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2018年5月31日 (木)

アーベルとガロア

Photo エヴァリスト・ガロア

    フランスのエヴァリスト・ガロワ(1811-1832)とノルウェーのニールス・アーベル(1802-1829)は同時代の数学者だが共通している点が多い。専門が楕円関数論と代数方程式論であることや、ガウスの影響を受けていること、若くして悲劇的な死をとげていることである。ガロアが1832年5月31日、決闘で受けた傷がもとで死んだことはよく知られているが、アーベルは病死である。ガロアは近世の高次代数方程式が代数的に解けるための必要十分条件を群の言葉で与えた。アーベルは五次以上の代数方程式は、一般に代数的には解けないことを証明した。楕円関数論およびアーベル関数論で知られる。2人はもちろん出会ったことはなかったし、論文を通じての認識すらなかったらしい。

2018年5月30日 (水)

沖田総司はどんな顔?

E52e4ae9  慶應4年5月30日夕刻、沖田総司は25歳で没した(享年については24歳説、27歳説など諸説あり)。最近、歴女ブームで有名人のお墓を訪ねて歩く「墓マイラー」が増えて、賑わっている。歴女に人気の新選組一番隊組長、沖田総司の墓は六本木ヒルズの裏手、専称寺(港区元麻布)にある。ふだんは参拝できず、塀の外から眺めて拝むようになった。ただし年に1度だけ総司忌のみお参りできる。小さな墓碑は読めないほど風化が進んで、幼名の「沖田宗次郎」とある。

  沖田総司の性格はひじょうに明るく冗談ばかりいい、子ども達ともよく遊び、亰の町医者の娘との恋仲は、師近藤の意見で別れたと伝えられている。総司はどんな顔をしていたのか?生前の写真は残っていないので誰にもわからない。むかし月形龍之介主演の「剣士・沖田総司」(1929年)製作のとき総司の姉みつ(1833-1907)の孫である沖田要(1894年生れ)をモデルに肖像画が作られた。実際の総司に似ているかどうかは定かではないが、よく歴史の本に使われているようだ。

 孤高の美剣士、沖田総司のイメージは映画やドラマで作られたものだが、一般的には島田順司が有名である。若い人にとっては草刈正雄、田原俊彦や藤原竜也かも知れない。最初に沖田総司を主役級のヒーローにしたのは月形龍之介だそうだ。だが映画で最初に沖田を演じたのは、「維新の京洛」(1928年)の寺島貢である。翌年に月形龍之介が、そして阿部九州男が「大殺生」(1930年)で沖田を演じた。

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  月形龍之介

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  島田順司

2018年5月29日 (火)

新選組谷三十郎、謎の頓死

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  谷三十郎のことは、司馬遼太郎の小説の中では宝蔵院流の槍の達人と書かれている。(「槍は宝蔵院」)史実は弟の谷万太郎が種田流の槍術の遣い手で、兄の三十郎は神明流剣術の達人であった。谷三十郎の末弟昌武は近藤勇の養子となり、その縁故から隊内では三十郎は相当幅をきかせ、傍弱無人の振舞いが多かった。そのため新選組の中であまりよく言われていなかったようだ。多くの小説や映画では、ほとんど悪役として扱われている。ドラマ「新選組血風録」では土方歳三、沖田総司、斎藤一の3人によって殺害される。本当の史実は、三十郎が慶応2年4月1日、祇園階段下で突然頓死を遂げた。斎藤一の手にかかって斬殺されたという説、酒席での喧嘩説、永倉新八によれば病死という説、ともかく死因はよくわからない。三十郎の遺骸は、光縁寺に土葬された。現在、本伝寺(大阪市北区兎我野町)に墓がある。フジテレビ「新選組、士道に背きまじきこと」を見ると、戸浦六宏演じる谷三十郎は士道不覚悟として近藤勇(鶴田浩二)に斬られていた。

シンガポールの第三の男

 日活アクションスター、石原裕次郎、小林旭、そして赤木圭一郎。第三の男ってカッコイイひびきがあるが、第三の男が不慮の死をとげた日活はまもなく倒産した。政治の世界でも指導者が三人続いてこそ大願成就する。家康・秀忠・家光、康熙帝・雍正帝・乾隆帝、毛沢東・周恩来・そして鄧小平。インドはガンジー、ネルー、アンベドカル。北朝鮮は建国以来、金日成、正日、正恩と一族三代続いたが、行く末はどうなるのか。

バルタン星人来日

 フィレンチ・ポップスの女王シルヴィ・バルタンが最後の来日コンサート。今夜はNHKうたコンに登場し「アイドルを探せ」を歌うらしい。「♪ドライブウェイに春が来りゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ」と「レナウン・ワンサカ娘」(小林亜星作詞・作曲)のCMが日曜洋画劇場で毎週流れたのは昭和36年のことだった。最初は、かまやつひろし、昭和37年、デューク・エイセス、昭和38年、ジェリー藤尾&渡辺友子、昭和39年、弘田三枝子、昭和40、41年、シルヴィ・バルタン、その後もヒデとロザンナ、久美かおり、セルスターズと一流ミュージシャンが歌い継いでいる。ところで「ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ」という「ワンサ」という意味がよく分からなかった。広辞苑によると①「がやがやと大勢が押しかけるさま」とある。③わんさガールの略、とある。「わんさガール」とは「下っ端の映画女優や踊り子。大部屋女優」とある。

    当時まだ若かった小林亜星が③の意味で使ったとは考えられない。おそらく「ワンサカ ワンサ」とは①の沢山という一般的な意味で使用したのであろうが、当時のご年輩方には同時に「ワンサガール」という古い流行語を懐かしく思い出した方も定めしおられたにちがいない。現代感覚と昭和初期モダンとが「ワンサ」という一語に込められたとても優れたCMソングだ。

   ワンサガールの語源は「映画撮影所の大部屋女優や無名女優のことである。これは大正9年に松竹の蒲田撮影所が創立されてまもなくできたことばであるが、大部屋のあたりにわんさとむらがっている女優たちをみて、こんなのをワンサガールというんだわ、とある人がいったのが、すっかり流行したものであって、もちろん英語ではない。現今では少女歌劇のライン・ダンスにでる女優のこともワンサガールという。またワンサと略することもある。」(日置昌一著「ことばの事典」)

 

コンスタンティノープル陥落

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    1453年5月29日、メフメト2世(1430-1481)の率いるオスマン軍は、約2ヵ月の包囲の末に東ローマ帝国の都コンスタンティノープルの西側の城塞を破って、市内に突入した。125代東ローマ皇帝コンスタンティノス11世バラオロゴス・ドラガセス(コンスタンティン・パレオロガス)は討死し、ついに東ローマ帝国は西暦330年以来、1123年間続いた歴史に幕が下ろされた。塩野七生は「一都市の陥落が一国の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか」(「コンスタンティノープルの陥落」新潮社)と記している。

    メフメト2世は19歳で父ムラートのあとを継いで、このとき23歳である。アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルのような野望を抱いていた。16万のオスマン軍は海と陸からコンスタンティノープルを包囲していた。東ローマ帝国は西欧に向けて、援軍を要請していたが、ギリシア正教会とカトリック教会との問題があって、援軍はヴェネツィア艦隊のみであった。だがコンスタンティノープルは三重の城壁(メソティキオン城壁)で囲まれ、ボスポラス海峡と金角湾とは鉄鎖によって封鎖されていてオスマンの艦隊は侵入できなかった。

    メフメト2世は陸上に軌道を敷設して、ボスポラス海峡から船を運び入れ、船を車輪つきの荷台にのせて、海抜60mほどのガラタの丘を越えて、金角湾側のガラタ地区に移動させた。それを一夜のうちに移動させ、封鎖された金角湾内に船を送り込むという奇策であった。さすがの難攻不落を誇ったコンスタンティノープルも陸上と海上からの砲撃のために忽ちのうちに陥落した。血刀さげたトルコ兵の虐殺ぶりはまるで地獄絵をみるようだった。(Konstantinos Palaiologos Dragases) 世界史

2018年5月28日 (月)

戦争の世界史・早わかり年表

300px131_bataille_de_malazgirt  現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ大統領が広島を訪れた。17分に及ぶスピーチは人類と戦争の歴史から語られ始められた。「どの大陸でも、あらゆる文明は戦争の歴史に満ちています。穀物の不足や、金への欲望、あるいは国粋主義や宗教的な理由から戦争が起こってきました。帝国は台頭、衰退しました。人々は支配され、解放されました。それぞれの歴史の転換点で罪のないひとが苦しみ、多くが犠牲となりました。広島と長崎で残忍な終わりをみた世界戦争は、裕福で力のある国によって戦われました」

   そして今も世界と日本が、激しく変革している。数千年以上の太古の昔から今日まで、人類の歴史は戦争の繰り返しの歴史といえる。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。

前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る

前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)

前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)

前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る

前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす

前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる

前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い

前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する

前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)

前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る

前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる

前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる

前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る

前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。

前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る

前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる

前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する

前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する

前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した

前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した

前405年、スパルタがアイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した

前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる

前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る

前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスがイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる

前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる

前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる

前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。

前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる

前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる

前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ヒュダスぺス河畔の戦で苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。

前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる

前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る

前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る

前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる

前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる

前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる

前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺

前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る

前48年 ポンペイウス、ファルサルスの戦でカエサルに敗れる

前45年、ポンペイウス派の残党がムンダの戦でカエサルに敗れる

前42年、カエサルを暗殺したブルトゥスがフィリッピの戦でアントニウスに敗れる

前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる

前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす

後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する

49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される

66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。

74年、ユダヤ民族の最後の拠点マサダがローマ軍により陥落し、ユダヤ戦争が終わる

191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。

200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。

208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。

211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。

215年、曹操が合肥の戦で孫権を破る。

219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。

222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。

234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。

260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。

280年、晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅ぶ。石頭城の戦い。

312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる

313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でリキニウスに敗れる

363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する

376年、ローマ皇帝ヴァレンスが、アドリアノーブルの戦で西ゴートに敗れ、戦死。

383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる

451年、フン族の王アッティラ、カタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる

486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦で西ローマを破る

627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる

642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる

663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ

722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。

732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる

751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う

756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる

811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はブリスカの戦でブルガリアに敗れ、戦死した。

849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。

955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国オットー1世に敗れる

1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。

1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する

1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する

1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる

1071年、ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる

1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。

1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノフの戦でロンバルディア同盟軍に敗れる

1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でサラーフ・アッディーンに敗れる

1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る

1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する

1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する

1223年、モンゴル軍はカルカ川の会戦でロシア軍を破る

1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世はリーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死した。

1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。

1260年、モンゴル軍のフレグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。

1265年、イーブシャムの戦い。

1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。

1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)

1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る

1279年、厓山の戦い、南宋が滅ぶ

1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)

1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗。

1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。

1291年、イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)

1294年、英仏戦争はじまる。

1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。

1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。

1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる

1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる

1337年、英仏の百年戦争がおこる

1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる

1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる

1363年、明の朱元璋は鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る

1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う

1380年、タタール軍はクリコヴォの戦でモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに敗れる。

1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。

1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる

1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る

1396年、ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する

1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦でドイツ騎士団を破る

1415年、フランス軍がアジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。

1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。

1429年、イングランドのジョン・タルボットはパテーの戦でジャンヌとリッシュモン元帥の軍に敗れ、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった

1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー王国を破る

1450年、イングランド軍はフェルミニーの戦でフランスに大敗する。

1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる

1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落

1455年、ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。30年にもわたるバラ戦争(~1485年)の最初の戦い。

1460年、バラ戦争、ウエイクフィールドの戦い。

1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦いで戦死

1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる

1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる

1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。

1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る

1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。

1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。

1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。

1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。

1524年、フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて壊滅し、ドイツ農民戦争が終結する

1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる

1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る

1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争

1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。

1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する

1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死

1532年、インカ帝国アタワルパ、カハマルカの戦いでピサロ率いるスペイン軍に敗れる。

1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。

1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。

1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる

1558年、リヴォニア戦争(~1583)。

1562年、ユグノー戦争

1571年、オスマントルコ海軍がレパントの海戦でスペイン国王フェリペ2世に敗れる

1587年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる

1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる

1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。

1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る

1618年、三十年戦争

1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る

1620年、白山の戦。

1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。

1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。

1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。

1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。

1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす

1644年、チャールズ1世がマーストンムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。

1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。

1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)

1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。

1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦ではオランダの勝利。

1674年、英蘭戦争、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。

1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。

1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。

1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。

1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。

1700年、スウェーデンがナルヴァの戦でロシアに勝利する。

1701年、スペイン継承戦争始まる。

1709年、スウェーデンのカール12世、ポルタヴァの戦でロシアに敗れる。

1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。

1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。

1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。

1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。

1733年、ポーランド継承戦争始まる。

1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。

1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。

1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する

1756年、ヨーロッパで七年戦争始まる。

1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。

1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。

1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。

1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。

1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。

1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。

1768年、露土戦争起こる。

1775年、アメリカ独立戦争始まる。

1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。

1781年、チャールズ・コンーウォリス率いるイギリス軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。

1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。

1789年、フランス革命起こる。

1790年、第3回マイソール戦争。

1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。

1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。

1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。

1799年、第4回マイソール戦争。

1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。

1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。

1805年、ナポレオン、トラファルガルの海戦でイギリスのネルソンに敗れる。

1806年、プロシア軍がイエナ・アウエルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。

1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。

1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。

1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。

1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。

1815年、ナポレオン、ワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。

1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の兵に敗れる。

1817年、第3回マラータ戦争。

1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。

1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。

1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。

1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。

1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)

1840年、アヘン戦争(~1842年)

1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。

1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。

1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。

1856年、アロー号戦争(~1860年)

1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。

1861年、アメリカの南北戦争、北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。

1862年、メキシコがプエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)

1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。

1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。

1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。

1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。

1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る

1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。

1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)

1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍の本隊が全滅した。

1877年、露土戦争(~1878)

1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。

1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。

1894年、日清戦争(~1895年)

1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦で大敗する。

1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。

1899年、南ア、ボーア戦争(~1902年)。

1904年、日露戦争(~1905年)

