秦の昭王と周室の最期
周の赧王の在位は59年に及んだが、もはや乱世を生き抜くだけの力もなければ、天下統合のシンボルとしての権威も失われていた。周王最後の忠臣周最(しゅうさい)は、秦に入り、昭王に献言する。「周を攻めるのは決してお国のためになりません。攻め取ったとて実利はほとんどなく、天子の国を討ったという汚名を得るだけで、諸侯を斉の側に追いやり、秦の孤立化を招くことになりましょう。これでは諸侯の旗頭になることは不可能です」と説いた。だが昭王は前250年、洛邑を攻め、ついに周を滅ぼしてしまった。
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