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2017年12月31日 (日)

年越しそばの由来

    大晦日の夜を年越しともいい、除夜ともいう。現代のわれわれは「NHK紅白歌合戦」を見て、「ゆく年くる年」で除夜の鐘を聞くことを年越しと思うかもしれないが、これは比較的に新しい習慣であって、日本では大昔から、一日というのは日が暮れてから、次の日が暮れるまでであった。一日の境は真夜中の12時ではなく、日暮であった。だから大晦日の夜に、年棚に灯をつけ、神饌を供えて、家内そろってつく膳は、年を迎える祝いの膳であった。この夜にきまった食べものを摂ることになっていたのは、そのためである。土地によっては、新年最初の食事として、大晦日の夜に晴れの膳を家族にすえる所もあるが、これは年越しの古風である。

    年越しそば、みそかそばを食べる風習は、だいたい江戸時代に定着したものであるが、必ずしも全国的なものではない。地方によって食べ物は異なり、ある地方では田楽を食べる風習があった。豆腐と蒟蒻を焼いて味噌をつけたものである。

    年越しそばの由来については、①そばのように長く幸福にという縁起説、②金箔師が仕事場に散らばった金銀の粉を集めるのにそば粉をこねた塊をもちいたことから、金銀をかき集めるという説、③大晦日の深夜まで借金の取立てのため、夜明けまで集金して歩く町場の掛取りの慰労のため、など諸説ある。

 

発音しない文字

  英語には時によって、knife(ナイフ)、write(書く)のようにk、wの発音しない文字がある。これを黙字(silent)という。

b    thumb(親指)  comb(くし) lamb(子羊)

d    handsome(ハンサム)

gh  night(夜) high(高い) right(右)

h    honest(正直な) hour(時間) ghost(幽霊)

k    knee(ひざ) knock(ノックする) knot(結び目) knob(つまみ)

l     talk(話す) walk(歩く) alms(義援金)

n    hymn(讃美歌)

p    pneumonia(肺炎)

s    island(島) aisle(通路)

t    match(試合) catch(つかむ) Christmas(クリスマス)

w   answer(答える) wrist(手首) wrap(包む)

大晦日の祖先祭祀の風習について

  ゆく年くる年。新しい年は、平和で明るい社会であることを願いたい。青森県三戸郡五戸町では今でも年の暮れから正月にかけてミタマノママと呼ばれる風習が残っていると聞く。白餅と赤餅とを菱に切って神棚に供える。盛岡では卵のように飯を握って年の内に供え、後で苞に入れて乾かしておく。山形県最上郡安楽城村では米飯を擬宝珠形に握るのを本式とする。ミタマノママとは「御魂の飯」(みたまめし)と書き、「みたま」を御先祖様と解し、大晦日の夜の先祖祭への供物である。オミタマサマ、ミタマメシ、ミタマ、ニダマなどともいう。

     かつて日本には一年に盆(7月)と正月(12月)、先祖祭の日があった。「徒然草」第19段に「亡き人の来る夜として魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすことにてありしこそあはれなりしか」とある。つまり兼好の時代には京都ではもう12月には祖先祭祀の風習はなくなっていたが、関東には昔の風習が残っていたようだ。お盆が仏教による魂祭りであったのに対し、大晦日の祭りは仏教的な色彩がうすれて、地方において神祭的なものになっていったのはなぜだろうか。(参考:田中久夫「みたまのめし」史泉第50号 昭和50年) 12月31日

除日、講起ス

歳暮ニ、菅得庵、林羅山ニ謂ヒテ曰ク、

「余、イマダ通鑑綱目ヲ読マザル。

請フ、先生、明春ヲ以テ、余ノタメニ之ヲ講ゼント」

羅山曰ク、「子ノ心誠ニ之ヲ求メバ、何ゾ来年ヲ待タント」

即チ、除日ニ講起ス。

                       (先哲叢談)

除夜の鐘の由来

大晦日定めなき世の定めかな(西鶴)

ともかくもあなたまかせの年の暮れ(一茶)

高窓に星吹き寄せぬ除夜の鐘(花野女)

 大晦日を「除日(じょじつ)」ともいう。旧年を除く日ということである。除日の夜が除夜だ。除夜の鐘を108つくのは、中国の仏教儀式で、宋時代から始まったという。ただつけばよいというわけではなく、交互に、強く54点、弱く54点、そして107点までは旧年に、最後の一点を新年につく。

   108の数は、1年12ヵ月と、立春などの24節気、それを三分した72候、の合計だというが、後に108の煩悩を一つずつ消すためといわれるようになった。108の煩悩とは、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)と六塵(色、声、香、味、触、法)におのおの好、悪、平があるので、計36程の煩悩が生じ、それが過去、現在、未来あるので108となる。

    古くは1日が夜からはじまって朝につづくと考えられていたので、祭は多く前夜から行われた。年越しの祭も前夜からはじまるとし、大晦日の夜を「おおとし」「としのよ」といい、年神(歳神)を迎るために厳重な物忌をし、夜通し起き明かすのが古風な作法であった。今でも除夜の鐘を聞くまで床に入らなかったり、早く寝ると白髪になるとか、しわがよるとかいい、また寝るというのを忌んで、「寝る」ことを「稲を積む」という地方もある。また年ごもりといって、この夜は神社に参籠(さんろう)して夜を明かすところがあったが、現代では一般にそれを簡略して夜中に参るか元旦未明に参るようになった。また「歳籠り」といって氏神の社にこもって夜を明かす風習もあり、京都祇園社の「おけら祭」などのように、古い社では除夜に、新しく火を鑽り出し、氏子に配る行事がある。農家などでは、大歳の晩から元旦にかけて、いろりの火を絶やさぬようにするところも多い。この際、火種にする薪を「ようぎほだ」「せちほだ」などと呼び重要視した。そのほかいろりや氏神の境内で大火をたくところもあり、兵庫県では「年越しとんど」といって、古い注連縄などの神飾りの不用なものを焼くところもあった。

2017年12月29日 (金)

吉良家の忠臣、小林平八郎、清水一学

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 清水一学(月形龍之介)と赤垣源蔵(大友柳太郎)

    元禄15年12月14日、赤穂浪士47人は、表門と裏門の二手にわかれて本所吉良邸に討ち入った。不意をつかれた吉良側ではあるが、「堀内伝右衛門覚書」には上野介の前に立ちふさがった二人はことのほかよく働いた、とあるがこの奮戦した二人が誰であるかはっきりしない。巷説では付人の清水一学と小林平八郎らが奮戦したことになっており、小林平八郎は、女の着物をひっ被って庭を走り抜け、浪士と斬り結んだという。また清水一学は二刀流でよく奮戦したことになっているが実際は明らかではない。他に大須賀治郎右衛門、左右田源八郎、小堀源次郎、榊原平右衛門、鳥居利右衛門、須藤与一右衛門ら16人が討死、負傷者は20人余りという記録が残っている。主君吉良を守るために討ち取られた、彼らもまた忠臣と呼ぶべきではないだろうか。

    清水一学(1678-1703)は吉良上野介の所領三州吉良宮迫村に生まれ、15歳のときから義央に勤仕するようになった。吉良邸討入りのときは25歳であったが、生来無口で篤行の青年であった。この夜も、浪士乱入と同時に上野介の身辺を護り、主君の身をひそませたあとは、浪士たちをそこへ近寄せまいとして、かなり撹乱妨害をやったらしい。その間、完全に四五人の戦力を引きつけられっぱなしにされてしまったといい、後日、浪士たちはその働きぶりを口々に褒め称えている。しかし、上杉家資料の大河内文書では、一学は少しだけ戦って台所で討ち取られ、大した活躍はなかったとしている。真偽のほどは謎であるが、一学が二刀流の剣豪であったというイメージは活動写真の影響で大きくなったと思われる。とくに月形龍之介は「忠魂義烈・実録忠臣蔵」(マキノ省三監督、昭和3年)と「「残月一騎討ち」(松田定次監督、昭和29年)の二度、清水一学を演じている。吉良邸での赤垣源蔵(大友柳太郎)との死闘は迫力のあるものであった。「清水一角」は講談の創作した名であるが、清水一学は実在したと思われる。吉良家の剣客で和久半太夫がいるが、明治の講談が創作した架空の人物。大友柳太郎はテレビ「大忠臣蔵」では鳥居利右衛門を重厚に演じた。

シャンソンの日

5969788  本日はシャンソンの日。1990年のこの日、銀座のシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」が閉店した。

    日本にシャンソンが紹介されたのは、昭和2年11月15日に宝塚少女歌劇団がグランド・レビュー「モン・パリ」を初演したときで、以後「パリゼット」「花詩集」などの主題歌として歌われた。そして無声映画時代「巴里の屋根の下」「巴里祭」など映画主題歌のシャンソンも流行した。またダミアの「暗い日曜日」「人の気も知らないで」が淡谷のり子の歌謡でヒットした。戦後、昭和30年にイベット・ジローが来日して、シャンソン・ブームが起った。そしてエディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジャクリーヌ・フランソアの歌がラジオから流れた。銀座にはシャンソン喫茶「銀巴里」が出現、石井好子や越路吹雪らが活躍した。岩谷時子による訳詩もシャンソンの大衆化に貢献した。シャルル・アズナブール、エンリコ・マシアス、サルバトーレ・アダモら若手も登場した。なかでもアダモは「サン・トワ・マミー」「雪が降る」など日本で最も愛されたシャンソン歌手といえる。シャンソン歌手にはフランスだけでなく他国出身者も多い。イブ・モンタン、アダモはイタリア生れ。エンリコ・マシアスはアルジェリア生れのユダヤ人。エディット・ピアフの「愛の讃歌」。およそ愛をテーマにした曲は数々あるが、このシャンソンほど力強く、感動的な歌がほかにあるだろうか。(12月29日)

2017年12月28日 (木)

古代世界のゾウ使い

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   古代戦争などでは、巨像の部隊がその巨体とスピードで敵を押し倒し、踏み潰す破壊力を持つ強力な戦車のような兵器として用いられたことはアレクサンドロス大王がインド遠征したときの話でもよく知られている。前326年ヒュダスぺス河畔の戦いで、パンジャブ王国のボロスは、200頭の戦象で応戦し、大王の侵入を防いだとされる。また第二次ポエニ戦争では、前218年カルタゴの将軍ハンニバルは、約6万の兵と37頭の象を率いて雪のアルプスを越え、イタリア半島に侵入を試みたが、象の殆どはアルプスを越える時点で失われ、到達できたのは3頭に過ぎなかった。その後ザマの戦い(前202年)で、80頭の戦象でローマを攻撃した。ローマのスキピオは隊列を広く取り、象の突進をやり過ごすという戦術をとり、戦象はその隙間を通り過きてしまい、方向転換のために停止したところを殺されてしまった。象には敵味方の区別がつかないということや、火を怖がるなどの多くの弱点があった。ゾウの扱いは難しいと思うが、すぐれた調教師がいたのだろう。ゾウの活躍は17世紀インドのムガール帝国まで続いた。ムガール朝の軍隊は歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊、ゾウ軍、水軍と5つ部隊に区別されていた。

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「アルプス山脈を越えるハンニバル」 ヤコポ・リパンダ 1505年~1513年頃

