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2019年2月28日 (木)

モンテーニュの読書室

La_tour_de_la_librairie_au_chateau_    本日はエッセイ記念日。エッセイといえば、フランスのミッシェル・ド・モンテーニュの誕生日(1553年2月28日)に因んだものとか。1533年フランス南西部ボルドー近郊のモンテーニュ城館に生まれたモンテーニュはヨーロッパ各地を旅行し、見聞を広めた。1571年、官を辞し、モンテーニュ城館の塔に読書室(librairie)を造り、読書と思索の生活に入った。やがて「エセー(随想録)」の執筆を初め、「随想録」2巻が執筆した。サン・テミリオンの読書室の天井にはギリシア語、ラテン語の成句が書き込まれている。40近いこれらの銘文には、知識の不確実さ、生の無情さを強く説くものが多い。彼自身は「私は何を知るか(クセジュ)?」という表現を好んだ。これは、彼が常に真理探究の過程にある、という意味であった。(Montaigne,Bordeaux,Saint-Emilion,Que sais-je?)

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2019年2月24日 (日)

ビクトリア湖とタンガニーカ湖

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ナイル川の最上流はビクトリア湖に流入するルワンダ国のルヴィロンザ川である。長い間、ナイル川の源流は謎であった。1856年イギリスの探検家リチャード・バートン(1821-1890)とジョン・スピーク(1827-1864)はナイル川源流を探すため、アフリカ大湖沼地域を探検した。2人はタンガニーカ湖を発見したが、途中バートンは病気のため探検を中止した。結局、スピークが1人で探検し、ヴィクトリア湖を発見した。ビクトリア女王にちなんで名付けた。タンガニーカは、土語のコウタンガニーカ kou-tanganika(合流する)に由来するとしている。

    地図帳でみるとタンガニーカ湖は南北に細長い形をしている。それでも面積は琵琶湖の49倍、ビクトリア湖は102倍もある。地図帳のアフリカの縮尺は4000万分の1、琵琶湖の縮尺は100万分の1だから、日本人はアフリカを実際よりもずっと小さなイメージをもっているのである。タンガニーカ湖やマラウイ湖が細長い形をしているのには理由がある。いまからおよそ1000万年前、アフリカ大陸が南北に割れ始め、1年間に数センチずつ離れていった。グレート・リフト・ヴァレーと呼ばれる渓谷ができ、湖ができたのである。

 

ネアンデルタール人は「人間らしい心をもつ」のか!?

Photo_4   イラク北部クルディスターンにあるシャニダール洞窟で1960年に9体のネアンダルタール人骨が発掘された。そのうち4体は埋葬されたもので、化石とともに数種類の花粉が発見された。アメリカの考古学者ラルフ・ステファン・ソレッキは「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」という報告をしたため、約6万年前のネアンデルター人が現代人と同じような感情があるものとして世界的に知られるようになった。だが近年になって、ソレッキの説に否定的な意見を持つ学者も現れた。ネアンデルタール人が埋葬をしていたことは事実であるが、花粉が死者を悼むための花であったかは疑問も多い。ネアンデルタールがDNA解析で現世人類と異なる系統にあること、現代人のような前頭葉を持たないこと、などが理由にあげられる。近年、これらの花粉は洞窟の中に巣くっていたネズミが持ち込んだものという説が出されている。

ネアンデルタール人の埋葬といえば、1938年発見されたウズベキスタンのテシク・タシュ(Tsehik Tash)も知られる。洞窟からネアンデルタール人の特徴をもつ子どもの頭の周りに6頭の山羊の角を立ててあった。A・オクラドニコフは葬礼の起源を示すものと考えている。(Shanidar,Neanderthalensis,Ralph Stefan Solecki)

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アノミア「岬」

   石川県の禄剛崎(ろっこうさき)は、能登半島の先端に位置し、日本海に面する岬。私の住んでいるところから一番近い岬は神戸の和田岬。一番遠いのは、宗谷岬、あるいは沖縄県の喜屋武(きやん)岬。本州最北端は竜飛崎ではなく、大間崎。本州最南端は潮ノ岬。九州最南端は佐多岬。ユーラシア大陸の最東端はチュクチ半島にあるデジニョフ岬。最北端はチェリュスキン岬。最西端はポルトガルにあるロカ岬。最南端はマレーシアにあるピアイ岬。北アメリカ最北端はバロー岬(アラスカ)。最南端はホーン岬(チリ)。アフリカ最南端はアガラス岬。

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年2月23日 (土)

茶色の小瓶

   ビールのコマーシャルでよく聞く曲である。原曲はアメリカの音楽家ジョセフ・イーストバーン・ウィナーが1869年に発表した楽曲。茶色の小瓶とは酒瓶のことで、いつも小瓶を腰にぶら下げて、酒がやめられないという呑兵衛の酒ソング。禁酒法時代に好まれたが、1939年、グレン・ミラーがアレンジを加えて演奏した曲が世界的にヒットした。日本では「こんにちはやまびこん」という別な歌詞で合唱曲であったが、吹奏楽でしばしば演奏され、世代を超えて親しまれている名曲となった。

人間万事塞翁が馬

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   人間の一生のうちで、何が幸福になり、何が不幸になるかは予測がつかず、簡単には決められない。禍福は定まりなく、変転するものだから、安易に喜んだり悲しんだりすべきでないということ。出典は、「淮南子」人間訓にある。「人間のあらゆること(人間の禍福)」を意味する「人間万事」を加えて、「人間(じんかん)万事塞翁が馬」とも言う。元の僧、熙晦機の詩「人間万事塞翁が馬、推枕軒中雨を聴いて眠る」がある。「世の中は幸と不幸が、かわるがわる起こる。あれこれ考えないで、そろそろ落ち着いて、自然のまま、雨風に耳を傾けて日々暮らす」という意味か。「推枕軒」とは熙晦機の書斎兼居間の雅称か。

ダコダ・ファニングの誕生日

    本日はハリウッド女優ダコダ・ファニングの誕生日。7歳でデビューした彼女も25歳のお年頃。新作は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」1969年夏のロサンゼルスが舞台であのシャロン・テート殺人事件を題材にしている話題作。レオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットら豪華スターが多数出演する。(2月23日)

2019年2月21日 (木)

鉄腕アトムの人気は不滅です

  子どもの頃、手塚治虫の漫画を読んで育った。とくに「鉄腕アトム」は大のお気に入りの作品。だが漫画の神様と称えられた手塚も没後20年以上たち、手塚治虫を知らない若者も増えたようだ。ところがお隣の国、韓国では未だに手塚治虫の「鉄腕アトム」は人気が高い。実は韓国人は長い間、「鉄腕アトム」を日本製とは知らなかったからだ。韓国では1970年代「宇宙少年アトム」の名でテレビ放送されて大ヒットした。今の韓国社会を支える大人はみなアトムを見て育つた世代なのだ。韓国女性歌手キム・ヒョヌ(26歳)がなにげなくインスタグラムに投稿した写真にも大きなアトム人形が傍らに佇むのも可笑しい。

支那学文献目録

09271610_542662d9b20a1  19世紀後半から中国や日本で「支那」という言葉が使われていたが、現在では使われない。一般的には「支那」を差別語と考える人が多いが、歴史的に語源を調べるとかなり古い言葉で、玄奘の「慈恩伝」の中にも使われており、成立時は差別的な意味は含まれない。英語の「チャイナ」や「ラ・シーヌ」(仏語)、「ヒーナ」(独語)、「ラ・チーナ」(伊語)、「チナ」(西語)、「シーナ」(オランダ語、ポルトガル語)もみな秦の音の訛りで、古代インド、ギリシア・ローマと伝わったものである。日本語の「支那」も本来は一般的な呼称であったが、戦時中に蔑称として用いられた歴史があり、現在は使われていない。近年、石原慎太郎が「中国をシナと呼ぼう」と会見でシナを連発したが、中国ネットで非難が集中したことは記憶に新しい。ここでは書誌学的研究の立場から、タイトルに「支那」を含む図書を集める。ちなみに「中国」という語はすでに戦前からすでに使用されていた。ことがある。実例として、「近世中国史」風間阜1937年、「中国文化界人物総鑑」橋川時雄1940年など

