準備情報」

   日本の自然は、四季があり、美しいものですが、反面厳しい季節や風や雨などにも備える必要がある。とくに台風による風水害は毎年大きな被害がある。大雨にも警戒が必要である。今年は台風19号や15号で甚大な被害がもたらされた。気象庁などの台風情報があるが、施設管理者は「避難準備情報」の意味を理解しておらず、多数の高齢者が亡くなった。

 

2019年10月26日 (土)

アノミア「RIVER」

   今年は豪雨による河川氾濫の被害が相次いでいる。数年前「真田丸コンサート」で千曲川をスメタナの「モルダヴ」に見立てて演奏したのを聞いたのに。川はいろいろな国を流れるのでところによって名称が異なる。チェコではモルダヴ川、ドイツではエルベ川。ブラマプトラ川はチベットではヤルンツァンポ川、バングラデシュではショムナ川、そしてインドではガンジス川と合流している。わが国でも長野県では千曲川だが新潟県では信濃川。一般にはその川の下流部の名前を使って「信濃川」と呼ばれている。大分県南部、佐伯市を流れる一級河川、番匠川。九州屈指の清流として知られる。

 

 では「RIVER」のアノミア(失名辞)。

利根川、荒川、石狩川、北上川、木曽川、十勝川、淀川、加茂川、阿賀野川、最上川、天塩川、阿武隈川、天竜川、雄物川、米代川、富士川、大井川、安倍川、藁科川、吉野川、那珂川、荒川、九頭竜川、筑後川、高梁川、神通川、岩木川、熊野川、四万十川、重信川、大淀川、旭川、球磨川、矢作川、九頭竜川、五ヶ瀬川、太田川、相模川、仁淀川、庄川、隅田川、鴨川、犀川、豊平川、夕張川、千歳川、留萌川、美唄川。番匠川。民謡で知られる「真室川」は最上川の支流。

傍示川という名の川は全国にいくつもある。

外国の川
ナイル、アマゾン、長江、ミシシッピ、エニセイ、黄河、オビ、バラナ、コンゴ、アムール、レナ、メコン、マッケンジー、ニジェール、セント・ローレンス、ヴォルガ、ザンベジ、ユーコン、リオ・グランデ、シルダリア、ガンジス、ブラマプトラ、インダス、ユーフラテス、アムダリア、イラワジ、ホルガ、ドニエプル、ドン、ドビナ、ベチョラ、ライン、ロアール、セーヌ、テムズ、ザイール、オレンジ、サスカチュワン、コロンビア、コロラド、ラプラタ、オリノコ、コリマ、マース、ウィスラ、エブロ、オーデル、ポー、ウラル、サルウィン、シー、リャオ、サンフランシスコ、シャリ、クバンゴ、セネガル、リンポポ、ジュバ、ボルタ、マーレー、ダ―リング、リオ・グランデ、アシニボイン

 

 

本と暮らす日々

84charingcrossroad   実写映画ディズニーの「美女と野獣」を観る。ベルは読書が大好きだが、村にはあまり本がない。野獣の書斎にはたくさんの本があった。「書斎の本を自由に読んでいいよ」と言われて、ベルは大喜び。でも自分の人生でベル役のエマ・ワトソンような読書が好きな可愛い女性に出会ったことは一度もない。本を収集するには相当のスペースがいる。もちろん財力もいる。そして人生で引越しがあり、本が沢山だと結構たいへんだ。ふつうの人は引越し前に本や雑誌を全部整理するみたいだ。自分は6回引越したが、捨てられない性分で今も1万冊の本と暮らしている。晩年になっても読んでいない本があり、ぼちぼち読破している。晩年といえば、太宰治の第一短編集「晩年」がアンカット本(本のページが裁断されていない状態で製本されている綴じ方)だったことをドラマで知った。むかしはフランス装とかフランス綴といったが・・・。ドラマ「ビブリア古書堂の事件手帖」はなかなか面白い。古書にまつわる連続ドラマは過去になかったであろうし、本好きにはたまらない。公共図書館とかブックオフは金太郎飴みたいでどれも同じでつまらないけど、小さな本屋や文庫、外国の洋館の書斎など個性的で魅力的である。本棚にはそれぞれの表情がでてくる。画像で味わってみてください。

 

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窓から逃げた100歳老人 ヨナス・ヨナソン

 

カッコウの呼び声 ロバート・ガルブレイス

 

裏切り者の街角 J・D・ロブ

 

ノンフェルノ ダン・ブラウン

 

北京から来た男 ヘニング・マンケル

 

リスボンへの夜行列車 パスカル・メルシエ

 

駄作   ジェシー・ケラーマン

 

11/22/63    スティーヴン・キング

 

貧乏お嬢様、空を舞う リース・ボウエン

 

 

 

 

 






 

 

2019年10月22日 (火)

時代劇画の巨匠・植木金矢

   漫画家の植木金矢氏の訃報。享年97歳。子供の頃読んでいた少年誌でその名前はよく覚えている。小松崎茂がSFや戦争画なら、植木金矢は時代劇がの巨匠。片岡千恵蔵や市川右太衛門などそっくりに描く。少年のあこがれだった。ありがとうございます。

 

 

2019年10月19日 (土)

山本勘助 智略にすぐれた謎の軍師

   NHK大河ドラマ「風林火山」(2007)は、歴史ドラマの醍醐味を存分に見せてくれた作品だった。原作は井上靖(1907-1991)が「小説新潮」に昭和28年10月から29年12月まで15回にわたり連載した中編小説である。同じ年には井上靖の代表作ともいえる「あすなろ物語」を「オール読物」(昭和28年1月から6月)に連載している。

  井上靖(1907-1991)は北海道上川郡旭川町で生まれ、伊豆湯ヶ島で幼年時代を、沼津で中学時代を、金沢で四高時代を、大阪で新聞記者として過ごしてきた。「あすなろ物語」「しろばんば」などの自伝的物語と「風林火山」「信松尼記」(昭和29年群像3月号)などの歴史小説と異なるジャンルを並行して書き上げる多作の作家だった。なぜ井上靖は実在性を疑問視される山本勘助を小説にしたのだろうか。単行本の帯には次のように書かれている。