NHK紅白歌合戦「夢を歌おう」

 2017年の紅白歌合戦。安室奈美恵のラストステージが目玉企画。話題のTTポーズのTWICE。台湾人のツウィが可愛い。でもサナ、モモ、ミナも応援。最多出場は五木ひろしの47回。けん玉でギネス挑戦の三山ひろし、AKB卒業まゆゆ、登美丘高校ダンス部、加藤一二三らが注目。「たかが紅白されど紅白」過去66年間で紅白歌合戦で歌われた曲は3000曲以上になるが、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、江利チエミ「テネシー・ワルツ」、芹洋子「四季の歌」など名曲は一度も歌われていない。▽親子二代出場は、瀬川伸・瑛子、松田聖子・沙也加、森山良子・直太朗、そして藤圭子・宇多田ヒカルと四例。▽紅白歴代最高瞬間視聴率は1963年の五月みどり「一週間に十日来い」の85.3%である。▽二大失言事件。1984年の生方恵一アナの「ミソラ発言」と1986年の加山雄三の「仮面ライダー事件」。少年隊の「仮面舞踏会」を誤って曲目紹介。▽1982年は薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」が映画・歌ともに大ヒットだったが、この年の紅白でこの曲を歌ったのは桜田淳子だった。その理由はいまもって謎である。▽2001年21世紀紅白1曲目は松浦亜弥「LOVE涙色」。

おせち料理の由来について

新しき年の始の初春の今日降る雪のいや頻(し)け寿詞(よごと)

   大伴家持

Photo_2  スーパーやデパートで各種のお正月のおせち料理が店頭に並べられている。元日の朝、正月のお祝い膳にかかせないのが「おせち料理」である。「おせち」とは御節供(おせちく)のつまったもので、昔は五節供の節目に用いられる料理のことをいったが、次第に正月の料理だけをいうようになった。正月の祭事の食物に里いものような穀類を特別重要視する習慣は縄文時代からの穀類起源神話からもうかがえる。インドネシアの神話に、ハイヌウェレという少女の死体から芋などの作物が生まれ、人びとの主食となったという神話がある。ドイツの学者アドルフ・イエンゼン(1899-1965)はこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼び世界に同類の神話が存在するとした。日本の記紀にみられるオオゲツヒメも縄文時代の中期に南方から渡来した可能性が高いと学者は説く。おせち料理は年神様にお供えして、家族の繁栄や、多産、豊年、長寿、家内安全のなどを願う、縁起物の家庭料理である。

   「数の子」は、にしんの卵だが、「二親・にしん」から、たくさんの子がうまれてめでたいと、子孫繁栄の縁起をかついでいる。古くからおせちに使われる。

 「田作り」は、ごまめともいい、かたくちいわしのの幼魚を炒って飴煮したもの。昔たんぼの肥料に使ったところ、たいへん米がとれたため、豊年万作を祝う農民が正月に田作りを食べるようになった。

   「黒豆」は、一年中の邪気を払い無病息災を願って屠蘇で祝うが、そのときに用いられる祝い肴のひとつ。黒豆(くろまめ)・まめ(丈夫)に暮らせるようにという縁起に因んだもの。 

 「昆布巻き」は、昆布と「よろコブ」をかけて幸福を願う。

 「海老」は長いひげをはやし、腰が曲がるまで長生きすることを願って使われる。

 「鯛」は、鯛と「めでタイ」をかけて幸福を願う。

 「くわい」は芽が出る事から「出世しますように」という縁起物です。

 「れんこん」は沢山の穴が開いていることから「先が見える・先の見通しが良い」とされる縁起物です。

 「たたきごぼう」は根がしっかり根付くことから「家の土台がしっかりするように」とされる縁起物です。

 「棒だら」は鱈腹(たらふく)食べられるという意味で腹=福から来ています。

 「栗きんとん」金団と書き、その色から黄金・財産に見たてた豊かな1年を願う料理です。

   「屠蘇」とは魏の名医華佗の処方という、年始に飲む薬・屠蘇散に由来する。屠蘇散を入れて、酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、齢を延ばすという。平安時代から行われている。(1月1日)

参考:『江馬務著作集5』 中央口論社 P191~196

八百屋お七に焼かれた芭蕉庵

    枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

    延宝8年、深川に移る。これが芭蕉庵の始まりである。天和2年3月、「武蔵曲」においてはじめて芭蕉の号を用いた。この年12月28日、駒込の大円寺を火元とする大火(お七火事)があって、芭蕉庵も類焼した。芭蕉は辛うじて難を免れ、門人高山麋榯に招かれて甲斐国谷村の高山邸に身をよせ、ここに半年あまり寓居した。翌年5月江戸に帰ったが、其角によれば、この災難によって芭蕉は「猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発」したという。6月には郷里の実母の死去の悲報に接し、冬には素堂ら友人門弟の勧進によって新庵が落成し、ここに落着いた。このころから芭蕉の人生観、俳諧観が大きく変わったものと考えられる。

31  朝顔は 酒盛知らぬ盛りかな

32  蕣は 下手のかくさへ哀なり

33 朝茶のむ 僧静なり菊の花

34 朝露に汚れて涼し瓜の泥

35 朝な朝な 手習すすむきりぎりす

36 あさむつや 月見の旅の明けばなれ

37 あさよさを 誰まつ島ぞ片心

38 紫陽花や 帷子時の薄浅黄

39 明日は粽 難波の枯葉夢なれや

40 遊び来ぬ 鱁釣りかねて七里迄

2017年12月27日 (水)

「マ」事項索引インデックス

Img60150778  「マウリッツハイス美術館」オランダのデン・ハークにある美術館。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を所蔵する。▽「マアリブ(イエメン)」シバの女王ビルキスの居城(前10世紀頃)があったとされるアルシュ・ビルキスなどの遺跡がある。▽インドのマウシンラムは世界一雨が降る町。▽「マウマウ団(ケニア土地自由軍)」指導者デダン・キマジ・ワキウリによる1952年から植民地ケニアで起こった民族主義的独立運動。▽「纒向遺跡」奈良県桜井市にある纒向遺跡は弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。初期の大和政権の本拠地といわれ邪馬台国大和説の有力候補地。2013年に国の指定史跡となる。▽「益田岩船」奈良県橿原市にある巨大な石造物。占星術のための天体観測台という説があるが、確かなことは不明。▽「マアト山」金星にある高さ約8000mの山。▽「マングローブ」南国の海岸の象徴的な景観であるマングローブとは、木の種類の名前ではなく、熱帯・亜熱帯地域の河口に紅樹林を構成する森林のことである。▽「マンサ・ムーサ」在位1312-1337。マリ王国の王。▽「マンサブザール制」16世紀後半、インドのムガル帝国のアクバル帝が定めた軍人の位階制。32段階の官位(マンサ)が定められ、この官位に応じて俸禄が支給された。(まままま)

マアト山
マアリブ
マイアミビーチ(フロリダ州)
舞子
マイセン
マイソール戦争
毎日新聞
マイノリティ
マイヨール
マインツ
マウシンラム
マウナケア山(ハワイ)
マウナロア山(ハワイ)
マウマウ団の乱
マウリア王朝
マウリッツハイス美術館
マウントアイザ(オーストラリア)
馬王堆漢墓
マオリ人
蒔絵
マカオ
曲垣平九郎
マガダ
牧野富太郎
纒向遺跡
マキャヴェリ
マグデブルクの半球
マークトウェーン
マグナ・カルタ
マクワウリ
枕草子
マクンバ
マケドニア
マザー・シプトンの洞窟
正岡子規
マザラン
益子焼
マジノ線
マジャパヒト王朝
マジャール人
マーシャル・プラン
魔女狩り
増鏡
マスカレイド(仮面舞踏会)
マスクラット
益田岩船
磨製石器
マゼラン
マゾヒズム
マダガスカル共和国
町年寄
マチュ・ピチュ
松尾芭蕉
マッカーサー
マッキンリー
マッシュルーム
マテーラの洞窟住居
曲直瀬道三
マニュファクチュア
マニラ
マヌ法典
マネ
間引き
マーピラの反乱
マフディー派
マホメット
マヤ文明
マラウィ共和国
マラッカ
マラトンの戦い
マラヤ
マラヤーラム語
マリ王国
マリ共和国
マリ文書
マリモ
マルクス
マルコポーロ
マルサス
マルドゥク
マルヌの会戦
マルピーギ小体
マルファン症候群
丸山ワクチン
マレーシア
マレンコフ
漫画
マングース
マングローブ
マンサブダール制
マンサ・ムーサ
満州国
満州事変
満州文字
マンチェスター
マンティネイアの戦い
政所
万年筆
万葉集

世界美女探訪

 「世界で最も美しい顔100人」ランキング。リザ・ソベラーノ(フィリピン)、ティラーヌ・ブロンド(フランス)、ツウィ(TWICE、台湾)、サラ・ガドン(カナダ)、ナナ(AFTERSCHOOL、韓国)。 ハリウッドや英国は敗退。「シンデレラ」や「戦争と平和」でナターシャを演じたリリー・ジェームズは日本人の目からみると驚くほどの美人ではなかった。「シンデレラ」旧作ジェマ・クレーブンのほうが美しかったし、ナターシャはやはりオードリー・ヘップバーンのほうが美しい。エマ・ワトソン主演の「美女と野獣」が公開されたが、やはり正統派の美人女優という感じではない。歴史的にみれば映画女優ではグレタ・ガルボがいちばんだろう。今年のPeople誌が発表した「世界で最も美しい女性」はジュリア・ロバーツ。「プリティ・ウーマン」でブレイクしたジュリアは五度目の受賞でもう49歳。日本人の好みの顔ではない。映画黄金時代、美人女優といえばエリザベス・テーラー、グレース・ケリー、ジーナ・ロロブリジーダ、ダニエル・ダリュー、ロッサナ・ボデスタなど錚々たる美女がいた。現在、最も美しい女優は誰なのだろうか?美はあくまで主観的なものであるがTC Candlerが選んだ「最も美しい顔」2016年第2位リザ・ソベラーノは現在18歳のフィリピン女優。インドのプリヤンカー・チョープラ―。では日本で美人といえば誰?松嶋菜々子(43歳)主演ドラマ「女の勲章」がそれぞれ8.1%、6.2%と低調に終わった。鈴木京香(48歳)や中山美穂(47歳)も美人枠でのドラマ出演は厳しいものがある。女性の美しさはアラフォーが限界かな。いま旬の女優といえば有村架純や松岡茉優、それに続いて土屋太鳳や広瀬すず(18歳)を筆頭に杉咲花(19歳)、平祐奈(18歳)、葵わかな(18歳)など小柄な女性が多い。なかでも気になるのが広瀬すず。静岡市生まれの18歳。2013年ドラマ「幽かな彼女」でデビュー、同年「謝罪の王様」で映画デビュー、翌年オムニバス「放課後たち ロリータなんて」に出演。すずが演じるのは大学生の涼太に淡い想いを寄せる女子中学生。無名のころスターレット時代の初々しさとレア感を見ることができる。大きな瞳、ボブの髪型、太い足、彼女の魅力はデビュー時と現在とあまりかわらない。「世界で最も美しい顔100人」では石原さとみ、小松菜奈をおさえて、TWICEのサナが日本人でトップ。中国の龍夢柔栗子はガッキーにそっくり。世界は広い。

