ゴッホは恋多き男だった
シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール) 鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙
フィンセント・ファン・ゴッホは37年の短い生涯で、愛した女性は数人いる。孤独のようにみえてかなりの恋愛体質である。カロリーナ・ハーネべーク(初恋の人)、従姉で子持ちの未亡人ケイ・フォス・ストリッケル(通称ケー)、マルゴ・べーへマン、アゴスティーン・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)、マルグリット・ガッシェ(医師の娘)。しかしシーンという名前の女性がいちばんよく知られているかもしれない。ゴッホのハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。
1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。二人の20ヵ月間の同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」
この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。後年、ゴッホは手紙で「自分には愛とは相性が悪い」と書いている。
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