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1279年、厓山の戦いで、蒙古軍の攻撃をうけ、南宋は滅亡した。ここにひとりの忠臣がいた。文天祥(1236-1282)。厓山の戦いのときは、すでに蒙古軍の捕虜となっており、自軍の悲劇を蒙古の船上から目にするのであった。文天祥は重要な捕虜として大都に送られる。そこでフビライ汗は文天祥を統治しにくい江南支配に利用したいと考えて、しきりに帰順を勧誘したが、彼は最後まで節を曲げず死を願い、4年間の幽閉ののち、処刑される。至元19年12月9日、それはフビライ汗と面会した翌日であった。享年47歳。獄中でつくった「正気の歌」は後世に強い影響を与え、藤田東湖ら日本の幕末の思想家にもそれは認められる。
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