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2018年2月28日 (水)

春の嵐

天気予報のお姉さんが「3月1日は春の嵐に警戒を!」と。春の嵐と聞けばヘッセの小説を思い出す。春の嵐は英語でspring storm、ドイツ語でFruhlingsturm フリューリングシュトルム。小説の原題は「Gertrud」ゲルトルードは主人公クーンが愛した女性名。ドイツ・オーストリアに多い名であの女スパイ「マタ・ハリ」の本名もマルガレーテ・ゲルトルート・ツェレという。「春の嵐」は翻訳家高橋健二の創案らしい。「自分の一生を外部から回顧してみると、特に幸福には見えない。しかし、迷いは多かったけれど、不幸だったとは、なおさら言えない。あまりに幸不幸をとやこう言うのは、結局まつたく愚かしいことである。なぜなら、私の一生の最も不幸な時でも、それを捨ててしまうことは、すべての楽しかった時を捨てるよりも、つらく思われるのだから、避けがたい運命を自覚をもって甘受し、善い事ことも悪いことも十分味わいつくし、外的な運命とともに、偶然ならぬ内的な本来の運命を獲得することこそ、人間生活の肝要事だとすれば、私の一生は貧しくも悪くもなかった。外的な運命は、避けがたく神意のままに、私の上をすべての人の上と同様に通り過ぎて行ったとしても、私の内的な運命は私自身の作ったものであり、その甘さ苦さは私の分にふさわしいものであり、それに対して私ひとりで責任を負おうと思うのである。」

カー娘の心にひびく名言

   平昌五輪も閉幕した。メダル獲得は13個となり冬のオリンピックとしては過去最多。日本選手の活躍を観ながら、兄弟姉妹で参加しているケースが多いことに気づく。スピードスケートの高木菜那と美帆、カーリングの吉田知那美と夕梨花、両角友佑と公佑など。メンタルが勝負の競技にあって、兄弟姉妹が一緒というのは安心感があるのだろうか。

   とくに帰国後の会見でもカー娘は終始笑顔が絶えない。この活躍の立役者は試合は補欠だったマリリンの愛称で親しまれる本橋麻里にある。2010年、チーム青森を脱退し、北海道北見にロコ・ソラーレを設立した。そして長野の中部電力にいた藤澤五月を移籍させてチームを強化させた。27日夜LS北見チームが地元の空港に凱旋した。大勢の子供たちがいて、マリリンは「北見にこんなにたくさんの子供がいて驚いた」とコメント。吉田知那美は「正直この町何もないよね」と会場を笑わせた後、続けて「この町にいても絶対夢はかなわないと思っていた。だけど今はこの町にいなかったら夢はかなわなかったと思う。みんなもたくさん夢はあると思うけど、大切な仲間や家族がいれば夢は叶う。場所なんて関係ない。」いろんな人のスピーチがあるけど、このような心に響く素晴らしいスピーチは聞いたことがない。これからカーリング人気は一過性なものではなくきっと定着すると思われる。LS北見チームは3月17日からカナダのノースベイで開催する女子カーリング選手権大会に参加する。

岳飛

   中国南宋の武将。1103-1141。南宋を攻撃する金(女真族)に対して幾度となく勝利を収めたが、金との和平を主張する秦檜に謀殺される。のち無実が明らかとなって、民族的英雄として「岳飛廟」に祀られて現在も参詣する人が絶えない。

モンテーニュの読書室

La_tour_de_la_librairie_au_chateau_    本日はエッセイ記念日。エッセイといえば、フランスのミッシェル・ド・モンテーニュの誕生日(1553年2月28日)に因んだものとか。1533年フランス南西部ボルドー近郊のモンテーニュ城館に生まれたモンテーニュはヨーロッパ各地を旅行し、見聞を広めた。1571年、官を辞し、モンテーニュ城館の塔に読書室(librairie)を造り、読書と思索の生活に入った。やがて「エセー(随想録)」の執筆を初め、「随想録」2巻が執筆さた。サン・テミリオンの読書室の天井にはギリシア語、ラテン語の成句が書き込まれている。40近いこれらの銘文には、知識の不確実さ、生の無情さを強く説くものが多い。彼自身は「私は何を知るか(クセジュ)?」という表現を好んだ。これは、彼が常に真理探究の過程にある、という意味であった。(Montaigne,Bordeaux,Saint-Emilion,Que sais-je?)

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2018年2月27日 (火)

女性雑誌の日

20101115_2089246     雑誌の休刊・廃刊が相次いでいる。インターネットや雑誌のデジタル版の普及で紙ベースの情報需要の低下が進行しているらしい。50年前の皇太子ご成婚とともに雑誌の創刊が相次ぎ、トップ屋という流行語も生れた。松本清張などの小説も雑誌の普及によるところが大きい。図書館では雑誌とはいわず遂次刊行物という。よく耳にする話として、「世界」や「中央公論」はどこでもバックナンバーはあるが、「女性セブン」「女性自身」「週刊女性」をみたくてもなかなか公共図書館で保存しているところがない、ということである。そこで私設図書館である大宅壮一文庫というのが非常に雑誌の保存に力を入れているところで、編集者に役に立つそうだ。しかし近年はインターネットの普及で利用者が減少し、経営難で存続の危機にある。お宝鑑定団で週刊テレビガイドを創刊から収集している人がいた。テレビ番組表などは一般には放送が済めば無価値に等しいが、テレビ史を研究する者には一級資料であろう。コレクションとしては、あまり経済的負担なしにユニークなコレクションができるであろう。ただし現在のように多チャンネル時代になり再放送ばかりとなって、テレビ番組表を保存する価値があるや、なしや、意見の分かれるところであろう。

Cd02aad5s   本日は「女性雑誌の日」。1693年のこの日、ロンドンで世界初の女性向けの週刊誌「ザ・レディズ・マーキュリー」が創刊された。日本では徳富蘇峰の明治25年9月25日創刊の「家庭雑誌」が有名である。内容は男性目線の「家庭」と「良妻賢母」である。1970年に創刊した女性ファッション誌「an・an」。雑誌名の由来は、当時ロシアのモスクワ動物園にいたパンダ「アンアン」からとった。なぜパンダの名前が雑誌名になったかというと、当時an・an編集部のスタッフが、黒柳徹子からはじめてパンダという動物の存在を知らされたから。「ロシアにパンダという動物がいて・・・」と黒柳の話を聞いて感銘を受けたことから、雑誌のタイトルを「an・an」に決めたという。(2月27日)

2018年2月26日 (月)

日本の「補陀洛渡海」信仰

Photo   和歌山県の那智勝浦に補陀洛山寺がある。同寺では毎年、立春大護摩祈祷会に合わせて節分を前にして、一足早い豆まきが行われる。今年も1月27日に行われた。補陀洛とは遙か南方海上にあると信じられた山である。中世の観音信仰の1つで、熊野の那智権現には補陀洛山寺がある。補陀洛渡海といって、寺の住職は61歳の11月に観音浄土をめざして生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。補陀洛というと熊野のほかに有名なのが栃木県の日光である。それにしても、なぜ北関東の一山である男体山が補陀洛山とされたのか不思議である。782年に勝道が開山したときは補陀洛山(ほたらやま)と称した。いつしか「フタアラ」ないし「フタラ」と呼ばれ、弘法大師が二荒山(にこうさん)と呼んだことから、人々も二荒(にこう)、日光となったといわれる。

参考文献

根井浄「補陀洛渡海考」 2001年

神野富一「常世と補陀洛」 甲南国文51号、2004年

江戸時代に盛んだった庚申請の行事

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  インドの三猿

 「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿といえば、日光東照宮の彫刻を思いうかべる。しかし、三猿をかたどった造形は世界各地に分布している。猿の棲息する東南アジアやインドやアフリカはもとより、猿のいないヨーロッパや朝鮮半島にも、さまざまな三猿像が広まっている。インドが発祥地と考えられるが、宗教というよりも、「見ざる、聞かざる、言わざる」は民間に流布した一種の道徳であり、処世訓である。この考えを猿の姿をとおして表現したのは、もちろん日本語の否定形の「ざる」が動物の「猿」と同音であることによる。しかし、このことは三猿の日本起源を証明するものではない。

    日本における三猿の代表は、日光東照宮にある木彫の三猿である。徳川家康を大権現として祀る霊廟に、三猿が飾られているのは、この場所が厩(うまや)に当たるため、猿が火伏(ひぶ)せの力を持つこととなって、東照宮を火から守っているのである。さらに、天台宗の僧で、東照宮を建立した天海大僧正の主張により、家康の葬儀は山王一実神道によって執り行われた。すなわち天台宗と結びつきの深い、山王の象徴としての神猿に近い役割を、日光の猿が持っているのである。

    もうひとつの起源として庚申信仰をあげることができる。庚申は「かのえさる」とも読み、その連想から江戸時代初期以降、猿が庚申塔に刻まれるようになったらしい。庚申は道教に端を発する民間習俗である。60日毎の庚申の日に、人びとが集まり飲食歓談し徹夜するのは、体内から三尸の虫が抜け出し、天帝に悪事を報告し、寿命を縮めてしまので、それをさせないためである。庚申講を地域社会の寄り合いとして利用していたところもあり、そこでは「見ざる。聞かざる、言わざる」は仲間どうしの掟にもなっていた。

  「論語」のなかには、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」というくだりがある。実際、中国では、母は胎教にあたって「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は傲言を出さず」といましめられている。このように日本の三猿のルーツのひとつは道教にあり、もうひとつには儒教があげられる。しかも、それが日本では天台系の仏教の影響下に定着し、猿にかかわる民間信仰とも結びついていた。

