安土城主7年
織田信長は浅井氏を滅ぼして近江一帯を治め、天正4年(1576年)5月11日、岐阜から安土に進出して安土城を建設した。高さ115mの安土山の頂を本丸とし、本丸の側に二の丸を設け、山腹に諸将の邸を置いた。ここに招かれたキリシタン宣教師は大天守閣の壮麗さに驚いた。「中央に一種の塔があ。塔は七層楼で、内外ともに驚くべき構造である」と耶蘇年報に記している。日本で最初に天守台を備えた城は安土城だったと俗にいわれるが、実はすでに岐阜城、北ノ庄で天守の城はある。
信長がこの安土城に拠ったのは天正4年から同10年にかけて、彼が43歳から本能寺で亡くなる49歳にかけて、わずか7年ということになる。城に移り住んでからわずか3年である。ところで安土城を焼いたのは誰であろうか?通説では安土城の守備を命ぜられた女婿、明智秀満(左馬助)が山崎の敗報を聞き、坂本城へ退却するときに放火したといわれてきた。この他、秀満が去った後に、安土城に入城した織田信雄が攻撃したときに全焼したとする説、信雄が何らかの理由で放火したとする説、近在の農民や野武士が安土城に略奪に入り、放火したとする説などあって、現在のところ定説はない。
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