支那総説 1~6 金子弥兵衛、中島精一 中近堂 1883
支那地誌 総体部 下村修介編 参謀本部編纂課編輯出版 1887
支那貨幣考 ダブルユ・ヴィッセリング著 駒井重格訳 専修学校 1891
支那教学史略 2冊 狩野良知 吉川半七 1891
支那全図 参謀本部編 1892
支那地誌 巻15上 満州部 参謀本部編纂課編輯出版 1893
支那地誌 巻15下 蒙古部 参謀本部編纂課編輯出版 1893
支那学術史綱 国府種徳、白河次郎編 博文館 1900
支那地理書 高島天淵編 1900 
支那探検録 新正 宮内猪三郎 1900
支那商業地理 曽我太郎 児玉芸香堂 1902
支那語会話読本(新編) 青柳篤恒 早稲田大学出版部 1903
支那大文学史 古代篇1 児島献吉郎 冨山房 1909 
支那仙人列伝 東海林辰三郎 白河次郎 聖精堂 1910
支那事情 西島良爾(函南) 宝文館 1911
支那政治地理誌 上下 大村欣一 丸善 1915
支那美術史彫塑篇 大村西崖 仏書刊行会図像部 1915
蒙古及満州 鳥居龍蔵 東京出版 1915
近世支那十講 稲葉君山 金尾文淵堂 1916
支那古田制の研究 法律学経済学研究叢書17 加藤繁 京都法学会 1916
支那 消夏漫筆 中山成太郎編訳 有斐閣 1916
支那論 山路愛山 民友社 1916
支那関係特種条約彙纂 東亜同文会調査編纂部 同部 1917
支那鉱業諸規定類纂 影山虎四郎編 大阪屋号書店 1917
支那語会話教科書 佐藤智雄 大阪・同文社 1917
支那制度及社会概要 支那研究叢書9 東亜実進社 1917
支那の交通 支那研究叢書7 東亜実進社編 同社 1917
支那鉱産地 小山一郎編 丸善 1918
支那古代史 ヒルト 三省堂 1918
世界之支那史 青柳篤恒等 早稲田大学出版部 1918
支那教育状況一斑 朝鮮総督府編 京城朝鮮総督府 1919
支那経済研究 田中忠夫 大阪屋号書店 1919
支那仏教遺物 松本文三郎 大鐙閣 1919
近代支那史 稲葉岩吉 大阪屋 1920
支那関税制度論 高柳松一郎 京都・内外出版 1920
支那の外交関係 橋本増吉・牧野義智 外交時報社 1920
支那革命外史 北一輝 大鐙閣 1921
支那唐代の服飾 原田淑人 丸善 1921
支那工芸資料 京都市商品陳列所編 京都・芸艸堂 1922
支那為替の建方及取引方法 近世商業経済叢書 古矢吉雄 文雅堂 1923
支那為替論 内田勝司 巌松堂 1923
支那から南洋へ 東幸治 誠志堂 1923
支那経済事情 椿本義一 大阪屋号書店 1924
支那現代史 松井等 明善堂 1924
支那現代思潮 東洋講座第1輯 松井等 小西書店 1924
支那国学概論 章大炎著 大月射月訳 上海・支那思想研究会 1924
支那趣味の話 後藤朝太郎 大阪屋号書店 1924
支那法制史研究 東川徳治 有斐閣 1924
支那画人伝 横川毅一郎 中央美術社 1925
支那古代史論 東洋文庫論叢5 飯島忠夫 東洋文庫 1925
支那西教史考 グスターフ・コル 鈴木哲 伊山堂 1925
支那仏教近世史の研究 水野梅暁 支那時報社 1925
支那仏教史蹟 常盤大定・関野貞 仏教史蹟研究会 1925
近代支那史 矢野仁一 弘文堂 1926
支那及支那問題辞典 河瀬竜雄 厚生閣 1926
支那建築史 東洋史講座 伊東忠太 国史講習会 1926
支那学文叢薮 狩野直喜 京都・弘文堂 1927
支那関税特別会議の経過 台湾総督官房調査課 1927
支那経学史論 本田成之 弘文堂書房 1927
支那戯曲研究 久保得二 弘道館 1928
支那道徳文化史 荻原擴 中文館 1927
支那建築 世界建築集成 全2冊 塚本靖、伊東忠太、関野貞編 建築学会 1928
支那語中の西洋語 近世支那伝来西洋語漢字音訳語彙 東亜研究講座20  中山久四郎 東亜研究会 1928
支那歴史研究 小川琢治 弘文堂書房 1928
支那革命に於ける農業革命の躍進 広東から上海へ第2部 アジアチクス著 別府重夫訳 上野書店 1929
支那革命に於けるプロレタリアートのへゲモニ 広東から上海へ第3・4部 アジアチクス著 別府重夫訳 上野書店 1929
支那古韻史 大島正健 冨山房 1929
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト 西山栄久訳補 丙午出版社 1929
支那の建築 伊藤清造 大阪屋号書店 1929
支那歴史研究 続 小川琢治 弘文堂書房 1929
支那歴代年表 中村久四郎 山根倬三 中文館 1929
朝鮮支那文化の研究 京城帝国大学法文学会編 刀江書院 1929
日本と支那の諸問題 長野朗 支那問題研究会 1929
近世支那外交史 支那学叢書5 矢野仁一 弘文堂書房 1930
支那(小説) 前田河広一郎 改造社 1930
支那関係条約集 半沢玉城 外交時報社 1930
支那内国公債事情 中浜義久 南満州鉄道株式会社 1930
支那近世戯曲史 青木正児 弘文堂 1930
支那研究 慶応義塾望月基金支那研究会 岩波書店 1930
支那後宮秘史 浜本鶴賓 春陽堂 1930
支那土地制度研究 長野朗 刀江書院 1930
支那暦法起源考 飯島忠夫 岡書院 1930
支那論 井上雅二 東亜同文会 1930
日本と支那の将来 平野春江 霊岸授産場出版部 1930
支那学文献の解題と其研究法 武田熙 大同館 1931
支那革命外史 世界興亡史論17  北一輝 平凡社 1931
支那革命と孫文主義 武田凞 大同館 1931  
支那共産党 第2輯 大衆叢書3 大衆新聞社 1931
支那近世産業発達史 青柳篤恒 東亜研究会 1931
支那古代社会史論 郭沫若 藤枝丈夫訳 内外社 1931
支那古代史と天文学 飯島忠夫 恒星社 1931
支那の排日侮日に就て 陸軍省調査課 1931
一九三〇年支那年史 長野朗 支那問題研究所 1931
支那 少年少女世界地理文庫1 西亀正夫 厚生閣 1932
支那現代婦人生活 沢村幸夫 東亜研究会 1932
支那語会話独習 藤本敦美 春陽堂 1932
支那社会経済史 森谷克己 章華社 1932
支那住宅志 南満州鉄道株式会社経済調査会編 大連・同社 1932
支那の国民性 大谷光瑞 大乗社支部 1932
支那の排日運動 波多野乾一 東亜研究会 1932
支那百笑 伊能嘉矩選評 北田清二郎画 内外社 1932
今日の支那語選書 春陽堂 1933
狂乱の支那 馬郡健次郎 南光社 1933
支那貨幣研究 吉田虎雄 山口・東亜経済経済会 1933
支那貨幣史銭荘考 広畑茂 建設社 1933
支那ギルドの研究 根岸佶 斯文書院 1933
支那の建築と芸術 関野貞 岩波書店 1933
支那歴史地理研究 正集 小川琢治 弘文堂書房 1933
支那現代思潮 岩波講座東洋思潮5 松井等 岩波書店 1934
支那現代文集要 小林幾次郎編著 尚文堂 1934
支那製紙業 関彪編 誠文堂 1934
上代支那に於ける神話及び説話 岩波講座東洋思潮1 出石誠彦 岩波書店 1934
古代支那人の民間信仰 岩波講座東洋思潮10  白鳥清 岩波書店 1935
最新支那年鑑 昭和10年版 東亜同文会 東亜同文会 1935
支那貨幣論 有本邦造 森山書店 1935
支那経済現勢講話 孫懐仁ほか著 支那経済研究会訳 学芸社 1935
支那経済史研究 ウィット・フォーゲル著 横川次郎訳編 叢文閣 1935
支那思想・道徳思想 岩波講座東洋思潮9 高田真治 岩波書店 1935
支那ニ於ケル棉花奨励誌 外務省調査部 日本国際協会 1935
支那農業経済の諸問題 田中忠夫 学芸社 1935
支那の農業と工業 R・H・トーネイ著 浦松佐美太郎・牛場友彦訳 岩波書店 1935
時文研究支那新聞の読み方 清水元助・有馬健之助 外語学院出版部 1935
支那貨幣論 支那貨幣制度は何處へ行く 章乃器著 浅川謙次訳 叢文閣 1936
支那経済事情講話 東京商工会議所編 森山書店 1936
支那工業論 有沢広巳編 改造社 1936
支那語会話辞典 岡本正文編 文求堂 1936
支那絨毯考 高木英彦 泰山房 1936
支那制覇戦とアメリカ 上 カントロウイチ著 広島定吉・堀江邑一訳 ナウカ社 1936
支那の抗日記録 日支の不幸 姫野徳一 日支問題研究会 1936
支那のランプ 奇語幽談 佐藤惣之助 版画社 1936