    ところが、今日の世界各地でみられる三猿には宗教的な色彩はうすい。むしろ装飾品や日用小物として使用されるものが圧倒的多数を占めている。しかも、ヨーロッパやアフリカには「見ろ、聞け、言うな」あるいは「見ろ、聞け、言え」という三猿もすくなくない。また、四猿や五猿の組み合わせも存在する。日本の郷土玩具のなかにも、「不為さざる」あるいは「不思わざる」の猿が加わり、四猿や五猿の玩具もみられる。五猿は、猿がゴザル、福がゴザルに通じ、護猿(守りサル)としても験をかついでいる。さらに、「見てみたい、聞いてみたい、言ってみたい」と人間の本音を具象化した逆三猿の玩具まである。ともあれ、三猿の起源はいまだ十分に解明されていない。(参考文献:中牧弘允「世界の三猿」東方出版)

二・ニ六事件

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反乱軍は赤坂の山王ホテルを占拠し、司令部にしていた

    ニ・ニ六事件を起こした将校たちは「陸軍歩兵大尉野中四郎外同志一同」の名をもって「蹶起趣意書」を遺している。そこには「万民の生々化育を阻害して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ている「元老重臣軍閥官僚政党」の「君側の奸臣軍賊を斬除して」「彼の中枢を粉砕する」とある。この実現のため軍隊組織を最大限に動かし、兵器・弾薬を使用して決行したクーデターがニ・ニ六事件(昭和11年)である。

    それは昭和5年ごろから、軍人や国家主義者は、クーデータを計画し、暗殺を決行した。その主な事件は次のものである。

浜口雄幸狙撃事件(昭和5年11月14日)決行

三月事件(昭和6年2月~3月)          未遂

十月事件(昭和6年9月~10月)        未遂

満州事変(昭和6年9月18日)           :決行

血盟団事件(昭和7年2月、3月):      決行

五・一五事件(昭和7年5月15日)      決行

神兵隊事件(昭和8年1月~7月)    未遂

相沢事件(永田斬殺事件)(昭和10年8月12日) 決行

  そして昭和11年2月26日の複数の場所への一斉襲撃が、革新運動の最後・最大の事件であった。前夜から降り始めた雪は、東京で実に30年ぶりという大雪となり、その中を、第一師団隷下の歩兵第一、第三連隊の将校、兵を主力とする約1400名の兵士が決起した。岡田啓介首相、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎教育総監の公邸、私邸を襲撃。河野大尉の一隊は湯河原の旅館に牧野伸顕前内大臣を襲った。いわゆるニ・ニ六事件である。

   参謀本部は、佐倉、甲府、高崎の連隊、約7000で叛乱軍を包囲し、説得を続けた。28日、天皇の奉勅命令が出されるや、反乱軍は降伏した。反乱軍を指揮した将校たちへの軍法会議は一審制、非公開、弁護士なし、であった。北一輝など民間人を含む19名の死刑、将校下士官は無期禁錮などに処せられる厳罰が下された。荒木貞夫、真崎甚三郎大将を頂点とする皇道派はここに壊滅し、陸軍はこの事件のもたらした脅威を最大限に利用して日本ファシズム体制を完成し、日本の全権力を握って、戦争へと突入していくのである。

2018年2月25日 (日)

人生百歳時代

 俳優大杉漣さんの急死の報がショックである。映画「パラサイト・イヴ」(1996)を観ていたら、医学会の司会者役で大杉漣が居る。ミトコンドリアの妖怪に腕を焼かれ殺される。「ソナチネ」(1993)以降もセリフが少ない端役は続いていた。映画・ドラマのほか舞台・バラエティにもおどろくほど多数出演していた。「われわれの生まれ方は1つだが死に方はさまざまである」とはユーゴスラビアのことわざだそうだ。現在、著名人での最高齢は東宝専属の脇役俳優だった佐田豊さん。明治生まれで106歳。カークダグラスは101歳。中曽根康弘は99歳。ドナルド・キーンや瀬戸内寂聴は95歳。「柿の木坂の家」の青木光一は92歳。歌手の伊藤京子、菅原都々子は90歳。なかには現役で活動を続けているかたもいる。

春はもうすぐだね

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  日本各地はまだまだ厳しい寒さが続く。でも、プロ野球のオープン戦が行われ、Jリーグも開幕。平昌五輪も25日が閉会式。女子カーリングがカーリングの発祥国イギリスを破り銅メダルを獲得したことは快挙だ。春の足音が聞こえる。

マーピラの反乱

Ali_musliyar  マーピラとはイラン人やアラブ人がインド人と混血し、ムスリム商人となったイスラム教徒たちで、インド南部マラバール地方に多く住む。「世界史年表」などには何故かでていないが、インド独立史において重要な事件がマーピラの反乱である。1921年8月20日から1922年2月25日までに南インド各地に起きた反帝国主義、反地主闘争。マラバル地方の最貧困層が中心となったのでマラバルの反乱ともいわれる。キラーファット運動指導者Ali Muslyar (画像、1864-1922)は警察に追われるが逃れて潜伏し、長期化したため多数のマーピラが虐殺された。(モーピラーの反乱) mappila

2018年2月24日 (土)

誠忠・児島高徳の墓

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 「児島高徳」 羽石光志画

    児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。

    後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。現在、鳥取県米子市の涼善寺(岩倉町99)に児島高徳の小さな墓がある。

2018年2月23日 (金)

元寇、神風は吹かなかった

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   文永11年(1274)モンゴルと高麗の連合軍3万が博多方面に襲うて来た。また弘安4年(1281)にも、モンゴル・高麗連合の東路軍4万のほかに范文虎の率いる江南軍10万が北九州に来襲。両度とも大風に妨げられて敗退したが、日本はまさに長夜の夢を覚まされたのであった。モンゴルのフビライはさらに第3回目の遠征軍を企てたが、軍費過重に悩む江南人民の反抗から中止を余儀なくされた。一方幕府は異国警護番役を継続して警戒を厳にし、さらに北条氏一門を派遣して九州地方の軍事行政裁判機関である鎮西探題を設置した。しかし、防備の負担は経済的困窮をまねき、戦後めだってきた庶子独立の傾向は幕府の基礎である御家人体制をゆるがしはじめひいては北条得宗家滅亡につながり、南北朝の内乱となってゆくのである。

 しかし最近の研究、考古学上の発見などにより、元寇(蒙古襲来)は神風で撃退したという定説が否定されようとしている。とくに第一回の文禄の役では暴風はなかった。弘安の役では台風は来て艦船に被害を与えているが、艦船の作りが粗雑であるという指摘もある。結論として、モンゴル軍を撃退したのは神風ではなく、鎌倉武士の頑張りや食糧が不足し兵站の確保ができなかったことにあると考えられる。神風伝説は水戸光圀の「大日本史」による尊王思想が端緒であるが、太平洋戦争時の神風特攻隊にみられるように政治的に利用された。

西郷の最初の妻、須賀の離縁後の人生は謎

   大河ドラマ「西郷どん」。吉之助と伊集院須賀は嘉永五年に結婚、このとき須賀は20歳前後といわれる。美人だったが、嫁入りした年に西郷家に不幸が重なり「不吉な嫁」と噂される。そんな時、ペリーの黒船が来航し、西郷は島津斉彬に抜擢され江戸に出立。五人の弟妹の面倒をみながら、西郷家の留守を守った須賀であったが、その貧窮さを見かねた伊集院兼善が、須賀を引き取ったのは嘉永七年の年末頃とされる。結婚生活はわずか2年であり、須賀のその後の消息はわからない。明治以降も生存したと思われるので戸籍を調査すれば判ると思うが・・・。ウィキペディアによると生年は天保3年(1832年)4月とあるが没年不詳。参考:「平成新修旧華族家系大成」

ゴッホの自殺死はアンナチュラル・デス

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   カラスのいる麦畑

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 シャボンヴァルのグレの茅葺き家

 ドラマ「アンナチュラル」死因究明の専門家たちが不自然な死の謎を解く。異常死の9割は解明されていない。Unnatural Deathを歴史上の人物であげるとすれば孝明天皇や画家ファン・ゴッホ。とくに敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、29日に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。

Img_0027  25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホの下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)

ヘッドライト

   本日のBSプレミアム「ヘッドライト」(1955年)。人生に疲れた中年の長距離トラック運転手ジャン・ギャバンと大衆食堂で働く若いウェイトレスとの出会いと哀しい恋の行方。病死するクロチルドはフランソワーズ・アルヌールが演じる。当時日本でも大人気女優だった。ギャバンの娘ダニー・カレルも可愛い。ルネ・クレールの「リラの門」に出演していた。フランソワーズ・アルヌールもダニー・カレルもご健在のことでうれしい。仲代達矢と藤谷美和子でリメイクしたこともある。

グーテンベルク「ワインと印刷」

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  アメリカの書誌学者ダグラス・C・マクマートリーは「人類の文化史上、重要さの点で活版印刷術の発明に勝る大きな出来事はない」と言い、イギリスの評論家トーマス・カーライルは「近代文明における偉大な3要素は、火薬と印刷と新教徒の宗教である」と言っている。

   長い間いろいろな説があったが、今日では、ドイツの金属職人ヨハネス・グーテンベルク(1399-1468)を印刷術の発明者とするに異議をはさむ者はほとんどいない。グーテンベルクが発明した印刷機は、オリーヴやブドウの搾り機からヒントを得て、木製の平圧式印刷機を作った。金属の活字にインクを付け、紙に押しつける、この技術がブドウ搾り機によく似ている。その実用化は一般に1445年頃とされる。これを企業化させたのは、ヨハン・フスト(1400-1466)とペーター・シェッファ(1430頃-1503)で、彼らはグーテンベルグから未完のまま引き継いだ「グーテンベルグ42行聖書」(1455年刊)を完成させ、「聖詩篇」(1457年刊)、「48行聖書」(1462年刊)、その他数多くの書物を刊行した。(2月23日、Johannes Gutenberg)

2018年2月22日 (木)

