赤穂義士銘々伝・吉良邸絵図面取り
赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。
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下記は何を参照されたのでしょうか。
「吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である」
① 旗本ではない
本多孫太郎(長員)は旗本ではありません
結城秀康を祖とする越前松平家の家老です
この当時で禄高は2万石
立場的には大名の家来でありながら、大名格
として得寓されていた家です
大名の家老で万石以上であっても、幕府から
江戸屋敷を拝領することはない
この本多家だけは、例外です
また、この本多家当主は越前府中在住で、
江戸の屋敷にはいません
②忠見氏のこと
この時代は、忠見扶衛門政常
本多家の次席江戸留守居です
堀部弥兵衛金丸の実家ではなく弥兵衛の
後妻、わかの実家です
赤穂浅野家改易後、堀部一家は鉄砲洲の
浅野屋敷内の長屋を出て、本多屋敷内の
忠見宅(一軒家)に1か月ほど仮住まいしました
堀部弥兵衛は、忠見扶衛門の次男・文五郎
を養子にして堀部家を継がせるつもりでいまし
たが、浅野内匠頭がゆるしてくれない
そこで、中山安兵衛を養子にし、娘のほりと
結婚させたのです
弥兵衛・安兵衛切腹後、文五郎は熊本の細川
家に仕官し、堀部家を継ぎました
詳細お知りになりたければ、メールください。
百楽天 拝
投稿: 百楽天 | 2012年11月 4日 (日) 02時50分
百楽天様、ご教示ありがとうございます。本多孫太郎家来の忠見氏の件は「忠臣蔵のすべて 歴史読本臨時増刊1992年冬号」忠臣蔵の基礎知識「絵図面」川口素生、315頁をそのまま孫引きしました。義士関係の仔細な考証は未だ勉強不足です。
投稿: ケペル | 2012年11月 4日 (日) 06時58分