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2019年9月28日 (土)

アイルランド物語

  28日ラグビーワールドカップ、日本は強豪アイルランドに勝利した。ところでユーラシア大陸の西のはずれにある北海道より少し大きいくらいの島国アイルランドのことを日本人はどれくらい知っているだろうか。15世紀、イギリスはフランスとの百年戦争、国内ではばら戦争がありアイルランド政策に専念できなかった。1541年ヘンリー8世が即位したとき、ばら戦争は終わり、百年戦争にも一応の決着がついていた。ヘンリー8世はアイルランドの攻略を開始する。ローマ法王から離脱し英国国教会の長になったヘンリ8世は、アイルランドのカトリックの修道院や教会を破壊するか英国国教会に移行させた。さらに各地のアイルランド人の族長を屈服させ、王に反旗を翻すアングロ・ノルマンの貴族を抹殺した。ヘンリ8世の政策はその後のテューダー王朝の王たちに引き継がれた。1649年、清教徒革命によって権力を握ったオリバー・クロムウェルはカトリック勢力を抑えることを名目としてアイルランドを侵略した。クロムウェル軍の侵攻により、1652年までにアイルランドは実質的なイギリス植民地となった。こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有地となり、アイルランドは小作人の立場におかれアイルランド問題が生まれるきっかけとなった。その後クロムウェルの四男ヘンリーが1654年アイルランド派遣軍の部将となり、55年以降事実上のアイルランド統治者となるが、1660年の王政復古によってその支配は終わる。17世紀後半の王政復古期にはスコットランドの長老派信者が弾圧を逃れてアイルランドに移住して、北アイルランド(アルスター地方)ではプロテスタントの住民の方が多数となり、信仰の違いからたびたびカトリック信者と衝突するようになった。1845年に始まったジャガイモ飢饉。その後何年も続き、1844年に約840万人だった人口が、1851年には660万人に減少した。その飢饉の間に他国に渡ったアイルランド移民は、推計200万人に上る。

 

 

カスタネットはなぜ赤と青?

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  木製の打楽器カスタネットは元来エジプトのクラッパーに起源を持ち、のちスペインで発達した楽器です。語源はスペイン語の「カスターニャ」(栗)。形が栗の実に似ていることからついたものらしい。フラメンコを踊る時に使用されるスパニッシュ・カスタネットは18世紀末期から19世紀半ばに広まった。いわゆる民族楽器として使われていきましたが、1875年にビゼーが歌劇「カルメン」で使い、オーケストラの中でも使われるようになりました。日本で教育用楽器としてみられる赤色と青色のものは「ミハルス」といって、日本の舞踏家・千葉みはるが創案したものである。戦後、小学校の音楽教材で男子は「青」、女子は「赤」とカスタネットを色分けしていたが、在庫管理などが面倒くさいため男女共用の赤青のカスタネットが普及していった。(参考:千葉みはる「ミハルス教本 拍ち方と踊り方」1949年)

2019年9月24日 (火)

古代インド

Ashokasalnato    アレクサンドロス大王はインドのパンジャブ地方まで侵入したが、これを迎え撃ったのはインドでは誰でも知っている伝説の英雄ポロスである。この大王の侵入がきっかけとなって、古代インドにおける最初の統一帝国マウリア王朝がチャンドラグプタ(月護王)によって実現できた。王は、「インド人の最大の王」と呼ばれ、その専制政治のありさまは仏典のうちにも伝えられている。メガステネースは、チャンドラグプタの宮廷について次のように伝えている。王の身のまわりの世話は婦人たちによってなされる。王が泥酔しているときに、その婦人が王を殺して、王の後継者と夫婦になる機会がある。王は昼間は眠らない。夜間も種々の陰謀が起こるのを防ぐために、ときには寝台を変更する必要がある、と。「アルタシャーストラ」にも次のようにしるされている。王に対して毒物が使用されたり、危険な人物が接近しないように、万全の警戒がなされ、多くの試食者をおき、王は夜ごとにその寝所をかえる。成長した王子にたいしても十分に注意しなければならない。王子はカニのようにその父王を食うからである、と。「夜安らかに眠ることのできる王は幸福である」という諺は、陰謀が行なわれるインドの宮廷生活の一面をたくみに言いあらわしている。

  チャンドラグプタ王はおそらく前317年から前293年までインドを統治したと伝えられるが、没年は不明である。強権政治を実行し、刑罰は苛酷であった。しかし、全インドにわたって多数の公路を建設し、駅亭を設け、また約半里ごとに標識としての柱を建てた。道路の主要交差点には、国家の倉庫を建設し、物資を収納し、緊急のさいの用に供させ、また農産物の増加をはかるために運河や貯水池をつくった。ジャイナ教の文献ならびにマイソール地方の諸碑文によると、彼はジャイナ教を信奉し、ある時期に退位してから、バドラバーフの弟子となって出家し、彼に従って南インドのマイソール地方に移り、カルパップ山で苦行を修め、最後には宗教的な餓死または三昧死をとげたという。セレウコスが、彼の宮廷に派遣した大使メガステネースのインド見聞記の現存断片は、彼の帝国の実情を側面から伝えている。(世界史)

2019年9月23日 (月)

山本五十六の戦時下の恋

 テレビ東京の「海にかける虹 山本五十六と日本海軍」12時間ドラマを観る。山本五十六を古谷一行、芸者の梅龍を池上季実子が演じている。阿川弘之「軍艦長門の生涯」、高橋猛「海軍めしたき物語」を原作に、新藤兼人らベテラン脚本家が下ろす。山本五十六は幾人の女性によくモテた男で色恋の歌を残している。