エーメンの歌

   NHKあさイチに指揮者の小澤征爾が出演している。おそらくこれは再放送の映像か。クラシック以外に好きな音楽は、と聞かれて、「エーメン、エーメン」と手拍子を取りながら歌い出した。普通なら周りの者も応じて唱和するただろうに、イノッチも有働アナもこの歌を知らないらしく音楽にのってこない。曲は、ゴスペルソングで、キリスト教徒が祈りの最後に唱えるヘブライ語の言葉で「エイメン(そうなりますように)」という意味。1963年のシドニー・ポアチエ主演の「野のユリ」での感動的なシーンで使われている。1961年に渡米した小澤が指揮者として活躍してその名が全米で知られるようになった頃に流行ったので本人にとって想い出深い一曲だったのだろうか。

日本映画脇役列伝

152651287_thumbnail   大杉漣さんが急性心不全で死去された。まだ66歳でこれからも活躍できただろうに惜しまれる。現在活躍中の平成のバイプレーヤーで思い浮かぶのは、平泉成、塩見三省、笹野高史、伊武雅刀、平田満、角野卓造、岸部一徳、國村隼、小日向文世、寺田農、光石研、温水洋一、遠藤憲一など。ここでは昭和映画黄金期の名脇役について記す。高瀬実乗(1897-1947)はサイレント時代から活躍していたが、トーキー以降の「わしゃかなわんよ」、「アーノネおっさん」等のギャグで人気があった。

Yaku42_a  新国劇出身の上田吉二郎(1904-1972)は肥った身体でダミ声をだす時代劇の敵役、悪役を得意とした。「羅生門」「七人の侍」「どん底」はじめとする黒沢作品の常連で名作の出演も多い。

伊藤雄之助(1919-1980)は長身で長い顔の怪異な容貌で「巨人と玩具」「椿三十郎」などアクの強い演技で多数の映画で活躍した。

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  新国劇出身の石山健二郎(1903-1976)は禿頭の頑固親父のイメージで「天国と地獄」「白い巨塔」など忘れ得ぬバイプレイヤーであった。

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    新劇出身の加藤嘉(1913-1988)は、ふけ役専門で「米」「神々の深き欲望」「砂の器」など性格俳優として重用された。「白い巨塔」の大河内教授役はハマリ役で、映画・ドラマの両方で演じている。4度結婚したが、3番目の妻は山田五十鈴(1950年~53年)。

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 榎木兵衛(1928-2012)は「俺は待ってるぜ」など日活映画のチンピラ役の出演が多い。

 その他、印象に残る俳優さんたち。

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    高品格                川谷拓三          奥村公延

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    佐田豊              小林昭二         中条静夫

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    草薙幸次郎         垂水悟郎        横森久

  脇役と一口に言っても、個性的で印象に残る脇役と、地味で平凡な役を得意とする脇役がいる。佐田豊は東宝の特撮映画や黒澤明作品の常連であるが、ほとんど印象が無く、存在感のうすいタイプの典型。「ゴジラ」の対策本部員、「透明人間」の南条の仕事仲間、「大学の若大将」の板前、「乱れる」の商店主。「天国と地獄」の運転手だけはよく覚えている代表作は「私は貝になりたい」。現在104歳とご健在である。

Img_0430   綾瀬はるか主演のドラマ「きょう会社休みます」。父親の役者が見覚えない顔である。浅野和之という。多数の作品に出演している俳優である。むかしドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」で亜紀が入院していた医師で綾瀬と共演しているが、記憶にない。

猫の日

A0250573_16393   本日2月22日は「にゃん、にゃん、にゃん」の語呂合わせで「猫の日」。終日なにもしないでゴロゴロ過ごそう。身近なペットといえば犬と猫で、犬が987万頭、猫が984万頭のペットがいる。猫より犬のほうが多いが、なぜか猫に関する慣用句の方が多い気がする。「猫に小判」「猫の額」「猫と鰹節」「猫の手も借りたい」「猫の目」「猫も杓子も」「猫を被る」などなど。

   むかしは路地のあちこちで野良犬や野良猫を見かけたが、最近は見かけなくなった。動物捕獲業者が夜中に攫っていくのだろう。とくに猫は三味線の皮にするので高く売れる。動物愛護の観点から問題があるが、野良犬・野良猫が減ることは衛生上からは望ましい。犬・猫の居住率が高まったの世話をする飼い主が増えたこともあるだろう。猫カフェ、猫タクシー、グーグーだって猫である、などなどの映画・漫画も作られ、猫好きの人が増えた。

古代エジプトの「生類憐れみの令」

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 古代エジプトでは猫もミイラになった(大英博物館)

  人間と最も身近な動物といえば、まず「ネコ」である。2月22日は「猫の日」。野生の猫は、5000年も昔に、最初は穀物をネズミの害から防ぐ目的などで飼い馴らされたらしいが、のちにこまやかな情愛を注がれたペットとしての家猫が現れる。

    大河ドラマ「平清盛」には白河法皇が仏教の教理に従って殺生を禁じているシーンがある。「生類憐れみの令」のような禁令は徳川綱吉が初めてではなかった。古代エジプトにも、猫を殺すと死刑にされるという時代があったそうだ。猫の頭をもった女神バステトBastedがいる。ブバスティスでは猫のミイラが多数出土し、古代エジプトでは猫を家畜化する一方で、神として崇拝するようになったことが明らかになっている。ヘロドトスによれば、「猫が死ねば、家人は悲しみを表明するために眉を剃り落とし、死体をミイラにして手厚く葬る。・・・・火事の際には、真っ先に猫を助けなければならない」と記している。こうした猫崇拝が盛んだったのは紀元前16世紀から紀元前11世紀の新王国時代や紀元前6世紀のときが最盛期で、前525年、ペルシアのカンビュセス2世は最前列に猫を配してエジプトを攻め、矢を放つことができないエジプト軍は滅ぼされてしまったという。(本当の話とは信じ難いが)西洋の諺に「A cat has nine lives.」(猫には九生ある)とある。この起源は古代エジプトで、猫は9つの魂を持ち、9度生まれ変わることができると信じられている。当時流行のライオン狩りなどのスポーツも不信心な行いとしてみられ、バステトの祭りの期間中は禁じられていた。

2018年2月21日 (水)

ロマノフ朝、始まる

Mikhailromanovbyugryumov  国営ロシアテレビドラマ「エカテリーナ」全22話の1話を観る。エカテリーナ女王(1729-1796)がドイツ人であることを知る。日本人にとってロシアという国はよくわからない。ロマノフ朝はおよそ300年間続いた。日本の文化の基本が江戸時代にあるように、ロシア人の伝統文化はほとんどこのロマノフ朝時代に形づくられたのではあるまいか。1613年のこの日、ミハイル・ロマノフ(1596-1645)が全国会議によりツァーリ(皇帝)に選出される。ミハイルはロシアの名門貴族ロマノフ家の出でイヴァン4世(雷帝)の妃の甥の子でもあった。こうして16歳の少年がロマノフ朝初代の皇帝となった。ロマノフ朝は1917年までおよそ300年間あまり続く。ミハイルは国内秩序の回復に努め、1617年スウェーデンとの講和でノヴゴロドを取り戻し、ポーランドとは休戦を成立させる。しかし彼は生来病弱で意志も弱く、父のフィラレードが政治の実権を握ることになる。ちなみなエカテリーナ2世はミハイル皇帝から12代目となる。(2月21日、ミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノフ)

2018年2月20日 (火)

小林多喜二と志賀直哉

    本日はプロレタリア文学の代表的な作家、小林多喜ニ(1903-1933)の命日。多喜二が奈良にいた志賀直哉を訪問した時、志賀は「麻雀か将棋でもしないか」と誘ったが、多喜ニは両方とも趣味がないと言ったという。志賀は当時の文士なら必須の趣味を多喜ニが知らないことに驚いたという。多喜ニとほぼ同世代の小林秀雄(1902-1983)も志賀直哉を敬愛していたが、多喜二とは大きく違って秀雄は恵まれた文学的環境だった。秀雄は昭和3年5月頃から、長谷川泰子と別れて、奈良の志賀家に出入りしている。おそらく小林秀雄は志賀直哉と将棋を指していただろう。

    小林多喜ニが志賀家を訪れたのは、昭和7年春ごろであろうが、翌年の2月20日、正午すぎ赤坂福吉町で今村恒夫と共に築地署特高に逮捕され、激しい拷問の末に虐殺された。志賀は、弔文と供物をよせ、25日の日記に「暗澹たる気持になる。不図彼等の意図、ものになるべしという気する」と記している。

    今日、プロレタリア文学といえば、前田河一郎の「三等船客」、葉山嘉樹の「海に生くる人々」、徳永直の「太陽のない街」、そして小林多喜ニの「蟹工船」が挙げられる。しかし多喜ニの文学的出発は、志賀直哉に私淑して本格的に小説を書き始めたことはよく知られている。最も初期の私小説的な題材から、「政治と文学」に覚醒した多喜ニの文学的軌跡を研究することの現代的意義は大きいものがある。戦後文学、とくに芥川賞受賞作品を代表とする現代文学が内面的なものや感受性を重視し、国家や社会という現実の重みや虚偽の深さにあまり目を向けなくなったのは、敗戦の影響が強くあるのだろう。志賀直哉に代表される「個人中心の文学」と小林多喜二に代表される「社会(国家)中心の文学」とが、さらに高次な段階にあって総合されることをひそかに望んでいる。

2018年2月19日 (月)

世界で最初に運転免許証が発行された国はどこ?

