ドイツ中世史 皇帝権と教皇権を中心に
ヴェルダン・メルセン条約によって三分割されたフランク王国、中の東フランク(ドイツ)では911年にカロリング家が絶え、諸侯の選挙によってコンラート家(フランケン家)が王位についたが、ついでザクセン家のハインリヒ1世が王に選ばれた。その子がオットー1世である。彼は教会・修道院に土地を寄進して宗教諸侯とし、それによって世俗諸侯の勢力を抑え、また東方から侵入したアジアの遊牧民マジャール人を撃破し、さらにイタリアに遠征してイタリア王を兼ね、教皇ヨハネス12世の窮状を救った。そのため教皇は962年2月2日、ローマ皇帝としてオットーに戴冠した。これが1806年の神聖ローマ帝国の消滅までの起源である。しかし事実上「神聖帝国」の称は1157年に、また「ローマ帝国」の名はコンラート2世統治下の諸領を示すものとして1034年にさかのぼり使用しているが、厳密には、神聖ローマ帝国の称は1254年以降のものにすぎない。ローマ皇帝という名は、オットー2世(983年)に由来して「神聖ローマ帝国」の称より古いが、カルル大帝からオットー1世までは、単に「皇帝にして尊厳なる者」imperator augatus という表現が、特定の領土と結びつけられずに使用された。神聖ローマ皇帝権の成立は、次第に世俗的権力を有するようになった。教皇権との間にいわゆる叙任権闘争という現象を生むに至った。1095年、教皇ウルバヌス2世のクレルモン公会議の召集と、翌年の第一次十字軍の出発以来、教皇権の勢威が日増しに高まっていった。
教皇権の最盛期はインノケンティウス3世(イノセント3世、在位1198-1216)の時代であった。かれはドイツ系のイタリアの貴族であり、教皇の指導の下に単一の共同体としてのキリスト教世界を樹立することを志していた。
彼は、神聖ローマ皇帝の選挙に干渉して、シュタウフェル家の候補者を退け、オットー4世を支持した。またフランス王フィリップ2世の離婚問題に干渉して王を破門にした。イギリス王ジョンをもカンタベリー大司教任命問題をめぐって破門にし、乞いを入れて王を封臣とした。このほか、アラゴン、ブルガリア、デンマーク、ハンガリー、ポーランド、ポルトガル、セルビアの君主に封建家臣として臣従の誓いをさせた。イノケンティウス3世時代には、「教皇は太陽、皇帝は月」といった考えが優勢になる。太陽の前で月が光を失うように、皇帝権は教皇権にかなわないというのである。
しかし、かかる教皇権もやがて14世紀初頭ボニファティウス8世が北イタリアのアナーニにおいて、フランス王フィリップ4世に屈服した事件を契機として没落への道を歩むに至った。これと共に中世封建社会制度の理念的統一は崩壊して、新しい時代、近世への転換がなされるのである。
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