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2017年12月29日 (金)

吉良家の忠臣、小林平八郎、清水一学

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 清水一学(月形龍之介)と赤垣源蔵(大友柳太郎)

    元禄15年12月14日、赤穂浪士47人は、表門と裏門の二手にわかれて本所吉良邸に討ち入った。不意をつかれた吉良側ではあるが、「堀内伝右衛門覚書」には上野介の前に立ちふさがった二人はことのほかよく働いた、とあるがこの奮戦した二人が誰であるかはっきりしない。巷説では付人の清水一学と小林平八郎らが奮戦したことになっており、小林平八郎は、女の着物をひっ被って庭を走り抜け、浪士と斬り結んだという。また清水一学は二刀流でよく奮戦したことになっているが実際は明らかではない。他に大須賀治郎右衛門、左右田源八郎、小堀源次郎、榊原平右衛門、鳥居利右衛門、須藤与一右衛門ら16人が討死、負傷者は20人余りという記録が残っている。主君吉良を守るために討ち取られた、彼らもまた忠臣と呼ぶべきではないだろうか。

    清水一学(1678-1703)は吉良上野介の所領三州吉良宮迫村に生まれ、15歳のときから義央に勤仕するようになった。吉良邸討入りのときは25歳であったが、生来無口で篤行の青年であった。この夜も、浪士乱入と同時に上野介の身辺を護り、主君の身をひそませたあとは、浪士たちをそこへ近寄せまいとして、かなり撹乱妨害をやったらしい。その間、完全に四五人の戦力を引きつけられっぱなしにされてしまったといい、後日、浪士たちはその働きぶりを口々に褒め称えている。しかし、上杉家資料の大河内文書では、一学は少しだけ戦って台所で討ち取られ、大した活躍はなかったとしている。真偽のほどは謎であるが、一学が二刀流の剣豪であったというイメージは活動写真の影響で大きくなったと思われる。とくに月形龍之介は「忠魂義烈・実録忠臣蔵」(マキノ省三監督、昭和3年)と「「残月一騎討ち」(松田定次監督、昭和29年)の二度、清水一学を演じている。吉良邸での赤垣源蔵(大友柳太郎)との死闘は迫力のあるものであった。「清水一角」は講談の創作した名であるが、清水一学は実在したと思われる。吉良家の剣客で和久半太夫がいるが、明治の講談が創作した架空の人物。大友柳太郎はテレビ「大忠臣蔵」では鳥居利右衛門を重厚に演じた。

2017年12月28日 (木)

NHK紅白歌合戦「夢を歌おう」

 2017年の紅白歌合戦。安室奈美恵のラストステージが目玉企画。話題のTTポーズのTWICE。台湾人のツウィが可愛い。でもサナ、モモ、ミナも応援。最多出場は五木ひろしの47回。けん玉でギネス挑戦の三山ひろし、AKB卒業まゆゆ、登美丘高校ダンス部、加藤一二三らが注目。「たかが紅白されど紅白」過去66年間で紅白歌合戦で歌われた曲は3000曲以上になるが、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、江利チエミ「テネシー・ワルツ」、芹洋子「四季の歌」など名曲は一度も歌われていない。▽親子二代出場は、瀬川伸・瑛子、松田聖子・沙也加、森山良子・直太朗、そして藤圭子・宇多田ヒカルと四例。▽紅白歴代最高瞬間視聴率は1963年の五月みどり「一週間に十日来い」の85.3%である。▽二大失言事件。1984年の生方恵一アナの「ミソラ発言」と1986年の加山雄三の「仮面ライダー事件」。少年隊の「仮面舞踏会」を誤って曲目紹介。▽1982年は薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」が映画・歌ともに大ヒットだったが、この年の紅白でこの曲を歌ったのは桜田淳子だった。その理由はいまもって謎である。▽2001年21世紀紅白1曲目は松浦亜弥「LOVE涙色」。

2017年12月27日 (水)