小野道風忌日

Photo_2    漢字の和様化をなしとげた平安時代の能書家小野道風(894-966)は国民にたいへん親しまれた人物である。それは柳の枝に飛びつこうとして幾たびも跳躍を試みる蛙を見て発奮、精進の結果ついに書道の奥義を極めたという逸話によるものであろう。しかしその生涯には謎が多い。道風は小野妹子の子孫で、小野篁の孫、大宰大弐小野葛絃の子である。その生年は「日本紀略」によって寛平6年に生まれ、康保3年、73歳で没したことは定説になっている。名の「道風」は本来、「みちかぜ」と訓読すべきであるが、「とうふう」と音読しているのは、唐風化の影響である。しかしながら、道風の生まれた寛平6年には菅原道真の建議により、遣唐使の派遣が停止され、道風が生きた時代は国風化が流行したときである。また若いときから書道家として認められたが、生涯官位は低く73歳で没したとき、正四位下内蔵権頭にすぎなかった。小野妹子の末裔にしては不自然であろう。生まれは愛知県の春日井市と伝えられる。小野葛絃(くずお)が任地の時、里人の娘との間に生まれたのが、小野東風だというのである。この説は尾張藩士天野信景による「塩尻」に記述され、それをうけて松平君山が「張州府志」で小野道風生誕地と述べ、以後尾張藩諸学者の通説のようになった。現在、春日井市には「道風記念館」があり、ゆるキャラの「道風くん」まで生まれた。だが、本当に道風が春日井市出身が史実であるかは疑わしい。(12月27日)

2017年12月25日 (月)

チャップリン「スマイル」

Photo    本日はクリスマスですが、喜劇王チャールズ・チャップリンの命日でもある。シネフィルWOWOW没後40年企画で「黄金郷時代」「独裁者」「モダンタイムス」「街の灯」一挙上映。チャップリンの映画は音楽もすばらしい。「ラ・ヴィオレテラ」(街の灯)、「テリーのテーマ」(ライムライト)、「スマイル」(モダン・タイムス)などスタンダードな曲。なかでも「スマイル」はもの悲しいメロディーのなかに明日への希望が感じられ、永く多くの人々に愛されてきた。もともとメロディのみのインストゥルメンタルだったが、1954年にナット・キング・コールが歌詞付で歌った。以後、マイケル・ジャクソンはじめ多くの歌手によってカバーされている。またマントヴァーニ・オーケストラなどイージーリスニングとしても定番の曲である。この曲は近年フィギュアスケートの浅田真央や織田信成選手のエキシビション使用曲となり若い人も知るようになった。

  これまでに「スマイル」をカバーした主なミュージシャン。ペトゥラ・クラーク、ニール・セダカ、スキータ・ディヴィス、ペリー・コモ、ジュディ・ガーランド、トニー・ベネット、イマ。(12月25日)

蒲鉾・ちくわ・はんぺん・おでん、そして「お節料理」

Photo   年末になるとスーパーで売っているお惣菜が高くなる。今日はクリスマスでまだ平常価格だったが、おそらく明日になると正月商品が棚に並んでくる。普段100円だった蒲鉾が正月用の蒲鉾だと800円くらいする。高級品であるのはわかるが、100円商品が棚から消えるのは困る。うどんやお雑煮に入れる蒲鉾なら「寿」の文字や三色のものはいらない。値上がりする前に買っておこう。ソフトブレーン・フィールドが調査したところ、好きな「おでん」の具はダントツで大根が1位だった。以下、たまご、こんにゃく、ちくわ、餅入り巾着、はんぺん、牛すじ串、厚揚げ、じゃがいも、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれ、ちくわぶ、ウィンナー、ごぼう巻き、こんぶ、糸こん、ロールキャベツ、お豆腐、さといも、おでん餃子。年末の買い忘れないようにチェックしておく。

年越しそば、にしん、お寿司、雑煮の具、数の子、ごまめ、栗甘露煮、焼き豚、ロースハム、さといも、たけのこ、伊達巻き、黒豆、田作り、昆布巻き、生珍味、餅、串柿、みかん、とり肉、いくら、海老天、チーズ、ポテトチップス、チョコレート、ジュース、コーラ、牛乳、チーズ、ブロッコリー、サラダ、食パン、玉子、ごみ袋、乾電池。ああややこし、ややこし。

サンタの服が赤いのは!? 

Photo_4     一般に、イエスは12月25日に生れたとされている。「クリスマス」は「キリストのミサ」、つまりキリスト降誕を祝うミサを意味する。しかし聖書にはイエスの誕生の日付は記されていない。12月25日は、農耕神サトゥルヌスを讃えるサトゥルナリア祭やローマのソルとペルシャのミトラという太陽神の祝祭を合体させたものである。それらの異教の祝祭日を教皇ユリウス1世が西暦350年にキリスト教の誕生日であると宣言したことにはじまる。研究者によると、実際のイエスの誕生日は古代ユダヤ暦のエタニムの月(9~10月)だそうだ。初期キリスト教の伝道者たちはイエスの誕生を祝ったりせず、イエスの死だけを記念して祝った。もちろんサンタクロースの話などはイエスと無関係。小アジア(現在のトルコ)のミラの聖ニコラウス大司教に由来する。聖ニコラウスを意味するオランダ語がなまって「シンテルクラース」から派生した。今日の、赤と白の衣裳に白いあご髭をたくわえた優しそうなおじいさんのサンタは、当時の有名な画家サンドプロムが描いたコカ・コーラの広告(1931年)が世界中に広がって、知られるようになった。クリスマスにプレゼントを贈ったり、ゲームを楽しんだり、パーティで馬鹿騒ぎすることは、古代ローマ人の太陽の誕生を祝うという偽りの宗教に由来する習慣である。教会の指導者たちは、真理を教えることよりも、教会の信者席をいっぱいにすることに熱心になり、コンサートとか行事を催している。クリスマスに愛する異性と夜を過ごすという日本の風潮も嘆かわしいもの。世俗化・商業化されたクリスマスは地域経済の活性化に大きく貢献していると人はいうかもしれない。しかし経済的負担をかけることは神の崇拝とは無縁のことである。最近ではデパートなどショッピング・センター以外にも公共の場でも大きなクリスマス・ツリーをみかける。ツリーを飾る習慣は、ドイツで行われていた樹木信仰を取り入れたもので、19世紀以降に北ヨーロッパや北米に広まった。イエスをたたえるはずの時が、子供をだます時になるのはおかしなことではないだろうか?

2017年12月24日 (日)

インドの宗教

 インドの人口は2011年の国勢調査によるとおよそ12億人。人種的にも民族的にもきわめて複雑な構成を示している。先住民であるべトイン型やニグロイド型の人種のうえに、西北方から侵入したアーリア人によって代表されるコーカソイド型の人種の波がかぶさり、また東北部には、のちに北方から押し出されてきたモンゴロイド型の特色をもつ人種も存在している。このようにインドには、大別して4つの人種型がみられるが、それらが長い歴史の過程で相互に混血し合い、今日の複雑に人種的特色が形成された。2011年の国勢調査によると、全人口の79.8%がヒンズー教にあたる。きわめて複雑な民族構成をもつこの国の文化に一つの統一性を与えているのが、このヒンズー教の信仰とそれを中心に形成された独特の文化であるということがいえる。1961年と2011年との宗教別比較すると、ヒンズー教は83.5%から79.8%に減少している。かわってイスラム教が10.7%から14.2%と大きく増えている。このほかシク教徒1.8%から1.7%、ジャイナ教が0.5%から0.4%、仏教が0.7%、キリスト教が2.4%から2.3%と横ばいである。インドのイスラム化はつねに紛争の歴史といえる。インドを支配したイスラム教の国家は歴史的に概観すれば、10世紀中ごろのガズニ朝に始まり、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグラク朝、サイード朝、ロディー朝、スール朝、ムガール帝国と19世紀まで続き、インドの中世はイスラム支配であった。ラージプートは8世紀以来、北インド各地に小王国を形成し、イスラムに抵抗を続けた。

近代明治の西洋思想の受容

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       高山樗牛                   姉崎正治

    高山樗牛(1871-1902)は、はじめは井上哲次郎らと盛んに日本主義を唱えてキリスト教、仏教を攻撃した。だが明治34年頃からニーチェの哲学思想を讃美し、「美的生活を論ず」などの評論を発表、これをめぐって坪内逍遥、島村抱月らと論争を展開した。明治35年12月24日、危篤状態に陥ったとき、叔父に「自分は人生の光をみつけたが、これを世に伝えることは嘲風に頼みたい」と言い残した。32歳だった。遺言のなかの嘲風とは、友人で宗教学者の姉崎嘲風(姉崎正治)のことである。ともに「帝国文学」の発刊に携わり、宗教的色彩の強い文芸評論で知られた人物である。高山樗牛と姉崎嘲風との友情は厚く、二人の往復書簡は当代の青年層に大きな影響を与えた。明治の頃のニーチェの研究はまだ原典にもとづかない西洋流の解釈をそのまま紹介しただけのものだった。明治44年に生田長江によって初めて「ツァラツストラ」が刊行された。生田は初め夏目漱石に翻訳の助言を求めた。しかし漱石は断った。なぜ漱石は生田を嫌ったのか。それは底の浅い学問で有名になった樗牛を生田が崇拝したからだといわれている。大正期になると本格的なニーチェ研究がおこり、和辻哲郎や阿部次郎のようなすぐれた研究が盛んになる。

2017年12月23日 (土)

東条英機の命日

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    狐が檻の中のライオンを見て、そばにいって、ひどくばかにした。そこで、ライオンは狐に向かって言った。「私をばかにするのは、お前でなくて、私にふりかかった悲運だ」

    この寓話は石田三成や東条英機を思いおこさせる。三成は関ヶ原の戦場を脱出して近江の古橋村におちのびたところを捕えられ、京都六条河原で処刑された。

    本日12月23日は天皇陛下84歳の誕生日だが、東条英機の命日でもあることを知る日本人は少ない。昭和20年12月8日、占領軍は戦犯を指名した。近衛文麿は、軍事裁判の前に自決したが、東条は自決に失敗した。「生きて虜囚の辱をうくることなかれ」と布達した当の本人が、死にそびれたのだから惨めなことこのうえない。占領軍は皇太子(今上天皇)の誕生日(12月23日)をあえて選んで、東条英機を同日に絞首刑にした。

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2017年12月22日 (金)

小野篁

Photo  852年のこの日、小野篁の忌日。享年50歳。小野篁は病気を理由に遣唐使乗船を拒否したため隠岐に流された。彼の死から42年後、894年9月29日、菅原道真の建議によって遣唐使の廃止が決定した。遣唐使を派遣するには、唐の朝廷に対する朝貢品、使節・乗組員全員への支給物など膨大な費用を必要とする。しかし50年ほど前から疫病・凶作・飢饉が続いており、過重な財政に耐えられる状況ではなかった。また中瓘(ちゅうかん)より疲弊した唐の状況が伝えられた。遣唐使は停止されたが、民間の貿易、通交は以後も続いた。

    小野篁は不羈な性格で「野狂」ともいわれ奇行が多い。また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には、篁が閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがわれる。(12月22日)

2017年12月21日 (木)

2017年を騒がせた人

 今年もあと10日あまり。今年世間を騒がせた人は?小池百合子は致命的な戦略的ミスにより人気はガタ落ちした。政治家の言動や変節というのは影響力が大きい。芸能界で一番騒がせたのは船越栄一郎か。12月にようやく離婚が成立した。息子の逮捕という出来事があったベテラン俳優の橋爪功。生放送は苦手というが「ごごナマ」にゲストで登場。その際に不覚にも不適切発言で阿部アナが謝罪。将棋界では高齢の加藤一二三が「ひふみん」というあだ名で呼ばれる大ブーム。陸上界では桐生祥秀が10秒の壁を破る快挙達成。大相撲界は八百長相撲からようやく回復したと思ったが、モンゴル勢の跋扈は前途多難な課題がある。芸能界は今年も不倫ブーム。斉藤由貴が不倫を認め大河を降板。妻を寝取られた太川陽介がそれでも妻をかばい同情が集まる。ドラマでは低視聴率番組が続発、武井咲、篠原涼子らが惨敗。一方ではブルゾンちえみ、吉岡里帆、高橋一生らが好調。いちばん人気は上野のシャンシャンか。何事もついてない年もある。あせらずじっくりと、来年はよい年でありますように。

山で使う「キジ撃ち」と「お花摘み」の意味は?

