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2018年8月31日 (金)

野菜の日

Photo   本日は「野菜の日」。全国青果物商業協同組合連合会など諸団体が1983年に制定。「や(8)さ(3)い(1)」の語呂合わせ。(8月31日)

 野菜を英語で言えますか?

きゅうり     cucumber

トマト      tomato

ピーマン    green pepper

オクラ      gumbo

コンニャク   konnyaku

ゴボウ     burdock root

いんげんまめ kidney bean

キャベツ    cabbage

はくさい     Chinese cabbage

セロリ      celery

レタス      lettuce

カリフラワー  cauliflower

アスパラガス  asparagus

きのこ      mushroom

だいこん     Japanese radish

かぶ              turnip

にんじん     carrot

じやがいも    potato

たまねぎ     onion

れんこん         lotus root

さつまいも    sweet potato

にら        leek

ねぎ       welsh onion

なす        eggplant

ブロッコリー    broccli 

ほうれんそう   spinach

さやいんげん  string been

よもぎ      mugwort

2018年8月30日 (木)

キオスクのある街角

    1872年のこの日、新橋駅構内に「西洋食物茶店」が開業した。これが日本初の駅の売店とされる。JRの駅構内にある小型の売店キオスク。もともと簡易構造物一般をさし、アラビア語 kioskで「東屋」の意味。1932年の上野駅・東京駅をキオスクの初めとする説もある。日本でキヨスクの愛称が使われたのは1973年から。世界のキオスクを紹介する。(8月30日)。

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 翠亭閣 台湾

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庭園や池などに四方の柱と屋根だけの休憩所を、arbour  という。

Arbour

2018年8月29日 (水)

なぜ「園芸」を「ガーデニング」というのか?

Tky201309030664   近年、テレビ、新聞、雑誌などのメディアで「カタカナ語」が氾濫している。コンセンサス、アジェンダ、コンセプト、リスペクト、モジュール、ワークショップ、リーク、マイノリティー、カンファレンス、レジェンド、ガバナンス、コラボレーション、クライアントなどなど。その使用は増える一方のようで、インターネットの普及によりさらに加速したといわれている。国立国語研究所の意識調査によると、3087人の調査対象者の内、81.2%が外来語を使う機会が多いと感じ、17.2%が感じないと答えた。さらに、今以上に外来語が増えることについて意識を聞いたところ37.1%が好ましい、55.3%が好ましくないと答えた。先ごろ、公共放送であるNHKの外来語多用が視聴者から指摘されたが、ことばの問題はマスコミ内だけでなく社会全体の問題でもある。銀行・金融などの説明書もカタカナが氾濫している。ホールディングス(持ち株会社)、マネーロンダリング(資金洗浄)、デリバティブ(派生商品)など。官公庁などの公文書作成にあたっては「なじみの薄い外来語をむやみに使わない」「仮名の多用は慎むよう心掛けるものとする」とある。国語研究所の言い換え事例としては、グローバリゼーション→地球規模化、インフラストラクチュア→社会資本、などである。

  一方で言い換え反対論者の山口仲美は「現在の日本はアメリカ文化が浸透しているのだから、片仮名の外来語のままにしておいて意味の定着を育つべきである」とする意見もある。洋画のタイトルなども原題をそそのままというケースが目立っている。嚆矢は「イントレランス」(1916)であろうか。intolranceとは「耐えられないこと」「狭量」「不寛容」の意味。つまり人類の不寛容の歴史をテーマとするものであった。カタカナ語そのままか、言い換えかの問題は100年の歴史がある。1934年8月29日、松田源治文相が「パパ・ママの呼び名は孝道にもとる」と発言して論争になったことがある。

   「ガーデニング」という今日では一般化された外来語がある。いつ頃から日本で使用されるようになったか調べたが、正確にはわからなかった。おそらく1970年代は誰も使うことはなかったが、1980年代以降、90年代になると頻繁に使われ出した。わが国では、長い間、「園芸」には「ホーティカルチャーhorticulture」という英語を対応させてきた。しかし1990年代になって園芸を「ガーデニング」と呼ぶようになっている。欧米では、ホーティカルチャーという言葉はいわば学術用語で、家庭園芸の世界では、ガーデニングを使うのが一般的であることが知られるようになった。日本の伝統的な園芸では盆栽や菊などの鉢植えを狭い庭に並べておくという古臭いイメージだが、バラなどの草花が庭園に咲くイメージでガーデニングが好まれるのであろう。だが結局は園芸とガーデニングは同じことである。「園芸」と呼ぶのか、「ガーデニング」と呼ぶのか、悩ましい問題である。

2018年8月28日 (火)

「に」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Nickolauscopernicus06    ポーランド出身の天文学者ニコラウス・コペルニクスは天動説を覆す地動説を唱え、近代天文学の出発点となった。

ニキ・ラウダ
ニキータ・フルシチョフ
ニキータ・ミハルコフ
ニコラ・サルコジ
ニコラ・プッサン
ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ
ニコライ・オガリョフ
ニコライ・コンドラチェフ
ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチェフ
ニコライ・ドルジーニン
ニコライ・ブハーリン
ニコライ・ブルガーニン
ニコライ・ぺトロヴィチ・レザノフ
ニコライ・ベルジャーエフ
ニコライ・ポドゴルヌイ
ニコラーイ・オストロフスキー
ニコライ・ネクラーソフ
ニコライ・リムスキー・コルサコフ
ニコライ・ルカビシュニコフ
ニコライ・レザノフ
ニコライ・ロバチェフスキー
ニコライ・ワシリエビチ・ゴーゴリ
ニコラウス・クザーヌス
ニコラウス・コペルニクス
ニコラエ・チャウシェスク
ニコラス・ケージ
ニコラス・ホールト
ニコーラス・マース
ニコール・カルファン
ニコール・キッドマン
ニコロ・パガニーニ
ニッキー・リード
ニック・アダムス
ニック・ノールティー
ニッコロ・マキァヴェリ
ニナ・フォック
ニナ・リッチ
ニニ・ロッソ
ニーノ・ロータ
ニール・アームストロング
二ール・ジョーダン
ニール・サイモン
二ール・セダカ
二ール・ダイヤモンド
ニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショルド
ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア

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   ニコール・カルファン

ヴァイオリンの日

   本日は「ヴァイオリンの日」。明治13年8月28日、東京深川の三味線職人、松永定次郎が国産初のヴァイオリンを制作、これを記念したものです。

2018年8月27日 (月)

外国スターの名前を覚える。エディー・ポロからチャニング・テイタム

6269_1019108578   いまからざっと100年ほど前、大正時代1914年になると日本にも映画館ができて活動が見れるようになってきた。当時、連続活劇が人気で「國寶」「名金」「赤輪」などがヒットした。これら連続活劇に出演した俳優のなからエディー・ポロ(1875-1961)のようなスターも生まれた。ルドルフ・バレンチノやダグラス・フェアバンクス、ロナルド・コールマン、チャールズ・チャップリンなど活動写真を見た事が無くても、日本でもその名を知られるようになった。外国スターの名前は新しい異文化の香がする。ゲーリー・クーパーやジョン・ウェイン。チャールトン・ヘストンやポール・ニューマン。ハリソン・フォードやトム・クルーズとスターは変われど映画は続く。ベネディクト・カンバーバッチ、ヘンリー・カビル、トム・ヒドルストン、ライアン・ゴズリング、ロバート・ダウニー・Jr、クリス・ヘムズワース、リアム・ヘムズワース、ロバート・パティンソン、エディ・レッドメイン、アーミー・ハマー、チャニング・テイタム。自分の息子ほどの年齢の男優が旬のスターだ。

 

パリの美術館

  パリには大小あわせて100以上の美術館・博物館がある。ルーヴル、オルセー、ポンピドーセンターといった有名美術館のほか、オランジュリー美術館、ギメ美術館、ピカソ美術館、パリ市立近代美術館、国立近代美術館、パリ工芸博物館、プティ・パレ美術館、マルモッタン美術館、カリナヴァレ美術館、市立近代美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ジャックマール・アンドレ美術館、バカラ・ギャラリー・ミュージアム、コニャック・ジェイ美術館、ルイ・ヴィトン財団美術館、カルティエ現代美術館、クリュニー中世美術館、ダリ美術館、ドラクロワ美術館、ギュスターヴ・モロー美術館、ロマン派美術館、ロダン美術館、ブールデル美術館、ザッキン美術館、マイヨール美術館、パリ市立ガリエラ・モード美術館、建築・文化博物館、国立自然歴史博物館。欧州写真博物館。チェルヌスキ美術館(パリ市立アジア芸術美術館)。このほかモンマルトルにはゴッホの像で知られるザッキン美術館がある。

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  ジャックマール・アンドレ美術館

  そしてモンソー通り沿いに建つニッシム・ド・カモンド美術館。19世紀末のユダヤ人豪商モイズ・ド・カモンド伯爵(1860-1935)の邸宅を改装して一般公開している。ゴブラン織りのタピストリー、棚にはセーブルの食器セット、壁にはヴェネツィア派の絵画、図書室、と当時のパリの香気が漂う。(Paris,Nissim de Camondo)

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祖父アブラハム・ソロモン・カモンド(左)、ニッシム・ド・カモンド(右) 1868年

  セーヌ川沿いにあるケ・ブランリ美術館は原始美術のコレクター、ジャック・ケルシャン(1942-2001)が収集したアフリカ・アジア・オセアニア・南北アメリカの民俗芸術品を展示している

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 ケ・ブランリ美術館

  欧州初公開された「風神雷神図屏風」。チェルヌスキ美術館はパリ8区、モンソー公園沿いのヴェラスケス通り7番地にある。

2018年8月26日 (日)

屈原

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   楚の王室に生れた屈原(前340-前278)は、懐王から信任を得て国事に奔走した。ところが彼の改革に反対する者に陥れられ、追放のうき目にあう。自分の政策を受け入れず、放浪生活を余儀なくされる。このとき作ったのが「離騒」である。

 路曼曼としてそれ脩遠なり

 吾れまさに上下して求索(もと)めんとす

ついに屈原は汨羅の淵に身を投じて死ぬ。

屈原 岩波文庫 郭沫若著 須田禎一訳 岩波書店 1956
屈原 佐藤春夫全集5 講談社 1967
屈原 岩波新書 目加田誠 岩波書店 1967
屈原 中国の詩人1  竹治貞夫 集英社 1983
屈原 中国古典入門叢書4  敦維森著 安藤信広訳 日中出版 1984
屈原研究 郭沫若 新文芸出版社 1953
屈原詩集 カラー版中国の詩集1  黒須重彦訳 角川書店 1973
曹植と屈原 小守郁子 1989
屈原 畑中昭彦 日本文学館 2007

なぜ関西より関東のほうが味付けが濃いのか?

   関東は濃口醤油が、関西は薄口醤油が使われる。なぜ関東は味付けが濃いのか?それは徳川家康のせいだから~NHKチコちゃんは知っている。醤油の歴史は京都や大阪が古い。1577年に龍野で薄口醤油つくられた。これが、京都で発達した精進料理を自然な色に見せる、薄味の調理として完成された。江戸時代になると、徳川家康が未開拓の江戸の街を早く整備するため、全国から労働者を多く集めた。玄米と塩分補充と労働力アップのため味の濃いおかずを用いた。それから、江戸では新鮮な魚を食べる際に、「つけ醤油」として醤油を用いていたことから、濃口の醤油が生まれた。以来、万能の調味料である醤油は、日本の食を支えた。(参考:「知ってビックリ!関東と関西こんなに違う事典」PHP文庫)

2018年8月25日 (土)

秦の昭王と周室の最期

  周の赧王の在位は59年に及んだが、もはや乱世を生き抜くだけの力もなければ、天下統合のシンボルとしての権威も失われていた。周王最後の忠臣周最(しゅうさい)は、秦に入り、昭王に献言する。「周を攻めるのは決してお国のためになりません。攻め取ったとて実利はほとんどなく、天子の国を討ったという汚名を得るだけで、諸侯を斉の側に追いやり、秦の孤立化を招くことになりましょう。これでは諸侯の旗頭になることは不可能です」と説いた。だが昭王は前250年、洛邑を攻め、ついに周を滅ぼしてしまった。

鉄砲伝来とその影響

Photo     1543年のこの日、種子島の南端、西之村に外国船が漂着した。船は赤尾木湊に曳船され、島主の種子島恵時・時尭が鉄砲2挺をポルトガル人から金2千両で購入した。それから1年余りで数十挺の鉄砲が製造された。数年後、同島で鉄砲は盛んに製造され、種子島銃と呼ばれるようになる。鉄砲は、弓・刀・槍による戦法を一変させた。しかし実際には鉄砲が普及し、戦場で使用されるまでかなりの年月を要している。戦国時代と鉄砲の関係から注目すべき武将は織田信長である。1575年5月21日、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼とは、三河国南設楽郡の長篠城と、その西南の設楽原で激突した。この長篠の戦によって織田・徳川の3000挺の鉄砲が武田騎馬勢を撃破し、火力の差が勝敗を決定したことはよく知られている。だが、このとき武田側も鉄砲を重視し、設楽原の決戦でも兵器として使用していた。なぜ織田軍がこの戦いで勝ち、武田勢が敗れたのか。勝負を決めたのは鉄砲の運用面にある。よく知られる織田の「3段撃ち」は同時代の史料にはない。3段撃ちは江戸後期の軍記物に登場し、明治になって陸軍参謀本部編「日本戦史」に採用され、広く世間に広まった。信長が他の大名よりもいち早く安定的に鉄砲と硝石の供給元を確保したことにある。信長が長篠に送りこんだ大量の鉄砲には、レンタル品も数多くあった。そして長篠以前から合戦において既に鉄砲を使用していた。1569年、国司北畠氏が籠城する大河内城を攻めたとき鉄砲を使用した。この時は雨で鉄砲が役に立たず多くの戦死者を出したが、幾つかの教訓を得た。専門集団としての鉄砲衆の編成である。1570年、朝倉景恒の籠る金ヶ崎手筒山を攻めたが、配下の佐々成政率いる鉄砲隊は大戦果をあげた。こうして、姉川の合戦、小谷城攻め、石山本願寺の戦い、と鉄砲は実践で役立つ兵器となっていった。鉄砲伝来により、統一事業と兵農分離の進行がはやまったことは、封建社会を確立させるうえで、最も大きな影響である。

  では世界ではどのような戦いがおこなわれていであろうか。北インドでは1526年、パーニパッドでバーブル率いる1万2000の軍とイブラーヒーム率いる10万の軍隊とが激突した。鉄砲と騎兵を巧みに利用したバーブルが象を率いたローディー朝の10万の軍を破った。16世紀前半には世界は鉄砲の時代になっていたのである。(8月25日)参考;洞富雄「鉄砲 伝来とその影響」 思文閣出版 1991)

2018年8月24日 (金)

あごのせパフォーマンス

中高生の間でTik Tokという動画アプリで、音楽に合わせて歌っているかのように振り付けをして、SNSで公開することが流行っている。とくに人気ポーズが、手のひらの上にあごを乗せポーズをとる。流れている曲はイギリスの少女歌手コニー・タルボットが歌う「カウント・オン・ミー」。ブルーノ・マーズの2011年のヒット曲をカバー。

