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2019年9月30日 (月)

XYZ事件

   18世紀のカリブ海は映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界。海賊も多いけど、アメリカとイギリス、スペイン、そしてフランスとの間で紛争が頻繁に起こっていた。アメリカの商船が拿捕されることも多かった。米2代大統領ジョン・アダムスが特使をフランスに派遣したとき、フランスの外相タレーランは特使になんと賄賂を要求した。怒ったアメリカ特使は経緯を暴露した。これをXYZ事件という。アダムスは防衛力を強化し、海軍省を創設、1798年には宣戦布告のないまま、フランスとの開戦を準備していた。驚いたフランス側は和平に向けて準備し、ナポレオンが政権の座につくと、1800年9月30日パリでモルトフォンテーヌ条約が締結された。フランスはアメリカ船舶の入港禁止を解き、両国は互いに捕獲した相手国の船舶を返還することになった。

2019年9月28日 (土)

アイルランド物語

  28日ラグビーワールドカップ、日本は強豪アイルランドに勝利した。ところでユーラシア大陸の西のはずれにある北海道より少し大きいくらいの島国アイルランドのことを日本人はどれくらい知っているだろうか。15世紀、イギリスはフランスとの百年戦争、国内ではばら戦争がありアイルランド政策に専念できなかった。1541年ヘンリー8世が即位したとき、ばら戦争は終わり、百年戦争にも一応の決着がついていた。ヘンリー8世はアイルランドの攻略を開始する。ローマ法王から離脱し英国国教会の長になったヘンリ8世は、アイルランドのカトリックの修道院や教会を破壊するか英国国教会に移行させた。さらに各地のアイルランド人の族長を屈服させ、王に反旗を翻すアングロ・ノルマンの貴族を抹殺した。ヘンリ8世の政策はその後のテューダー王朝の王たちに引き継がれた。1649年、清教徒革命によって権力を握ったオリバー・クロムウェルはカトリック勢力を抑えることを名目としてアイルランドを侵略した。クロムウェル軍の侵攻により、1652年までにアイルランドは実質的なイギリス植民地となった。こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有地となり、アイルランドは小作人の立場におかれアイルランド問題が生まれるきっかけとなった。その後クロムウェルの四男ヘンリーが1654年アイルランド派遣軍の部将となり、55年以降事実上のアイルランド統治者となるが、1660年の王政復古によってその支配は終わる。17世紀後半の王政復古期にはスコットランドの長老派信者が弾圧を逃れてアイルランドに移住して、北アイルランド(アルスター地方)ではプロテスタントの住民の方が多数となり、信仰の違いからたびたびカトリック信者と衝突するようになった。1845年に始まったジャガイモ飢饉。その後何年も続き、1844年に約840万人だった人口が、1851年には660万人に減少した。その飢饉の間に他国に渡ったアイルランド移民は、推計200万人に上る。

 

 

カスタネットはなぜ赤と青?

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  木製の打楽器カスタネットは元来エジプトのクラッパーに起源を持ち、のちスペインで発達した楽器です。語源はスペイン語の「カスターニャ」(栗)。形が栗の実に似ていることからついたものらしい。フラメンコを踊る時に使用されるスパニッシュ・カスタネットは18世紀末期から19世紀半ばに広まった。いわゆる民族楽器として使われていきましたが、1875年にビゼーが歌劇「カルメン」で使い、オーケストラの中でも使われるようになりました。日本で教育用楽器としてみられる赤色と青色のものは「ミハルス」といって、日本の舞踏家・千葉みはるが創案したものである。戦後、小学校の音楽教材で男子は「青」、女子は「赤」とカスタネットを色分けしていたが、在庫管理などが面倒くさいため男女共用の赤青のカスタネットが普及していった。(参考:千葉みはる「ミハルス教本 拍ち方と踊り方」1949年)

