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2018年2月28日 (水)

春の嵐

天気予報のお姉さんが「3月1日は春の嵐に警戒を!」と。春の嵐と聞けばヘッセの小説を思い出す。春の嵐は英語でspring storm、ドイツ語でFruhlingsturm フリューリングシュトルム。小説の原題は「Gertrud」ゲルトルードは主人公クーンが愛した女性名。ドイツ・オーストリアに多い名であの女スパイ「マタ・ハリ」の本名もマルガレーテ・ゲルトルート・ツェレという。「春の嵐」は翻訳家高橋健二の創案らしい。「自分の一生を外部から回顧してみると、特に幸福には見えない。しかし、迷いは多かったけれど、不幸だったとは、なおさら言えない。あまりに幸不幸をとやこう言うのは、結局まつたく愚かしいことである。なぜなら、私の一生の最も不幸な時でも、それを捨ててしまうことは、すべての楽しかった時を捨てるよりも、つらく思われるのだから、避けがたい運命を自覚をもって甘受し、善い事ことも悪いことも十分味わいつくし、外的な運命とともに、偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ、人間生活の肝要事だとすれば、私の一生は貧しくも悪くもなかった。外的な運命は、避けがたく神意のままに、私の上をすべての人の上と同様に通り過ぎて行ったとしても、私の内的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さ苦さは私の分にふさわしいものであり、それに対して私ひとりで責任を負おうと思うのである。」

カー娘の心にひびく名言

   平昌五輪も閉幕した。メダル獲得は13個となり冬のオリンピックとしては過去最多。日本選手の活躍を観ながら、兄弟姉妹で参加しているケースが多いことに気づく。スピードスケートの高木菜那と美帆、カーリングの吉田知那美と夕梨花、両角友佑と公佑など。メンタルが勝負の競技にあって、兄弟姉妹が一緒というのは安心感があるのだろうか。

   とくに帰国後の会見でもカー娘は終始笑顔が絶えない。この活躍の立役者は試合は補欠だったマリリンの愛称で親しまれる本橋麻里にある。2010年、チーム青森を脱退し、北海道北見にロコ・ソラーレを設立した。そして長野の中部電力にいた藤澤五月を移籍させてチームを強化させた。27日夜LS北見チームが地元の空港に凱旋した。大勢の子供たちがいて、マリリンは「北見にこんなにたくさんの子供がいて驚いた」とコメント。吉田知那美は「正直この町何もないよね」と会場を笑わせた後、続けて「この町にいても絶対夢はかなわないと思っていた。だけど今はこの町にいなかったら夢はかなわなかったと思う。みんなもたくさん夢はあると思うけど、大切な仲間や家族がいれば夢は叶う。場所なんて関係ない。」いろんな人のスピーチがあるけど、このような心に響く素晴らしいスピーチは聞いたことがない。これからカーリング人気は一過性なものではなくきっと定着すると思われる。LS北見チームは3月17日からカナダのノースベイで開催する女子カーリング選手権大会に参加する。

岳飛

   中国南宋の武将。1103-1141。南宋を攻撃する金(女真族)に対して幾度となく勝利を収めたが、金との和平を主張する秦檜に謀殺される。のち無実が明らかとなって、民族的英雄として「岳飛廟」に祀られて現在も参詣する人が絶えない。

2018年2月26日 (月)

日本の「補陀洛渡海」信仰

Photo   和歌山県の那智勝浦に補陀洛山寺がある。同寺では毎年、立春大護摩祈祷会に合わせて節分を前にして、一足早い豆まきが行われる。今年も1月27日に行われた。補陀洛とは遙か南方海上にあると信じられた山である。中世の観音信仰の1つで、熊野の那智権現には補陀洛山寺がある。補陀洛渡海といって、寺の住職は61歳の11月に観音浄土をめざして生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。補陀洛というと熊野のほかに有名なのが栃木県の日光である。それにしても、なぜ北関東の一山である男体山が補陀洛山とされたのか不思議である。782年に勝道が開山したときは補陀洛山(ほたらやま)と称した。いつしか「フタアラ」ないし「フタラ」と呼ばれ、弘法大師が二荒山(にこうさん)と呼んだことから、人々も二荒(にこう)、日光となったといわれる。

参考文献

根井浄「補陀洛渡海考」 2001年

神野富一「常世と補陀洛」 甲南国文51号、2004年

江戸時代に盛んだった庚申請の行事

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  インドの三猿

 「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿といえば、日光東照宮の彫刻を思いうかべる。しかし、三猿をかたどった造形は世界各地に分布している。猿の棲息する東南アジアやインドやアフリカはもとより、猿のいないヨーロッパや朝鮮半島にも、さまざまな三猿像が広まっている。インドが発祥地と考えられるが、宗教というよりも、「見ざる、聞かざる、言わざる」は民間に流布した一種の道徳であり、処世訓である。この考えを猿の姿をとおして表現したのは、もちろん日本語の否定形の「ざる」が動物の「猿」と同音であることによる。しかし、このことは三猿の日本起源を証明するものではない。

