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2018年12月17日 (月)

神崎与五郎・吾妻下り堪忍袋

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   神崎与五郎則休(1666-1703)。代々、美作津山森家に仕えた武士の家に生まれ、その少年時代を津山の城下町で過ごした。森家改易の後、赤穂浅野家に召し抱えられ、五両三人扶持と役料五石が与えられた。

    元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えてわずか5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であり、お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、このたびも、その機敏、堅実、忍耐と三拍子そろった人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎに急ぎ、やがてさしかかったのが箱根の山であった。とある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとりはいってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。与五郎も思わず無礼者め!と刀の柄に手をかけたが、いや待て、たとえ雲助ひとりでも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅くなると思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と涙をのんで大地に両手を突き、丑五郎のいうままに詫証文を書いて与えた。この話は最近の忠臣蔵ドラマなどでは、詫証文を書くだけでは物足りないと感じたのか、与五郎が馬方の股をくぐるシーンが見られる。詫証文にしろ股くぐりにしろ、真偽のほどは明らかではなく、韓信の股くぐりの故事から講釈師が採った創作であるが、これが大人気となった。

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