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2018年5月31日 (木)

アーベルとガロア

Photo エヴァリスト・ガロア

    フランスのエヴァリスト・ガロワ(1811-1832)とノルウェーのニールス・アーベル(1802-1829)は同時代の数学者だが共通している点が多い。専門が楕円関数論と代数方程式論であることや、ガウスの影響を受けていること、若くして悲劇的な死をとげていることである。ガロアが1832年5月31日、決闘で受けた傷がもとで死んだことはよく知られているが、アーベルは病死である。ガロアは近世の高次代数方程式が代数的に解けるための必要十分条件を群の言葉で与えた。アーベルは五次以上の代数方程式は、一般に代数的には解けないことを証明した。楕円関数論およびアーベル関数論で知られる。2人はもちろん出会ったことはなかったし、論文を通じての認識すらなかったらしい。

2018年5月29日 (火)

新選組谷三十郎、謎の頓死

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  谷三十郎のことは、司馬遼太郎の小説の中では宝蔵院流の槍の達人と書かれている。(「槍は宝蔵院」)史実は弟の谷万太郎が種田流の槍術の遣い手で、兄の三十郎は神明流剣術の達人であった。谷三十郎の末弟昌武は近藤勇の養子となり、その縁故から隊内では三十郎は相当幅をきかせ、傍弱無人の振舞いが多かった。そのため新選組の中であまりよく言われていなかったようだ。多くの小説や映画では、ほとんど悪役として扱われている。ドラマ「新選組血風録」では土方歳三、沖田総司、斎藤一の3人によって殺害される。本当の史実は、三十郎が慶応2年4月1日、祇園階段下で突然頓死を遂げた。斎藤一の手にかかって斬殺されたという説、酒席での喧嘩説、永倉新八によれば病死という説、ともかく死因はよくわからない。三十郎の遺骸は、光縁寺に土葬された。現在、本伝寺(大阪市北区兎我野町)に墓がある。フジテレビ「新選組、士道に背きまじきこと」を見ると、戸浦六宏演じる谷三十郎は士道不覚悟として近藤勇(鶴田浩二)に斬られていた。

シンガポールの第三の男

 日活アクションスター、石原裕次郎、小林旭、そして赤木圭一郎。第三の男ってカッコイイひびきがあるが、第三の男が不慮の死をとげた日活はまもなく倒産した。政治の世界でも指導者が三人続いてこそ大願成就する。家康・秀忠・家光、康熙帝・雍正帝・乾隆帝、毛沢東・周恩来・そして鄧小平。インドはガンジー、ネルー、アンベドカル。北朝鮮は建国以来、金日成、正日、正恩と一族三代続いたが、行く末はどうなるのか。

バルタン星人来日

 フィレンチ・ポップスの女王シルヴィ・バルタンが最後の来日コンサート。今夜はNHKうたコンに登場し「アイドルを探せ」を歌うらしい。「♪ドライブウェイに春が来りゃ イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ」と「レナウン・ワンサカ娘」(小林亜星作詞・作曲)のCMが日曜洋画劇場で毎週流れたのは昭和36年のことだった。最初は、かまやつひろし、昭和37年、デューク・エイセス、昭和38年、ジェリー藤尾&渡辺友子、昭和39年、弘田三枝子、昭和40、41年、シルヴィ・バルタン、その後もヒデとロザンナ、久美かおり、セルスターズと一流ミュージシャンが歌い継いでいる。ところで「ワンサカ ワンサ ワンサカ ワンサ」という「ワンサ」という意味がよく分からなかった。広辞苑によると①「がやがやと大勢が押しかけるさま」とある。③わんさガールの略、とある。「わんさガール」とは「下っ端の映画女優や踊り子。大部屋女優」とある。

    当時まだ若かった小林亜星が③の意味で使ったとは考えられない。おそらく「ワンサカ ワンサ」とは①の沢山という一般的な意味で使用したのであろうが、当時のご年輩方には同時に「ワンサガール」という古い流行語を懐かしく思い出した方も定めしおられたにちがいない。現代感覚と昭和初期モダンとが「ワンサ」という一語に込められたとても優れたCMソングだ。

   ワンサガールの語源は「映画撮影所の大部屋女優や無名女優のことである。これは大正9年に松竹の蒲田撮影所が創立されてまもなくできたことばであるが、大部屋のあたりにわんさとむらがっている女優たちをみて、こんなのをワンサガールというんだわ、とある人がいったのが、すっかり流行したものであって、もちろん英語ではない。現今では少女歌劇のライン・ダンスにでる女優のこともワンサガールという。またワンサと略することもある。」(日置昌一著「ことばの事典」)

 

コンスタンティノープル陥落

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    1453年、若きスルタン、メフメト2世(1430-1481)に率いられたオスマン軍は、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。東ローマ皇帝コンスタンティノス11世バラオロゴス・ドラガセス(コンスタンティン・パレオロガス)はジェノヴァやヴェネツィアに援軍を求め、徹底抗戦の構えを見せる。そして5月29日、オスマン軍による総攻撃が開始され、コンスタンティノープルの西側の城壁を破って、市内に突入した。圧倒的な戦力差の前に皇帝は討死し、ついに東ローマ帝国は西暦330年以来、1123年間続いた歴史に幕が下ろされた。塩野七生は「一都市の陥落が一国の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか」(「コンスタンティノープルの陥落」新潮社)と記している。

    メフメト2世は19歳で父ムラートのあとを継いで、このとき23歳である。アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルのような野望を抱いていた。16万のオスマン軍は海と陸からコンスタンティノープルを包囲していた。東ローマ帝国は西欧に向けて、援軍を要請していたが、ギリシア正教会とカトリック教会との問題があって、援軍はヴェネツィア艦隊のみであった。だがコンスタンティノープルは三重の城壁(メソティキオン城壁)で囲まれ、ボスポラス海峡と金角湾とは鉄鎖によって封鎖されていてオスマンの艦隊は侵入できなかった。

    メフメト2世は陸上に軌道を敷設して、ボスポラス海峡から船を運び入れ、船を車輪つきの荷台にのせて、海抜60mほどのガラタの丘を越えて、金角湾側のガラタ地区に移動させた。それを一夜のうちに移動させ、封鎖された金角湾内に船を送り込むという奇策であった。さすがの難攻不落を誇ったコンスタンティノープルも陸上と海上からの砲撃のために忽ちのうちに陥落した。血刀さげたトルコ兵の虐殺ぶりはまるで地獄絵をみるようだった。(Konstantinos Palaiologos Dragases) 参考:地図で訪ねる歴史の舞台 世界 帝国書院25p

2018年5月27日 (日)

日本海海戦

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  日露戦争。ロシアのバルチック艦隊がシンガポール沖を通過して北上してきた。問題は日本近海におけるバルチック艦隊の航路である。朝鮮海峡を通って日本海を抜けてウラジオストックへと向うのか、太平洋を迂回して津軽海峡を抜けてウラジオストックへと向うのか。東郷平八郎は、朝鮮海峡で待機する決断を下した。参謀たちの不安は消えない。1905年5月27日、哨戒任務に出ていた信濃丸から敵艦隊発見との電報が入った。東郷は「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」と電文を作成した。首席参謀の秋山真之は、その文に「天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆した。天気が晴れていることは敵艦を狙いやすい。そして波が高ければバルチック艦隊の砲撃の命中率が低くなるということを伝えたと言われる。そして13時55分、戦艦「三笠」のマストにZ旗が掲げられた。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」連合艦隊主力はなんと敵前で横腹を見せるかたちで、相手の進路をさえぎるT字戦法にでた。そして主力以外の艦は、南下して敵艦隊の後尾を突いた。まさに、日本海軍の圧勝であった。