Photo   登山などでトイレが無いとき用便を屋外でするときに使う言葉。「雉撃ち」は男性が山中の屋外で排泄すること。その姿が雉を撃つ猟師が藪に潜む姿に似ていることから命名された。女性の排泄はカワイく「お花摘み」といいます。花を摘む姿に似ているからでしよう。この言葉は広辞苑にも収録されていないがれっきとした登山用語。草陰に身を隠しても探しに来ないでね、という意味。山ガールなど若い人でも使うらしい。英語表現では、shit in the woods (森で大便をする)。日本語では「野グソ」「脱糞」「用便」「排便」などいろいろあるが「キジうち」「お花摘み」は最高。(参考:田部井淳子著「山の単語帳」世界文化社)

土佐日記の門出

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平4年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。   

   紀貫之(868-945)は、4年前(930年)に土佐守となって赴任し、任果ての934年12月21日、帰京日記が有名な「土佐日記」である。国府(高知)→奈半(奈半利)→室津(室津)→泊→土佐の海(鳴門)という海岸線のコース。

2017年12月20日 (水)

史上最大の海難事故ドニャ・パス号の沈没

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   史上最大の海難事故は、あのタイタニック号ではなくてドニャ・パス号である。1987年12月20日、フィリピンタブラス海峡で客船ドニャ・パス号が沈没した。死者は公称では1575名(定員1518名)だが、実際は4375名の死者を出していた。これは史上最大の海難事故である。ちなみにタイタニック号の犠牲者は1513名といわれる。

    ドニャ・パス号はもともと1963年、尾道造船で建造された琉球海運の「ひめゆり丸」(定員608名)で、元の面影がなくなるほどの改造で1493人の定員に増加されていた。ところが当日はクリスマスを5日後にひかえた帰省客で切符のない人が多数乗っていた。乳幼児や兵士たちもおり、4000人以上が乗っていたと推測される。乗客の証言によると、満杯の乗客で船は初めから傾いていたという。しかし、悪天候の中、定員オーバーで、レイテ島のタクロバンからマニラへ向けて出航した。フィリピン国内航路では、乗客名簿が徹底されていないことが、後で大きな問題となった。

    事故は夜中の10時に起こった。ミンドロ島附近のタブラス海峡で小型タンカー「ビクトル号」と衝突した。ビクトル号には8000バレル以上の石油や灯油を積んでおり、大爆発を起こし、火災となった。パニックになった乗客は海に飛び込んだが、多くの人は燃える海で焼け焦げて死んだ。生存者はわずかに乗客24人、乗組員2人だった。ミンドロ島にはたくさんの焼死体が流れ着いた。

    衝突の原因は過載積による機動性に欠けるドニャ・パス号の操縦ミスと考えられるが、海事調査委員会の結論は、スルピシオ社に責任はなく、ビクトル号側にあるものとした。ビクトル号には適切なライセンスをもった航海士や見張りもなかった。またなぜ2隻の船は無線で交信しなかつたのか、事故当時、生存者の証言からドニャ・パス号の船上では乗組員らがパーティーをしていたという話もあるが、結局は事実の解明はなされなかった。こうして史上最大の海難事故ドニャ・パス号沈没事故は謎のまま20年以上が過ぎて人々の記憶から忘れさられようとしている。

     1980年代はソ連軍による大韓航空機サハリン沖撃墜事故・死者269人(1983.9)、日航ジャンボ機墜落事故・死者520人(1985.8)、大韓航空機爆破事件・死者115人(1987.11)など飛行機事故・事件も相次いだ。だが史上最悪の惨事であるドニャ・パス号沈没事故が吉川弘文館「世界史年表」など多くの記録にないことは一つの謎である。日本の中古貨物船の払い下げが悲惨な事故の背景であることの事実を隠蔽しようとする日本人の体質なのだろうか。Dona Paz

2017年12月19日 (火)

クリスマスソングは嫌いですか

Frankbing003_zpsa7e5b6c6  FNS歌謡祭で男前の俳優ディーン・フジオカが得意の英語で「クリスマス・ソング」を披露した。シナトラやナット・キング・コールでお馴染みの曲なので歌唱は声量不足でやや微妙かな。オーストラリアのラジオ局が1984年のワム!のヒット曲「ラスト・クリスマス」を24回にわたって立て続けに放送し、リスナーたちから抗議が殺到したという。また英国人の25%がクリスマス音楽の繰り返しが心の健康に悪影響を及ぼしたり、もう聞き飽きてうんざりだという声がある。一方で、クリスマスソングがBGMで流れるとウキウキして買い物をしたくなるという効果もあるらしい。やはり世界中で人々はクリスマス・ソングを聴くことを楽しみにしている人のほうが多い。最近の人気曲は松任谷由美「恋人がサンタクロース」、山下達郎「クリスマス・イブ」、B'zの「いつかのメリー・クリスマス」、稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」、辛島美登里「サイレント・イヴ」などいろいろある。私にとってのクリスマスソングは「ホワイト・クリスマス」である。極め付きはやはりビング・クロスビーの歌唱。YouTubeで探すと「フランク・シナトラ・ショー」(1957年)で男2人の歌唱が聞ける。ゲストのビングが自分のレコードとピザを持ってシナトラの部屋を訪問する。「赤鼻のトナカイ」(ビング)、「サンタが町にやってくる」(シナトラ)、「クリスマス・ソング」(2人で)を歌ったあと、ビング・クロスビーが窓の外の雪景色を眺めながら、「ホワイト・クリスマス」を静かに歌いあげる。

   一般に「三大クリスマス・ソング」といえば、「ジングル・ベル」「サンタが街にやってくる」「赤鼻のトナカイ」である。このほかに「ザ・クリスマスソング」「ウィンター・ワンダーランド」「ブルー・クリスマス」などがポピュラーである。1970年代以降の新しいクリスマスソングではジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」などがある。あなたにとっての思い出のクリスマスソングは何でしょうか。

ハリウッド著名人のセクハラ騒動

   アメリカのオンライン英語辞典「メリアム・ウェブスタ」の今年の言葉に「フェミニズム」が選ばれた。女性に対する差別発言を繰り返すトランプ大統領の就任をきっかけに抗議デモが広がっていることや、ハリウッドのセクハラ騒動が理由にあげられる。「恋におちたシェイクスピア」「シカゴ」でプロデューサーとして知られるハーヴィー・ワインスタインからセクハラを受けた女性が次々と被害を告白するようになった。これに続いてケビン・スペーシー、ダスティン・ホフマン、スティーブン・セガール、ジェレミー・ピヴェンなど俳優やブレット・ラトナー監督、ジェームズ・トバック監督からセクハラを受けたとする被害者が声をあげるようになった。Break the Silence(声を上げよう) 著名人のセクハラ疑惑の動きはまだまだ広がるかもしれない。

ユン・ポンギル

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File1238   1932年4月29日、上海爆破事件がおこる。上海で行われていた天長節官民合同祝賀会で、突然壇上の後ろから手榴弾が投げられた。そのため壇上に並んでいた上海派遣軍司令官白川義則大将、第三艦隊司令長官野村中将、駐華公使重光葵らが倒れ、白川大将は重傷を負って入院、5月26日に死亡した。重光は片足を失い、野村は負傷した。犯人は朝鮮人・尹奉吉(1908-1932)で、日本帝国主義反対のテロ行為だと胸を張り、現場で取り押さえられた。12月19日、金沢で銃殺刑に処せられた。今年4月29日、金沢市で尹奉吉の記念館が開館する。記念事業会側では「上海にも記念館はあるが、尹義士が立ち向かい殉死した日本に記念館ができることは意味がある」と話している。日本でもお馴染みの人気女優ソン・へギョも尹奉吉記念館の建設には協力している。ユン・ポンギルの名前は韓国で小学校で教わり、だれもが知っている抗日の英雄である。日本では歴史専攻の大学生でさえ、その名前を知る人は少ない。

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2017年12月17日 (日)

「け」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Pic4    トルコ革命の指導者ケマル・アタテュルク。本名はムスタファ・ケマル。「アタテュルク」とは「父なるトルコ人」という意味の称号。ケマル・パシャともいうが、パシャは軍司令官に与えられる称号。

ゲアハルト・ハウプトマン
ケアリー・マリガン
ケイ・フランシス
ケイト・グリーナウェイ
ケイト・モス
ゲイル・ラッセル
ケヴィン・クライン
ケヴィン・コストナー
ケヴィン・スペーシー
ケヴィン・ベーコン
ゲオルギ・ディミトロフ
ゲオルギー・プレハーノフ
ゲオルギー・マレンコフ
ゲオルギオス・ツァラゴグル
ゲオルク・ウィッティヒ
ゲオルグ・イェリネック
ゲオルク・オーム
ゲオルク・カイザ
ゲオルグ・クリストファ・アインマルト
ゲオルク・ケルシェンシュタイナー
ゲオルク・ジーモン・オーム
ゲオルグ・ショルティ
ゲオルク・ジンメル
ゲオルク・フォン・ヘルトリング
ゲオルク・ミヒャエリス
ケーシー・アフレック
ケーティー・ホームズ
ケート・ウィンスレット
ケート・キャプショー
ケート・ハドスン
ケート・ブランシェット
ケート・ベッキンセール
ケート・ボズワース
ケネス・クラーク
ケネス・コールグローブ
ケネス・スコット・ラトゥレット
ケネス・ノーランド
ケネス・ブラナー
ケネス・モア
ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー
ゲラルドゥス・メルカトル
ケーリー・エルウェス
ゲーリー・オールドマン
ゲーリー・クーパー
ケーリー・グラント
ゲーリー・シニーズ
ゲーリー・ビジー
ケリー・マクギリス
ケリー・ラッセル
ケリー・リンチ
ゲルト・フォン・ルントシュテット
ゲルト・フレーべ
ゲルハルト・ベルガー
ゲルハール・ヘンリック・アルマウェル・ハンセン
ゲルマン・チトフ
ケン・アナキン
ケン・ローチ
ケンドリック・ラマー

今年印象に残った言葉

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   2017ユーキャン新語・流行語大賞は「インスタ映え」「忖度」に決まった。今年の漢字は「北」。いまひとつ盛り上がりに欠ける一年だった。神ってる(16)トリプルスリー、爆買い(15)ダメよ~ダメダメ、集団的自衛権(14)、お・も・て・な・し、じぇじぇじぇ、今でしょ!、倍返し(13)。ここ数年の流行語はほとんど印象にない。自分が時代についていけてないのだろう。むしろ「体ほぐしてもらっているだけ」(藤吉久美子)「一線を越えていない」(斉藤由貴)が印象に残った。