どれ見る?夏ドラマ

 夏の新ドラマが中盤に入る。吉岡里帆が新米公務員で奮闘する「健康で文化的な最低限度の生活」や戦時中の広島県呉市を舞台に、ある一家に嫁いだ少女すずが戦禍の激しくなる中で懸命に生きていく姿を描く松本穂香主演ドラマ「この世界の片隅に」といろいろバラエティに富んでいる。

  「この世界の片隅に」松本穂香、松坂桃李、伊藤沙莉、土村芳、久保田紗友、二階堂ふみ、仙道敦子。「幸色のワンルーム」山田杏奈。「絶対零度」沢村一樹、上戸彩、本田翼、「ラストチャンス 再生請負人」仲村トオル、水野美紀。「健康で文化的な最低限度の生活」吉岡里帆、井浦新、田中圭、川栄李奈。「高嶺の花」石原さとみ、芳根京子、高橋ひかる、「ハゲタカ」綾野剛、沢尻エリカ、木南晴夏、「グッド・ドクター」山崎賢人、上野樹里、中村ゆり。「チア☆ダン」土屋太鳳、石井杏奈、佐久間由衣、新木優子、山本舞香、箭内夢菜、「透明なゆりかご」清原果耶、「サバイバル・ウェディング」波瑠、伊勢谷雄介、高橋メアリージュン、奈緒、「バガボンのパパよりバカなパパ」玉山鉄二、比嘉愛未、長谷川京子、森川葵。「いつかこの雨がやむ日まで」渡辺麻友。「探偵が早すぎる」広瀬アリス。今期ドラマ最高視聴率は綾瀬はるか主演の「義母と娘のブルース」。上白石萌歌や清原果耶の現役高校生がはつらつとしているが、土屋太鳳の高校生役はもう無理だった。

2018年8月23日 (木)

アロハシャツとウクレレ

Photo_4   アロハシャツは日本人移民が持参した着物の再利用の際にパラカという開襟シャツに仕立てたのが起源といわれる。そのため今でも和柄が多い。1931年エラリー・チャン(1909-2000)という中国系商人が子供のシャツを作って、それをヒントに1936年「アロハシャツ」の名前を広めた。1930年までは主に日系人だけのものだったが、ビング・クロスビーの映画「ワイキキの結婚」以降ハワイ観光ブームで、アメリカ人も着用するようになった。

Co79wwx1jfa    アロハシャツを着てウクレレを爪弾くスタイルは日本人にもよく似合う。ディック・ミネ、石原裕次郎、加山雄三らスターもいるが、高木ブーが最も優れたウクレレ奏者である。ウクレレは19世紀にポルトガルの移民が持ち込んだ楽器ブラギーニャが起源といわれている。8月23日は「ウクレレの日」(braguinha,Ellery J. Chun,Aloha Shirt,ukulele)

2018年8月22日 (水)

インドネシアの人名

  インドネシアといえば大体デヴィ・スカルノ夫人(旧姓・根本七保子)の名前が挙げられるくらいで、日本人はインドネシアのことをあまりよく知らない。高校世界史ではジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)が人類誕生の項で登場する。1891年オランダ軍医ウジェーヌ・デュボワがソロ川近くのトリニール で発見した。ソロ川は全長約540kmのジャワ島最長の河川である。

「♪ブンガワン・ソロ 果てしなき青き流れに今日も祈らん」

  ブンガワン・ソロとはジャワ島中部を流れるソロ川のこと。ブンガワンは大河の意。グサン・マルトハルトノ(1917-2010)の作曲で、日本では昭和22年、松田トシが歌い広く知られている。

そのほか8世紀から9世紀シャイレーンドラ朝の時代に建てられたボロブドゥール遺跡。7世紀から15世紀東南アジアに栄えたシュリーヴィジャヤ王国。ジャワ島のクディリ朝のアイルランガ王。

ジャカルタにあるスカルノハッタ国際空港。ハッタとはインドネシア独立運動においてスカルノとともに独立の主導的役割を果たしたモハマッド・ハッタ(1903-1980)である。独立後、スカルノ大統領、ハッタ副大統領と2人は双頭体制をとるが、次第に対立し、ハッタは1956年に副大統領を辞職した。

多様性を重んじるインドネシアでは姓を義務づける法律はなく、例えばスカルノやスハルトはファーストネームのみで個人の名前である。現在のジョコ大統領も正式名はジョコ・ウィドドだが、姓と名との区別はなく、全部が個人の名前であるる。しかし最近では西洋風に苗字のある人も増えてきた。

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スディルマン(1916-1950)、グスティ・ングラライ(1917-1946)

モナリザの盗難

Davinci_monalisa00_convert_20100706     1911年8月22日、ルーブル美術館から「モナ・リザ」が盗まれた。行方は杳として分からなかった。詩人のアポリネールや画家のピカソまでもが逮捕されたが、1週間後に釈放された。「モナ・リザ」は2年3ヵ月の間、行方を絶った。

    犯人は32歳のイタリア人放浪者ヴィチェンツォ・ペルージャという男だった。ペルージャは愛国主義的な動機で「モナ・リザ」を盗んだと主張したが、間もなく彼の手帳が発見された。アルゼンチンの詐欺師エドゥアルド・デ・マルケス・バルフィエルノに雇われていた。彼は贋作を作成してアメリカの富豪ロックフェラー、カーネギー、モルガンなどに売りつけようと計画していた。事件後、ルーブルを訪れる人の間では、あれ以来ほんものの「モナ・リザ」は美術館の奥深く秘蔵され、精巧な模写が飾ってあるのだというまことしやかな噂が流された。「モナ・リザ」はもはや微笑していない、と。

2018年8月20日 (月)

お盆の由来は「倒懸(さかさづり)」から?

   NHKチコちゃんに叱られる拡大スペシャル。毎年、お盆になると家族で墓参りに行くが、なぜ行くのか。そもそもお盆の「ボン」とは何なのか。チコちゃんだけが知っている。お盆の意味は「逆さづり」。

 お盆は「盂蘭盆」を略したもの。盂蘭盆経、お釈迦様の教えを説いたお経のことで「仏訳盂蘭盆経」に書かれた物語。盂蘭盆とはインドサンスクリット語の「Ullambana (ウランバナ)」に漢字を当てはめたもの。UI(逆さ) lambana(吊るされる)=逆さづり。

釈迦の弟子、木蓮は地獄のような場所で逆さづりにされている母を助けるため、沢山の食べ物をお供えして、お経を読んで供養したところ、逆さづりにされていた木蓮の母の足から、紐が外れた。その後、木蓮の母はあの世で菩薩となり、幸せに暮らした。これがお盆の始まりである盂蘭盆会の行事である。インドから中国を経て、日本に取り入れられた。日本で最初に盂蘭盆会が営まれたのは、606年、推古天皇の時代で、「日本書紀」にその記録が残っている。

蚊取りブタは何故ブタなのか?

  きょうは「蚊の日」。1897年のこの日、イギリスの細菌学者ロナルド・ロスがハマダラカ類の蚊の胃袋からマラリアの原虫を発見した。日本の夏といえば金鳥。蚊取り線香はなぜブタの陶器に入っているのか?蚊取り線香は1890年に上山英一郎が線香に除虫菊を練り込むことを考案した。それより以前は「蚊遣火」(かやりび)と言って、蚊遣木(マツ、スギ、カヤなど)を燻していた。蚊遣火には殺中効果はなく、蚊を追い払うのみだった。江戸時代、すでに蚊遣火を入れたブタの容器が出土している。「蚊遣り豚」といい、常滑焼の土産物として販売したところ人気で全国に広がったといわれる。8月20日

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 江戸時代後期の蚊遣り豚

2018年8月19日 (日)

見逃してしまった・・・

 先日BSプレミアムで「ブラジルから来た少年」を放送していた。 ヒトラーのクローンの再生計画を企てるグレゴリー・ペックと、それを阻止しようとするローレンス・オリヴィエ。公開当時ラストシーンがカットされているが、今回は見ることができる。録画しているのでじっくり見てみる。チャンネル銀河で放送中の「昭王~大秦帝国の夜明け」。始皇帝の曽祖父にあたり、秦史上最高の55年という在位期間を誇った第28代君主・昭王則。臝稷(えいしょく)。昭襄王とも呼ばれる。秦を強大な国家へと変貌させ、後の中国統一につながる礎を築いた彼の激動の生涯を描いた中国ドラマ。全38話で第1話・2話は見逃してしまった。屈原、白起、蘇秦、范睢など「戦国策」に描かれる人物も登場する。宣太后の弟、羋戎(びじゅう)、魏冄(ぎせん)も実在の人物である。

大木伸夫「鉃路の男」

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   ネプリーグの漢字問題で吉岡里帆や井浦新が「率直」を「卒直」と書いて間違えた。しかし広辞苑などを引くと「率直」の項には「卒直ともいう」とあり、「卒直でも可」と容認する意見も一部にはある。「率」には、こだわらない、素直なという意味があるが、「卒」にはこうした意味がないことから「卒直」が国語的には不正解である。だが「卒」のほうが「率」よりも字画が少なく書きやすいことや、むかしから誤字が多くて、まあ大目に見ようというものらしい。もちろん書き取りテストでは「卒直」は×である。むかしTBSの「アッコにおまかせ」峰竜太のコーナーで「変なレコード・ジャケット」を紹介していた。古いレコードには様々な思いでがあって懐かしいものだが、ここでは基本的には大阪弁でいう「オチョクリ」が基本テイストだ。ある日、登場したのが大木伸夫の「鉃路の男」。浪曲師出身の有名な歌手だったが、そのころ既に過去の人として忘れられていた。ジャケットの文字「鉃」の字が間違っているというのである。たしかに「鉄」の字は「金」へんに「失」が正しい。学校の先生ならば、×をつけるだろう。なぜわざと「鉃」の字を使ったのか鉄道関係者ならわかっている。むかしから、鉄道の世界では「金」が「失う」では縁起がわるいので、わざと「鉃」の字を書くことがあった。

  国鉄赤字の分割・民営化のとき、鉄道会社のデザインの文字に「鉃」の字が使われた。これに対して、朝日新聞の投書で「小学五年の長女から「どうして変えるの」と聞かれて困まりました。国鉄が「字体の縁起が悪い」のを理由に変える前例となれば、ほかの鉄道会社などもまねするかもしれないし、漢字の乱用にもつながります。大人たちが自分の都合で変えるのは、子どもの教育にもよくありません。」(「金より良識失う」)として反対の声が上がった。国鉄は「鉃の字は常用漢字にはないが、「難字大鑑」(柏書房)には俗字として載っており、旧字体からみれば鉄も俗字で、決して誤字ではありません」と強弁した。これに対して漢字学者からは、「鐡」の略字に「鉄」があてられたのは「秩」「跌」「迭」など「-ツ」とういう音がすべて「失」にもとづいているからである。「鉃」という字では「テツ」という音は出てこない。縁起をかついだだけの「ウソ字」「誤字」であるとされた。ポスターやデザインで使うだけならそれほど問題はないと思うのだが、この「鉃の字」問題はヒステリックな状況の中で忘れ去られていった。もちろん法務局の通達などで「戸籍の氏名欄に記載されている誤字・俗字の一覧表」にあるので、いつでも改正が認められる。またJIS第二水準の漢字にもあるので、このように表記できる。日本独自の伝統としてはかすかに残っているのである。

俳句の日

Img_190342_31424114_1    本日は「俳句の日」。「坂の上の雲」のもう一人の主人公、香川照之演じる正岡子規のユニークな人柄をたいへん好ましく思う。「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と言った子規が、現代俳句をいかに評価するのか知りたい。「ホトトギス」は、子規の号に因み、明治30年に創刊したが、現代俳壇はホトトギス全盛といってよい。大新聞の俳壇の選者がホトトギスの門下であれば当然、花鳥風月の客観写生の句が選ばれる。ところが子規の門下の河東碧梧桐の新傾向派は自由律・無季題である。この派から尾崎放哉や種田山頭火も出たが、後継者が現われるはずもなく、途絶えたといってよい。一方の高浜虚子からは、飯田蛇笏、原石鼎、村上鬼城、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男など輩出した。現在、金子兜太らの前衛俳句もあるが、伝統対革新の構図はいつの時代もある。ここでは現代名句をいくつかあげてみる。

くらがりの天地にひびく花火哉(子規)

静けさや音いきりたつ扇風器(草城)

ちんぽこもおそそに湧いてあふれる湯(山頭火)

江川投手は征露丸です咲くさくら(坪内稔典)

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(金子兜太)

八月や六日九日十五日(萩原枯石)

父はやく死にしあと母風の盆(古沢太穂)

算術の少年しのび泣けり夏(西東三鬼)

卒塔婆を抱きて乗り込む盆列車

ただ一人少年墓を拝みけり(月二郎)

(8月19日)

2018年8月18日 (土)

ジョンとジョージ

   名前は単なる記号ではなく、不思議な力がやどると考えられる。名前と実体がシンクロするという考えは、これまでいかなる研究者も科学的に解明したわけではないが、世の親たちが子どもの幸せを願って頭を悩ますのをみてもわかるであろう。

   阪神タイガースの今成亮太選手が勝利のお立ち台に上がって一言。「ランディー・バースが・・・・、あっ、すいません、間違えました。ランディ・メッセンジャーが頑張っていたので、何とか点を取りたいと思って打席に入りました」 「史上最強の助っ人」と呼ばれたバースもメッセンジャーも、名は同じ「ランディ」である。

   だが欧米と日本とでは子どもの命名に少し違いがあるようにみられる。日本はなるだけ独創的な名前を考えようとし、欧米は伝統的な名前を好むように思える。利助(伊藤博文)、寅次郎(吉田松陰)、弥太郎(岩崎弥太郎)などの名は現在ではほとんどみられない(龍馬は急増するかもしれないが)。しかしジョンやジョージは英米で現在も一般的に命名されている。ジョン万次郎やジョン・アダムス(米2代大統領)、ジョージ・ワシントン(米初代大統領)の名である。

    英米の普通の男性名ジョンとジョージを選んだが、原綴りでは、JohnとGeorgeは全く異なる。共通するのはイギリスの王名であることである。大憲章(マグナ・カルタ)を制定したジョン失地王。ジョージはハノーバー王朝の国王名である。現イギリス国王エリザベス2世の父の名前はジョージ6世(1895-1952)である。ジョンやジョージのように高貴な名前に対して、ジャックはずっと庶民的なひびきがある。日本でいうと太郎みたいな感じだろうか。

    ジョンという名前の歴史上人物としては、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)、宗教改革者ジョン・ノックス(1514-1572)、詩人ジョン・ダン(1572-1631)、劇作家ジョン・ドライデン(1631-1700)、哲学者ジョン・ロック(1632-1704)、劇作家ジョン・ゲイ(1685-1732、「乞食オペラ」)、原子論の創始者ジョン・ドールトン(1766-1826)、米の国務長官ジョン・ヘイ(1839-1905)。ケープ植民地のセシル・ジョン・ローズ(1853-1902)、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917-1963)などがいる。芸能人ではジョン・ウェインやジョン・レノン。アメリカン・ニュー・シネマの名作「真夜中のカーボーイ」監督はジョン・シュレシンジャー、音楽はジョン・バリー、主演はジョン・ヴォイトとジョンずくめだ。
  ジョージという名前には、イギリスの鉄道技術者ジョージ・スチーブンソン(1781-1848)などのほかあまり教科書的な人物は見当たらないが、現代人であれば、「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカス、「明日に向かって撃て」のジョージ・ロイ・ヒル、「スタア誕生」のジョージ・キューカー、「ER緊急救命室」のジョージ・クルーニー、「ウエスト・サイド物語」のジョージ・チャキリス、「特攻野郎Aチーム」のジョージ・ペパードなどがいる。ジョンの現代人としては、「駅馬車」のジョン・フォード、「黄金」のジョン・ヒューストン、「アラモ」のジョン・ウェイン、「真夜中のカーボーイ」のジョン・ヴォイド、「サタデー・ナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタなどがいる。こうして並べてみてもジョンとジョージは、好ましい感じのする名であることがうかがわれる。

チンギス・ハンはどこに眠っているのか?