モンローとスザーン・ストラスバーグ

Photo_fp19_info   6月1日はマリリン・モンローの誕生日。前田敦子は読書好きらしい。撮影の仕事が多いので、やっぱり映画や映像に関する本を手にとることが多い。先日、代官山の本屋でスーザン・ストラスバーグの「マリリン・モンローとともに 姉妹として、ライバルとして、親友として」を買って、読んでいる。俳優養成学校アクターズスタジオにすでに大スターだったモンローが入学してきたのは1955年。創立者のリー・ストラスバーグの家に入り浸り、ニューヨーク生活を満喫するモンローは娘スーザンと大の仲良しになった。自身女優となり多感な青春を過ごすスーザンが、モンローが自殺する1962年までを描いたノン・フィクション。女優スーザン・ストラスバーグの代表作は「ピクニック」「女優志願」。それにハマー・フィルム・プロダクションのサスペンス映画「恐怖」(1961年)がある。車いすのヒロインが遺産相続で命を狙われるが、実は本人ではなく身替りで屋敷にきたというラストのどんでん返しがある。

Susan Strasberg 6月1日

2018年5月26日 (土)

著名人の戒名

Bagpgv8ceail7qk   戒名・法名を眺めていると、故人の生き様、思想、人柄、社会的業績を垣間見ることができる。例えば、浅野長矩の戒名は長い。「冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士」無念の思いは長い戒名にも表れている。

   だが最近は葬式もせず、骨を散骨することを希望する人も増えた。志賀直哉も無宗教で戒名はない。白洲次郎にいたっては「葬式無用、戒名不用」と遺言している。

落語家の立川談志は生前から自ら戒名を考えていた。立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。ところが納骨のさい「うんこくさい(雲黒斎)では引き取れない」とお寺に断られた。1年以上も自宅に置かれたままだったが、数年してようやく小石川に受け入れてくれるお寺がみつかった。お墓の側面にはあの戒名が刻まれている。

戒名中には、辞典にも見られない漢字も使われることがある。棟方志功の戒名は「華厳院慈航真カイ志功居士」カイは「毎」の下に「水」がある漢字が使われている。

位牌は、宋の時代に儒教・禅宗の中で生前の皇帝に対する皇帝碑として発生し、やがて禅宗の日本への伝播とともに、鎌倉時代から室町時代にかけて上層階級の間で普及した。室町幕府を開いた足利尊氏が、院殿号を最初に用いた人物とされている。江戸時代になって、元禄から享保年間の頃、広く一般化されたものである。(参考:保坂俊司「戒名と日本人」祥伝社)

   有名人の戒名調べるが、坂本竜馬や松尾芭蕉のようにわからない人物もいる。一説によると「芭蕉桃青法子」とあるが信憑性はない。

足利尊氏 等持院殿仁山妙義大居士

楠木正成 霊光院大圓義龍卍堂

武田信玄 法性院機山信玄

織田信長 惣見院殿贈大相国一品泰巖尊儀

明智光秀 秀岳宗光禅定門

豊臣秀吉 国泰裕松院殿霊山俊龍大居士

石田三成 江東院正軸因公大禅定門

真田幸村 大光院殿月山伝心大居士

徳川家康 東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士

宮本武蔵 新免武蔵居士

石川五右衛門 融仙院良岳寿感禅定門

新井白石 慈清院殿釈浄覚大居士

近松門左衛門 阿耨院穆矣日一具足居士

本居宣長 高岳院石上道啓居士

小林一茶 釈一茶不審退位

平賀源内 智見霊雄居士

田沼意次 隆興院殿耆山良英大居士

国定忠治  長岡院法誉花楽居士

清水次郎長 碩量軒雄山義海居士

高杉晋作  全義院東行暢夫居士

近藤勇   貫天院殿純義誠忠大居士

土方歳三  歳進院誠山義豊大居士

西郷隆盛 南州寺殿徳隆盛大居士

福沢諭吉 大観院独立自尊居士

山県有朋 報國院釋高照含雪大居士

大隈重信 鳳猷院殿尚憲重信大居士

森鷗外   貞献院殿文穆思斎大居士

夏目漱石 文献院古道漱石居士

国木田独歩 天真院独歩日哲居士

板垣退助 邦光院殿賢徳道圓大居士

萬鉄五郎  法雅院霊鑑居士

芥川龍之介 懿文院龍之介日崇居士

岸田劉生 清秀院殿劉誉到岸居士

中原中也 南無放光院賢空文心居士

与謝野晶子 白桜院鳳翔晶耀大姉

山本五十六 大義院殿誠忠長陵大居士

東条英機 光寿無量院英機居士

吉田茂   叡光院殿徹誉明徳素匯大居士

太宰治   文綵院大猷治通居士

谷崎潤一郎 安楽寿院功誉文林徳潤居士

石坂洋次郎 一乗院殿隆誉洋潤居士 

林家三平  志道院釈誠泰

美空ひばり 茲唱院美空曰和清大姉

石原裕次郎 陽光院天真寛裕大居士

森繁久彌  慈願院釋浄海

松本清張  清閑院釈文帳

司馬遼太郎 遼望院釋浄定

手塚治虫  伯藝院殿覚圓蟲聖大居士

三島由紀夫 彰武院文鑑公威居士

大鵬    大道院殿忍受練成曰鵬大居士

淀川長治  長楽院慈眼玉映大居士

植木等    宝楽院釋等照 

田村高廣  慈照院俊岳廣道居士

平尾昌晃  慈嚴院照音晃道居士

西城秀樹  修音院釈秀樹

ラーメンの「ラー」って、何?

ぼくらの少年発明王

いつも明るい えがおの中に

輝くひとみも いきいきと

ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ

そこから生れる大発明

    子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。

  同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。

   つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン一袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。

    このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。

  ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。

    だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。

    大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。

     しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。

    つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」とおなじように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。

2018年5月24日 (木)

蝉丸と逢坂関

   本日は蝉丸忌。逢坂関は相坂関、合坂関とも書く。山城・近江国境の峠道。かつては畿内の北限とされ、関が設けられた。ここを越えれば東国であった。古歌にもさかんに歌枕として詠まれた。百人一首第10番の蝉丸の歌が有名である。

これやこの 行くも帰るも 別れては

 知るも知らぬも 逢坂の関(「後撰集」)

(通釈)これがまあ、あの都から東国へ行く人も、東国から都へ帰る人も、ここで別れては、また、知っている人も知らぬ人も、ここで逢うという、その名も逢坂の関なのだなあ。

   孝徳天皇の大化2年(646年)、鈴鹿関(三重県関町)、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(福井県敦賀市)の三関が設置され、国家の守りに備えたが、やがて愛発関に代わって、この近江の逢坂関(滋賀県大津市大谷町)が王城鎮護の関となった。逢坂関の設置年は明らかではないが、延暦年間に三関は一旦廃止されたが、「文徳天皇の天安元年(857年)に初めて逢坂関を建つ」(「文徳実録」)とみえることから、再び設置されたようである。清少納言(966?-1025?)の「枕草子」にも「関はあふさかのせき」と記しているし、百人一首にも「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(「後拾遺集」)などと詠まれている。(5月24日)

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 現在大津市大谷町の逢坂山検問所前に関址碑が建つ

2018年5月23日 (水)

現代社会と情報化

4e781b2ca4aaefce0486765a023e3b37   現代は情報の時代である。日本人のおよそ8割以上の人がインターネットやスマホを毎日1回以上、利用している。まさに高度情報社会である。これほど多くの人がテレビなどのように受け身で情報を得るのではなく、自ら必要な情報を求める時代になるとは誰が予測したであろうか。わたしは「情報化社会」とか「情報社会」とか言われ出したのはいつ頃から調べたくなった。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになったのは、1950年代以降のことである。