   戦国時代には合戦に当って、作戦を指導し、秘策を練るというものがあった。彼自身は一軍の大将でもなければ、英雄でも豪傑でもない。併し合戦の勝敗は、この匿れた孤独の作戦者に負うところが極めて多かったようである。「風林火山」の主人公は、武田信玄の軍師山本勘助である。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかは甚だ疑わしいが、それをふと一人の軍師の自己韜晦として想像した時、筆者は堪らなく勘助を、そのような人物を書いてみたいと思った。

   同じ新聞記者出身の作家である司馬遼太郎と比較すると、司馬は歴史の史観を重要視するのに対して、井上は歴史スペクタルとしての歴史読物的な要素に関心があるように思える。

    天文11年6月、武田晴信は、諏訪に侵攻、桑原城を急襲した。諏訪頼重は桑原城を開城、降伏した。晴信は頼重を甲府に連行すると、切腹を命じた。頼重の息女で15歳の諏訪姫(小説・ドラマでは由布姫)は美貌の少女だった。晴信は姫を側室にした。武田の重臣たちは、いかに女人といえ、敵の片割れをお側に召すことはよろしからずと反対したが、山本勘助だけが、もし諏訪姫に男児ができれば、諏訪の遺臣や一族も、滅びた家名がつながるとして、賛成し、勘助の助言により姫を側室に迎えることができたという。

   第16回「運命の出会い」の場面の原作小説の一節。姫は辱めをうける前に自害を、という周囲の説得を拒否した。

   勘助はそれまで呆然と姫の方に見惚れていたが、いきなり立ち上がると、姫の腕を掴み、「なぜ、自刃するのがお厭です」と言った。勘助の手を振り解こうとしながら、頼重の女は下から勘助の顔を見上げた。その時は、いつか見たあの敵意ある眼眸だった。「みんな死んで行く。せめてわたし一人は生きていたい」姫は言った。その言葉は勘助が今までに耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。「わたしまでが死んでどうなるの。わたしは生きて、この城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の眼で見たい。死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。自分で死ぬなんて厭!」憑かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。

   山本勘助。幼少期に疱瘡を患って隻眼となり、片足も不自由だったといわれる。三河国牛窪の生まれといわれ、川中島合戦に討死した(1561年)と「甲陽軍鑑」に伝えられるが、その実在性には疑問があった。小幡景憲の「甲陽軍鑑」が江戸時代に編集された偽書・虚構としてみられてきたからである。ところが1969年に、勘助の名が書かれた史料「市河(市川)文書」が発見された。1557年(弘治3年)6月23日市河藤若宛武田晴信書状に、市河藤若への使者の山本菅助がみえる。実在の人物を小幡景憲が甲州流軍学の始祖に仮託したものかも知れない。また「甲陽軍鑑」は、戦国時代特有の表現が使われ、正確に写し留めている部分も認められ、偽書説を否定する意見もでてきている。このように「風林火山」をめぐる問題は、ドラマと小説との虚構性だけではなく、史料と史実との食い違いがあるからといって、すべてを否定するのではなく、再検証して、史料としての可能性を探る動きが歴史界にもでてきた。山本勘助とはそのような象徴的な人物であり、その人物に焦点をあてた井上靖の先見性を評価すべきであろう。

   「風林火山の旗」は、「孫子の旗」「四如の旗」ともいい、武田晴信が孫子の兵法書に通じていたことから、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」から抜粋したもの(孫子四如の略語)であることは広く知られている。「甲陽軍鑑」には「黒地に金をもってこの四つの語を書きたり、旗は四方なり」とある。現在、恵林寺や雲峰寺に所蔵している「四如の旗」は江戸時代のもので、「甲陽軍鑑」に記載されたデザインとは大きく異なる。ともかく16文字(四字四連句)「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と14文字(七字二連句)「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と二種のデザインが見られる。16文字と14文字の2文字の違いは、一行目と二行目に「其」の字を入れ、全体を整えたものである。ところで「風林火山」の句の孫子の真意であるが、軍争篇(陣取り合戦)にあることから、軍事行動のカムフラージュ作戦をのべたものであるらしい。ドラマで山本勘助は「戦わずして勝つ」という軍略を述べていたが、「戦いに勝つには相手の裏をかき、自分の有利な条件になるよう臨機応変に物事を良く見計らった上で行動する」という意味にとらえ、調略の重要性を唱えており、屈強な武田の騎馬軍団の軍事行動と大きくことなる点も興味深い。

 

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2019年10月18日 (金)

東條英機の家族写真

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 1941年のこの日、東條英機が40代内閣総理大臣に就任し、東條内閣が発足。東條英機(1884-1948)の父、東條英教(1855-1913)にはウィキペディアによれば、長男英夫(1880年生)、次男英実(1882年生、夭折)、三男英機、他に3人の息子、娘がいたとある。しかし実際には英教の子は全部で9人いたのではないだろうか。英機の下には初枝、寿(ひさし)、次枝、富士男、規矩郎、質雄がいたというネット情報がある。家族写真説明によれば、前列左から弟・規矩郎、妹・佐藤次枝、母・ちとせ、ひとりおいて祖父・英政、妹・山田初枝。後列左から山田静吾、父・英教、若き日の東條英機とある。(「グラフィックカラー昭和史7」研秀出版)つまり補足すれば、前列左から規矩郎、佐藤次枝、ちとせ、ひとりおいて、英政、山田初枝、質雄、寿(あるいは富士男)ということになる。東條英機の4人の弟たちのその後の人生の詳細はわからない。(10月18日)

 

 

 

直江兼続具足名品と漢詩

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直江兼続所用の具足「金小札浅葱威二枚胴具足」(上杉神社蔵)

 

Photo_8   大河ドラマ「天地人」で一躍戦国武将の人気ランキング上位に入るようになった直江兼続。上杉景勝の右腕として活躍し、1600年、石田三成とともに、打倒家康の兵をあげる。結局、家康と直接戦うことはなかったが、家康に味方した伊達氏や最上氏とあらそうことで、上杉家の意地を見せつけた。

