田沼意知殺傷事件の真相
1784年3月24日夕刻、江戸城中において田沼意次の長男、意知が新番の佐野政言(まさこと)に突然斬りつけられ、その傷がもとで4月2日死亡した。享年35歳。佐野政言は田沼政権下での立身を願い、系図の明らかでない意次に、自分の佐野家の系図に手を加えて、田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て恩を売ろうとした。しかし、もともと出自などに全く拘泥しない意次は、佐野の申し出を断った。このことに遺恨をもった佐野は逆恨みし、ついに子の意知を殺害したのである。意知が亡くなった翌日、佐野が切腹すると、高騰していた米価が偶然下がり民衆は佐野を「世直し大明神」と称えた。この事件を契機に松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。
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