英人の観たる支那の建設運動 東洋協会調査部 東洋協会 1937
今日の支那 日本評論社編輯部編 日本評論社 1937
今日の支那 小倉章宏 東興社 1937
支那女人譚 村田孜郎 古今荘書房 1937
支那ギルド論 H.B.モース著 増井経夫訳 生活社 1939
支那経済概観 日本産業経済全集15  浜田峰太郎 白揚社 1937
支那経済恐慌論 木村増太郎 改造社 1937
支那経済建設の全貌 方顕延 日本国際協会 1937
支那言語学概論 カールグレン著 岩村忍、魚返義雄訳 文求堂 1937
現代支那批判 尾崎秀実 中央公論社 1938
支那貨幣制度論 宮下忠典 宝文館 1938
支那古代の祭礼と歌謡 マーセル・グラネー著 内田智雄訳 弘文堂 1938
支那論 内藤虎次郎 創元社 1938
支那古代社会研究 郭沫若 藤枝丈夫訳 東学社 1935
支那新聞の読み方 入江啓四郎 タイムス出版社 1935
支那游記 室伏高信 日本評論社 1935
支那碑碣形式の変遷 関野貞 座右宝刊行会 1935
支那工業論 有沢広巳編 改造社 1936
支那古韻学階梯 松村利行 松雲堂 1936
近代支那社会史 サファロフ著 早川二郎訳 白揚社 1937
古代支那及印度 東洋文化史大系1 新光社 1937
支那語手引と会話早わかり 甲斐靖 駸々堂 1937
支那事変 美談 講談社の絵本 1937
支那事変 武勇談 講談社の絵本 1937
支那と仏蘭西美術工芸 小林太市郎 東方文化学院京都研究所 1937
支那秘密結社の新情勢 三宅儀明 中国通信社東京支局 1937
日本は支那を如何する 中野正剛 育成社 1939
現代支那人物論 吉岡文六 時潮社 1938
最新支那常識読本 山口梧郎 テンセン社 1938
支那近世史講話 稲葉岩吉 日本評論社 1938
支那社会経済史分析 チャオーチン・テイ著 佐藤愛三訳 白揚社 1938
支那制覇戦と太平洋 下 カントロウイチ著 広島定吉訳 生活社 1938
支那西北辺彊紀行解題 後藤富男 東亜研究所 1938
支那と支那人と日本 杉山平助 改造社 1938
支那の歴史 少年史伝叢書 塚田忠泰 大同館 1938
支那の人々 清水安三 隣友社 1938
支那歴史研究法 梁啓超 小長谷達吉訳 改造社 1938
新支那論 池崎忠孝 モダン日本社 1938
近代支那教育史 陳靑之著 柳沢三郎訳 生活社 1939
現代支那講座 4 産業(1) 東亜同文書院支那研究部 1939
現代支那講座 5 産業(2)・貿易 東亜同文書院研究部 1939
現代支那人名辞典 大陸文化研究所編 泰山房 1939
現代支那論 岩波新書 尾崎秀実 岩波書店 1939
支那学翻訳叢書 文求堂書店 1939
支那協同組合論 陳殷公著 高山洋吉訳 生活社 1939
支那経済概論 2冊 L・マーシャル著 安藤英夫訳 泰山房 1939
支那経済研究 方顕法編 梨本祐平訳 改造社 1939
支那工業論 上海工業の発展 劉大欽著 倉持博訳 生活社 1938
支那鉱業論 支那及満州国における鉱富の研究 ハインリッヒ・バウェル著 高山洋吉訳 日本評論社 1939
支那交通史論 白寿彜著 牛島俊作訳 生活社 1939
支那社会構成 秋沢修二 白揚社 1939
支那戦国時代 世界興廃大戦史・東洋戦史3 仲小路彰 戦争文化研究所 1939
支那地方自治発達史 和田清編 中華民国法制研究会 1939
支那社会経済の研究 井村薫雄 東亜同文会業務部 1939
支那社会の科学的研究 岩波新書 ウィットフォーゲル 岩波書店 1939
支那社会の研究 清水盛光 岩波書店 1939
支那春秋時代戦史 世界興廃大戦史・東洋戦史2 仲小路彰 戦争文化研究所 1939
支那商業史 王孝通著 平田泰吉訳 生活社 1939
支那の農民生活 費孝通 生活社 1939
支那の歴史と文化 上 ラトレット著 岡崎三郎訳 生活社 1939
支那游記 改造社文庫 芥川龍之介 改造社 1939
上代支那法制の研究 刑事編 根本誠 有斐閣 1939
現代支那史 全6巻 グスタフ・アマン著 高山洋吉訳 育生社 1939-1940
南支那 大阪毎日新聞社編 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社 1939
現代支那思想史 梁漱冥著 神谷正男訳 生活社 1940
現代支那史 教養文庫 小竹文夫 弘文堂 1940 
現代支那満州教育資料 東京文理科大学・東京高等師範学校紀元二千六百年記念会編 培風館 1940
支那関係欧米名著略解 岩村忍編 タイムス社 1940
支那教育史 支那文化叢書 上下 任時先著 山崎達夫訳 人文閣 1940
支那基督教史 東亜叢書 比屋根安定 生活社 1940
支那語自修読本 陳文彬 大阪屋号 1940
支那古代家族制度研究 加藤常賢 岩波書店 1940
支那社会政治思想史 上 呂振羽 原勝・角田次郎訳 日本青年外交協会 1940
支那宗教思想史 王治心著 冨田鎮彦訳 大東出版社 1940
支那商業史 支那文化史大系5 王孝通著 大東出版社 1940
支那生活案内 後藤朝太郎 黄河書院 1940
支那政治思想史 支那文化叢書 楊幼烱著 古賀鶴松訳 人文閣 1940
支那精神 世界精神史講座2 諸橋轍次ほか 理想社 1940
支那戦時経済論 石浜知行 慶応書房 1940
支那政治思想史 支那文化史大系2 楊幼烱著 村田攷郎訳 大東出版社 1940
支那政党史 楊幼烱著 森山喬訳 日光書院 1940
支那タングステン鉱誌 支那経済資料  江西地質鉱業調査所編 生活社 1940
支那地理大系 自然環境編 渡辺光編著 日本評論社 1940
支那統制経済論 羅敦偉著 河上純一訳 生活社 1940
支那の口語文学 ラジオ新書 宮原民平 日本放送出版協会 1940
支那の鉱床及鉱業 ウィリアム・コリンス著 西村雄三訳 白揚社 1940
支那農業経済論 上 天野元之助 改造社 1940
支那の歴史 スットヒル著 福原麟太郎・近藤正平解注 研究社 1940
支那法制史研究 瀧川政次郎 有斐閣 1940
支那美術史 東洋史講座17  金原省吾 雄山閣 1940
支那文化史 陳登原著 布施知足編訳 白揚社 1940
支那文化史観 ラジオ新書 出石誠彦 日本放送出版協会 1940
支那歴史地理研究 続集 小川琢治 弘文堂書房 1940
支那論 フランソア・ケネー著 勝谷在登訳 白揚社 1940
概説支那仏教史 道端良秀 法蔵館 1941
近代支那と英吉利 百瀬弘ほか 蛍雪書院 1941
支那行商人とその楽器 中島幸三郎 冨山房 1941
支那銀行制度論 宮下忠雄 巖松堂 1941
支那工業合作社運動 刈屋久太郎編著 畝傍書房 1941
支那経済史 支那文化史大系3 馬乗風著 田中斉訳 大東出版社 1941
支那古代生活史 内野熊一郎 清水書店 1941
支那事変秘史 津田元徳 大阪屋号書店 1941
支那社会政治思想史 下 呂振羽 日本青年外交協会 1941
支那西康事情 楊仲華著 村田孜郎訳 誠文堂新光社 1941
支那探訪 緒方昇 東京日日新聞社 1941
支那のこども 山本和夫 小学館 1941
支那の子供 尾関岩二 興亜書局 1941
支那の村落生活 A・H・スミス著 塩谷安夫・仙波泰雄訳 生活社 1941
支那の人たち 中地清 至文社 1941
支那の歴史と文化 下 ケネス・スコット・ラトゥレット著 岡崎三郎訳 生活社 1941
上代支那法制の研究 行政編 有斐閣 1941
西洋文化の支那への影響 張星烺著 実藤恵秀訳 日本青年外交協会 1941
日支交通史 王輯五著 今井啓一訳 立命館出版部 1941
日本に残存せる支那古韻の研究 飯田利行 冨山房 1941
近世支那経済史 小竹丈夫 弘文堂書房 1942
近代支那思想 実藤恵秀 光風館 1942
支那画人研究 八幡関太郎 明治書房 1942
支那家族の構造 清水盛光 岩波書店 1942
支那官制発達史 和田清・村上正二 中央大学出版部 1942
支那教育学史 田内高次 冨山房 1942
支那近世史要 ラジオ新書 出石誠彦 日本放送出版協会 1942
支那古代哲学史 慿友蘭 柿村峻訳 冨山房 1942
支那社会経済史研究 玉井是博 岩波書店 1942
支那製紙業に関する一資料 東亜研究所 1942
支那戦場と経済と心理 阿部源一郎 巌松堂 1942
支那中世の軍閥 日野開三郎 三省堂 1942