    日本における三猿の代表は、日光東照宮にある木彫の三猿である。徳川家康を大権現として祀る霊廟に、三猿が飾られているのは、この場所が厩(うまや)に当たるため、猿が火伏(ひぶ)せの力を持つこととなって、東照宮を火から守っているのである。さらに、天台宗の僧で、東照宮を建立した天海大僧正の主張により、家康の葬儀は山王一実神道によって執り行われた。すなわち天台宗と結びつきの深い、山王の象徴としての神猿に近い役割を、日光の猿が持っているのである。

    もうひとつの起源として庚申信仰をあげることができる。庚申は「かのえさる」とも読み、その連想から江戸時代初期以降、猿が庚申塔に刻まれるようになったらしい。庚申は道教に端を発する民間習俗である。60日毎の庚申の日に、人びとが集まり飲食歓談し徹夜するのは、体内から三尸の虫が抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命を縮めてしまので、それをさせないためである。庚申講を地域社会の寄り合いとして利用していたところもあり、そこでは「見ざる。聞かざる、言わざる」は仲間どうしの掟にもなっていた。

  「論語」のなかには、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」というくだりがある。実際、中国では、母は胎教にあたって「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は傲言を出さず」といましめられている。このように日本の三猿のルーツのひとつは道教にあり、もうひとつには儒教があげられる。しかも、それが日本では天台系の仏教の影響下に定着し、猿にかかわる民間信仰とも結びついていた。

    ところが、今日の世界各地でみられる三猿には宗教的な色彩はうすい。むしろ装飾品や日用小物として使用されるものが圧倒的多数を占めている。しかも、ヨーロッパやアフリカには「見ろ、聞け、言うな」あるいは「見ろ、聞け、言え」という三猿もすくなくない。また、四猿や五猿の組み合わせも存在する。日本の郷土玩具のなかにも、「不為さざる」あるいは「不思わざる」の猿が加わり、四猿や五猿の玩具もみられる。五猿は、猿がゴザル、福がゴザルに通じ、護猿(守りサル)としても験をかついでいる。さらに、「見てみたい、聞いてみたい、言ってみたい」と人間の本音を具象化した逆三猿の玩具まである。ともあれ、三猿の起源はいまだ十分に解明されていない。(参考文献:中牧弘允「世界の三猿」東方出版)

2018年2月25日 (日)

人生百歳時代

 俳優大杉漣さんの急死の報がショックである。映画「パラサイト・イヴ」(1996)を観ていたら、医学会の司会者役で大杉漣が居る。ミトコンドリアの妖怪に腕を焼かれ殺される。「ソナチネ」(1993)以降もセリフが少ない端役は続いていた。映画・ドラマのほか舞台・バラエティにもおどろくほど多数出演していた。「われわれの生まれ方は1つだが死に方はさまざまである」とはユーゴスラビアのことわざだそうだ。現在、著名人での最高齢は東宝専属の脇役俳優だった佐田豊さん。明治生まれで106歳。カークダグラスは101歳。中曽根康弘は99歳。ドナルド・キーンや瀬戸内寂聴は95歳。「柿の木坂の家」の青木光一は92歳。歌手の伊藤京子、菅原都々子は90歳。なかには現役で活動を続けているかたもいる。

春はもうすぐだね

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  日本各地はまだまだ厳しい寒さが続く。でも、プロ野球のオープン戦が行われ、Jリーグも開幕。平昌五輪も25日が閉会式。女子カーリングがカーリングの発祥国イギリスを破り銅メダルを獲得したことは快挙だ。春の足音が聞こえる。

マーピラの反乱

Ali_musliyar  マーピラとはイラン人やアラブ人がインド人と混血し、ムスリム商人となったイスラム教徒たちで、インド南部マラバール地方に多く住む。「世界史年表」などには何故かでていないが、インド独立史において重要な事件がマーピラの反乱である。1921年8月20日から1922年2月25日までに南インド各地に起きた反帝国主義、反地主闘争。マラバル地方の最貧困層が中心となったのでマラバルの反乱ともいわれる。キラーファット運動指導者Ali Muslyar (画像、1864-1922)は警察に追われるが逃れて潜伏し、長期化したため多数のマーピラが虐殺された。(モーピラーの反乱) mappila

2018年2月23日 (金)

蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国

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   文永11年(1274)モンゴルと高麗の連合軍3万が博多方面に襲うて来た。また弘安4年(1281)にも、モンゴル・高麗連合の東路軍4万のほかに范文虎の率いる江南軍10万が北九州に来襲。両度とも大風に妨げられて敗退したが、日本はまさに長夜の夢を覚まされたのであった。モンゴルのフビライはさらに第3回目の遠征軍を企てたが、軍費過重に悩む江南人民の反抗から中止を余儀なくされた。一方幕府は異国警護番役を継続して警戒を厳にし、さらに北条氏一門を派遣して九州地方の軍事行政裁判機関である鎮西探題を設置した。しかし、防備の負担は経済的困窮をまねき、戦後めだってきた庶子独立の傾向は幕府の基礎である御家人体制をゆるがしはじめひいては北条得宗家滅亡につながり、南北朝の内乱となってゆくのである。

