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2018年5月20日 (日)

観応の擾乱

  観応の擾乱は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた将軍足利尊氏と弟直義両派の分裂によって引き起こされた全国的争乱。高師直・師泰の死、直義の毒殺によって収まった。

   室町幕府初期の政治体制は足利尊氏と弟直義による二頭政治で、尊氏は守護職の任命権や恩賞の授与、没収権をもち、直義は民事裁判権や所領を保証する権限をもっていた。尊氏は人間的に柔軟でよく衆を統御した。その権限を実際に執行し尊氏がもっとも信頼したのは執事の高師直である。師直は既成の権威や秩序を否定し実力主義で動乱の世を生きていく型の人物であった。尊氏、師直は荘園領主の権益をおかして自己の勢力を伸張しようとする武士たちの要望をくみあげ、荘園領主に対して急進的、否定的な政策を強行した。これにくらべ、直義は謹直で秩序を重んじ、政治理念としては鎌倉時代の執権政治を範とし、政策としては温和な漸進主義をとった。このような尊氏、師直と直義の権限、政策、性格などの相違はおのずからそれぞれの党派を形成し抗争することとなった。尊氏、師直の方には戦功、実力によって重用された武将が集まり、また足利一門のなかでも、家格の低い者や、足利氏譜代の家来も師直の方に属した。直義の方には、旧鎌倉幕府官僚系の吏僚的武士や足利一門のなかでも家格の高い有力者が集まった。族的関係からいえば、一族の庶子が尊氏方に属し、惣領が直義方に属した。地域的には畿内周辺の反荘園的な新興武士層が師直を支持し、関東、奥羽、九州など同族的結合の強い地域の武士たちは直義に属する者が比較的に多かった。もちろんこれらも原則的な区別で、武士たちの両陣営に対する離合はかなり頻繁で、流動性があった。

  師直は、1348年楠木正行を四条畷に破ってから、にわかに声望を高め、幕府部内で勢力を拡充していた直義と抗争を激化していった。翌年、直義は尊氏に迫って師直の執事をやめさせ、続いて師直は逆に直義を討とうとして、尊氏がようやく和解させた。直義は外様として養子直冬を中国に派遣していたが、直冬は九州に入って一時威を振った。尊氏は直冬討伐のため出陣し備前まで軍を進めたが、直義方の挙兵が各地に相次いだので1351年正月、急ぎ帰京した。直義方の部将が相次いで入京し、山名時氏らは直義方についた。二月、尊氏は直義に和を請い、師泰、師直兄弟は出家、助命させることで和義が成立したが、師直兄弟は上杉能憲に殺された。入京した直義は前からすすめていた吉野との和平交渉を続けたが不成立に終り、直義の立場は苦しくなり、幕府の再分裂がおこった。七月、直義は政務を辞し、尊氏、義詮父子は出陣して直義挟撃の態勢を示した。八月、直義は斯波高経らを率いて北国に向けて出立した。尊氏は南朝と和平交渉をし、直義追討の綸旨を得て東下し、相模で直義を降した。2月26日、直義は突如死去した。毒殺されたという。観応の擾乱は幕府の二頭政治の矛盾から生じたが、尊氏、直義の南朝に対する便宜主義的な態度とも相まって南朝の命運を長びかせ、南北朝の動乱を半世紀以上も続かせる主な原因ともなった。

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