始皇帝と徐福伝説
秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水にそって次第に東に移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代初めの孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅の変法によって富国強兵をおこない、中央集権化をはかった。その後、秦は戦国の七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々と滅ぼして、前221年に史上初めて中国全土を統一した。秦王政は、皇帝に即位し、自ら始皇帝と称し、法治主義を採り、文字、貨幣、度量衡、法律など諸制を一新する。そして翌年から、前後5回にわたって各地を巡幸する。皇帝の威厳を天下に示すためであったが、不老不死の仙薬を求めるのがもうひとつの目的であった。この世の全ての権力を掌中にした始皇帝といえども得られなかったもの、それは不老長生だった。始皇帝は東方の海岸地帯を訪れ、そこの方士たちから東方の海上にある仙人のことを聞いた。かれらは不老不死の研究者であって、「海上の仙人が不老不死の薬をもっている」と始皇帝に話した。絶対者である自分が死ぬことに始皇帝は不満であり、自分は死ぬべきでないと考えた。彼は権力財力のすべてを挙げて、この薬の獲得に乗り出すことになる。徐福を東海に派遣したりしたが、なかなか成果は上がらなかった。
前210年、始皇帝は最後の巡幸に出た。随行者は、末子の胡亥、丞相の李斯、宦官の趙高である。この旅の途中で、始皇帝は病にたおれた。晩年の始皇帝は、死ということばを極端に嫌ったため、臣下のだれもが、死を口にする者はいない。が、容態が悪化するいっぽうである。さすがの始皇帝も、北方に遠ざけていた長男の扶蘇にあてて遺書をしたため、「咸陽にもどって葬儀を司れ」と指示し、7月、崩御する。享年は50歳であった。
一方、徐福は数十艘の巨船と薬物、天文、航海、造船、農業、呪術などの専門家、さらに三千人の童男童女を引き連れて出発し、弥生時代中期に紀州の熊野地方に到着したと伝えられている。しかし、この仙薬は数年経っても見つけられることができなかった。そのために、彼は譴責を恐れて始皇帝の元へ帰ることなく、そのまま熊野の地に住み着いた。一説に、徐福らの一行は不老長生の仙薬を探すために東進し、たどり着いた場所が富士山(不死山)であるというのである。これらが有名な徐福伝説であるが、多くの謎を秘めている。(世界史)
徐福東来伝説考 山本紀綱 謙光社 1975
徐福渡来伝説 徳間文庫 岡本好古 徳間書店 1985
徐福 弥生の虹桟 羅其湘、飯野孝宥 東京書籍 1988
徐福を探る 梅原猛、樋口隆康ほか 小学館 1990
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こんにちは。
始皇帝を描いた色々な絵の中でも、この絵の始皇帝は特に威厳もあり存在感のある絵ですね。
もしよければ、この絵の出典について教えていただけますか。どこに所蔵されている絵なのか、どの本や図録に載っているか、など教えていただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
投稿: わたなべ | 2012年10月 8日 (月) 17時14分