 

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか 

 

  千代子と呼びてけふも暮しつ

 

      * 

 

 おほろかに吾し思はばかくばかり 

 

  妹が夢のみ毎夜に見むや 

 

    海軍少将・山本五十六が新橋芸者の梅龍(当時28歳)初めて会ったのは、昭和8年、築地の料亭錦水の宴席でのことだった。梅龍、本名は河合千代子(1904-1989)は家業は株屋であったが、関東大震災後、没落し、一時、ある資産家の世話になったが、やがてその人とも別れ、1年前からお座敷に出ていた。宴席で吸い物が出た。五十六は日本海海戦で左二本指を失っていたため、吸いついたお椀の蓋をとるのがなかなかできなかった。梅龍が「とってあげましょうか」と声をかけた。それに対して五十六は、「自分のことは自分でする」と怒ったように答え、それをきいて、梅龍は「いやな人」と思ったという。しかし、二人の仲は急速に深くなった。戦時下、寸暇を惜しんで二人は会い、手紙を交換する。妻子ある元帥と芸者の10年に及んだ恋は、五十六のブーゲンビル上空での戦死により、咲くことなくはかなく散った。(参考:渡辺淳一「キッスキッスキッス」小学館)

2019年9月20日 (金)

一点素心

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交友須帯三分侠気。作人要存一点素心

   友と交わるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべし。人と作(な)りは、一点の素心を存するを要す。

   与謝野鉄幹は「六分の侠気」といったが、ここではおさえて三分。ひとかどの人物になるのには、まず自分自身の飾り気のない純粋で潔白な心をしっかりともたなければならない。素心とは、素直な気持ち、純粋な心をいう。中国明代末期の随筆集「菜根譚」前集にある。内容は心の平静を大切にする通俗的な処世訓を説いたもの。

2019年9月16日 (月)

勤務中も読書しなさい

P_minakamitakitaro    「人生は何事もなさぬにはあまりに長いが何事かをなすにはあまりにも短かすぎる」というのは中島敦の名言である。水原秋櫻子(1892-1981)の句に「余生なほなすことあらむ冬苺」がある。俳人として有名な水原だが、産婦人科の医師でもあった。文学者の「二足のわらじ」は医者が多い。軍医の森鴎外をはじめ、斎藤茂吉、木下杢太郎、木々高太郎、なだいなだ、クローニンなど。政治家では石原慎太郎、宗教家では今東高、瀬戸内寂聴、玄侑宗久など。水上滝太郎(画像)は、明治生命の近代化に多大な功績を残した実業家でもあった。出欠勤、遅刻、早退については、社員の意志に任すといった徹底した自由主義を貫き、一方で学問を奨励する。余暇に学問をするというのではなく、執務中でも余裕のある時には勉強をすべきだというのが彼の思想だった。「勉強しなくては駄目です。執務中でも、余暇があったら読書をしなさい」が彼のモットーだった。

 

 

2019年9月14日 (土)

団結は力なり

英語のことわざ。Union is strength.

1人で何かをやるよりも、複数で団結する方が大きな力をもち、大きなことを成し遂げられる。もともとは古代ギリシアのころからいわれてきたことばで、ギリシアの詩人ホメロスの「イリアス」に、Union gives strength,even to weak men.(弱き者も団結は力を与う)とある。

 

2019年9月11日 (水)

喜怒哀楽の語源

Photo_3    近年、スポーツや音楽が盛んで、手拍子やガッツポーズなど高揚した感情を全身で表現することが多い。今年限りで引退する阪神の鳥谷敬はグラウンドで絶対に喜怒哀楽を見せない珍しい選手だった。喜怒哀楽は素直に表したほうがいいのだろうか。しかし、それは一瞬の感情でしかない。どんな喜びも、とどんな愛も、どんな命も、やがて終わりがきます。人は哀しみとともに生きているのです。「喜怒哀楽」という言葉は小学校で習う有名な四字熟語ですが、その出典や本来の意味は意外と知られていない。「中庸」第一章にあります。四書の一つで儒教で大切な経典です。とくに宋時代の朱熹がその重要性を説いている。中国の思想の大きな流れは、前漢に国教となった儒教であるが、後漢には訓詁学として盛んとなるが、次第に儒教は魅力を失い、仏教がひろく普及していく。とくに禅宗は、宋代に入って儒教、老荘思想とも結びついていた。南宋の朱子も若い頃は禅へ傾倒していた。進士となった朱子は、24歳のとき延平(福建省南平市)の李侗(1092-1163)の教えを受けた。李侗は、禅理をまくしたてる朱子に向かって「おまえは、宙に浮いた理屈ばかりをいうが、眼前の事実についてはなにもわかっていない。道は玄妙なものではない。ただ日用の間に着実に工夫することによって自然に会得できるのだ」と説く。それには「未発の気象」を養うことだという。「未発の気象」とは『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節にあたる。これを和という」という言葉に基づくもので、感情の動く以前の、澄みきった、偏りのない心である。この心は「黙座して心を澄ます」ことによって体認される。禅理と共通するものをもちながら、しかも現実への着実な取り組みを説くこの教えは、朱子の学問の方向を決定するようになった。つまり「喜怒哀楽」とは、感情のおもむくまま、泣いたり、笑ったりしてはいけないことをいっているのである。(3月9日)

 

 

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