南部坂雪の別れ
浅野長矩の正室阿久里は浅野氏一族の備後三次藩初代藩主・浅野長治の次女であるから、長矩とは遠縁ということになる。夫の浅野長矩の凶報に接したとき、阿久里は何よりも先に内匠頭の弟の浅野大学長広に吉良上野介の生死を確かめたが、答えを得ることができなかったので、「兄の刃傷を聞きながら、相手の生死のほども確かめず、まことに惜しいことです」と、あわてる大学をたしなめるほどの気丈な女性であった。その夜、阿久里は鉄砲洲の江戸の上屋敷で髪をおろし、寿昌院と号して殉じたが、のちに将軍綱吉の生母の桂昌院の「昌」の文字をはばかって、瑤泉院と改めた。夫の内匠頭が切腹したとき、阿久里は28歳であったが、浪士の遺児たちの赦免に尽力をつくすなどした。瑤泉院の俗説では「南部坂雪の別れ」が巷間よく知られる。討入りを翌日に控えた13日の夜、内蔵助は瑤泉院に永のお別れの挨拶をしたいと考え、南部坂(港区)にある浅野家下屋敷を訪れた。ところが吉良方の密偵が奥女中となって潜入に気づいた内蔵助は、座が定まるのも待ちきれず瑤泉院は仇討ちはいつ、とつめよるのだったが、心中にこみあげるものをぐっとこらえ、「法事が終りしだい、山科に立ち帰り、かの地に永住の所存でございます。今生のお別れに、御霊牌の前に御焼香をお許し下さいますよう」と申し出たが、瑤泉院は「折角ながら、その儀はなりませぬ」と、屹ッとして言うと、静かに仏間の方へ去った。内蔵助は、じっと差しうつむいたまま、ついに一言の弁明もせず、座を蹴って去った瑤泉院のうしろ姿に平伏するのみであった。これが有名な南部坂雪の別れの泣かせどころであるが、この話も講釈師(桃中軒雲右衛門といわれる)の作り事で、実際は討入りより1年前の元禄14年11月、事件後はじめて内蔵助は瑤泉院のご機嫌伺いに行っている。瑤泉院、それも瑤泉院付きの士・落合与左衛門宛に書状を認め、自身は赴かず、「預置候金銀請払帳」を添えて近松勘六の家来・甚三郎に三次藩邸へ届けさせたと言われる。その後、瑶泉院は静かに暮らし、赤穂義士が討ち入って11年後(正徳4年)41歳で生涯を終えた。
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