1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。

1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。

1912年、バルカン戦争(~1913年)。

1914年、ロシアがタンネンベルクでドイツに大敗。

1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。

1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍に包囲、殲滅される。

1915年、オスマン帝国はガリポリの戦で連合軍に勝利する。

1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。

1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。

1917年、ロシア革命。

1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。

1935年、イタリア、エチオピア侵略。

1936年、スペイン内戦始まる。

1937年、日中戦争始まる。

1939年、満蒙国境線めぐりノモンハン事件。

1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。

1941年、太平洋戦争始まる。

1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。

1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。

1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。

1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。

1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。

1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)

1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)

1953年、ポークチョップヒルの戦い

1954年、フランスとアルジェリアでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。

1954年、フランスはディエンビエンフーの戦でベトナム軍に敗れ撤退する。

1959年、チベットで反中国暴動。

1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)

1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。

1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。

1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。

1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。

1991年、第一次湾岸戦争。

1991年、スロヴェニア独立戦争。

1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。

2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。

2003年、第二次湾岸戦争。

2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。

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アイグン条約の硯

Lrg_20816533   ロシア皇帝ニコライ1世は、アヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激され、1847年、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方進出政策をおこなわせた。ムラヴィヨフは極東への植民を推進し、清が太平天国やアロー戦争に苦しんでいるのに乗じて、1858年5月28日(露暦5月16日)アイグン条約を結び、アムール川をロシアと清との国境に決めた。アムール合意で使われたペンと筆と硯が残されている。調印者はロシア側がムラヴィヨフとロベロフスキー、清国側が奕山とジラミンガ。

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 黒河愛琿歴史陳列館

   交渉にあたりロシア側は武力示威による威嚇を行った。北京の清国政府はアイグン条約を1度は認めたが、しだいにこれを否認するにいたり、本条約の有効性は両国間で激しく争われた。1860年11月14日に両国の間に結ばれた北京条約は、アイグン条約を確認して黒竜江左岸をロシア領としただけでなく、共同管理の地とされたウスリー江右岸については、黒竜江との合意点からウスリ江をさかのぼりハンカ湖を越え、いったん西方に迂回してから豆満江にいたる線より東の地域をロシア領とした。

2018年5月27日 (日)

日本海海戦

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  日露戦争。ロシアのバルチック艦隊がシンガポール沖を通過して北上してきた。問題は日本近海におけるバルチック艦隊の航路である。朝鮮海峡を通って日本海を抜けてウラジオストックへと向うのか、太平洋を迂回して津軽海峡を抜けてウラジオストックへと向うのか。東郷平八郎は、朝鮮海峡で待機する決断を下した。参謀たちの不安は消えない。1905年5月27日、哨戒任務に出ていた信濃丸から敵艦隊発見との電報が入った。東郷は「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」と電文を作成した。首席参謀の秋山真之は、その文に「天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆した。天気が晴れていることは敵艦を狙いやすい。そして波が高ければバルチック艦隊の砲撃の命中率が低くなるということを伝えたと言われる。そして13時55分、戦艦「三笠」のマストにZ旗が掲げられた。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」連合艦隊主力はなんと敵前で横腹を見せるかたちで、相手の進路をさえぎるT字戦法にでた。そして主力以外の艦は、南下して敵艦隊の後尾を突いた。まさに、日本海軍の圧勝であった。

モンローとスザーン・ストラスバーグ

Photo_fp19_info   6月1日はマリリン・モンローの誕生日。前田敦子は読書好きらしい。撮影の仕事が多いので、やっぱり映画や映像に関する本を手にとることが多い。先日、代官山の本屋でスーザン・ストラスバーグの「マリリン・モンローとともに 姉妹として、ライバルとして、親友として」を買って、読んでいる。俳優養成学校アクターズスタジオにすでに大スターだったモンローが入学してきたのは1955年。創立者のリー・ストラスバーグの家に入り浸り、ニューヨーク生活を満喫するモンローは娘スーザンと大の仲良しになった。自身女優となり多感な青春を過ごすスーザンが、モンローが自殺する1962年までを描いたノン・フィクション。女優スーザン・ストラスバーグの代表作は「ピクニック」「女優志願」。それにハマー・フィルム・プロダクションのサスペンス映画「恐怖」(1961年)がある。車いすのヒロインが遺産相続で命を狙われるが、実は本人ではなく身替りで屋敷にきたというラストのどんでん返しがある。

Susan Strasberg 6月1日

2018年5月26日 (土)

著名人の戒名

Bagpgv8ceail7qk   戒名・法名を眺めていると、故人の生き様、思想、人柄、社会的業績を垣間見ることができる。例えば、浅野長矩の戒名は長い。「冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士」無念の思いは長い戒名にも表れている。

   だが最近は葬式もせず、骨を散骨することを希望する人も増えた。志賀直哉も無宗教で戒名はない。白洲次郎にいたっては「葬式無用、戒名不用」と遺言している。

落語家の立川談志は生前から自ら戒名を考えていた。立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。ところが納骨のさい「うんこくさい(雲黒斎)では引き取れない」とお寺に断られた。1年以上も自宅に置かれたままだったが、数年してようやく小石川に受け入れてくれるお寺がみつかった。お墓の側面にはあの戒名が刻まれている。

戒名中には、辞典にも見られない漢字も使われることがある。棟方志功の戒名は「華厳院慈航真カイ志功居士」カイは「毎」の下に「水」がある漢字が使われている。

位牌は、宋の時代に儒教・禅宗の中で生前の皇帝に対する皇帝碑として発生し、やがて禅宗の日本への伝播とともに、鎌倉時代から室町時代にかけて上層階級の間で普及した。室町幕府を開いた足利尊氏が、院殿号を最初に用いた人物とされている。江戸時代になって、元禄から享保年間の頃、広く一般化されたものである。(参考:保坂俊司「戒名と日本人」祥伝社)

   有名人の戒名調べるが、坂本竜馬や松尾芭蕉のようにわからない人物もいる。一説によると「芭蕉桃青法子」とあるが信憑性はない。

足利尊氏 等持院殿仁山妙義大居士

楠木正成 霊光院大圓義龍卍堂

武田信玄 法性院機山信玄

織田信長 惣見院殿贈大相国一品泰巖尊儀

明智光秀 秀岳宗光禅定門

豊臣秀吉 国泰裕松院殿霊山俊龍大居士

石田三成 江東院正軸因公大禅定門

真田幸村 大光院殿月山伝心大居士

徳川家康 東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士

宮本武蔵 新免武蔵居士

石川五右衛門 融仙院良岳寿感禅定門

新井白石 慈清院殿釈浄覚大居士

近松門左衛門 阿耨院穆矣日一具足居士

本居宣長 高岳院石上道啓居士

小林一茶 釈一茶不審退位

平賀源内 智見霊雄居士

田沼意次 隆興院殿耆山良英大居士

国定忠治  長岡院法誉花楽居士

清水次郎長 碩量軒雄山義海居士

高杉晋作  全義院東行暢夫居士

近藤勇   貫天院殿純義誠忠大居士

土方歳三  歳進院誠山義豊大居士

西郷隆盛 南州寺殿徳隆盛大居士

福沢諭吉 大観院独立自尊居士

山県有朋 報國院釋高照含雪大居士

大隈重信 鳳猷院殿尚憲重信大居士

森鷗外   貞献院殿文穆思斎大居士

夏目漱石 文献院古道漱石居士

国木田独歩 天真院独歩日哲居士

板垣退助 邦光院殿賢徳道圓大居士

萬鉄五郎  法雅院霊鑑居士

芥川龍之介 懿文院龍之介日崇居士

岸田劉生 清秀院殿劉誉到岸居士

中原中也 南無放光院賢空文心居士

与謝野晶子 白桜院鳳翔晶耀大姉

山本五十六 大義院殿誠忠長陵大居士

東条英機 光寿無量院英機居士

吉田茂   叡光院殿徹誉明徳素匯大居士

太宰治   文綵院大猷治通居士

谷崎潤一郎 安楽寿院功誉文林徳潤居士

石坂洋次郎 一乗院殿隆誉洋潤居士 

林家三平  志道院釈誠泰

美空ひばり 茲唱院美空曰和清大姉

石原裕次郎 陽光院天真寛裕大居士

森繁久彌  慈願院釋浄海

松本清張  清閑院釈文帳

司馬遼太郎 遼望院釋浄定

手塚治虫  伯藝院殿覚圓蟲聖大居士

三島由紀夫 彰武院文鑑公威居士

大鵬    大道院殿忍受練成曰鵬大居士

淀川長治  長楽院慈眼玉映大居士

植木等    宝楽院釋等照 

平尾昌晃  慈嚴院照音晃道居士

西城秀樹  修音院釈秀樹

ラーメンの「ラー」って、何?

ぼくらの少年発明王

いつも明るい えがおの中に

輝くひとみも いきいきと

ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ

そこから生れる大発明

    子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。

  同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。

   つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン一袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。

    このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。

  ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。

    だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。

    大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。

     しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。

    つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」とおなじように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。

2018年5月25日 (金)

広辞苑初版には「コンピューター」が収録されていなかった

   新村出(1876-1967)が生前に編纂した広辞苑は初版のみである。1955年5月25日に広辞苑初版は刊行されたが、初版を引いてみると、「コンピューター」とか「エスエフ(SF)」(科学小説)など日常よく使用される外来語が載っていない。14年後の1969年刊行の第二版に多くの外来語が追加された。1955年ころは専門の技術者たちは「コンピューター」を研究していたものの、外来語としては未だ日本語に定着していない。中尾伸二「コンピューター経営学 電子計算機を100%活かす法」(ブルーバックス)が刊行されたのは翌年のことである。

2018年5月24日 (木)

蝉丸と逢坂関

   本日は蝉丸忌。逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。(5月24日)

Ousaka
 現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2018年5月23日 (水)

現代社会と情報化

4e781b2ca4aaefce0486765a023e3b37   現代は情報の時代である。日本人のおよそ8割以上の人がインターネットやスマホを毎日1回以上、利用している。まさに高度情報社会である。これほど多くの人がテレビなどのように受け身で情報を得るのではなく、自ら必要な情報を求める時代になるとは誰が予測したであろうか。わたしは「情報化社会」とか「情報社会」とか言われ出したのはいつ頃から調べたくなった。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになったのは、1950年代以降のことである。

NPLサーチで「情報」「知識」をキーワードにして検索すると、初期の文献がヒットする。

1963年 藤川正信「第二の知識の本」

1967年 川添登「情報社会と思想の自立」 展望107

1968年 増田米二「情報社会入門:コンピュータは人間社会を変える」

1969年 林雄二郎「情報化社会:ハードな社会からソフトな社会へ」

 林雄二郎の著書は有名で「情報化社会」をわが国で最初に紹介したといわれる。しかし、それ以前からビジネスの世界では「情報収集」が企業の存立にとても重要との認識が広まっていた。それは1960年代の高度成長期であり、慶應図書館学科の藤川正信が情報の重要性を唱えた嚆矢であるるその後、有田恭助の「情報の集め方」(カッパ・ビジネス、1964年)は梶山季之の産業スパイ物のブームを背景にベストセラーとなった。書き出しは「人間の一生は、情報収集の連続である。私たちは、この世に生を受けたときから、死に至るまでのあいだ、つねに、外部の情報を集め、それを分析して行動を決める、という仕事を行なっている」。著書は産業スパイが反社会的行為であり、いかに正々堂々と情報を収集するか、その意義を説いている。いまのような情報検索システムが普及する以前は、図書館の目録カードがこの役割を果たしていた。わたしは1970年代に図書館の整理業務にたずさわり、目録の編成に心血をそそいだ。しかし、書名目録、分類目録は機能したが、主題から検索できる件名目録は充分な成果をあげることができなかった。件名目録は日本図書館協会より刊行された基本件名標目表にある統制語によって構成される。つまり今のネット検索のように何でも思いつくワードで検索できるのではなく、限定されたワードしかヒットしない。利用者も件名目録の特性を十分に理解する人はなく、件名目録が十分に活用した図書館はほとんどなかった。現在このBSHが現場でどれくらい活用されているかしる由もないが、おそらく自然消滅のような状態になっていのだろう。しかし図書館学における検索機能が何らかの形で現代の情報検索機能に反映されているものと思っている。

    このような情報化社会にあって、反対に「情報はいらない」「新聞は読まない」と豪語する有名人がいる。長嶋一茂さんだ。元プロ野球選手で、現在はテレビのバラエティ番組などでその顔を見ない日はないほどの売れっ子タレントぶりの活躍である。発言内容の天然ぶりと苦労しらずの人柄が面白い。なぜコメンテーターをしながら、多くの知識を入れようとしないのか。ネットでエゴサーチをすると不快な記事を読むからかもしれない。「勉強しない」とかの発言も反知性主義とみることもできる。経済的な不安を知らずに育った一茂さんは、一種の貴族的な地位にあり、勉強したり、世間に認められようという立身出世主義は皆無の生き方をしてきた。広く多くの情報を入手して正しい結論を導くのではなく、自己の直感でコメントするようである。現代マスコミの寵児がこの情報の時代に情報を全否定することも面白い。

沖田総司と菊一文字

   時代劇チャンネル「新選組血風録」第7話。沖田総司(島田順司)は懇意の刀屋播磨屋道伯から名刀の菊一文字を借りた。鎌倉期の古刀の代表的なもので、最も有名なのは、足利家重大の宝刀といわれた「二つ銘則宗」が京都の愛宕神社所蔵のもので国宝である。則宗は備前福岡の刀工で、いわゆる福岡一文字派に属し、後鳥羽上皇の後番鍛冶に列し菊花紋章を彫ることをゆるされたため、俗に菊一文字といわれる。

    司馬遼太郎の原作では、近藤勇の虎徹と土方歳三の和泉守兼定、それに菊一文字則宗を横に置きならべてみる描写がある。「虎徹は厚重ねで反りは浅く、姿には、この道でいう怒味と武骨味をもち、いかにも人切り包丁といった凄みがある。むろん、虎徹にもそれなりに品位はある。だが、しかし鎌倉の古刀である菊一文字には遠くおよばない。要するに、神韻縹渺としたところが、兼定にも虎徹にもないのである」「細身は当節はやらない。重さで切れるようなものが、幕末の流行であった」とある。

