製紙法と印刷術の世界史
トーマス・フランシス・カーター(1882-1925)は、その著書「中国における印刷の発明とその西漸」のなかで「紙の発明とその伝播は印刷の発明とともに、宗教改革の道をひらき、教育の普及を容易にし、火薬・羅針盤の発明とならんで、近代世界を形成する上に大きな役割を果した」と述べている。
紙の歴史は長く、一般には紀元前2500年にエジプトで作られたパピルスに始まるといわれているが、厳密な意味で今日いうところの紙といえるものは、2世紀はじめ中国において後漢の宦官・蔡倫が樹皮・麻くず・ぼろ・魚網くずなどの植物繊維を原料としてつくつたのが最初であると後漢書が伝えている。紙文明は、15世紀のグーテンベルクの印刷術の発明とともに、近代文明と教育の普及を担ってきた。いわば紙は約500年間中国人の独占物であり、その後500年間は、もっぱらイスラム教徒のほとんど排他的ともいうべき支配下におかれていた。紙がヨーロッパに導入された後、その受け入れにはいくつかの障害があった。まず第1つに、パーチメントがまだ十分評価に耐えうる素材であり、ヨーロッパ製の初期の紙よりはるかによいものであった。第2に、ヨーロッパでの教育は、遅れており、字の読める人間の数は僅少であった。さらに、当初、教会は紙の受け入れに難色を示した。というのは、それがもっぱらイスラム教徒ないしユダヤ教徒に起源をもつものであったがためである。そこから、公的な記録や重要な証書として紙の使用を禁ずる法令が出ている。1221年における皇帝フレデレック2世の布告は、紙に書かれた証書は、法律的に無効であるとうたっている。したがって、紙は長い間、君主然たるパーチメントに対して臣従的なきわめて低い地位を占めていたに過ぎない。だがヨーロッパの舞台に印刷術が出現するとともに、紙のもつ本来の有用性が日の目をみることになる。だが21世紀以降の印刷物の氾濫は膨大な量に達し、その保存・整理が問題視されてきた。今年、日本でもアイ・パッドの発売により、紙の図書をめぐる状況は大きな変化をみせている。自分でスキャナーを購入して、紙の本を裁断機で切断して、スキャンして、自分で電子書籍をつくる人も出てきた。愛書家が聞いたら卒倒しそうな話だが、狭いマンション暮らしの人にとっては本の保管スペースなどをコストで換算すれば、処分するほうが得策と考えるのだろう。税金で運営される公共図書館でも書庫の収納限界に達した館では、電子化が促進される時代になってきた。本に対する専門的な知識を持たない職員の多いところでは、貴重な書籍が失われていく現状を知っているものにとっては、電子書籍元年という呼び声(新商品の販売戦略の営利行為)が愚行、蛮行の時代の時代の到来であることを確信している。なおカーターの大著は「中国の印刷術」として東洋文庫の一冊として翻訳されているが、執筆動機にはフランスのぺリオ(1878-1945)の千仏洞の経典の発見などの影響もみられる。つまり欧米人が砂漠の敦煌から東西文明の交渉史に衝撃を受けた著作なのである。文化史や文明論、および文化行政は1000年スパンの巨視的な態度でみなければいけない。
紙の生産はそれぞれの文明国で作られてきたが、製紙業が今日のように近代産業としての地位を築いたのは紙すき機とパルプの発明があったからである。すなわち、1799年フランスのエロール製紙工場で働いていたルイ・ロベールは苦心のすえ連続的に紙をすく長綱式抄紙機(しょうしき)を発明し、1801年から1808年にかけてイギリスのフォードリニア兄弟(HenryとSealy Fourdrinier)の改良によって、紙の大量生産が可能になった。また、1840年にドイツ人フリードリヒ・ゴットロープ・ケラーが砕木パルプ法を発明したことによって、四季を通じ、しかも大量に紙の原料を供給することができるようになった。
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