乳母車
深夜、屋敷町の塀に沿って続く一本道を歩いていた。すると、自分の先方にギイギイという乳母車を押す音がする。追いついて見ると、うら若い女である。私は思い切って話しかけた。「お坊ちゃんですか…お嬢さんですか」「女でございます」そう答えた声は闇に沁み通るようであった。私の不躾な突然の質問に対してまるで当然のように落ち着いて言うのである。「おいくつですか」「三つでございます」「大変でございますね」私は何ということもなしに曖昧なことを言った。それに対して女は「はあ」と軽く言ったきりであとは黙っていた。私もそれで接ぎ穂がなくなり、ただ女と歩調を合わせて歩いて行った。車はひっきりなしにギイギイと厭な音を立てている。突然、今まで厚い雲の中に隠れていた月が雲の切れ間から現れたのである。私はそっと乳母車の中を覗き込んだ。明るい月の光に隅々まで照らし出された乳母車の中には意外にも子供の姿は見えなかった。ただ一つ美しい京人形が青白い月光を浴びて輝いていた。私は眼を上げて女の顔に視線を移した。女は乳母車を止めてじっと月を仰いでいた。女の顔は月の光に銀のように冴えて白かった。(氷川瓏、宝石1946年5月号掲載)
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