   ドラマでは、三人の差料を比べるシーンはない。土方は沖田に「俺の刀を貸そう」というと、沖田は笑って「土方さんのは重いから結構です」という台詞がある。

   ドラマ「菊一文字」は沖田総司が医師半井玄節(原健策)に診察してもらったところ、「安静が必要であり、このままだとあと5年しか生きられない」といわれる。天真爛漫な性格と労咳という沖田総司の明と暗のイメージがお茶の間に浸透したと思われる重要な回である。「刀の命は七百年、おれの命は二十五年か」若くしてこの世を去った沖田の命と古刀との対比も鮮やかである。結束信二の脚本も原作の持ち味を十分に出している。何よりも月代の似合う島田順司は沖田総司の役のために生まれたといってもいいほど似合っている。沖田を慕う医師の娘お悠に当時、「忍びの者」で人気があった清純派の鈴村由美がでている。ドラマでは菊十文字を大切にするあまり、陸援隊の戸沢鷲郎を沖田が殺さなかったために同僚の日野助次郎が死んだ。土方が「刀は飾り物ではない。あの時、戸沢を斬っておれば、日野は死なずに済んだ」と沖田に言う。沖田は菊一文字で戸沢を殺し日野の復讐を果たす。しかし、沖田が菊一文字を使ったのは、このときだけだったという。刃こぼれ一つしなかった。

Kiku    しかし、実際に沖田が菊一文字を所持していたという可能性はほとんどない。当時、大名すら入手は難しく、実践では不向きな刀。これは下母澤寛の著作に「沖田の刀は菊一文字細身のつくり」とされたことが広まったものという。現在も菊一文字という屋号の刃物屋が京都にある。包丁、鋏などを販売している。「桐箱入り鶴亀卸し金セット」など贈答品に人気がある。価格5775円。だいこん卸しに使うには畏れおおい気がする。

サヴォナローラ焚殺される

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サヴォナローラの火刑(サン・マルコ美術館)

  ルネサンスの世俗文化が最高潮に達した15世紀末のフィレンツェで神権政治を行ってきたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、1498年のこの日、シニョーリア広場で火刑に処された。背後には、彼の非難を苦々しく思っていたボルジア家の教皇アレクサンデル6世の圧力があるというのだ。サヴォナローラは、22歳のとき突然ドミニコ会修道士となり、30歳のときフィレンツェにやってきた。しかし、彼はそのとき以来、熱烈な説教とフィレンツェ人の堕落した享楽的な生活を批判しつづけていた。悔い改めなければ、フィレンツェは外敵の侵入によって滅ぶであろうと預言していた。人々は、シャルル8世によってこの預言が成就されようとしていると感じ、彼の神権政治を受け入れたのである。しかし、1498年5月23日、4年間の禁欲生活の強制に退屈してきたフィレンツェ市民はサヴォナローラを捕らえて裁判にかけた。その結果、彼は偽預言者として絞首刑ののち改めて火刑に処された。一時はあれほどのフィレンツェ人を感動させたのに、彼の最期を見とどけたのは2、3名にすぎなかったという。(Girolamo Savonarola)

2018年5月22日 (火)

「人生不可解」 藤村操、華厳の滝で投身自殺

Photo_6     明治36年5月22日、一高生徒の藤村操が日光・華厳の滝に投身自殺した。投身に先立ち、かたわらの大樹をけずり、巌頭之感を書き残した。

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソレチーを価するものぞ、萬有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

   ここで引き合いに出されているホレーショというのは、シェークスピアの「ハムレット」の登場人物のことである。「なあ、ホレイショ―よ、天と地の間には君の哲学などでは夢にも思い描けぬことがあるのだよ」という有名な台詞がある。それはともかく、当時夏目漱石は第一高等学校で英語を教えており、藤村は教え子であった。野上豊一郎は漱石との関係を次のように語っている。

   先生は何しろ生徒が下読みをして来ないのを嫌われたが、藤村は自殺する頃二度ほど怠けた。最初の日先生から訳読を当てられたら、昂然として「やって来ていません」と答えた。先生は怒て「此次やって来い」と云って其日は済んだが、其次の時間に又彼は下読みをして来なかった。すると先生は「勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくともよい」と大変に叱られた。するとその二三日後に藤村の投身のことが新聞に出た。その朝、第一時間目が先生であったが、先生は教壇へ上るなり前列にゐた学生の心算では、あの時手ひどく怒った故彼が自殺をしたのじゃないかと、ふと思ったのだったさうだ。3年後、漱石は小説「草枕」の中で藤村の死に対する思いを次のように書いている。

昔巌頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の観るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものはまことに壮烈である。ただその死を促すの動機にいたっては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体しえざるものが、いかにして藤村子の所作をわらい得べき。彼らは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味わいえざるがゆえに、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格としては劣等であるから、わらう権利がないものと余は主張する。

漱石は藤村操の自殺を擁護し、一定の理解を示したのだが、藤村との関係についてはそんな挿話があったのである。

  藤村操の投身自殺は同世代の青年に大きなショックを与えた。5年間で180人以上が後追い自殺したといわれる。

徳川家康忌日

Photo   徳川家康(1542-1616)の人生はまさに「忍」の一文字であった。天文11年12月26日、三河の岡崎城で呱々の声をあげた。信長よりおくれること8年、秀吉からは5年。歳の順序に気がねしたわけではあるまいが、このとおりの序列で後を追い、天下をとった。元和2年4月17日(1616年5月22日)73歳で没した。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。ちなみにシェークスピアは同年4月23日に世を去っている。

    幼名は竹千代、父は松平広忠、母は刈谷城主水野忠政の娘於大。天文16年、三河岡崎城の広忠は、織田信長の猛攻をうけ、今川義元に援けを求めたが、このとき竹千代はわずか6歳で今川氏へ人質に送られることとなった。今川氏の本拠駿府への途中、義理の祖父である渥美郡田原城主戸田康光にだまされて信秀の手中に落ちた。康光がうけとった礼金は永楽銭五百貫とも一千貫ともいう。いずれにせよ家の仇、父の敵へ売りとばされたわけだ。だが、父広忠が信秀の脅迫にのらず毅然たる態度で臨んだのが逆に幸いして、信秀の心を打ち、人質とはいえその扱いは鄭重であった。幼い竹千代は、尾張の万松寺での人質生活のあいだに、14歳の荒くれ信長と知りあった。8歳のとき一度岡崎に戻ることがてきたが、半月ほどで再び今川氏の人質として駿府に移された。今川義元が桶狭間で仆れるまでのことであるから、前後を通じて足かけ13年の人質生活であった。しかし、その生涯をみると、ものごころついてから秀吉の死後に至るまでの50余年間、家康はいつも誰かに頭を押さえられて過ごしている。ひたすらの「忍」であった。誰にでもできることではない。家康には、信長のような鋭利で独創的な才能はない、また秀吉のような奔放・豪快、しかも機略縦横といった華やかさもない。だが、めだたぬ聡明さと組織力とで、打つ手の一石一石は実に着実であった。だからこそ波瀾ふくみの秀吉死後を無事に切り抜けとおし、ついに天下の覇権を掌中にしたのである。常用の印文には天下の匂いも布武の臭みもなく、「福徳」または「忠恕」という、道学先生を思わすような字句であったのも、いかにも家康らしいといえる。(参考:岡本良一「国民の歴史12 天下人」)

徳川家康関係図書

逸史12巻首1巻7冊 中井竹山、浅井吉兵衛等 明治9年

列祖成績20巻20冊 安積澹泊 徳川昭武 明治11-12年

仮名挿入皇朝名臣伝4 中沢寛一郎編 溝口嘉助 明治13年

東照宮実記仰晃雑誌1-9 細谷蕉露編 仰晃社 明治16年

日本百傑伝 第8編 松井広吉編 博文館 明治26年

東照宮御一代記 沼崎重孝 明治28年

徳川家康 本城正琢 公愛社 明治30年

徳川家康公 吐香散人 日吉堂 明治32年

2018年5月21日 (月)

リンドバーグ愛児誘拐事件

 1927年5月20日、チャールズ・リンドバーグが操縦する単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」がニューヨーク郊外のルーズベルト飛行場を飛び立った。それから33時間30分後の21日、彼はパリのブールジュ飛行場に着陸する。大西洋単独無着陸飛行の成功である。飛行場には10万人にのぼる群集が、一目リンドバーグを見ようと押し寄せた。彼は航空機時代を象徴する空の英雄であった。しかし彼の人生には脱ぐ去りようのない暗い事件がある。

   1932年3月1日、チャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見された。これより1年前の3月1日に、ニュージャージー州ホープウェルの自宅から誘拐されるという事件が発生していた。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。

Hauptmann_6 それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。

    ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。

 疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。

    検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。

    結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。

    リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)

2018年5月20日 (日)

古代ローマの凱旋門

  凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門である。フランスのナポレオンがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これは古代ローマの風習にならったものである。現存する古代ローマの凱旋門は壊されたりしたため、完全な形で残っているものは少ない。古代ローマ時代の凱旋門で、現存する最古のものは紀元前27年に元老院が初代皇帝アウグストスに贈呈したリミニにあるアウグストスの凱旋門である。ローマ市内に現存する凱旋門としてはティッスの凱旋門がある。紀元71年ティッス率いるローマ軍はエルサレムとその神殿を略奪して火を放つ。71年にティッスはローマに戻り熱狂的な歓迎を受ける。ティッスは79年に皇帝になるが、2年後に急死したため。弟のドミティアヌスが次の皇帝となり、すくさま兄の業績をたたえる凱旋門を建立した。カンピドリオの丘の麓に建つセプティミウス・セヴェルスの凱旋門は203年に建立したものです。凱旋門の中でも最大のものが315年にコンスタンティヌス1世が建設したコンスタンティヌス凱旋門です。

観応の擾乱

  観応の擾乱は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた将軍足利尊氏と弟直義両派の分裂によって引き起こされた全国的争乱。高師直・師泰の死、直義の毒殺によって収まった。

   室町幕府初期の政治体制は足利尊氏と弟直義による二頭政治で、尊氏は守護職の任命権や恩賞の授与、没収権をもち、直義は民事裁判権や所領を保証する権限をもっていた。尊氏は人間的に柔軟でよく衆を統御した。その権限を実際に執行し尊氏がもっとも信頼したのは執事の高師直である。師直は既成の権威や秩序を否定し実力主義で動乱の世を生きていく型の人物であった。尊氏、師直は荘園領主の権益をおかして自己の勢力を伸張しようとする武士たちの要望をくみあげ、荘園領主に対して急進的、否定的な政策を強行した。これにくらべ、直義は謹直で秩序を重んじ、政治理念としては鎌倉時代の執権政治を範とし、政策としては温和な漸進主義をとった。このような尊氏、師直と直義の権限、政策、性格などの相違はおのずからそれぞれの党派を形成し抗争することとなった。尊氏、師直の方には戦功、実力によって重用された武将が集まり、また足利一門のなかでも、家格の低い者や、足利氏譜代の家来も師直の方に属した。直義の方には、旧鎌倉幕府官僚系の吏僚的武士や足利一門のなかでも家格の高い有力者が集まった。族的関係からいえば、一族の庶子が尊氏方に属し、惣領が直義方に属した。地域的には畿内周辺の反荘園的な新興武士層が師直を支持し、関東、奥羽、九州など同族的結合の強い地域の武士たちは直義に属する者が比較的に多かった。もちろんこれらも原則的な区別で、武士たちの両陣営に対する離合はかなり頻繁で、流動性があった。

  師直は、1348年楠木正行を四条畷に破ってから、にわかに声望を高め、幕府部内で勢力を拡充していた直義と抗争を激化していった。翌年、直義は尊氏に迫って師直の執事をやめさせ、続いて師直は逆に直義を討とうとして、尊氏がようやく和解させた。直義は外様として養子直冬を中国に派遣していたが、直冬は九州に入って一時威を振った。尊氏は直冬討伐のため出陣し備前まで軍を進めたが、直義方の挙兵が各地に相次いだので1351年正月、急ぎ帰京した。直義方の部将が相次いで入京し、山名時氏らは直義方についた。二月、尊氏は直義に和を請い、師泰、師直兄弟は出家、助命させることで和義が成立したが、師直兄弟は上杉能憲に殺された。入京した直義は前からすすめていた吉野との和平交渉を続けたが不成立に終り、直義の立場は苦しくなり、幕府の再分裂がおこった。七月、直義は政務を辞し、尊氏、義詮父子は出陣して直義挟撃の態勢を示した。八月、直義は斯波高経らを率いて北国に向けて出立した。尊氏は南朝と和平交渉をし、直義追討の綸旨を得て東下し、相模で直義を降した。2月26日、直義は突如死去した。毒殺されたという。観応の擾乱は幕府の二頭政治の矛盾から生じたが、尊氏、直義の南朝に対する便宜主義的な態度とも相まって南朝の命運を長びかせ、南北朝の動乱を半世紀以上も続かせる主な原因ともなった。

カンヌ国際映画祭

Thethirdmanlastshot     フランスで開催された第71回カンヌ国際映画祭で是枝裕和監督の「万引き家族」が最高賞パルムドールを受賞した。日本作品の受賞は1997年の「うなぎ」(今村昌平監督)以来21年ぶりとなった。1946年9月20日、第1回カンヌ国際映画祭が開催された。1939年から開催の予定だったが、当日に第二次世界大戦勃発のため中止、終戦後の1946年に正式に開催。第3回に出展されたイギリス映画「第三の男」(1949)がグランプリを獲得し、世界でも興業的に成功し、映画史に残る傑作となった。(9月20日)

ヴァスコ・ダ・ガマとインド航路

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    16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( keyword;Vasco da Gama,Zamorin )

2018年5月19日 (土)

宮本武蔵忌日

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大津街道脇にあった武蔵の墓は平成元年から武蔵塚公園として整備された