Ghengisbr    チンギス・ハンの生年については1155年、1161年、1162年、1167年など諸説あるが、忌日は1227年8月18日とはっきりしている。これは奇しくも豊臣秀吉と同日である。西夏を滅ぼした帰途、負傷がもとで陝西省六盤山山麓で病没し、ケルレン河畔で葬られた。遊牧民であるモンゴル民族には、地上に墓標などを立てずに埋葬する風習がある。そのため、モンゴル帝国の偉大な始祖・チンギス・ハンも、死後どこに埋葬されたのか墓の所在がわからない。いまも多くの学者がその墓を探すため取り組んでいる。埋葬された最有力候補地はモンゴル北東部のボルハン・ハルドゥン(ブルカン・カルドゥンとも。「神の山」の意)で「モンゴル秘史」にも記された生まれた場所で、墓所もあると考えられている。いつか英雄の眠る地が明らかになる日がくるのだろうか?(Chingis Khan) 

参考:白石典之「チンギス・カンの考古学」 2001年
チンギス・ハン伝 ウラデミルツォフ 小林高四郎訳 1936年
成吉思汗伝 ウラジ―ミルツォフ 生活社 1943年
チンギス・ハンの末裔たち 騎馬民・モンゴル族踏査行 森田勇造 講談社 1986年

2018年8月17日 (金)

何で虹は七色?

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   わたしたちの周りには、さまざまな色が見られるが、それらの万物が固有の色をもっているのではなく、万物の表面が光の一部を反射するということなのである。リンゴが赤いのはリンゴ自体が赤いのではなく、赤色の光を反射するためであり、同じく木の葉は緑色の光を反射するから緑色に見えるのである。

 NHK雑学バラエティ「チコちゃんに叱られる」多久和理実(東京工業大学)によると虹の七色の説はニュートンが先駆だという。1672年、彼はケンブリッジ大学でスペクトルの実験を行い、物体の色はスペクトルの色の一部を吸収し、他色を反射するため生ずることがわかっていた。ところがニュートンの研究はほとんど注目をひかず、彼はがらがらの教室で講義をしていた。彼が、色は目と脳でどのようにして知覚されるか、という問題を解明したのは「光学」(1703年)を発表してからである。虹は大気中の光学現象のなかでいちばんよく知られ、古くから宗教や説話のうちにあらわれるが、光の7色のスペクトルで科学的に説明したのはニュートンが最初である。光をめぐる論争は古代ギリシア時代以来からあり、17世紀にはホイヘンスの波動説とニュートンの粒子説の論争が最高潮に達し、対立していた。粒子説はニュートンの時代から一時優勢であったが、ジェームズ・マクスウェル(1831-1879)の研究により、波動説が完全な勝利をおさめた。(Isac Newton,James Maxwel,rainbow)

源頼朝七騎落

Photo1342_2     伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)のこの日、石橋山で平家方の大庭景親と合戦した。三百余騎の頼朝軍に対して、むかう大庭軍、三千余騎が立ちふさいでいた。24日、無勢の頼朝軍はたちまちに敗走し、平氏軍はこれを追撃した。しかし、ついに頼朝を捕えることができず、その行方を見失ってしまった。この時、大庭景親の軍勢に属していた梶原景時が、頼朝の在りかを知りながらこれを逃したという話の真偽は疑わしいものの、当時、平氏の陣中にあって頼朝に心を寄せていたのは、景時だけではなかった。飯田家義という相模国の武士も、景親の軍中にありながら頼朝を慕い、山中の隠れ家までやってきてぜひ供に加えてくれ、願ったという。

    こうして虎口を逃れた頼朝は、この付近の豪族・土肥実平に導かれて真鶴岬から小舟に乗り、海路を房総半島の南端安房国へと逃れ、次第に勢力を拡大する。ついには平家を討ち滅ぼし、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。

    頼朝挙兵の頃の関東の豪族をながめておこう。挙兵時より頼朝に味方した豪族としては、北条時政、天野遠景、三浦義明、三浦義澄、和田義盛、宇佐美助茂、土肥実平、加々美長清、安田義定、武田信義、下河辺行平。

    挙兵直後頼朝に味方した豪族としては、豊島清光、葛西清重、千葉介常胤、上総介広常、小山朝光、安西景盛。

    挙兵時頼朝に敵対しのち従った豪族としては、梶原景時、江戸重長、河村義秀、渋谷重国、河越重頼、熊谷直実、畠山重忠、新田義重、足利俊綱。

    頼朝に敵対し討たれた豪族は、大庭景親、波多野義常、山本兼隆、伊東祐親、志田義広、萩野俊重、佐竹秀義らがいる。(8月17日)

2018年8月16日 (木)

「い」 ファースト・ネームから引く人名一覧

600fullirinademick   「い」から始まる外国人名は意外と少ない。とくに英語圏に少ない。「史上最大の作戦」のイリナ・デミック(画像)フランス女優だが、実はロシア人。イ・ビョンホン、イ・ヨンエなど韓国姓「李」は大数なので省く。▽「イエジ―・カヴァロヴィッチ」ポーランドの映画監督。代表作「影」「夜行列車」「尼僧ヨアンナ」1922-2007。▽「イレネウス・アイブル・アイベスフェルト」1928年オーストリア生まれの動物行動学者。

E・G・マーシャル
イアン・ソープ
イアン・フレミング
イアン・ホルム
イアン・マキューアン
イアン・マッケラン
イヴァン・モジュヒン
イヴォ・アンドリッチ
イヴォンヌ・ジョルジュ
イヴォンヌ・ストラホフスキー
イヴォンヌ・プランタン
イーヴリン・アンダーヒル
イーヴリン・ウォー
イヴリン・ヴェネブル
イヴリン・ブレント
イエジ・J・ヴィアトル
イエジー・カヴァロヴィッチ
イオアニス・メタクサス
イオアニス・ラリス
イオセブ・ベサリオニス・ジュ・ジュガシヴィリ(スターリン)
イグナツィ・ヤン・パデレフスキー
イグナティウス・デ・ロヨラ
イーゴリ・ストラヴィンスキー
イサーク・バーベリ
イサドラ・ダンカン
イザベラ・デステ
イザベラ・バード
イザベラ・ロッセリーニ
イザベル・アジャニー
イザベル・ユペール
イーサン・ホーク
イタリア・アルミランテ・マンツィーニ
イタロ・ズヴェーヴォ
イーデス・ハンソン
イーデス・シットウェル
イナ・バウアー
イナマ・シュテルネック
イブ・モンタン
イブン・アル・ハイサム
イブン・サウード
イブン・シーナー
イブン・ハズム
イブン・バットゥータ
イブン・ハルドゥーン
イブン・ファドラーン
イブン・マージド
イブン・ルシュド
イベット・ジロー
イメルダ・マルコス
イーライ・ウォラック
イライザ・タルカット
イライザ・ドゥシュク
イライジャー・ウッド
イリア・カザン
イリア・トラベルグ
イリエール・ジェルマン・エドガー・ドガ
イリナ・デミック
イリヤ・エフィーモヴィチ・レーピン
イリヤ・グリゴリエビッチ・エレンブルク
イレーヌ・ジャコブ
イレーヌ・ジョリオ・キュリー
イレーネ・パパス
イレネウス・アイブル=アイベスフェルト
イワン・アイワゾーフスキー
イワン・ゴンチャロフ
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ
イワン・ニコラーイェヴィチ・クラムスコイ
イワン・パブロフ
イワン・ピエトロビッチ・パブロフ
イワン・プイリエフ
インガー・スティーブンス
インキジノフ
イングマール・ベルイマン
イングリッド・クリスチャンセン
イングリッド・バーグマン
インディラ・ガンディー
インラック・シナワトラ

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 イヴリン・ヴェネブル

ジョン・ファウルズ

348150_501   ジョン・ファウルズ(1926-2005)は、イギリス・エセックス州にある町リー・オン・シーで生まれる。オックスフォード大学卒業後、教師をしながら小説を書く。1963年、処女作「コレクター」を書くと、映画化されストーカー小説の先駆としてセンセーショナルな話題作品となった。1968年にはドーセットに移り住み、そこを舞台とした「フランス軍中尉の女」を書き始めた。同年、「魔術師」を脚色し直し映画化されたが、映画としては失敗した。ファウルズは寡作ながら、ポストモダニズムの父と捉えられ高い評価をえている。(John Fowles,The Collector,Essex,Leigh-on-Sea,Dorset)

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ミッシェル・バックマンの失言

Elvispresley    アメリカ大統領共和党候補者だったミッシェル・バックマンは失言の多いことで知られる。テレビのインタヴュー。「ジョン・ウェインも私も米アイオワ州ウォータールーの出身」と発言。西部劇の大スター、ジョン・ウェインはウィンターセットの生まれ。連続殺人犯ジョン・ウェイン・ゲイシー(1994年死刑)がウォータールーの出身だった。トホホの勘違い。またバックマンは8月16日、演説中に、「今日はプレスリーの誕生日、おめでとう!」と発言。だがその日はプレスリーの命日だった。誕生日と命日とを勘違い。バックマンは大統領候補を断念した。8月16日がプレスリーの命日であることはアメリカ人なら誰でも知っている。そしてその日は、ベーブルース、マーガレット・ミッチェルもプレスリーと共に命日なのだ。(Michele Bachmann,John Wayne,Elvis Presley)

2018年8月15日 (水)

史記・司馬遷関係文献目録

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  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記啓弁 詳論註解 堤大介編 松林堂 1879
啓蒙史記列伝 太田秀敬 青梅堂 1881
史記列伝講義 太田才次郎 開新堂 1893
史記国字解 8冊 桂五十郎 早稲田大学出版部 1919~1920
史記読本 田中慶太郎校訂 文求堂 1930
史記会注考証 10冊 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
司馬遷の見たる古代支那の人文地理に就いて 藤田元春 地球16-2、3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 史林17-3  1932
司馬遷と班固 岡崎文夫 史林17-3  1932
史記新講 新撰漢文叢書 梁田忠山 三省堂 1933
史記列伝 上下(国訳漢文大成・経史子部) 国民文庫刊行会 1934
史記・書・世家 国訳漢文大成・経子史部14  国民文庫刊行会 1935
新撰史記鈔詳解 沢田総清・滝沢良芳編 健文社 1936
史記著作考 支那学翻訳叢書5 シャヴァンヌ著 岩村忍訳 文求堂書店 1939
史記編述年代考 山下寅次 六盟館 1940
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記物語 世界名作全集 増田渉 講談社 1956
史記会注考証校補 全15冊 水沢利忠著 史記会注考証校補刊行会 1955~1960
現代語訳史記4列伝篇 小竹文夫・小竹武夫訳 弘文堂 1957
史記 楚漢篇 新訂中国古典選11  田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1967
史記 漢武篇 新訂中国古典選12  田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1967
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記 上 中国古典文学全集 野口定男、頼惟勤、近藤光男、吉田光邦訳注 平凡社 1958
史記 中・下 中国古典文学全集 野口定男ほか 平凡社 1959
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 楚漢篇 中国古典選 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記 司馬遷の世界 講談社現代新書 加地伸行 講談社 1978
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記桃源抄の研究 全5巻 亀井孝・水沢利忠 日本学術振興会 1965~1969
史記桃源抄の研究 本文篇3 日本学術振興会 1970
史記・十八史略演習 吹野安編 笠間書院 1970
史記・十八史略新釈 吹野安編 笠間書院 1970
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記・十八史略 明解古典学習シリーズ 三省堂 1973
史記列伝 下 漢文大系7 重野安繹 冨山房 1973
史記列伝 全5冊 岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波書店 1975
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選 項羽本紀 漢文講読課本6 朋友書店 1979
史記を語る 岩波新書 宮崎市定 岩波書店 1979
史記世家 上岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波書店 1980
史記を読む 研文叢書7 野口定男 研文出版 1980
史記世家 中岩波文庫 岩波書店 1982
史記列伝 世界古典文学全集20  小川環樹他訳 筑摩書房 1982
史記水滸伝唐代伝奇 朝日文庫 陳舜臣 朝日新聞社 1983
「史記」を中国語で読む 相浦杲 PHP研究所 1985
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記世家 下岩波文庫 岩波書店 1991
史記雕題 上 懐徳堂文庫復刻刊行会監 吉川弘文館 1991
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986
史記点描 人間の生きざまをつづった四十二話 山崎正 公人社 1987
史記・本紀1 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・本紀2 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1988
史記・世家上 新釈漢文大系 吉田賢抗  明治書院 1988
「史記」小事典 久米旺生・竹内良雄・丹羽隼兵 徳間書店 1988

「史才と文章上より見たる司馬遷」 日下寛 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の性行と史記の文章」 児島献吉郎 東亜研究2-5  1912
「史記と外交」 武藤長年 東亜研究2-5  1912
「司馬遷年表並に其孝道」 中山久四郎 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の経学」 狩野直喜 哲学研究3-7  1918
「司馬遷の自由放任説」 小島祐馬 政治経済学論叢1-1   1919
「公羊家の観たる史記」 小島祐馬 支那学1-1  1921
「司馬遷の歴史観に就いて」 本田成之 支那学2-8,9  1922
「史記ノ漢高本紀ニ就テ」 稲葉岩吉 東亜経済研究8-2  1924
「司馬遷の生年に関する一新説」 桑原隲蔵 史学研究(東京)1-1  1929
「史記貨殖列伝論稿」 穂積文雄 東亜同文書院論文集 1930
「司馬遷の人文地理学」 藤田元春 立命館大学1-12  1934
「史記と春秋学」 岡崎文夫 文化1-9  1934
司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
史記 中国古典シリーズ1 陳舜臣 朝日新聞社 1974
史記補注 池田四郎次郎 明徳出版社 1975
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
史記 中国古典選 田中謙二・一海知義 朝日新聞社 1978
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
史記世家 上中下 新釈漢文大系 吉田賢抗 明治書院 1986
史記 司馬遷 徳間書店 1987
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
史記 中国古典百言百話 西野広祥 PHP研究所 1988
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988
史記 呉越燃ゆ 久松文雄 講談社 1989
史記 世界の名作全集 渡辺武訳 国土社 1990