孔子生誕の謎

200111_10_n051kousigazou     孔子の生年は前552年、あるいは前551年という説もありはっきりしない。そめためかどうか知らないが、釈迦やキリストのように生誕を祝うという風習がない。名は丘(きゅう)、字は仲尼。父は叔梁紇、母は顔徴在。父母の年齢がかなり離れていたので、子どもが生まれるかどうか、とくに母は心配だった。そこで、祈祷師でもある母は「尼丘に祈り、孔子を得たり」近くの尼丘山に祈って、孔子をさずかることができた。ある記録によると、魯国の襄公22年(前551)8月27日(新暦9月28日)に生まれ、魯国の哀公の16年(前479)2月11日(新暦3月9日)に死んだとされている。魯国の昌平郷・陬邑(今の山東省曲阜県東南の鄹城)に生まれた。

   ただし、生年には諸説がある。原因は周と魯とで暦が異なるからで古来何人もの偉い学者が調べてもはっきりとわからない。孔子の生まれ月については、10月と11月との二つの異なった本文がある。「春秋公羊伝」は「襄公21年(前552)10月1日庚子孔子生」とする。同穀梁伝は「21年庚子、孔子10月の後に生まれる」とする。

   生まれ年については、『春秋』の襄公21年と『史記』の襄公22年誕生説がある。「史記集解索隠正義礼記」は、周の正月は11月なので、「史記・孔子世家」の22年は実際は21年になる、という。現在の中国の暦法で、前551年9月28日とするのが妥当であろう。台湾では9月28日を孔子の誕生日としている。

 

 

2019年9月27日 (金)

昭和天皇とマッカーサー

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 戦後の全国ご巡幸

 

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 昭和天皇は将棋を好まれた 昭和30年

  「♪ 昭和の時代は 遠くになったけど…」(夕子のお店) 

  昭和20年のこの日、昭和天皇がアメリカ大使館公邸にいるダグラス・マッカーサーを訪れ、会見した。わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度はまったく変わっていた。会見前は傲然とふん反り返っているような態度をとっていたマッカーサーが、会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で、会場から玄関まで見送った。

   昭和天皇は明治34年4月29日、午後10時10分、皇太子と節子(さだこ)妃殿下の間に男子(親王)が誕生。のちの昭和天皇(1901-89)である。皇位を継ぐべき親王の誕生に、翌30日には北海道から台湾まで号外の鈴が鳴りひびく。宮城や東宮御所は祝いの客であふれ、全国各地からは祝電が寄せられた。親王は裕仁(ひろひと)と命名され、称号は迪宮(みちのみや)とさだめられるのは5月5日である。大正5年、立太子礼を行なう。大正10年3月から9月までヨーロッパを旅行し、大正天皇の病気により、帰国後の同年11月摂政となる。大正13年1月、久邇宮良子(ながこ)女王と結婚。大正15年12月大正天皇の死により践祚。昭和と改元し、昭和3年11月即位礼を行なう。(9月27日)

 

 

2019年9月26日 (木)

洞爺丸事故

2091     昭和29年9月26日、青函連絡船洞爺丸(3898トン)は乗客・乗員1314人を乗せて函館港を定刻(14時40分)の4時間遅れの18時39分で就航した。船長の近藤平市は18時頃から風雨が弱くなり晴れ間が見えてきたのを台風の目と判断したのだ。ところが、これは実は閉塞前線のいたずらであった。本当の台風15号の中心は、その時、函館西方の日本海上にあった。結果的に、洞爺丸船長の判断は間違っていたことになる。当時こうした判断はすべて船長一人の決断にゆだねられていたのである。

   同じ頃、青森発16時30分の羊蹄丸の船長の佐藤昌亮は出航を見送る判断をした。「なぜ船を出さぬ」「優柔不断で日和見だ」という乗客たちからの罵声に耐えに耐え、台風と闘った。その羊蹄丸は、洞爺丸が沈没した翌朝、青森からの再開第一便としてうそのように穏やかに函館湾に入ってきた。

    近藤船長は海難で殉職され、洞爺丸沈没の本当の真相ともいうべき船長の行動や心理状態については、まったく不明である。羊蹄丸船長だった佐藤昌亮は、間もなく宇高航路へ転じ、国鉄を定年退職後は海難審判の補佐人(刑事裁判の弁護人にあたる)をつとめた。

   死者行方不明者1155人。わが国最悪の海難事故を契機に青函トンネル計画が具体化された。昭和63年9月19日で青函連絡船は、明治41年3月開業以来80年の歴史を閉じた。