    二天一流の創始者で、剣聖と仰がれる宮本武蔵の墓は熊本にある。寛永17年、細川忠利に招かれて来熊。晩年は熊本で過ごした。1年後に忠利に先立たれた後は岩戸観音の霊巌洞にこもる日々が続き、「五輪書」「独行道」などを著し、また画人として水墨画の名品を残した。正保2年5月19日に飽田郡五町手永弓削村(現熊本市龍田弓削1丁目)に葬られた。墓は武蔵塚公園内ある。墓碑には「兵法天下一 新免武蔵居士石塔 正保酉乙年五月十九日」と記されている。武蔵の墓はもう一つある。熊本市島崎町霊寿庵裏の自然石で、碑面に「貞岳玄信居士」とある。その横には、「心月清円信女」という女性の墓石が並んでいる。享年62歳。病名は神経痛と胃癌だった。

2018年5月18日 (金)

ファニイ・フェイス岸井ゆきの

   ファニー・フェイスとは「おかしな顔」。美人といわけではないが、個性的で魅力ある顔立ち。オードリー・ヘプバーン主演の「パリの恋人」(1957年)で流行語になった。当時はパスカル・ブチやミレーユ・ダルクなど仏女優がそう呼ばれた。日本では若林映子や加賀まりこ、そしてこの尺度を限りなく通俗化して登場したのが研ナオコである。最近人気急上昇の永野芽郁(半分、青い)や岸井ゆきの(モンテクリスト伯)らはファニー・フェイスに分類されるだろう。

阿部定事件

Photo_2     昭和11年というのはニ・ニ六事件が起こった年である。しかし同じ年の5月18日に起きた阿部定事件のほうが国民の関心は遥かに高かった。阿部定が細面の美人と報ぜられ、日本中がその話題でもちきりとなった。阿部定は明治38年神田の畳屋の娘として生まれ、32歳当時東京中野の鰻屋の女中として入り、石田吉蔵と昵懇になる。まもなく不倫関係となり吉蔵を絞殺し、東京から逃走し、3日後に捕まった。大阪駅にいた、横浜に飛んだ、いや広島だ、仙台だと怪情報が錯綜した。阿部定逮捕の様子はこうである。高輪署の安藤部長刑事は管内の旅館をしらみつぶしに調べた。「お定さんだね」女はこっくりうなづいた。もう逃れられないと覚悟して「夜になったら死ぬつもりでした」と語った。「例のものはどうした」と聞くと、定は帯の間から、ハトロン紙包みをとり出し、それを大事そうにみせただけですぐにしまい込んでしまった。現在阿部定の消息は不明で墓も戒名もわからない。生存していれば112歳になる。

2018年5月16日 (水)

膳所藩将軍暗殺事件の謎

Sc15137a川瀬太宰宅跡碑

   膳所藩は近江国大津周辺に位置した6万石を領する譜代藩であった。禁裏御所方火消しを任務とすることから、朝廷を守護する意識が強く、藩内には川瀬太宰(1819-1868)を中心とする尊攘派の勢力が強かった。

   慶応元年5月、第14代将軍徳川家茂が上洛することになった。老中水野忠精から、将軍の膳所泊城が藩主本多康穣に言い渡された。5月16日、予定どおり江戸を進発した家茂は、東海道を西行し、近江愛知川宿に到着したが、そのとき突然、以後の将軍の宿泊予定が変更され、膳所泊城の中止、大津宿への宿泊が発表された。ちなみにこの日程変更の5日前、膳所藩では尊攘派の一斉検挙が行われており、それらが重なって、将軍暗殺の噂が流布していた。このとき検挙された尊攘派は数十名にのぼったが、当時の記録は少なく真相はいまもって不明である。逮捕より5ヵ月後の慶応元年10月、逮捕者の内11名が死罪に処せられた。首謀者とみられる川瀬太宰(膳所藩家老戸田資能の子)は雲母越えで捕らわれ、慶応2年6月、京都六角獄舎において斬首された。妻の幸は、大津の尾花川の居宅で新撰組に襲われ、匕首で喉を刺して自害を図った。一命はとりとめたが、後に自ら食を断ち、夫の跡を追った。膳所藩の将軍暗殺計画は家老たち藩内保守派たちによる捏造事件であるのか真相は闇のままである。

2018年5月15日 (火)

宝塚の家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」

  インドの財宝を挙ぐるも、

  読書の楽しみにはかえがたし

          エドワード・ギボン

   家庭文庫とは、民間の個人が、自宅の一部を開放して、本を収集・提供して、読書活動を行なう私設の図書館のことです。自治会・婦人会・PTAなどのグループが公民館や集会所など地域の施設を利用して行うものを「地域文庫」と称しています。一個人がどんなに財力を投資して珍しい本を収集してもおのずと限界があります。スペースの問題と収集範囲の問題です。あらゆるジャンルにわたり収集し、かつ一定の新鮮度を保つことは至難の業です。非公開の文庫は鮮度が落ちてきます。スペースの問題も一万冊を超えることは難しいですが、一人の人が書棚に立つと視界に入るのは数千冊が限度です。つまり百万冊の大図書館だと膨大な書庫に迷い本と出合うことはかえって難しくなります。新刊書店も新しい本との出会いには刺激がありますが、出版洪水に溺れて適書との出会いはできません。古くもなく、新しくもなく、意図的な選書ではなく、教養人にとっての理想的な書棚づくりをめざしていきます。

上野戦争起こる

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福沢先生ウェーランド講術の図 安田靫彦 慶応義塾福沢センター蔵

   年が明けて慶応4年(1868)になるとそうそうに、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争の端緒が開かれ、官軍による慶喜追討令が出て、徳川慶喜は大坂を逃れて江戸に帰った。江戸市中では官軍が攻めて来て戦になるのは間違いないと江戸庶民は戦々恐々となり、逃げ出す者たちで街中は大騒ぎだった。

   その年の4月、福沢諭吉(1835-1901)は築地鉄砲洲中津藩中屋敷にあった洋学塾を芝新銭座(現・港区浜松町1丁目)へ移し、年号をとって「慶應義塾」と命名した。慶応4年5月15日、福沢諭吉はいつものように塾の教場に立ち、講義していた。突然、はるか北の方角から、江戸中に響き渡る砲声がとどろいた。諭吉はのんびりした調子で「とうとう、戦争が始まったか…」と呟いた。爆音をとどろかせているのは、上野の山であった。将軍慶喜を守るために結成された彰義隊に、官軍が戦闘をしかけたのである。塾生たちは、ざわついた。塾生たちの中には、若い血を燃えたぎらす者たちもすくなからずいて、落ち着きなく講義になかなか身がはいらない様子であった。諭吉は言った。「どうした、大砲の弾も鉄砲の弾も、ここまでは飛んでこないぞ!。上野の山までは、二里も離れているぞ」諭吉の声で、塾生たちも話に集中しだした。

「いいか、みんな、われわれがこうしていま、戦争のなかにもかかわらず学問をしているのは、日本の将来のためなんだぞ。いま、たしかに日本は変わろうとしている。しかし、これまでのような狭いものにとらわれた者たち同士の戦争では、なんにも変わらないんだ。これからの時代を切りひらいていくのは、力でも、鉄砲でもない。それは、学問だ。学問こそが、われわれを導く希望の光なんだ。さあ、大砲の音など、気にするな、講義を続けるぞ!」

   そして諭吉はいつもと変わらず土曜日の日課のフランシス・ウェーランド(1796-1865)の「経済学」の講義を続けた。

   画像「福沢先生ウェーランド講術の図」の中央の人物が福沢諭吉、そして手前の人物は高弟の小幡篤次郎(1842-1905)であろうか。

2018年5月14日 (月)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

    5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

2018年5月13日 (日)

竹酔日(ちくすいじつ)

  竹を移植するのは旧暦5月13日に行うと良いと言われる。これは、この日竹が酔っていて、移植されてもわからないからだということである。松尾芭蕉に「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(笈日記)とある。

2018年5月12日 (土)

大根役者と藪医者

    芸の下手な役者のことを「大根役者」という。また医術の下手な医者のことを「藪医者」という。その理由は諸説あるが、大根はどんな調理わしても腹にあたることが少ないことから、シャレで当たらない役者のことをいった。「藪医者」は俳人・森川許六が次のようなことを書いている。「薮医者とはもともと但馬国養父にいた名医(江戸幕府奥医師となった長嶋的庵のことらしい)に由来する。」(「風俗文選」(1706年)死者を甦らせるほどの腕を持ったその名医の噂は京の都にも届いた。ところがやがて、大した腕もないのに、自分は養父医者の弟子だ、と口先だけの医者が続出して、養父医者の名声も地に落ち、いつしか「藪」(やぶ)の字が宛てられ、医術のつたない医者のことをいうようになった。

夢見る頃を過ぎても

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  歌をまくらに 空を仰ぎて

  声高らかに 君とうたいし

  今はただひとりして

  さすらい歩めば

  若き日の夢

  昭和13年にコロンビアレコードから発売された中野忠晴、二葉あき子の「若き日の夢」の一番の歌詞である。ワルツ風の旋律だが原曲は「When I grow too old to dream?」(夢見る頃を過ぎても)でシグマンド・ロングバードの曲にオスカー・ハマースタイン二世が詩をつけた。「夢見る頃を過ぎても」はジャズの名曲としてポール・ホワイトマン楽団の演奏や、ナット・キング・コール、ドリス・デイ、ルビー・マラー、リンダ・ロンシュタットなとがカバーしている。初出はタドリ―・マーフィ監督の映画「The Night is Young」(1935年、邦題「春の宵」)。ラモン・ナヴァロ、イヴリン・レイ主演。劇中曲であるが誰が創唱したのかは不明。同年にはグレース・フィールド(1898-1979)がレコーディングしている。

てるてる坊主の起源

   「てるてる坊主」を軒先に吊るして晴天を祈る風習はいつ頃から始まったのか。中国では白い首、紅と緑の着物、ほうきを持った掃晴娘(サオチンニャン)というお人形を軒につるしてお天気を祈ったが、これが日本へ伝わる。奈良時代とも平安時代ともいわれるが、文献として明らかになるのは江戸時代中期から。この頃は現在と異なり折り紙のように折って作られるもので、より人間に近い形をしており、その形代を半分に切ったり、逆さに吊るして祈願した。「嬉遊笑覧」(1830年)には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記している。現在のような、白い紙や布にくるんだ人形になったのは明治になってからのことかもしれない。

看護の日

Photo_3     本日を「看護の日」とするのは、1820年フローレンス・ナイチンゲールの誕生日に由来する。1853年、トルコとロシアの間にクリミア戦争が始まった。イギリス、フランスらがトルコを支援した。この戦争には19世紀を代表する2人の人物が関わっている。ナイチンゲールとトルストイである。1853年、ナイチンゲールはロンドンのハーレー街の小さな婦人施療院で看護婦として働いていた。これが陸軍大臣シドニー・ハーバートの目にとまった。翌年10月、ナイチンゲールは38人の看護婦とともにクリミアに向かった。同年7月、ロシアの青年将校トルストイは激戦地セバストーポリに従軍している。信仰心の篤い2人が戦場でみた光景が何であっのかそれは知らない。ただ戦争が青年たちの人生観を大きくかえる出来事だったことは間違いない。ナイチンゲールとトルストイは同じ年の1910年に亡くなっている。ナイチンゲールが亡くなるとき、国葬にしてウェストミンスター寺院に葬ることが話されたが、ナイチンゲールは遺書で拒否し、ハンプシャーのイーストウェロウの小さな教会墓地に埋葬された。世間が偉人と認めながら、偉人であることを拒みつつけた2人はよく似ている。(5月12日)

2018年5月11日 (金)

シンガポール

5971233_134151915319  6月12日のトランプ・金正恩の米朝会談の舞台にシンガポールが選ばれた。シンガポールはアジアと欧米諸国との接点である。18世紀末ころ、マレー半島南部を支配するジョホール王国はリアウ王国とパハン王国に分かれていた。イギリスのインド副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781-1826)はリアウにあったマレー派の王族フサインをジョホール王として即位させた。1819年2月6日、ラッフルズは条約を締結し、シンガポールを買収した。以後イギリスは、この島に関税のかからない、自由貿易港を建設し、東南アジア貿易の拠点として、イギリス東洋進出が始まった。(Thomas Stanford Raffles,Singapore,Johor Riau)

ダリの窓

Img_0013 窓辺の人物 1925年

   本日はサルバドール・ダリ、1904年の誕生日。この絵はダリがマドリードの美術学校を退学処分された青年時代の作品。キリコのような不可解で不安をかきたてるような雰囲気。少女がうしろ向きで外の景色をながめているが、何を思っているのだろう。モデルはおそらく妹のアナ・マリアであろう。動物的本能で窓辺よりも女性のお尻に目がいってしまう。(5月11日)

2018年5月10日 (木)

シパーヒー決起、インド大反乱

210pxbattle_of_vienna_sipahis    1859年5月10日夕刻、北インドのメーラト駐屯地で、イギリス東インド会社傭兵であるシパーヒー(セポイ)が反乱を起こした。反乱は、この年より配付された新式のエシフィールド銃の使用を拒否し禁固刑となったメーラトの第3軽騎兵連隊の85名のシパーヒー釈放を要求して始まった。新式銃の弾薬筒には、ヒンドゥー教徒の神聖視する牛の脂とムスリムの不浄視する豚の脂とが塗られていた。これを装填時に噛み切るために口にすることは、回教徒とも宗教的禁忌だった。シパーヒーは、1757年6月23日のプラッシーの戦い以来用いられ、反乱直前には23万人にも膨れ上がっていた。そのうち13万人を擁したベンガルのシパーヒーには、アウド王国出身で南カーストの者が多くいたが、賃金や階級は低く、国外出兵を強制されるため不満を抱いていた。反乱軍はその日のうちにデリーに進撃し、翌日には、すでに年金受領者となり名目的存在でしかなかったムガール皇帝ハバードゥル・シャー2世を擁立し、皇帝復権宣言をさせる。この時点から反乱は、ムガル帝国対大英帝国の戦いの様相を呈する。北インドの各地でこれに呼応する反乱が続く。失権の原則により実子のないことで所領を没収されたマラーター王国のペーシュワー(宰相)の子孫ナーナー・サーヒブが6月4日にカーンプルで、また同じくイギリスに併合されていた藩王国ジャーンシーの王妃ラクシュミーバーイーが6日に立ち上がる。30日にはラクナウでも反乱が起こる。イギリスのインド支配そのものに対して不満を抱く、市民や農民にも反乱に参加する者が現れ、反乱は都市から、やがて農村へと広がる。地域的にも北インド全体へと拡大し、あらゆる階層の人々を含む民族的な大反乱となる。(sipahi)

2018年5月 9日 (水)

「みかんの白い筋」何と言うの?(物の名前)

   日常何気なく使っていたり、目にしたりする物でも正式な名前は意外と知らないものである。たとえば「みかんの白い筋」を何と呼ぶかご存じだろうか?アルベド(albedo)という。ラテン語で「白い」を意味し、柑橘類の果皮の内側にある白い組織状の組織、いわゆる白い筋にもこの言葉が使われている。

  お寿司やお弁当に入っている緑のプラスチックシート。これの正しい名称は?

