アルハゼンとハーキム
ハーキムはエジプトを支配するファーティマ朝の第6代カリフ(在位996-1021)で冷酷で悪名高い君主として知られる。だが学芸を保護し、カイロに知恵の館(ダール・アル・イルム)と名づけられた膨大な蔵書を収めた教育研究機関を創設したことでも歴史に名を残している。そして天文学・化学・数学・医学・音楽・光学・物理学などの研究をしたイブン・ハイサム(ラテン語でアルハゼンという名前で知られる)をバグダードからカイロに招き寄せ、ナイル川の洪水を治める研究をするように命じた。その話によると、アルハゼンは、ナイル川の流れをせき止めるダムを計画したが、ナイル川を実際に見て、その計画が自分の手に負えないことを悟った。そこで、この残忍な支配者から処罰されることを恐れ、11年ほど後の1021年にハーキムが行方不明になった。暗殺説などさまざまな憶測がなされているが、真相は不明である。アルハゼンはハーキムが行方不明となるまで狂気を装い続け、難を逃れました。その間、軟禁状態に置かれ、いくらでも時間があったので、関心を抱いていた他の分野の研究を続けた。とくに光学の分野で後世に多大な影響を与えたといわれる。アルハゼンのことを「近代科学的手法の父」と言う人もあります。彼の偉大さは、画期的な大発見をしたというよりも、わたしたちに科学する方法を教えてくれたといえます。「光学の書」は、実験内容、用いた装置、測定内容および結果を正確に記しているため、「真の科学の教科書」と呼ばれている。ハーキムは精神的に異常だったともいわれ、言動や施策はきわめて移ろいやすく、矛盾した性格をもち、その意味不明の奇行は周囲をおびえさせた。キリスト教徒やユダヤ教徒を目の敵にし、民衆の食事の内容にまで細かく注文をつけ、残虐な格闘技に興じたかと思えば、急に禁欲的になり、ぼろぼろの身なりで驢馬に乗って気前良く施しをするといった具合だった。また、不眠症の彼は、真夜中にわずかな従者を連れて市内の横丁をあちこち徘徊した。しかし、その一方で、ハーキムを神格化するドルーズ派の信徒たちは、行方不明をカバー(隠れ)と解釈し、彼の再出発を信じ続けている。
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