支那土地制度論 オットー・フランケ著 清水金次郎訳 教育図書 1942
支那の反英興亜運動 能勢岩吉編 聯合出版社 1942
支那の農業経済 田辺勝正 日本評論社 1942
支那の洋鬼 カール・クロー著 新保民八訳 畝傍書房 1942
支那を行く 中村孝也 講談社 1942
近代支那に於ける宗教結社の研究 酒井忠夫 東亜研究所 1943
古代支那研究 小島祐馬 弘文堂書房 1943
支那学論攷 石浜純太郎 全国書房 1943
支那漢代紀年銘漆器図説 京都帝国大学文学部考古学資料双刊2 梅原末治編 京都桑名文星堂 1943
支那彊域史 支那文化叢書 顧頡剛著 中尾雄一訳 人文閣 1943
支那基督教の研究 1・2 佐伯好郎 春秋社松柏館 1943
支那鉱業労働論 B.P.トルガシェフ著 手塚正夫・前田隆良共訳 中央公論社 1943
支那鉱業史 芳賀雄 電通出版部 1943
支那古代暦法史研究 東洋文庫論叢29  橋本増吉 東洋文庫 1943
支那周辺史 上下 支那歴史地理大系6 安藤徳器編 白揚社 1943
支那儒道仏交渉史 大東名著撰 久保田量遠 大東出版社
支那上代思想研究 出石誠彦 藤井書店 1943
支那青磁史稿 小山冨士夫 文中堂 1943
支那習俗 太田陸郎 三国書房 1943
支那商業史概説 丸三正三郎 文進堂 1943
支那歴代風俗事物考 秋田成明訳 大雅堂 1943
古代支那志史要 岡崎文夫 弘文堂 1944
支那学雑草 加藤繁 生活社 1944
支那学の問題 吉川幸次郎 筑摩書房 1944
支那貨幣考 穂積文雄 京都印書館 1944
支那基督教の研究 3 佐伯好郎 春秋社松柏館 1944
支那近世史概説 出石誠彦 大観堂 1944
支那経済史概説 加藤繁 弘文堂 1944
支那数学史概説 藪内清 山口書店 1944
支那版画叢考 小野忠重 双林社 1944
支那港湾統制と開発問題 田北隆美 二里木書店 1944
西洋文化の支那侵略史 E.R.ヒューズ著 魚返善雄訳 大阪屋號 1944
近代支那と英吉利 百瀬弘・沼田鞆雄 蛍雪書院 1945
支那官話字典 善鄰書院編 龍文書局 1945
支那国音字典 1946年版 宮原民平、土屋明治共編 11版 文求堂 1946
支那経済史考証 上 加藤繁 東洋文庫 1947
支那古代暦法史研究 橋本増吉 東洋書林 1982
支那古代史と天文学 飯島忠夫 第一書房 1982
支那古代史論 飯島忠夫 第一書房 1980
支那古代の祭礼と歌謡 マーセル・グラネー 内田智雄訳 清水弘文堂書房 1967
支那古代の社会思想 岩波講座東洋思想3 小島祐馬 岩波書店 1936
支那語通解 馬場春吉 岡崎屋 1939
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂書房 1935
支那思想研究 橘樸 日本評論社 1936
支那思想の展開 1 高田眞治 弘道館 1946
支那思想のフランス西漸 後藤末雄 第一書房 1933
支那思想発達史 遠藤隆吉 冨山房 1904
支那思想仏教思想 上・下 岩波講座東洋思潮10 宇井伯寿 岩波書店 1935
支那社会の測量 円谷弘 有斐閣 1937
支那社会の組織と展望 湯良礼著 中山蒐美三訳 育生社 1940
支那社会の裏表 一色忠慈郎 大阪屋号書店 1931
支那庶民金融論 井関孝雄 学芸社 1941
支那地方自治発達史 和田清編 中央大学出版部 1939
支那地方自治問題 董修甲著 岡本武彦訳 生活社 1939
支那地方政制史 支那文化叢書 鄭自明著 富樫長榮訳 人文閣 1941
支那地名集成 外務省情報部 日本外事協会 1936
支那帝国史 万国歴史全書 デュ・アルド著 北村三郎 博文館 1890
支那哲学概説 春秋文庫 高田真治 春秋社 1938
支那哲学概論 宇野哲人 支那哲学叢書刊行会 1926
支那哲学概論 現代語訳支那哲学叢書 宇野哲人 酒井雄文堂 1927
支那哲学概論 支那哲学体系5 宇野哲人 金の星社 1929
支那哲学講話 高木八太郎 荻原星文館 1935
支那哲学史 遠藤隆吉 金港堂 1900
支那哲学史 帝国百科全書 中内義一 博文館 1903
支那哲学史 高瀬武次郎 文盛堂 1910
支那哲学史 斉伯守 同文社 1942
支那哲学史 師範大学講座1 平原北堂 勅語御下賜記念事業部 1946
支那哲学史 近世儒学 宇野哲人 宝文館 1954
支那哲学史概説 渡辺秀方 早稲田大学出版部 1924
支那長生秘術 後藤朝太郎 富士書房 1927
支那哲学史概説 斉伯守 同文社 1930
支那哲学史講話 宇野哲人 大同館 1914
支那哲学思想叢書 三省堂 1931
支那哲学叢書 支那哲学叢書刊行会 新光社 1922
支那哲学総論 徳富猪一郎・宇野哲人 大東出版社 1937
支那哲学の研究 宇野哲人 大同館 1920
支那の淡水魚 東亜研究講座38 雨宮育作、木村重 東亜研究会 1931
支那の対日血戦 秋山豊三郎 大連・秋山家 1932
支那の土豪 後藤朝太郎 高山書院 1940
支那の体臭 後藤朝太郎 汎文社 1933
支那の土地と人 クレッシイ著 三好武二訳 偕成社 1939
支那土地利用地図集成 ロッシング・バッグ著 岩田孝三訳 東学社 1938
支那と仏蘭西美術工芸 小林太市郎 弘文堂 1937
支那の民族性と社会 支那問題叢書 川合貞吉 第二国民会 1937
支那と蒙古 米内山庸夫 北光書房 1943
支那中世仏教の展開 山崎宏 清水書院 1942
支那屯田兵制史 支那文化叢書 張君約著 藤田実訳 人文閣 1942
支那内閣関税制度3 台湾総督府 1932
支那の経済恐慌に関する調査 1~3 天野健雄 東京商工会議所 1935
支那の経済建設 事前と事後 目崎憲司 有斐閣 1941
支那の経済心理 東亜叢書 ウィルヘルム著 佐藤周一郎訳 生活社 1942
支那の経済地理 岩波新書 グルーシャコフ著 西尾忠四郎・高木八尺訳 岩波書店 1941
支那の経済と資源 小林幾次郎 時潮社 1939
支那の対外的国民運動 末広重雄 弘文堂 1939
支那の知識 時局知識シリーズ2 清沢冽・室伏高信編 青年書房 1937
支那地理歴史大系 全12巻 白揚社 1940-1941
支那の知性 林語堂著 喜入虎太郎訳 創文社 1940
支那の通貨と貿易 日本学術振興会 土方成美編 有斐閣 1942
支那の農業 ロッシング・バック著 塩谷安夫・仙波泰雄。安藤次郎訳 改造社 1938
支那の農業 東亜新書12 石川正義 中央公論社  1941
支那の農業経済 マヂャル著 早川二郎訳 白揚社 1936
支那の秘密 井東憲 秋豊閣 1939
支那帝国史 デュ・アルド
支那貧窮問題研究 柯象峰著 陸麻呂利輔訳 人文閣 1942
支那風俗 3冊 井上紅梅 1920-1922
支那風俗画譜 石田楳  洪洋社 1932
支那風俗綺談 井東憲訳著 大東出版社 1940
支那風俗綺談集 米田華紅 博文館 1930
支那風俗春秋 佐久間貞次郎 立命館出版部 1932
支那風俗の話 後藤朝太郎 大阪屋号 1927
支那風物記 村松梢風 河原書店 1941
支那風物志1 風景篇 東亜文化叢書6 後藤朝太郎 大東出版社 1942
支那風土記 後藤朝太郎 八洲書房 1935
支那風土記 米内山庸夫 改造社 1939
支那風土記 クレッシイ著 高垣勘次郎訳 東方文化学会 1939 
支那文化雑攷 法本義弘 国民社 1943
支那歴史地理 北京の歴史地理 小野勝年 支那地理歴史大系刊行会編 白揚社 1942
支那歴史地理叢書 冨山房 1939
支那歴代沿革図説 河村与一郎編 前川文栄堂 1881
支那歴代沿革地図  新撰 山本頼輔 赤沢政吉 1895
支那歴代親耕親蠶考 農林省米穀局 日本米穀協会 1936
支那歴代地名要覧 青山定男 東方文化学院研究所 1933
支那労働視察記 支那に於ける人間性と労働 アンダーソン著 高山洋吉訳 生活社 1939
支那労働者研究 続支那研究叢書2 小山清次 東亜実進社 1919
シナの五にんきょうだい クレール・H・ビショップ著 クルト・ビンゼ絵 いしいももこ訳 福音館書店 1961
支那抗戦力調査報告 満鉄調査部編 三一書房 1970
支那社会の科学的研究 岩波新書復刊 ウィットフォーゲル著 平野義太郎・宇佐美盛次郎訳 岩波書店 1982
シナ戯曲小説の研究 長沢規矩也著作集5 汲古書院 1985

