エムス電報事件
ナポレオン1世の甥で、第二共和政大統領のルイ・ナポレオンは1852年ナポレオン3世として第二帝政の皇帝となった。しかしその対外政策は、ほとんど成功しなかった。メキシコの遠征に失敗し、普墺戦争における中立の代償としてライン左岸を要求してビスマルクの拒否にあい、1867年にはオランダからルクセンブルグを買収しようとして、ビスマルクに妨げられ果たしえなかった。ドイツをつねに分裂状態に置くことはフランスの伝統的政策であったが、ナポレオン3世がビスマルクの巧妙な外交政策に妨げられ、これ以上プロシアの強大化を許すことはフランスの安全をおびやかすものであったから、ナポレオン3世は、プロシアと対立する南ドイツ諸邦と結ぶために積極的に働きかけた。いっぽうビスマルクは、フランスとの衝突の不可避を予期して軍備の拡張を進め、ナポレオン3世の領土的野心を暴露してドイツ国民の敵愾心をあおり、秘密のうちに南ドイツ諸邦と攻守同盟を結んでフランスに対抗した。こうしてドイツ統一の完成にあたり、プロシア・フランスの決戦はさけられない情勢となったが、衝突の直接の動機となったのは、スペイン王位継承問題であった。
1868年にスペインに革命が起こり、新政府はプロシア王の一族レオポルド親王を国王に立てようとした(1870)。これに対しフランスの世論は大いに沸騰し、ナポレオン3世は欧州の勢力均衡を破壊するという理由で、プロシア王に強硬な反対意見を通告した。1870年7月13日、ビスマルクは、西ドイツの温泉場エムスで休養中のプロシア王とフランス大使ベネデッチの会見を報じた電文を、フランス大使が不当な要求をしたかのように内容をゆがめて発表した。この有名なエムス電報事件という策略により、大いにドイツ国民は激昂し、対仏戦争に結集させることに成功した。同時にフランス人の敵愾心は爆発し、議会は1870年7月17日プロシアに宣戦を布告した。ナポレオン3世は病気にもかかわらず、軍の指揮をとったが、プロシア軍に撃破されスダンに追い込まれ、普仏戦争はわずか40日間の戦いでフランスの大敗に終った。1871年1月、ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として戴冠式を行い、ドイツ帝国が誕生した。(参考:吉岡力「世界史の研究」)
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