2018年8月14日 (火)

日本のいちばん長い日

Anamikorechika Oonishi Ugaki3
   阿南惟幾            大西瀧治郎               宇垣纏

    8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に東京三宅坂の陸相官邸で阿南惟幾(1890-1945)陸軍大臣は、割腹ののち、みずから頚動脈を切り、自決した。「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」。これが血に染まった阿南の遺書である。

    16日未明、軍令部次長・大西滝治郎中将(1891-1945)が渋谷南平台の官舎で自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で10数時間後に死んだ。大西は特攻攻撃の発案者の一人だった。

    敗戦とともに、多くの軍人がみずから命を断った。軍人軍属合わせてその数は600人を超える。階級も二等兵から大将までさまざまだった。主な軍人の自決者は次のとおり。

8月15日、阿南惟幾(陸軍大将)、吉本貞一(陸軍大将)、宇垣纏(海軍中将)、岡本清福(陸軍中将)、寺本熊市(陸軍中将)、北村勝三(陸軍少将)、8月16日、大西滝治郎(海軍中将)、隈部正美(陸軍少将)、8月17日、秋山義兊(陸軍中将)、渡辺馨(陸軍少将)、8月18日、中村次喜茂(陸軍中将)

2018年8月13日 (月)

戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊

モリー・グプティル・マニング著 松尾恭子訳 東京創元社 2016年。第二次世界大戦終結までに、ナチス・ドイツは発禁・禁書によって一億冊を超える書物をこの世から消し去った。対するアメリカは、戦地の兵隊たちに本を送り続けた。その数、およそ一億四千冊。アメリカの図書館員たちは、全国から寄付された書籍を兵士に送る図書運動を展開し、軍と出版業界は、兵士用に作られた新しいペーパーバック「兵隊文庫」を発行して、あらゆるジャンルの本を世界中の戦地に送り届けた。本のかたちを、そして社会を根底から変えた史上最大の図書作戦の全貌を描く、ニューヨーク・タイムズ・ベストセラーの傑作ノンフィクション。

左利きの日

120679923511216402492     本日は国際的には「左利きの日」。だが、わが国ではお盆にあたるので2月10日を「左利きの日」としている。野球ではサウスポーといい、左腕投手が珍重される。野球場は、午後の日差しが観戦の妨げにならぬよう、「本塁から投手板を経て二塁に向かう線は、東北東に向かっていることを理想とする」(MLB公認規則)とある。このため左投手は南側(サウス)の手(ポー)で投球することになり、その事から左投手がサウスポーと呼ばれるようになったという説が一般的に説かれる。また、アメリカ南部出身の大リーグ所属投手に左利きが多かったことから、語が生まれたとする説もある。

  左利きの有名人として、レオナルド・ダ・ヴィンチや左甚五郎といった芸術家が多い。ビル・クリントン、バラク・オバマなど米大統領も左利きである。(8月13日)

2018年8月12日 (日)

クレオパトラは本当に美女だったのか?

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 シーザーとクレオパトラとの出会い

    紀元前30年のこの日、エジプト女王クレオパトラは毒蛇のコブラに乳房を噛ませて自殺したとされる。古来からクレオパトラは絶世の美女とされ、これまで何度も映画化された。ジョヴァンナ・テリビリ・ゴンザレス、セダ・バラ、クローデット・コルベール、ヴィヴィアン・リー、リンダ・クリスタル、パスカル・プティ、マガリ・ノエル、ジョーン・クレール、エリザベス・テーラー、ヒルデガード・ニールなど。なにせ世界中で映画化されているのでその正確な数はわからない。

    このようにクレオパトラは現代でも美貌と知性を兼ね備えた女性として人気は高い。NHKプレミアム8「華麗なる宮廷の妃たち・クレオパトラ」(2010.6.8放送)でも現代キャリア女性にクレオパトラの人生を重ねあわせ、ゲストがその心のうちを解析していくのが興味深い。

    キケロはクレオパトラに会った印象を次のように記している。「女王は嫌いだ。ティベリウス河の対岸の別邸にいったときの女王の傲慢ぶりは、思い出すたびに実に腹立たしい」(「友人アティックスへの手紙」)キケロはローマ滞在中のクレオパトラにかなりぞんざいに扱われたらしい。クレオパトラにも傲慢な一面があったと考えるべきだろう。クレオパトラは小柄で痩せ型だったようだが、正しい容貌はよく分からない。プルタークが伝えるところではクレオパトラは特段の美女ではなかったらしい。「彼女の容姿は会話の際には説得力があり、また同席している人々にいつの間にか浸みこむ性格を持っていて、針のように人の心にはいりこんだ」とある。13ヶ国語を話す会話上手の一面が現れている。

    シーザーやアントニーとの関係は恋だったのか、政治的打算だったのか。吉村作治はエジプト女王という立場にあるクレオパトラの政治力を強調する。現代女性が思い描く女性像ではないと指摘する。その裏づけとしてアクティウムの海戦でこれまでクレオパトラは敵前逃亡したと言われてきた。ところがクレオパトラ率いるエジプト艦隊60隻は大型軍船からなるもので財宝を積んでいる。これらを無事本国に帰還させるといことは再起を図るねらいがあった。当時、戦いにはマストと帆は積まないことになっているが、あらかじめマストと帆を積んで戦場にのぞんだことは退却も想定していたことである。クレオパトラは戦局を見る冷静な判断力をもった司令官でもあったのだ。

    最後に、吉村はクレオパトラの魅力は容貌の美しさよりも、教養の高さ、着こなし、飾り物の豪華さ、化粧のうまさ、洗練された優雅さにあったと指摘している。「シーザーはクレオパトラの教養の深さに驚き、夫のいうことをただ黙って聞き、家事にあけくれるローマの女に比べ、何という違いだろうとため息をついたに違いない」と記している。(参考:吉村作治「クレオパトラの謎」講談社現代新書) 8月12日

日航ジャンボ機墜落31年

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   昭和60年8月12日午後6時24分30秒。羽田空港を飛び立った日本航空123便大阪行きには524人の乗員乗客が搭乗していた。折りしも、お盆の帰省シーズンだった。ジャンボ機は相模湾上空で操縦不能となり、群馬県御巣鷹山山中に墜落、大破炎上。死者520人、生存者4人。単独機として世界最大の事故である。激しく揺れる機内で、ある乗客は家族への伝言を記した。「本当に今まで幸せな人生だったと感謝している」別の人は「恐・恐・恐、助けて」とゆがむ字で書き続けた。事故原因は「圧力隔壁の破損」によるとされる。

2018年8月11日 (土)

アジア人文地理関係文献目録

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    宇宙からアジアを見ると、東京やソウルが夜景のため輝くばかりの光を放っている。世界最古の文明の発祥地であるアジアは、世界最大の人口をもちながら、日本をのぞく多くの国々は、19世紀と20世紀半ばまで西欧の支配を受けていた。第二次世界大戦後に、これらの国々はつぎつぎに独立し、新しいアジアに生まれかわった。アジアは広大な地域であるから、地形はきわめて複雑で、地域によりちがいが大きい。アジアには、北部に居住する北方系と南部に住む南方系とに分かれ、前者にはフィン族やマジャール族のほか、トルコ人・モンゴル人・ツングース人・朝鮮人および日本人などがあり、後者には中国人(漢族)・チベット人・アンナン人・タイ人・ビルマ人などがある。世界人口74億のうちアジアは42億人といわれる。アジア民族の活動舞台となる地形は、「世界の屋根」といわれるパミール高原(タジキスタン共和国の東部ゴルノ・バダフシャン自治州に属し、一部は中国、アフガニスタンにはいる)から放射状にのびる山系によって分けられている。すなわち北西にはアルタイ山脈、北東には天山山脈が走り、アルタイ山脈はさらにサヤン山脈と合し、バイカル湖から北東にはヤブロノイ山脈があって、これはさらにオホーツク海北岸に聳えるスタノヴォイ山脈にとつづいている。さらにパミール高原から東に向かっては、カラコルム、ヒマラヤ、アルチンターク、崑崙などの大山脈が延び、崑崙はさらに秦嶺となって中国につづき、華北と華南の境界を形成する。ヒマラヤの東の延長は数条のインドシナ山脈となり、その一つは南嶺として華南とインドシナ半島とを境している。日本と隣接する朝鮮、中国、台湾、ロシアなどはこれまで複雑な歴史を有している。

    現在アジアの国は全部で39ヵ国。約4400万k㎡で地球全面積の32%を占めている。面積の大きい国を10位まであげると、中国・インド・サウジアラビア・インドネシア・イラン・モンゴル・パキスタン・トルコ・ミャンマー・アフガニスタン。

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  アジア関係文献一覧

世界都路1 亜細亜洲 仮名垣魯文 1872
改正萬国地誌略図一覧1 亜細亜・亜非利加之部 伊東正貫編 京都・笹田辰之助 1877
亜細亜言語集 上 支那官話 広部精編輯 青山堂書房 1880
中亜細亜紀事 西徳二郎 陸軍文庫 1886
総訳亜細亜言語集 支那官話部 全4巻 広部精訳 青山清吉 1892
亜細亜大陸旅行日誌並清韓露三国評論 原田藤一郎 1894
亜細亜之存亡 岡本監輔編 哲学書院 1900
亜細亜ニ於ける露西亜 落合昌太郎合著 嵩山房 1903
亜細亜歴史地図 石沢発身編輯 弘文館 1903
古代埃及及西南亜細亜史 高桑駒吉 早稲田大学出版部 1903
亜細亜東部ノ覇権 戸水寛人 1904
亜細亜之将来 タウンセンド 金港堂書籍 1905
高等地理 巻之3 亜細亜洲 矢津昌永 丸善 1906
五大洲探検記1 亜細亜大陸横行 中村直吉 博文館 1908
小学地理教材2 亜細亜洲大洋洲 北垣恭次郎 宝文館 1909
大亜細亜主義論 小寺謙吉 東京寶文館 1916
亜細亜大観 黒竜会出版部 1918
回教民族の活動と亜細亜の将来 渡辺巳之次郎 大阪毎日新聞社 1923
白禍に悩む支那 亜細亜聯盟へ 長野朗 燕塵社 1924
アジアを跨ぐ 副島次郎 大阪毎日新聞社 1927
アジアの二大運動 回教徒とユダヤ人 山岡光太郎 渡辺事務所 1928
亜細亜の生きるの途 蜷川新 日本書院出版部 1929
アジアの概説と満州・蒙古 地理講座1 飯本信之ほか 改造社 1933
黎明大亜細亜 満洲建国を顧みてこの大躍進を語る 満洲国通信 1938
亜細亜史概説 中世篇(歴史学叢書) 守屋美都雄編 蛍雪書院 1940
アジア人名辞典 アジア問題講座12 尾崎秀実ほか 創元社 1940
アジア周辺民族史 竹尾弌著 今日の問題社 1943
アジア研究1 アジア経済学会編 如水書房 1954
アジア 付オセアニア 社会科地理文庫 多田文男・小堀巌 三省堂 1955
アジア史 文庫クセジュ ルネ・グルッセ 前嶋信次訳 白水社 1955
アジア史概説 松田壽男 河出書房 1956
アジア 世界地理シリーズ ぺりかん写真文庫 平凡社 1957
アジア 歴史と私 島田正郎 啓文社 1962
アジア史小論 石橋秀雄 山本書店 1962
アジア高原の旅 アーノルド・トインビー 黒沢英二訳 毎日新聞社 1962
アジア古代史概説 光島督 成文堂 1965
アジア現代史 衛藤瀋吉編 毎日新聞社 1969
アジア史概説 宮崎市定 学生社 1973
アジア学の展開のために 創樹選書 竹内好編 創樹社 1975
アジア現代史 全4巻 別巻 歴史学研究会 青木書店 1979-1985
ヨーロッパとアジア 大東名著撰2 榎一雄 大東出版会 1983
アジア稲作文化への旅 NHKブックス 渡辺忠世 日本放送出版協会 1987
アジア・女・民衆 松井やより 草風館 1988

人物没年総覧

   人はみな死ぬ。江戸期の文人、蜀山人(大田南畝)がそのことを素直に歌っている。「今までは人のことだと思ふだに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」。歴史を彩った英雄・偉人たちは、それぞれどのような場所で、どのような死に方をしたのだろうか。奇才・山田風太郎は「人間臨終図鑑」で著名人923名の臨終の模様を描いた。「メメント・モリ」なんじは死を覚悟せよの意味。死について考えることで、今をよりよく生きるようにしたい。ただし、故人や遺族の意志により、死因を公表していない場合もあるので、細心の注意が必要である。

9月19日
正岡子規、享年34歳。東京都台東区根岸の自宅で結核のため没す。

9月2日
岡倉天心、享年50歳。新潟県赤倉温泉の山荘で死去。慢性腎炎で尿毒症を併発。

8月28日
道元、享年53歳。京都高辻西洞院で死去。

8月11日
三遊亭圓朝、享年61歳。明治33年(1900年)進行性麻痺と続発性脳髄炎で死去。

8月8日
柳田國男、享年87歳。昭和37年(1962年)東京世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去。

7月30日
明治天皇、享年59歳。明治45年(1912年)持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発した。

7月24日
芥川龍之介、享年35歳。昭和2年(1927年)東京府田端の自宅で服毒自殺。

7月23日
葛西善蔵、享年41歳。昭和3年(1928年)東京府世田谷の自宅で死没。肺病。

7月20日
岩倉具視、享年57歳。明治16年(1883年)咽頭癌。

7月19日
久坂玄瑞、享年24歳。元治元年(1854年)京都堺町、蛤御門で死亡。

7月16日
板垣退助、享年82歳。大正8年(1919年)病死。

7月11日
佐久間象山、享年53歳。元治元年(1864年)京都三条木屋町で暗殺される。

7月9日
森鴎外、享年60歳。大正11年(1922年)東京文京区の自宅で腎萎縮、肺結核のため死去。

7月8日
ヴィヴィアン・リー、享年53歳。1967年ロンドン、ベルグレイヴィアで病死。結核。

7月7日
エドワード1世、享年68歳。1307年。

7月6日
下山定則、享年48歳。昭和24年(1949年)足立区綾瀬で轢死。

7月1日
児島惟謙、享年71歳。明治41年(1908年)死去。咽頭結核。

6月30日
川合玉堂、享年83歳。昭和32年(1957年)青梅の自宅で死去。心臓喘息病。

6月29日
瀧連太郎、享年24歳。明治36年(1903年)大分市稲荷町の自宅で死去。肺結核。

6月28日
林芙美子、享年47歳。昭和26年(1951年)急死。心臓麻痺。

6月27日
松岡洋右、享年66歳。昭和21年(1946年)東大病院で死没。肺結核。

6月26日
内藤湖南、享年67歳。昭和9年(1934年)病死。

6月25日
宮城道雄、享年62歳。昭和31年(1956年)愛知県刈谷市付近で列車から転落、病院で死没。

6月24日
美空ひばり、享年52歳。平成元年(1989年)順天堂病院で死亡。肺炎。

6月23日
国木田独歩、享年36歳。明治41年(1908年)神奈川県茅ヶ崎にある結核療養所の南湖院で死去。

6月22日
畠山重忠、享年42歳。元久2年(1205年)謀殺される。

6月21日
林子平、享年56歳。寛政5年(1793年)。

6月20日
徳川吉宗、享年56歳。寛延4年(1751年)再発性脳卒中。

6月19日
世宗(柴栄)、享年39歳。顕徳6年(959年)病没。
酒井田柿右衛門、享年70歳。寛文6年(1666年)死没。

6月18日
豊島与志雄、享年64歳。昭和30年(1955)千駄木の自宅で死去。心筋梗塞。

6月15日
空海、享年61歳。宝亀2年(774年)高野山で没。(4月22日説あり)