Desire10   1893年8月、フランスのパリ警察条例で、自動車の運転には運転免許証の携帯が義務付けられるようになった。1903年にはイギリスでも自動車運転免許制度が採用されるようになった。わが国の運転免許制度が制定されたのも意外と早く、1907年2月19日である。自動車運転規則「自動車取締規則」が定められた。

2018年2月18日 (日)

山本リンダ「ウララ」の意味

Magazineulala11s307x512   山本リンダのヒット曲「狙いうち」、「ウララ、ウララ、ウラウラよ~」とおへそを出しながら歌う。「ウララ」の意味は何か。もともとUlalaはフランス語で「おおっー」「ワー、すごい」といった感嘆詞のようなものだとネットにみえる。ただし、それだけではなくもっとセクシーな感じがする。フランス映画リノ・ヴァンチュラ主演の「冒険また冒険」(1972年)のワン・シーンにビキニの女性が横たわり、Ulalaと書いた巨大ポスターをみたことがある。英語では「Ooh la la」。いちゃいちゃ、とか、ちょっとエッチな言葉で誰でも知ってる俗語である。

頼山陽、母を奉じて吉野に遊ぶ

9784198934361    頼山陽は広島の人で京都に住んだ。母と吉野の桜を見た故事逸話は有名であるが、出典がなかなか見つからない。ただ「山陽詳伝」(渡部主一編)iに収録する森田益の一文がある。

    頼山陽、嘗て母を奉じて吉野に遊び、一目千本に至る。桜花爛漫として雲の如し。母大いに喜びていわく「今にしてわが願ふに足れるなり」と。山陽、平生喜うんの情あらわさず、ここにおいて喜び顔面に溢れて いわく、「ああ母の一言、まさに宰相になるに勝る」と。

    頼山陽は母と一緒に吉野だけでなく、全国各地を数多く旅行しているようである。なぜ古来よりこの故事・逸話が好まれるのだろうか。桜という景色の日本的な美しさとはなやかさはもちろんのことであるが、それが親孝行の話と一体となって、とくに親を亡くしたものには、たまらない懐かしさを感じさせられるのではないだろうか。

地球外生命体はホントにいるのか?

Photo_3   英科学誌ネイチャーで、土星の衛星の1つ「エンケラドス」に生命が生息できる環境が存在するという研究結果が発表された。またNASAは2013年3月12日キュリオシティーが採取した火星の岩のサンプルを解析した結果、かつて火星には生命に適した環境があったと発表した。2010年から世界11ヵ国の天文台や大学などの機関が地球外知的生命体探査「ドロシー計画」を実施している。

    イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェル(1738-1822)は天の川銀河(当時の全宇宙)の星を観測して、太陽系は銀河系のほぼ中心に位置すると考えた。そして音楽家でもあったハーシェルは太陽系の惑星の配列と音楽理論とを結びつけ、すべての惑星には生命はもちろん文明が存在すると考えていた。1880年頃、イタリアで火星図がつくられた。このとき、直線状の模様「すじ」が描かれ、「すじ」は、イタリア語で「カナリ(canali)」といい、これがフランス語に訳されるとき「canal(運河)」となって伝わった。そして運河のような構造物をつくることができる文明があったとされ、「火星に知的生命がいる」という考えが広まった。そのころH・G・ウェルズが火星人が地球を攻めてくるという「宇宙戦争」(1898)が発表されて、宇宙人というとタコのような生物というイメージができた。ここ10年で地球と同じような環境の惑星は10個も発見されている。いまや地球外生命体がいる可能性や確率は100%だとする宇宙学者もいる。

    1781年、ハーシェルは天王星を発見した。1846年にはフランスのユルバン・ルヴェリエ(1811-1877)とイギリスのジョン・クーチ・アダムズ(18119-1892)が海王星を発見した。太陽系のうち最も遠くにある冥王星は2006年に惑星からはずされたが、パーシバル・ローウェルの遺志を受け継いだクライド・トンボー(1906-1997)が1930年2月18日に発見した。(William Herschel,Urbain Verrier,John Couch Adams,Clyde Tombaugh,Mars,Urnus,Neptune,Pluto)

2018年2月17日 (土)

フィギュアスケートの歴史

   平昌五輪男子フィギュアスケートで羽生結弦が金、宇野昌麿が銀を獲得。サンモリッツ・オスロと二大会連続金メダルのリチャード・パットンは羽生を「信じられないくらいすばらい」と絶賛した。フィギュアスケートは19世紀中ごろ、バレエ教師のアメリカ人、ジャクソン・ヘインズがバレエのポーズやタップとステップを取り入れ、音楽と合わせて滑走したことで普及するようになった。ヨーロッパではウィーンてにシュトラウスやモーツァルトの音楽に合わせて滑走する大会が開催される。1882年ウィーンで最初の国際大会が開催された。第一次世界大戦後、ノルウェーの女子シングルでソニア・へニーが世界的な人気者になった。ソニアはその後ハリウッドで映画スターとして成功した。日本では戦前の稲田悦子、戦後の佐野稔らが現れたが、五輪メダリストは実現できなかった。近年、伊藤みどり、荒川静香、浅田真央、高橋大輔ら世界レベルの選手が活躍するようになる。羽生の五輪連覇は国民栄誉賞に十分に価する歴史的快挙といえる。

西郷とジョン万次郎

   大河ドラマ「西郷どん」第6回「謎の漂流者」西郷が藩主島津斉彬を相撲で投げ飛ばしたため牢屋に入れられる。獄中で謎の男に出会う。土佐の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎である。鎖国していた日本、一時期薩摩で取り調べを受けた。嘉永4年(1851年)のことである。本当に西郷隆盛と中浜万次郎とは出会っているのだろうか。いろいろと資料をみたが、二人の直接的な接点は見当たらず、面会した記録はない。作り話か。島津斉彬には海外新知識を伝えたらしい。

ルムンバの遺書

Lumumbacapuradotropasmobutu1960   コンゴという国名は2つあるので紛らわしい。ベルギーの植民地だったコンゴ民主共和国(旧ザイール)とフランスの植民地だったコンゴ共和国。1960年のコンゴ動乱というのはベルギー領コンゴのことである。初代首相パトリス・ルムンバは民族主義的な社会主義国家を目指した。その直後のベルギーの侵攻によってコンゴ動乱が起こると国際連合に保護を求めたが、アメリカを背後にしたカサヴブとモブツ大佐らのクーデターで失脚して1961年、処刑された。「わが妻よ、わたしのことで泣かないでほしい。わたしは、苦悩多き我々の国家がおのれの自由と独立をまもりぬけることを知っている。コンゴ万歳!アフリカ万歳!」と遺書に書き残している。(1月17日、2月17日)

2018年2月16日 (金)

魔性の女「カルメン」

Superviacarm   男を破滅させる魔性の女。「ファム・ファタール」とは直訳すると「運命の女」という意味だが、文学におけるファム・ファタールは、アベ・プレヴォーによって1731年に発表された「マノン・レスコー」である。しかし1845年にフランスの作家メリメが発表した「カルメン」が歌劇となり、最も魔性の女を代表するヒロインとなる。世界中でこの100年間、歌劇、ミュージカル、映画などあらゆるジャンルで最も数多く演じられたヒロインは「カルメン」をおいて他にない。「粋な姿の小柄で、情恣的な大きい目に、ときには凶暴な色をたたえる」ジプシー女とメリメの小説には描かれる。第一次世界大戦中、国際的に有名になったのはコンチーヌ・スペルビア(1895-1936)だった。愛らしい丸顔、コケティッシュな演技力と今日でもファンが多い。

Annex2020hayworth20rita20loves20of2   サイレント映画ではジェラルディン・ファラー、セダ・バラ、エドナ・パーヴァイアンス、ポーラ・ネグり、ラケル・メレ、ドロレス・デル・リオがある。トーキーになってマルグリット・ナマラ、インペリオ・アルヘンティーナ、ヴィヴィアンヌ・ロマンス、リタ・ヘイワース(画像)、マルーシュカ・デートメルス、ラウラ・デル・ソル、ジュリア・ミゲネス・ジョンソン、アグネス・バルソアなどの女優たちが妖艶さを競った。

Carmenjonesdorothydandridge1954    カルメン女優史でアカデミー賞にノミネートされた女優がいる。ドロシー・ダンドリッジ(1922-1965)は「カルメン」(1954)で注目されたが、当時ハリウッドは黒人差別が強く残っていた。オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーがアカデミー賞を獲得する。ドロシーはイタリア映画に出演したり、クラブ歌手となるも次第に生活が苦しくなり、貧困のうちに1965年、安アパートで孤独死する。ハリー・ベリーは「アカデミー栄光と悲劇」(1999)でドロシーを演じた。最近のカルメン女優は、パス・ヴェガ。

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グラディス・スウォーザウト ジュラルディン・ファーラー            

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セダ・バラ 1915        ヴィヴィアーヌ・ロマンス  

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 クリスタ・ルートヴィヒ     レジーナ・レズニック  

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 ジュリエッタ・シミオナート  
 ポーラ・ネグリ 1918 

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ドロレス・デル・リオ 1927   ジェニー・トゥーレル

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ラウラ・デル・ソル 1983     パス・ヴェガ 2003 

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マルグリット・ナマラ 1932 ユッタ・レフカ 1967
 

天気図記念日

Weather_map002   1883年のこの日、東京気象台が日本初の天気図を作成。ドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピング(1844-1922)の指導のもと、7色刷りの天気図が作成された。(2月16日)

 

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 Erwin Knipping

2018年2月15日 (木)

食中毒で死んだお釈迦さま

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  イエス・キリストは十字架磔刑の壮絶な死であったが、釈迦はどのようにして亡くなったのだろうか。前483年(前383年説もある)、80歳の老齢となって首都ラージャグリハを出て、自分の生まれ故郷のほうに向かって最後の旅に出た。途中、鍛治工チュンダの供養したキノコの料理を食べて激しい下痢をおこした。まもなく、クシーナガラ(現ビハール州カシア)の沙羅双樹の下で安らかに没したといわれる。涅槃絵は3月15日に行われる。(2月15日)

2018年2月14日 (水)