 しかし最近の研究、考古学上の発見などにより、元寇(蒙古襲来)は神風で撃退したという定説が否定されようとしている。とくに第一回の文禄の役では暴風はなかった。弘安の役では台風は来て艦船に被害を与えているが、艦船の作りが粗雑であるという指摘もある。結論として、モンゴル軍を撃退したのは神風ではなく、鎌倉武士の頑張りや食糧が不足し兵站の確保ができなかったことにあると考えられる。神風伝説は水戸光圀の「大日本史」による尊王思想が端緒であるが、太平洋戦争時の神風特攻隊にみられるように政治的に利用された。

西郷の最初の妻、須賀の離縁後の人生は謎

   大河ドラマ「西郷どん」。吉之助と伊集院須賀は嘉永五年に結婚、このとき須賀は20歳前後といわれる。美人だったが、嫁入りした年に西郷家に不幸が重なり「不吉な嫁」と噂される。そんな時、ペリーの黒船が来航し、西郷は島津斉彬に抜擢され江戸に出立。五人の弟妹の面倒をみながら、西郷家の留守を守った須賀であったが、その貧窮さを見かねた伊集院兼善が、須賀を引き取ったのは嘉永七年の年末頃とされる。結婚生活はわずか2年であり、須賀のその後の消息はわからない。明治以降も生存したと思われるので戸籍を調査すれば判ると思うが・・・。ウィキペディアによると生年は天保3年(1832年)4月とあるが没年不詳。参考:「平成新修旧華族家系大成」

ゴッホの自殺死はアンナチュラル・デス

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   カラスのいる麦畑

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 シャボンヴァルのグレの茅葺き家

 ドラマ「アンナチュラル」死因究明の専門家たちが不自然な死の謎を解く。異常死の9割は解明されていない。Unnatural Deathを歴史上の人物であげるとすれば孝明天皇や画家ファン・ゴッホ。とくに敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、29日に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。

Img_0027  25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホの下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)

ヘッドライト

   本日のBSプレミアム「ヘッドライト」(1955年)。人生に疲れた中年の長距離トラック運転手ジャン・ギャバンと大衆食堂で働く若いウェイトレスとの出会いと哀しい恋の行方。病死するクロチルドはフランソワーズ・アルヌールが演じる。当時日本でも大人気女優だった。ギャバンの娘ダニー・カレルも可愛い。ルネ・クレールの「リラの門」に出演していた。フランソワーズ・アルヌールもダニー・カレルもご健在のことでうれしい。仲代達矢と藤谷美和子でリメイクしたこともある。

2018年2月22日 (木)

エーメンの歌

   NHKあさイチに指揮者の小澤征爾が出演している。おそらくこれは再放送の映像か。クラシック以外に好きな音楽は、と聞かれて、「エーメン、エーメン」と手拍子を取りながら歌い出した。普通なら周りの者も応じて唱和するただろうに、イノッチも有働アナもこの歌を知らないらしく音楽にのってこない。曲は、ゴスペルソングで、キリスト教徒が祈りの最後に唱えるヘブライ語の言葉で「エイメン(そうなりますように)」という意味。1963年のシドニー・ポアチエ主演の「野のユリ」での感動的なシーンで使われている。1961年に渡米した小澤が指揮者として活躍してその名が全米で知られるようになった頃に流行ったので本人にとって想い出深い一曲だったのだろうか。

古代エジプトの「生類憐れみの令」

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 古代エジプトでは猫もミイラになった(大英博物館)

  人間と最も身近な動物といえば、まず「ネコ」である。2月22日は「猫の日」。野生の猫は、5000年も昔に、最初は穀物をネズミの害から防ぐ目的などで飼い馴らされたらしいが、のちにこまやかな情愛を注がれたペットとしての家猫が現れる。

    大河ドラマ「平清盛」には白河法皇が仏教の教理に従って殺生を禁じているシーンがある。「生類憐れみの令」のような禁令は徳川綱吉が初めてではなかった。古代エジプトにも、猫を殺すと死刑にされるという時代があったそうだ。猫の頭をもった女神バステトBastedがいる。ブバスティスでは猫のミイラが多数出土し、古代エジプトでは猫を家畜化する一方で、神として崇拝するようになったことが明らかになっている。ヘロドトスによれば、「猫が死ねば、家人は悲しみを表明するために眉を剃り落とし、死体をミイラにして手厚く葬る。・・・・火事の際には、真っ先に猫を助けなければならない」と記している。こうした猫崇拝が盛んだったのは紀元前16世紀から紀元前11世紀の新王国時代や紀元前6世紀のときが最盛期で、前525年、ペルシアのカンビュセス2世は最前列に猫を配してエジプトを攻め、矢を放つことができないエジプト軍は滅ぼされてしまったという。(本当の話とは信じ難いが)西洋の諺に「A cat has nine lives.」(猫には九生ある)とある。この起源は古代エジプトで、猫は9つの魂を持ち、9度生まれ変わることができると信じられている。当時流行のライオン狩りなどのスポーツも不信心な行いとしてみられ、バステトの祭りの期間中は禁じられていた。