   菊花

菊は秋日に逢うて 露香奇なり

白々紅々 華枝に満つ

好し 西施が旧脂粉を把って

淡粧濃抹して 東蘺に上さん

  菊とおだやかな秋の陽射しが逢って、露に光りながらの花の香りが、この世のものとは思えないほどの美しさと心地よさだ。白い花々も紅い花々もそれぞれが枝に満開に咲き誇っている。さあ!こんなにも美しく心地よい風情なら、中国の越の国の有名な絶世の傾国の美女といわれた西施が昔つけていたお白粉姿を思い浮かべてみよう。そして、露に光り輝く秋の陽射しを浴びた菊の花々にも美しい薄化粧や濃い化粧を施して東の垣根に咲かせてみよう。

2019年10月17日 (木)

明暦の大火

  1657年1月18日午後2時ごろ、江戸本郷丸山町(文京区)の本妙寺からでた火は、おりからの西北のカラッ風にあおられて、湯島・神田に広がり、さらに日本橋一帯から八丁堀・霊岸島・鉄砲洲・佃島・隅田川をこえて深川にまで飛び火した。このとき、浅草見附門では伝馬町の囚人が解き放たれたことを知らない番人が、囚人の脱獄と勘違いして門をしめたため、火に追われた人びとが逃げ場を失って焼死したり、見附門を乗り越えたが神田川で溺死したりした。また、江戸防衛の目的から隅田川に千住大橋・両国橋のほかは橋がかけられていなかったことが、多くの犠牲者をだす原因となった。翌19日午前10時ごろ、小石川伝通院表門下の与力屋敷からでた火が、またたくまに燃え広がり、江戸城内濠をこえて北の丸の幕府重臣の屋敷を焼き尽くし、さらに天守閣・本丸・二の丸・三の丸の豪華な大建築もつぎつぎに焼け落ちた。その夕方にも麹町の町屋から火の手があがり、桜田一帯の大名屋敷を焼き尽くした。火は、山王荘から日比谷・芝まで燃え広がった。家康・秀忠・家光の3代50年間で築きあげた江戸城と江戸の町は、わずか2日間の火災で壊滅してしまった。この火災ののち、幕府は再び江戸の本格的な町づくりに取り組み、大名屋敷や神社・寺院の移転、火除地(広小路)の設定、隅田川の架橋など、防災体制の強化につとめた。明暦の大火の死者数は諸説あるが3万から10万と記録されている。

2019年10月16日 (水)

果物を英語で言えますか?

   いざ、英語を使う場合になると、「えーと、みかんは何て言えばよかったのかな?」と、わりと簡単な果物でも英語が思いつかないことがある。みかんは tangerine という。ちなみに温州みかんは、mandarin orange という。

 

すいか   watermelon

 

いちご   strawberry

 

あんず   apricot

 

いちじく   fig

 

うり     gourd

 

柿      persimmon

 

さくらんぼ cherry

 

びわ    loquat

 

なし    japanese  pear

 

ぶどう   grape

 

りんご   apple

 

桃     peach

 

栗     chestnut

 

メロン   melon

 

バナナ  banana

 

パイナップル pineapple

 

ドリアン  durian

 

 

2019年10月12日 (土)

古代エジプトのパン、ぶどう酒、ビール

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   「人はパンのみにて生くるにあらず」「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れようとはしない」これら有名な聖句は古代イスラエル人がモーセ以前、古代エジプトで約400年間も奴隷となって苦しめられていたことを表わすとともに、エジプトから文化・文明を享受していたことを表わしている。

    古代エジプトでは、もっとも貧しい人々でさえ、パン、ビール、そして数種類の野菜とくに玉ねぎを食べて生活していた。古王国以降のエジプトの墳墓に刻まれた供養文には、「千のパン、千のビール…」という言葉を入れるのが普通だった。パンはエンマー小麦から作られた。この小麦は、鞍形挽き臼で苦労して挽かれた。パンは日常の食用と儀式用に特別に作られるものがあった。葬祭殿の壁画には、儀式用のパンが作られ、供物奉献の場面が見事に描かれている。

    ビールは普通、大麦(ホルデウム・ヴルガレ Hordeum vulgare)から作られ、濃厚でどろどろしたスープのような液体であって、アルコール分は必ずしも強くなかったが、栄養は豊富だった。新王国のインテフィケルの墓の壁画には、鉢をもった子供の姿が描かれ、「私に少しエールをください。お腹がすいていますから」というせりふが一緒に書かれており、ビールが単なる飲み物というよりむしろ、食物としての性格をもっていたことがわかる。ビールはまた、ナツメヤシで甘味をつけていたり、ほかの果物で味付けされることもあった。このように中世後期まで、ビールの醸造は広く、一般に家庭内で行われていたが、さまざまなビールが出回るため、1516年4月23日、ドイツのバイエルン公ウィルヘルム4世がビール純粋令を公布して泡立ちあるビールを完成させた。

    ぶどう酒はエジプト社会では豊かな階級が飲むものだった。貴族の邸宅の庭では、使用人がぶどうを摘み、踏み潰し、主人が客人にすすめるぶどう酒を作った。ワインを入れた壷には、種類と醸造の場所と年がしばしば記されていた。これらはビンテージ・ワインではなく課税のためである。

 

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2019年10月10日 (木)

アレキサンドリア

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   アレクサンドロス大王が前331年、シワ・オアシスのアモン神殿へ参詣の途中、ナイル川デルタの西端の地に港市アレキサンドリアの建設(古地名ラクテRaqute)をはじめた。設計者はディノクラテス。市域は東西16㎞、南北1.5㎞の長方形、街路は碁盤の目のように整然としている。盛時には人口30万あった。港には有名なファロス燈台があり、中央に壮大なセラピス神殿、市街には王宮、庭園、ムサイ学園、図書館などがあり各地から学者が集まり、プトレマイオス王朝の学芸の繁栄は「アレキサンドリアにないのは雪ばかり」といわれた。創設はプトレマイオス1世といわれる。アレクサンドリア図書館がその当時の最大の図書コレクションを有していたことは間違いないと考える。現在、ムセイオンにあったとされるアレクサンドリア図書館は、遺跡も発見されておらず、存在した痕跡さえわからない。一説によると紀元前48年のユリウス・カエサルの戦役のとき大火により図書館が焼失したともいわれる。(Alexandria,Alexandros,Dinokrates,Pharos)