イエス・キリストの映画

   プレミアム・シネマでピエル・パオロ・パゾリーニ監督の「奇跡の丘」(1964)を観る。名高い作品ながら私は初見である。これまでハリウッドの「偉大な生涯の物語」などキリスト映画は数本みたが、「奇跡の丘」は最高である。無名俳優をつかい衣裳やセットはシンプルにしてギリシア古典劇をみるような無表情なドキュメント風タッチでヨハネによる福音書の物語が進行する。無神論者のパゾリーニ監督だからむしろ製作できたのであろう。抽象的でも難解な代物でもなく、聖書の名句が一語一語よく表現されており、理解しやすい。これまでキリストを演じた俳優といえば、「偉大な生涯の物語」のマックス・フォン・シドー、「キング・オブ・キングス」のジェフリー・ハンターが知られる。「奇跡の丘」でキリストを演じた青年エンリケ・イラソキは当時スペインの学生で素人。現在74歳で存中である。

わが愛読書は「史記」

   著名人の愛読書を雑誌の特集でしばしばみかけることがある。だが個々の作家の愛読書が何かという一覧を探したが見つからなかった。サミュエル・スマイルズ(1812-1904)は「人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである」といっている。さすれば著名人がどのような本を愛読しているかを研究することも全く無意味な労とはいえまい。

  「大和古寺風物誌」で知られる評論家の亀井勝一郎はゲーテの「イタリア紀行」を読んで、大和の古寺を訪れることにしたと書いている。芥川龍之介が「西遊記」、大江健三郎が「ハックルベリー・フィンの冒険」や「ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅」、北杜夫が「星の王子さま」など児童書をあげている。心理学者の河合隼雄もアルス社の日本児童文庫にあった「グリム童話集」をあげている。漫画家の水木しげるが上田秋成の「雨月物語」、文芸評論家の磯田光一が三島由紀夫「金閣寺」、歴史小説家の司馬遼太郎は「史記」、将棋界のレジェンド、ひふみん(加藤一二三)の愛読書は「聖書」をあげている。「三国志」オタクがいるように、読書人口からいえば世界中でいちばん読まれている本かもしれない。ちなみに中国の八大小説とは、三国演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅、儒林外史、紅楼夢、今古奇観、聊斎志異である。

バレンタインデー

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 皇帝クラウディウス・ゴチクスの命令で首を刎ねられる聖バレンタイン

    2月14日はバレンタインデー。ローマ帝国では、2月13日から15日まで豊穣と結婚の祭りルペルカリアが盛大に行われ、とくに2月14日はユノ(JUNO)の祭日である。むかしローマ皇帝クラウディウスが帝位についてほどなく、ゴート族を撃退し、「ゴティクス」という添名がついた。皇帝はより軍隊を強くするため、兵士たちが愛する妻がいると勇敢に戦えないとして、結婚を禁じた。ところが、司教のウァレンティヌス(バレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたため、捕らえられ処刑された。あえてユナの祭日を処刑の日に選んで2月14日としたという。西暦269年のことである。311年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教寛容令が出されてから、殉教者の聖バレンタインの人気がでた。いつしか聖バレンタインの命日が「恋人の日」といわれるようになり、愛する人に贈物をする風習が始まった。日本では1958年頃より流行し、一般的には女性から男性にチョコレートを贈る習慣になっている。でも海外を見ると事情は少し異なっているようだ。まず欧米では男女関係なく恋人や親しい人にハラ、ケーキ、カードといってものをプレゼントします。ホワイトデーのようなお返しの習慣はありません。ベトナムでは男性から女性へ花束をプレゼントする。インド・サウジアラビアでは宗教上の理由でバレンタインを祝うことは禁止されていますが、一部ではプレゼントのやり取りがあります。韓国ではバレンタインの習慣は日本から入ってきたようで、日本と同じ女性から男性へチョコレートを渡す日となっています。ホワイトデーの習慣もあります。面白いのは4月14日に「ブラックデー」というのがあります。これはバレンタインデー、ホワイトデーともに縁のなかった「ぼっち」が集まって慰め合う日です。黒い服を着て黒いものを飲食するという変わったイベントです。中国ではバレンタインデーは「情人節」と言われて、男性から女性にプレゼントを渡します。贈るのはバラが一般的で、バラの本数で思いをあらわします。

2018年2月13日 (火)

世界大戦で2度も敗れた国

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 トラキア人の墳墓

    1940年11月20日、ハンガリーは日独伊三国同盟に加盟した。ドイツ・オーストリアの他に、第一次、第二次世界大戦、2度ともに敗れた国はハンガリーとブルガリアである。ハンガリーは1914年に始まった第一次世界大戦にやぶれ、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊。ハンガリーは国土の3分の2を失った。1930年代になると領土の回復を求める運動が高まり、ナチス・ドイツに近づき、三国同盟に加わり、参戦するが、途中で停戦しようとしたため、1941年にドイツに占領され、1945年2月13日にソ連軍により解放される。 

   ヨーロッパのバルカン半島北東部に位置するブルガリアは、古来より東西を結ぶ交通の要地にあり、紀元前はトラキアと呼ばれていた。7世紀後半、タタール系のブルガリア民族が侵入、681年にブルガリア王国が成立。1018年東ローマ帝国領となり、1186年独立したが、1396年トルコに征服された。1908年ブルガリア王国として正式に独立を宣言した。第一次大戦では同盟国側に参戦し敗戦。1919年に連合国と講和条約(ヌイイ条約)を締結、多額の賠償金の支払いは小国ブリガリアにとって大きな負担となった。第二次大戦では枢軸国に立つたが、国内では反ナチスの祖国戦線が結成され、1944年親独政権は倒され、1947年ブルガリア人民共和国が成立した。

    第一次大戦でその動向が注目されるのはイタリアである。イタリアは1882年以来、伊独墺で三国同盟を結んでいたが、イタリア政府は中立を宣言して戦局の推移を見守った。しばらく参戦への態度を決しかねていたが、サラウンドラ首相・ソンニーノ外相は1915年4月26日、秘密裏に英仏とロンドン条約を結んで、協商側につく見返りとしてトレンティーノ・トリエステ・ダルマーツィァを取得する約束を得た。この秘密条約にもとづいて政府は三国同盟を破棄し、5月24日オーストリアに対する宣戦を布告する。戦争には悲惨な犠牲を払いながらも、1918年11月3日勝利する。

2018年2月12日 (月)

愛のタリオ

チョン・ウソン主演の韓国映画「愛のタリオ」。田舎町に小説講座の講師としてやってきた作家のハッキュ。町の少女ドク(イ・ソム)とすぐに男女の関係になるハッキュだが、彼には妻子がおり、セクハラで大学を追われた。やがて大学への復職が決まり、ハッキュはドクを捨てて都会へ戻る。このときドクは妊娠していた。ドクの復讐がはじまる。妻は自殺、娘は売り飛ばされ、ハッキュは失明する。狂気と情念、韓国映画のエロスとパワーが全開している。原作は「沈清伝」という古典を現代風にアレンジたもの。英語題はscarlet innocence、邦題の「愛のタリオ」は秀逸。タリオ(talio)とは古代の刑罰規定の1つで、ハムラビ法典で「目には目を、歯には歯を」とあるように被害者が受けた害を加害者に与えられる制裁権のこと。

ブラジャーの日

Mary_phelps_jacobs  ブラジャーは1889年にフランスのエルミニー・カドルが発明し、1913年2月12日、アメリカのメアリー・フェルプス・ジェイコブ(1891-1970)によって発明、特許をとったとされる。これを記念して「ブラジャーの日」が制定されている。

   日本には大正末期に登場し、大正15年に「乳房バンド」の広告が掲載された。昭和4年には「乳房バンド」のほかに「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名で広告や通信販売欄に掲載されているから、日本でも製造が始まったと見られる。このほか、松岡錠一もこのころブラジャーを生産した(「日本洋装下着の歴史」)。これらは薬局、小間物店、デパートで売られていた。日本でブラジャーという用語が登場するのは1930年代である。しかし一般に普及するには至らず、広く使用されるのは1950年代以降である。日活映画「憎いあンちくしょう」(1962)で浅丘ルリ子の下着姿が話題となった。

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(横田尚美「1920年代の日本女性洋装下着」『ドレスタディ』vol33)Mary Phelps Jacobs,Hermine Cadille,brassiere

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(左上)1920年代のスリップ(右上)1920年代のブラジャー(右中)1920年代のパンティ、下の2点は1920年代のコルセット

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 主婦の友 昭和4年7月号の乳バンドの広告

2018年2月11日 (日)

デカルトとクリスティナ女王

   ルネ・デカルト(1596-1650)はスウェーデンのクリスティナ女王(1626-1689)の熱心な招聘を受けた。デカルトの親友シャニュ(1601-1662)がストックホルム駐在のフランス大使で女王にデカルトを売り込んだのだ。その19歳の若い女王はデカルトの「愛についての書簡」を読んで感動した。デカルトは寒い国に行くことは気がすすまなかった。しかし強引な女王は軍艦までよこして招聘につとめたのでさすがのデカルトも無碍に断われなくなった。1649年9月オランダを出発し、10月、ストックホルムに着いた。厳冬早朝の講義は、ひ弱で、朝寝の習慣を持っていたデカルトにとって身にこたえるものであった。1650年2月2日、デカルトは病気になった。風邪から肺炎にかかって2月11日早朝、あっけなく54歳の生涯を終えることになる。

神武天皇と金鵄

00a1a532   本日は建国記念の日。古事記によれば、我国の天地創造の神はイザナギノミコトとイザナミノミコトである。この二柱の神がまず淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡を生み本州を生んだ。そして、太陽神であるアマテラスやスサノオらの三五柱の神々を生んだ。そしてアマテラスの孫のニニギノミコトが天孫降臨する。ニニギとその妻コノハナサクヤの間にホテリノミコト(海幸彦)やホトリノミコト(山幸彦)が生まれ、山幸彦と豊玉姫の孫が神倭伊波礼毘古命つまり神武天皇ということになる。神武天皇は日向の高千穂宮にいたが、東方の大和地方の諸勢力を平定した。最後に苦戦したとき金色の鵄が弓にとまり、その輝きで勝利したという。日本書紀では神武天皇が紀元前660年1月1日(新暦2月11日)に即位したことになっている。明治になって各地でこの日を祭日として式典として開催するようになった。