NPLサーチで「情報」「知識」をキーワードにして検索すると、初期の文献がヒットする。

1963年 藤川正信「第二の知識の本」

1967年 川添登「情報社会と思想の自立」 展望107

1968年 増田米二「情報社会入門:コンピュータは人間社会を変える」

1969年 林雄二郎「情報化社会:ハードな社会からソフトな社会へ」

 林雄二郎の著書は有名で「情報化社会」をわが国で最初に紹介したといわれる。しかし、それ以前からビジネスの世界では「情報収集」が企業の存立にとても重要との認識が広まっていた。それは1960年代の高度成長期であり、慶應図書館学科の藤川正信が情報の重要性を唱えた嚆矢であるるその後、有田恭助の「情報の集め方」(カッパ・ビジネス、1964年)は梶山季之の産業スパイ物のブームを背景にベストセラーとなった。書き出しは「人間の一生は、情報収集の連続である。私たちは、この世に生を受けたときから、死に至るまでのあいだ、つねに、外部の情報を集め、それを分析して行動を決める、という仕事を行なっている」。著書は産業スパイが反社会的行為であり、いかに正々堂々と情報を収集するか、その意義を説いている。いまのような情報検索システムが普及する以前は、図書館の目録カードがこの役割を果たしていた。わたしは1970年代に図書館の整理業務にたずさわり、目録の編成に心血をそそいだ。しかし、書名目録、分類目録は機能したが、主題から検索できる件名目録は充分な成果をあげることができなかった。件名目録は日本図書館協会より刊行された基本件名標目表にある統制語によって構成される。つまり今のネット検索のように何でも思いつくワードで検索できるのではなく、限定されたワードしかヒットしない。利用者も件名目録の特性を十分に理解する人はなく、件名目録が十分に活用した図書館はほとんどなかった。現在このBSHが現場でどれくらい活用されているかしる由もないが、おそらく自然消滅のような状態になっていのだろう。しかし図書館学における検索機能が何らかの形で現代の情報検索機能に反映されているものと思っている。

    このような情報化社会にあって、反対に「情報はいらない」「新聞は読まない」と豪語する有名人がいる。長嶋一茂さんだ。元プロ野球選手で、現在はテレビのバラエティ番組などでその顔を見ない日はないほどの売れっ子タレントぶりの活躍である。発言内容の天然ぶりと苦労しらずの人柄が面白い。なぜコメンテーターをしながら、多くの知識を入れようとしないのか。ネットでエゴサーチをすると不快な記事を読むからかもしれない。「勉強しない」とかの発言も反知性主義とみることもできる。経済的な不安を知らずに育った一茂さんは、一種の貴族的な地位にあり、勉強したり、世間に認められようという立身出世主義は皆無の生き方をしてきた。広く多くの情報を入手して正しい結論を導くのではなく、自己の直感でコメントするようである。現代マスコミの寵児がこの情報の時代に情報を全否定することも面白い。

沖田総司と菊一文字

   時代劇チャンネル「新選組血風録」第7話。沖田総司(島田順司)は懇意の刀屋播磨屋道伯から名刀の菊一文字を借りた。鎌倉期の古刀の代表的なもので、最も有名なのは、足利家重大の宝刀といわれた「二つ銘則宗」が京都の愛宕神社所蔵のもので国宝である。則宗は備前福岡の刀工で、いわゆる福岡一文字派に属し、後鳥羽上皇の後番鍛冶に列し菊花紋章を彫ることをゆるされたため、俗に菊一文字といわれる。

    司馬遼太郎の原作では、近藤勇の虎徹と土方歳三の和泉守兼定、それに菊一文字則宗を横に置きならべてみる描写がある。「虎徹は厚重ねで反りは浅く、姿には、この道でいう怒味と武骨味をもち、いかにも人切り包丁といった凄みがある。むろん、虎徹にもそれなりに品位はある。だが、しかし鎌倉の古刀である菊一文字には遠くおよばない。要するに、神韻縹渺としたところが、兼定にも虎徹にもないのである」「細身は当節はやらない。重さで切れるようなものが、幕末の流行であった」とある。

   ドラマでは、三人の差料を比べるシーンはない。土方は沖田に「俺の刀を貸そう」というと、沖田は笑って「土方さんのは重いから結構です」という台詞がある。

   ドラマ「菊一文字」は沖田総司が医師半井玄節(原健策)に診察してもらったところ、「安静が必要であり、このままだとあと5年しか生きられない」といわれる。天真爛漫な性格と労咳という沖田総司の明と暗のイメージがお茶の間に浸透したと思われる重要な回である。「刀の命は七百年、おれの命は二十五年か」若くしてこの世を去った沖田の命と古刀との対比も鮮やかである。結束信二の脚本も原作の持ち味を十分に出している。何よりも月代の似合う島田順司は沖田総司の役のために生まれたといってもいいほど似合っている。沖田を慕う医師の娘お悠に当時、「忍びの者」で人気があった清純派の鈴村由美がでている。ドラマでは菊十文字を大切にするあまり、陸援隊の戸沢鷲郎を沖田が殺さなかったために同僚の日野助次郎が死んだ。土方が「刀は飾り物ではない。あの時、戸沢を斬っておれば、日野は死なずに済んだ」と沖田に言う。沖田は菊一文字で戸沢を殺し日野の復讐を果たす。しかし、沖田が菊一文字を使ったのは、このときだけだったという。刃こぼれ一つしなかった。

Kiku    しかし、実際に沖田が菊一文字を所持していたという可能性はほとんどない。当時、大名すら入手は難しく、実践では不向きな刀。これは下母澤寛の著作に「沖田の刀は菊一文字細身のつくり」とされたことが広まったものという。現在も菊一文字という屋号の刃物屋が京都にある。包丁、鋏などを販売している。「桐箱入り鶴亀卸し金セット」など贈答品に人気がある。価格5775円。だいこん卸しに使うには畏れおおい気がする。

サヴォナローラ焚殺される

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サヴォナローラの火刑(サン・マルコ美術館)

  ルネサンスの世俗文化が最高潮に達した15世紀末のフィレンツェで神権政治を行ってきたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、1498年のこの日、シニョーリア広場で火刑に処された。背後には、彼の非難を苦々しく思っていたボルジア家の教皇アレクサンデル6世の圧力があるというのだ。サヴォナローラは、22歳のとき突然ドミニコ会修道士となり、30歳のときフィレンツェにやってきた。しかし、彼はそのとき以来、熱烈な説教とフィレンツェ人の堕落した享楽的な生活を批判しつづけていた。悔い改めなければ、フィレンツェは外敵の侵入によって滅ぶであろうと預言していた。人々は、シャルル8世によってこの預言が成就されようとしていると感じ、彼の神権政治を受け入れたのである。しかし、1498年5月23日、4年間の禁欲生活の強制に退屈してきたフィレンツェ市民はサヴォナローラを捕らえて裁判にかけた。その結果、彼は偽預言者として絞首刑ののち改めて火刑に処された。一時はあれほどのフィレンツェ人を感動させたのに、彼の最期を見とどけたのは2、3名にすぎなかったという。(Girolamo Savonarola)

2018年5月21日 (月)

リンドバーグ愛児誘拐事件

 1927年5月20日、チャールズ・リンドバーグが操縦する単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」がニューヨーク郊外のルーズベルト飛行場を飛び立った。それから33時間30分後の21日、彼はパリのブールジュ飛行場に着陸する。大西洋単独無着陸飛行の成功である。飛行場には10万人にのぼる群集が、一目リンドバーグを見ようと押し寄せた。彼は航空機時代を象徴する空の英雄であった。しかし彼の人生には脱ぐ去りようのない暗い事件がある。

   1932年3月1日、チャールズ・リンドバーグの長男が遺体で発見された。これより1年前の3月1日に、ニュージャージー州ホープウェルの自宅から誘拐されるという事件が発生していた。現場には犯人からの身代金5万ドル要求の手紙が残されていた。事件から2日たった4日に、新聞はリンドバーグの声明文を掲載した。「身代金を支払って息子の身柄を引き取ることができるなら、犯人の不利になるようなことは、断じてしない」。これを見た法務長官は「リンドバーグに、犯罪訴追の免責を申し出る権限などはない」と語った。3月8日には、ジョン・コンドンという72歳の老講師が、誘拐事件の仲介役を申し出た。12日に、コンドンはジョンという男(「墓場のジョン」)と会い、子どもは船の中で元気にしていると聞く。16日には、コンドンの家に息子のパジャマと身代金の受け渡し方法が書かれたメモの入った小包が届けられた。リンドバーグは警察には一切干渉しないことを約束させた。4月2日、1通の封筒がタクシー運転手によってコンドンの家に届けられた。コンドンとリンドバーグは、現金を持って指定されたブロンクスのセント・レイモン墓地に着き、コンドンは「墓場のジョン」と会い、子どもが隠されている場所の書いてあるメモの入った封筒と身代金を交換することになった。しかし子どもは発見できなかった。子どもの遺体が発見され、検視結果は、子どもは誘拐された直後に死亡していたことが判明した。