  マイブームはディスコでギンギンにノリノリに踊りまくり青春をエンジョイすること。そしてカワイ子ちゃんアタックして温泉マークレッツゴーアンネが来なくてやったぜベイビー。

  何が死語で、死語でないか、の判断はむずかしい。たとえば豊かな体つきの女性を「グラマー」というが、なんとなく古臭く感じる言葉だ。マルティメディア、IT化、金融ビッグバン、ルーズソックス、ポケットベル(ポケベル)、水平思考、ぶりっ子、ハウスマヌカン、ボデコンなどもほとんど今では使われることはない。

   お笑いコンビ「パイレーツ」(浅田好未・西本はるか)のギャグで、胸の谷間を強調するような仕草とともに「だっちゅうの」と言うキメゼリフ。いまではほとんど用いない言葉だが、1998年の流行語大賞である。ちなみに乳房の間のくぼみのことは、英語でクレイヴィジ(cleavage)というが、わが国では人体解剖学においては乳房間溝(にゅうぼうかんこう)と呼ぶのが正式名称である。

シューベルト「未完成」

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「シューベルトと婚約者テレーゼ・グローヴ」 オットー・ノーヴァク(1874-1950)の絵

 青春の夢と希望は未完のまま美しく閉じられる。

   1822年秋、25歳の青年フランツ・シューベルト(1797-1828)は「交響曲第8番ロ短調」を書き上げた。この曲が「未完成」と呼ばれるのは、当時の交響曲がふつう第4楽章だったのに、シューベルトは第3楽章を書きはじめたところで作曲を中止してしまい、2度と取り上げなかったためである。理由はわからない。往年の映画「未完成交響楽」(1933年)を見た人は「我が恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と失恋のためと理解したがるが、もちろん後世のフィクションである。実際にはテレーゼ・グローヴという歌の上手い女性がいたそうだが、3年後にパン屋に嫁いでしまった。「未完成」は、曲の外観が未完成であるがゆえに、シューベルトの生前にはついに演奏されなかった。シューベルトの親しい友人だったヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーが「未完成」の自筆楽譜のある場所をウィーンの高名な指揮者ヨハン・ヘルベックに教え、ヘルベックの尽力で自筆楽譜は世に出、かつウィーンで初演されたのだった。初演は1865年12月17日、作曲者の死後37年、作曲から実に43年間が経過していた。この日は奇しくもベートーベンの誕生日。生前、栄光が与えられなかったという点では、シューベルトはベートーベン以上に悲劇の天才であった。

2017年12月16日 (土)

ボストン茶会事件

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   1770年3月5日、ボストンで重い税金に反対した市民とイギリス軍が衝突。兵士が群集に向けて発砲し死者5人。1773年12月16日、インディアンに変装した急進的愛国派がボストン港に停泊中のイギリス船に侵入し、積み荷の茶を海中に投げ込んだ。組織したのはサミュエル・アダムズ(1722-1803)といわれる。この事件を植民地政策への挑戦と受け取ったイギリス側はアメリカに対する制裁をしたため、独立戦争へと発展していく。(Boston Tea Party,Samuel Adamus) 世界史

2017年12月15日 (金)

風と共に去りぬ

090525_r18492_p465  南北戦争をはさんだスカーレット・オハラの波乱万丈の人生を描く「風と共に去りぬ」。1939年のこの日、アトランタで映画「風と共に去りぬ」が封切り。(12月15日)

2017年12月14日 (木)

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても何故日本人は復讐劇の忠臣蔵が好きなのだろうか? (12月14日)

2017年12月13日 (水)

赤穂義士銘々伝・吉良邸絵図面取り

    赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。

赤穂義士銘々伝・赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。

           徳利の別れ

  さげた徳利を 撫でながら

  仇を討つ日は 何時のこと

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

  夢で兄者が また叱る

          *

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

  酒は呑んでも

  呑まれちゃならぬ

  武士の心を忘れるな

  体こわすな源蔵よ

  親の無い身にしみじみと

  叱る兄者が懐かしい

            ▽                 ▽

  迫る討入り

  この喜びを

  せめて兄者によそながら

  告げてやりたや知らせたい

  別れ徳利を手に下げりゃ

  今宵名残の雪が降る

赤穂義士銘々伝・神崎与五郎、堪忍の詫証文

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   神崎与五郎則休(1666-1703)。代々、美作津山森家に仕えた武士の家に生まれ、その少年時代を津山の城下町で過ごした。森家改易の後、赤穂浅野家に召し抱えられ、五両三人扶持と役料五石が与えられた。

    元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えてわずか5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であり、お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、このたびも、その機敏、堅実、忍耐と三拍子そろった人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎに急ぎ、やがてさしかかったのが箱根の山であった。とある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとりはいってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。与五郎も思わず無礼者め!と刀の柄に手をかけたが、いや待て、たとえ雲助ひとりでも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅くなると思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と涙をのんで大地に両手を突き、丑五郎のいうままに詫証文を書いて与えた。この話は最近の忠臣蔵ドラマなどでは、詫証文を書くだけでは物足りないと感じたのか、与五郎が馬方の股をくぐるシーンが見られる。詫証文にしろ股くぐりにしろ、真偽のほどは明らかではなく、韓信の股くぐりの故事から講釈師が採った逸話のようであるが、これが大人気となった。

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2017年12月12日 (火)

忠臣蔵脱盟者たちの知られざるその後

374b0c11e5fffb584596e021637277ed   刃傷事件が起こってから討ち入りまでの1年9カ月の間、さまざまな理由で義士になれなかった者たちがいる。家老の大野九郎兵衛は「逐電家老」と罵られ、岡林直之は「一家の恥」と責め立てられ、切腹に追い込まれた。小山源五右衛門、進藤源四郎、小山田庄左衛門、高田軍兵衛、毛利小平太、萱野三平、瀬尾左坐衛門なども討ち入りには参加できなかった。瀬尾は池宮彰一郎の小説「四十七人の浪士」では大石の命でお軽とその子の面倒を頼まれて脱盟したことになっている。

   赤穂浪士の1人、奥野将監定良(1647-1727)が隠れ住んだという屋敷跡が兵庫県加西市下道山にある。加西市の一部は赤穂藩の飛び地の領地だったらしい。将監は、赤穂藩で大石良雄に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、大野九郎兵衛に代り、大石と明け渡しに努力し、最初の義盟にも加わった。しかし元禄15年7月、浅野家再興が不可能になると、8月、奥野弥五郎と共に脱盟した。その後、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えた。奥の墓石は将監の娘の子の墓と伝えられる。将監はその後、現在の中町の延明寺に移り住んだ。享年は82歳といわれ、長命だった。

年寄りの聞き違い、いえ音韻連鎖です

T02080600_0208060011054087923   「パプアニューギニア」と発音すると、なぜか「パパは牛乳屋」と聞える、どことなく似ていると思いませんか。これを音韻連鎖というそうです。ある課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし脱ぎ始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸が見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き違いにご用心。

   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、「美文字研究家」と「いぼ痔研究家」。(9月16日)

ラディゲとベアトリス

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 ベアトリス・ヘイスティングス

    1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2017年12月11日 (月)

リメイク作品はオリジナルを超えられるか?

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   市川崑や木下恵介が晩年、自らの作品をカラーで再映画化した。なぜ大監督は再映画化したがるのかその心理はよくわからない。リメイク作品がオリジナルより良いという例はほとんどない。アクションや特撮ものであれば技術の向上により面白い作品に仕上がるケースはある。しかし小津安二郎などの名作をリメイクすることは、かなり冒険に近いことである。山田洋次はここ数年、小津作品に関心を示している。既に舞台の演出で「麦秋」「東京物語」を手がけてきた。そして「東京物語」をモチーフに、舞台を現代に移し、家族の在り方を描く「東京家族」の制作を発表している。映画「東京物語」は世界の映画監督が選んだ「最も優れた映画」の第1位に選ばれた作品である。英国BBCは「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつく上げた」と評価した。

 小津作品のリメイクには高いハードルがあるだろう。当初予定していた主演演級の菅原文太、市原悦子、室井滋らは降板するという異例の事態となった。そして小津作品リメイクに対して「天を恐れぬ所業」(河谷史夫)との批判も噴出した。映画は観てから批判すべきだと思うのだが、なにやら暗雲がただよう。芸術は既成の名作を破壊して新しいものを創造していくことに真価があるとおもうのだが、80歳を過ぎた巨匠にはやはり過去をよりどころにするしかないのであろう。映画界も話題性と安全性とでリメイク映画が生れるのだろうか。

ハリウッドも最近リメイクブームが続いている。CG技術の向上で、スペクタクル作品が安価で作られるようになり、知名度の高い作品は映画興行だけでなく、ソフトコンテンツの収益が見込まれるからだろう。「ベンハー」「オリエント急行殺人事件」、テレビ版「戦争と平和」などなど。旧作を超えることは難しい。

漢帝国の全盛と西域経営

5199031764146760844   前141年、16歳で即位した武帝は、54年にわたって漢帝国の頂点に君臨した。そしてこの時代こそ、西漢王朝の全盛期といえる。国内に大きな争いはなく、国力は充実し、首都長安には莫大な銭や穀物が備蓄されていた。国庫に納められた穀物のなかには、あふれて腐るものも少なくなかった。

   武帝は自制心に欠け、激高しやすい性格ではあったが、政権運営の面においては有能さを発揮し、積極的な対外政策にも打って出る。前127年には衛青がオルドス地方(現・内モンゴル自治区の西部)を奪回し、前121年には霍去病が祁連山に進出し、匈奴に大勝利を収めた。これにより漢王朝は中央アジアへ勢力を拡大し、同地方への漢人の入植が促進されるのである。また、武帝は同時期に外交政策として前139年に張騫を西域へ派遣。張騫が西域に送られた目的は、西のイリ地方に建っていた大月氏と結ぶことで匈奴を挟み撃ちにするということがあったが、大月氏の拒否に遭い、目的は果たせなかった。だが、その代わり、張騫がバクトリアやフェルガナに辿り着いたことで現地の事情を深く知るとともに、遠くローマ帝国の情報を知り得ることができ、漢王朝に多大な貢献をもたらすことになる。事実、漢王朝はその後の前104年、前102年、前42年に西域へと進軍することでいわゆる交易路の「シルクロード」を開いた。

武帝時代 年号の創始・建元、皇帝の権威誇示

中央集権体制の完成

儒教の官学化 董仲舒の献策 五経博士の設置(参考:小倉芳彦「孔子から董仲舒へ」古代史講座12)

官吏任用法として 郷挙里選を制定

塩・鉄・酒の専売

経済政策 均輸・平準法 五銖銭の流通

対外政策 匈奴討伐 将軍衛青・霍去病派遣

西域経営の拠点として武威・酒泉・張掖・敦煌の4郡設置

李広利は軍馬を求め、フェルガナ(大宛)に遠征

衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡以下4郡を設置

巫蠱の乱 宮廷内での権力争い。巫蠱(ふこ)とは、木の人形を土中に埋め、これを呪詛する邪信仰。(世界史)