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 バラン。漢字で「葉蘭」と書き、その名の通り昔は蘭の葉を使っていた

野菜や果物などの皮をむく器具

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 ピーラー

和服をしまうための厚紙

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  たとう紙

大雨のときに、外から水が入らないように、入口をふさぐ。

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  止水板

カレーのルーが入っている銀製の食器

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 グレイビーボート(Gravy boat)。ただし一般にソースポットともいう。

荷物を括りつけて背負って運搬するための運搬具

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背負子(シヨイコ)

野菜や果物の皮むき用ナイフ

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ぺティナイフ。petit(フランス語)+knifeの和製英語

鉛筆などを安全に削るナイフ

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 ボンナイフ

イベントやアンケートなどで用いられる簡易鉛筆

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  ペグシル

果物を包んでいる白い網状の包装材

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  フルーツキャップ

視力検査のとき片目を隠すために用いる柄杓

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 遮眼子 オクルダー(occluder)

カトリックのミサで信者が食べる円形の薄いせんべいのようなお菓子

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  ホスチア(hostia)

瓶やガラスなどで太陽の光線が一点に集中して火災が発生すること

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  収斂火災

靴のひもの穴

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  ハトメ

歯と歯の間などの歯垢を取り除く歯間ブラシ

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 糸ようじ(デンタルフロス)

金網を張って食物を保管できるようにした家具。蠅などの虫がたかるのを防ぐ役目も果たした。冷蔵庫が普及するまでは食品を保管するため必要なものであった。

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蠅帳(はえちょう)

座禅を組んでいる際、修行僧を策励する掛係が手に持って巡回する棒を何というか。

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警策(きょうさく)

ビックリマーク

エクスクラメーションマーク

 

「齋藤」日本の苗字

  ネプリーグで外国人回答者が「互角」という字を書いたが、「角」の字が真ん中の縦棒が下まで突き抜けていた。林修先生は元は突き抜けていた異体字があったとして正解とした。たしかに漢字の歴史は古いのでさまざまな異体字がある。「斉藤」姓がその代表格だろう。斉藤、斎藤、齋藤、齊藤などさまざまな字体があり、戸籍コンピーター会社によると85種類あるらしい。ルーツは伊勢神宮の神様を迎えるため身を清めた役職、斎宮頭(さいぐうのかみ)に由来する。10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられた藤原利仁の子、藤原叙用(のぶもち)は、官職名と姓に因んで(斎宮の斎、藤原の藤)「齋藤」を号し、子孫は齋藤氏となり自身は齋藤氏の祖となる。明治初期の戸籍作成のとき、手書きのため誤字かそのまま登録され、多くの字体がーに別れる一因になった。斉藤姓で一番知られるのは、戦国の武将、斎藤道三。近年の研究によれば美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父松波基宗(または松波庄五郎)との父子2代にわたるものではないかと考えられている。コンサイス日本人名事典によれば斎藤姓は歌人の斎藤茂吉以下50人ほど掲載されているが、それほかの人名を調べる。斎藤達雄(1902-1968)は独特の存在感を持つ飄々とした演技で戦前戦後の喜劇映画に多数出演した。番組中では壇蜜の本名および旧芸名が齋藤支静加であることが等身大パネルを使って紹介されたが、わたし世代としては天地真理の本名が齋藤真理であることのほうがインパクトが大きい。ゲストも齋藤司、斉藤慶子ならば、乃木坂の斎藤飛鳥がベストかな。

思い違い、勘違い大全集

Photo_3 誰にでも人の名前や地名・言葉を、間違って覚えてしまうことがある。思い違いで、何十年もずっと思い込んでいることがあるから可笑しい。長嶋茂雄引退の名スピーチ「巨人軍は永久に不滅です」。多くの人は「永遠に」とすり替えて記憶している。寺山修司が勘違いして書いたため、「永遠に」のほうが広まってしまった。▽息子の一茂はずっとHAWAIIを「ハウツー」、北海道を「きたかいどう」と読んでいた。▽「ランゲルハンス島」とは島の名ではなく、膵臓に散在する細胞の1つ。村上春樹のエッセーに「ランゲルハンス島の午後」という一編がある。生物の教科書に出てくるこの名に魅かれ、空想上の理想郷のような感じがしてくる。▽「蚤の市」ノミのことを英語でfleaという。発音は「フリー」だが、freeと勘違いしている人がいる。▽大島紬の産地は奄美大島(鹿児島県)。あんこ椿の伊豆大島と間違える。▽京都の東寺に伝えられた古文書、東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)。「ゆりぶんしょ」と読み間違い。▽「康範詩集」川内康範の詩集ではない。宋の汪晫の詩集。▽「さよなら」などのヒット曲で知られるオフコース。バンド名は草野球チームに由来するらしい。ところが「off course」と「f」が2つあるので、「もちろん」の意味ではなく「道を外れる」ということ。小田和正が建築から音楽の道に進んだことを含んでいるらしい。▽「マスクメロン」マスクとは「仮面」の意味ではなく、麝香のようないい香りがするという意味。▽×武蔵の森総合スポーツプラザ○武蔵野の森総合スポーツプラザ

   漢字の誤読もよくある。御用達を「ゴヨウタツ」、順風満帆を「ジュンプウマンポ」、キキイッパツを「危機一発」と、大人になっても思い込んでいる人がいる。正しくは「ゴヨウタシ」、「ジュンプウマンパン」、「危機一髪」。▽乳幼児の病気「川崎病」をずっと神奈川県川崎市の公害病の一種と思い込んでいたが、実は発見者の川崎富作にちなんだ病名である。▽「おばけのQ太郎」における名脇役ラーメン大好き「小池さん」のモデルはアップダウンクイズの司会者小池清だと思い込んでいた。正しくはアニメイターの鈴木伸一である。

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    小池清            鈴木伸一

Photo_3  中居正広は元AKBの河西智美を「かわにし」と呼んでいた。正しくは「かさいともみ」。▽和歌山県の有田みかん。「ありだ」と濁って発音するのが正しい。▽「焼け木杭に火がつく」を「焼けぼっ栗に火がつく」と思っている人がいる。▽青森県五所川原の十三湖(じゅうさんこ)。民謡「十三の砂山」は「とさのすなやま」。中世都市遺跡「十三湊遺跡」は「とさみなといせき」。▽インディラ・ガンディーはマハトマ・ガンディーの娘ではなく、ネルーの娘。▽俳優の筒井道隆を小説家、筒井康隆の息子だと思っている人がいるが、名前が似ているだけで親戚でも何でもない。▽「板垣死すとも自由は死なず」岐阜の板垣遭難事件は有名であるが、このとき板垣は死なず、本当に亡くなったのは事件から37年のちのことである。▽京都市左京区一乗寺にある金福寺。「きんぷくじ」ではなく、「こんぷくじ」が正しい。▽アメリカ合衆国の国歌を「星条旗よ永遠なれ」だと思っている人がいる。スーザの曲は国の公式行進曲。アメリカの国歌はジョン・スタッフォード・スミス作曲の「星条旗」。▽シェリーの詩「西風に寄せる歌」。有名な一節「冬来たりなば春遠からじ」と訳した人を上田敏と思っている人がいる。本当は木村毅(きむらたけし)である。▽向田邦子のエッセイ「眠る盃」。タイトルは「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と誤って覚えた少女時代の回想。▽木村拓哉はクイズ番組で「シザーサラダ」と回答。正しくは「シーザー・サラダ」Caesar salad。シザーサラダだと「ハサミ入りサラダ」という意味になる。ロメイン・レタス、クルトン、パルメザンチーズをオリーヴオイル、ニンニク、レモン、アンチョビーのドレッシングで和えたサラダ。古代ローマのシーザーとは無関係。メキシコのティワナにあるシーザーズという名前のレストランで考案されたから。▽ブランデ―のナポレオン。特定銘柄の酒ではなく、熟成年を指す記号。▽「少年老い易く学成り難し」朱熹の作ではなく、日本の室町時代の禅僧・観中中諦の作である。▽小倉智昭アナは「ブリ、カンパチは白身の魚」と発言。身の色から勘違いしやすいが、ブリ、カンパチはともに回遊魚であるアジ科に属し、赤身の魚である。

愛の讃歌

   マリア・コティヤール主演の「エディット・ピアフ」は素晴らしい伝記映画である。劇中、「私とビリー・ホリデーとは同じ年なの」というシーンがある。ジャズとシャンソン、音楽は異質ながらも、その波乱に満ちた女の生涯は共通している。ピアフ(1915-1963)、ビリー・ホリデー(1915-1959)、それにジュディ・ガーランド(1922-1969)など20世紀の歌姫といえるだろう。いまはレコードや映像などで何度も彼女たちの歌唱をきくことができる喜びを感謝している。 シャンソンを代表する名曲「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲の中で、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。「あなたが愛してくださるならあなたが死んでもかまわない。わたしもあとを追って、空のかなたでふたりは永遠を手に入れるのですから・・・・あなたがおのぞみなら、なんでもやってのけましょう。祖国や友を裏切りましょう・・・・」という高らかな愛への讃歌です。日本語歌詞岩谷時子ではだいぶんやわらかくなっています。原詩はエディット・ピアフ本人の作詞ですが、作曲者を知っているかたはあまりおられない。マルグリット・モノ(1903-1961)で「バラ色の人生」や「ミロール」など多くの名曲を作っています。

映画でみる歴史偉人伝

Img_1189021_32131373_0     オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」(2003年)を見る。あのジュリエットの面影はないが、聖女を美化せず真実の姿が感じられる人間ドラマに出来ている。意外な大物スターが歴史上の偉人を演じる例はいくつかみられる。なかには失敗作もあるが、ご愛嬌的な面がある。無声映画のころから、クレオパトラなどの映画(ゼダ・バラ)は見世物的で人気があった。ハリウッドは大物スターもトンデモ映画に出ている。

  ゲーリー・クーパーがマルコ・ポーロ(「マルコ・ポーロの冒険」1938)、ジョン・ウェインがジンギスカン(「征服者」1956)、モンゴメリー・クリフトがフロイト(「フロイド」1962)、ヘンリー・フォンダがリンカーン(「若き日のリンカーン」1939)、マーロン・ブランドがアントニウス(「ジュリアス・シーザー」1953)、リチャード・バートンがアレキサンダー大王(1956)、カーク・ダグラスがゴッホ(「炎の人ゴッホ」1956)、グレゴリー・ペックがダビデ王(「愛欲の十字架」1951)やマッカーサー(1977)、ジェフリー・ハンターがイエス・キリスト(「キング・オブ・キングス」1961)、ロッド・スタイガーがナポレオン(「ワーテルロー」1970)、クリフ・ロバートソンのケネディ(「魚雷艇109」1963)、ジェラール・ドパルデュー(コロンブス、1492」1991)、オマー・シャリフがゲバラ(1969)、イングリッド・バーグマンがジャンヌ・ダルク(「ジャンヌ・ダーク」1948)など。アジアではチョウ・ユンファが孔子、金城武が諸葛孔明、本郷功次郎が釈迦、勝新太郎が秦始皇帝、山本富士子が楊貴妃、田中裕子が西太后(ドラマ)などを演じている。聖徳太子を本木雅弘、空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、親鸞を中村錦之助が演じている。NHKドラマで八百屋お七を前田敦子が演じたが、過去、坂東秋子、柳さく子、美空ひばり、中島そのみ、らが演じている。栗塚旭演じる土方歳三が最高のハマリ役である。 片岡千恵蔵は宮本武蔵、大石内蔵助、近藤勇、国定忠治など主要なヒーローを演じてきたが、「日本暗殺秘録」(1969年)の井上日召は異色である。

    成功例をみると、ジェームズ・スチュワートのリンドバーグ(「翼よ!あれが巴里の灯だ1957)、ポール・スコフィールドのトマス・モア(「わが命つきるとも」1966)、グリア・ガースンのキュリー夫人(1943)、グレタ・ガルボのクリスチナ女王(1935)、マドンナのエビータ(1996)、マリオン・コティヤールのエディット・ピアフ(2007)。なぜか女性物が多い。

アイスクリームはもともと兵士の健康食だった?