Hauptmann_6 それから2年半後、ドイツ系移民の大工のブルーノ・ハウプトマン(画像)という男が逮捕された。身代金として支払われた紙幣をガソリンスタンドで使ったこと、そして、何よりも自宅から残りの紙幣が大量に発見されたことが決め手になった。法廷では、リンドバーグはハウプトマンを指さして犯人と断言した。コンドンは、公判開始前の段階ではハウプトマンを「墓場のジョン」と断定するのを繰り返し拒んでいたが、証言を翻し、ハウプトマンを「墓場のジョン」と断定した。人間は、たった一度しか聞いたことのない人の声を2年も3年もたってから思い出すことができるのだろうかという疑問は最後まで残った。しかし、デビット・ウィレンツ法務長官は当時広がっていた反独感情をたくみに利用しながら、ハウプトマンを蛇呼ばわりして彼の人格を誹謗し、陪審員に偏見を持たせようとしていた。

    ハウプトマンは最後まで無罪を主張したが、1936年4月3日、トレントン刑務所で電気椅子によって処刑された。しかし、彼の有罪を疑問視する人も少なくなかった。ニュージャージー州知事のハロルド・ホフマンもその一人だ。彼は「私はこの犯罪が1人の人物によってなされ得たとは思えない」と、彼は公式に声明した。70年たった今も真相は謎であり、この事件の裁判は米国司法史上に疑問と汚点を残すことになった。

 疑問は多数ある。ハウプトマン逮捕後も、リンドバーグの身代金に使われた紙幣はいまだに街にながれていた。それに決定的なアリバイがハウプトマンにはあった。1931年3月1日にはニューヨークのアパートで仕事をしていた。それが事実なら、同じ日にニュージャージー州ホープウェルに行って、夜9時すぎにリンドバーグ家に行って、息子を誘拐することは極めて困難になる。アパートの所有者は、ハウプトマンの主張が事実であることを証言したが、作業時間記録表と賃金支払い記録はなくなっていた。記録はすでに検察と警察に押収され、検察側の主張を裏付けるものに改ざんされていた。驚くべきことに弁護人のレイリーは法廷でのこれらの決定的な物証を十分に調べることもせずに、ハウプトマンのアリバイを立証できなかった。弁護人エドワード・レイリーは、反ハウプトマンを標榜していたヒュース・プレス社から金をもらっていただけではなく、以前からリンドバーグの熱烈なファンだった。法廷でのあまりの失策に、次席弁護人のフィッシャーは公判の審理中に「あなたは、ハウプトマンを電気椅子に送ろうとしている。それでも彼を弁護しているつもりなのか?」と公然と非難した。

    検察側は、事件の夜にハウプトマンを見たと証言する87歳のアマンダス・ホークス(彼は1000ドルの賞金を得た)を証人として喚問した。彼はハウプトマンがはしごを積んだ車に乗っているのを見たと主張した。このほとんど目の見えない老人の信頼しがたい証言に対して、弁護側はほとんど反論していない。

    結審後5か月たった1935年7月には、米国法律家協会が「純然たる裁判を公開ショーのように扱うのは、生命そのものを軽んずることと同じだ」と述べ、検察・弁護側双方を手厳しく批判した。

    リンドバーグは、晩年はハワイでひっそりと暮らし、72歳で他界した。ハウプトマンの遺体が霊柩車で刑務所から出で行くのを見守る群集を写した一枚の写真がある。司法が過ちを犯したと考える人々も多かったのだ。(3月1日、5月21日)

2018年5月20日 (日)

古代ローマの凱旋門

  凱旋門とは、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門である。フランスのナポレオンがパリに作らせたエトワール凱旋門(1836年)が有名であるが、これは古代ローマの風習にならったものである。現存する古代ローマの凱旋門は壊されたりしたため、完全な形で残っているものは少ない。古代ローマ時代の凱旋門で、現存する最古のものは紀元前27年に元老院が初代皇帝アウグストスに贈呈したリミニにあるアウグストスの凱旋門である。ローマ市内に現存する凱旋門としてはティッスの凱旋門がある。紀元71年ティッス率いるローマ軍はエルサレムとその神殿を略奪して火を放つ。71年にティッスはローマに戻り熱狂的な歓迎を受ける。ティッスは79年に皇帝になるが、2年後に急死したため。弟のドミティアヌスが次の皇帝となり、すくさま兄の業績をたたえる凱旋門を建立した。カンピドリオの丘の麓に建つセプティミウス・セヴェルスの凱旋門は203年に建立したものです。凱旋門の中でも最大のものが315年にコンスタンティヌス1世が建設したコンスタンティヌス凱旋門です。

観応の擾乱

  観応の擾乱は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた将軍足利尊氏と弟直義両派の分裂によって引き起こされた全国的争乱。高師直・師泰の死、直義の毒殺によって収まった。

   室町幕府初期の政治体制は足利尊氏と弟直義による二頭政治で、尊氏は守護職の任命権や恩賞の授与、没収権をもち、直義は民事裁判権や所領を保証する権限をもっていた。尊氏は人間的に柔軟でよく衆を統御した。その権限を実際に執行し尊氏がもっとも信頼したのは執事の高師直である。師直は既成の権威や秩序を否定し実力主義で動乱の世を生きていく型の人物であった。尊氏、師直は荘園領主の権益をおかして自己の勢力を伸張しようとする武士たちの要望をくみあげ、荘園領主に対して急進的、否定的な政策を強行した。これにくらべ、直義は謹直で秩序を重んじ、政治理念としては鎌倉時代の執権政治を範とし、政策としては温和な漸進主義をとった。このような尊氏、師直と直義の権限、政策、性格などの相違はおのずからそれぞれの党派を形成し抗争することとなった。尊氏、師直の方には戦功、実力によって重用された武将が集まり、また足利一門のなかでも、家格の低い者や、足利氏譜代の家来も師直の方に属した。直義の方には、旧鎌倉幕府官僚系の吏僚的武士や足利一門のなかでも家格の高い有力者が集まった。族的関係からいえば、一族の庶子が尊氏方に属し、惣領が直義方に属した。地域的には畿内周辺の反荘園的な新興武士層が師直を支持し、関東、奥羽、九州など同族的結合の強い地域の武士たちは直義に属する者が比較的に多かった。もちろんこれらも原則的な区別で、武士たちの両陣営に対する離合はかなり頻繁で、流動性があった。

  師直は、1348年楠木正行を四条畷に破ってから、にわかに声望を高め、幕府部内で勢力を拡充していた直義と抗争を激化していった。翌年、直義は尊氏に迫って師直の執事をやめさせ、続いて師直は逆に直義を討とうとして、尊氏がようやく和解させた。直義は外様として養子直冬を中国に派遣していたが、直冬は九州に入って一時威を振った。尊氏は直冬討伐のため出陣し備前まで軍を進めたが、直義方の挙兵が各地に相次いだので1351年正月、急ぎ帰京した。直義方の部将が相次いで入京し、山名時氏らは直義方についた。二月、尊氏は直義に和を請い、師泰、師直兄弟は出家、助命させることで和義が成立したが、師直兄弟は上杉能憲に殺された。入京した直義は前からすすめていた吉野との和平交渉を続けたが不成立に終り、直義の立場は苦しくなり、幕府の再分裂がおこった。七月、直義は政務を辞し、尊氏、義詮父子は出陣して直義挟撃の態勢を示した。八月、直義は斯波高経らを率いて北国に向けて出立した。尊氏は南朝と和平交渉をし、直義追討の綸旨を得て東下し、相模で直義を降した。2月26日、直義は突如死去した。毒殺されたという。観応の擾乱は幕府の二頭政治の矛盾から生じたが、尊氏、直義の南朝に対する便宜主義的な態度とも相まって南朝の命運を長びかせ、南北朝の動乱を半世紀以上も続かせる主な原因ともなった。