2018年2月20日 (火)

小林多喜二と志賀直哉

    本日はプロレタリア文学の代表的な作家、小林多喜ニ(1903-1933)の命日。多喜二が奈良にいた志賀直哉を訪問した時、志賀は「麻雀か将棋でもしないか」と誘ったが、多喜ニは両方とも趣味がないと言ったという。志賀は当時の文士なら必須の趣味を多喜ニが知らないことに驚いたという。多喜ニとほぼ同世代の小林秀雄(1902-1983)も志賀直哉を敬愛していたが、多喜二とは大きく違って秀雄は恵まれた文学的環境だった。秀雄は昭和3年5月頃から、長谷川泰子と別れて、奈良の志賀家に出入りしている。おそらく小林秀雄は志賀直哉と将棋を指していただろう。

    小林多喜ニが志賀家を訪れたのは、昭和7年春ごろであろうが、翌年の2月20日、正午すぎ赤坂福吉町で今村恒夫と共に築地署特高に逮捕され、激しい拷問の末に虐殺された。志賀は、弔文と供物をよせ、25日の日記に「暗澹たる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と記している。

    今日、プロレタリア文学といえば、前田河一郎の「三等船客」、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、徳永直の「太陽のない街」、そして小林多喜ニの「蟹工船」が挙げられる。しかし多喜ニの文学的出発は、志賀直哉に私淑して本格的に小説を書き始めたことはよく知られている。最も初期の私小説的な題材から、「政治と文学」に覚醒した多喜ニの文学的軌跡を研究することの現代的意義は大きいものがある。戦後文学、とくに芥川賞受賞作品を代表とする現代文学が内面的なものや感受性を重視し、国家や社会という現実の重みや虚偽の深さにあまり目を向けなくなったのは、敗戦の影響が強くあるのだろう。志賀直哉に代表される「個人中心の文学」と小林多喜二に代表される「社会(国家)中心の文学」とが、さらに高次な段階にあって総合されることをひそかに望んでいる。

2018年2月18日 (日)

山本リンダ「ウララ」の意味

Magazineulala11s307x512   山本リンダのヒット曲「狙いうち」、「ウララ、ウララ、ウラウラよ~」とおへそを出しながら歌う。「ウララ」の意味は何か。もともとUlalaはフランス語で「おおっー」「ワー、すごい」といった感嘆詞のようなものだとネットにみえる。ただし、それだけではなくもっとセクシーな感じがする。フランス映画リノ・ヴァンチュラ主演の「冒険また冒険」(1972年)のワン・シーンにビキニの女性が横たわり、Ulalaと書いた巨大ポスターをみたことがある。英語では「Ooh la la」。いちゃいちゃ、とか、ちょっとエッチな言葉で誰でも知ってる俗語である。

頼山陽、母を奉じて吉野に遊ぶ

9784198934361    頼山陽は広島の人で京都に住んだ。母と吉野の桜を見た故事逸話は有名であるが、出典がなかなか見つからない。ただ「山陽詳伝」(渡部主一編)iに収録する森田益の一文がある。

    頼山陽、嘗て母を奉じて吉野に遊び、一目千本に至る。桜花爛漫として雲の如し。母大いに喜びていわく「今にしてわが願ふに足れるなり」と。山陽、平生喜うんの情あらわさず、ここにおいて喜び顔面に溢れて いわく、「ああ母の一言、まさに宰相になるに勝る」と。

    頼山陽は母と一緒に吉野だけでなく、全国各地を数多く旅行しているようである。なぜ古来よりこの故事・逸話が好まれるのだろうか。桜という景色の日本的な美しさとはなやかさはもちろんのことであるが、それが親孝行の話と一体となって、とくに親を亡くしたものには、たまらない懐かしさを感じさせられるのではないだろうか。

2018年2月17日 (土)

