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2018年6月29日 (金)

逃げるは恥だがともかく決勝進出おめでとう

  ポーランド戦、敗れるもなんと西野ジャパンが決勝進出。後半10分くらいは時間かせぎのパス回しで観客からはブーイングの嵐だった。これは同時に行われたセネガルが負けているとの情報で、たとえポーランドに負けても警告点で減点の少ない日本が2位になり決勝へ進出できる望みがでたため、消極策だがリスクを減らすという監督の戦術で、栄光もプライドも捨てても結果よければ良しとする苦渋の選択。フェアプレイポイント制が時間稼ぎの策を執らせたは皮肉な話ではある。むかし高校生の松井秀喜に5打席すべて敬遠策を命じた監督がいた。当時は非難を浴びたが慧眼だとのちでは言われるようになっている。ボクシングのクリンチ策、横綱鶴竜の立ち合いの変化技など、ルール内での戦術の1つと考えれば、西野監督の今回の術策は容認されるだろう。世界各国のメディアもこの消極的な作戦に対して様々な反応が出ている。韓国の安貞桓は「韓国は美しく敗退し、日本は醜くベスト16入り」と皮肉っぽく語った。名誉と栄光を重んずるイギリスやフランスでも厳しく否定的な意見が多い。一方イタリアでは思想家マキァヴェリの格言「目的は手段を正当化する」を引用して西野監督の決断に一定の理解を示している。ロシア大会。歴史を鑑みればナポレオンの大軍には力ではかなわぬが撤退して冬将軍で最終的に勝利したクトゥーゾフ将軍の故事もある。決勝リーグも西野ジャパンのミラクルがあるかもしれない。

2018年6月23日 (土)

ドイツ農民戦争

Stockphoto17974415germanpeasantswar   ドイツ農民戦争(1524~1525)。ドイツの南西を中心に起こった大農民一揆。中世末期における古典荘園から純粋荘園への転化、貨幣経済の発展等によって、農民の地位が改善されてくるとともに、自己の基盤である荘園制が動揺してきた領主が、農民に重税を課そうとしたので大規模な暴動が起こった。すでに15世紀末期より16世紀初頭にかけて、ブントシュー(1503)、アルメ・コンラート(1505~1514)などの一揆が起こっていた。

   この大戦争のきっかけとして伝えられている事件というのは、ごくたわいもないものだった。戦争は1524年6月23日に勃発するが、そのきっかけはカタツムリの殻だった。ドイツ西南部のシュヴァルッヴァルトの東南隅にあるシュトューリンゲン伯領でのことだった。領主夫人が糸巻きの芯にするためにカタツムリの殻を拾ってくるよう、農民に命じた。ちょうど農繁期にあたっていたので、そんなたわいもないことで大切な時間をつぶすことはできないと、それをきっかけに、日ごろの農民の不満が爆発し、戦争が始まった。

 そのころルターによって宗教改革運動が開始されるとその「神の前における平等」の理念は農民の反封建運動に大きな影響を与え、一揆はルターの福音主義と統合しつつ、最初はシューワーベン地方を中心としたが、後はミュールハウゼンを中心に、その波は全ドイツに及んだ。

    農民軍の敗勢が始まると、空想的な平等社会を求める暴力的・破壊的色彩が濃くなった。過激化した農民戦争の指導者の一人は再洗礼派のトマス・ミュンツァーであり、領主軍と戦い、敗れて処刑された。ルターは暴力化した農民戦争に反対し、「殺りく暴行をする農民」の鎮圧を領主に説いた。

   1年以上も続いた農民戦争は、戦死者と処刑者を合わせると10万人にもなるといわれる悲惨な結末で農民側の惨敗に終わったが、この戦争はドイツの経済発展の停滞を招き、領邦君主による絶対主義体制が強化され、のちのちまでドイツの歴史に大きな影響を与えることとなった。(German Peasants' War)

 

 

2018年6月15日 (金)

消えた宇都宮県

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栃木県庁之図 高橋由一 1884

  明治4年の廃藩置県により下野では宇都宮県、黒羽県、日光県など11県が成立したが、11月の整理統合で、栃木県と宇都宮県の二県となった。栃木県は足利、梁田、寒川、安蘇、都賀郡など下野の南部一帯と上野国の館林県を管轄下におき、宇都宮県は東北部から中央に位置する那須、塩谷、芳賀、河内の4郡からなった。県庁はそれぞれ栃木宿と宇都宮町におかれ、初代栃木県令には鍋島貞幹が任命され、宇都宮県には県令をおかず大参事が代行した。明治6年6月15日、宇都宮県を廃し栃木県の管轄に組み入れた。本庁は栃木町に、宇都宮、大田原、足利には支庁がおかれた。新生栃木県の誕生である。栃木県庁は下都賀郡薗部村にあったが、明治17年に河内郡塙田村二里山へ移転した。突貫工事により、和洋折衷、白色のモダンな新庁舎が竣工した。しかし、明治21年1月の火災で焼失した。画像は、明治を代表する洋画家・高橋由一(1828-1894)が描いた石版画である。(引用文献:「栃木県の歴史」山川出版社)