素逝忌

  古書漁りして昏れにけり素逝の忌 (松崎豊)

 10月10日はホトトギスの歌人長谷川素逝(1907-1946)の忌日。素逝は日華事変に召集され、戦場の体験を句集「砲車」で詠み、世間に知られた俳人。

2019年10月 8日 (火)

岩倉遣欧使節団の副使、山口尚芳

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   クイズ番組「学力王№1」やくみつるが優勝。漢字、世界の通貨、動植物などの分野が強い。歴史問題で岩倉遣欧使節の5人の名前を問う出題。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文までは分かるが、直立の姿勢で帽子を抱いている人物はだれか?山口尚芳という。

 明治4年10月8日(新暦11月20日)、欧米事情視察のため、特命全権使節岩倉具視ら総勢107名は横浜港を出発した。山口尚芳は、武雄出身の佐賀藩士で、長崎の致遠館で英語を学び、佐賀藩で翻訳兼練兵掛となる。明治元年に明治政府に出仕し、英語力を活かして外国事務局御用掛になり、明治4年から6年まで岩倉使節団で副使として随行した。その後、外交官のほか、元老院議員、会計検査院、貴族院議員等として活躍したが、明治27年、54歳で没した。名の「尚芳」はマスカと読むが、最近では普通にナオヨシと読まれることもある。

   このほか使節団には、中江兆民や長崎藩主・大村純熙、長岡治三郎(長岡半太郎の父)、朝永甚次郎(朝永振一郎の祖父)らも留学参加している。

 

 

世界で最も売れた歌手

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  MBSテレビで「歴代歌王100」を放送していた。つまり日本で一番よく売れた男性歌手は誰か?五木ひろしでも森進一でもない。オリコンによると第1位は松本孝弘、稲葉浩志からなるロックユニットB'zである。だが結果になんとなくしっくりとこない。アメリカなら調査するまでもなくNo1はフランク・シナトラである。

   わが家で最初にレコードが来たのは、兄貴が買ってきたフランク・シナトラのEP盤4曲入りだった。はじめたった1枚きりのレコードなので何回もすりきれるほど聞いた。「夜のストレンジャー」「夜も昼も」「愛の泉」「慕情」。それから私はビング・クロスビーやナット・キング・コール、パット・ブーン、アンディ・ウィリアムなどのLPを集めはじめた。しかしネットで調べるとシナトラはランキング10位にも入らない。ビートルズ、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ABBA、クイーン、マドンナ、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、A.R.、ラフマーン、ナナ・ムスクーリ、ティノ・ロッシ、フリオ・イグレシアス、アーラ・プガチョワ、マライア・キャリー、ビージーズ、ピンク・フロイド、AC/DC、セリーヌ・ディオン、ローリング・ストーンズ、ホイットニー・ヒューストン、エアロ・スミス、U2、スティーヴィー・ワンダー、ジュネシス、デヴィッド・ボウイ、バーバラ・ストライサンド、バックストリート・ホーイズ、ボン・ジョヴィ、ガース、ブルックス、シカゴ、ダイア・ストレイツ、ブルース・スプリングスティーン、イーグルス、ステイタス・クオー、二ール・ダイアモンド、バリー・ホワイト、ガンズ・アンド・ローゼス、ビリー・ジョエル、ボニーM、ブリトニー・スピアーズ、ブライアン・アダムズ、カーペンターズ、シェール、ティープ・パープル、デパッシュ・モード、ドリー・パート、フリードウッド・マック、ジョージ・マイケル、ジョニー・アリディ、ケニー・ロジャース、キッス、ライオネル・リッチー、ルチアーノ・パヴァロッティ、メタリカ、オリビア・ニュートン・ジョン、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、スコーピオンズ、ロッド・スチュワート、ティナ・ターナー、ザ・フー、グロリア・エスティファン、レディー・ガガ、エミネム、アイアン・メイデン、B’z、ドアーズ、プリンス、リアーナ、カルロス・サンタナ、ヴァン・ヘイレン、ビヨンセ、ジャーニー、ユーリズミックス、ルイス・ミゲル、ユパック

これらは順位ではない。たえず新しいアーティストが生れる。しかし私はシナトラが一番と思っている。

   1942(年12月30日、ニューヨークのパラマウント劇場。フランク・シナトラはベニ―・グッドマンに紹介されてステージに立った。割れんばかりの歓声。グッドマンは思わずつぶやいた。「こりゃ、いったい、どうしたっていうんだ?」スマートな容姿、情感豊かな甘い歌声。その年にデビューを果たしていたシナトラはすでに女学生たちのアイドルだった。興奮のあまり失神するファンも現れた。とんとん拍子に人気を得たが、第二次大戦後、その人気は一時下降する。だが、1953年、映画「地上より永遠に」でアカデミー助演男優賞を受賞、みごとに返り咲いた。しかし、その華やかな名声の陰には、黒い噂が絶えなかった。ジョン・F・ケネディにモンローを紹介したのはシナトラだったため、ふたりの謎の死に関わったのではないかと囁かれ、映画「ゴッドファーザー」のジョニー役はシナトラがモデルともいわれている。その私生活の明暗も、歌声に反映されたのか、1969年、波瀾の人生を思うかのような名曲「マイウェイ」は空前の大ヒットとなる。「ザ・ヴォイス」と呼ばれ、歌手の第一人者はシナトラである。TBSチャンネル2で「音楽の巨人たち#1」1962年に初来日のときキャバレー・ミカドで公演したショーの模様が放送される。(5月14日)

 

 

2019年10月 5日 (土)

