華厳の滝、藤村操の自殺は五月病だった!?
「五月病」という言葉がある。日本では会社や学校など4月にスタートするが、新生活になじめず一月が過ぎたころにストレスがたまり、ひどい場合には自殺する若者が多いという。明治36年5月22日、一高生徒の藤村操が日光・華厳の滝に投身自殺した。投身に先立ち、かたわらの大樹をけずり、巌頭之感を書き残した。
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソレチーを価するものぞ、萬有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。
ここで引き合いに出されているホレーショというのは、シェークスピアの「ハムレット」の登場人物のことである。「なあ、ホレイショ―よ、天と地の間には君の哲学などでは夢にも思い描けぬことがあるのだよ」という有名な台詞がある。それはともかく、当時夏目漱石は第一高等学校で英語を教えており、藤村は教え子であった。野上豊一郎は漱石との関係を次のように語っている。
先生は何しろ生徒が下読みをして来ないのを嫌われたが、藤村は自殺する頃二度ほど怠けた。最初の日先生から訳読を当てられたら、昂然として「やって来ていません」と答えた。先生は怒て「此次やって来い」と云って其日は済んだが、其次の時間に又彼は下読みをして来なかった。すると先生は「勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくともよい」と大変に叱られた。するとその二三日後に藤村の投身のことが新聞に出た。その朝、第一時間目が先生であったが、先生は教壇へ上るなり前列にゐた学生の心算では、あの時手ひどく怒った故彼が自殺をしたのじゃないかと、ふと思ったのだったさうだ。3年後、漱石は小説「草枕」の中で藤村の死に対する思いを次のように書いている。
昔巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の観るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものはまことに壮烈である。ただその死を促すの動機にいたっては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体しえざるものが、いかにして藤村子の所作をわらい得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味わいえざるがゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格としては劣等であるから、わらう権利がないものと余は主張する。
漱石は藤村操の自殺を擁護し、一定の理解を示したのだが、藤村との関係についてはそんな挿話があったのである。
藤村操の投身自殺は同世代の青年に大きなショックを与えた。5年間で180人以上が後追い自殺したといわれる。
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