2019年2月20日 (水)

満月の狂人、アルバート・フィッシュ

   今夜はスーパー・ムーン。地球に接近して特に大きく見える満月の日のことである。月と地球の近地点で平均の距離より5%ほど近いという。だが満月の夜に変身する狼男の伝説など満月の夜は何かが起こる。アルバート・フィッシュ(1870-1936)はアメリカ・ワシントンD.C.で生れた。5歳のときに、戒律の厳しい孤児院に入り、たびたび体罰を受けて育つ。1898年、結婚し、生涯で6人の子供をもうける。47歳頃に妻の浮気により離婚。塗装工であったフィッシュはその後全米を放浪し、殺人を行った。彼は犠牲者の遺体を食人し、それによって性的興奮を覚えるカニバリズムでもあった。1928年5月28日、フィッシュはニューヨーク・マンハッタンのグレース・バッドという名の10歳の娘を誘拐した。殺して切断した少女の体をシチューにして食べたフィッシュは「肉は柔らかくておいしかった」と語っている。1936年。シンシン刑務所で電気椅子による死刑執行が行われた。犯行が満月の日に行われることが多かったことから「ムーン・マニアック(満月の狂人)」という異名がある。(Moon Maniac)

2019年2月19日 (火)

世界で最初に運転免許証が発行された国はどこ?

Desire10   1893年8月、フランスのパリ警察条例で、自動車の運転には運転免許証の携帯が義務付けられるようになった。1903年にはイギリスでも自動車運転免許制度が採用されるようになった。わが国の運転免許制度が制定されたのも意外と早く、1907年2月19日である。自動車運転規則「自動車取締規則」が定められた。

2019年2月18日 (月)

素晴らしきかな映画

「ラ・ラ・ランド」を観たけどイマイチ感動しなかった。自分も老いたのかもしれない。昨夜の映画は主人公ウィル・スミスがドミノ倒しの名人。幼い子供を亡くして、その痛手から心を閉ざしている。「愛」「時間」「死」へ手紙を送っている。人は「愛・時間・死」よりも、衣食住や株価や経済的成功、地位や出世、評価に関心を寄せて生きている。しかし誰でも死によってそれらを一瞬に失う。ドラマは体調不良で最後まで見れなかったが、希望あるラストらしい。次会があれば見たい。「素晴らしきかな、人生」

2019年2月16日 (土)

黄河の源流と河口

   黄河は全長5464㎞、流域面積75.24万㎢、中国では長江に次いで第二の規模をもつ河川である。その源流は中国西部、青海省南部であるが、元代までは星宿海(シンシウハイ)が水源と考えられていたが、実際はさらに数百キロをさかのぼるバヤンカラ山脈に源流がある。黄河は、黄土高原地帯を流れて山東半島と遼東半島によって仕切られた渤海湾に注いでいる。巨大な「几」の字のような形をしており、その著しい特性は、世界の大河のなかでも泥を含む量がもつとも多い河である。黄河はこれまでに大規模な氾濫を繰り返し、時代によって黄河の河口は大きく変わっている。黄河は過去7回の大変動があり、元から清の時代には開封付近から東南に向かい、山東半島の南に河口があり、黄海に注いでいたことはよく知られている。現在のように渤海湾に注ぐようになったのは、1948年のことである。現在、黄河の下流の左右両岸には、全長1300㎞におよぶ黄河大堤があって氾濫を防いでいる。(秋山元秀「黄河 その風土と地理的環境」 しにか2001年1月)

2019年2月15日 (金)

ヒマラヤ登山の歴史(19世紀)

   「世界の屋根」といわれるヒマラヤには、標高7000mを超えるピークが250種以上、8000mを超えるピークだけでもエベレスト(8848m)をはじめとして14座もある。現在ではそのほとんどが踏破されたが、19世紀以前は多くが人跡未踏の処女峰であった。ヒマラヤの近代登山は、イギリス人のウィリアム・ウッドマン・グレアム(1859-1932)が1883年にドゥナギリの試頂とシッキムのカブール周辺の登山から始まる。1887年、ヤングハズバンドが北方からムズターグ峠によるカラコルム越えに成功、1892年にコンウェイのカラコルム遠征があり、6888mの当時の人類到達新記録をつくった。1895年、8000m峰ナンガバルバットに挑戦したママリーは遭難し、1899年、フレッシュフィールドのカンチェジュンガの偵察と一周囲旅行をもって、19世紀のヒマラヤ登山史は終わりを告げた。

無名時代の大スター

Friday13   「ヒッチコック劇場」の「13日は金曜日」(1962)デューク(ギグ・ヤング)はギャンブルで成功した。しかし妻はそんな生活を嫌い、足を洗ってほしいと願う。デュークは妻に侘びて、2人でハワイに行こうと約束する。だが大学進学を援助した弟のチャックがギャンブルにはまっていた。デュークは賭け事の怖さを思い知らせるためイカサマをする。この弟の役はなんと、ロバート・レッドフォードである。当時25歳。映画「雨のニューオリンズ」(1965)やブロードウェー「裸足で散歩」(1963)で注目される前。テレビの出演をしていた下積み時代。若くて青二才という感じ。映画「アメリカン・グラフィティ」を見ていると、ハリソン・フォードが端役ででいる。31歳だった。ハリソン・フォードの下積み時代は大工だった。「スターウォーズ」のハン・ソロの4年前である。「プラトーン」(1986)では23歳ころのジョニー・デップが通訳の米兵士として端役で出演している。(Harrison Ford)

2019年2月12日 (火)