6月14日
毛利元就、享年75歳。元亀2年(1571年)

6月13日
明智光秀、享年55歳。天正10年(1520年)小栗栖(伏見区)で刺されて自刃。
太宰治、享年38歳。三鷹市で入水自殺。

6月12日
蘇我入鹿、享年35歳。皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮の大極殿において暗殺される。

6月11日
長谷川伸、79歳。昭和38年(1963年)聖路加国際病院で死去。

6月10日
鴨長明、62歳。建保4年(1216年)
大町桂月、57歳。大正14年(1925年)十和田湖の蔦温泉で死亡。

6月9日
有島武郎、46歳。大正12年(1923年)軽井沢の別荘で心中。

6月8日
ムハンマド(マホメット、モハメッド)、享年62歳。632年、マディーナで病死。

6月7日
西田幾多郎、享年75歳。昭和20年(1945年)鎌倉で病死。尿毒症。

6月6日
鑑真、享年76歳。天平宝宇7年(763年)病死。
袁世凱、享年56歳。1916年、北京で病死。尿毒症。

6月5日
宮部鼎藏、享年44歳。元治元年(1864年)京都池田屋で新選組に襲撃され自刃。

6月4日
最澄、享年54歳。弘仁13年(822年)比叡山の中道院で没。

6月3日
佐藤栄作、享年74歳。1974年(昭和49年)東京慈恵会医科大学附属病院で死去。脳溢血。

6月2日
織田信長、享年49歳。天正10年(1582年)京都本願寺本堂で切腹、焼死。

6月1日
ヘレン・ケラー、享年87歳。1968年アメリカ合衆国コネチカット州イーストンの自宅で死去。

5月31日
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、享年74歳。1809年ナポレオンのウィーン侵攻の中で病死。

5月30日
沖田総司。享年については24歳、25歳、27歳など諸説あり。明治元年(1868年)千駄ヶ谷で病死。肺結核。

5月29日
与謝野晶子、享年63歳。昭和17年(1942年)、荻窪の自宅で死去。狭心症に尿毒症を併発。

5月28日
在原業平、享年56歳。元慶4年(880年)死没。

5月27日
ジャワハルラール・ネルー、享年74歳。1964年、自宅で突発的な心臓発作で死去。

5月26日
木戸孝允、享年43歳。明治10年(1877年)京都で病死。死因は胃癌らしい。

5月24日
伊達政宗、享年68歳。寛永13年(1638年)江戸の伊達藩上屋敷で死去。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定される。

5月23日
ヘンリック・イプセン、享年78歳。オスロにて死去。

5月22日
ヴィクトル・ユーゴー、享年83歳。1885年パリにて死去。急性肺炎。

5月21日
野口英世、享年51歳。1928年ガーナ・アクラで研究中黄熱病に感染し死亡。

5月20日
日野富子、享年57歳。明応5年(1496年)死亡。
生田春月、享年38歳。昭和5年(1930年)播磨灘沖で投身自殺。

5月19日
宮本武蔵、享年62歳。正保2年(1645年)熊本千葉城の自宅で死没。神経痛と胃癌。

5月18日
紀貫之、享年79歳。天慶8年(945年)死去。

5月17日
サンドロ・ボッティチェリ、享年65歳。1510年フィレンツェで死亡。彼の絵は人気を失い、数世紀にわたってほとんど忘れられた存在となった。

5月16日
北村透谷、享年25歳。明治27年(1894年)東京芝公園で首吊り自殺。

5月15日
犬養毅、享年76歳。昭和7年(1932年)五・一五事件で暗殺される。

5月14日
大久保利通、享年49歳。東京紀尾井坂で石川県士族島田一郎ら6人に襲われ死去。

5月13日
谷干城、享年74歳。明治44年(1911年)
田山花袋、享年60歳。昭和5年(1930年)自宅で死去。咽頭癌。

5月12日
青木昆陽、享年71歳。元禄11年(1698年)
秋田雨雀、享年79歳。昭和37年(1962年)結核と老衰のため自宅で死去。

5月11日
脇屋義助、享年38歳。興国3年、康永元年(1342年)病没。
土方歳三、享年34歳。明治2年(1869年)箱館で戦死。
萩原朔太郎、享年57歳。昭和17年(1942年)急性肺炎により世田谷の自宅で死去。
小泉信三、享年78歳。昭和41年(1966年)。心筋梗塞。

5月10日
二葉亭四迷、享年46歳。明治42年(1909年)シンガポール沖ベンガル湾洋上にて死去。腹膜炎。

5月9日
フリードリヒ・フォン・シラー、享年45歳。ザクセン・ヴァイマルの自宅で病死。
岩野泡鳴、享年47歳。大正9年(1920年)東京帝大病院で病死。腸チフス。

5月8日
テレサ・テン、42歳。1995年タイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。

5月7日
真田信繁、享年49歳。慶長20年(1615年)大坂夏の陣で戦死。

5月6日
足利義満、享年49歳。応永15年(1408年)病死。

5月5日
ナポレオン1世、享年51歳。1821年セントへレナ島で死去。胃癌。

5月4日
藤原旅子、享年30歳。桓武天皇の夫人、藤原百川の長女。延暦7年(788年)死亡。
嘉納治五郎、享年71歳。昭和13年(1938年)カイロからの帰途、氷川丸船中で死去。肺炎。

5月3日
和田義盛、享年67歳。建暦3年(1213年)和田合戦で敗死。
柳宗悦、享年72歳。昭和36年(1961年)脳溢血。
高橋和巳、享年39歳。昭和46年(1971年)結腸がんのため東京女子医科大学病院で死去。

5月2日
レオナルド・ダ・ヴィンチ、享年67歳。1519年フランス、アンボワーズ近郊のクルーの館で死去。
福田英子(景山英子)、享年62歳。昭和2年(1927年)死去。

5月1日
萬鉄五郎、享年41歳。昭和2年(1927年)神奈川県茅ヶ崎の自宅にて死去。結核。

4月30日
源義経、享年31歳。文治元年(1189年)衣川の戦いにて死去。

4月29日
アルフレッド・ヒッチコック、享年80歳。1980年、ロサンゼルスにて死去。腎不全。

4月28日
中里介山、享年59歳。昭和19年(1944年)東京都阿伎留病院にて死去。腸チフス。

4月27日
ソクラテス、享年70歳。紀元前399年、アテネの獄中で自殺。

4月26日
足利基氏、享年28歳。正平22年(1367年)病死。死因は麻疹とされる。

4月25日
近藤勇、享年33歳。明治元年(1868年)東京・板橋で斬首さる。

4月24日
紀伊国屋文左衛門、享年66歳。享保19年(1734年)。

4月23日
ウィリアム・シェイクスピア、享年52歳。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症らしい。ストラトフォード。

4月22日
リチャード・ニクソン、享年81歳。ニューヨークシティで脳卒中で死去。

4月21日
ダニエル・デフォー、享年71歳。1731年ロンドンで死去。

4月20日
下村湖人、70歳。昭和30年(1955年)東京都新宿区の自宅で死去。脳軟化症と老衰。

4月19日
チャールズ・ダーウィン、73歳。1882年イギリス・ケント州ダウン村の自宅で死去。

4月18日
孔子、享年71歳。魯国哀公16年(紀元前479年)、魯で没した。

4月17日
徳川家康、享年73歳。元和元年(1616年)駿府城にて死去。胃がん。

4月16日
川端康成、享年72歳。昭和47年(1972年)神奈川県逗子市にてガス自殺。

4月15日
里見成義、享年57歳。永正元年(1504年)没。安房里見氏2代目当主。南総里見八犬伝に名前は義成(よししげ)として登場するが実在は不明。

4月14日
高杉晋作、享年27歳。慶応3年(1867年)下田市桜山にて肺結核のため死去。

4月13日
草壁皇子、享年27歳。持統天皇3年(689年)
伊能忠敬、享年73歳。文化15年(1818年)
石川啄木、享年26歳。明治45年(1912年)小石川区久堅町にて肺結核のため死去。

4月12日
武田信玄、享年53歳。天正元年(1573年)病没。

4月11日
木村正辞(国文学者)、享年87歳。大正2年(1913年)腎炎で死去。
昭憲皇太后、享年64歳。大正3年(1914年)崩御。狭心症。

4月10日
川端龍子、享年80歳。昭和41年(1966年)老衰。
桑原武夫、享年83歳。昭和63年(1988年)病没。

4月9日
藤原家隆、享年80歳。嘉禎3年(1237年)大阪の夕陽丘で死没。
足利義稙、享年56歳。大永3年(1523年)徳島県鳴門で死没。
武者小路実篤、享年91歳。昭和51年(1976年)狛江の慈恵医大第三病院にて死去。尿毒症。

4月8日
結城秀康、享年34歳。慶長12年(1607年)死去。梅毒。
吉田東洋、享年46歳。文久2年(1862年)土佐帯屋町にて暗殺さる。
高浜虚子、享年85歳。鎌倉由比ヶ浜の自宅で死去。脳溢血。

4月7日
弓削道鏡、享年72歳。宝亀3年(772年)栃木県下野市で死去。
浅野長政、享年68歳。慶長16年(1611年)茨城県桜川市で死去。

4月6日
大田南畝、享年75歳。文政6年(1823年)登城の道での転倒が元で死去。
小栗上野介忠順、享年42歳。慶応4年(1868年)群馬県高崎で斬首。

4月5日
九条兼実、享年59歳。建永2年(1207年)
高田屋嘉兵衛、59歳。文政10年(1827年)背中にできた腫物が悪化。

4月4日
北条時宗、享年34歳。弘安7年(1284年)死因は結核とも心臓病ともいわれ明らかでない

4月3日
快川紹喜、享年80歳。天正10年(1582年)恵林寺において焼死。
隠元隆琦、享年80歳。延宝元年(1673年)没。
小林古径、享年74歳。昭和32年(1957年)慶応病院においてパーキンソン病と脳軟化症のため死去。

4月2日
一条兼良、享年78歳。文明13年(1481年)病没。
田沼意知、享年36歳。天明4年(1784年)江戸城内において佐野政信に殺害される。
高村光太郎、享年74歳。昭和31年(1956年)東京中野のアトリエで病没。結核。

4月1日
北條経時、享年23歳。寛元4年(1246年)死去。
岩倉具定、享年58歳。明治43年(1910年)死去。
西東三鬼、享年62歳。昭和37年(1962年)葉山で死去。

3月31日
尾崎一雄、享年83歳。昭和58年(1983年)小田原で死去。

3月30日
大槻玄澤、享年69歳。文政10年(1829年)江戸で病没。
野上彌生子、99歳。昭和60年(1985年)老衰のため成城の自宅で死去。

3月29日
八百屋お七、享年16歳。天和3年(1683年)鈴ヶ森で火刑。
立原道造、享年24歳。昭和14年(1939年)中野区江古田の市立療養所で病没。結核。

3月28日
内村鑑三、享年69歳。昭和5年(1930年)新宿区北新宿の柏木の自宅で病没。
椎名麟三、享年61歳。昭和48年(1973年)脳内出血のため世田谷区松原の自宅で死去。

3月27日
懐良親王、享年54歳。弘和3年・永徳3年(1383年)筑後矢部で病没。
広瀬武夫、享年35歳。明治37年(1904年)旅順港閉塞作戦において福井丸で戦死。

3月26日
足利義尚。享年23歳。延徳元年(1489年)近江鈎の陣中で病死。
与謝野鉄幹、62歳。気管支カタルがもとで慶應義塾大学病院で死去。
室生犀星。享年72歳。昭和37年(1963年)東京都港区虎ノ門病院で死去。肺癌。

3月25日
蘇我倉山田石川麻呂。大化5年(649年)没、享年不詳。山田寺(奈良県桜井市)で自殺。
蓮如、享年84歳。明応8年(1499年)、京都・山科本願寺で死去。

3月24日
平時子、享年59歳。文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて入水。

3月23日
水上滝太郎、享年53歳。昭和15年(1940年)東京で病没。脳溢血。

3月22日
新美南吉、享年29歳。昭和18年(1943年)愛知県半田市の自宅で病没。結核。
藤原義江、享年77歳。昭和51年(1976年)日比谷病院で病没。脳血栓症。

3月21日
空海、享年62歳。承和2年(835年)高野山で入定。
柳生十兵衛、享年44歳。慶安3年(1650年)急逝、死因は不明。
田中絹代、享年67歳。昭和52年(1977年)順天堂病院で没。脳腫瘍。

3月20日
黒田如水、享年59歳、慶長9年(1604年)京都伏見の黒田邸で病没。
上杉景勝、享年69歳。元和9年(1623年)米沢城で病没。

アイガー初登頂

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  本日は「山の日」。山の恩恵に感謝し、自然に親しむ祝日として、2016年から施行された。ところが、なぜ8月11日なのか、政府や団体は明確に理由を述べていないので不明であるが、通説では「八」の字が山の形にみえるため「8」、木が立ち並ぶイメージから「11」とある。西欧諸国では、アイガー初登頂の記念日として知られているもよう。2017年は「山の日」が金曜日なので土日と続いて三連休になる。

   スイスのアイガーは19世紀初頭、登頂不可能な山と考えられていた。しかし1858年8月11日、アイルランド人のチャールズ・バーリントン(1834-1901)は2人の山岳ガイド、クリスチャン・アルマー(1826-1898)、ペーター・ボーレンと一緒にアイガー初登頂に成功した。

05     1921年に槇有恒(1894-1989)は、それまで数回試みられて成功をみなかったグリンデルヴァルトから北東稜を経ての登攀に成功した。(Eiger,Charles Barrington,Christian Almer,Peter Bohren)

2018年8月10日 (金)

河川の語源

Fukei09919     人にそれぞれ名前があるように、河川にもそれぞれ古くから名前がある。河川の色から名づけられたのは中国の黄河、日本の緑川(熊本県)、白川(熊本県)、黒川(福島・栃木県)、赤川(山形県)など。

    アメリカのミシシッピ川(Mississippi)はインディアン語の「メスシピ」(Messipi)「水の父」が語源である。その支流オハイオ川(Ohio)はインディアン語地名で「美しい川」「丘と丘」の意味がある。ミズーリ川(Missouri)は「濁れる水」の意味。セントローレンス川(St.Lawrence)は1535年8月10日フランスの探検家ジャック・カーターがこの地を発見。当日が聖ローレンスの祝日にあたっていたのでこの名がつけられた。