フィギュアスケートの歴史

   平昌五輪男子フィギュアスケートで羽生結弦が金、宇野昌麿が銀を獲得。サンモリッツ・オスロと二大会連続金メダルのリチャード・パットンは羽生を「信じられないくらいすばらい」と絶賛した。フィギュアスケートは19世紀中ごろ、バレエ教師のアメリカ人、ジャクソン・ヘインズがバレエのポーズやタップとステップを取り入れ、音楽と合わせて滑走したことで普及するようになった。ヨーロッパではウィーンてにシュトラウスやモーツァルトの音楽に合わせて滑走する大会が開催される。1882年ウィーンで最初の国際大会が開催された。第一次世界大戦後、ノルウェーの女子シングルでソニア・へニーが世界的な人気者になった。ソニアはその後ハリウッドで映画スターとして成功した。日本では戦前の稲田悦子、戦後の佐野稔らが現れたが、五輪メダリストは実現できなかった。近年、伊藤みどり、荒川静香、浅田真央、高橋大輔ら世界レベルの選手が活躍するようになる。羽生の五輪連覇は国民栄誉賞に十分に価する歴史的快挙といえる。

西郷とジョン万次郎

   大河ドラマ「西郷どん」第6回「謎の漂流者」西郷が藩主島津斉彬を相撲で投げ飛ばしたため牢屋に入れられる。獄中で謎の男に出会う。土佐の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎である。鎖国していた日本、一時期薩摩で取り調べを受けた。嘉永4年(1851年)のことである。本当に西郷隆盛と中浜万次郎とは出会っているのだろうか。いろいろと資料をみたが、二人の直接的な接点は見当たらず、面会した記録はない。作り話か。島津斉彬には海外新知識を伝えたらしい。

2018年2月16日 (金)

魔性の女「カルメン」

Superviacarm   男を破滅させる魔性の女。「ファム・ファタール」とは直訳すると「運命の女」という意味だが、文学におけるファム・ファタールは、アベ・プレヴォーによって1731年に発表された「マノン・レスコー」である。しかし1845年にフランスの作家メリメが発表した「カルメン」が歌劇となり、最も魔性の女を代表するヒロインとなる。世界中でこの100年間、歌劇、ミュージカル、映画などあらゆるジャンルで最も数多く演じられたヒロインは「カルメン」をおいて他にない。「粋な姿の小柄で、情恣的な大きい目に、ときには凶暴な色をたたえる」ジプシー女とメリメの小説には描かれる。第一次世界大戦中、国際的に有名になったのはコンチーヌ・スペルビア(1895-1936)だった。愛らしい丸顔、コケティッシュな演技力と今日でもファンが多い。

Annex2020hayworth20rita20loves20of2   サイレント映画ではジェラルディン・ファラー、セダ・バラ、エドナ・パーヴァイアンス、ポーラ・ネグり、ラケル・メレ、ドロレス・デル・リオがある。トーキーになってマルグリット・ナマラ、インペリオ・アルヘンティーナ、ヴィヴィアンヌ・ロマンス、リタ・ヘイワース(画像)、マルーシュカ・デートメルス、ラウラ・デル・ソル、ジュリア・ミゲネス・ジョンソン、アグネス・バルソアなどの女優たちが妖艶さを競った。

Carmenjonesdorothydandridge1954    カルメン女優史でアカデミー賞にノミネートされた女優がいる。ドロシー・ダンドリッジ(1922-1965)は「カルメン」(1954)で注目されたが、当時ハリウッドは黒人差別が強く残っていた。オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーがアカデミー賞を獲得する。ドロシーはイタリア映画に出演したり、クラブ歌手となるも次第に生活が苦しくなり、貧困のうちに1965年、安アパートで孤独死する。ハリー・ベリーは「アカデミー栄光と悲劇」(1999)でドロシーを演じた。最近のカルメン女優は、パス・ヴェガ。

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グラディス・スウォーザウト ジュラルディン・ファーラー            

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セダ・バラ 1915        ヴィヴィアーヌ・ロマンス  

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 クリスタ・ルートヴィヒ     レジーナ・レズニック  

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 ジュリエッタ・シミオナート  
 ポーラ・ネグリ 1918 

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ドロレス・デル・リオ 1927   ジェニー・トゥーレル

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ラウラ・デル・ソル 1983     パス・ヴェガ 2003 

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マルグリット・ナマラ 1932 ユッタ・レフカ 1967
 

2018年2月15日 (木)

食中毒で死んだお釈迦さま

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  イエス・キリストは十字架磔刑の壮絶な死であったが、釈迦はどのようにして亡くなったのだろうか。前483年(前383年説もある)、80歳の老齢となって首都ラージャグリハを出て、自分の生まれ故郷のほうに向かって最後の旅に出た。途中、鍛治工チュンダの供養したキノコの料理を食べて激しい下痢をおこした。まもなく、クシーナガラ(現ビハール州カシア)の沙羅双樹の下で安らかに没したといわれる。涅槃絵は3月15日に行われる。(2月15日)

2018年2月14日 (水)