読んでからみるか見てから読むか

Gtbr0744  若い女性銀行員が「最近、人間失格を読みました。少し難しかったです」と話す。どうも映画をみて原作を読む気になったらしい。今さら太宰治の文学談義も気恥ずかしい気がするが、なぜか話が盛り上がった。私は志賀直哉との軋轢を話したら、彼女は「その話は映画にもありましたよ」という。蜷川実花監督の太宰治「人間失格」が公開中である。太宰治の小説を原作としてものではなく、太宰と3人の女性との愛憎を基にしたフィクションである。女性客を狙った映画だが、ネット上でも評価をみるかぎり低い。太宰作品の映画化は過去数本あるが、いずれも成功したとは言い難い。根岸吉太郎監督「ヴィヨンの妻」を期待せずに見たが、太宰作品のエッセンス(ヴィヨンの妻をベースに、思い出、桜桃、姥捨、灯篭、きりぎりす、二十世紀旗手など)をうまく取り込んだ脚本で良かった。根岸は80年代に頭角を現した「ジャパニーズ・ニューウエイブ」の1人。「遠雷」「キャバレー日記」「探偵物語」など話題作が続いたが、90年代に入り寡作でどうなったかと思ったが本作で名監督であることが実証された。NMB48の歌に「太宰治を読んだか?」がある。青年が生きる意味を小説から探すという内容の歌である。太宰を他の人に置き換えてもしっくりこない。「君はカントを読んだか?」「カフカを読んだか?」「村上春樹を読んだか?」やっぱり太宰治しかない。太宰が世を去って70年以上経つにもかかわらず、太宰の作品群は現代の若者層に人気がある。中高生の読書感想文に「人間失格」が圧倒的に多い。文庫本で130頁足らずで小説入門者に読みやすさもある。本書は昭和初期に青春を過ごした人物の回想記である。もちろん虚構も交えているがほぼ太宰の半生と重なる。東北の名家に生れ、都会での放蕩生活、心中事件など生々しい。過去の太宰映画としては、「四つの結婚」(「佳日」1944)、「看護婦の日記」(「パンドラの匣」1947)、「グッドバイ」(1949)、「真白き富士の嶺」(「葉桜と魔笛」1963)、「奇巌城の冒険」(「走れメロス」1966)、「パンドラの匣」、「人間失格」、「斜陽」、「ヴィヨンの妻」。最近のベストセラー小説は浅田次郎「大名倒産」、大門剛明「死刑判決」、月村了衛「欺す衆生」。戦後最大の詐欺事件とされる横田商事事件を題材とする。その残党たちが再興し、ついには国家を欺く大事業へと発展していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月 4日 (金)

細川政元

足利義政の死後権勢をふるった畠山正長を明応2年に倒し、11代将軍足利義澄を擁して政権を掌握したが、眼にあまるほどの専横な振る舞いが多く一揆が起こった。永正4年、養子澄之、澄元の家督争により、政元は薬師寺長忠、香西元長らに湯殿に入っている時に殺された。政元は「我はいつか空を飛びたい」と天狗の業の修業に凝っていたという。

 

2019年10月 2日 (水)

両世界大戦の人的被害状況

2008041617521693   ナショナルジオグラフィックで放送されている「黙示録 カラーで見る第一次世界大戦」本日は「終わりなき地獄」「募る怒り」1916年2月にはヴェルダンで、同年7月にはソンムで激戦が繰り広げられる。世界の多くの国が参戦した第一次世界大戦は本当に避けられなかったのか?後に起こる第二次世界大戦との関係は? 第一次世界大戦の正確な死亡者数は特定できないが、約900万人の死者と約2000万人の負傷者、と推定されている。第二次世界大戦では、全世界で約6000万人の犠牲者を出したと推定されている。その人的被害で最も大きいのは独ソ戦である。フランス、イギリスがすでに戦いに敗れたと確信したヒトラーは対ソ電撃作戦バルバロッサ計画により、1941年6月22日突如、ソ連邦に侵入した。ヒトラーはレニングラードを「地上から抹殺してしまえ」と命じていた。10月のはじめに、ヒトラーは「東部の敵軍は叩きのめした。2度と立ち上がるこことはあるまい」と宣言した。しかしヒトラーの楽観的な予測は、早計だった。ロシア軍は後退こそしたものの、その力は全ったく損なわれてはおらず、ドイツ軍はロシアの内陸部におびきよせられていった。ナポレオン配下の兵士たちと同様に、ドイツ兵たちも、ロシアの冬将軍に苦しめられ、冬季に入って戦線は膠着した。1942年春以後の攻撃は南ロシアに限定された。ドイツ軍スターリングラード攻撃に主力を集中したが、ソ連軍も抵抗し、激戦が続いた。11月19日、ソ連軍の新部隊がドイツ軍を逆に包囲し、補給を断たれたドイツ軍は1943年1月31日、司令官パウルスは降伏した。1944年6月には、連合軍はノルマンディーに上陸して、ドイツ軍から首都のパリを奪回した。1945年4月に、ソ連がドイツの首都ベルリンに突入したことで、ヒットラー総統は4月30日に自殺し、翌5月には、連合軍が総攻撃してドイツは降伏した。こうして、6年間にわたるヨーロッパでの戦争は終結した。

第一次、第二次大戦の人的損害は次のとおりである。(数値は軍人と一般人を含む)

第一次世界大戦 死者約900万人

ドイツ   177万4000人

ロシア  170万人

フランス 135万8000人

オーストリア・ハンガリー 120万人

イギリス  90万8000人

イタリア  65万人

 

第二次世界大戦 死者約6000万人

ロシア      1800万人

ドイツ     1050万人

中国      2100万人以上

ポーランド 580万人

ユダヤ人  600万人

日本    310万人(厚生省援護局)

イタリア   43万人

朝鮮     35万人

台湾      3万人

 

 

ナポリを見てから死ね

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See Naples and (then) die. 