  漢武帝関係文献目録
漢・武氏祠画像題字 書跡名品叢刊 田中有解説 二玄社 1979
漢武帝 尹湘豪編著 南昌・江西人民出版社 1981
雄才大略的漢武帝(祖国双書) 劉修明 上海人民出版社 1984
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
楚漢春秋 漢武故事 漢武事略 叢書集成初編 中華書房 1991

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

Photo   銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツが店頭でよくみかける今日この頃。日本独自のもので外国にはない(韓国にはあるかもしれない)。戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

2017年12月10日 (日)

多読多憶、情報の保存と検索(雑学図書館)

Img_2605s     1851年のこの日、米図書館学者メルヴィル・ルイス・コシュート・デューイが誕生した。彼は「デューイ十進分類法」で知られる。図書館を「人類の記憶装置」というけれど、10万冊の本が並んでいれば、たいていの人は目的の本を見つけることは労力を要する。図書館の本の並び方には法則があって、日本なら「日本十進分類法」に従っている図書館がほとんどである。主題によって0から9までの数字に大きく分けられており、さらに細分されている。もちろん自分の探す目的がはっきりしていればいいのだが、「何か面白い本はないか」と気ままに本を探したいときはどうすればよいか?分類「0」は総記といって、この世のすべての事象に関することを扱っている。百科辞典などが多いが、「049」という記号の本は「雑書」である。general miscellanies。特定の主題に分類できない本がここにくる。「雑学百科」という類の本もあるが、どこにも分類できない変な本も多い。「生協の白石さん」や町のヘンなものを集めた「VOW」シリーズや「イグ・ノーベル賞」もここに分類されることが多い。049は駄本も多いが、思いもかけない本が見つかる場合もある。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していた。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワードで検索できるシステムが開発された。目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。(12月10日、雑学ブログ)

義挙成功の影の功労者、寺坂吉右衛門の墓

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  曹渓寺 寺坂吉右衛門夫妻の墓

    1747年、寺坂吉右衛門信行は、83歳で死去した。寺坂は軽輩ながら特に認められて義盟に加えられた。47士のうち足軽は信行ひとりである。芝高輪の泉岳寺には義士と称する墓は48基ある。はじめは46基だったが、慶応4年に寺坂信行の供養墓が建てられ、明治4年に萱野三平の供養墓が建てられ、48基になった。なぜ赤穂四十七士というのだろうか。そもそも忠臣蔵は47でなければならなかった。仮名手本忠臣蔵は「いろは四十七文字」に47人の義士がなぞらえているからである。そこで古来から義士が46人か、47人かで意見が分かれる。とくに寺坂信行が泉岳寺へ引き揚げる途中、姿を消したことをめぐって諸説紛々たるものがある。要約すると、信行は吉良邸に討ち入らず門前から逃亡したという説と、本懐達成の後、報告をさせるために逃亡者に仕立てたという密使説とに分かれる。むかし神戸大学の八木哲治教授が古文書を仔細にあたり、赤穂義士46人説をとなえたところ、郷土史家や市民から感情的な反論がでたことがある。信行を赤穂義士に入れるか外すは、現在でも一般の関心が高い問題であった。歌舞伎の忠臣蔵が47人が絶対数であることは寺坂にとって有利である。最近の忠臣蔵ドラマでは寺坂が討ち入りに加わり、刀を取って奮戦しているものもある。だが脚色された話ではなく、歴史の真実が知りたい人も多いだろう。寺坂の墓は高輪泉岳寺とは別に本当の墓が麻布の曹渓寺にある。伊藤十郎太夫に仕えたのち、旗本山内主膳に仕え、83歳で他界した。墓の隣には、妻せんの墓があることがその後の穏やかな人生を物語っている。寺坂の死は赤穂義士たちの切腹から46年後のことであった。寺坂の墓は全国各地に7か所もある。長崎の久賀島にはこのような逸話が伝わる。寺坂が討ち入り前に、長崎五島の久賀島に行き深堀騒動で流刑の身の志波原羽右衛門を訪ね、これを大石内蔵助に報告し、内蔵助は吉良邸討ち入りの手本としたとされる。また2度目はそのお礼と報告のために久賀島を訪ねるが、志波原はその前年に遠島を許され、深堀に戻っていた。しかし、寺坂は、久賀島の福見の里の恵剣寺に住みつき、83年の生涯を終えており、寺には墓もある。(10月6日)

2017年12月 9日 (土)

MGMが一番好きだった

  洋画会社。20世紀フォックス、ワーナーブラザーズ、パラマウント、ユニヴァーサル、ディズニーなど。映画みるときあまり気にしていないけど。「カサブランカ」「エデンの東」「大脱走」はワーナー、ハリーポッターもワーナーだけど、なぜかUSJでイベントしている。パラマウントは「ローマの休日」「ゴッドファーザー」、ユニヴァーサルは「ET」「スティング」、フォックスはマリリン・モンローやスター・ウォーズ。コロンビアは「ナバロンの要塞」でいまはソニーが買収している。最近好調のディズニーが20世紀フォックスを買収しようとしているらしい。ライオンが吠える映画マークのMGM、ミュージカル映画「雨に唄えば」「バンド・ワゴン」「巴里のアメリカ人」など、どれも楽しかったなあ。

ミネルバの梟は夜飛び立つ

   学問の発祥地のアテネにはミネルバの森がある。この森には梟が住んでいて、森が暗くなると、梟が飛び立って、道筋を照らすという。ギリシア神話の女神アテナは、梟をお使い鳥とし、アテネ市を保護下においていちばんに栄えた。梟はアテネの銀貨の図柄に用いられた。「ミネルバの梟は夜飛び立つ」といえば、知識の象徴である梟は「夜」すなわち「人生の晩年」になって飛躍する、という意味にも使われる。

   ドイツの哲学者ヘーゲルは「法哲学」の序言で「ミネルバの梟は夕暮れになるとはじめて飛翔する」とある。つまり学問といものは現実のあとを追うものである、という意味にも使っている。

難しい歴史クイズ

Henricus_martellus_germanus_wirkung   人類が歩んできた道、歴史は無数の事実の集積でできている。歴史学とは多読と多憶が大事。世界の国家・都市・人物・事件・文芸作品・文化遺産などさまざまな項目の中から、大学入試問題のように限定されたものではなく、マニアックな珍問、難問、奇問など、重箱の隅をほじくるような悪問ばかりです。さあ、みんなでチャレンジしてみよう!

問1.オスマン帝国がロシアにダーダネルス・ボスポラス両海峡の自由航行を認めた1833年の条約名は?

問2.ガーフィールド大統領の暗殺を契機として1883年にアメリカで制定された公務員任用法を一般に何というか?

問3.日本に初めて暦を伝えた人物は?

問4.アメリカが第一次世界大戦に参戦する契機となったのは何という船が撃沈されたからか?

問5.ナポレオンは生涯に2度も島流しにあっているが、最初に流された島はどこか?

問6.米使ペリーが浦賀来航したときの徳川将軍は?

問7.昭和20年8月15日。このときの内閣総理大臣は誰?

問8.女人禁制だった富士山の山頂登山に初めて成功した女性は誰?

問9.漢代、15歳から56歳までの男女に課された人頭税を何という?

問10.ローマ教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世に監禁された事件は?

問11.ヨーロッパ11世紀ころに各都市に成立した商人の同業組合を何というか?

問12.諸葛孔明が宿敵・魏との戦いのさなかに陣中に没した場所は?

問13.西ローマ帝国最後の皇帝は?

問14.近代以前の中国が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んでその統治を認め、従属的関係を維持した政策を何というか?

問15.鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄を命じた法令を何というか?

問16.ニュートンの「プリンキピア」をフランス語に初めて翻訳した女性は?

問17.イタリア王国最後の国王は?

問18.フランス軍がスーダンに占領するなか、イギリス軍と衝突した事件、フランスが撤退したことで戦争は回避されたがこの事件とは?

問19.もとは兜をかぶるためであったが、江戸時代、頭頂の半月形に剃り落とした男子の髪型を何と言う?

問20.世界初の女性首相は?

問21.アメリカ初代大統領はジョージ・ワシントン。第2代大統領は?

問22.東海道の宿場町は53。では中仙道の宿場町の数は?

問23.明治15年、岐阜遊説中の板垣退助を襲った暴漢の名前。

問24.訪日した最初の現職米大統領は?

問25.1991年、東ティモールのディリで独立を求めるデモ行進中の市民に対してインドネシア国軍が無差別発砲した事件は?

問26.1944年7月のブレトン・ウッズ協定に出席したイギリスの経済学者は?

問27.エジプトのギゼ三大ピラミッドで一番大きいのは?

問28.19世紀帝国主義の時代、各国は利害関係から同盟を結んだりしたが、独力で海外進出して「名誉ある孤立」としてどこの国とも手を結ばなかった国は?

問29.聖徳太子の父親の名は?

問30.イギリスで唯一、軍人から首相になった人物は?

問31.明智光秀を竹槍で殺したといわれる人物は?

問32.歴代アメリカ大統領の中で暗殺されたのは何人?

問33.初代内閣総理大臣は伊藤博文。では2代目は?

問34.古代エジプトの第1王朝とか第18王朝のように、最初に番号で表した人は誰?

問35.島原・天草一揆の指導者である天草四郎時貞の洗礼名は?

問36.イスラム教の聖地にあるメッカの中心部にある、石造りの神殿といえば何か?

問37.17世紀末以後のイギリスの政党で、王権による伝統的支配体制を擁護し、ホイッグ党と対立した政党は?

問38.初めて紅茶を飲んだ日本人は?

問39.ペルーのフリアカにある空港の名前にもなっているインカ帝国の初代皇帝は?

問40.870年に東西のフランク王国が結んだ条約で、独・仏・伊の原型が成立した条約は?

問41.383年に前秦と東晋との間に起こった戦いは?

問42.源頼朝が征夷大将軍に就いたときの年号は建久。では徳川家康が征夷大将軍となったときの年号は?

問43.マルティン・ルターがザクセン選帝候フリードリヒに保護され、聖書の翻訳をしたワルトブルク城のあるドイツの州(ラント)は?

問44.ナポレオン1世がオーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世の連合軍を破った戦いは?

問45.巨大なゼウス神殿や彫刻「瀕死のガリア人」などのヘレニズム美術が作られた前3世紀から前2世に栄えた小アジアの国は?

問46.応仁の乱後に一般化した市の形態で、月に6回開く市を何と言うか?

問47.石清水八幡宮を本所とする大山崎油座の扱った油は何の油か?

問48.ギリシアの三大悲劇詩人。アイスキュロス、ソフォクレス。あと1人は誰れ?

問49.鎌倉・室町時代に盛行した禅僧の肖像画を何というか?

問50.18世紀前半のオスマン帝国の盛時をチューリップ時代という。では17世紀から18世紀にかけて「太陽の没することなき帝国」といわれたスペインの黄金時代は何と呼ばれるか?

問51.初期キリスト教徒の地下埋葬墓地。迫害弾圧のときはここに集まり、その信仰を守ったところを何というか?

問52.「この頃みやこにはやるもの、夜討、強盗、にせ綸旨…」ではじまる政治批判の落書を何というか?

問53.1865年に石器時代を大きく旧石器と新石器の時代に区分したイギリスの考古学者は?

問54.本名、矢崎鎮四郎(1863-1947)といった明治の小説家は?