2018年2月10日 (土)

望郷のモロッコに雪は降るのだ

   昨晩は平昌五輪の開会式をテレビで視聴する。4年後の北京大会は生きて見れるだろうか。冬季五輪は1924年に第1回がフランスのシャモニー(参加国16ヵ国)で開かれ、第23回の韓国・平昌大会は史上最多の92ヵ国・地域が参加する。選手団の入場順は、先頭がギリシャ。続いて、ハングルでの国名表記順で行進が行われ、日本はインドに続いて62番目に入場した。多くの日本人選手が体調管理優先で不参加のなかでジャンプの高梨沙羅の笑顔が見れたのは印象的だった。旗手はジャンプの葛西紀明選手。最後の91番目は韓国と北朝鮮が朝鮮半島旗の下、合同で入場する光景も感動的だった。聖火台点灯者はやっぱりキム・ヨナ。ともかく五輪の開会式は世界地理の勉強にもなる。NHKの実況でアナウンサーがモロッコの雪とか香港の旗の話を誤報していた。モロッコを漢字では摩洛哥と書くが、映画「望郷」や「カサブランカ」のイメージでサハラ砂漠=暑い、という印象がある。国土面積は日本よりだいぶん広く4000m級のアトラス山脈が走っているので真冬には山岳には積雪している。砂漠地帯も昼夜の寒暖差が大きくて、夜は寒い。ハンフリー・ボガードやバーグマンがコートを着ていたのもそのためだ。

彜族

   彜族(いぞく)とは中国西部に居住する少数民族。雲南・四川・貴州に住み人口は871万人といわれるが、ラオス・ミャンマー・ベトナムにも住む。古姜の子孫で、南詔王国を建国した烏蛮族が先祖とも言われる。「彜」という漢字は宗廟に供える祭器であるが、漢語「彜倫(いりん)」のように「道徳」の意味がある。しかし清朝時代、彜族に対して漢字を充てたのは尊敬の意味ではなく差別的意味が含まれていたともいわれている。

「少年老い易く学成り難し」のユーモア

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  少年老い易く学成り難し

  一寸の光陰軽んずべからず

  未だ醒めず池塘春草の夢

  階前の梧葉巳に秋声

    古来、日本人にはお馴染みの漢詩である。人間、すぐ老齢にいたるが、学問はなかなか成就しがたい。だから、ほんの少しの時間も無駄にせずに勉強せよ、という教育的な名詩。朱熹の「偶成」という。ところが最近の研究で朱熹の作ではない可能性が高いことがわかった。中国の朱熹全集をいくらさがしても見当たらない。柳瀬喜代志によって「滑稽詩文」に「寄小人」という題で似た詩があることがわかった。この詩が朱熹の作として登場したのは明治の漢文教科書によってである。本来の作者は観中中諦(1342-1406)という五山の僧侶らしい。それにしても、「偶成」が朱熹でなかったというのは、日本人のユーモアを感じる話である。

ところで「池塘春草の夢」とはなにか。これは謝霊運が、ある時「池塘生春草」という句を得て大層得意であった。今この詩にこの句を取ったのは「若いときに自分の才能に得意がっていると、悲しい老いが直ぐに来るぞ」と暗に知らしているのである。(謝霊運「登池上楼」)

参考:「いわゆる朱子の「少年老易く学成り難し」 「偶成」詩考 柳瀬喜代志 岩波「文学1989年2月号

岩山泰三「少年老い易く学成り難し、とその作者について」 月刊しにか8-5、1997.5

クロエ・モレッツを知っていますか?

   本日はクロエ・モレッツの誕生日。いま世界中でトップクラスの人気がある注目の若手女優さん。1997年2月10日、ジョージア州アトランタ生れ。身長163㎝。21歳。芳根京子、小柴風花、杉咲花と同じ年。父は医者で母は看護士。兄が4人いて、その中の一人トレヴァー・デューク・モレッツが演劇学校に合格した時に、母や兄と共にニューヨークに移る。7歳のとき映画「悪魔の棲む家」に少女チェルシー役で出演。最初は少女モデルをしていたが、2010年の「キック・アス」で演じたヒット・ガール役が評判を呼び、一躍注目の少女スターとなった。「キャリー」(2013)や「フィフス・ウェイブ」(2016)で人気ナンバーワンとなる。正式名はクロエ・グレース・モレッツだが、最近はミドルネームのグレースを外した名前でクレジットされる。米国の映画サイトTCカレンダー「2015年世界で最も美しい顔」で7位に選出されている。対抗馬はアビゲイル・ブレスリン。1996年生まれでうもすぐ22歳。アールルド・シュワルツェネッガーと「マギー」(2015)で共演した。Chole Grace Moretz,Hit Girl

2018年2月 9日 (金)

江戸城無血開城

Kitasirakawa     慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

バレーボールの歴史

634_1   バレーボールは1895年2月9日、アメリカでウィリアム・G・モーガン(1870-1942)が考案した。最初はミントネットと呼んでいた。1908年、アメリカに留学していた大森兵蔵(1876-1913)が日本に最初にバスケット・ボールとともに紹介した。1913年F・Hブラウンが東京・神田のYMCAで公開したのをきっかけに広まったといわれている。バレーボールが考案された当初、集まった選手たちが2チームに分かれてボールを打ち合い、落としたほうの失点という単純なルールだった。日本へ伝わったときもルールは明確に決まっていたわけではなく、1チーム12人であったり9人であったり規定はなかった。(Volleybaii,Mintonette,William Morgan)

2018年2月 8日 (木)

平昌五輪開幕

   平昌五輪開会式は明日からだが競技はもうはじまっている。カーリング新種目、混合ダブルス。午前9時5分一次リーグ韓国対フィンランド戦。開催国韓国が9-4で圧勝発進。カーリング競技は15世紀のスコットランドで始まった。現行のルールは主に19世紀のカナダで確立した。競技名は、ストーンの曲がり(カールし)ながら進むことに由来する。国際大会で使用されるストーンは、主にスコットランドのアルサクレッグ島産の花崗岩から製造される。ほかの産地の石では密度と強度が足りず、割れてしまうことがあるからだ。つまり特別製品なのでお値段のほうもとてもお高い。石ひとつ10万円くらいする。Ailsa Craig

最初の郵便マークは「T」だった!?

Ishikawa_hitomi_06    本日は「〒マークの日」。明治20年2月8日、逓信省は郵便マークを制定した。逓信省の頭一文字、片かな「テ」を図案化したものといわれる。「逓」とは「つたえる」という意味。「次々と横に渡していく。リレーする」という意味がある。唐代駅伝の制度は都長安を中心に整備されたが、郵による官文書の逓送が行われた。「長安を出で逓に乗じて行く」と白居易の詩にもある。明の洪武帝は官物の輸送を担当した役所「逓運所」を設置している。日本では江戸時代、飛脚制度が整備され、江戸・大坂間は「定六」といわれて6日間が通例で急行が4日間であった。逓信省の語源は明らかでないが、郵便・電信・船舶管理・灯台業務を処理する機関であることから、駅逓+電信から逓信となったのか、本来から逓信という漢語が使用されていたのか定かではない。しかしながら、「逓」という字は戦前は小学生でも読めただろうが、現在では大人でも読めない人がいるだろう。〒マークは最初は甲乙丙丁の「丁」だったという。ところが外国では郵便料金不足の表示「T」と紛らわしいとわかり、14日に「〒」に変更したといわれる。

2018年2月 7日 (水)

けん玉の歴史

   昨年の紅白歌合戦で三山ひろしが歌いながら、けん玉ギネスに挑戦するという趣向があった。大皿という技を124人が連続成功すればギネス新記録となる。しかし惜しくも14番目の人が失敗してギネス記録達成とは成らなかった。けん玉は世界中に広がっているらしい。起源については諸説あるがフランスのビル・ボケ(Billboquet)が古い記録にある。16世紀のアンリ3世の頃である。ピエール・ド・エストワールが「1585年の夏、街角で子どもたちがよく遊んでいるビル・ボケを王様たちも遊ぶようになった」と記している。貴族や上流階級のビル・ボケは象牙などを使い、彫刻がほどこされていたので高価なものであった。現在世界各地にあるけん玉はおそらくこのビル・ボケが伝わったものらしい。日本で見慣れているけん玉は、大正時代に作られたもので、当時は「日月ボール」と呼ばれていた。1918年、広島県呉市の江草濱次が明治期のけん玉を改良した「日月ボール」を考案した。これが1927年ころ全国的に大流行した。

西洋音楽史略年表

   今年はドビュッシー没後100年。冬季五輪のフィギュア競技などクラシックの名曲を聴く機会も多い。バロック以降の西洋音楽史の略年表。

1600年 バロック音楽は、17世紀から18世紀中ごろまでのおよそ1世紀半の時期をさす。フィレンツェのジョバンニ・バルディ伯のもとに集まった学者・詩人・音楽家のグループであるカメラータによる新しい理論の提唱とその実践とによって開始された。

1607年 モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」がマントヴァで上演

1717年 ヘンデル、管弦楽組曲「水上の音楽」

1717年 バッハ、「G線上のアリア」(1717年から1723年の間)

1725年 ビバルディ、バイオリン協奏曲・四季

1727年 バッハ、管弦楽組曲。4曲あるが、作曲年代には異説がある。

1786年 モーツァルト、「フィガロの結婚」初演

1787年 モーツァルト、「アイネクライネ・ナハトムジーク」

1793年 ハイドン「交響曲第100番軍隊」(1793年から1794年)

1797年 ハイドン「弦楽四重奏曲第7番第2楽章」(神よ、皇帝フランツを守り給え)

1800年 ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調(作品21)。1824年までベートーヴェンの交響曲の作曲時代が続く。各国で教養ある音楽ディレッタントによる家庭音楽がさかえる。