「燃えよ剣」と「新選組」

   司馬遼太郎の「燃えよ剣」がまた映画化される。主演の土方歳三は岡田准一。新選組の醍醐味は群像劇なので他の配役も気になる。鈴木亮平、山田涼介、伊藤英明、柴咲コウが決定している。豪華キャストでも面白いとは限らない。フジテレビ昭和48年版は先の「新選組血風録」「燃えよ剣」(NET)と配役が重なることろもあるが(三作品とも栗塚旭=土方歳三)だいぶん先の二作品に比べて劣っている感じがする。当時トップスターの鶴田浩二なのに何故なのかを考えてみたい。もちろん鶴田ファンならこの「新選組」が一番というだろう。しかし「新選組血風録」「燃えよ剣」を見たファンにはどうにも不満の残る作品であった。最大の弱点は近藤勇(鶴田浩二)と土方歳三(栗塚旭)との人間関係の描きかたである。義兄弟の契りを交わした二人であるが、その親密さが「新選組」には見られない。むしろ鶴田は栗塚をあまり信用せずに単独行動にでることが多い。意見や思想の違いもはっきりしていて、一枚岩ではない。もちろん「燃えよ剣」は土方が主役で近藤(舟橋元)は土方の傀儡のようなところが、かえって面白かった。スター鶴田浩二によって一人だけの見せ場をつくることになり、集団時代劇としての面白さを半減した。思えば舟橋元もかっては映画スターであった。新東宝が倒産し、古巣東映に戻り、テレビ出演が多くなった。愛嬌ある朴訥さが武州多摩の田舎農家の出の雰囲気があった。(舟橋は糖尿病を患い、後半は痩せてきて悲壮感がでていた)鶴田浩二ではカッコ良すぎる近藤勇で、これでは任侠映画のようであった。また沖田総司=島田順司というイメージがつよく、有川博では健康的すぎる感じがする。映画「燃えよ剣」は岡田・鈴木の相性にかかっている。

 

 

2019年2月11日 (月)

小督と想夫恋

   平家物語に登場する女性の中で最高の美女は誰か。すぐに思うのは待賢門院璋子、常盤御前や静御前かもしれないが、高校古典にでてくる小督が印象的だ。桜町中納言成範(信西の子)の娘小督は、その美貌と琴の名手として知られ、中宮(建礼門院)に仕えていた。そのころ少将であった冷泉隆房が彼女を見初め、熱心に歌や手紙を送る。はじめは消極的であった彼女もついに隆房の求愛を受け入れる。ところが、そのころ傷心の高倉天皇を慰めようと中宮が彼女を天皇のもとへつかわし、小督は天皇の寵愛を受けるようになり、隆房との関係は引き裂かれることになる。清盛がこのことを聞き、2人の娘の婿を小督に奪われたと激怒し、その怒りを恐れた小督は、密に内裏を出て姿を隠した。

   小督を失った天皇は深く嘆き、かつて小督の琴の相手の笛をつとめた源仲国にある夜その探索を依頼する。仲国はかすかな噂をたよりに嵯峨野を訪ね歩くがなかなか見つけることができない。

   「亀山のあたり近く、松がひとむら立っているところから、かすかに琴の音が聞こえてくる。峰吹く風か、松風の声か、それとも尋ねる人の琴の音か、半信半疑であったけれども駒を進めて近づいていくと、片折戸の家の中から、冴えた琴の音が聞こえてくる。駒をとめて聞くと、まさしくそれは小督の爪音だった。曲は何かと聞きますと、夫を想って恋うるという想夫恋(そうぶれん)の曲であった。やはりそうか。帝を恋い慕われて、琴の曲も多い中からわざわざこの曲を選んで弾いていらっしゃるお心のやさしさよと、仲国は感動し、腰から横笛をぬきとり、ひと吹鳴らしてから、門の扉をほとほとと叩くと、たちまち琴の音がやんだ」

   そして仲国は尻込みをする小督をなかば強引に内裏に連れ戻した。夜を徹して待っていた天皇は喜び、小督を密にかくまい夜ごとに愛したところ、姫宮(範子内親王)が誕生した。激怒した清盛は、小督を捕らえ尼にしたうえで内裏を追放した。彼女は嵯峨野あたりに庵をかまえて生涯を終えたという。こうした悲しみが積もって高倉院(1161-1181)も病にかかり死去した。

    小督(生年1157年)は佳人薄命という印象があるが享年を調べたが不明だった。1205年に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明である。50歳近くは生きたらしい。TBSの「平清盛」には小督(中野みゆき)が登場するが、NHK大河ドラマ「平清盛」には小督の話はなかった。平家物語の挿話は史実ではないとみられているのであろう。

2019年2月 9日 (土)

相生垣瓜人から椀屋久右衛門まで

   名前を配列するには一定のルールが必要である。①姓と名を区分するのか②電話帳のように漢字排列にするのか、カタカナの五十音とするのか③アルファベット表記をどう扱うのか

    すべての日本人名を一挙に五十音順に配列するのは膨大なる作業で不可能なので、特定の苗字をピックアップして記事をまとめる。先ずは「相生」と「相川」から始める。コンサイス日本人名事典では相生由太郎がトップにくるが、俳人に相生垣瓜人(1898-1985)がいる。「あいおいがきかじん」と読み、兵庫県高砂の生まれだが、長く静岡県浜松で暮らした。ほかに、女優の相生千恵子(1934-2013)がいる。相生由太郎(1867-1930)は日本郵船、三井鉱山を経て、三井物産に入社。その後、満鉄に入社し、大連埠頭の仲仕組・運送組を満鉄直営とした。満鉄を辞職後、大連で実業家として成功した。相川勝六(1891-1973)は官僚、弁護士、政治家、のち厚生大臣を歴任。ある時、強風で帽子を飛ばされた。なんとその帽子を拾ったのは天皇陛下だった。天皇は「帽子がないと様にならないぞ」と軽いジョークを言われた。江戸時代の回船問屋の商人、会津屋八右衛門。なお人名五十音配列のラストは、大坂堺筋の豪商「椀久(わんきゅう)」こと椀屋久右衛門である。豪遊の果てに座敷牢へ入れられ、1677年に狂死した。外国人名においては、古代エジプトのヒクソス時代の王アアウセルラー・アペピ、タイの殿下ワンワイタヤーコーン(1891-1976)の名前が知られている。

2019年2月 6日 (水)

知ってる?県名の由来「佐賀」

  玄海灘と有明海の2つの海に接する佐賀県。吉野ヶ里遺跡、ムツゴロウ、大隈重信、葉隠などで知られるが、唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名である。最近は中国人や台湾人などアジアからの観光客にも人気が高い。「桃源郷」と称せられほど自然豊かで温泉があり、グルメもおいしい。ところで佐賀県の地名の由来には諸説ある。

①大きなクスノキが繁っているのをみた日本武尊が、「この国は栄の国(さかのくに)と呼ぶのがよい」といった。「肥前国風土記」の記述に由来し、「さか(栄)」が変化した。

②「砂州」「低湿地」を意味する「すか」が変化した。

③「さか(坂)」が変化した。

➃佐嘉川(現在の嘉瀬川)の河口付近は、満潮時に潮流が逆流するため、「逆流する川」の意味で「さか川」となり、この地域を「佐嘉」「佐賀」と呼ぶようになった。

神武天皇は徐福なり

Img_140518_23331314_2     始皇帝は元来、体が丈夫でなかったらしいが、とくに天下を統一し、最高権力を握るや、ますます長寿を祈念するようになった。ある方士がいうには、三神山に不老不死の仙人が住み、不死の薬があるという。三神山とは、蓬莱、方丈、瀛州の三山を指すという。三神山は渤海中にあり、そこに向かって進もうとすれども、風に船を遮られ、どうしてもたどり着けないところだという。また、三神山には珍しい人参があって、三千年に一回花が開き、実はさらに三千年後にできる。その花の香をかぐたけでも360年長生きができるとか、その実を食べると800年も長生きするとか、皇帝をたくみにだまして儲けるものも者もいた。徐福は、男女数千人を随行して、船も幾十艘で華々しく出帆したが、やはり、なしのつぶてであった。どこか東方海上の島を開拓し、大陸との間の商取引に励んだという説もある。また一説には、彼らの船が日本の紀伊の熊野浦に着き、長く日本にとどまったとある。和歌山県新宮駅のすぐ近くに徐福の墓がある。墓碑は紀州藩祖徳川頼宣がたてたもので、「秦徐福之墓」の碑銘は韓人李梅渓の筆である。写真は阿須賀神社。このほか、京都府与謝郡の新井崎にある新井崎大明神の祭神は徐福とされているし、佐賀市金立町にある金立神社も徐福を祀っている。そのほかに徐福にまつわるものに「神武天皇は徐福なり」とする中国の燕京大学教授の衛挺生博士(1890-1977)の説が知られている。(「日本神武開国新考」1950年)