0231   5月9日は「アイスクリームの日」。今日は寒いが、寒くてもアイスクリームを食べる人が多くなった。アイスクリームが嫌いという人はあまり聞いたことがない。アイスクリームのそもそものルーツは諸説あるが、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼる。冬の間に降った雪や、自然にできた氷を保存し、蜜などを加えたものを戦場で戦っている兵士に疲労回復の健康食として供したのが始まりといわれる。ほかに中国が起源とする説もある。13世紀の終わりころ、中国でアイスクリームを食べたマルコ・ポーロが帰国後、そのつくり方をイタリアに伝えたといわれる。楽聖ベートーヴェンもアイスクリームが好きだった。「今年の冬は暖かいので氷が少なく、アイスクリームが食べられるかどうか心配だ」と日記に書いている。日本で初めてアイスクリームが広まるのは明治になってから。米国で製法を学んだ出島松蔵が明治6年、明治天皇にレイシの果物と共に「あいすくりん」を献上したのが始まりである。

   歴史上の人物もそれぞれ好物がある。マリー・アントワネットがこよなく愛したのがアルザス地方に伝わる焼き菓子クグロフ。徳川家康は鯛のてんぷら。家定はスイーツ(芋、カステラ)。慶喜は豚肉。西郷隆盛は鰻。夏目漱石は甘党で羊羹と最中。高浜虚子はおでん。斎藤茂吉や淀川長治はウナギ。手塚治虫はチョコレート。マザー・テレサはチョコレートが好物だった。向田邦子は水羊羹。(Beethoven,kouglof) 

坂田山心中

128920121702616210692     昭和32年12月4日、伊豆の天城山で、大久保武道と愛新覚羅慧生がピストル自殺を図った。天城山心中として世間の耳目を集め、三ツ矢歌子で映画化された。題名は「天城心中 天国に結ぶ恋」。もともと「天国に結ぶ恋」は昭和7年の坂田山心中を映画化したときの題名だったが、観客動員には効果的だった。

    昭和7年5月9日、神奈川県大磯の海に近い坂田山というところで、若い男女の心中死体が発見された。遺書その他から2人はキリスト教の教会で知り合ったことから、この心中事件を「東京日日新聞」は「天国に結ぶ恋」と称して報道した。坂田山心中というよりは、そのほうがロマンチックだった。「今宵名残の三日月も 消えて淋しき相模灘」という歌も流行し、続いてそれを主題歌とした映画「天国に結ぶ恋」は竹内良一、川崎弘子の美男美女のコンビで大ヒットとなった。そして、この映画にあやかろうとする自殺志願者が、しきりに大磯の坂田山へきた。昭和7年5月中旬以降、約3年間に、坂田山で心中しようとした男女は合計600人にものぼったという。

    日本の支配層は不況と社会不安の打開を中国侵略に求めた。中国との戦争による軍需景気が昭和8年の初夏ごろから起こる。そして軍需景気が失業者をなくしていったが、その次には、戦争による死の恐怖が日本人に襲いかかっていく。

    ところで地図には坂田山という名の山はみえない。大磯駅周辺は坂になった場所の田、坂田と呼んでいたが、記者が坂田山がゴロがいいので使って有名になったらしい。

2018年5月 8日 (火)

「ム」事項索引インデックス

Mapofmusandampeninsula   アラビア湾の入り口でホルムズ海峡に面したムサンダム半島はアラビア半島の一部で、大部分がオマーンの飛び地で、アラブ首長国連邦(アブダビ、ドバイ、シャルジャ、ラスアルハイマ、フジャイラ、アジャマン、ウムアルカイワイン)がある。▽ムスティエ文化は中期旧石器時代にヨーロッパを中心に広くひろがっていた文化。▽ムワッヒド朝は北アフリカとイベリア半島南部を支配したイスラム王朝(1130-1269)。▽ムズターグアタはパミール高原の東縁をかざるカシュガル山脈の高峰。標高7546m。1956年べレツキーが登頂に成功した。▽ムーア人はイスラム軍が711年からイベリア半島を征服したとき、スペイン人はこれをモロスMorosとよび、これが英語ではムーアMoorsといわれた。もとはモロッコのマウリタニア地方のベルベル人をさすことばで、ローマ人もこれをマウリMauriとよんだ。▽「陸奥話記」前九年の役を扱った戦記物。▽ムリダンガムは南インドの太鼓。▽映画監督フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(1888-1931)は表現派的な怪奇ものを手がけたが、小市民の心理をついた「最後の人」(1924年)は無声映画史上の傑作。▽「ムリームリー」オーストラリア、アボリジニ神話の夢の精霊。(むむむ)

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ムーア人
ムイスカ文化
ムウェル(湖)
ムエタイ
無学祖元
ムガル帝国
無窮動
無垢島(大分)
椋梨俊平
ムクノキ(樸樹)
むくみ(浮腫)
ムクンドラーム・チャクラバルティ
無限大
ムコ(墨湖) 韓国
向島百花園
武庫川
無作為抽出
ムササビ
武蔵野
ムサンダム半島
枲の垂衣(むしのたれぎぬ)
霧社事件
武者小路実篤
無重力
無条件降伏
無神論
ムズターグアタ(山)
ムスティエ文化
ムスリム商人
無声映画
ムーセイオン
ムソルグスキー
ムータンチャン(牡丹江)
むち打ち症候群
ムツゴロウ(鯥五郎)
ムッソリーニ
睦仁
陸奥宗光
陸奥話記
無敵艦隊
棟方志功
ムラビンスキー
村山槐多
ムーラン・ルージュ
無理数
ムリリョ
Mridangam ムリダンガム(楽器)
ムリームリー
ムルシア(スペイン)
ムルナウ
室生寺
室戸岬
室町時代
ムワッヒド朝
ムンク
ムンテニア公国(ルーマニア)
ムンプス難聴

二字熟語研究

    知っているようでしらない漢字。二字熟語で覚えるのがコツ。意外とめでたい語より、悲しい、恨み、恐れ、などの強い感情の入り混じる熟語が精神の鍛錬には良い効果がある。旧約聖書、中国の古典などをみればわかる。

矍鑠(かくしゃく) 年老いても、丈夫で元気なさま。

詭弁(きべん)   筋道の通らないことをたくみなことばで言いくるめごまかす議論。

志尚(ししょう)  気高い志

憔悴(しょうすい) 病気・悲しみ・心配ごとなどのためにやつれること。

盈虚(えいきょ) 月が満ちたり欠けたりすること。栄枯

忖度(そんたく) 他人の心の中をおしはかる

忍性(にんしょう)生まれつき持っている飲食・色欲の性質をこらえ押さえる

忘優(ぼうゆう) 憂いを忘れる

忸怩(じくじ)   心に恥じるさま

忠鯁(ちゅうこう)真心があって剛直なこと

念祖(ねんそ) 祖先のりっぱな名をけがさないと思う

忿怒(ふんど)  怒り

怨骨(おんこつ) 恨みながら死んだ人

怯懾(きょうしょう)おじけ恐れる

怙終(こしゅう)  自分の行動に自信をもって、ふたたび罪を犯す者。一説に、悪事を頼みにして生涯改心しない者。

思殺(しさつ)   深く思う。殺は強意の助字。

思服(しふく)   常に深く思って忘れない。服は心にいだく。

怵惕(じゅってき)心が恐れてびくびくする

忽卒(そうそつ) 忙しいさま

怊乎(しょうこ)  いたみ悲しむさま

怫恚(ふつい)  むっとして怒る

悁恚(けんい)  怒る

悔吝(かいりん) あやまちを悔やむ

恢誕(かいたん) 言説が大きいだけで実がない。大げさででたらめ

恪勤(らくきん)  職務によく励む

改竄(かいざん) 書類などを自分の都合のよいように書きかえること

恭虔(きょうけん) うやうやしくつつしみ深い

恵雨(けいう)   草木をうるおす恵みの雨

恒心(こうしん)  常に変わらない心

更迭(こうてつ) ある地位や役目についている人が入れかわること

恣欲(しよく)   欲望をほしいままにする

恤刑(じゅつけい)刑罰をみだりに加えないようにつつしむ

擾乱(じょうらん)世の中がさわぎ乱れること

恕思(じょし)   思いやる

追従(ついしょう) 人の機嫌をとっておせじを言うなどすること

恬淡(てんたん) 心が静かでさっぱりしているさま

恫喝(どうかつ)  おどしつける

篤敬(とくけい)  誠実でつつしみ深いこと

悪果(あっか)   悪い報い

患害(かんがい) わざわい

悉曇(しったん)  成就。完成。

悌友(ていゆう)  兄弟や長幼の仲がむつまじいこと

韜晦(とうかい)  自分の本心や才能・地位などをつつみかくすこと

悖行(はいこう)  道にはずれた行い

莫逆(ばくぎゃく) 親しい間柄

篳路(ひつろ)   飾りのないこと

悠忽(ゆうこつ)  とりとめもなく月日を送る

悒鬱(ゆううつ)  心がふさぐ

遥昔(ようせき)  遠い昔

怜悧(れいり)   さとい。りこう

悢悢(りょうりょう)悲嘆するさま

悋嗇(りんしょく) 極端に物惜しみをする

惟神(いしん)   神のみ心のまま

惋恨(れんこん)  嘆き恨む

齟齬(そご)     意見や物事がくいちがうこと。

ジャンヌ・ダルク祭

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  イザボー・ド・バヴィエール

  1429年5月8日、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)はオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。ジャンヌの父はジャック・ダルク、母はイザベル・ロメールといわれる。しかしフランスには「フランスはイザボーによって破滅し、ジャンヌによって救われた」という言葉がある。この意味はジャンヌ・ダルクはフランス王室(シャルル)の血を受け継ぐものであったという伝説にもとづくものである。イザボーとはシャルル5世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(1370-1433)のこと。イザボーは夫のシャルル5世が発狂したあと、シャルル5世の弟ルイ・ド・ヴァロア(オルレアン公)と親密な関係となり、生まれた子がジャンヌ・ダルクと一説にいわれている。ところがヴァロワは1407年謀殺されているので、ジャンヌ・ダルクの生年は定説よりも5年もさかのぼることになるので、24歳で処刑されたことになる。もちろん生年とされる1412年説も明確な根拠があるわけではないのだが、これらの伝説が生まれる背景には、聖女の母親がたとえ裏切者、売国奴、淫乱とされるイザボーであっても、オルレアン党を正当な王統とする史観があるからであろうか。ジャンヌの王女伝説を信奉する人々を「バタルディザン」(バタールとは私生児の意)と呼ぶ。

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2018年5月 7日 (月)

プラトンは「広い」という意味の渾名

Platon     紀元前427年のこの日、ギリシアの哲学者プラトンはアテネの名家に生まれた(ただし生年については紀元前428年など諸説ある)。ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半の哲学史家)によると、プラトンの本名はアリストクレスである。体格が立派で肩幅が広かったため、レスリングの師匠であるアリストンに「プラトン」(広いという意)という渾名で呼ばれ、それが定着したのである。

    プラトンの言葉に「人間の最も基本的な分類として、知(wisdom)を愛する人、勝利(honor)を愛する人、利得(gain)を愛する人、の三つがある」。昨夜観た映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」でのワン・シーン。池松壮亮が住むアパートの隣人。心やさしそうな老人(大西力)だが貧しくてエアコンが使えない。ある日、熱中症で死体が発見された。室内の書棚には難しそうな哲学書が並んでいた。作家の意図するところは不明だが何故か心打たれた。(5月7日)

「る」 ファースト・ネームから引く人名一覧

4loui1  ルイ・リュミエール(1864-1948)。トーマス・エジソンと並ぶ世界で最初に映画を作ったリュミエール兄弟の弟。1896年1月25日に公開された「ラ・シオタ駅への列車の到着」(50秒)を見た観客は自分たちに向かってくる列車に驚いて、叫び声をあげて逃げ出したという話が伝わる。

ルー・ゲーリッグ
ル・コルビュジェ
ルー・テーズ
ルイ・アルチュセール
ルイ・ウジェーヌ・ブーダン
ルイ・エクトル・ベルリオーズ
ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホ
ルイ・ジューベ
ルイ・ジュールダン
ルイ・ド・フュネス
ルイ・ブライユ
ルイ・ブレリオ
ルイ・マル
ルイジ・プルタ
ルイジ・ボッケリーニ
ルイス・ガズマン
ルイス・ゴセット・ジュニア
ルイス・バート・メイヤー
ルイーズ・プラット
ルイーズ・ブルックス
ルイーズ・ライナー
ルイス・リーキー
ルーカス・ヴァン・ヴァルケンボルク
ルーカス・クラナッハ
ルーカス・ハース
ルカーチ・ジェルジ
ルキノ・ヴィスコンティ
ルーク・ウィルスン
ルーク・エヴァンズ
ルーシー・アイアムス
ルーシー・リュー
ルシアン・バイディ
ルシール・ボール
ルース・チャタートン
ルチアーノ・パヴァロッティ
ルッツァンテ
ルート・ロイベリック
ルトガー・ハウアー
ルドヴィコ・アリオスト
ルドヴィコ・イル・モーロ
ルドヴィコ・カラッチ
ルドヴィコ・ザメンホフ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
ルートヴィヒ・レヴィン・ヤコブソン
ルドルフ・カール・ブルトマン
ルドルフ・クリストフ・オイケン
ルドルフ・シュタイナー
ルドルフ・ディーゼル
ルドルフ・バレンチノ
ルドルフ・フェルディナント・ヘス
ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス
ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー
ルーニー・マーラ
ルネ・カール
ルネ・クレマン
ルネ・クレール
ルネ・サン・シール
ルネ・デカルト
ルネ・フォール
ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット
ルネ・プレヴァン
ルバート・エヴァレット
ルバート・グリント
ルパート・グレーブス
ルバート・フレンド
ルーファス・シーウェル
ルフィーノ・タマヨ
ルーラント・サーフェリー

05140000503dd57a979273542e0468ed    ルネ・カール(1875-1954)はテアトル・デ・ザールなどの芝居で舞台女優として活躍していたが、ある日、その美貌がルイ・フイヤード監督の目にとまった。フランス女優らしいコケティッシュな魅力で人気をえる。とくに「ファントマ」シリーズではベルタム夫人を好演した。晩年ジュリアン・デュビビエの「望郷」にもタルテの役で出演している。(Renee Carl,Lady Belthan,Fantomas)

薩摩に亡命した豊臣国松?!

    1615年のこの日、大坂夏の陣で大坂城が落城した。「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。

    大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。5月7日 (参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)

2018年5月 6日 (日)

英語ことわざ「覆水盆に返らず」

    周の太公望の妻が貧乏に耐えられずに去ったが、太公望が斉に封ぜられると前妻が復縁を求めてきた。太公望は盆を傾けて水をこぼし、その水をもとに戻せば願いを受けるといった故事による。「覆水盆に返らず」離別した夫婦の仲は元どおりにならないこと。日本や中国の「故事」や「ことわざ」は、英語では「proverb」と言う。国や文化は違っていても似たような内容を伝えているものは少なくない。

A drowing man will clutch at straws.

溺れる者は藁をも掴む

Experience without learning is better than learning without experience.

学問なき経験は、経験なき学問にまさる

 

It is no use crying over spilt milk.

