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2018年12月14日 (金)

忠臣蔵脱盟者たちの知られざるその後

374b0c11e5fffb584596e021637277ed   刃傷事件が起こってから討ち入りまでの1年9カ月の間、さまざまな理由で義士になれなかった者たちがいる。家老の大野九郎兵衛は「逐電家老」と罵られ、岡林直之は「一家の恥」と責め立てられ、切腹に追い込まれた。小山源五右衛門、進藤源四郎、奥野将監、小山田庄左衛門、高田群兵衛、毛利小平太、萱野三平、瀬尾左坐衛門、橋本平左衛門なども討ち入りには参加できなかった。瀬尾は池宮彰一郎の小説「四十七人の浪士」では大石の命でお軽とその子の面倒を頼まれて脱盟したことになっている。

   赤穂浪士の1人、奥野将監定良(1647-1727)が隠れ住んだという屋敷跡が兵庫県加西市下道山にある。加西市の一部は赤穂藩の飛び地の領地だったらしい。将監は、赤穂藩で大石良雄に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、大野九郎兵衛に代り、大石と明け渡しに努力し、最初の義盟にも加わった。しかし元禄15年7月、浅野家再興が不可能になると、8月、奥野弥五郎と共に脱盟した。その後、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えた。奥の墓石は将監の娘の子の墓と伝えられる。将監はその後、現在の中町の延明寺に移り住んだ。享年は82歳といわれ、長命だった。

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奥野将監の子孫は宇都宮市にも生きています。明治時代に松岡直太郎の養子となり、一人は83歳で今年8月24日に亡くなりました。

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