2018年6月11日 (月)

アルハゼンとハーキム

   ハーキムはエジプトを支配するファーティマ朝の第6代カリフ(在位996-1021)で冷酷で悪名高い君主として知られる。だが学芸を保護し、カイロに知恵の館(ダール・アル・イルム)と名づけられた膨大な蔵書を収めた教育研究機関を創設したことでも歴史に名を残している。そして天文学・化学・数学・医学・音楽・光学・物理学などの研究をしたイブン・ハイサム(ラテン語でアルハゼンという名前で知られる)をバグダードからカイロに招き寄せ、ナイル川の洪水を治める研究をするように命じた。その話によると、アルハゼンは、ナイル川の流れをせき止めるダムを計画したが、ナイル川を実際に見て、その計画が自分の手に負えないことを悟った。そこで、この残忍な支配者から処罰されることを恐れ、11年ほど後の1021年にハーキムが行方不明になった。暗殺説などさまざまな憶測がなされているが、真相は不明である。アルハゼンはハーキムが行方不明となるまで狂気を装い続け、難を逃れました。その間、軟禁状態に置かれ、いくらでも時間があったので、関心を抱いていた他の分野の研究を続けた。とくに光学の分野で後世に多大な影響を与えたといわれる。アルハゼンのことを「近代科学的手法の父」と言う人もあります。彼の偉大さは、画期的な大発見をしたというよりも、わたしたちに科学する方法を教えてくれたといえます。「光学の書」は、実験内容、用いた装置、測定内容および結果を正確に記しているため、「真の科学の教科書」と呼ばれている。ハーキムは精神的に異常だったともいわれ、言動や施策はきわめて移ろいやすく、矛盾した性格をもち、その意味不明の奇行は周囲をおびえさせた。キリスト教徒やユダヤ教徒を目の敵にし、民衆の食事の内容にまで細かく注文をつけ、残虐な格闘技に興じたかと思えば、急に禁欲的になり、ぼろぼろの身なりで驢馬に乗って気前良く施しをするといった具合だった。また、不眠症の彼は、真夜中にわずかな従者を連れて市内の横丁をあちこち徘徊した。しかし、その一方で、ハーキムを神格化するドルーズ派の信徒たちは、行方不明をカバー(隠れ)と解釈し、彼の再出発を信じ続けている。

2018年6月 5日 (火)

朝鮮のネロ「燕山君」

   映画「背徳の王宮」(2015)は暴君として有名な朝鮮王朝第10代の燕山君(1476-1506)の実話を基にした時代劇である。王は全土から1万人の美女を集め、円覚寺を享楽の場である掌楽寺に変え、淫蕩と暴政のかぎりを尽くした。1506年朴元宗らのクーデターによって燕山君は失脚した。世界史で悪名高い君主といえばローマ皇帝ネロ、秦の始皇帝、三国志の董卓、隋の煬帝、北宋の蔡京、南宋の秦檜、清末の袁世凱、中世アラブのハーキムなど。

 

 

 

 

2018年6月 3日 (日)

アル・ビルニ

アル・ビルニ(973-1048)は中世アラブの哲学者・占星術師。地球の周囲を測定。「古代民族年代記」「インド史」など100篇を超える著作がある。

2018年6月 1日 (金)

英国のキジ

   キジは本州、四国、九州に留鳥として分布している。昔話「桃太郎」にもサル、イヌと共に登場し、親しまれている日本の野鳥で、1947年に日本鳥学会が国鳥として選定した。しかしユーラシア大陸にも広く分布する。英語ではpheasant。ロレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」で森番のメラーズが鳥小屋を作り、キジの雛をかえしている情景が描かれている。Mellors raises pheasants there for hunting.(メラーズは狩猟のためにキジを育てていた) ロレンス夫人との愛のキューピッド的な役割をはたしている。

六月の花嫁

    英語に「ジューン・ブライド June bride」という言葉があり、「六月の花嫁は幸せになる」という格言もある。6月を結婚式の最上とする考え方は、ローマ神話の女性と結婚の守護神であるユノ(JUNO)の祭典が行われる月が結婚月だからと一般には説明される。

    もっともこれには異説もある。昔のヨーロッパ人は戸外でセックスをした。17世紀になるまで、扉で仕切られた私寝室を持たなかった。寒い冬の間は、野外でのセックスはできない。それで、4月になって、春の到来とともに若い男女はアウト・ドア・セックスを楽しみはじめる。だが、すぐには結婚できない。中世にあっては、教区教会に婚約が届け出られ、40日間の公示期間がすぎてからようやく正式の結婚が許可される。その40日のあいだに、どこからも異議が出ないことが条件である。だから、結婚式は、早くても6月になるのである。

鹿ケ谷事件

   1177年のこの日、藤原成親・成経、西光、俊寛、平康頼らが京都鹿ケ谷に集まり、平家打倒の計画が話し合われるが多田行綱の密告により謀議が露見する。首謀者、西光は翌日惨殺さり、藤原成親は備前へ流される。俊寛は康頼、成経とともに九州鬼界ヶ島へ配流の身となった。(6月1日)

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