 

イタリア語では、Vedi Napoli e poi mori.(ベーディ ナポリ エ ポイ モーリ)という。vedi と mori は、それぞれvedere(見る)、morire(死ぬ)という動詞の命令法2人称単数現在形である。イタリア語は、日本語における東京方言や英語におけるロンドン方言のように、首都の言葉が基礎になっているのではなくて、トスカーナ地方の言葉が標準語の母胎となっているそうである。それは13、14世紀のダンテ、ペトラルカやボッカチョらのはたした功績が大きいからかもしれない。

日本人にとってナポリといえば、ナポリタン。茹でたスパゲッティをタマネギ、ピーマンなどと共にケチャップで炒めたナポリタンは日本で創作された料理で南イタリアの港町ナポリとは全く関係がない。戦後食糧事情が悪い中でも簡単に作れるということで、GHQ向けに考案された料理で、やがて市民にも広まっていった。

 ナポリといえば、女優ソフィア・ローレンなどの映画でも知られる向かい合う窓と窓をロープで結ぶ洗濯物の風景。旧市街地を貫くトリプナーリなどの狭い路地にみられる。

 

 

2019年10月 1日 (火)

インキュナブラの意味は?

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   金属活字により印刷された本で印刷年が1500年以前のものをインキュナブラ(incunabulum)という。意味は「揺籃期本」。図書館の司書採用試験にはよくでる質問の一つ。もともとラテン語インキュナブラの複数形「incunabula」で、「揺りかご」という意味から転じて「出生地」「初め」という意味になった。多くの言葉も意味がわからないまま過ごすことがある。映画「愛のコリーダ」も「corrida」の意味を知っている人は少ない。スペイン語で「闘牛」という意味がある。アカウンタビリティはアカウント(説明する)とアビリティ(能力)からなり、本来の意味は、「説明する能力」と訳することができる。わが国では行政や経営の分野を中心に、1990年代半ばからよく使われるようになり、日本語では「説明責任」と訳されることが多く、アカウンタビリティを向上させる、アカウンタビリティを果たすなどという形で用いられる。ユートピアとはギリシア語で、「どこにもない場所」の意。トマス・モアの著作によって想像上の理想的な社会の意になった。

  若いアーティストを中心に広がりをみせている手作りの小冊子「ZINE」(ジン)。MAGAZINEから派生して出来た言葉か。

   「ドキュメント」とは、記録・書類と訳されているが、ラテン語「Docere」(伝える、教える)が語源である。「アーカイブス」(Archives)とは、「大規模な記録や資料のコレクション」の意であるが、「ドキュメント」との違いはあまり明確ではない。

 

 

 

中国漢籍図書目録

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 天一閣。門には「南国書城」の額がある

 

   天一閣は明の寧波の豪商、范欽(1506-1586)が1561年から1566年にかけて創建した蔵書楼。現存するアジアでも最古の図書館の一つといえる。蔵書家の多いことで知られる浙江省鄞県でも天一閣が珍しい書物が集められていることから、当時から天下第一といわれ、それが命名の由来である。天一閣の前庭に池があるのは防火対策である。蔵書内容は嘉靖・万暦年間(1522-1619)に刊本されたものが多く、旧鈔本、金石拓本、明代の地方志、科挙関係資料などが多数ある。清の四庫全書の編纂には天一閣の図書を参考にし、文淵閣はこの楼閣にならって作ったといわれる。中国では近代以前においては他のどの言語よりも多くの記録文書を残しており、1750年までに中国語で出版された図書の数は、世界中の他の言語で書かれた図書全部よりも多かった。(ジョン・フェアバンク著「中国」東京大学出版会)近刊の図書館情報学、つまり司書資格取得用のテキストのような「図書・図書館史」三浦太郎編著、ミネルヴァ書房、2019年刊行を読む。残念にも中国の図書館史の記述が皆無である。紙の発明から始まって、木版印刷のはじまり、その西方世界への流伝に関する記述が見当たらない。おそらくグーテンベルクの印刷術発明以前は中国が本の所有は世界一だった。本書50ページにある「1600年までに印刷された活版印刷の出版物をインキュナブラと呼ぶ」とあるのは「1500年」の誤り。