カンヌ国際映画祭

Thethirdmanlastshot     フランスで開催された第71回カンヌ国際映画祭で是枝裕和監督の「万引き家族」が最高賞パルムドールを受賞した。日本作品の受賞は1997年の「うなぎ」(今村昌平監督)以来21年ぶりとなった。1946年9月20日、第1回カンヌ国際映画祭が開催された。1939年から開催の予定だったが、当日に第二次世界大戦勃発のため中止、終戦後の1946年に正式に開催。第3回に出展されたイギリス映画「第三の男」(1949)がグランプリを獲得し、世界でも興業的に成功し、映画史に残る傑作となった。(9月20日)

2018年5月18日 (金)

ファニイ・フェイス岸井ゆきの

   ファニー・フェイスとは「おかしな顔」。美人といわけではないが、個性的で魅力ある顔立ち。オードリー・ヘプバーン主演の「パリの恋人」(1957年)で流行語になった。当時はパスカル・ブチやミレーユ・ダルクなど仏女優がそう呼ばれた。日本では若林映子や加賀まりこ、そしてこの尺度を限りなく通俗化して登場したのが研ナオコである。最近人気急上昇の永野芽郁(半分、青い)や岸井ゆきの(モンテクリスト伯)らはファニー・フェイスに分類されるだろう。

2018年5月15日 (火)

宝塚の家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」

  インドの財宝を挙ぐるも、

  読書の楽しみにはかえがたし

          エドワード・ギボン

   家庭文庫とは、民間の個人が、自宅の一部を開放して、本を収集・提供して、読書活動を行なう私設の図書館のことです。自治会・婦人会・PTAなどのグループが公民館や集会所など地域の施設を利用して行うものを「地域文庫」と称しています。一個人がどんなに財力を投資して珍しい本を収集してもおのずと限界があります。スペースの問題と収集範囲の問題です。あらゆるジャンルにわたり収集し、かつ一定の新鮮度を保つことは至難の業です。非公開の文庫は鮮度が落ちてきます。スペースの問題も一万冊を超えることは難しいですが、一人の人が書棚に立つと視界に入るのは数千冊が限度です。つまり百万冊の大図書館だと膨大な書庫に迷い本と出合うことはかえって難しくなります。新刊書店も新しい本との出会いには刺激がありますが、出版洪水に溺れて適書との出会いはできません。古くもなく、新しくもなく、意図的な選書ではなく、教養人にとっての理想的な書棚づくりをめざしていきます。

2018年5月14日 (月)

種痘記念日

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Edward Jenner was a doctor who invented the vaccination for Smallpox.

エドワード・ジェンナーは天然痘の予防接種を発見した医者だ。

    5月14日はイギリスの外科医エドワード・ジェンナー(1749-1823)が種痘の接種に成功した日である。彼は乳絞りの女性から牛痘にかかると天然痘には罹らないことを聞いた。そこで、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィッブス(1788-1823)の腕に接種した。10日後に発症したがすぐに治癒し、その後天然痘を接種しても感染しなかった。ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行なった。(Edward Jenner,James Phipps,Sarah Nelmes)

2018年5月13日 (日)

竹酔日(ちくすいじつ)

  竹を移植するのは旧暦5月13日に行うと良いと言われる。これは、この日竹が酔っていて、移植されてもわからないからだということである。松尾芭蕉に「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(笈日記)とある。

2018年5月12日 (土)

大根役者と藪医者

    芸の下手な役者のことを「大根役者」という。また医術の下手な医者のことを「藪医者」という。その理由は諸説あるが、大根はどんな調理わしても腹にあたることが少ないことから、シャレで当たらない役者のことをいった。「藪医者」は俳人・森川許六が次のようなことを書いている。「薮医者とはもともと但馬国養父にいた名医(江戸幕府奥医師となった長嶋的庵のことらしい)に由来する。」(「風俗文選」(1706年)死者を甦らせるほどの腕を持ったその名医の噂は京の都にも届いた。ところがやがて、大した腕もないのに、自分は養父医者の弟子だ、と口先だけの医者が続出して、養父医者の名声も地に落ち、いつしか「藪」(やぶ)の字が宛てられ、医術のつたない医者のことをいうようになった。

夢見る頃を過ぎても

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  歌をまくらに 空を仰ぎて

  声高らかに 君とうたいし

  今はただひとりして

  さすらい歩めば

  若き日の夢

  昭和13年にコロンビアレコードから発売された中野忠晴、二葉あき子の「若き日の夢」の一番の歌詞である。ワルツ風の旋律だが原曲は「When I grow too old to dream?」(夢見る頃を過ぎても)でシグマンド・ロングバードの曲にオスカー・ハマースタイン二世が詩をつけた。「夢見る頃を過ぎても」はジャズの名曲としてポール・ホワイトマン楽団の演奏や、ナット・キング・コール、ドリス・デイ、ルビー・マラー、リンダ・ロンシュタットなとがカバーしている。初出はタドリ―・マーフィ監督の映画「The Night is Young」(1935年、邦題「春の宵」)。ラモン・ナヴァロ、イヴリン・レイ主演。劇中曲であるが誰が創唱したのかは不明。同年にはグレース・フィールド(1898-1979)がレコーディングしている。

2018年5月11日 (金)

ダリの窓

Img_0013 窓辺の人物 1925年

   本日はサルバドール・ダリ、1904年の誕生日。この絵はダリがマドリードの美術学校を退学処分された青年時代の作品。キリコのような不可解で不安をかきたてるような雰囲気。少女がうしろ向きで外の景色をながめているが、何を思っているのだろう。モデルはおそらく妹のアナ・マリアであろう。動物的本能で窓辺よりも女性のお尻に目がいってしまう。(5月11日)

2018年5月 9日 (水)

「みかんの白い筋」何と言うの?(物の名前)

   日常何気なく使っていたり、目にしたりする物でも正式な名前は意外と知らないものである。たとえば「みかんの白い筋」を何と呼ぶかご存じだろうか?アルベド(albedo)という。ラテン語で「白い」を意味し、柑橘類の果皮の内側にある白い組織状の組織、いわゆる白い筋にもこの言葉が使われている。

  お寿司やお弁当に入っている緑のプラスチックシート。これの正しい名称は?

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 バラン。漢字で「葉蘭」と書き、その名の通り昔は蘭の葉を使っていた

野菜や果物などの皮をむく器具

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 ピーラー

和服をしまうための厚紙

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  たとう紙

大雨のときに、外から水が入らないように、入口をふさぐ。

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  止水板

カレーのルーが入っている銀製の食器

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 グレイビーボート(Gravy boat)。ただし一般にソースポットともいう。

荷物を括りつけて背負って運搬するための運搬具

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背負子(シヨイコ)

野菜や果物の皮むき用ナイフ

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ぺティナイフ。petit(フランス語)+knifeの和製英語

鉛筆などを安全に削るナイフ

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 ボンナイフ

イベントやアンケートなどで用いられる簡易鉛筆

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  ペグシル

果物を包んでいる白い網状の包装材

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  フルーツキャップ

視力検査のとき片目を隠すために用いる柄杓

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 遮眼子 オクルダー(occluder)

カトリックのミサで信者が食べる円形の薄いせんべいのようなお菓子

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  ホスチア(hostia)

瓶やガラスなどで太陽の光線が一点に集中して火災が発生すること

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  収斂火災

靴のひもの穴

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  ハトメ

歯と歯の間などの歯垢を取り除く歯間ブラシ

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 糸ようじ(デンタルフロス)

金網を張って食物を保管できるようにした家具。蠅などの虫がたかるのを防ぐ役目も果たした。冷蔵庫が普及するまでは食品を保管するため必要なものであった。

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蠅帳(はえちょう)

座禅を組んでいる際、修行僧を策励する掛係が手に持って巡回する棒を何というか。

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警策(きょうさく)

ビックリマーク

エクスクラメーションマーク

 