問55.コロンブスが大西洋を西に向かった最初の航海のときに乗った帆船名は?

問56.著書がその身長と比べられるほどあったという江戸時代の儒者、伊藤長胤(いとう ちょういん)の号は?

問57.アメリカの歴代大統領で、最も若くして死亡したのは46歳だったJ・F・ケネディ。では日本の総理大臣で寿命の最も短かったのは?

問58.初めてアマゾン川を探検した日本人は?

問59.キリシタンに迫害を加え、残酷な処刑をおこなった島原城主で、島原の乱の原因をつくった島原藩主は?

問60.「古事記 下巻」でおしまいに登場するいちばん最後の天皇は?

問61.マルティン・ルターが隠れて聖書をドイツ語に翻訳していたアイゼナハにある古城は?

問62.フランス革命で処刑されたルイ16世やマリー・アントワネットの墓はどこにある?

問63.「美しき青きドナウ」などを作曲した「ワルツ王」と呼ばれたオーストリアの作曲家は?

問64.二・二六事件当時の首相は?

問65.明治17年、自由党の過激派が茨城県で暴動をおこした事件は?

問66.殷を滅ぼして黄河中流域を支配した中国の王朝は?

問67.1414年から1417年にかけて教会の大分裂(シスマ)解決を主目的としてドイツ南西部の小都市で開かれた公会議とは?

問68.秦兵馬俑を1974年の第一発見者の名前は?

解答:問1ウンキャル・スケレッシ条約。問2ペンドルトン法、問3百済の僧・観勒、問4ハウサトニック号、問5エルバ島、問6徳川家定、問7鈴木貫太郎、問8高山たつ、問9算賦、問10アナーニ事件、問11ギルド、問12五丈原、問13ロムルス・アウグストゥルス、問14冊封体制、問15徳政令、問16エミリー・デュ・シャトレ侯爵夫人、問17ウンベルト2世、問18ファショダ事件、問19月代、問20シリマボ・バンダラナイケ。問21ジョン・アダムズ。問22中仙道67。問23相原尚褧(あいはらなおぶみ)。問24ジェラルド・フォード。問25サンタクルス事件。問26ジョン・メイナード・ケインズ。問27クフ王のピラミッド。問28イギリス。問29用明天皇。問30アーサー・ウェルズリー(ウエリントン)。問31中村長兵衛。問32.4人。問33黒田清隆。問34マネト。問35ジェロニモ。島原の乱当時はフランシスコ。問36カアバ。問37トーリー党。問38大黒屋光太夫。問39マンコ・カパック。問40メルセン条約。問41淝水の戦い。問42慶長 。問43チューリンゲン。問44アウステルリッツの戦い。問45ペルガモン王国。問46六斎市。問47荏胡麻(えごま)。問48ソフォクレス。問49頂相。問50シグロ・デ・オロ。問51カタコンベ。問52二条河原の落書。問53ジョン・ラボック。問54.嵯峨の屋お室。問55.サンタ・マリア号。問56.伊藤東涯。問57.近衛文麿の54歳。問58.中村直吉。問59.松倉重政。問60.推古天皇。問61.ワルトブルク城。問62.サン・ドニ大聖堂。問63.ヨハン・シュトラウス。問64.岡田啓介。問65.加波山事件。問66.周。問67.コンスタンツ公会議。問68.楊志初(ようしはつ)。

漱石忌と則天去私

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

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Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2017年12月 8日 (金)

雑学研究室 第1集

Trivia_2 この世の中には、知らなくたって生きていくのに全然困らないのだけれど、知っていたほうが楽しく生きていけるというお話が無数にある。「新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来」「リンカンが髭をはやしたわけ」「山の頂上で叫ぶのは、なぜ「ヤッホー!」なのか?」なんて話、知らなくたって、日々の暮らし、仕事になんの支障もない。でも、知っていればそれだけでなんだか楽しくなるし、人に話せば喜ばれること、間違いなし。それが雑学の面白さなのだ。

 リンカーンとダーウィンは1809年の同じ日に誕生している。▽動作が鈍重な人を「のろま」というが、江戸中期の野呂松勘兵衛という人形の遣い手がルーツである。▽講談「天保水滸伝」でおなじみの平手造酒。モデルの平田深喜は笹川繁蔵の筆の師匠。剣ではなく書道の達人だった。▽サトウキビの糖蜜または絞り汁を発酵させて作ったラム酒。日本では「バナナ・ボート」の歌がヒットした頃、バーで飲まれるようになった。▽石崎秋子が上流家庭に家政婦として派遣され、その欺瞞ぶりを覗き見る市原悦子主演ドラマ「家政婦は見た」。もとの原作者は松本清張。▽茨城弁「ごじゃっぺ」意味は「でたらめ、いいかげん」。

Langues_de_chat3 ▽細長い独特の形をしたフランスのクッキー「ラング・ド・シャー」。 猫の舌のような形をしているのでそう呼ばれる。▽すしのバッテラは、ポルトガル語でボートを意味するバッテイラからきたもので、形が似ているから。▽宮本武蔵は大男で身長は6尺、およそ180㎝くらいあった。▽「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)がベストセラーになった頃、「にわとりのジョナサン」(アルブレヒト・ワインスタイン)も刊行された。▽かぐや姫が紅白歌合戦に出場することになった時、NHK側が「神田川」の歌詞の中の「24色のクレパス」は商品名なので、「クレヨン」に変えて歌ってほしいと言った。南こうせつは悩んだすえ、「歌詞の雰囲気が壊れる」と断り、出場を断念した。

Image1 ▽木版画を摺る際に用いられる「ばれん」を漢字で書くと「馬楝」▽「バカの壁」(養老孟司)というベストセラーがあるが、「アホの壁」(筒井康隆)という本もある。▽豊臣秀吉は右手指が6本あった。▽「女心と秋の空」は元々は「男心と秋の空」だった。▽日本で出版された本でタイトルの五十音に並べると間違いなく1番最初にくるのは、大槻あかね「あ」(こどものとも絵本)である。安藤富治「嗚呼硫黄島」もかなり最初にくるようだ。▽「キンコンカンコン」日本では学校で放送されているチャイムのメロディとして広く知られている。東京都大田区立第四中学校の教諭、井上尚美が1956年にロンドンのビッグベン(ウェストミンスターの鐘)をもとに使用したもの。それまでの鐘の音は空襲の警報や戦争のつらい思い出があるため、子どもたちがよみがえらせないためチャイムを考案したといわれる。(知らなくてもいい雑学,無用の雑学知識集、雑学ブログ) Langue de chat

実はシーザーは帝王切開で生まれていなかった?

 母親のお腹を切って赤ちゃんをとりだすことを「帝王切開」という。医学用語で、これをラテン語で「セクティオン・カエサレア」という。カエサルの出生が、こういう外科手術によったため、この言葉ができたと伝えられる。つまりカエサルは帝王切開で生まれたと考えるところだが、どうやらこれはちがうらしい。なにしろ帝王切開手術がはじまったのは、16世紀以降のことで、紀元前生まれのシーザーが帝王切開で生まれたというのは、つじつまがあわない。ラテン語で「切開する」は、caedereという。いっぽうシーザーは英語で書くとCaesarで、ひじょうにつづりが似ている。そのため両者が混同され、いつしか「シーザーの切開」という名前が誤ってシーザーに帰せられたのだといわれる。(世界史)

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2017年12月 7日 (木)

運命の赤い糸の伝説について

   昔から言い伝えで、結婚する男と女は、生まれたときからお互いの小指と小指が目に見えない赤い糸で結ばれているといわれている。この「赤い糸」の伝承は、いかにも西洋風に思えるが、ヨーロッパにはそのような伝承はなく、実は古代中国にあると考えられる。「南方熊楠全集3」の「月下氷人」の項に類似例が載っている。「唐の宰相張嘉、五女におのおの一糸を持てのれんのかげにならしめ、郭元振して前(すすんで)牽きえた者を妻(めと)らしめると、五色の糸のうち紅線(べにすじ)を引いて第三女を得た、とある。福引で嫁取りとは捌けた仕方だ」この話は『太平広記』に収められた唐代の「続玄怪緑」(李復言)の「定婚店」がもととなっている。「古事記」「日本書紀」にも「三輪山伝説」という話があり、赤い糸のルーツとする説もある(「雑学王 話のネタ大事典」河出書房新社 97p)

お誕生日のうた

  忘年会シーズン、カラオケの選曲に悩む方もおおいだろう。今年もさまざまな歌がつくられた。DAOKA×米津玄師「打上花火」、星野源「family song」、倉木麻衣「渡月橋」、椎名林檎「おとなの掟」、JUJU「いいわけ」、高橋優「ルポルタージュ」などなど。全世界ではもっとたくさん数えきれない歌がつくられている。では世界でいちばんよく歌われている歌は何か?世界中で一番歌われている歌として、ギネスブックにも登録されているのは、誕生日を祝うために歌われている「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」である。元歌は米国のミルドレッド&パティ・ヒル姉妹(Mildred J.Hill、Patty Smith Hill)が1893年に作詞・作曲した「グッドモーニング・トゥ・オール Good Morning to All」。1920年前後にGood MorningとHappy Birthdayを替えた歌が広まった。当初この歌は、幼稚園の朝の挨拶の歌として歌われていた。ところが、この歌のメロディに別の歌詞がつき、替え歌の「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」が歌われたところ、大ヒットし、全世界に広まることになった。1947年にビング・クロスビーが歌った「Happy Birthday」がレコード化されている。

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

2017年12月 6日 (水)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

映画のキス・シーン

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  戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)、

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2017年12月 5日 (火)

モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2017年12月 4日 (月)

ゴッホは恋多き男だった

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 シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール) 鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙

   フィンセント・ファン・ゴッホは37年の短い生涯で、愛した女性は数人いる。孤独のようにみえてかなりの恋愛体質である。カロリーナ・ハーネべーク(初恋の人)、従姉で子持ちの未亡人ケイ・フォス・ストリッケル(通称ケー)、マルゴ・べーへマン、アゴスティーン・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)、マルグリット・ガッシェ(医師の娘)。しかしシーンという名前の女性がいちばんよく知られているかもしれない。ゴッホのハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

Photo_2    1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。二人の20ヵ月間の同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

   この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。後年、ゴッホは手紙で「自分には愛とは相性が悪い」と書いている。

ゴッホの青年時代

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 雪の中の蒔き拾い 1884年

  ゴッホは、1853年3月30日、オランダのベルギー国境近くのブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師、母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性だった。ゴッホには兄がいたが数週間で死んだため、ゴッホが長子となった。両親は幼くして逝った子供をひどくいたみ、その子の面影を常にゴッホに影響したことは否めない。彼は頑固で気むずかしい少年で、ひとりで野原を散歩しては時を過ごし、弟のテオや3人の妹たちと遊ぶこともほとんどなかった。