    中国漢籍目録

愛日精盧蔵書志 36巻 張金吾 清・嘉慶道光年間
安雅堂集 19巻 宋琬  清
晏子春秋 作者未詳 戦国
晏子春秋音義 2巻 孫星衍  清
安南史略 19巻 安南黎崱撰 元
安陽集 50巻 韓琦 北宋
安陸集 1巻 付録1巻 張先 宋
伊尹書 玉凾山房輯入佚書87所収 殷 
郁離子 10巻18篇 劉基
夷堅志 420巻 洪邁撰 宋
委巷叢談 1巻 田汝成撰 明
夷門広牘 106巻 周履靖編 明(1597年)
韻語陽秋 20巻 葛立方撰 宋
陰騭録 袁了凡 明
隠秀軒詩 10巻 鐘惺撰 明
蟫史 11巻 穆希文撰 明
陰騭録 袁了凡  明
陰符経考異 1巻 朱熹 宋
韻府群玉 20巻 陰時夫撰 元
雨窓欹枕集 洪楩 明
尉繚子(うつりょうし)
雲烟過眼録 4巻 周密 宋
雲笈七籤 120巻 張君房 宋
瀛涯勝覧 1巻 馬歓撰 明
嬴奎律髄 49巻 方国撰 元
剡源集 30巻 戴表元 元
円機活法 24巻 王世貞 明
弇山堂別集 100巻 王世貞  明
弇州山人四部稿 174巻 王世貞  明
塩邑志林 樊維城編  明
王忠文公集 20巻 王褘(金華叢書集部所収)  明
女四書 4巻 王相・編  清
女論語 曹大家撰 説郛所収 後漢
戒庵漫筆 8巻 李翅撰 説郛・常州先哲遺書所収  明
音論 3巻 顧炎武 清
解学士全集 11巻 解縉  明
開漢一笑 上下とも14巻 李贄  明
開元天宝遺事 4巻 王仁裕撰 五代
懐香記 2巻 陸采撰 明
艾子後語 陸灼撰  明
艾子外語  屠本畯撰  明
海内十洲記 1巻 伝・東方朔 前漢(百子全書・漢魏叢書所収)
開闢演義 周遊  明
霞客遊記 12巻 除宏祖撰  明
花間集 10巻 趙崇祚編 (四部叢刊所収) 後蜀
格致叢書 胡文煥  明
学蔀通辨 12巻 陳建撰  明
何氏語林 30巻 何良俊撰 明
画禅室随筆 4巻 董其昌撰  明
漢官七種 孫星衍編 清
漢官答問 陳樹鏞 
漢魏叢書 何鏜  明
漢魏六朝七十二家集 347巻 張燮撰 明
漢魏六朝百三名家集 80巻 張溥編 明
漢舊儀補遺 孫星衍 清
漢州志40巻 劉長庚 清
漢詔疏 陳衍 明
漢書正誤 王峻 清
漢書地理志稽疑 全祖望 清
漢書補注 王先謙 清
官場現形記 李宝嘉 清
漢晋迄明諡諱考 劉長華  清
邯鄲記 2巻 湯顕祖 明
漢唐事箋 朱禮 元
季漢書 60巻 謝陛撰 明
居業録 余祐編  明
蛾術編 82巻 王鳴盛撰 清
冀州風土記 盧植 漢
求古録 顧炎武撰 清
金匱要略 張機撰 漢
今古奇観 40巻 抱甕老人撰 明
金史 135巻 托克托(トクト)等奉勅撰 元
欽定続文献通考 250巻 嵆璜等奉勅撰 清
金瓶梅 蘭陵笑笑生 明
郡齋読書志 4巻 後志2巻 考異1巻 付志1巻 晁公武撰 宋
訓纂篇 揚雄撰 漢
藝苑巵言 王世貞  明
闕里誌 24巻 陳鎬撰  明
元史 210巻 宋濂王褘等捧勅撰
元史新編 95巻 魏源撰 清
元詩紀事 2巻 銭大昕撰 清
兼明書 5巻 邱光庭撰 唐
孔叢子3巻 孔鮒撰 後漢
呉越春秋 趙皣  前漢
元朝秘史 15巻 元
古逸叢書 200巻 黎庶昌 黎氏日本東京使署 1882-1884
考異 2巻 王夫之 清
項羽都江都考 劉文淇 清
広漢魏叢書 何允中  明
孝経 1巻 漢
皇極経世書 12巻 邵雍撰 宋
孔子家語 10巻 前漢
皇朝文衡 100巻 程敏政編  明
皇朝類苑 78巻、目1巻 江少虞撰 宋
耕養斎集 王鳴盛 清
古楽府 10巻 左克明撰 元
後漢紀 30巻 袁宏撰 晋
後漢書・志 司馬彪 晋
五経大全 117巻 胡広  明
古今韻会挙要 30巻 元
古今歳時雑詠 46巻 蒲貫中編 宋
古今雑劇三十種 元
古今事文類聚  祝穆
古今小説  40巻  明
古今書刻 上篇1巻、下篇1巻 周弘祖撰 明
古今詞話 8巻 沈雄編 清
古今説海 142巻 陸楫撰  明
古今談概 馮夢龍撰 明
古今治平略 33巻 朱健撰 明
古今注 3巻 崔豹撰 晋
古今通韻 12巻 毛奇齢撰 清
古今列女伝 解縉等奉勅撰  明
五雑俎 16巻 謝肇淛撰 明
古詩源 14巻 沈徳潜撰 清
古微書 36巻 孫殻編 明
古文苑 21巻 唐
古文関鍵 2巻 呂祖謙
古文孝経 1巻  漢
古文真宝 20巻 黄堅
古列女伝 7巻 劉向  前漢
困学紀聞 20巻 王応麟
顧氏文房小説 顧元慶編 明
五車韻瑞 160巻 凌稚隆撰 明
五代会要 30巻 王薄
五代史 薛居正
菜根譚 洪自誠  明
斉民要術 10巻 賈思勰 後魏(北魏)
西遊記 呉承恩  明
冊府元亀 1000巻 王欽若等奉勅撰 中華書局 1960
山谷集 70巻 黄庭堅
左氏伝解詁 30篇 賈逵  後漢
三体詩 6巻 周弼
三輔黄図 6巻 唐
三輔決録 2巻 趙岐  後漢
三略 3巻 黄石公
雑学辨 1巻 朱熹
雑事秘辛  楊慎  明
三国志 65巻 陳寿撰 晋
三国志演義 羅漢中 明
三才図絵 106巻 王圻  明
山堂肆考 228巻、補遺12巻 彭大翼撰  明
爾雅翼 32巻 羅願撰 宋
左氏蒙求 2巻 呉化龍 明
詩格 10巻 王昌齢撰 唐
史記 130巻 司馬遷
史記考要 柯維騏  明
史記索隠 30巻 司馬貞 唐
史記正義 130巻 張守節 唐
史記評林 130巻 凌稚隆編 明
史糾 6巻 朱明編 明
資治通鑑 294巻 目録30巻 考異30巻 司馬光
資治通鑑綱目 59巻 朱熹