「齋藤」日本の苗字

  ネプリーグで外国人回答者が「互角」という字を書いたが、「角」の字が真ん中の縦棒が下まで突き抜けていた。林修先生は元は突き抜けていた異体字があったとして正解とした。たしかに漢字の歴史は古いのでさまざまな異体字がある。「斉藤」姓がその代表格だろう。斉藤、斎藤、齋藤、齊藤などさまざまな字体があり、戸籍コンピーター会社によると85種類あるらしい。ルーツは伊勢神宮の神様を迎えるため身を清めた役職、斎宮頭(さいぐうのかみ)に由来する。10世紀の中頃、斎宮頭に任ぜられた藤原利仁の子、藤原叙用(のぶもち)は、官職名と姓に因んで(斎宮の斎、藤原の藤)「齋藤」を号し、子孫は齋藤氏となり自身は齋藤氏の祖となる。明治初期の戸籍作成のとき、手書きのため誤字かそのまま登録され、多くの字体がーに別れる一因になった。斉藤姓で一番知られるのは、戦国の武将、斎藤道三。近年の研究によれば美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父松波基宗(または松波庄五郎)との父子2代にわたるものではないかと考えられている。コンサイス日本人名事典によれば斎藤姓は歌人の斎藤茂吉以下50人ほど掲載されているが、それほかの人名を調べる。斎藤達雄(1902-1968)は独特の存在感を持つ飄々とした演技で戦前戦後の喜劇映画に多数出演した。番組中では壇蜜の本名および旧芸名が齋藤支静加であることが等身大パネルを使って紹介されたが、わたし世代としては天地真理の本名が齋藤真理であることのほうがインパクトが大きい。ゲストも齋藤司、斉藤慶子ならば、乃木坂の斎藤飛鳥がベストかな。

愛の讃歌

   マリア・コティヤール主演の「エディット・ピアフ」は素晴らしい伝記映画である。劇中、「私とビリー・ホリデーとは同じ年なの」というシーンがある。ジャズとシャンソン、音楽は異質ながらも、その波乱に満ちた女の生涯は共通している。ピアフ(1915-1963)、ビリー・ホリデー(1915-1959)、それにジュディ・ガーランド(1922-1969)など20世紀の歌姫といえるだろう。いまはレコードや映像などで何度も彼女たちの歌唱をきくことができる喜びを感謝している。 シャンソンを代表する名曲「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲の中で、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。「あなたが愛してくださるならあなたが死んでもかまわない。わたしもあとを追って、空のかなたでふたりは永遠を手に入れるのですから・・・・あなたがおのぞみなら、なんでもやってのけましょう。祖国や友を裏切りましょう・・・・」という高らかな愛への讃歌です。日本語歌詞岩谷時子ではだいぶんやわらかくなっています。原詩はエディット・ピアフ本人の作詞ですが、作曲者を知っているかたはあまりおられない。マルグリット・モノ(1903-1961)で「バラ色の人生」や「ミロール」など多くの名曲を作っています。

映画でみる歴史偉人伝

Img_1189021_32131373_0     オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」(2003年)を見る。あのジュリエットの面影はないが、聖女を美化せず真実の姿が感じられる人間ドラマに出来ている。意外な大物スターが歴史上の偉人を演じる例はいくつかみられる。なかには失敗作もあるが、ご愛嬌的な面がある。無声映画のころから、クレオパトラなどの映画(ゼダ・バラ)は見世物的で人気があった。ハリウッドは大物スターもトンデモ映画に出ている。

  ゲーリー・クーパーがマルコ・ポーロ(「マルコ・ポーロの冒険」1938)、ジョン・ウェインがジンギスカン(「征服者」1956)、モンゴメリー・クリフトがフロイト(「フロイド」1962)、ヘンリー・フォンダがリンカーン(「若き日のリンカーン」1939)、マーロン・ブランドがアントニウス(「ジュリアス・シーザー」1953)、リチャード・バートンがアレキサンダー大王(1956)、カーク・ダグラスがゴッホ(「炎の人ゴッホ」1956)、グレゴリー・ペックがダビデ王(「愛欲の十字架」1951)やマッカーサー(1977)、ジェフリー・ハンターがイエス・キリスト(「キング・オブ・キングス」1961)、ロッド・スタイガーがナポレオン(「ワーテルロー」1970)、クリフ・ロバートソンのケネディ(「魚雷艇109」1963)、ジェラール・ドパルデュー(コロンブス、1492」1991)、オマー・シャリフがゲバラ(1969)、イングリッド・バーグマンがジャンヌ・ダルク(「ジャンヌ・ダーク」1948)など。アジアではチョウ・ユンファが孔子、金城武が諸葛孔明、本郷功次郎が釈迦、勝新太郎が秦始皇帝、山本富士子が楊貴妃、田中裕子が西太后(ドラマ)などを演じている。聖徳太子を本木雅弘、空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、親鸞を中村錦之助が演じている。NHKドラマで八百屋お七を前田敦子が演じたが、過去、坂東秋子、柳さく子、美空ひばり、中島そのみ、らが演じている。栗塚旭演じる土方歳三が最高のハマリ役である。 片岡千恵蔵は宮本武蔵、大石内蔵助、近藤勇、国定忠治など主要なヒーローを演じてきたが、「日本暗殺秘録」(1969年)の井上日召は異色である。

    成功例をみると、ジェームズ・スチュワートのリンドバーグ(「翼よ!あれが巴里の灯だ1957)、ポール・スコフィールドのトマス・モア(「わが命つきるとも」1966)、グリア・ガースンのキュリー夫人(1943)、グレタ・ガルボのクリスチナ女王(1935)、マドンナのエビータ(1996)、マリオン・コティヤールのエディット・ピアフ(2007)。なぜか女性物が多い。

坂田山心中

128920121702616210692     昭和32年12月4日、伊豆の天城山で、大久保武道と愛新覚羅慧生がピストル自殺を図った。天城山心中として世間の耳目を集め、三ツ矢歌子で映画化された。題名は「天城心中 天国に結ぶ恋」。もともと「天国に結ぶ恋」は昭和7年の坂田山心中を映画化したときの題名だったが、観客動員には効果的だった。

    昭和7年5月9日、神奈川県大磯の海に近い坂田山というところで、若い男女の心中死体が発見された。遺書その他から2人はキリスト教の教会で知り合ったことから、この心中事件を「東京日日新聞」は「天国に結ぶ恋」と称して報道した。坂田山心中というよりは、そのほうがロマンチックだった。「今宵名残の三日月も 消えて淋しき相模灘」という歌も流行し、続いてそれを主題歌とした映画「天国に結ぶ恋」は竹内良一、川崎弘子の美男美女のコンビで大ヒットとなった。そして、この映画にあやかろうとする自殺志願者が、しきりに大磯の坂田山へきた。昭和7年5月中旬以降、約3年間に、坂田山で心中しようとした男女は合計600人にものぼったという。

    日本の支配層は不況と社会不安の打開を中国侵略に求めた。中国との戦争による軍需景気が昭和8年の初夏ごろから起こる。そして軍需景気が失業者をなくしていったが、その次には、戦争による死の恐怖が日本人に襲いかかっていく。

    ところで地図には坂田山という名の山はみえない。大磯駅周辺は坂になった場所の田、坂田と呼んでいたが、記者が坂田山がゴロがいいので使って有名になったらしい。

2018年5月 8日 (火)

二字熟語研究

    知っているようでしらない漢字。二字熟語で覚えるのがコツ。意外とめでたい語より、悲しい、恨み、恐れ、などの強い感情の入り混じる熟語が精神の鍛錬には良い効果がある。旧約聖書、中国の古典などをみればわかる。