    ヨーロッパ大陸を北流するライン川(Rhein)はケルト語で「川、水」を意味する語から生まれたとするのが定説である。イタリア北部を流れるポー川(Po)はローマ時代にはパドス川(Padus)と呼ばれ、これが転化してポーになった。パドスは、リグール語のボデンクス(bodincas)「非常に深い」か、ボデゴス(bodeghos)「底なしの」が語源であるといわれる。

   シベリア西部を流れるオビ川(Ob')は、上流地方の土着民が話したペルシア語の普通名詞アブ(ab)「水、川」と考えられる。この語が、同系の言葉タジク語に入り、アブ→オビとなり、川の名前に用いられた。

    南アメリカ大陸を南下する大河のうち、パラグアイ川の下部よりラプラタ川の上流部までの間を、パラナ川(Parana)と称する。インディアン語のパラpara「川」が語源である。

    中国東北部とロシアのシベリア国境を流れるアムール川(Amur)は、ツングース満州語のアマール(amar)「川」が語源。モンゴル人は、この川をハラムレン(Kharamuren)「黒い川」、中国人は黒龍江、黒河と呼んでいる。

     東シベリアを流れ北極海に注ぐレナ川(Lena)。原住民エベンケ族は、川をエリヨエネ(Eljoene)と呼んでいた。16世紀にロシア人がシベリアへ進出すると、この地名は、ロシア語に表記され、短縮してレナ(Lena)と呼ばれるようになった。

2018年8月 9日 (木)

世界の戦争と平和

  今日、長崎は「原爆の日」。原爆死没者の冥福と核兵器廃絶を祈った。日の丸、君が代の大合唱。これまでの狭い国民国家の枠にとわれたものの見方や考え方が、大震災のあとますます強固になりつつある。

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今宵も映画で楽しく

 「未知への飛行」米ソの核戦争SF。シドニー・ルメット監督。ヘンリー・フォンダ。▽「忘れられない人」(1993)これでもかというほどベタなメロドラマ。クリスマスのもみの木、ニューヨーク、ポロ、難病、北極星。「ある愛の詩」みたいな。クリスチャン・スレーター、マリサ・トメイ。▽「ドクトル・ジバコ」(2002)キーラ・ナイトレイ、ハンス・マシソン、サム・ニール。テレビシリーズ。▽「跪く女」(2013)スウェーデン。グスタフ・スカルスガルト、アンナ・オストレーム、レベッカ・ファーガソン。「欲望の帝国」(2010)エルサ・パタキー。▽「ピュア純潔」アリシア・ヴィキャンデル。▽「お転婆三人娘」(1957)ペギー葉山、芦川いずみ、浅丘ルリ子。安部徹が二枚目役。同年「嵐を呼ぶ男」から本格的に悪役俳優になったらしい。▽「わたしの頭の中の消しゴム」チョン・ウソン、ソン・イエジン。永作博美のドラマがもと。缶コーラ、ファミリー・マート。名セリフ「許すには、憎しみに一つ部屋を与える」

長崎原爆の日

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   1945年8月9日、午前11時02分、長崎に原爆投下。田中キヲ(1915-2006)は、長崎市内の爆心地から2キロほど離れた水田で被爆した。翌日、長崎市内の臨時救護所で、放心した表情で生後4か月の次男に授乳しながら、治療の順番を待っている姿が撮影された。写真は旧日本陸軍の報道部員、山端康介が8月10日、長崎市で撮影し、「苦痛にたえながら治療の順番を待つ母子」として長崎原爆資料館に展示されている。

18145530614358495900    8月は戦争や平和について考える機会が多くある。私は戦後生まれで、戦争体験はないが、日本がアジア諸国に対しての軍事行動や、また唯一の原爆の被爆国であることを、世代の違いに関わらず、記憶していかなけれならないと考える。8月はドキュメンタリーも数多く放送される。「我が闘争」(1960年スウェーデン)は第一次世界大戦の混乱からナチスの台頭、ナチスの政権奪取から敗戦、ヒトラーの死までを、描いている。「夜と霧」(1955年)はアウシュビッツの大量虐殺の悲劇をミシェル・ブーケの静かな語り口の中で映像化している。NHKドキュメンタリー「幻の原爆ドームナガサキ戦後13年目の選択」12日放送。かつて長崎にも原爆ドームがあった。爆心地近くにあった教会・浦上天主堂だ。戦後、原爆の悲惨さを語る遺構として、保存する方針だったが、突如、田川務長崎市長と教会のトップが取り壊しを主張、市民の反対運動もむなしく、姿を消すことになった。決断の背景としては、米国側から教会再建の資金援助の条件として教会遺構の撤去が求められたからといわれる。

ヘッセ忌日

11030608hermannhesse     ヘルマン・ヘッセの小説に『青春はうるわし』という短編がある。夏休み、ふるさとに帰った若者が両親や弟妹とひと夏をすごす。青年は美しい少女に夢中になるが、彼女には婚約者がいることを知る。やがて妹の友だちの、あたたかい心の少女にひかれていくが、この恋もやぶれて、傷心のまま、故郷を去る。すべて美しいものは、はかなく、過ぎてから気がつくものなのだろうか。あの夏の暑さのように。1962年8月9日、ヘッセは85歳でこの世を去った。(Herman Hesse)

2018年8月 8日 (水)

ニクソン大統領辞任

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2018年8月 7日 (火)

バナナの日

Bananaman   きょうはバ(8)ナナ(7)の語呂合わせで「バナナの日」。スイカは中国語でも「西瓜」と書くが、バナナは「香蕉」と書く。手足の指を意味するアラビア語の「バナーン(banan)」が語源といわれる。

   最初にバナナを食べた人は誰だろう?バナナは熱帯のアフリカでは欠かせない食料で、初期の王国はバナナを栽培するようになってから繁栄した。もともとバナナは、アフリカの東海岸の住民が東南アジアの人びとと出会い、交流をもった後、インド洋をわたってアフリカに入ってきた、というのが通説だった。つまり原産はニューギニアで、そこからアジアに広まり、紀元後1000年くらいのあいだに、アジアの人ひどがバナナを持ってマダガスカルに定住、その後、アフリカ大陸にわたった、と考えられてきたのだ。しかし2000年、カメルーンでおこなわれた調査から、バナナはもっと早く、紀元前500年ごろからすでにアフリカにあったらしいとわかった。これは、それまでのバナナの歴史の通説をぬりかえるほどの大発見だ。

   日本人で最初にバナナを食べたのは安土桃山時代、織田信長と一般にいわれるが、本格的にバナナが日本に輸入されたのは明治36年頃で、台湾の商人が神戸に持ち込んだのが始まり。これが大量輸入されるようになったのは、明治41年以降で、その頃、台湾は日本の領土であったことと門司港が産地台湾と密接な関係にあって、大量に荷揚げされ市場が設けられた。門司の「バナナの叩き売り」は、熟れて売り物にならないバナナを神戸に着く前にさばきたくて売ったのが始まり。(8月7日)

2018年8月 6日 (月)

東西文明の交流・シルクロード文献目録

101011160122625 世界の諸地域にはそれぞれの独特の文明が発展してきたが、それらは孤立したものでなく、現代から見れば緩慢ではあるが、政治・経済・文化にわたって伝播・交流をくりかえし、互いに他地域の文明と直接・間接に関連しながら現代にいたっている。古くは石器時代末期から青銅器初期にわたる彩陶文化があげられるが、ここでは甘粛省敦煌市にある仏教遺跡「敦煌莫高窟」の事例をふりかえってみよう。莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。開掘され始めたのは五胡十六国時代の355年あるいは366年とされ、その後、元代に至るまで1000年に渡って掘り続けられた。しかし永い歳月がたって、敦煌は忘れ去られたが、1900年5月26日に王円籙が発見し、このニュースは世界中に知れ渡った。オブルーチュフ(ロシア、1905)を初めとして、スタイン(イギリス、1907、1914)、ペリオ(ランス、1908)、ウォーナー(アメリカ、1922)等が敦煌写本の大部分を莫高窟から持ち去ったのである。

 敦煌を経て新疆に入ると、道は3つに分かれる。天山山脈を挟んで天山北路、天山南路、そして西域南道である。タクラマカン砂漠の北をトルファン、ウルムチ、コルラ、クチャ、アクスを経てカシュガルに到る天山南路を行きユーラシア大陸を横断する。

新疆探検記 橘瑞超 民友社 1912
西域発見の絵画に見えたる服飾研究 原田淑人 東洋文庫 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 大阪・懐徳堂夏期講座 1925
鳴沙余韻 敦煌出土未伝古逸仏典開宝 矢吹慶輝編著 岩波書店 1930
西域文明史概論 羽田亨 弘文堂 1931
塞外民族 岩波講座東洋思潮12  白鳥庫吉 岩波書店 1935
新西域記 大谷探検隊報告 全2巻 上原芳太郎編 有光社 1937
敦煌秘籍留真 神田喜一郎 小林写真製版所 1938
十三世紀東西交渉史序説 岩村忍 三省堂 1939
西康西蔵踏査記 劉曼卿著 松枝茂夫、岡崎俊夫訳 改造社 1939
西域画聚成 結城素明 審美書院 1941
ゴビ沙漠探検記 澤壽次 東雲堂 1943
古代絹街道 アルベルト・ヘルマン著 安武納訳 霞ヶ関書房 1944
支那西域経綸史 上 曾問吾著 野見山温訳補 京都・東光書林 1945
大夏と月氏 駒井義明 京都謄写版 1953
ゴビ砂漠探検記 世界探検紀行全集11 スウェン・ヘディン著 梅棹忠夫訳 河出書房 1955
西域経営史の研究 伊瀬仙太郎 日本学術振興会 1955
中国西域経営史研究 伊瀬仙太郎 :巌南堂書店 1955
東西文化の交流 アテネ文庫 伊瀬仙太郎 弘文堂 1955
古代天山の歴史地理学的研究 松田寿男 早稲田大学出版部 1956
西域 中国の名画 熊谷宣夫 平凡社 1957
敦煌 中国の名画 長広敏雄 平凡社 1957
敦煌仏教資料 西域文化研究 西域文化研究会編 法蔵館 1958
敦煌 井上靖 講談社 1959
敦煌文献研究論文目録 東洋文庫内 敦煌文献研究連絡会編 1959
東方見聞録 青木一夫訳 校倉書房 1960
ゴビ沙漠綺譚 危険を買う8000キロの旅 アーサー・ブリーン著 山崎ミドリ訳 内田老鶴圃 1961
シルクロード 東西文化のかけ橋 長澤和俊 校倉書房 1962
ゴビ砂漠探検記 秘境探検双書 ロジェトベンスキー著 南信四郎訳 ベースボール・マガジン社 1963
ゴビ砂漠横断 ヘディン中央アジア探検紀行全集6 スウェン・ヘディン著 羽島重雄訳 白水社 1964
西域佛典の研究 敦煌逸書簡譯 宇井伯寿 岩波書店 1969
西域 グリーンベルト・シリーズ 現代教養文庫 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1963
敦煌美術の旅 北川桃雄 雪華社 1963
敦煌資料 1 中国科学院歴史研究所資料室 大安 1963
シルクロードと正倉院 林良一 平凡社 1966
西域 世界の文化15 水野清一編 河出書房新社 1966
シルクロード踏査記 角川新書 長沢和俊 角川書店 1967
スタイン敦煌文献及び研究文献に引用紹介せられたる西域出土漢文文献分類目録初稿 非仏教文献之部 文書類Ⅱ 東洋文庫敦煌文献研究委員会 1967
西域 大世界史10 羽田明 文芸春秋 1968
西域 カラー版世界の歴史10 羽田明 河出書房新社 1969
西域仏典の研究 敦煌逸書簡訳 宇井伯寿 岩波書店 1969
埋もれたシルクロード 岩波新書 V・マッソン著 加藤九祚訳 岩波書店 1970
敦煌学五十年 神田喜一郎 筑摩書房 1970
シルクロードの詩(うた) 森豊 第三文明社 1971
西域 筑摩教養選 井上靖・岩村忍 筑摩書房 1971
敦煌の文学 金岡照光 大蔵出版 1971
絲綢之路 漢唐織物 新彊維吾尓自治区博物館出土文物展覧工作組編 文物出版社 1972
敦煌の民衆 その生活と知恵 東洋人の行動と思想8 金岡照光 評論社 1972
明代西域史料 明実録鈔 明代西域史研究会 京都大学文学部内陸アジア研究会 1974
おばあさんシルクロードを走る 森村浅香 日本交通公社 1975
アレキサンダーの道 アジア古代遺跡の旅 井上靖 文藝春秋 1976
古代遊牧帝国 中公新書 護雅夫 中央公論社 1976
敦煌出土于闐語秘密教典集の研究 論説篇・賢劫佛名経と毘盧舎那仏の研究 田久保周誉著 春秋社 1976
敦煌の旅 陳舜臣 平凡社 1976
シルクロード地帯の自然の変遷 保柳睦美 古今書院 1976
シルクロードのドラマとロマン 青江舜二郎 芙蓉書房 1976
遺跡の旅・シルクロード 井上靖 新潮社 1977
西域物語 新潮文庫 井上靖 新潮社 1977
西域紀行 シルクロードの歴史と旅 藤堂明保 日本経済新聞社 1978
シルクロード探検 大谷短剣隊  長沢和俊編 白水社 1978
敦煌千仏洞 萩原正三編著 シルクロード 1978
敦煌道経 目録編 大淵忍爾 福武書店 1978
敦煌の美百選 円城寺次郎編 日本経済新聞社 1978
シルクロード史研究 長澤和俊 国書刊行会 1979
シルクロードと仏教文化 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1979
チムール帝国紀行 クラヴィホ著 山田信夫訳 桃源社  1979
敦煌道経 図録編 大淵忍爾 福武書店 1979
熱砂とまぼろし シルクロード列伝 陳舜臣 角川書店 1979
シルクロード 全6巻 日本放送出版協会  1980
シルクロードと仏教文化 続 岡崎敬編 東洋哲学研究所 1980
シルクロードと仏教 金岡秀友・井本英一・杉山二郎著 大法輪閣 1980
シルクロードのアクセサリー 砂漠の華 並河萬里 文化出版局 1980
敦煌の自然と現状 講座敦煌1 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の歴史 講座敦煌2 榎一雄編 大東出版社 1980
敦煌の石窟芸術 潘絜茲編著 土居淑子訳 中央公論社 1980
敦煌の美術 莫高窟の壁画・塑像 常書鴻ほか 大日本絵画 1980
敦煌莫高窟 全5巻 岡崎敬・鄧健吾編 平凡社 1980-1982
シルクロード・絲網之路6 民族の十字路(イリ・カシュガル) 司馬遼太郎・NHK取材班 日本放送出版会 1981
シルクロードと日本 雄山閣 1981
シルクロードの文化交流 その虚像と実像 大庭脩編 同朋舎 1981
西域 人物と歴史 教養文庫 井上靖・岩村忍 社会思想社 1981
西安から敦煌へ シルクロード今と昔・上 車慕奇 小学館 1981
敦煌の絵物語 東方選書8 金岡照光 東方書店 1981
日本に生きるシルクロード 仏教・音楽・風俗の源流を訪ねて 鎌田茂雄ほか 廣済堂出版 1981
熱砂の中央アジア ユーラシア・シルクロード1 加藤九祚・加藤久晴 日本テレビ放送網 1981
魅惑のシルクロード(講談社ゼミナール選書) 長沢和俊ほか 講談社 1981
わたしのシルクロード NHK編 平山郁夫ほか 日本放送協会 1981
海のシルクロード 絹・香料・陶磁器 藤本勝次ほか 大阪書籍 1982
シルクロードと日本文化 森豊 白水社 1982
シルクロードに生きる  踏査記録 森田勇造 学習研究社 1982
西域美術1~2 敦煌絵画 大英博物館スタイン・コレクション ロデリック・ウィットフィード 上野アキ訳 講談社 1981
シルクロードの化粧史 シルクロード史考察18  森豊 六興出版 1982
トルキスタンへの旅 岩波新書 タイクマン著 神近市子訳 岩波書店 1982
敦煌莫高窟壁画 中国の文様3 上海人民美術出版社 美乃美 1982
敦煌石窟 美とこころ 田川純三 日本放送出版協会 1982
敦煌石窟 敦煌文物研究所編 鄧健吾文 平凡社 1982
敦煌石窟寺院 世界の聖域別巻2 柳宗玄、金岡照光 講談社 1982
敦煌の風鐸 常書鴻著 秋岡家栄訳 学習研究社 1982
果物のシルクロード 城山桃夫 八坂書店 1983
シルクロード踏査行 長沢和俊 くもん出版 1983
シルクロードの文化と日本 長沢和俊 雄山閣 1983
敦煌書法叢刊 全29冊 拓本 饒宗頤編 二玄社 1983-84
敦煌禅宗文献の研究 田中良昭 大東出版社 1983
敦煌・西蔵・洛陽 美と愛の旅1 瀬戸内寂聴 講談社 1983
シルクロードの風 カメラ紀行 平山美知子写真、平山郁夫挿画 読売新聞社 1984
西域紀行 旺文社文庫 藤堂明保 旺文社 1984
敦煌を語る 池田大作 角川書店 1984
アジアの奥地へ(西域を行く) 上 ユーリ・レーリヒ著 藤塚正道・鈴木美保子訳 連合出版 1985
シルクロードの謎 前嶋信次 大和書房 1985
塞外民族史研究 上下 白鳥庫吉 岩波書店 1986
三蔵法師の旅を旅する 杉本茂春 編集工房ノア 1986
.シルクロード考古学  全4巻 樋口隆康 法蔵館 1986
西安からカシュガルへ 旺文社文庫 長沢和俊 旺文社 1986
敦煌物語 中国の都城3 集英社 1987
敦煌資料による中国語史の研究 東洋学叢書 高田時雄 創文社 1988
敦煌・吐魯蕃発見社会経済史料集3(全2冊) 東洋文庫編 汲古書院 1988
ならシルクロード博覧会公式ガイドブック 財団法人なら・シルクロード博協会 1988
私のシルクロード 細呂木千鶴子著 大阪書籍 1988
流砂の楼蘭 玉木重輝 白水社 1988
敦煌の伝説 上下 陳鈺編 東京美術 1989
シルクロードの謎 光文社文庫 町田隆吉 光文社 1989
敦煌の文学文献 講座敦煌9 金岡照光編 大東出版社 1990
敦煌仏教の研究 上山大峻 法蔵館 1990
シルクロードの開拓者 張騫 田川純三著 筑摩書房 1991
西域 後藤正治写真集 日本カメラ社 1992
西域仏跡紀行 井上靖 法蔵館 1992
漢代以前のシルクロード 川又正智 雄山閣 2006
図説シルクロード文化史 ヴァレリー・ハンセン著 田口未和訳 原書房 2016
ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎 山田勝久、児島建次郎、森谷公俊 雄山閣 2016
シルクロードに仏跡を訪ねて 大谷探検隊紀行 本多隆成 吉川弘文館 2016