1824年 ベートーヴェン 交響曲第9番

1825年から26年 シューベルト「交響曲第8番ロ短調(未完成)」

1829年 ロッシーニ「ギヨーム・テル」(ウィリアム・テル序曲)

1833年 ショパン「練習曲集」(別れの曲)

1839年 シューマン「子供の情景」(トロイメライ)

1853年 リスト「ハンガリー狂詩曲」

1855年 ショパン「幻想即興曲」

1867年 ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」

1868年 スメタナ「交響詩(わが祖国)」

1869年 ブラームス「ハンガリー舞曲第5番」

1871年 ヴェルディ「アイーダ」初演

1872年 ビゼー「アルルの女」

1874年 ムソルグスキー「展覧会の絵」

1875年 チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」(ピアノコンチェルト)

1876年 グリーグ組曲「ペール・ギュント」

1877年 チャイコフスキー「白鳥の湖」初演

1880年 ボロディン「中央アジアの草原にて」初演

1883年 ブラームス「交響曲第3番」

1886年 サン・サーンス「動物の謝肉祭」(白鳥)

1887年 ブルックナー「交響曲第8番ハ短調」

1894年 ドビュッシー「牧羊神の午後への前奏曲」

1894年 ドヴォルザーク「交響曲第9番(新世界より)」

1899年 シベリウス「交響詩フィンランディア」

1900年 サティ「ジュー・トゥ・ヴー」

1902年 マーラー「交響曲第5番」

1910年 ストラヴィンスキー「火の鳥」初演

1926年 プッチーニ歌劇「トゥーランドット」誰も寝てはならぬ

1935年 ショスタコビッチ「第五交響曲」

1942年 ハチャトリアン「ガイーヌ」剣の舞

敦盛は生きていた?

Atsumori   1184年のこの日、一ノ谷の合戦があった。源義経率いる部隊は、鵯越をこえて、背後からの奇襲で平氏軍を破った。この戦いでは多くの平氏の公達が死亡した。薩摩守忠度、平通盛らは戦死した。もっとも有名な話は敦盛の最期であろう。

  平敦盛は「平家物語」では一ノ谷合戦で源氏方の熊谷次郎直実との一騎打ちの末に討たれたことになっている。だが歌舞伎「一谷嫩軍記」では敦盛は実は後白河法皇のご落胤で、義経の命をうけて熊谷直実が救出するというストーリーである。一見、荒唐無稽な話のようだが、広島県の永江の里(庄原地方)には古くから「敦盛さん」という民謡が伝わり、それによると敦盛は討ち取られたのではなく、庄原に逃れて生涯を終えたという。熊谷次郎の一子の小次郎が身代わりとなって、許婚の玉織姫と共に逃れたという話も絶対に有り得ないとまでいえない。敦盛の「青葉の笛」も正式には「小枝」(さえだ)といい、鳥羽院から祖父忠盛が賜ったものであった。熊谷次郎が我が子を失ってまでも守らなければならなかった高貴な人というのは天皇家の血をひいているからであろうか。のちに熊谷直実は出家して法然の弟子となって蓮生坊と名のったという。(2月7日)

 

2018年2月 5日 (月)

荒尾高校暴動事件

   熊本県立荒尾高校は1948年に創立した。1956年9月23日の運動会の終了後、男女の生徒たちがファイヤーストーム(無礼講)をはじめた。教師がやめさせるようとすると怒り生徒200人は校舎のガラスを割り投石しピケを張り大暴れした。25日、校長は生徒たちに反省を促したが、あくまで教師の非を唱えて暴動騒ぎが再発した。校長は警察に通報して午後11時前にようやく鎮静した。11月5日学校側は全校生徒870人のうち退学者4人を含む437人の処分を発表した。納得いかない生徒は集結し、またもや3日間の臨時休校になった。この荒尾高校の暴動事件は戦後教育史にも年表などに記されるものであるか、その事件の背景や暴動の目的・理由などの真相がいまひとつ判明しない。新聞などの世論は学校に非難が集中し、処分の軽減と校長の退職、全教師への行政処分で収拾された。現在、荒尾高校という名前の学校は存在しない。2017年3月1日閉校し、新しく県立岱志(たいし)高校として2015年より開校されている。

「人生劇場」と三州横須賀村

Photo_5     尾崎士郎(1898-1964)は、明治31年2月5日、愛知県幡豆郡横須賀町上横須賀(現・西尾市)に、父嘉三郎、母よねの三男として生まれた。尾崎家は家号を辰巳家と号し、代々綿実買問屋を営んでいたが、かたわら明治半ば迄煙草製造にも手をそめていた。士郎が誕生の頃より、家運は傾いてきたものの、嘉三郎は明治20年より上横須賀郵便局長を兼業、まだまだ地元の名士だった。

    尾崎士郎といえば「人生劇場」である。「都新聞」文芸部長上泉秀信の依頼で同紙に連載した、尾崎士郎の自伝的長編小説「人生劇場」は、「青春篇」(昭和8年)「愛慾篇」(昭和9年)「残侠篇」(昭和11年)「風雲篇」(昭和14年)「遠征篇(後の離愁篇)」(昭和18年)「夢現篇」(昭和22年)「望郷篇」(昭和26年)「蕩子篇」(昭和34年)と戦後に至るまで諸紙誌に書き継がれた。物語は青成瓢吉が三州横須賀村から上京し、早稲田大学に入学。飛車角、吉良常などが絡みながら、人生いかにいきるべきかを求めて彷徨するという青春小説。尾崎家は、大正5年、父嘉三郎死亡した。生前相場に手を出し失敗、郵便局長の職は長兄重郎が継いだ。その長男も大正7年ピストル自殺した。郵便局の公金横領を苦にというのがその表向きの理由であった。ともかく一家は没落した。

   尾崎士郎の出身地である愛知県幡豆町横須賀町というのは、戦後吉良町上横須賀に住居表示が変更されている。「忠臣蔵」で知られる吉良上野介の所領であった横須賀村である。「人生劇場」の書き出しも次のように書かれている。

                                  *

   三州吉良港。一口にそう言われているが、吉良上野の本拠は三州横須賀村である。後年、伊勢の荒神山で、勇ましい喧嘩があって、それが今は、はなやかな伝説になった。そのときの若い博徒が、此処から一里ほどさきにある吉田港から船をだしたというので、港の方だけが有名になっているが、しかし吉良という地名が現在何処にも残っているわけではない。その、吉良上野の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面。吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。まったく「あいつは吉良だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、という気持ちがわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)三州横須賀は肩をそびやかしたものである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁盛しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねぇぞ!平原の中にぽつねんと一つ、置きわすれられた村である。

2018年2月 4日 (日)

清盛、死因の謎

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  1181年閏2月4日、平清盛は熱病に倒れて世を去った。(玉葉集) 享年64歳。平家物語巻6「入道相国、やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入給はず。身の内のあつき事、火をたくが如し」とある。

   医師の阿部麻鳥は清盛の病を「瘧」と見立てている。「瘧」(ぎゃく、おこり)という病は、今日でいうマラリアである。東南アジアの伝染病がなぜ感染したのか謎であるが、当時、福原で日宋貿易をしていたので積荷から感染したと考えられないこともない。しかし清盛1人だけというのも不可解である。高熱を発症したことから、腸チフス、髄膜炎、脳出血による視床下部・中脳圧迫、猩紅熱などが考えられる。

2018年2月 3日 (土)

節分の豆撒き

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  浅草寺節分会

  本日は節分。夜になって、「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆を内外に投げ、鬼を追って戸口をとざす。節分の豆まきの習俗は何時ごろかわからない。陰陽道の影響があり、室町期に中国の風俗を採り入れたものと考えられている。江戸時代に民間に盛行し、社寺でも厄除神事として定着した。現代でも節分の豆撒きの風習は消えたわけではない。ただし入口に「立春大吉」のお札を貼ったりする風習は都会では見られなくなった。(2月3日)

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入口に貼られた「立春大吉」のお札(昭和30年頃)

2018年2月 2日 (金)

雪の降る街を

61rzqet7fal__sl500_     「雪の降る街を」は、1949年10月から52年4月までNHKラジオで放送されていた「えり子とともに」の冬の場面の挿入歌として作られた曲である。大学教授とその娘えり子が、戦後のすさんだ世相の中で、いたわり合い励まし合って、母のない家庭を守っていく話だが、主演のえり子役、劇団民芸の阿里道子の美しい声に人気が沸騰し、2年半のロングランとなった。音楽は初め、当時新進の芥川也寸志が担当したが、続編からは中田喜直に代わった。番組も終わり近くになった52年初めのある日、作者の内村直也が音楽担当の中田にいった。「今日は台本が足りなくなってね、歌を一本入れさせてもらうよ」。ビテオ編集の現在ではあまりないことだが、生放送のときはこういうことがしばしばあったのだ。30分番組で予定して書いた台本が27分で終わってしまうので、そのつじつまを合わせようとしたわけである。内村が15分ほどですらすらと書いた詩に、中田がその場でパッと曲をつけ、ドラマの中で文学座の南美江と阿里道子のふたりが歌った。放送すると、あちらこちらから反響があって、評判がいいので「ラジオ歌謡」で取り上げられた。当時フランスから帰ってきたシャンソン歌手、高英男の歌で1953年2月2日から1週間放送され、全国的に広まったのである。

 

 

 

 

 

2018年2月 1日 (木)

世界発明・発見の歴史年表

Ff2a5484    快適な生活を享受している現代人も、元々は先人が発明したものばかりで暮らしている。人類最初の道具は「棒切れ」と言われる。 ただし棒は腐って遺物としては残ることはない。アフリカ・ケニア北部の約330万年前の地層から、猿人が使っていたと思われるハンマーのような道具が人類史上最古と見られる。

 ガリレオはピサの斜塔を利用して落下体の加速度の実験をした話は有名である。しかしこれは、ガリレオの弟子のヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニのつくり話で、本当に実験した人はオランダのシモン・ステビン(1548-1620)です。