2019年9月25日 (水)

古代戦争のゾウ使い

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   古代戦争などでは、巨像の部隊がその巨体とスピードで敵を押し倒し、踏み潰す破壊力を持つ強力な戦車のような兵器として用いられたことはアレクサンドロス大王がインドに遠征したときの話でもよく知られている。前326年ヒュダスぺス川の戦いで、パンジャブ王国のポロスは、200頭の戦象で、大王の侵入に応戦した。だがアレクサンドロスは巧みな機動作戦でこの新しい兵器に打ち勝った。象はこのように、必ずしも強力な戦闘力とはならなかった。また第二次ポエニ戦争では、前218年カルタゴの将軍ハンニバルは、約6万の兵と37頭の象を率いて雪のアルプスを越え、イタリア半島に侵入を試みたが、象の殆どはアルプスを越える時点で失われ、到達できたのは3頭に過ぎなかった。その後ザマの戦い(前202年)で、80頭の戦象でローマを攻撃した。ローマのスキピオは隊列を広く取り、象の突進をやり過ごすという戦術をとり、戦象はその隙間を通り過きてしまい、方向転換のために停止したところを殺されてしまった。象には敵味方の区別がつかないということや、火を怖がるなどの多くの弱点があった。ゾウの扱いは難しいと思うが、すぐれた調教師がいたのだろう。ゾウの活躍は17世紀インドのムガール帝国まで続いた。ムガール朝の軍隊は歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊、ゾウ軍、水軍と5つ部隊に区別されていた。

 

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「アルプス山脈を越えるハンニバル」 ヤコポ・リパンダ 1505年~1513年頃

 

 

2019年9月24日 (火)

三国志のことわざ

 三国志は古代中国に実際にあったことをもとにした物語であり、そのためにことわざや故事成句といった様々のもとになった事件や出来事がその中にたくさん含まれている。劉備の周囲のことだけで見てみても、「脾肉の嘆」や「三顧の礼」「水魚の交わり」など世に知られている故事が多くある。これらは後代に創られた「三国志演義」によってさらに広く親しまれたことばであるが、正史「三国志」に書かれたことわざを調べてみよう。「苛砕に大体無し」かさいにだいたいなし。陳寿「三国志」魏書・梁習伝。重箱の隅をつつくように、細かいことをくどくどと言うような人は、大局的な見地に立ってものをみることができない、という意味である。

古代インド

Ashokasalnato    アレクサンドロス大王はインドのパンジャブ地方まで侵入したが、これを迎え撃ったのはインドでは誰でも知っている伝説の英雄ポロスである。この大王の侵入がきっかけとなって、古代インドにおける最初の統一帝国マウリア王朝がチャンドラグプタ(月護王)によって実現できた。王は、「インド人の最大の王」と呼ばれ、その専制政治のありさまは仏典のうちにも伝えられている。メガステネースは、チャンドラグプタの宮廷について次のように伝えている。王の身のまわりの世話は婦人たちによってなされる。王が泥酔しているときに、その婦人が王を殺して、王の後継者と夫婦になる機会がある。王は昼間は眠らない。夜間も種々の陰謀が起こるのを防ぐために、ときには寝台を変更する必要がある、と。「アルタシャーストラ」にも次のようにしるされている。王に対して毒物が使用されたり、危険な人物が接近しないように、万全の警戒がなされ、多くの試食者をおき、王は夜ごとにその寝所をかえる。成長した王子にたいしても十分に注意しなければならない。王子はカニのようにその父王を食うからである、と。「夜安らかに眠ることのできる王は幸福である」という諺は、陰謀が行なわれるインドの宮廷生活の一面をたくみに言いあらわしている。

  チャンドラグプタ王はおそらく前317年から前293年までインドを統治したと伝えられるが、没年は不明である。強権政治を実行し、刑罰は苛酷であった。しかし、全インドにわたって多数の公路を建設し、駅亭を設け、また約半里ごとに標識としての柱を建てた。道路の主要交差点には、国家の倉庫を建設し、物資を収納し、緊急のさいの用に供させ、また農産物の増加をはかるために運河や貯水池をつくった。ジャイナ教の文献ならびにマイソール地方の諸碑文によると、彼はジャイナ教を信奉し、ある時期に退位してから、バドラバーフの弟子となって出家し、彼に従って南インドのマイソール地方に移り、カルパップ山で苦行を修め、最後には宗教的な餓死または三昧死をとげたという。セレウコスが、彼の宮廷に派遣した大使メガステネースのインド見聞記の現存断片は、彼の帝国の実情を側面から伝えている。(世界史)