広島原爆忌

A99d8edf911ca2b2f86e74789f5e3501     1945年8月6日、午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイ号が、広島市上空で世界初の原子爆弾リトル・ボーイ(操縦士ポール・ティベッツ)を投下した。原爆は、凄まじい熱線と爆風による衝撃で広島市街は一瞬にして壊滅した。原爆によって死亡した人の数については、当時十分な調査が不能で、正確な数は現在も不明である。昭和20年12月末にまでに、約14万人、計24万人以上が死亡したと推計されている。

原爆の日の病む手足洗ひをり 石川桂郎

2018年8月 5日 (日)

運命の赤い糸の伝説について

   昔から言い伝えで、結婚する男と女は、生まれたときからお互いの小指と小指が目に見えない赤い糸で結ばれているといわれている。この「赤い糸」の伝承は、いかにも西洋風に思えるが、ヨーロッパにはそのような伝承はなく、実は古代中国にあると考えられる。「南方熊楠全集3」の「月下氷人」の項に類似例が載っている。「唐の宰相張嘉、五女におのおの一糸を持てのれんのかげにならしめ、郭元振して前(すすんで)牽きえた者を妻(めと)らしめると、五色の糸のうち紅線(べにすじ)を引いて第三女を得た、とある。福引で嫁取りとは捌けた仕方だ」この話は『太平広記』に収められた唐代の「続玄怪緑」(李復言)の「定婚店」がもととなっている。「古事記」「日本書紀」にも「三輪山伝説」という話があり、赤い糸のルーツとする説もある(「雑学王 話のネタ大事典」河出書房新社 97p)

段ボール箱とロバート・トンプソン

Pappkarton1    本日は「ハコの日」。厚紙は19世紀のイギリスで作られたが、1856年これをシルクハットの内側に巻き、汗取り用として使ったところ大ブームとなった。1871年、アメリカのアルバート・ジョーンズが包装材として段ボール紙を使った。その数年後、1874年オリヴァー・ロングが片面段ボールを開発した。1880年、現在と同じような形の段ボール箱がロバート・H・トンプソンによって開発された。日本では1909年、井上貞次郎(1881-1963)が東京で三盛社を創業、国産ダンボール紙を作った。(cardboard box,Albert Jones,Oliver Long,Robert H.Thompson、8月5日)

2018年8月 4日 (土)

テーマ曲

   明日から熱闘甲子園がはじまる。100回を記念したNHKテーマソング福山雅治の「甲子園」を聴く。アルプススタンドに大勢のきれいな女子高生たちが応援する。だが高校野球ソングといえば「君よ八月に熱くなれ」が思い出される。とくに高岡健治が歌うオリジナル版は素朴で男らしくて高校野球に相応しいもので一番いい。テーマソングといえば三波春夫の「東京五輪音頭」まだこれを超える2020五輪曲は聞いていない。70年万博の「世界の国からこんにちは」も三波春夫の曲が良く知られている。先日この曲を歌った叶修二さんの訃報が届いた。

本と読書に関する名言・ことわざ・文献書誌学

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   印刷術が広くゆきわたるまで、写本図書の利用は一握りの学者に限られていた。刊本の図書がその数を増すにつれて、書物は万人のためにあり、民主主義の精神にとって重要であることがわかってきた。ここでは、古今東西の本と読書に関する格言・箴言・名言・文献を集める。

有益な書物とは、読者に補足を要求せずにはおかれぬような書物のことである。(ボルテール)

三日、書を読まざれば、語言味わいなし。(世説新語)

単に知るのみならず、その知識に従って行動せよ。(フィヒテ)

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。(ハイネ)

人生の至楽は読書にあり。(永井荷風)

書物はひもとかなければ、一片の木片にすぎない。(イギリスのことわざ)

A closed mind is like a closed book,just a block of wood.

閉じられた本は塊でしかない

A book that is shut is but a block.

すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。(デカルト)

書を読みて栄える者を見たり、書を読みて落ちぶれる者を見ず。(金言童子教)

機知に富みうちとけた言葉は永久に生命を持つ。(ゲーテ)

身体には鍛錬、心には読書。(アディソン)

この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる。(ヘッセ)

書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。(キケロ)

私の実際的な読書の法則は三つある。
1.一年を経過していない本はどれも読まないこと
2.有名な本のほかは読まないこと
3.好きな本のほかは読まないこと(エマーソン)

私は人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。(アナトール・フランス)

人生は短い。この書物を読めばあの書物は読めないのである。(ラスキン)

人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。(スマイルズ)

読書百遍、義自(ぎおのずから)見(あら)わる。(魏志)

万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出されるようになる。(董其昌)

読書とは、著者の魂との邂逅である。(亀井勝一郎)

読書は人間としての純粋な時間である。(亀井勝一郎)

インドの全財宝をあげても、読書の楽しみには換え難い。(エドワード・ギボン)

書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。(フラア)

読書のほんとうの喜びは、なんどもそれを読み返すことにある。(ロレンス)

読書に費やしただけの時間を、考えることに費やせ。(アーノルド・ベネット)

書物は一冊一冊が一つの世界である。(ワーズワース)

用例なき辞書は骸骨である(ヴォルテール)

書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて自己改善する最良の方法である。(ソクラテス)

本は知性のさまざまな機能に働きかける(フランシス・ベーコン)

おろかな学者は、おろかな馬鹿者よりも、ずっとおろかである(モリエール)

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   書物に関する文献目録

図書の部
倭板書籍考 幸島宗意撰 1702
官板書籍解題略 杉山精一訳 1847
日本書籍考 林羅山撰 1850
文芸類纂 榊原芳郎 1878
古梓一覧 西村兼文 1882
本朝書籍刊考 黒川真頼 1895
日本訪書誌 楊守敬 1897
国書解題 佐村八郎 1897
日本印書考 中根粛治 1899
明治出版史話 三木佐助 1901
古文旧書考 島田翰 民友社 1905
漢籍解題 桂五十郎 明治書院 1905
近藤正斎全集 近藤守重 1907
日本古刻書史 朝倉亀三 1907
徳川幕府時代書籍考 牧野善兵衛 1912
朝鮮図書解題 朝鮮総督府 1914
江戸物語 和田維四郎 1915
慶長以来書賈集覧 井上和雄編 1916
嵯峨本考 和田維四郎 1916
訪書余禄 和田維四郎 1918
製本術 島屋政一 1918
図書学概論 田中敬 冨山房 1924
解題叢書 経籍訪古志 廣谷雄太郎 廣谷国書刊行会 1925
典籍叢談 新村出 岡書院 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 懐徳堂 1925
書庫之起原 植松安 間宮書店 1927
京阪書籍商史 蒔田稲城 1928
書物装釘の歴史と実際 庄司浅水 1929
思想名著解題 春秋社 1929
本邦書誌学概要 植松安 図書館研究会 1929
書物の敵 庄司浅水  1930
書誌学とは何か 寿岳文章 ぐろりあそさえて 1930
装釘の常識 三村清三郎 岡書院 1930
日本訪書志補 王重民 1930
修訂建武年中行事註解 和田英松 明治書院 1930
中国図書館事業的史的研究 馬宗榮 中華学藝社編 商務印書館 1930
製本術 ブレガー著 赤坂・庄司訳 ブックドム 1931
日本蔵書印考 小野則秋 文友堂 1931
書誌学 小見山寿海 芸艸会 1931
宋元版の話 内藤虎次郎 名古屋市立図書館 1931
正徹本徒然草 川瀬一馬 文学社 1931
善本影譜 長沢・川瀬編 日本書誌学会 1931~35
影宋刊本御注孝経 長沢規矩也編 日本書誌学会 1932
好書雑載 高木文 井上書店 1932
西洋書誌学要略 橘井清五郎 図書館事業研究会 1932
粘葉考 田中敬 巌松堂 1932
成簣堂善本書目 川瀬・長沢 民友社 1932
成簣堂善本書影七十種 川瀬・長沢 民友社 1932
舊刊影譜 川瀬・長沢 日本書誌学会 1932
嵯峨本図考 川瀬・長沢 一誠堂  1932
漢籍解題1 漢文学講座2 長沢規矩也 共立社 1933
書誌学論考 長沢規矩也 松雲堂書店 1937
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1960
漢籍分類目録 集部東洋文庫之部 東洋学文献センター連絡協議会 東洋文庫 1967
書林清話 葉徳輝 世界書局 1968
書林掌故 葉徳輝等撰 中山図書公司 1972
書林清話・書林雑話 楊家駱主編 台湾・世界書局 1974
中国訪書志 阿部隆一 汲古書院 1976
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1979
図書の歴史と中国 劉国鈞著 松見弘道訳 理想社 1980
江浙蔵書家史略 呉辰伯 中華書局 1982
中国古代蔵書与近代図書館史料 春秋至五四前後 李希泌、張椒華編 中華書局 1982
書籍装幀芸術簡史 邱陵編著 黒龍江人民出版社 1984
目で見る本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 出版ニュース社 1984
造紙の源流 久米康生 雄松堂 1985
中国省市図書館概況 1919-1949 楊宝華・韓徳昌編 書目文献出版社 1985
書物に関する名句・名言・名文 エンカイリーディオン アリグザーンダー・アイアランド編 タングラム 1986
簡明中国古籍辞典 呉楓編 吉林文史出版社 1987
中国古代図書館事業史概要 来新夏 天津古籍出版社 1987
中国図書和図書館史 謝灼華編 武漢大学出版社 1987
中国図書の歴史 庄威著 吉村善太郎訳 臨川書店 1989
西洋図書の歴史 吉村善太郎 臨川書店 1990
中国蔵書史話 焦樹安著 商務印書館 1997
図書及び図書館史 寺田光孝ほか著 樹村房 1999
図説図書館の歴史 スチュアート・A・P・マレー 原書房 2011
写真でみる本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 日本図書センター 2011
中国目録学史 新・中国文化史叢書4 李端良 商務印書館