詩集伝 8巻 朱熹
四書集注 19巻 朱熹
四書大全 36巻 胡広等奉直勅撰 明
詩人玉屑 20巻 魏慶之
字説 20巻 王安石 宋
詩藪 胡応麟 明
事物紀原 宋・高承撰、明・李果訂
事物原会 清・王汲編 清嘉慶2年休寧汪氏古愚山房刊本
史通 20巻 劉知機 唐
集異記 薛用弱 唐
集古印譜 6巻 顧従徳 明隆慶6年(1572年)
周書 50巻 唐
朱子感興詩註 1巻 蔡謨
朱子行状 黄榦
朱子語類 140巻 黎靖徳
笑苑千金 張致和
七略 劉歆
諡法 劉熙
諡法劉熙注補遺 劉熙
四民月令 1巻 崔寔
釈名 8巻 劉熙
十八史略 7巻 曾先之撰 元
周礼註疏 42巻 唐
春秋会要 姚彦渠 中華書局  1955
春秋経伝集解 30巻 杜預 晋
春秋公羊伝 11巻
春秋穀梁伝
春秋左氏伝 30巻
春秋左氏伝解誼 服虔
春秋左伝解詁 賈逵
春秋左伝正義 60巻 孔穎達 唐
春秋釋例 15巻 杜預  晋
春秋繁露 17巻 董仲舒
笑海叢珠 陸亀蒙撰 元
笑府 13巻 馮夢龍 明
笑話集 侯白撰 隋
貞観政要 10巻 呉競 唐
傷寒論 16巻 張仲景
尚書大伝 4巻 鄭玄注
書影 10巻 周亮工 明
女誡 班昭  漢
初学記 30巻 徐堅等奉勅撰 唐
書断 3巻 張懐瓘撰 唐
書譜 1巻 孫過庭 唐
書目三編 別録・七略輯本・漢書藝文志補注・四史儒林文苑伝注 上・下 広文書局 1969
事林広記 陳元靚撰 宋
新五代史 75巻 欧陽脩撰 宋
真山民集 1巻 真山民撰 宋
慎子 1巻 慎到 周(?)
申子 申不害撰 戦国(?)
晋書 130巻 房玄齢撰 唐
鐔津文集(しんしんぶんしゅう) 20巻 契高 宋
神仙伝 10巻 葛洪 晋
新唐書 225巻 欧陽脩、宋祁奉勅撰 宋
水経注 40巻 酈道元 北魏
水経注図 水経注疏要刪 楊守敬撰 清
随函録 20巻 可洪編 後晋
酔翁談録 10集、毎集2巻、計20巻 羅燁撰 元
隋書 85巻 魏徴等奉勅撰 唐
崇文総目 5巻 補遺1巻  宋
図画見聞誌 6巻 郭若虚撰 宋
図絵宝鑑 5巻 夏文彦撰 元
説苑 20巻 劉向
西漢会要 上下 徐天麟撰 宋
西漢詔令 林虔  宋
西漢年紀 30巻 王益之撰  宋
旌異記 15巻 侯白撰 隋
西廂記 王実甫 元
正蒙書 10巻 張戴撰  宋
潜虚 1巻 司馬光撰  宋
潜夫論 10巻36篇 王符 後漢
宣和遺事 2巻  南宋
蒼頡篇 李斯 秦
宋史 496巻 脱脱(トクト)撰 元
捜神記 30巻 干宝撰 晋
捜神後記 10巻 隋
宋名臣言行録 朱熹撰 李幼武補編  宋
滄浪詩話 厳羽  宋
楚漢春秋 1巻 陸賈
楚辞章句 17巻 王逸
楚辞補注  17巻 洪與祖撰  宋
素書 黄石公
大学衍義 43巻 真徳秀撰 宋
太極図説 1巻 周敦頤  宋
太玄経 10巻 揚雄
大唐西域記 12巻 玄奘述、辨機撰 唐
太平寰宇記 200巻 楽史撰  宋
太平御覧 1,000巻  李昉等奉勅撰  宋
太平広記 500巻 李昉  宋
大載礼 85篇 載徳
竹林名士伝 袁宏  晋
茶経 陸羽 唐
中論 2巻 徐乾
長安志 20巻 宋敏求撰 北宋
朝会儀記 蔡質
長恨歌伝 陳鴻 唐
地理風俗記 応劭
陳書 36巻 姚思簾等奉勅撰 唐
通典 200巻 杜佑撰 唐
輟畊録(てっこうろく) 陶宗儀
點考工記 鄭玄
東漢会要 40巻 徐天麟撰 宋
東観漢記 24巻 武英殿聚珍本 姚之駰 後漢
東漢詔令 楼肪 宋
東京夢華録 10巻 孟元老撰 宋
唐才子伝 10巻 辛文房撰 元
東萊左氏博議 25巻 呂祖謙 宋
唐史論断 3巻 孫甫撰 宋
唐六典 30巻 唐
唐律疏議 30巻 長孫無忌等奉勅撰 唐
独談 2巻 蔡邕 後漢
杜工部集 20巻 杜甫 唐
南史 80巻 李延寿撰 唐
南州異物志 楊孚 後漢
南北郊冕服議 劉蒼 漢
白氏文集 白居易 唐
風俗通義 10巻、付録1巻 応劭 後漢
武経総要 宋
文献通考 348巻 馬端臨撰 元
文中子 10巻 薛収・姚義等編 唐
法言 揚雄 前漢
封禅儀記 馬第伯 漢
北夢瑣言(ほくぼうさげん)  孫光憲 宋
補史記 1巻 司馬貞  唐
孟子集注 7巻 朱熹撰 宋
問礼俗 董勛 魏
野客叢書 12巻 王楙撰 宋
容斎随筆 16巻 洪邁撰 宋
酉陽雑俎 20巻、続集10巻 段成式撰 唐
與地紀勝 200巻 王象之 宋
礼記集説 160巻 衛湜撰 宋
礼記要義 33巻 魏予翁撰 宋
来南録 1巻 李翺  唐
楽善録 10巻 李昌齢編 宋
洛陽伽藍記 5巻 楊衒之撰 北魏
六臣注文選 60巻  宋
陸宣公奏議 22巻 陸贄撰 唐
律呂新書 2巻 蔡元定撰 宋
龍龕手鑑 4巻 行均編 遼
劉賓客嘉語録 1巻 韋絢撰 唐
両漢詔令 洪咨夔 宋
両京新記 韋述 唐
緑窓新話 上下2巻  南宋
臨川集 100巻 王安石  宋
麟台故事 5巻  宋
類説 60巻 曽慥編  宋
類篇 15巻 司馬光撰  宋
蠣釈 27巻 洪适撰  宋
麗句集6巻 許之吉撰 明天啓5年(1625年)
歴代故事 10巻 楊次山撰  宋
濂洛風雅 6巻 金履祥撰 元
録異記 8巻 杜光庭 前蜀
論語集注 10巻 朱熹撰  宋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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