イエス・キリストの映画

   プレミアム・シネマでピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「奇跡の丘」(1964)を観る。名高い作品ながら私は初見である。これまでハリウッドの「偉大な生涯の物語」などキリスト映画は数本みたが、「奇跡の丘」は最高である。無名俳優をつかい衣裳やセットはシンプルにしてギリシア古典劇をみるような無表情なドキュメント風タッチでヨハネによる福音書の物語が進行する。無神論者のパゾリーニ監督だからむしろ製作できたのであろう。抽象的でも難解な代物でもなく、聖書の名句が一語一語よく表現されており、理解しやすい。これまでキリストを演じた俳優といえば、「偉大な生涯の物語」のマックス・フォン・シドー、「キング・オブ・キングス」のジェフリー・ハンターが知られる。「奇跡の丘」でキリストを演じた青年エンリケ・イラソキは当時スペインの学生で素人。現在74歳で存中である。

わが愛読書は「史記」

   著名人の愛読書を雑誌の特集でしばしばみかけることがある。だが個々の作家の愛読書が何かという一覧を探したが見つからなかった。サミュエル・スマイルズ(1812-1904)は「人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである」といっている。さすれば著名人がどのような本を愛読しているかを研究することも全く無意味な労とはいえまい。

  「大和古寺風物誌」で知られる評論家の亀井勝一郎はゲーテの「イタリア紀行」を読んで、大和の古寺を訪れることにしたと書いている。芥川龍之介が「西遊記」、大江健三郎が「ハックルベリー・フィンの冒険」や「ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅」、北杜夫が「星の王子さま」など児童書をあげている。心理学者の河合隼雄もアルス社の日本児童文庫にあった「グリム童話集」をあげている。漫画家の水木しげるが上田秋成の「雨月物語」、文芸評論家の磯田光一が三島由紀夫「金閣寺」、歴史小説家の司馬遼太郎は「史記」、将棋界のレジェンド、ひふみん(加藤一二三)の愛読書は「聖書」など古典をあげて人が多い。水木しげるには戦地に赴くときも肌身離さず持っていたエッカーマン著「ゲーテとの対話」(岩波文庫)がある。究極の愛読書かもしれない。

「三国志」オタクがいるように、読書人口からいえば世界中でいちばん読まれている本かもしれない。ちなみに中国の八大小説とは、三国演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅、儒林外史、紅楼夢、今古奇観、聊斎志異である。

2018年2月13日 (火)

世界大戦で2度も敗れた国

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 トラキア人の墳墓

 

    1940年11月20日、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟した。ドイツ・オーストリアの他に、第一次、第二次世界大戦、2度ともに敗れた国はハンガリーとブルガリアである。ハンガリーは1914年に始まった第一次世界大戦にやぶれ、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊。ハンガリーは国土の3分の2を失った。1930年代になると領土の回復を求める運動が高まり、ナチス・ドイツに近づき、三国同盟に加わり、参戦するが、途中で停戦しようとしたため、1941年にドイツに占領され、1945年2月13日にソ連軍により解放される。 

   ヨーロッパのバルカン半島北東部に位置するブルガリアは、古来より東西を結ぶ交通の要地にあり、紀元前はトラキアと呼ばれていた。7世紀後半、タタール系のブルガリア民族が侵入、681年にブルガリア王国が成立。1018年東ローマ帝国領となり、1186年独立したが、1396年トルコに征服された。1908年ブルガリア王国として正式に独立を宣言した。第一次大戦では同盟国側に参戦し敗戦。1919年に連合国と講和条約(ヌイイ条約)を締結、多額の賠償金の支払いは小国ブリガリアにとって大きな負担となった。第二次大戦では枢軸国に立つたが、国内では反ナチスの祖国戦線が結成され、1944年親独政権は倒され、1947年ブルガリア人民共和国が成立した。

    第一次大戦でその動向が注目されるのはイタリアである。イタリアは1882年以来、伊独墺で三国同盟を結んでいたが、イタリア政府は中立を宣言して戦局の推移を見守った。しばらく参戦への態度を決しかねていたが、サラウンドラ首相・ソンニーノ外相は1915年4月26日、秘密裏に英仏とロンドン条約を結んで、協商側につく見返りとしてトレンティーノ・トリエステ・ダルマーツィァを取得する約束を得た。この秘密条約にもとづいて政府は三国同盟を破棄し、5月24日オーストリアに対する宣戦を布告する。戦争には悲惨な犠牲を払いながらも、1918年11月3日勝利する。

 

 

 

 

2018年2月12日 (月)

愛のタリオ

チョン・ウソン主演の韓国映画「愛のタリオ」。田舎町に小説講座の講師としてやってきた作家のハッキュ。町の少女ドク(イ・ソム)とすぐに男女の関係になるハッキュだが、彼には妻子がおり、セクハラで大学を追われた。やがて大学への復職が決まり、ハッキュはドクを捨てて都会へ戻る。このときドクは妊娠していた。ドクの復讐がはじまる。妻は自殺、娘は売り飛ばされ、ハッキュは失明する。狂気と情念、韓国映画のエロスとパワーが全開している。原作は「沈清伝」という古典を現代風にアレンジたもの。英語題はscarlet innocence、邦題の「愛のタリオ」は秀逸。タリオ(talio)とは古代の刑罰規定の1つで、ハムラビ法典で「目には目を、歯には歯を」とあるように被害者が受けた害を加害者に与えられる制裁権のこと。