矍鑠(かくしゃく) 年老いても、丈夫で元気なさま。

詭弁(きべん)   筋道の通らないことをたくみなことばで言いくるめごまかす議論。

志尚(ししょう)  気高い志

憔悴(しょうすい) 病気・悲しみ・心配ごとなどのためにやつれること。

盈虚(えいきょ) 月が満ちたり欠けたりすること。栄枯

忖度(そんたく) 他人の心の中をおしはかる

忍性(にんしょう)生まれつき持っている飲食・色欲の性質をこらえ押さえる

忘優(ぼうゆう) 憂いを忘れる

忸怩(じくじ)   心に恥じるさま

忠鯁(ちゅうこう)真心があって剛直なこと

念祖(ねんそ) 祖先のりっぱな名をけがさないと思う

忿怒(ふんど)  怒り

怨骨(おんこつ) 恨みながら死んだ人

怯懾(きょうしょう)おじけ恐れる

怙終(こしゅう)  自分の行動に自信をもって、ふたたび罪を犯す者。一説に、悪事を頼みにして生涯改心しない者。

思殺(しさつ)   深く思う。殺は強意の助字。

思服(しふく)   常に深く思って忘れない。服は心にいだく。

怵惕(じゅってき)心が恐れてびくびくする

忽卒(そうそつ) 忙しいさま

怊乎(しょうこ)  いたみ悲しむさま

怫恚(ふつい)  むっとして怒る

悁恚(けんい)  怒る

悔吝(かいりん) あやまちを悔やむ

恢誕(かいたん) 言説が大きいだけで実がない。大げさででたらめ

恪勤(らくきん)  職務によく励む

改竄(かいざん) 書類などを自分の都合のよいように書きかえること

恭虔(きょうけん) うやうやしくつつしみ深い

恵雨(けいう)   草木をうるおす恵みの雨

恒心(こうしん)  常に変わらない心

更迭(こうてつ) ある地位や役目についている人が入れかわること

恣欲(しよく)   欲望をほしいままにする

恤刑(じゅつけい)刑罰をみだりに加えないようにつつしむ

擾乱(じょうらん)世の中がさわぎ乱れること

恕思(じょし)   思いやる

追従(ついしょう) 人の機嫌をとっておせじを言うなどすること

恬淡(てんたん) 心が静かでさっぱりしているさま

恫喝(どうかつ)  おどしつける

篤敬(とくけい)  誠実でつつしみ深いこと

悪果(あっか)   悪い報い

患害(かんがい) わざわい

悉曇(しったん)  成就。完成。

悌友(ていゆう)  兄弟や長幼の仲がむつまじいこと

韜晦(とうかい)  自分の本心や才能・地位などをつつみかくすこと

悖行(はいこう)  道にはずれた行い

莫逆(ばくぎゃく) 親しい間柄

篳路(ひつろ)   飾りのないこと

悠忽(ゆうこつ)  とりとめもなく月日を送る

悒鬱(ゆううつ)  心がふさぐ

遥昔(ようせき)  遠い昔

怜悧(れいり)   さとい。りこう

悢悢(りょうりょう)悲嘆するさま

悋嗇(りんしょく) 極端に物惜しみをする

惟神(いしん)   神のみ心のまま

惋恨(れんこん)  嘆き恨む

齟齬(そご)     意見や物事がくいちがうこと。

2018年5月 7日 (月)

プラトンは「広い」という意味の渾名

Platon     紀元前427年のこの日、ギリシアの哲学者プラトンはアテネの名家に生まれた(ただし生年については紀元前428年など諸説ある)。ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半の哲学史家)によると、プラトンの本名はアリストクレスである。体格が立派で肩幅が広かったため、レスリングの師匠であるアリストンに「プラトン」(広いという意)という渾名で呼ばれ、それが定着したのである。

    プラトンの言葉に「人間の最も基本的な分類として、知(wisdom)を愛する人、勝利(honor)を愛する人、利得(gain)を愛する人、の三つがある」。昨夜観た映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」でのワン・シーン。池松壮亮が住むアパートの隣人。心やさしそうな老人(大西力)だが貧しくてエアコンが使えない。ある日、熱中症で死体が発見された。室内の書棚には難しそうな哲学書が並んでいた。作家の意図するところは不明だが何故か心打たれた。(5月7日)

2018年5月 6日 (日)

英語ことわざ「覆水盆に返らず」

    周の太公望の妻が貧乏に耐えられずに去ったが、太公望が斉に封ぜられると前妻が復縁を求めてきた。太公望は盆を傾けて水をこぼし、その水をもとに戻せば願いを受けるといった故事による。「覆水盆に返らず」離別した夫婦の仲は元どおりにならないこと。日本や中国の「故事」や「ことわざ」は、英語では「proverb」と言う。国や文化は違っていても似たような内容を伝えているものは少なくない。

A drowing man will clutch at straws.

溺れる者は藁をも掴む

Experience without learning is better than learning without experience.

学問なき経験は、経験なき学問にまさる

 

It is no use crying over spilt milk.

こぼれたミルクを見て泣いても無駄だ。由来は17世紀のウェールズの歴史家ジェームズ・ハウェルの言葉で、当時はspitの代わりに「液体をこぼす」という意味のspedを使っていたようです

「亀の甲より年の功」は「Live and learn.」「The older,the wiser.」「Years bring wisdom.」と、さまざまに訳される。ギリシアでは「老いたサルは罠にかからない」、フランスでは「狩りは老犬にかぎる」、ポーランドでは「年功は書物より多くのことを知っている」などある。聖書箴言16-31には「白髪は、神の従う道に見出されるとき、栄光の冠である」

Long life is the reward of the righteous,gray hair is a glorious crown.

 

貧乏人の子沢山

Poor peaple have large families.

 

豚に真珠を投げ与えるな

Don't cast pearls before swine.

 

転石苔むさず

A rolling stone gathers no moss.

 

ペンは剣よりも強し 

The pen is mightier than the sword.

 

悪事千里を走る

You cannot cover up a crime.(罪悪を覆い隠すことはできない)⇒Ill news runs apace.(悪い知らせはたちまち伝わる)

 

頭隠して尻隠さず

It's like bnrying your head in the sand like an ostrich.(だちょうは追われると砂の中に頭を突っ込み、隠れたつもりでいるといわれる)

 

悪貨は良貨を駆逐する

Bad money drives out good money.

 

暑さ寒さも彼岸まで(彼岸と一緒に穏やかな気候がやってくる)

A mild climate comes with the equinox.

 

あとのまつり

It's too late now.(もう遅すぎる)

 

後は野となれ山となれ

After us the delude.(我々が死んだ後に大洪水よ起これ)

 

虻蜂取らずになる

fall between two stools.(2つの椅子の間に落ちる)

 

過ちを改むるに憚ること勿れ

It's never too late to mend.(行ないを改めるのに遅すぎることはない)

 

嵐の前の静けさ

It was like the calm before a stom.(それはあらしの前の静けさに似ていた)

 

案ずるより生むがやすし

An attempt is sometimes easier than expected.(やってみることのほうが思っているよりも易しいことがある)

 

言うは易く行うは難し

Easier said than done.

 

石橋をたたいて渡る

consider carefully before one acts (よく考えてから行動する)

look before one leaps (跳ぶ前に見る)

医者の不養生

Doctors often neglect their own health.(医者よ、自分自身も治せ)

 

衣食足りて礼節を知る

Well fed,well bred. (食べ物が十分に与えられれば立派に育つ)

 

急がば回れ

More haste,less speed. (急げば急ぐほど時間が遅くなる)

Make haste slowly. (ゆっくり急げ)

 

痛くもない腹を探られる

I was suspected without cause. (理由なく疑われた)

 

All things are proved,until they are proved impossible.

 

どんなことも可能である

不可能と証明されるまでは

Hear twice before you speak once.(一度語る前に二度聞け)

隣の芝生は青く見える

The grass is always greener on the other side of the fence.

嵐の後に凪がくる(雨降って地固まる)

After a storm comes a calm.

馬子にも衣装

Fine feathers make fine birds.

心を寄せる場所がふるさと(住めば都)

Home is where the heart is.

勉強勉強で遊ばない子は馬鹿になる(よく学びよく遊べ)

All work and no play makes Jack a dull boy.

ローマは1日にして成らず

Rome was not built in a day.

生れるまでひよこの数を数えるな(取らぬ狸の皮算用)

Don't count your chickens before they are hatched.

頼れるのは自分だけ
have only oneself to rely on

自由は無償ではなく、尊い犠牲のうえになる。ワシントンの朝鮮戦争戦没慰霊碑に刻まれている。
Freedom is not free.

論より証拠。直訳は「プリンの味は食べてみなければわからない」実際に試してみなければ物の真価はわからないということ。
The proof of the pudding is in the eating.