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2019年2月 5日 (火)

三年鳴かず飛ばず

   三年もの間何もせずにじっとしているということで、他日雄飛する日を待って、今は何もせずにいるということ。

   春秋戦国時代、中原から遠く離れた南方にあって強大を誇っていたのは楚であった。楚は穆王が即位して着々とその勢力を固め、次代の荘王にいたって春秋の五覇の一つにまで数えられた。後世に英傑の称を残す荘王も、穆王の後を継いで即位するとたちまち、「わしを諫める者は死罪にする」ときびしく布告した。以来三年間にわたって国政を顧みず、日夜、歓楽にふけっていた。たまりかねた伍挙というものが、死を覚悟して諫めようとはかった。といっても直言して諫めを呈するのではなく、1つの謎をもって諫言にかえていった。「一羽の鳥が岡の上にいますが、三年の間、飛びも鳴きもしません。いったいなんという鳥でしょうか」王は言下に答えた。「三年も飛ばずにいるのだ、ひとたび飛べば世の人を驚かすだろう。お前のいいたいことの意味はわかっている、退ってよろしい」それからまた何カ月が過ぎたが、乱行はおさまるどころか、ますますひどくなった。見るに見かねた大夫の蘇従が参内し面を正して諫めた。王はいった。「お前は布告を見なかったか」「わが君がお気づきくだされば死すとも本望です」「よくぞ申した」荘王はピタリと乱行をやめて女を退け、宴席も片付けさせた。三年の間の乱行は、用うべき臣、排除すべき臣を見定めるための王の下工作であった。王が国政を執り行うようになると、たちどころに数百人を誅罰し、数百人を取り立て、諫臣の伍挙、蘇従に政治をゆだねて政治をととのえた。国民が王のみごとな立直りを喜んだことはいうまでもない。現在しばしば「彼女は歌手としてデビューしたけど鳴かず飛ばずのまま引退した」というように、これと言った活躍をしないでずっと目立つことがなかったように使われているが、故事本来の意味からすると誤用である。

2019年2月 4日 (月)

近代画家ゴッホ

   ケペルは幼い頃から絵を描くのが好きで、学校へあがっても図画が得意科目で、高校半ば頃までは美大志望だった。石膏デッサンもやった。高校生のある日、国道沿いにある古本屋で一冊の古い本を見つけた。アトリエ社の「原色版ヴァン・ゴッホ」(昭和17年)である。古い戦前のゴッホの画集であったが、作品に対応する小山敬三、硲伊之介、足立源一郎の解説があった。ゴッホ初期の見たこともなかった絵が気に入り高価だったが購入した。もちろんその後カラー印刷も進歩し、その本よりいいものが出版され手もとにもあるが、なぜかアトリエ社の画集に愛着がある。発行部数は5000部程度で古書店でみたことがなかったので、貴重な本だと人に自慢したこともあるが、ネットで調べたら1200円程度で販売されていた。がっかりもしたが、むかし画家になることを夢みた頃の証の書物であり、大切にしたい。その巻頭に式場隆三郎(1898-1965)の跋がある。

    ヴァン・ゴッホの生涯ほど感動的なものはない。それはただ波瀾曲折にとむからではない。溢れる情熱のためばかりでもない。道徳的な誠実な魂に貫かれているからである。ゴッホの短い生涯は、単なる一画家の興味深い物語ではない。真摯な魂が背負う人間の悲劇的運命の表象だからである。彼を病気に追いこんだのは伝道的宿命が素地とはなったが、不健康な社会との闘争が大きな誘因となった。彼の自殺は退廃的な文明との訣別でもあった。ゴッホほど愛に飢えた作家はない。彼ほど誠実でごまかしのない仕事に精進した作家はない。しかもその背後には、いつも敬虔な宗教的な精神が強く動いていた。哀れなものや貧しいものへの愛が、彼の作物を純粋にした。しかし、一方彼は勇敢であった。この世の不正なものや汚辱と戦った。彼の生涯ほど真面目で、ごまかしのない、熱情的なものはない。この誠実性が、異色ある彼の芸術とともに人を打つのである。ゴッホを奇矯な画家とみるのは、最も浅い理解者である。彼の手紙をよんで泣かないものがあろうか。彼の作物が理解されるに先んじて書簡集がみとめられたのもこのために他ならぬ。

    ゴッホが明治末年から大正時代にかけて、日本の新しい文化的発展に与えた力は大きい。絵の好きなもの、好かないものなど区別なしに、ゴッホの生涯から受けた影響を否定できる人は少ないであろう。芥川龍之介はある日、本屋の店頭でゴッホの複製の入った本を開き豁然として芸術の門の開かれたのを感じたとかいている。(中略)私は欧州で彼の遺跡をしらべ、作品をみ、文献をあつめ、長年こつこつその生涯と作品の研究に従っている。この仕事は私の生きる限りはつづくであろう。私はいつもゴッホの偉大さに打たれる。そして自分の仕事を小さく、まだまだ先のことを感じる。このたびアトリエ社がゴッホ画集を刊行さるるについて、私にも一文を求められた。短い枚数では意をつくせないが、日本で一冊でも彼に関する本の刊行されることを希っている私にとって、欣びに堪えない気持だけでも伝えたいと思って筆をとった。ゴッホの霊に栄光あれ。式場隆三郎」

   白樺派の影響を受けた式場隆三郎に限らず、日本人には熱狂的なゴッホ崇拝者は多い。版画家の棟方志功(1903-1975)の言葉「わだばゴッホになる」はよく知られているとおりである。「ゴッホ展」を開催すれば必ず記録的な入場者数になる。劇団民芸「炎の人」は満員盛況である。ゴッホの作品はもとより、彼の生涯そのものが劇的である。またゴッホが浮世絵を通じて日本美術を愛したことも日本にゴッホのファンが多い原因の一つであろう。近代画家のゴッホが日本の近代前の浮世絵の中に近代性を見出したというのが不思議な謎の一つだ。この過剰ともいえるゴッホ愛のためか企業が豊富な資金にまかせて高額絵画を買うことに対する批判もないわけではない。そして日本人がとくに好きな「ゴッホのひまわり」の真贋論争は今も続いている。

    これまで日本人はあまりにゴッホという人間を愛するあまり、造形作家のゴッホではなく、「炎の人」としての創作されたゴッホ像を勝手につくりあげてきたきらいはないであろうか。いま隣の韓国のソウル市立美術館でも「不滅の画家ゴッホ展」が開かれ、大盛況だそうだ。そういえば韓国ドラマの「初恋」のテーマの一つである兄弟愛はゴッホとテオに似ている。弟のチャヌ(ペ・ヨンジュン)は「兄貴はゴッホになれ。自分はゴッホの弟のテオになって兄貴を支える」という台詞があった。そしてビジネスマンとして成功して日本から帰国した土産にゴッホの画集を兄のチャニョク(チェ・スジョン)に渡す。「また絵を描いてほしい」というと兄は感激で胸を熱くするというシーンがあった。

   これらをみると韓国人もやはりモーレツにゴッホという人間に感動しているようだ。ゴッホの「馬車と汽車がある風景」という絵を相当な高額で韓国が買ったというニュースもある。

    これからは、ドラマチックなゴッホの生涯を忘れて、ゴッホが絵画でどのように表現しようとしたか、作品から受ける美の感動、という美術本来の視点でゴッホの作品を鑑賞していきたい。

日本で観れるゴッホの作品

45b7073a003  フィンセント・ファン・ゴッホは生涯に12点の「ひまわり」を描いている。そのひとつを日本で観ることができる。1987年に58億円で落札した話は人々を驚かした。損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。現在国内でゴッホの作品を所蔵する美術館は意外と多くある。おそらく20点近くある。画像は「ひろしま美術館」。

「農婦」 1884-85年、ウッドワン美術館(広島県廿日市市)

「ドービニーの庭」1890年 ひろしま美術館

「雪中で薪を集める人々」 1884年 山形美術館寄託

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「座る農婦」 1884年 諸橋近代美術館(福島県耶麻郡)

「サン・レミの道」 1889年12月 笠間日動美術館(茨城県笠間市)