2018年2月11日 (日)

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

2018年2月10日 (土)

望郷のモロッコに雪は降るのだ

   昨晩は平昌五輪の開会式をテレビで視聴する。4年後の北京大会は生きて見れるだろうか。冬季五輪は1924年に第1回がフランスのシャモニー(参加国16ヵ国)で開かれ、第23回の韓国・平昌大会は史上最多の92ヵ国・地域が参加する。選手団の入場順は、先頭がギリシャ。続いて、ハングルでの国名表記順で行進が行われ、日本はインドに続いて62番目に入場した。多くの日本人選手が体調管理優先で不参加のなかでジャンプの高梨沙羅の笑顔が見れたのは印象的だった。旗手はジャンプの葛西紀明選手。最後の91番目は韓国と北朝鮮が朝鮮半島旗の下、合同で入場する光景も感動的だった。聖火台点灯者はやっぱりキム・ヨナ。ともかく五輪の開会式は世界地理の勉強にもなる。NHKの実況でアナウンサーがモロッコの雪とか香港の旗の話を誤報していた。モロッコを漢字では摩洛哥と書くが、映画「望郷」や「カサブランカ」のイメージでサハラ砂漠=暑い、という印象がある。国土面積は日本よりだいぶん広く4000m級のアトラス山脈が走っているので真冬には山岳には積雪している。砂漠地帯も昼夜の寒暖差が大きくて、夜は寒い。ハンフリー・ボガードやバーグマンがコートを着ていたのもそのためだ。常夏の島のイメージがあるハワイのマウイ島でもたまに雪が降ることがある。

彜族

   彜族(いぞく)とは中国西部に居住する少数民族。雲南・四川・貴州に住み人口は871万人といわれるが、ラオス・ミャンマー・ベトナムにも住む。古姜の子孫で、南詔王国を建国した烏蛮族が先祖とも言われる。「彜」という漢字は宗廟に供える祭器であるが、漢語「彜倫(いりん)」のように「道徳」の意味がある。しかし清朝時代、彜族に対して漢字を充てたのは尊敬の意味ではなく差別的意味が含まれていたともいわれている。

「少年老い易く学成り難し」のユーモア

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  少年老い易く学成り難し

  一寸の光陰軽んずべからず

  未だ醒めず池塘春草の夢

  階前の梧葉巳に秋声

    古来、日本人にはお馴染みの漢詩である。人間、すぐ老齢にいたるが、学問はなかなか成就しがたい。だから、ほんの少しの時間も無駄にせずに勉強せよ、という教育的な名詩。朱熹の「偶成」という。ところが最近の研究で朱熹の作ではない可能性が高いことがわかった。中国の朱熹全集をいくらさがしても見当たらない。柳瀬喜代志によって「滑稽詩文」に「寄小人」という題で似た詩があることがわかった。この詩が朱熹の作として登場したのは明治の漢文教科書によってである。本来の作者は観中中諦(1342-1406)という五山の僧侶らしい。それにしても、「偶成」が朱熹でなかったというのは、日本人のユーモアを感じる話である。

ところで「池塘春草の夢」とはなにか。これは謝霊運が、ある時「池塘生春草」という句を得て大層得意であった。今この詩にこの句を取ったのは「若いときに自分の才能に得意がっていると、悲しい老いが直ぐに来るぞ」と暗に知らしているのである。(謝霊運「登池上楼」)

参考:「いわゆる朱子の「少年老易く学成り難し」 「偶成」詩考 柳瀬喜代志 岩波「文学1989年2月号

岩山泰三「少年老い易く学成り難し、とその作者について」 月刊しにか8-5、1997.5

2018年2月 9日 (金)

江戸城無血開城

Kitasirakawa     慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

2018年2月 8日 (木)

平昌五輪開幕

   平昌五輪開会式は明日からだが競技はもうはじまっている。カーリング新種目、混合ダブルス。午前9時5分一次リーグ韓国対フィンランド戦。開催国韓国が9-4で圧勝発進。カーリング競技は15世紀のスコットランドで始まった。現行のルールは主に19世紀のカナダで確立した。競技名は、ストーンの曲がり(カールし)ながら進むことに由来する。国際大会で使用されるストーンは、主にスコットランドのアルサクレッグ島産の花崗岩から製造される。ほかの産地の石では密度と強度が足りず、割れてしまうことがあるからだ。つまり特別製品なのでお値段のほうもとてもお高い。石ひとつ10万円くらいする。Ailsa Craig

2018年2月 7日 (水)