2019年9月23日 (月)

山本五十六の戦時下の恋

 テレビ東京の「海にかける虹 山本五十六と日本海軍」12時間ドラマを観る。山本五十六を古谷一行、芸者の梅龍を池上季実子が演じている。阿川弘之「軍艦長門の生涯」、高橋猛「海軍めしたき物語」を原作に、新藤兼人らベテラン脚本家が下ろす。山本五十六は幾人の女性によくモテた男で色恋の歌を残している。

 

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか 

 

  千代子と呼びてけふも暮しつ

 

      * 

 

 おほろかに吾し思はばかくばかり 

 

  妹が夢のみ毎夜に見むや 

 

    海軍少将・山本五十六が新橋芸者の梅龍(当時28歳)初めて会ったのは、昭和8年、築地の料亭錦水の宴席でのことだった。梅龍、本名は河合千代子(1904-1989)は家業は株屋であったが、関東大震災後、没落し、一時、ある資産家の世話になったが、やがてその人とも別れ、1年前からお座敷に出ていた。宴席で吸い物が出た。五十六は日本海海戦で左二本指を失っていたため、吸いついたお椀の蓋をとるのがなかなかできなかった。梅龍が「とってあげましょうか」と声をかけた。それに対して五十六は、「自分のことは自分でする」と怒ったように答え、それをきいて、梅龍は「いやな人」と思ったという。しかし、二人の仲は急速に深くなった。戦時下、寸暇を惜しんで二人は会い、手紙を交換する。妻子ある元帥と芸者の10年に及んだ恋は、五十六のブーゲンビル上空での戦死により、咲くことなくはかなく散った。(参考:渡辺淳一「キッスキッスキッス」小学館)

筆記具の発明者たち

   万年筆はイギリスで19世紀の初めころから使われていた。1809年のこの日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具を考案し、特許をとった。のち1883年、アメリカのルイス・エドソン・ウォーターマン(1837-1901)が万年筆の実用化に成功した。鉛筆は1565年にスイスのコンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。シャープペンシルの原理は1822年にイギリスのホーキンスとモータンによって考案されたが、1917年にアメリカのチャールズ・キーラン(1883-1948)がエバーシャープという実用的な筆記具を販売した。ボールペンは1943年、ハンガリーの新聞校正係だったラディスラオ・ビロ(1900-1985)が考案した。(9月23日)

 

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      ウォーターマン                   ラディスラオ・ビロ

2019年9月22日 (日)

ブルガリア独立記念日

   ブルガリア共和国は、ドナウ川の南岸に位置し、中央部をバルカン山脈、南部をロドピ山脈が東西に貫いており、東部は黒海に面している。古代トラキア王国が栄えたが5世紀に原ブルガール族が侵入、7世紀にはブルガール王国を建国した。ブルガール人の人口が極めて少なかったため、10世紀までにスラヴ人と混血し、現在のブルガリア人が形成された。1393年にオスマン帝国に滅ぼされ、以後500年間オスマン帝国の支配下におかれた。1908年9月22日、独立宣言し、翌年、国際的に承認され、ブルガリア王国が成立した。1941年、ドイツ軍が進駐し、三国同盟に加盟する。1944年、ソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和制となる。ゲオルギ・ディミトロフ(1946-1949)、ヴァシル・コラロフ(1949-1950)らが首相になる。ディミトロフは1933年のドイツ国会議事堂放火事件に関わり、戦後はスターリンの助手となった。元首は大統領で、現在はルメン・ラデフ。

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   ディミトロフ                  コラロフ

 

(Bulgaria,Georgi Dimitrov,Vasil Kolarov,Thracia,Rhodpe)

2019年9月20日 (金)

一点素心

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交友須帯三分侠気。作人要存一点素心

   友と交わるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべし。人と作(な)りは、一点の素心を存するを要す。