「ニシンとニンニクのある静物」 1887年春頃 ブリヂストン美術館

「モンマルトルの風景」 1886年頃 ブリヂストン美術館

「石膏トルソ(女)」 1887~88年 メナード美術館

「一日の終わり」 1889年11月 メナード美術館

「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」 1888年 ポーラ美術館

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「アザミの花」 ポーラ美術館

「白い花瓶のバラ」 1886年 和泉市久保惣記念美術館

「耕す人」 1882年8月 和泉市久保惣記念美術館

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「ばら」 1889年 国立西洋美術館

「ガッシェの肖像」 東京藝術大学大学美術館

「鋤仕事をする農婦のいる家」 東京富士美術館

「医師ガッシェの肖像(パイプを持つ男)」 横浜美術館

「長い棒を持つ農婦」 新潟県近代美術館

地理をなめてはいけない

Img_0027     引越業者が「ア」で始まる名称が多いのは電話帳でトップに来るようにするためだという。日本地図帳などで大阪府茨木市の安威(あい)はトップではないが、かなり注目度が高い。安威川、安威小学校、安威幼稚園などいろいろある。香川県にある無人島「アアラ島」がトップらしい。外国地名ではオランダのアムステルダム南郊の町アアルスメールだ。ブリタニカ国際大百科事典総索引で4番目に登場する。アアルスメールは世界最大規模の花弁卸売市場があり、花、球根、鉢がスキポール国際空港を通じて世界中に出荷される。だが近年のコンサイス外国地名事典などの表記では「アールスメール」になってしまい、大きく後退して、代わりにオーストラリア南部にある鉱山町「アイアンノブ」がトップにきている。「ジュニア・アンカー和英辞典」では地名では「アーカンソー」が一番初めに載っている。ちなみにコンサイス外国地名事典には2万1000項目の国・都市・山・川・湖・島・海・半島などの地名が掲載している。旧約聖書に記された地名には「アイ」がある。ベデルの東にある、カナン人の町。

 

    VS嵐でスマホで外国地名早打ちしりとり。上田竜也はでたらめに「ガーランド」と答えた。無いと判断されたが、スタッフが調査したら米国テキサス州に「ガーランド」という地名は実際に存在する。ダラス北東、人口22万の都市。アメリカは国土が広いので、一般的な姓なら、地名も存在する可能性は高い。

 

 むかし高名な学者をまじえての気楽な飲み会に参加したことがある。話題は歴史学と地理学。ある先生は「地理は歴史に比べてつまらない。ただ存在することを確認するだけ。それに対して歴史は時間軸を超えて研究する楽しみがある」と。その場にいあわせて学生もほとんど史学徒なので異論はでない。しかし地理は実学で有用である。政治経済、天気、防災、交通、レジャー観光、すべてに地理の知識は必要不可欠だ。また地理の基盤をなす地図は、事実の上に成り立っている直截的な説特性と、際限のない空想の中にひとを誘い込む魅力を秘めている。ある特定の地域を、現代から昭和・大正・明治に、更に江戸期へと辿り、重ね合わせて見るとしたら、どんなことになるか。説明を抜きにして人は、時の流れと歴史のドラマを観るに違いない。(Aalsmeer、Arkansas)

2019年2月 2日 (土)

切花20種

   草花にはいろいろな種類があるが、花屋さんで売られている花の名前くらいは覚えておきたいものだ。キク、カーネーション、バラ、ガーベラ、ゆり、スターチス、トルコギキョウ、カスミソウ、りんどう、チューリップ、アルストロメリア、ダリア、ラナンキュラス、シャクヤク、スイセン、パンジー、フリージア、ネモフィラ、ベゴニア、アマリリス、カトレア、コチョウラン。

スポーツ番組よく視てます

  テニス全豪オープン、大坂なおみがチェコのペトラ・クビトバ選手を破って、優勝となった。サッカーは日本がカタールに敗れる。大会MVPは得点王のアルモエズ・アリ。スキージャンプ、ゴルフ、マラソンなど冬でもスポーツ中継がさかんである。NHK大河ドラマ「いだてん」のオープニングタイトル映像にアベベが走る勇姿が映し出される。他にも東京オリンピックの名選手が瞬間だが映っている。ソ連の重量挙げの金メダリスト、ジャボチンスキーがみえる。当時を知る者には懐かしい。大阪国際女子マラソンに優勝したエチオピアのファツマ・サド。むかしの名選手ロバもファツマという名前だった。来年はオリンピックイアー。新しいスポーツ・ヒーローが多数誕生するだろう。外国人名に関心あり。

猫が犬より品種が少ない理由

    野良猫、家猫に関わらず猫は毛色の模様や多少の大きさの違いはあるものの、犬ほど品種による姿形の大きな違いは見られない。犬が300種、猫が40種といわれる。これはそれぞれの動物と人間との関わり方が関係している。歴史的にみて、狩猟や番犬など犬は人間に貢献してきた。人間はその過程で猛獣から家畜を守る大型犬、小動物を狩るのに適した小型の犬などたくさんの犬の品種を生み出してきた。一方、猫も人との関係は古いが、仕事は主にネズミ取り限られ犬ほどたくさんの仕事をこなしてきたわけではない。このように犬が人と働くのにいろいろな姿が必要なのに対して、猫はその必要がなかったというのが品種の少ない理由と考えられる。たとえば、ヨークシャテリアは19世紀中期にイギリスのヨーク州の工業地帯で、工員や炭坑夫の家屋を荒らすネズミの捕獲のために作りだされた猟犬が祖先といわれる。

 大型犬はラブラトルレトリバー、ゴールデンレトリバー、シベリアンハスキー、ドーベルマン、ダルメシアンなど。中型犬はビークル、コッカースパニエル、スピッツ、ブルドックなど。小型犬はトイプードル、ヨークシャテリア、マルチーヌ、パピヨン、ダックスフンド、チワワ、ポメラニアンなど。猫の種類はメインクーン。ロシアンブルー、ラクドール、べンガル猫、ペルシャ猫、アビシニアン、チンチラ、シャム猫など。

サボテン&多肉植物

   3月10日は「サボテンの日」。 サボテンが日本に最初に渡来したのは長崎港へ出入していたオランダ船がもたらしたものと考えられる。1709年刊行の「大和本草」に記載があるから、それ以前の渡来である。サボテンはポルトガル語のシャボンsabaoから出た名といわれ、サボテンの茎節を切ると出る粘質 の樹液で油などの汚れがよくおちるところから、石鹸として使われたことに由来する。

   サボテン科は2000種を超える多数の品種がある。これらはコノハサボテン、ウチワサボテン、ハシラサボテンの3種に大別される。わたしたが西部劇などでみるような砂漠の大地につきさす巨大なサボテンは柱サボテンである。アメリカ南西部やメキシコ北部の砂漠地方に自生する高さ10m以上の巨大サボテンを「サグアロ」という。現地語で「人型サボテン」という意味である。近年は、観賞用のインテリアとして人気があり、交配種などで小さなサボテンが増加しており数千種も超えるとも言われている。

雪の降る街を

61rzqet7fal__sl500_     「雪の降る街を」は、1949年10月から52年4月までNHKラジオで放送されていた「えり子とともに」の冬の場面の挿入歌として作られた曲である。大学教授とその娘えり子が、戦後のすさんだ世相の中で、いたわり合い励まし合って、母のない家庭を守っていく話だが、主演のえり子役、劇団民芸の阿里道子の美しい声に人気が沸騰し、2年半のロングランとなった。音楽は初め、当時新進の芥川也寸志が担当したが、続編からは中田喜直に代わった。番組も終わり近くになった52年初めのある日、作者の内村直也が音楽担当の中田にいった。「今日は台本が足りなくなってね、歌を一本入れさせてもらうよ」。ビテオ編集の現在ではあまりないことだが、生放送のときはこういうことがしばしばあったのだ。30分番組で予定して書いた台本が27分で終わってしまうので、そのつじつまを合わせようとしたわけである。内村が15分ほどですらすらと書いた詩に、中田がその場でパッと曲をつけ、ドラマの中で文学座の南美江と阿里道子のふたりが歌った。放送すると、あちらこちらから反響があって、評判がいいので「ラジオ歌謡」で取り上げられた。当時フランスから帰ってきたシャンソン歌手、高英男の歌で1953年2月2日から1週間放送され、全国的に広まったのである。

 

 

 

 

 

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