けん玉の歴史

   昨年の紅白歌合戦で三山ひろしが歌いながら、けん玉ギネスに挑戦するという趣向があった。大皿という技を124人が連続成功すればギネス新記録となる。しかし惜しくも14番目の人が失敗してギネス記録達成とは成らなかった。けん玉は世界中に広がっているらしい。起源については諸説あるがフランスのビル・ボケ(Billboquet)が古い記録にある。16世紀のアンリ3世の頃である。ピエール・ド・エストワールが「1585年の夏、街角で子どもたちがよく遊んでいるビル・ボケを王様たちも遊ぶようになった」と記している。貴族や上流階級のビル・ボケは象牙などを使い、彫刻がほどこされていたので高価なものであった。現在世界各地にあるけん玉はおそらくこのビル・ボケが伝わったものらしい。日本で見慣れているけん玉は、大正時代に作られたもので、当時は「日月ボール」と呼ばれていた。1918年、広島県呉市の江草濱次が明治期のけん玉を改良した「日月ボール」を考案した。これが1927年ころ全国的に大流行した。

西洋音楽史略年表

   今年はドビュッシー没後100年。冬季五輪のフィギュア競技などクラシックの名曲を聴く機会も多い。バロック以降の西洋音楽史の略年表。

1600年 バロック音楽は、17世紀から18世紀中ごろまでのおよそ1世紀半の時期をさす。フィレンツェのジョバンニ・バルディ伯のもとに集まった学者・詩人・音楽家のグループであるカメラータによる新しい理論の提唱とその実践とによって開始された。

1607年 モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」がマントヴァで上演

1717年 ヘンデル、管弦楽組曲「水上の音楽」

1717年 バッハ、「G線上のアリア」(1717年から1723年の間)

1725年 ビバルディ、バイオリン協奏曲・四季

1727年 バッハ、管弦楽組曲。4曲あるが、作曲年代には異説がある。

1786年 モーツァルト、「フィガロの結婚」初演

1787年 モーツァルト、「アイネクライネ・ナハトムジーク」

1793年 ハイドン「交響曲第100番軍隊」(1793年から1794年)

1797年 ハイドン「弦楽四重奏曲第7番第2楽章」(神よ、皇帝フランツを守り給え)

1800年 ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調(作品21)。1824年までベートーヴェンの交響曲の作曲時代が続く。各国で教養ある音楽ディレッタントによる家庭音楽がさかえる。

1824年 ベートーヴェン 交響曲第9番

1825年から26年 シューベルト「交響曲第8番ロ短調(未完成)」

1829年 ロッシーニ「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル序曲)

1833年 ショパン「練習曲集」(別れの曲)

1839年 シューマン「子供の情景」(トロイメライ)

1853年 リスト「ハンガリー狂詩曲」

1855年 ショパン「幻想即興曲」

1867年 ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」

1868年 スメタナ「交響詩(わが祖国)」

1869年 ブラームス「ハンガリー舞曲第5番」

1871年 ヴェルディ「アイーダ」初演

1872年 ビゼー「アルルの女」

1874年 ムソルグスキー「展覧会の絵」

1875年 チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノコンチェルト)

1876年 グリーグ組曲「ペール・ギュント」

1877年 チャイコフスキー「白鳥の湖」初演

1880年 ボロディン「中央アジアの草原にて」初演

1883年 ブラームス「交響曲第3番」

1886年 サン・サーンス「動物の謝肉祭」(白鳥)

1887年 ブルックナー「交響曲第8番ハ短調」

1894年 ドビュッシー「牧羊神の午後への前奏曲」

1894年 ドヴォルザーク「交響曲第9番(新世界より)」

1899年 シベリウス「交響詩フィンランディア」

1900年 サティ「ジュー・トゥ・ヴー」

1902年 マーラー「交響曲第5番」

1910年 ストラヴィンスキー「火の鳥」初演

1926年 プッチーニ歌劇「トゥーランドット」誰も寝てはならぬ

1935年 ショスタコビッチ「第五交響曲」

1942年 ハチャトリアン「ガイーヌ」剣の舞

2018年2月 5日 (月)

荒尾高校暴動事件

   熊本県立荒尾高校は1948年に創立した。1956年9月23日の運動会の終了後、男女の生徒たちがファイヤーストーム(無礼講)をはじめた。教師がやめさせるようとすると怒り生徒200人は校舎のガラスを割り投石しピケを張り大暴れした。25日、校長は生徒たちに反省を促したが、あくまで教師の非を唱えて暴動騒ぎが再発した。校長は警察に通報して午後11時前にようやく鎮静した。11月5日学校側は全校生徒870人のうち退学者4人を含む437人の処分を発表した。納得いかない生徒は集結し、またもや3日間の臨時休校になった。この荒尾高校の暴動事件は戦後教育史にも年表などに記されるものであるか、その事件の背景や暴動の目的・理由などの真相がいまひとつ判明しない。新聞などの世論は学校に非難が集中し、処分の軽減と校長の退職、全教師への行政処分で収拾された。現在、荒尾高校という名前の学校は存在しない。2017年3月1日閉校し、新しく県立岱志(たいし)高校として2015年より開校されている。

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

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