   与謝野鉄幹は「六分の侠気」といったが、ここではおさえて三分。ひとかどの人物になるのには、まず自分自身の飾り気のない純粋で潔白な心をしっかりともたなければならない。素心とは、素直な気持ち、純粋な心をいう。中国明代末期の随筆集「菜根譚」前集にある。内容は心の平静を大切にする通俗的な処世訓を説いたもの。

2019年9月18日 (水)

日日是好日

  森下典子のエッセイ「日々是好日 お茶が教えてくれた15のしあわせ」の映画化。典子はお茶を習い始めて二十五年。就職につまづき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々、失恋、父の死という悲しみのんなで、気づけば、そばに「お茶」があった。題名となった禅語の「日日是好日」にちにちこれこうじつの意味は、毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといった浅い意味ではない。日日是好日とは、日々の苦しみ、喜び、楽しみなどというこだわり、とらわれをきっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地のことである。

2019年9月16日 (月)

勤務中も読書しなさい

P_minakamitakitaro    「人生は何事もなさぬにはあまりに長いが何事かをなすにはあまりにも短かすぎる」というのは中島敦の名言である。水原秋櫻子(1892-1981)の句に「余生なほなすことあらむ冬苺」がある。俳人として有名な水原だが、産婦人科の医師でもあった。文学者の「二足のわらじ」は医者が多い。軍医の森鴎外をはじめ、斎藤茂吉、木下杢太郎、木々高太郎、なだいなだ、クローニンなど。政治家では石原慎太郎、宗教家では今東高、瀬戸内寂聴、玄侑宗久など。水上滝太郎(画像)は、明治生命の近代化に多大な功績を残した実業家でもあった。出欠勤、遅刻、早退については、社員の意志に任すといった徹底した自由主義を貫き、一方で学問を奨励する。余暇に学問をするというのではなく、執務中でも余裕のある時には勉強をすべきだというのが彼の思想だった。「勉強しなくては駄目です。執務中でも、余暇があったら読書をしなさい」が彼のモットーだった。

 

 

おでんと凡人

 波乱万丈、貧乏暇なし、平々凡々と、人にはさまざまな人生があるものの、所詮はみんな同じ一生である。  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」がある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。

 

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

 

  おでんやを立ち出でしより低唱す

 

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

 

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

 

  志 俳諧にあり おでん食ふ

 

  おでんやの娘愚かに美しき

 

 

2019年9月15日 (日)

知性と教養って何?

Vitruvian20man    とにかく現代ほど知性と教養が求められる時代はない。池上彰や林修先生の冠番組がテレビで放送され、某大学教授が毎日のようにテレビ出演しているのを観ると、勉強している時間はあるのか、と心配したくなる。漱石・鷗外の時代に比べると、現代人は知性と教養が劣化したと感じるのは私だけだろうか。「知の巨人」伝説をもつ有名人といえば梅原猛、立花隆、荒俣宏、松岡正剛、渡部昇一、紀田順一郎、谷沢永一など多くいる。

   ルネサンスが生んだ偉大な天才レオナルド・ダ・ヴィンチの興味や関心は当時知られていた学問のほとんどすべての分野に及んでいる。レオナルドが残した手稿の大半が科学や技術に関するものである。そしてそこにはレオナルドの深い洞察力と自然に対する鋭い観察がある。

Marnold  イギリスのマシュー・アーノルドは19世紀繁栄をもたらした自由主義が本来の姿を失って、社会の各階級は物質万能の思想にとりつかれ、政治・経済・文化・宗教の各領域に混乱と無秩序が現出していることを憂い、この無秩序を教養によって救うことを説いた。主著「教養と無秩序」(1869年)では個人の教養の充実によって社会の文化もまた進歩するものと説いている。

