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2018年2月20日 (火)

小林多喜二と志賀直哉

    本日はプロレタリア文学の代表的な作家、小林多喜ニ(1903-1933)の命日。多喜二が奈良にいた志賀直哉を訪問した時、志賀は「麻雀か将棋でもしないか」と誘ったが、多喜ニは両方とも趣味がないと言ったという。志賀は当時の文士なら必須の趣味を多喜ニが知らないことに驚いたという。多喜ニとほぼ同世代の小林秀雄(1902-1983)も志賀直哉を敬愛していたが、多喜二とは大きく違って秀雄は恵まれた文学的環境だった。秀雄は昭和3年5月頃から、長谷川泰子と別れて、奈良の志賀家に出入りしている。おそらく小林秀雄は志賀直哉と将棋を指していただろう。

    小林多喜ニが志賀家を訪れたのは、昭和7年春ごろであろうが、翌年の2月20日、正午すぎ赤坂福吉町で今村恒夫と共に築地署特高に逮捕され、激しい拷問の末に虐殺された。志賀は、弔文と供物をよせ、25日の日記に「暗澹たる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と記している。

    今日、プロレタリア文学といえば、前田河一郎の「三等船客」、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、徳永直の「太陽のない街」、そして小林多喜ニの「蟹工船」が挙げられる。しかし多喜ニの文学的出発は、志賀直哉に私淑して本格的に小説を書き始めたことはよく知られている。最も初期の私小説的な題材から、「政治と文学」に覚醒した多喜ニの文学的軌跡を研究することの現代的意義は大きいものがある。戦後文学、とくに芥川賞受賞作品を代表とする現代文学が内面的なものや感受性を重視し、国家や社会という現実の重みや虚偽の深さにあまり目を向けなくなったのは、敗戦の影響が強くあるのだろう。志賀直哉に代表される「個人中心の文学」と小林多喜二に代表される「社会(国家)中心の文学」とが、さらに高次な段階にあって総合されることをひそかに望んでいる。

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