紀元前5000頃 メソポタミア南部シュメールで主要な農耕技術が発達し、定住が進んで都市が生まれる
前3700頃 エジプト、メソポタミアにて銅器使用
前3200頃 シュメールにて文字が生まれる
前3000頃 エジプトにて運搬用に動物力の利用始まる
前2800頃 エジプト、中国にて青銅器の使用
前2500頃 エジプトにてパピルス使用、メソポタミアにてガラス製品つくられる
前1400頃 インド、小アジアにて鉄器の使用
前600頃 ペルシアにて風車が利用される
前600頃 インドの外科医ススルタ、造鼻術をおこなう
前300頃 ローマにてコンクリートとセメントの技術が生まれる
前250頃 クテスィビオス、アレキサンドリアにて水時計を作製
前102頃 ヘロン、気力球を発明

後105頃 蔡倫、製紙術を発明
132年 張衡、地震計を発明
230年 中国魏の華佗、麻酔術をおこなう
673年 アラビア人とのコンスタンティノープル攻防戦にて、ビザンツ人が「ギリシア火」を発明  砂時計は8世紀頃、フランスのリウトプランドが発明した。

1015年、イブン・アル・ハイサム、最初のカメラ・オブスクラを作る。

1202年、イタリアの数学者フィボナッチが「算術の書」で「0」を紹介。

1206年、アラブ人の博学者アル・ジャザリー、クランクシャフトとカムシャフト、吸い上げポンプを考案

14世紀
1302年、イタリアのジャオ、航海用コンパスを製作
1377年 フランスの南部の都市モンペリエ医学校で人体解剖合法化

15世紀
1498年 イタリアのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局製法はじまる(世界最初の薬局店)

16世紀
1500年カブラル、ブラジルを発見。1531年コペルニクス、地動説を発表。鉛筆は1565年、コンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。1572年ヘルモント、二酸化炭素を発見。1582年ローマ教皇グレゴリウス13世、暦法改正。1585年ステビン、落体の法則を発見。1590年オランダの眼鏡職人ハンス・ヤンセン、サハリアス・ヤンセン父子が顕微鏡の原型を発明。1599年オランダのシモン・ステファンが風力で走る帆走車を発明。

17世紀
1605年、ストラスブールでヨハン・カロルスは新聞を創刊した。1608年、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明。1610年ガリレオは木星を回る4つの衛星を観察。1612年医師サントリーオ・サントリーオが体温計を考案した。1623年イタリアのガスパロ・アセリ、乳摩管を発見。1628年ハーべイ、血液循環の原理を発見。1643年トリチェリー、真空を発見。1650年ヴァレニウス、初めて黒潮について記す。1655年ホイへンスが土星の衛星タイタンを発見。1656年クリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。1669年ニュートン、微積分法の発明。1673年レーウェンフック、赤血球を発見。1678年ホイヘンス、光の波動説。1687年ニュートンが万有引力を発見。

18世紀
1705年ハレーがハレー彗星の周期を発見。ピアノはイタリア人のバルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコが1709年に発明。1735年リンネが動植物の分類法を発表。1750年フランクリン、避雷針の発明。1757年キャンブベルが六分儀を発明。1776年、アメリカのディヴィッド・ブッシュネルが最初の潜水艦を考案し、タートル号を建造。アメリカ独立戦争でイギリス軍艦イーグル号を攻撃したが、成功しなかった。1779年クロンプトンが紡織機「ミュール機」を発明。1785年カートライトが力織機を発明。1796年エドワード・ジェンナー、牛痘による天然痘予防法に成功。

19世紀
1803年イギリスのトレヴィシックが蒸気車を発明。1804年、トレビシックがウェールズのベニランダで史上初の軌道向け蒸気機関車の走行実験に成功。1808年イギリスのデービーがアーク灯を発明。1810年ドイツの靴職人バルタザール・クレムスがミシンを発明。1810年イギリスのピーター・デュランドが缶詰を発明。1812年、ドイツのフリードリッヒ・モースが「モースの硬度計」を考案。1814年イギリスのスティーヴンソンが蒸気機関車を製作。1817年、ドイツのカール・フォン・ドライスによって木製の人力二輪車ドライジーネ(自転車の原型)が製作された。1821年イギリスのヘンリー・ベルが蒸気船「アーロン・マンビー号」を作製。1821年ドイツのブッシュマンがAURA(オーラ)というハーモニカの原型を試作した。1825年スティーブンソン、機関車ロケット号がストックトンとダーリントン間の45キロを走破。1829年、リバプールとマンチェスター間を走破。1829年フランスの縫製職人バルテミー・ティモニエがミシンを発明。1835年、電灯の実験が、ジェームズ・ボウマン・リンゼイにより成功。1839年アメリカのチャールズ・グッドイヤーがエボナイトを発明。1843年フランスのルシアン・バイディがアネロイド気圧計を発明。1846年ヨハン・ガレが海王星を発見。1855年ヘンリー・ベッセマー、鋼鉄の大量生産始まる(特許)。1858年ハイマン・リップマンが消しゴムつき鉛筆の特許を取得。1860年トーマス・アダムスがチューインガムを発明。1860年フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコールワットを発見。1862年ルイ・パスツールとクロード・ベルナールが低温殺菌法を開発。1865年メンデルが遺伝の法則を発見。1867年ノーベル、ダイナマイトを発明。1868年アイヴス・マガフィーが真空掃除機を発明。1870年ジョン・ウェズリー・ハイアットがセルロイドを発明。1873年ショールズがタイプライターを発明。1878年デーヴィッド・ヒューズはマイクロフォンを発明した。1876年ジェン・ジェームズ・立夏ード・マクラウドはインスリンを発見。1877年エジソンが蓄音器を発明。1869年スイスのフリードリッヒ・ミーシャ―が膿のリンパ球から核酸を発見。1878年ジョゼフ・スワンはエジソンより1年早く、白熱電球を発明。1881年アメリカのアルモン・グランガーが消火器を発明した。1885年カール・ベンツ、ガソリンエンジンで走る三輪自動車を作製。1886年ジョン・ペンバートンはコカ・コーラを発明。電池はアレッサンドロ・ボルタがボルタの電堆を発明し、乾電池はカール・ガスナーが1887年に発明した。懐中電灯はコンラッド・ヒューバードが1899年に商品化した。1890年、北里柴三郎とエミール・ベーリングが破傷風とジフテリアの血清療法を発見。

20世紀
   1901年、ジレットは安全剃刀を発明。1902年、マリー・キュリー夫妻、ラジウム抽出。ウィリス・キャリアはエアコンの理論を樹立。1903年、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。1904年、アメリカのルーベルが紙へのオフセット印刷機を発明。1909年レオ・ベークランドが合成樹脂ベークライトの工業化に成功。1911年、ビンガムはマチュピチュ発見。1915年、早川徳次はシャープペンシルを発明。1920年DNA、RNAを発見。1920年アメリカでラジオ放送開始される。1921年カナダの整形外科医フレデリック・バンティングと医学生チャールズ・ベストが研究室でインスリンの抽出に成功した。1923年、スペインのファン・デ・ラ・シエルバがオートジャイロを発明。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見。1924年、米キンバリー・クラーク社からクリネックス・ティシュー発売される。1924年、アルベール・カルメットが結核予防にBCG接種を提唱。1925年、イギリスのジョン・ロージー・ベアードがテレビ実験に成功。1926年、アメリカのロバート・ハッチンス・ゴダードが世界初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功。1926年、石井茂吉は写真植字機を発明。1928年、イギリスのフレミングがアオカビからペニシリンを発見。1932年、T型フォードの発売。1935年カローザース、ナイロンを発明。1938年、蛍光灯、アメリカで実用化。1942年アメリカのフェルミらがシカゴ大学で原子炉の核実験に成功。1943年ハンガリーでボールペンを開発。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが自閉症を報告。1944年セルマン・ワックスマンがストレプトマイシンを発見。1946年、アメリカで世界初のコンピュータである電子計算機ENIAC(エニアック)が発明される。1948年、インスタントカメラ「ポラロイド・ランド・カメラ」を発売。1948年、米ベル研究所のウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスターを発明。1949年バーナード・シルバーとノーマン・ジョセフ・ウッドランドがバーコードを発明。1949年アメリカのビクターが45回転レコード(ドーナツ盤)を開発。1952年、アメリカのダウケミカル社がサランラップを販売。1953年、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見。1957年、樫尾製作所が電卓の元祖ともいわれる計算機を開発した(価格48万5000円)。1959年、リーキー夫妻がタンザニアのオルドヴァイ渓谷でジンジャントロプス・ボイセイ(アウストラロピテクス・ロブストゥス)を発見。1963年カセットテープ、オランダで開発。1964年、ピーター・ヒッグス、フランソワ・アングレールがヒッグス粒子を発見。1968年、大塚食品がレトルトカレー「ボンカレー」を発売。1968年、ダグラス・エンゲルバートがコンピュータのマウスを発明する。1971年、レイ・トムリンソンが電子メールを発明。1978年、日本語ワープロ東芝JW-10(価格630万円)を発売。1981年スペースシャルト・コロンビア号が時速2675kmを記録。1990年、初のWorld Wide Webのシステムが稼働。

21世紀
2001年、世界中で無料オンライン百科事典「ウィキペディア」が公開される。
2005年、動画投稿サイトはじまる。
2006年、ツィッターの一番最初の「つぶやき」。

参考資料
世界の発明発見歴史百科 テリー・プレヴァートン著 原書房 2015年

テレビ放送記念日

Tv41

   1953年2月1日、NHKが日本初のテレビ放送を行った。当日は、東京千代田区内幸町の放送会館第1スタジオから菊五郎劇団の「道行初音旅」や映画などが放送された。当時の受信契約数は868、受信機18万円、受信料は月額200円だった。1962年にはTV受信契約が1000万台を突破し放送も全日になった。

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