    では常識や知識・教養とは何か。現代人はこのことにつねに悩む。若い人は学校などで教わる科目や授業内容で将来役に立つのだろうかと。また大学の進路で、人文科学・自然科学・社会科学のいずれを選択するのか。画家や音楽家になりたかったが、親のすすめで法学部や経済学部へ行ったという人も多いだろう。またクイズ問題が得意で、実社会では物知りと言われても、教養人とは言われないだろう。口語的に「あの人は教養がある」と言う場合は、人付き合いや社交の場において、洗練された会話や身のこなし、マナーのある人ができる能力をさすことが多い。だが人ウケがする話術だけが教養人の要素ではない。ある人は教養人とは「慎みと品格」である、と言っていた。その人が学習して得た知識をひけらかして得意満面の人間は教養を感じさせない。だからといって、過去の人類の知識をまったく貯蔵しなければおバカといわれる。つまり人格プラス知識の貯蔵庫、の両輪が求められる。功績を誇り学問をひけらかす人々は、人間としての価値を外面にだけ求めている。本来そなわっているまことの心を失わなければ、たとい功績や学問がなくても、それだけで立派な人生が送れることを理解していない。

   日本国際ギデオン協会という団体がある。日本人にはこの「ギデオン」がわからない。ギデオンとは旧約聖書・士師記に登場する12人の士師の1人。神からの召命を受け、当時のイスラエル人を近隣の部族の襲撃から守るリーダーとなった。わずか300人の兵で12万人のミデヤン人の軍勢を破った戦いは有名で、信仰の勇者として知られる。女士師デボラや怪力のサムソンの物語など教養として知っておくべきだろう。

異常なまでに高められた常識のことを、世間は知恵と呼んでいる(コールリッジ)

 

Matthew Arnold、5月2日

 

 

関ヶ原の合戦

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 関ヶ原合戦図屏風

 

  慶長3年(1598)年8月18日、豊臣秀吉は幼少の秀頼の将来を案じつつ苦悩のうちに伏見城で没した。享年62歳。辞世の歌が残されている。

 

つゆとをちつゆときへにしわがみかな

   なにはの事もゆめの又ゆめ

    秀吉の死後、遺訓に示された徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元の五大老の合議によって政治が運営された。また前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家が五奉行として庶政を執行した。五大老と五奉行の間に、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴の三中老が、大老と奉行の調停役という意味でおかれた。慶長4年正月、秀頼は伏見城を出て大坂城に入った。前田利家がお守役としてこれに従った。そこで家康が伏見の自邸で政務をとることになった。しかも、かつて、ねねと藤吉郎の仲人役をはたした前田利家は翌年3月病没した。利家の死は、家康の独走への道をひらいたものであり、三成の失脚ともなったわけである。三成は政務執行の実力者であったため、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明らの武将に恨まれることが多かったらしい。暗殺を察した三成は、大坂から伏見に逃げた。しかも、三成はもっとも敵対しているはずの家康に保護を求めて、ようやく近江の佐和山城に帰ることができた。こうして家康は伏見の自邸から伏見城にうって政務を見ることになる。

    石田三成は佐和山城を修築し、浪人団を雇い、反家康派の大谷吉嗣を呼んで作戦をねり、安国寺恵瓊と吉川広家のもとに使者を走らせ、家康打倒の意思をつたえ協力をもとめる。さらに、毛利輝元を大坂城に迎えて、策を告げる。三成派の長束正家、増田長盛、前田玄以らも、軍備をととのえ、大坂城に参集する。そののち三成は鳥居元忠が守る伏見城を落とし、美濃大垣城にはいり、ここに西軍を集結させた。石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家らのひきいる西軍は関ヶ原に陣をしいた。

    慶長5(1600)年9月15日辰の刻の朝(午前8時頃)、天下分け目の戦いが関ヶ原ではじまった。西軍は石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、脇坂安治、小早川秀秋、吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部盛親らの軍勢8万、東軍は徳川家康、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、山内一豊、浅野幸長、池田輝政ら7万といわれる。西軍は伊吹山麓から松尾山の間に陣をとり、南宮山方面から東軍の側面をつく作戦であったが、松尾山の小早川秀秋の隊1万5000が東軍に寝返り、思わぬ展開をみせる。秀秋は布陣していた松尾山から西軍の大谷吉継の陣に攻め寄せる。この裏切りを契機に脇坂安治、朽木元網、赤座直安、小川祐忠の隊が続々と東軍に寝返って西軍は総崩れになっていく。実は、家康は秀秋や吉川広家ら西軍諸将に対して再三再四、味方につけるための根回し工作を行っており、すでに内応していたため、勝敗はおのずと明らかであった。天下を分ける大戦は、たった半日で終わってしまった。この一戦により、家康の覇権は確立した。