論文の部
写本時代と板本時代とに於ける支那書籍の存亡聚散 市村瓚次郎 史学雑誌第13編1・3号 1902
唐以前の図書 那波利貞 歴史と地理2-2  1918
支那における図書館事業 岡野一郎 支那研究5 1923
書帙の歴史 那波利貞 歴史と地理19-3・4・5 1927
支那書籍小史 1・2・3 長沢規矩也 書誌学1-4・5・6 1933
清代図書館発展史 譚卓垣著 西村捨也訳 図書館研究14(2)~(4) 1941
中国図書館の沿革及び現況 兪爽迷 書香128  1941
国立北京図書館の概況に就いて 法本義弘 支那文化雑攷 1943
毛沢東戸図書館 平和彦 読書春秋4-11 1953
中国図書館の揺籃時代 松見弘道 図書館界6-5  1954
中国の文教政策 内田幸一 日本及び日本人 1954
転期に立つ中国の図書館活動 図書館雑誌51-3  1957
記録の文化史 小倉親雄 図説世界文化史体系別巻 1961
武英殿輯聚珍版について 金子和正 ビブリア23   1962
年表図書館物語 矢島玄亮 東北地区大学図書館協議会誌13,14,15  1962-63
図書・図書館の歴史(断章) 中村初雄 早稲田大学図書館紀要4  1963
唐本の値段 餘自録 大庭脩 東洋史研究24-4  1966
洛図洛書の一考察 原田正己 早大・東洋文学研究6  1967
支那における図書館の誕生 長沢規矩也 書誌学11  1968
中国図書館学史序説 加納正巳 静岡女子大研究紀要3  1970
中国における著作意識の発達 石田公道 図書館界21-5~23・4 1970~71
香港の図書館 木村宗吉 日本歴史270  1970
古代中国図書史 木村靖 文化史学26  1971
図書館に就いて 内藤湖南 大阪朝日新聞明治33年11月29・30日 (内藤湖南全集3所収)  1971
北周の麒麟殿と北斉の文林館 山崎宏 鈴木由次郎博士古稀記念東洋学論叢所収 1972
清代の官書局の設置について 大西寛 長沢先生古稀記念図書学論集 1973
書禁と禁書 宮崎市定 アジア史研究2所収 1974
中国に於ける図書館事業史(1) 漢代の図書館事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要1  1976
中国本ものがたり1~8  劉国鈞著 松見弘道訳 東海地区大学図書館協議会誌22  1977~78
中国の図書館事情 各地の図書館を参観して1 中原ますえ びぶろす29-11  1978
中国における図書分類法 井坂清信 参考書誌研究17  1979
図書館起源小記 黎紅 広西大学学報1979年第3期 1979
秘閣図書の源流について 神田喜一郎 「芸林談叢」所収 1981
洛陽の紙価 小池秋羊 東西交渉1 1982
中国に於ける刻書事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要7 1982
禁書に関する二三の資料 長崎聖堂文書研究1 大庭脩 史泉40 1970
篠崎小竹旧蔵の「欽定四庫全書拾遺目録」について 大庭脩 近世大阪芸文叢談 1973

マリリン・モンローの死

Marilynmonroejfkgooglesearch   1962年のこの日、マリリン・モンローは謎の死を遂げ、いまだにその真相に関しては様々な説がある。この日は「プレイボーイ」誌のヌードを撮ることになっており、マリリンはカメラマンのラリー・シラーと打ち合わせたあと、午後からピーター・ローフォード邸でパーティに出かけ、途中で抜け出してブレントウッドの家に帰宅した。マリリンは夕方5時15分ごろ、かかりつけの精神分析医ラルフ・グリーソン博士に電話し、不眠を訴えた。博士に「近くの海岸へドライブでもしていらっしゃい」といわれ、メイドのユーニス・マレー夫人に「海へ行きたくないけれど、もっと近くにドライブしようかしら」といいながら、「おやすみなさい」と寝室へ入った。このときは、ふだんと変わった様子はなかったそうである。マレー夫人は「私は真夜中に寝ました。そのとき寝室に電気がついていましたが、気にもとめませんでした。しかし3時に目がさめたとき、まだつけっばなしになっていたので様子を見ようとしましたが、ドアには鍵がかかっていて返事がなく、胸さわぎがするので、庭に出てカーテンの間から部屋をのぞいてマリリンが死んでいるように思い、すぐグリーン博士を呼びました」数分後かけつけた博士は火かき棒でガラスを割り、中へ入った。電話器を片手に、マリリンはうつぶせになってねていた。肩までシーツがまきつけてあった。博士は「死んでいる」と思ったが、すぐに内科医エンゲルバーグ博士を呼びつけ、死を確認したあとで、午前4時20分、警察に電話した。警察によれば「外傷は全然なく、部屋は荒らされておらず、遺書らしいものはなかった、ベッドわきのテーブルには睡眠薬のビンがころがっていた。ミス・モンローは寝室に入ってまもなく、午後8時ごろ死亡したと思われる」発見されたとき、マリリンは彼女のトレード・マークであるシャネルの五番のほか、なにも身につけていなかった。すぐに検屍官が呼ばれた。安物のブルーの木綿の布に包まれた遺体は、検屍官のステーション・ワゴンにのせられ、近くのウェストウッド死体仮置場へ運ばれた。モンローは次のように登録されている。

検屍番号81128。姓名ノーマ・ジーン・ベイカー。白人、女性。年齢36歳。身長166.4㎝。体重53.2㎏。中肉中背のよく発達した肉体。この比率を拡大するとミロのヴィーナスになる。(8月4日)

2018年8月 3日 (金)

世界の鋏(はさみ)

   本日は「ハサミの日」。ハサミは紀元前1000年頃、古代ギリシア人が羊の毛を刈るために発明したらしい。日本には6世紀に中国を通して伝わった。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。「馬鹿と鋏は使いよう」とは「切れない鋏でも使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ」(大辞林)の意で、江戸時代に生まれた言葉らしい。(8月3日)

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スペインのティヘーラ(tijera) 16世紀頃

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 トルコ およそ2世紀頃
 

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 ハンガリー王国 17世紀



 

2018年8月 2日 (木)

「ヌ」事項索引インデックス

Photo 「ぬりかべ」夜道を歩く者の前に突然立ちはだかり、行く手を遮るという悪戯をする妖怪。▽「ヌクレオチド」ヌクレオシドにリン酸基が結合した物質。▽「布引の滝」(神戸市)は平安貴族が風雅を楽しんだ景勝地として「伊勢物語」第87段などでも広く知られている。▽「ヌーヴェル・ヴァーグ」1959年頃フランスに起こった映画運動。「新しい波」を意味する。代表作「いちこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしゃがれ」 ▽「ヌートリア」げっ歯目のイリネズミ科の獣。(ぬぬぬぬ)

ヌー(怒江)
ヌアクショット(モーリタニア)
ヌイイ条約
ヌーヴェル・ヴァーグ
鵺(ぬえ)
ヌエボラレド(メキシコ)
ヌオロ(イタリア)
額田王
ぬかに釘
ヌクアロファ(トンガ)
ヌクレイン
ヌクレオチド
ヌーシャテル(フランス)
ヌジャメナ(チャド)
淳足柵(ぬたりのき)
ヌドラ(ザンビア)
ヌートリア
沼河比売(ぬなかわひめ)
ヌニェス・デ・アルセ
沼波瓊音(ぬまなみけいおん)
布引の滝(神戸市)
ぬばたまの
ヌビア砂漠(エジプト)
ヌバール(フランス)
ヌーボー・ロマン
沼津市(静岡県)
沼間守一
ヌマ・ポンピリウス
ヌミディア
ぬりかべ
ヌルデ
ヌルハチ
ヌルミ
温湯温泉(ぬるゆおんせん)
ヌレデバ

伊闕仏龕碑

   唐の書道家、猪遂良45歳の時の楷書である。貞観15年(641)伊闕とは洛陽の南方にある龍門のことで、そこの石窟の賓陽洞の南の外壁の刻された摩崖碑を「伊闕仏龕之碑(いけつぶつがんのひ)」と呼ばれる。碑文の内容は太宗の第四子の魏王泰が生母の長孫皇后の追善のために、新たに石窟を造営したことを記したものである。

2018年8月 1日 (水)

始皇帝と万里の長城及び兵馬俑坑文献目録

Imageca9gxuul    中国を統一した秦王政は、王の称号をやめて皇帝と称した。彼が秦の始皇帝である。始皇帝は匈奴の侵入にそなえるため、戦国時代に北辺の燕・趙などが築いていた長城修復・連結した。いわゆる万里の長城といわれるものであるが、現在の長城は明代のもので、始皇帝の長城は版築とよばれた工法で、現在よりもはるか北方に位置し、煉瓦と石で築かれた明代の長城に比べて低い城壁であった。

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 龍文空心塼    陝西省咸陽市秦咸陽宮1号宮殿遺蹟出土

 始皇帝は貴族制度を打破し、法家思想を採用し、中央集権国家の確立に努めた。

皇帝制度 始皇帝が「王」という称号を改めて「皇帝」を名乗り始めた。煌々と輝く帝、すなわち「北極星」を意味する。(NHKスペシャル「中華文明の謎」) 三皇五帝から「皇帝」と称したとする説は誤り。一人称を「朕」といい、命令を「制詔」といい、墓を「陵」、居処を「宮」という。

郡県制度 全国を36郡に分け、それぞれの郡に長官として守、副長官として丞、軍の指揮官として尉、監察官として監(御史)などの官吏が中央から派遣される。この36郡は、その後さらに新領土が加わったことや、大郡を分けることによって増加し、48郡にされたといわれる。

思想統一 法家李斯の献策で、焚書坑儒を断行。

貨幣の統一 半両銭に統一。1個の重さは半両(1両は24銖、半両は12銖、約8g) 中央に四角の穴のある銅銭は基本形となった。

文字の統一 篆書には大篆と小篆の二種があり、前者は籀文ともいわれ、石鼓文はこの字で書かれている。李斯によって新たに制定されたのが小篆である。

度量衡の統一 秦量と秦権

交通路の整備 車軌を6尺(1.4m)に統一し、天子や貴人の通る馳道を巾50歩(70m)とする。また駅や亭を置き伝送に整備をおこなった。

対外政策 北方に将軍蒙恬を派遣し、匈奴を討伐。さらに旧六国の長城を補修して、東は遼東から西は臨洮までの万里の長城を築いた。南方では越を攻め、安南を平定し、桂林・象・南海の3郡を設置。

optin なぜ正月は1月か?

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    一年の最初の月を正月というのは、当たり前と思われるでしょうが、国土の広い中国では始皇帝の統一以前、各地でそれぞれの暦が存在していました。また時代によっても異なります。だいたい古代中国の暦は、夏暦、殷暦、周暦を三正といって、それぞれ歳首(としはじめ)、朔日(つきのはじめ)など違います。秦と楚とは3カ月ズレています。最初、秦は南部の楚を統治するにあたって旧習俗を許容する柔軟な姿勢で臨んでいましたが、やがて始皇帝の全国統一で当然「暦の取り込み」が行われました。中国では歳首は「夏正」のごとく、立春をとっていますが、「秦正」は10月が歳首です。漢代になって、前103年以後はおおむね夏正が用いられました。唐の則天武后のとき「周正」を用いて冬至が1年のはじまりとなった例外もあります。

 

参考文献
長城雄游記 大鳥圭介 丸善 1894
「秦始皇帝」 桑原隲蔵 新日本3-1  1913
「万里の長城」 石田幹之助 教育画法3-1  1916
長城の彼方へ 後藤朝太郎 大阪屋号書店 1922
万里の長城 上・下 中野江漢 支那風物研究会 1923
「支那古代の長城に就いて」 橋本増吉 史学6-1  1927
中国長城沿革考 王国良編 商務印書館 1933
「秦の始皇帝」 石川三四郎 改造16-4  1934
内蒙古・長城地帯 江上波夫・水野清一 東亜考古学会 1935
「始皇の儒家迫害に関するニ三の考察」 大家伴鹿 大東文化16  1937
「秦の始皇」 池田孝 満蒙18年3号 1937
秦始皇帝伝 馬元材 1937
「始皇帝」 加藤繁  「支那学雑草」所収 生活社 1944
万里の長城 植村清二 創元社 1944
「始皇帝その他」 日本叢書 加藤繁 生活社 1946
「長城のまもり」藤枝晃 ユーラシア学会研究報告2  1955.07
秦始皇 楊寛 上海人民出版社 1956
「長城余話」 石橋丑雄 歴史と地理13  1957
長城史話 中国歴史小双書 羅哲門 北京・中華書局 1963
万里の長城 大世界史3 植村清二 文芸春秋 1967
「始皇帝に関する一考察」彼の内面的要素と大秦帝国の崩壊との関連性 武生龍真 密教文化96  1971
万里の長城 世界史研究双書13  青木富太郎 近藤出版社 1972
秦始皇 洪世滌 上海人民出版社 1972
秦皇長城考 黄麟書 九龍・造陽文学社 1972
「万里の長城・その盛衰小史」小倉芳彦 土木学会誌57(7) 1972.06
「独裁者の登場」秦の始皇帝 和田武司「人物中国志1」所収 1974
「始皇帝と儒家」 山本巌 宇都宮大学教育学部紀要1部26  1976
万里の長城 攻防戦史 渡辺龍策 秀英書房 1978
万里の長城 中国小史 中公文庫 植村清二 中央公論社 1979
秦始皇陵与兵馬俑 無戈 西安・陝西人民出版社 1982
長城 北京史地双書 羅哲文 北京出版社 1982
万里の長城 ジャック・ジュネ、ディック・ウィルソン J.P.ドレージュ、ユベール・ドラエほか 田島淳訳 河出書房新社 1984
秦始皇帝伝 馬非百 江蘇古籍出版社 1985
秦始皇帝 新始皇兵馬俑博物館双書 呉梓林・郭興文 西安・西北大学出版社 1986
「秦帝国の形成と地域」(始皇帝の虚像を超えて) 鶴間和幸 歴史と地理372  1986
萬里の長城 サンデー毎日別冊写真集 幻の西端を求めて 矢口篤雄 毎日新聞社 1991
万里長城の歌 日本の詩歌2 土井晩翠 中央公論社
秦帝国の領土経営:雲夢龍崗秦簡と始皇帝の禁苑 馬彪 京都大学学術出版会 2013
秦の始皇帝の兵馬俑 二十世紀における考古学史上の最も偉大な発見 人民中国出版社 1999
門秦の始皇帝と兵馬俑 洋泉社 2015
人間・始皇帝 鶴間和幸 岩波書店 2015
史記秦・漢史の研究 藤田勝久 汲古書院 2016
始皇帝の永遠・天下一統 小前亮 講談社 2016
秦の始皇帝と中国古代史 宝島社 2016

アノミア「ISLAND」

A0024_000221_m   本日は「島の日」。オーストラリアより小さい陸地を「島」というらしい。世界にいくつ島があるかは不明。大きい順にあげると、グリーンランド、ニューギニア、カリマンタン、マダガスカル、バフィン、スマトラ、本州、ビクトリア、グレートブリテン、エルズミーア。日本は北海道、本州、四国、九州、沖縄島の5つの大きな島と6847の離島、合計6852島から成り立っている(SHIMADASより)。離島のなかには名称もない島があったが、総合海洋政策本部は2014年8月1日付で、「領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定」をホームページで公開している。タンネソ東小島(北海道広尾町)をはじめ158の新しい名が生まれた。タンネソ東小島周辺は昆布の好漁場として知られる。尖閣諸島では、南小島に隣接する2島を「南東小島」「南西小島」、久場島に隣接する3島を「東小島」「南東小島」「西北西小島」とそれぞれ名付けた。北海道えりも町のトド岩は、すでに小樽市に無人島のトド岩が存在し紛らわしい名前である。158ある離島のなかにはユニークな名前がある。68番はなんと「ソビエト」(和歌山県すさみ町沖ノ里島)という。古くから釣り人らに言い伝えられてきたが、名前の由来は不明である。沖縄県渡嘉敷村の「ウン島」はなぜか「フカヌシー」と改称される。「ふなっしー」の人気にあやかったのか?南極にあるオングル島。インドネシアのスラウェシ島(8月1日)

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