 

「ア」から始まる国は?

    クイズで「ア」からは始まる国は何カ国あるか?アイスランド、アイルランド、アゼルバイジャン、アフガニスタン、アメリカ合衆国、アラブ首長国連邦、アルジェリア、アルゼンチン、アルバ、アルバニア、アルメニア、アンゴラ、アンティグア・バーブーダ、アンドラ。かつて存在した国はアンギラとアッシリアの2ヶ国。アンギラは1969年から80年まで一時イギリスから独立していたことがある。アッシリア帝国は紀元前20世紀から紀元前7世紀、メソポタミア北部で繁栄した。合計16ヶ国。非独立地域にはアルーバ(オランダの自治領)、アングィラ(イギリス領)がある。

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ローマ劫掠によってルネサンスは滅んだ

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   1527年5月6日、ドイツのカール5世がローマに侵入。殺戮、破壊、強奪などを行う「ローマ劫掠」といわれるものである。1万5000人のドイツ傭兵を中心とする神聖ローマ皇帝軍が、暴徒と化して城壁を乗り越えてローマに侵入した。教皇クレメンス7世はサンタンジェロ城に避難したものの、バチカンの礼拝堂は馬屋に使われ、ラファエロの作品の上に落書をした。10日間にわたるローマの略奪により、文化財は破壊し尽くされ、ルネサンスの一大中心地として栄えたローマの時代は終わりをつげた。

2018年5月 5日 (土)

元弘の乱起こる

   元弘元年(1331)5月5日、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に洩れ、日野俊基や僧文観・円観らが捕らえられる。密告者は吉田定房(1274-1338)といわれる。定房は計画を中止するように度々諫奏したが聞き入れられなくて、そのために密告した、というものだった。そして笠置山で旗揚げした倒幕勢力は鎮圧され、後醍醐天皇は隠岐に流される。持明院統の光厳天皇が即位し、元弘の乱は一応終息したかにみえた。しかし、翌年には楠木正成が再度挙兵し、元弘3年には後醍醐も島を脱した。5月8日、新田義貞が鎌倉に攻め入って、鎌倉幕府は滅亡する。

エッフェル塔とモーパッサン

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  1889年5月5日、パリのエッフェル塔が公開された。フランス政府はフランス革命100周年にあたるこの年に開催するパリ万博の目玉にエッフェル塔の建設を決定した。ところが作家、詩人など約50人が、「パリに鉄塔を建てるとはパリの名誉を汚すものだ」と大変な剣幕で連名の陳情書が出された。陳情書には作家のアレクサンドル・デュマ・フィス、ギ・ド・モーパッサン、ジョリス・カルル・ユイスマンス、作曲家のシャルル・グノー、画家のエルネスト・メイソニエ、詩人のフランソワ・コペー、シュリー・プリュードムらが名を連ねていた。とくにモーパッサンのエッフェル塔嫌いは有名で、「工場の煙突のように滑稽でうすっぺらな生まれぞこないの横顔をみせる、巨大で不格好な骸骨」と罵った。1889年3月31日、エッフェル塔は完成した。

   ところが1889年5月6日、エッフェル塔が公開されると大評判となり、とくにレストランは美味しい料理と上等のワインで大賑わいであった。あるとき新聞記者がエッフェル塔に取材に行くと、なんと反対運動をしたモーパッサンがレストランにいた。それを見た記者は「あんなに反対したのに、やっぱり出来てみればあなたもこの塔が気に入ったのですね」と話しかけた。ところが流石はモーパッサン。落ち着きはらって「ここがパリでエッフェル塔が見えない唯一の場所だからね」と平然と答えたという。

Maupassant  

( keywod;Alexander Gustave Eiffel,Maupasant,Alexandre Dumas,Jons Karl Huismans,Charles Fracois Gounod,Jean Louis Ernest Meissonier,Francois Coppee,Sully Prudhomme )

2018年5月 4日 (金)

ラムネの日

24018772_120063319958    飲み口にガラス玉を嵌めた瓶に炭酸飲料を入れたラムネ。その語源は英語のレモネードからきている。1872年のこの日、東京の千葉勝五郎(1833-1903)がラムネの製造販売の許可を取得したことに因む。一説によると、スコットランド生れの薬剤師アレキサンダー・キャメロン・シム(1840-1900)が明治初期来日し、1884年頃からラムネの製造・販売を始めた。その2年後、コレラが大流行すると、新聞に「ガスを含有している飲料を用いると、コレラ病に犯されることがない」という記事が掲載され、ラムネが一気に日本中に広まった。(Alexander Cameron Sim、5月4日)

2018年5月 3日 (木)

カラスが飛んで梨が落ちる

   「カラスが飛んで梨が落ちる」韓国のことわざ。カマグイ ナルジャ べ トロジンダ。まったく関係のないことが同時に起きたために思わぬ疑いをかけられる、という意味でよく使われる。本来は仏教説話がもとにあり、四字熟語「烏飛梨落(オビイラク)にもなっている。ある日、梨の木の枝で休んでいた烏が飛び上がったとき、その揺れで梨が落ち、下にいた蛇が死んだ。そのあと蛇がイノシシに生まれ変わり、烏はキジに生まれ変わる。今度はイノシシが間違って石を落とし、卵を抱いていたキジがその石で死ぬ。そのキジが人間に生まれ変わり、今度はイノシシを狩ろうとしている。それを見た一人の法師が、その2人の因縁を見極め、イノシシを殺さないように説得し、繰り返される因縁を切ったという話がある。

2018年5月 1日 (火)

稲作はどこから来たのか?

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    かつて中学校の歴史教科書で稲作の起源は弥生時代の初め頃と教わった。しかし近年、菜畑遺跡、板付遺跡、砂沢遺跡などの発掘調査から稲作は、紀元前4世紀、縄文時代末期から始まっていたと考えられるようになっている。日本に稲作が伝来したルートは主に3つある。長江流域から黄河を越えて、朝鮮半島経由で北九州へ到達したという北方ルート説(A)。長江中・下流域から東シナ海を越えて北九州に伝わったとする東シナ海ルート説(B)。東南アジア、中国雲南から経由する南方ルート説(C)。長江流域の良渚遺跡より直接日本に伝わったとする説も有力であるが、稲のDNA分析の結果からはAルートの伝来が有力と考えられている。Cルートはタイのバン・チアン遺跡が注目されるが、現段階では推測の域を出ず、今後の研究を待たねばならない。( keyword;Ban Chieng )

怪談河内介

F0122653_11183914     1862年のこの日、維新の志士、田中河内介は捕らえられて、薩摩への護送の船中で殺された。

    大正の初め、京橋の画博堂で何人かが怪談話をしていると、一人の見慣れない男がやってきて、自分にもひとつ話をさせてくれという。田中河内介の最期である。河内介は幕末の勤王家で祐宮(明治天皇)の教育係でもあり、立派な人物であった。伏見寺田屋で薩摩藩士有馬新七らと関白九条尚忠暗殺を画策する。だが島津久光は奈良原繁、大山綱良らを派遣して鎮撫させた。河内介は捕らえられ、鹿児島へ護送される途中、子の瑳磨介とともに殺害された。ところが座の一同はこの結末を聞くことはなかった。男の話は、いつまでも本題に入らない。語り始めるとまた最初に戻ってしまう。やがて皆あきあきして、一人、二人と席を立つものが現れた。いつか部屋には、男一人だけとなった。そして皆が一斉に席を外していたその僅かな時間の間に、何と男は死んでしまった。結局、河内介の最期は語られることはなかった。このような田中河内介禁忌はいまでも続いている。NHK大河ドラマ「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」でも田中河内介は登場しない。「天皇の世紀第9話」で丹波哲郎が演じたのが最初で最後であろう。田中殺害事件がタブーとなったのは、明治天皇が河内介を大変に憐れみ明治元勲たちが禁忌としたと一般には理由づけられている。むしろ祐宮時代をよく知る田中河内介が、明治天皇すりかえの首謀者にとって邪魔な存在であり、禁忌としたのが真相ではないだろうか。(5月1日)

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