こぼれたミルクを見て泣いても無駄だ。由来は17世紀のウェールズの歴史家ジェームズ・ハウェルの言葉で、当時はspitの代わりに「液体をこぼす」という意味のspedを使っていたようです

「亀の甲より年の功」は「Live and learn.」「The older,the wiser.」「Years bring wisdom.」と、さまざまに訳される。ギリシアでは「老いたサルは罠にかからない」、フランスでは「狩りは老犬にかぎる」、ポーランドでは「年功は書物より多くのことを知っている」などある。聖書箴言16-31には「白髪は、神の従う道に見出されるとき、栄光の冠である」

Long life is the reward of the righteous,gray hair is a glorious crown.

 

貧乏人の子沢山

Poor peaple have large families.

 

豚に真珠を投げ与えるな

Don't cast pearls before swine.

 

転石苔むさず

A rolling stone gathers no moss.

 

ペンは剣よりも強し 

The pen is mightier than the sword.

 

悪事千里を走る

You cannot cover up a crime.(罪悪を覆い隠すことはできない)⇒Ill news runs apace.(悪い知らせはたちまち伝わる)

 

頭隠して尻隠さず

It's like bnrying your head in the sand like an ostrich.(だちょうは追われると砂の中に頭を突っ込み、隠れたつもりでいるといわれる)

 

悪貨は良貨を駆逐する

Bad money drives out good money.

 

暑さ寒さも彼岸まで(彼岸と一緒に穏やかな気候がやってくる)

A mild climate comes with the equinox.

 

あとのまつり

It's too late now.(もう遅すぎる)

 

後は野となれ山となれ

After us the delude.(我々が死んだ後に大洪水よ起これ)

 

虻蜂取らずになる

fall between two stools.(2つの椅子の間に落ちる)

 

過ちを改むるに憚ること勿れ

It's never too late to mend.(行ないを改めるのに遅すぎることはない)

 

嵐の前の静けさ

It was like the calm before a stom.(それはあらしの前の静けさに似ていた)

 

案ずるより生むがやすし

An attempt is sometimes easier than expected.(やってみることのほうが思っているよりも易しいことがある)

 

言うは易く行うは難し

Easier said than done.

 

石橋をたたいて渡る

consider carefully before one acts (よく考えてから行動する)

look before one leaps (跳ぶ前に見る)

医者の不養生

Doctors often neglect their own health.(医者よ、自分自身も治せ)

 

衣食足りて礼節を知る

Well fed,well bred. (食べ物が十分に与えられれば立派に育つ)

 

急がば回れ

More haste,less speed. (急げば急ぐほど時間が遅くなる)

Make haste slowly. (ゆっくり急げ)

 

痛くもない腹を探られる

I was suspected without cause. (理由なく疑われた)

 

All things are proved,until they are proved impossible.

 

どんなことも可能である

不可能と証明されるまでは

Hear twice before you speak once.(一度語る前に二度聞け)

隣の芝生は青く見える

The grass is always greener on the other side of the fence.

嵐の後に凪がくる(雨降って地固まる)

After a storm comes a calm.

馬子にも衣装

Fine feathers make fine birds.

心を寄せる場所がふるさと(住めば都)

Home is where the heart is.

勉強勉強で遊ばない子は馬鹿になる(よく学びよく遊べ)

All work and no play makes Jack a dull boy.

ローマは1日にして成らず

Rome was not built in a day.

生れるまでひよこの数を数えるな(取らぬ狸の皮算用)

Don't count your chickens before they are hatched.

頼れるのは自分だけ
have only oneself to rely on

自由は無償ではなく、尊い犠牲のうえになる。ワシントンの朝鮮戦争戦没慰霊碑に刻まれている。
Freedom is not free.

論より証拠。直訳は「プリンの味は食べてみなければわからない」実際に試してみなければ物の真価はわからないということ。
The proof of the pudding is in the eating.

 

「ア」から始まる国は?

    クイズで「ア」からは始まる国は何カ国あるか?アイスランド、アイルランド、アゼルバイジャン、アフガニスタン、アメリカ合衆国、アラブ首長国連邦、アルジェリア、アルゼンチン、アルバ、アルバニア、アルメニア、アンゴラ、アンティグア・バーブーダ、アンドラ。かつて存在した国はアンギラとアッシリアの2ヶ国。アンギラは1969年から80年まで一時イギリスから独立していたことがある。アッシリア帝国は紀元前20世紀から紀元前7世紀、メソポタミア北部で繁栄した。合計16ヶ国。非独立地域にはアルーバ(オランダの自治領)、アングィラ(イギリス領)がある。

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ローマ劫掠によってルネサンスは滅んだ

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   1527年5月6日、ドイツのカール5世がローマに侵入。殺戮、破壊、強奪などを行う「ローマ劫掠」といわれるものである。1万5000人のドイツ傭兵を中心とする神聖ローマ皇帝軍が、暴徒と化して城壁を乗り越えてローマに侵入した。教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に避難したものの、バチカンの礼拝堂は馬屋に使われ、ラファエロの作品の上に落書をした。10日間にわたるローマの略奪により、文化財は破壊し尽くされ、ルネサンスの一大中心地として栄えたローマの時代は終わりをつげた。

2018年5月 5日 (土)

元弘の乱起こる

   元弘元年(1331)5月5日、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に洩れ、日野俊基や僧文観・円観らが捕らえられる。密告者は吉田定房(1274-1338)といわれる。定房は計画を中止するように度々諫奏したが聞き入れられなくて、そのために密告した、というものだった。そして笠置山で旗揚げした倒幕勢力は鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐に流される。持明院統の光厳天皇が即位し、元弘の乱は一応終息したかにみえた。しかし、翌年には楠木正成が再度挙兵し、元弘3年には後醍醐も島を脱した。5月8日、新田義貞が鎌倉に攻め入って、鎌倉幕府は滅亡する。

字形類似の漢字の話

   クイズ番組。「回答」か「解答」か。漢字の使い分けは難しい。テレビなどのテロップ文字で誤字をよくみかけることがある。ことに漢字には多くの種類があり、字形がよく似ている字がある。「焉馬(えんば)の誤り」という言葉がある。「焉」と「馬」とは字形が似ていて間違いやすいことから文字の誤りのことを意味する。

 今年の箱根駅伝のテレビ中継のテロップ」。「たすき」を「欅」と誤って表示。「襷(たすき)」と「欅(けやき)」の漢字はつくりが同じで間違いやすい。

林修先生がNHKで「雹(ひょう)」という漢字を間違える。「雨」かんむりの下の字が「包」となっていた。「包」と「苞」は似ている。「同胞」と「雹」も要注意!「包」「泡」「飽」「港」は「己」、「雹」「鮑」「鞄」は「巳」。

巳 シ み

已 イ すでに・やむ

己 キ・コ おのれ

 これらの文字は、とくに蛇と糸すじの象形で字形が似ているので紛れやすい。「土」と「士」、「未」と「末」、一画の長さでまったく異なった意味の文字になる。むかし新聞などで「天皇陛下」を「天皇陸下」を誤字したことがあった。

    とかく漢字には紛らわしいものが多い。「微」と「徴」。「門」と「問」。「紛失」の「紛」と「粉」。「牛」と「午」。「宣」と「宜」。「壁」と「璧」。「樋」と「桶」。「冒」と「昌」。「欧」と「殴」。「萩」と「荻」。「刺(し、名刺)」と「剌(らつ、溌剌)」。「貪」と「貧」も似ているが、「貧」は、分+貝、貧しいという意味。「貪」は、今+貝、むさぼるという意味で、まったくの別字である。「弊」と「幣」。「弊」は、破れてボロボロになる、つかれる。「弊害」。一方、「幣」は神に供える絹、客への贈り物、宝物、おかねといった尊いものを表す字。「貨幣」。「冷」と「泠」 にすいとさんずい。

    杮落しの「杮」と「柿」。崇徳天皇の「崇」と「祟(たたり)」。[鳥(とり)」と烏(からす)」。「己(き)」と「已(やむ)」「巳(み)」、「戊(ぼ)」「戌(いぬ)」「伐(ばつ)」「戍(じゅ)」「戎(えびす)」「戉(まさかり)」が紛らわしい。紛らわしい漢字の覚え方として、「瓜にツメあり、爪にツメなし。牛にツノあり、午にツノなし」という歌がある。

     「僕」「撲」「樸」も紛らわしい漢字の1つ。これらはみな「ボク」と読む同音異字。僕は「しもべ」という意味で熟語には「家僕」がある。撲は「うつ」という意味で熟語は「撲滅」がある。樸は「切り出したままの材木」という意味で「朴」と同じで「樸訥」(飾り気がなく、口べた)という熟語がある。

 「嬴」「贏」「蠃」「羸」「臝」という漢字もある。「嬴(エイ)」は秦の姓。「贏(エイ)」は儲ける、勝つの意味。「蠃」は螺(ラ)の本字。「羸(ルイ)」は痩せるの意味。「臝(ラ)」は虎、豹のたぐい。このほかに、「驘」は騾の異体字もある。

 儒家の「荀子」と「筍(たけのこ)」。「壁ドン」と「完璧」。

エッフェル塔とモーパッサン

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  1889年5月5日、パリのエッフェル塔が公開された。フランス政府はフランス革命100周年にあたるこの年に開催するパリ万博の目玉にエッフェル塔の建設を決定した。ところが作家、詩人など約50人が、「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と大変な剣幕で連名の陳情書が出された。陳情書には作家のアレクサンドル・デュマ・フィス、ギ・ド・モーパッサン、ジョリス・カルル・ユイスマンス、作曲家のシャルル・グノー、画家のエルネスト・メイソニエ、詩人のフランソワ・コペー、シュリー・プリュードムらが名を連ねていた。とくにモーパッサンのエッフェル塔嫌いは有名で、「工場の煙突のように滑稽でうすっぺらな生まれぞこないの横顔をみせる、巨大で不格好な骸骨」と罵った。1889年3月31日、エッフェル塔は完成した。

   ところが1889年5月6日、エッフェル塔が公開されると大評判となり、とくにレストランは美味しい料理と上等のワインで大賑わいであった。あるとき新聞記者がエッフェル塔に取材に行くと、なんと反対運動をしたモーパッサンがレストランにいた。それを見た記者は「あんなに反対したのに、やっぱり出来てみればあなたもこの塔が気に入ったのですね」と話しかけた。ところが流石はモーパッサン。落ち着きはらって「ここがパリでエッフェル塔が見えない唯一の場所だからね」と平然と答えたという。

Maupassant  

( keywod;Alexander Gustave Eiffel,Maupasant,Alexandre Dumas,Jons Karl Huismans,Charles Fracois Gounod,Jean Louis Ernest Meissonier,Francois Coppee,Sully Prudhomme )

2018年5月 4日 (金)

名刺のルーツ

Garamontdebernyetpeignotdsc4444    本日は「名刺の日」。May(メイ)と四(し)で「めいし」の語呂合わせ。日本のサラリーマンが必ず持っているもので、欧米ではあまり見られないものに名刺がある。だが世界で最初に名刺が使われたのはヨーロッパで、16世紀のドイツが起源といわれている。当時、人を訪ねていって不在だった場合、自分の名前を書いたカードを残していったのが名刺の始まり。その後18世紀、名刺はヨーロッパ社交界で盛んになる。この頃の名刺は銅版画を入れた美しいものが流行った。

Img_news    官僚制度が古くから発達した中国では名刺の起源は、少なくとも秦の末期に遡ることができる。漢代には「刺」「謁」と言い、謁見を求める者の姓名と身分を札に記して、取り次ぎを要請するのに使われた。三国、唐と「名謁」「名刺」と呼ばれ、宋代以降「名帖」「名紙」「拝帖」などの呼称がある。近年、古い名刺が墓から出土している。1984年に呉の武将、朱然(182-248)の名刺が発見された。「丹陽朱然再拝 問起居 字義封」と墨書してあり、木簡の長さは24.8㎝、幅3.4㎝。(参考:「漢晋時期における名謁・名刺」呂静香、程博麗、東洋文化研究所紀要160、「人間関係のはじまり」貝塚茂樹 1971、5月4日)

2018年5月 3日 (木)

カラスが飛んで梨が落ちる

   「カラスが飛んで梨が落ちる」韓国のことわざ。カマグイ ナルジャ べ トロジンダ。まったく関係のないことが同時に起きたために思わぬ疑いをかけられる、という意味でよく使われる。本来は仏教説話がもとにあり、四字熟語「烏飛梨落(オビイラク)にもなっている。ある日、梨の木の枝で休んでいた烏が飛び上がったとき、その揺れで梨が落ち、下にいた蛇が死んだ。そのあと蛇がイノシシに生まれ変わり、烏はキジに生まれ変わる。今度はイノシシが間違って石を落とし、卵を抱いていたキジがその石で死ぬ。そのキジが人間に生まれ変わり、今度はイノシシを狩ろうとしている。それを見た一人の法師が、その2人の因縁を見極め、イノシシを殺さないように説得し、繰り返される因縁を切ったという話がある。

中国地理学と文献書目

Chaina

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口13億8271万人(台湾、香港、マカオを除く)。2016年末の統計。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。人口は世界第1位である。

民族 漢人が91.5%で、少数民族が、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の民族がある。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。

中国の地域区分

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   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
新中国地理 森下修一訳編 古今書院 1956
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
アジアの農業 アジア経済講座3 石川滋編 東洋経済新報社 1971 
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
中華人民共和国地質図集 付・別冊 中国地質科学研究院主編 佐藤信次訳 築地書館 1980
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