    ゴッホは母親にすすめられ、10代の初めごろからスケッチや水彩画をぴんぱんに描いたようだ。ゴッホにはハーグで手広く事業をやっているセントという伯父がいた。この伯父の経営する画廊は、パリの有名な画商グーピル商会と合併していた。ゴッホは16歳で学校を卒業すると、伯父の紹介でこのグーピル商会ハーグ支店に就職し、美術館通いに熱中する。数年後、ロンドン支店、さらにパリ支店へ移った。その間に恋愛に失敗したり、宗教書に熱中したりして次第に職務にふさわしくない行動が多くなり、1876年に解雇された。その後はロンドン近くの寄宿学校の語学教師、ドルトレヒトの書店員などになったが、いずれも長つづきせず、一方、宗教への情熱はいよいよ高まって、1877年(24歳)アムステルダムへ出て牧師になる勉強をはじめた。そして翌年、ブリッセルの短期牧師養成所を終わると、みずから志願して貧しいベルギーの炭鉱ボリナージュにおもむいた。ここでの彼は熱烈な信仰心から、すべてを犠牲にして伝道に従事したが、結局は失敗し、それとともに宗教的情熱も薄れて、一年に近い放浪生活のなかから、1880年になってようやく画家としての道を選んだ。そして、ブリッッセル、ハーグ、アンベルスの各地で勉強をつづけたが、彼の描くものは絶えず労働者や農民など、現実の下層の人たちの姿であり、その周辺の生活、風景であった。しかもその間、貧困と病苦につきまとわれ、また二度、三度恋愛に失敗した。1883年9月、疲れ果ててドレスデンへ逃れ、同年12月にはヌエネンの両親のもとに移り、孤独に耐えつつ絵画に専念する。彼の初期の傑作といわれる「馬鈴薯をたべる人たち」(1885)は、こうした時期の作品である。

松下奈緒「ゴッホの青春 そして色彩が生まれた」で「なぜヌエネン時代は真っ黒な絵だったのか」という疑問を解き明かしている。若きゴッホが尊敬するオランダの画家レムブラントに憧れていたからだと説く。ゴッホに自画像作品が多いのもレムブラントからの影響の1つである。

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「黒いナポレオン」ボカサ皇帝

Bokassai1sized 1977年のこの日、中央アジアのジャン・ベデル・ボカサ終身大統領(1921-1996)は、国名を中央アフリカ帝国と改め、自らをボカサ皇帝と宣言し、国家予算の2倍にあたる2500万ドルを費やしてナポレオン1世を真似た豪華な戴冠式 を行った。その後独裁政治が続くと、国際的な非難が高まり、旧宗主国のフランスも政府打倒を画策しはじめた。1979年9月、ダヴィド・ダッコが無血クーデターに成功、共和制に戻った。ボカサを仏大統領ジスカール・デスタンは支援したため、彼の人気は急落し、選挙でミッテランに敗れる一因となる。(12月4日,Jean Bedel Bokassa)

2017年12月 3日 (日)

ただ風が吹いているだけ

   人は死んだらどうなるのか?中川信夫監督の「地獄」(1960)は血の池地獄、針山など日本古来の地獄絵をスクリーンに再現している。水木しげるワールドのようだ。先ず「死出の山」と呼ばれる険しい山がある。暗い山道を登っていき峠を越えると、明るくなってくる。見下ろす山の麓には、曼珠沙華の美しい花畑が広がっている。山を降りると大きな川が見えてくる。これがこの世とあの世の境界となる「三途の川」である。賽の河原では奪衣婆が亡者から衣類をはぎとり、懸衣翁が枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計る。最後に閻魔大王(映画では嵐寛寿郎が扮している)が死者の生前の罪を裁く。判決が下り六道の辻と呼ばれる道にそれぞれが進む。出演は天知茂、三ツ矢歌子。沼田曜一がネズミ男のような悪魔の友人を演ずる。

   年の瀬になると人は「死」を考える。これは老齢になるほど身に迫ってくる。今年も多くの有名人たちが惜しまれつつ世を去った。クイズダービーの篠沢教授。時代劇の大スター松方弘樹。子供のころ「伊賀の影丸」を芦屋会館で見た。ゲバゲバの藤村俊二。黒沢組の土屋嘉男。ムシュ、かまやつひろ「あのとき君は若かった」。時代屋の女房、渡瀬恒彦。ミニスカートを日本に紹介した野際陽子。「髪結いの亭主」ジャン・ロシュフォール、「恋するガリア」ミレーユ・ダルク。こうしてあげていると、はしだのりひこの訃報。長い闘病生活。歌詞のとおり「ただ風が吹いているだけ」。12月になって海老一染之助(83歳)、野村沙知代(85歳)、早坂暁(88歳)、深水三章(70歳)、真屋順子(75歳)らが死去。新しい年を迎えて星野仙一(70歳)の突然の訃報、死は誰にも突然にやってくる。夏木陽介さんを偲んで「太陽野郎」を聴く。ドロシー・マローン。男くさい西部劇にお色気をそえた女優さん。合掌。

小山田庄左衛門

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   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。

2017年12月 2日 (土)

日野草城

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。

日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

本当は火を使用しなかった北京原人!?(異説世界史)

Img_1548940_28906951_0    1929年12月2日、裴文中が中国・周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を発見した。

    これまで人類が初めて火を使ったのは50万年前の北京原人(学名ホモ・エレクトス・ペキネンシス)と考えられていた。近年、南アフリカ北部で約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べていたとみられる跡が発見された。欧米の学者は北京原人が火を使い、火種を保存する能力がなかったのではと見ている。ブラックによって学名シナントロプス・ペキネンシスと名付けられていたが、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスと改称されている。アフリカ起源の人類が世界各地域に広がったとする単一起源説が優位であるが、米学者ミルフォード・ヴォルポフらは北京原人を根拠に多地域並行起源説を唱えている。中国の学者らも単一起源説に批判的であり、北京原人が火を使い、火種を保存する能力があったと主張している。

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    20世紀初頭の北京原人の調査にあたった学者たちは米の古生物学者ヘンリー・オズボーン(1857-1935)の影響下にあった。オズボーンは中央アジアこそが人類の起源であるという仮説をたてた。1914年、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソン(1874-1934)は中国全土を調査した。1919年にカナダ人のダヴィッドソン・ブラック(1884-1934)が北京にやって来た。1921年、ブラックとオットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。続いて輩斐文中がほぼ完全な頭蓋骨の化石を発見し、世界的に注目が集まった。ワイデンライヒは北京原人を現生人類の祖先と考えたが、現在では否定する学者が多い。未だ北京原人がアジア人の祖先か、火を使用したのか、使用しなかったのか、決定的なことは謎のままである。

 

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  アンダーソン              ブラック

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シーボルトと義経伝説

    シーボルト(1796-1866)は日本の種子や植物を採集してヨーロッパに持ち帰ったことでよく知られている。1823年の来日から1829年に日本を離れるまでの6年間に、植物485種類、1200個体がジャワ号で長崎からヨーロッパに運ばれた。シーボルトが日本で見聞、調査したことは多岐にわたる。長崎に鳴滝塾を開設し、高野長英(1804-1850)、二宮敬作(1804-1862)、伊東玄朴(1801-1871)、戸塚静海(1799-1876)など若い蘭学者が育った。シーボルト来日以前から長崎には吉雄耕牛(1724-1800)、本木良永(1735-1794)、志筑忠雄(1760-1806)たちがオランダ語の通詞として蘭学、西洋の科学を学んでいた。シーボルトの来日時には、吉雄耕牛の三男の吉雄権之助(1785-1831)、吉雄忠次郎たちが通詞であった。

    シーボルトは帰国後に書いた「日本」(1832年)という書物で、源義経がジンギスカンになったという説が日本にはあると紹介している。これは通詞であった吉雄忠次郎が義経・ジンギスカン説の熱烈な信奉者であったからだといわれている。

    ところで、ヨーロッパではシーボルト以前に、ドーソンの「蒙古史」に「義経・ジンギスカン説」があるという記事をウェブでみるが、平凡社の東洋文庫「モンゴル帝国史」をさがしてみたが見つからなかった。ドーソン(1780-1855)はイスタンブールの生まれのスウェーデンの外交官で、パリに滞在後、オランダのハーグに1814年に駐在、ベルリンに1834年に駐在している。シーボルトはドイツ人でバイエルン州のヴェルツブルク大学を卒業後、1822年にハーグへ赴き、1823年にジャワ島から長崎出島駐在の医師として来日する。シーボルトとドーソンの直接の接点は見当たらないが、19世紀初頭のヨーロッパでは中近東からアジア、日本に至るまで東洋研究のブームであったことがうかがわれる。そのなかで西洋人にとっても義経・ジンギスカン伝説は興味をひく話であったのであろう。

2017年12月 1日 (金)

悪魔も年をとると隠者になる

   フランスのことわざ。若いときにさんざん悪事を重ねた無頼漢や道楽の限りをつくした放蕩者も、年をとると後生がこわくなったり精力が涸れたりして、素行をあらため、仏様のようになることを言う。この諺の起こりはノルマンディー公ロベール(1000年頃ー1035)「悪魔のロベールと呼ばれる)が破戒無慙な男だったのに、晩年になってすっかり懺悔し、荒地に退いて苦行したことから暗示されたという。

漱石先生この絵はお嫌いですか

  NHK日曜美術館で紹介されていた日本画家の木島櫻谷。若き日の作品「寒月」を夏目漱石が新聞紙上で酷評している。かなり見当違いな指摘で木島が可哀そうだ。漱石自身も絵画を嗜むものの素人の域をでず上手とはいえない。初期作品「草枕」などにも絵画への傾倒が見えるが、理屈が先行しているようで美術評論には偏向がうかがわれる。結論としては、どんなに博覧強記の学者であり、芸術家であっても必ずしも正しいとはかぎらない。日本古代史最大のミステリー邪馬台国論争においても典型がある。九州出身の松本清張は古代史ミステリーに取り組み邪馬台国の位置を推論している。没年が1992年であり、1989年には吉野ヶ里遺跡の発見があったので、おそらく清張本人は九州説には満足してあの世に旅だったであろう。しかし2009年、奈良の纏向遺跡で大型建物跡が発見され、大量の桃の種が出てきた。桃は古代、魔除けなどに使われ、これが邪馬台国大和説の有力な根拠として説かれることが多い。現在、畿内大和説を唱える学者は90%を超え、安本美典や高島忠平などの九州説や他は全体合わせても数%という状況である。もちろん多数決で決まるわけでもなく、決定的な証拠が見つかったというのではないので邪馬台国問題は未だ未解決である。しかし、偉い作家や学者さんも偏見や偏向で見誤ることがあるというのは事実だ。むしろ人間の知力の限界を知ることが大切であり、権威や偉人というブランドに迷わされないことが求められる。

禅譲放伐

30n001_03_convert_20111105183718    中国の歴史は、夏、殷、周、春秋・戦国、秦、漢へと流れるが、これまで夏は伝説・神話の時代と考えられてきた。ところが、最近、黄河流域河南省の二里頭遺跡から夏王朝の王宮と考えられる遺跡と2万人以上の大集落が発見された。河南省では龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化という発展段階が認められる。つまり二里頭文化をもって文献に認められる夏王朝に相当するとする説が有力となっている。じつは司馬遷の「史記・夏本紀」の中では、伝説の「五帝」の最後の王である舜から、治水の功績が認められて禅譲された禹が夏王朝を開いたとある。五帝がそれぞれ徳をもって国を治めた個人であるのに対し、禹は世襲によって王権を継いだという点で大きく異なる。17代続いた夏王朝は、最期の王・桀によりにより、呆気なく滅んだ。代わって新王朝を開いたのが、殷族の湯である。前1550年頃のことである。つまり堯・舜・禹・の交替が禅譲、夏・殷・周の交替は放伐とされる。

映画の日

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。

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