   三成は伊吹山中に逃げ、家臣とも別れ、単身近江に入り、幼少のころ手習いをした三重院という寺をたずねて、かくまってくれとたのんだがことわられ、ついに山林をさまようこと数日、ようやくのことで、伊香郡古橋村の与次郎という者の家にたどりついた。与次郎の義侠心で山中の岩窟にかくしてもらったが、とても逃げられると悟った三成は、与次郎にすすめて訴人させ、22日、領主の田中吉政(1548-1609)の手に捕らえられた。石田、小西、安国寺の三人は大坂に拘置されていたが、10月朔日首かせをはめられて、大坂・堺・京の市街を引きまわされて、六条河原で斬首された。その首は自殺した長束正家の首とともに、三条の橋ぎわにさらされたという。41歳だった。

2019年9月14日 (土)

団結は力なり

英語のことわざ。Union is strength.

1人で何かをやるよりも、複数で団結する方が大きな力をもち、大きなことを成し遂げられる。もともとは古代ギリシアのころからいわれてきたことばで、ギリシアの詩人ホメロスの「イリアス」に、Union gives strength,even to weak men.(弱き者も団結は力を与う)とある。

 

2019年9月11日 (水)

喜怒哀楽の語源

Photo_3    近年、スポーツや音楽が盛んで、手拍子やガッツポーズなど高揚した感情を全身で表現することが多い。今年限りで引退する阪神の鳥谷敬はグラウンドで絶対に喜怒哀楽を見せない珍しい選手だった。喜怒哀楽は素直に表したほうがいいのだろうか。しかし、それは一瞬の感情でしかない。どんな喜びも、とどんな愛も、どんな命も、やがて終わりがきます。人は哀しみとともに生きているのです。「喜怒哀楽」という言葉は小学校で習う有名な四字熟語ですが、その出典や本来の意味は意外と知られていない。「中庸」第一章にあります。四書の一つで儒教で大切な経典です。とくに宋時代の朱熹がその重要性を説いている。中国の思想の大きな流れは、前漢に国教となった儒教であるが、後漢には訓詁学として盛んとなるが、次第に儒教は魅力を失い、仏教がひろく普及していく。とくに禅宗は、宋代に入って儒教、老荘思想とも結びついていた。南宋の朱子も若い頃は禅へ傾倒していた。進士となった朱子は、24歳のとき延平(福建省南平市)の李侗(1092-1163)の教えを受けた。李侗は、禅理をまくしたてる朱子に向かって「おまえは、宙に浮いた理屈ばかりをいうが、眼前の事実についてはなにもわかっていない。道は玄妙なものではない。ただ日用の間に着実に工夫することによって自然に会得できるのだ」と説く。それには「未発の気象」を養うことだという。「未発の気象」とは『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節にあたる。これを和という」という言葉に基づくもので、感情の動く以前の、澄みきった、偏りのない心である。この心は「黙座して心を澄ます」ことによって体認される。禅理と共通するものをもちながら、しかも現実への着実な取り組みを説くこの教えは、朱子の学問の方向を決定するようになった。つまり「喜怒哀楽」とは、感情のおもむくまま、泣いたり、笑ったりしてはいけないことをいっているのである。(3月9日)

 

 

2019年9月 1日 (日)

与謝野晶子と関東大震災

   1923年9月1日午前11時58分、東京・横浜を中心としてマグニチュード7.9の大地震がおこった。多くの家屋が倒壊し、ちょうど昼食時に重なり、炊事用の竈から出火して、各地に火災が発生して被害を大きくした。このとき、与謝野晶子は44歳で夫の鉄幹とともに、神田駿河台の文化学院で教鞭をとっており、近くの逓信病院付近に住んでいた。晶子は、こんな短歌を詠んでいる。

 

もろもろのもの心より搔き消える天変うごくこの時に遭ひ

 

天地崩(く)ゆ生命を惜む心だに今しばしにて忘れはつべき

 

 また文化学院に預けておいた「新新源氏物語」の原稿も焼失してしまった。

 

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

 

 

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