珊瑚海海戦

    開戦以来、緒戦に赫々たる戦果を収めた日本軍であったが、ニューギニアのポートモレスビーを攻略することが作戦上絶対に必要であった。MO作戦といい、日本海軍の指揮官は井上成美中将であった。昭和17年5月3日、海軍のツラギ攻略隊は占領に成功した。ところが、いち早く敵の察知するところとなり、5月7日、祥鳳が米艦載機の攻撃を受け撃沈される。祥鳳の沈没は日本空母としては初の損失である。5月8日、日本側の瑞鶴、翔鶴、米側のレキシントン、ヨークタウン、世界初の空母対空母の海戦となった。海戦の損害は、日本側は祥鳳・沈没、祥鶴・中破、艦載機81機喪失、米側は空母レキシントン、給油船ネオショー、駆逐艦シムス・沈没、空母ヨークタウン・中破、艦載機66機喪失。この戦いは戦術的に見れば日本側の勝利だが、戦略的に見ると翔鶴・瑞鶴がしばらく戦線に復帰できず、ポートモレスビー攻略も中止になったため、必ずしも日本が勝利したとはいえない。アメリカもこの海戦でレキシントンを失ったため、次のミッドウェー海戦で戦力を充分に発揮できるのは、エンタープライズとホーネットだけという苦境に立たされた。しかし損傷したヨークタウンは真珠湾に帰港し、日本側が3ヶ月かかるであろうと予測したが、不休の突貫工事で、ミッドウェー沖に出撃し活躍した。これがミッドウェーにおける日本の敗因の一つとなったとも言える。

2018年5月 2日 (水)

知性と教養の話

Vitruvian20man    とにかく現代ほど知性と教養が求められる時代はない。大学教授が毎日のようにテレビに出演していると、勉強している時間はあるのか、と心配したくなる。漱石・鷗外の時代に比べると、現代人は知性と教養が劣化したと感じるのは私だけだろうか。

   ルネサンスが生んだ偉大な天才レオナルド・ダ・ヴィンチの興味や関心は当時知られていた学問のほとんどすべての分野に及んでいる。レオナルドが残した手稿の大半が科学や技術に関するものである。そしてそこにはレオナルドの深い洞察力と自然に対する鋭い観察がある。

Marnold  イギリスのマシュー・アーノルドは19世紀繁栄をもたらした自由主義が本来の姿を失って、社会の各階級は物質万能の思想にとりつかれ、政治・経済・文化・宗教の各領域に混乱と無秩序が現出していることを憂い、この無秩序を教養によって救うことを説いた。主著「教養と無秩序」(1869年)では個人の教養の充実によって社会の文化もまた進歩するものと説いている。

    では常識や知識・教養とは何か。現代人はこのことにつねに悩む。若い人は学校などで教わる科目や授業内容で将来役に立つのだろうかと。また大学の進路で、人文科学・自然科学・社会科学のいずれを選択するのか。画家や音楽家になりたかったが、親のすすめで法学部や経済学部へ行ったという人も多いだろう。またクイズ問題が得意で、実社会では物知りと言われても、教養人とは言われないだろう。口語的に「あの人は教養がある」と言う場合は、人付き合いや社交の場において、洗練された会話や身のこなし、マナーのある人ができる能力をさすことが多い。だが人ウケがする話術だけが教養人の要素ではない。ある人は教養人とは「慎みと品格」である、と言っていた。その人が学習して得た知識をひけらかして得意満面の人間は教養を感じさせない。だからといって、過去の人類の知識をまったく貯蔵しなければおバカといわれる。つまり人格プラス知識の貯蔵庫、の両輪が求められる。

   日本国際ギデオン協会という団体がある。日本人にはこの「ギデオン」がわからない。ギデオンとは旧約聖書・士師記に登場する12人の士師の1人。神からの召命を受け、当時のイスラエル人を近隣の部族の襲撃から守るリーダーとなった。わずか300人の兵で12万人のミデヤン人の軍勢を破った戦いは有名で、信仰の勇者として知られる。女士師デボラや怪力のサムソンの物語など教養として知っておくべきだろう。

異常なまでに高められた常識のことを、世間は知恵と呼んでいる(コールリッジ)

Matthew Arnold、5月2日

2018年5月 1日 (火)

人類進化と文明への歩み

Img
左から直立猿人、
ネアンデルタール人、クロマニョン人

  遠い昔の話、ケペルがまだ高校生の頃だった。突然、家に訪問された若い女性が「あなたは人類の祖先がサルだと思いますか」と質問された。「ヒトが猿と分かれたのは、およそ700万年前、アフリカであろう。類人猿は少しづつ進化して現代の人類となった」と進化論で答えた。その人はエホバの証人で、人間がサルから進化したことを否定され、人類は神の創造物だという。ケペルもまだ若かったので、かなり向きになって進化論を主張した。それからもエホバの証人とは何年間も対話を続けるが、やはり進化の話しになると対立する。今でも人類化石の発掘報道がある度に新聞の切り抜きを集めたりする。ラミダス猿人(440万年前)、アウストラロ・アファレンシス(320万年前)、ジンジャン・トロプス・ボイセイ猿人、イダルトゥなど次々と発掘が続いた。ところが諸説あるが、トゥーマイ猿人(サヘラントロブス属)のように実はゴリラだったということもある。人類はいつどこで誕生し、どのように世界へ広がったのだろうか。

 世界史という学問は基本的には人類と文明への歩みを「進化」で解き明かしている。人類は約700万年前から600万年前にかけてアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見した。しかし当時のイギリスの学界は「キースのルビコン」(脳の容積が750cc以上がヒトで、それより以下がサルとする説、Cerebral Rubicon)といわれる学説が支配的でダートが発見した化石は類人猿とみなされた。しかし1950年にアメリカの学界でアウストラロピテクスは猿人として認められ、ダートの名誉は回復している。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、少なくとも3万年前には絶滅したとされる。つまり旧人から新人へと進化した(多地域進化説)のではなく、約20万年前にアフリカで登場した新人(初期ホモ・サピエンス)が約10万年前にアジアにも広がり、それが現代人へとつながったという説(アフリカ単一説)が有力である。ミトコンドリアDNAの研究では、世界中に分布する人間の集団におけるマイクロサテライト(人類の遺伝的差違の大部分を占める遺伝子領域)解析の結果、中東に住む集団と北東シベリアに住むヤクート族の集団の先祖において、ボトルネックが生じた可能性が高いという。つまりわずか4~6万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。これまでに人類はおよそ1000億人が生まれたと推計される。

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  やがてそれぞれの地方の気候や風土に適応してモンゴル(黄色)人種、ネグロ(黒色)人種、コーカサス(白色)人種などの人種にわかれた。(世界史、アーサー・キース)

脳容積の比較
 猿人(490万年前) 435~600cc
  原人(70~40万年前) 800~1300cc
  旧人(15万年前)  1300~1600cc
  新人(数万年前)  平均1600cc

稲作はどこから来たのか?

Photo

    かつて中学校の歴史教科書で稲作の起源は弥生時代の初め頃と教わった。しかし近年、菜畑遺跡、板付遺跡、砂沢遺跡などの発掘調査から稲作は、紀元前4世紀、縄文時代末期から始まっていたと考えられるようになっている。日本に稲作が伝来したルートは主に3つある。長江流域から黄河を越えて、朝鮮半島経由で北九州へ到達したという北方ルート説(A)。長江中・下流域から東シナ海を越えて北九州に伝わったとする東シナ海ルート説(B)。東南アジア、中国雲南から経由する南方ルート説(C)。長江流域の良渚遺跡より直接日本に伝わったとする説も有力であるが、稲のDNA分析の結果からはAルートの伝来が有力と考えられている。Cルートはタイのバン・チアン遺跡が注目されるが、現段階では推測の域を出ず、今後の研究を待たねばならない。( keyword;Ban Chieng )

「ハ」事項索引インデックス

20090701_hailuoto    「貝多羅葉」貝多羅ともいう。かつて南アジアや東南アジアで広く使われたシュロやヤシの樹木の葉を利用した文書の材料。▽「パサロヴィッツ条約」1718年オスマントルコがオーストリア、ベネチアとの間に締結した条約。▽「バシーの虐殺」1562年に起こったユグノー教徒を多数殺傷した事件。▽「バシリク古墳群」ロシア南シベリア。スキタイ人の遺物が発見される。▽「ハガイ」イスラエルの預言者。前6世紀バビロニア捕囚から帰還後、荒廃したエルサレム神殿を再建すべきことをすすめた。▽「パイロットファーム」1956年北海道の根釧台地で機械を導入し近代経営の形態をとる先駆的な実験農場。▽「ハイアット」1870年セルロイドを発明。 ▽「パストラル」ベートーヴェン・ピアノソナタ「田園」。▽「半仙戯(はんせんぎ)」ブランコのことで、半分、仙人になった気分になるからとか。▽「牌符」元の駅伝制(ジャムチ)で使用された通行証。▽「ハイメ1世」イベリア半島東部のアンゴラ連合王国の王ハイメ1世は13世紀イスラム支配下の地域を征服してレコンキスタの大躍進を果たして征服王と呼ばれた。▽「バージェス頁岩」約5億500万年前の海棲動物群を化石として閉じ込めた、そのころ海底崖であったところの堆積層。発見者チャールズ・ウォルコットにちなんで命名された。▽「パシュート」平昌五輪で高木美帆ら三選手スピードスケート団体競技で金メダル。pursuitとは「追跡」という意味。▽「ハナミズキ」アメリカ原産で、大正初年に渡来し、庭などに植栽された。アメリカヤマボウシという。4月から5月、白・淡桃色の四枚の大きな花びらがあざやかである。▽「ハジチ」かつて琉球列島で女性の指から手の甲、ひじにかけて施された入れ墨。「針突」と表記する。成女儀礼、本土にさらわれないための魔除けの願いが込められている。▽「バンジュール」ガンビア共和国の首都。▽「バイオーム」生物群系。ある気候条件の地域で、それぞれの条件下での安定した極相の状態になっている動植物の集り(群集)をいう。気温と降水量が主な環境要因。バイオ(bio=生物)とオーム(ome=全体)という2つの言葉をつないだもの。▽「バージェス動物化石群」1910年にアメリカの古生物学者チャールズ・ウォルコットがカナダ南部のロッキー山脈でバージェス頁岩を発見。化石の中にはピカイアやアノマロカリスも含まれる。▽「パラリンピック」パラプレジア(脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピックの造語。第一回大会は1960年のローマだが、用語が広まったのは1964年の東京大会からである。▽「バルバロッサ作戦」第二次世界大戦中のドイツ軍によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の名称。(ははは)

ハアバイ(群島) トンガ王国
バアルべク(レバノン)
バイアグラ
ハイアット
バイアブランカ(アルゼンチン)
梅雨
バイオーム
バイカル湖
バイキング
バイクスピーチ(山)アメリカ・コロラド州
牌符(パイザ)
背水の陣
貝多羅葉(ばいたらよう)
ハイチ
ハイヌウェレ
灰の水曜日
バイブル
ハイメ1世
バイヨンヌ(フランス南西部)
ハイルオト(島) フィンランド北西部(画像)
ハイレ・セラシエ1世
パイロットファーム
バウハウス
パウロ
ハオルシア・オブツーサ
馬鹿
ハガイ書
葉隠
博多どんたく
ハギア・ソフィア(イスタンブール)
ハギオス・デメトリオス聖堂
パキスタン
萩原朔太郎
パーキンソン病
パグウォッシュ会議
パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)
パクス・ロマーナ(ローマの平和)
白村江の戦い
バグダッド
バクテリア
ハクビシン(白鼻心)
箱根
パサルガダエ
パサロヴィッツ条約

バージェス頁岩
ハジチ
バージェス動物化石群
バージニア(州)
バシーの虐殺
ハシバミ
パシフィック・メイル汽船会社
パシュート
バジリカータ(イタリア南部)
バジリク古墳群
パストラル
バセドウ病
バーゼル(スイス)
パタヴィア
パチャカマック神
パチンコ
バッキンガム宮殿
パッサロヴィッツ条約
ハトシェプスト
ハード・ボイルド
ハトロン紙
パナマ文書
ハナミズキ
バーナム効果
花より団子
バビロン捕囚
ハピントン陰謀事件
バベルの塔
パホイホイ溶岩
歯舞諸島
バーミヤン
ハメーンリンナ(フィンランド)
バラ
ハラッパ
バラモン教
パラリンピック
パリ
バリウム
バリスカン造山運動
バリ島(インドネシア)
バルタザール
ハリファックス(カナダ)
ハルシュタット文化
バルバスバウ
バルバロッサ作戦
ハレー彗星
パレンバン
ハロウィーン
バロック
漢江(はんこう)
パン
パンアメリカン航空
バン・アレン帯
版画
樊噲(はんかい)
ハンガリー
パンジャブ
バンジュール
バンギ
半規管
ハングル
ハンゲショウ
万古焼
犯罪
ハンザ同盟
半紙
パンジー
阪神タイガース
パンセ
パンダ
半田鏝
番茶
パンチャタントラ
蕃鎮
パンツァーリート(ドイツ戦車行進曲)
半仙戯
パンテオン
半島
パントテン酸
半導体
バンドン(インドネシア)
ハンニバル
パンノキ
万里の長城
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 パンノキ 

怪談河内介

F0122653_11183914     1862年のこの日、維新の志士、田中河内介は捕らえられて、薩摩への護送の船中で殺された。

    大正の初め、京橋の画博堂で何人かが怪談話をしていると、一人の見慣れない男がやってきて、自分にもひとつ話をさせてくれという。田中河内介の最期である。河内介は幕末の勤王家で祐宮(明治天皇)の教育係でもあり、立派な人物であった。伏見寺田屋で薩摩藩士有馬新七らと関白九条尚忠暗殺を画策する。だが島津久光は奈良原繁、大山綱良らを派遣して鎮撫させた。河内介は捕らえられ、鹿児島へ護送される途中、子の瑳磨介とともに殺害された。ところが座の一同はこの結末を聞くことはなかった。男の話は、いつまでも本題に入らない。語り始めるとまた最初に戻ってしまう。やがて皆あきあきして、一人、二人と席を立つものが現れた。いつか部屋には、男一人だけとなった。そして皆が一斉に席を外していたその僅かな時間の間に、何と男は死んでしまった。結局、河内介の最期は語られることはなかった。このような田中河内介禁忌はいまでも続いている。NHK大河ドラマ「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」でも田中河内介は登場しない。「天皇の世紀第9話」で丹波哲郎が演じたのが最初で最後であろう。田中殺害事件がタブーとなったのは、明治天皇が河内介を大変に憐れみ明治元勲たちが禁忌としたと一般には理由づけられている。むしろ祐宮時代をよく知る田中河内介が、明治天皇すりかえの首謀者にとって邪魔な存在であり、禁忌としたのが真相ではないだろうか。(5月1日)

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