世界美人論

 「世界で最も美しい顔100人」ランキング。リザ・ソベラーノ(フィリピン)、ティラーヌ・ブロンド(フランス)、ツウィ(TWICE、台湾)、サラ・ガドン(カナダ)、ナナ(AFTERSCHOOL、韓国)。 ハリウッドや英国は敗退。エマ・ワトソン主演の「美女と野獣」が公開されたが、やはり正統派の美人女優という感じではない。BBC「ヴィクトリア」のジェナ・コールマンやリリー・ジェームズ(戦争と平和)も驚くほどの美人ではない。映画史的にみればグレタ・ガルボが史上最強の美女だろう。今年のPeople誌が発表した「世界で最も美しい女性」はジュリア・ロバーツ。「プリティ・ウーマン」でブレイクしたジュリアは五度目の受賞でもう49歳。日本人の好みの顔ではない。映画黄金時代、美人女優といえばエリザベス・テーラー、グレース・ケリー、ジーナ・ロロブリジーダ、ダニエル・ダリュー、ロッサナ・ボデスタなど錚々たる美女がいた。現在、最も美しい女優は誰なのだろうか?美はあくまで主観的なものであるがTC Candlerが選んだ「最も美しい顔」2016年第2位リザ・ソベラーノは現在18歳のフィリピン女優。インドのプリヤンカー・チョープラ―。では日本で美人といえば誰?松嶋菜々子(43歳)主演ドラマ「女の勲章」がそれぞれ8.1%、6.2%と低調に終わった。鈴木京香(48歳)や中山美穂(47歳)も美人枠でのドラマ出演は厳しいものがある。女性の美しさはアラフォーが限界かな。いま旬の女優といえば有村架純や松岡茉優、それに続いて土屋太鳳や広瀬すず(18歳)を筆頭に杉咲花(19歳)、平祐奈(18歳)、葵わかな(18歳)など小柄な女性が多い。なかでも気になるのが広瀬すず。静岡市生まれの18歳。2013年ドラマ「幽かな彼女」でデビュー、同年「謝罪の王様」で映画デビュー、翌年オムニバス「放課後たち ロリータなんて」に出演。すずが演じるのは大学生の涼太に淡い想いを寄せる女子中学生。無名のころスターレット時代の初々しさとレア感を見ることができる。大きな瞳、ボブの髪型、太い足、彼女の魅力はデビュー時と現在とあまりかわらない。「世界で最も美しい顔100人」では石原さとみ、小松菜奈をおさえて、TWICEのサナが日本人でトップ。中国の龍夢柔栗子はガッキーにそっくり。世界は広い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年12月24日 (日)

インドの宗教

 インドの人口は2011年の国勢調査によるとおよそ12億人。人種的にも民族的にもきわめて複雑な構成を示している。先住民であるべトイン型やニグロイド型の人種のうえに、西北方から侵入したアーリア人によって代表されるコーカソイド型の人種の波がかぶさり、また東北部には、のちに北方から押し出されてきたモンゴロイド型の特色をもつ人種も存在している。このようにインドには、大別して4つの人種型がみられるが、それらが長い歴史の過程で相互に混血し合い、今日の複雑に人種的特色が形成された。2011年の国勢調査によると、全人口の79.8%がヒンズー教にあたる。きわめて複雑な民族構成をもつこの国の文化に一つの統一性を与えているのが、このヒンズー教の信仰とそれを中心に形成された独特の文化であるということがいえる。1961年と2011年との宗教別比較すると、ヒンズー教は83.5%から79.8%に減少している。かわってイスラム教が10.7%から14.2%と大きく増えている。このほかシク教徒1.8%から1.7%、ジャイナ教が0.5%から0.4%、仏教が0.7%、キリスト教が2.4%から2.3%と横ばいである。インドのイスラム化はつねに紛争の歴史といえる。インドを支配したイスラム教の国家は歴史的に概観すれば、10世紀中ごろのガズニ朝に始まり、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグラク朝、サイード朝、ロディー朝、スール朝、ムガール帝国と19世紀まで続き、インドの中世はイスラム支配であった。ラージプートは8世紀以来、北インド各地に小王国を形成し、イスラムに抵抗を続けた。

2017年12月21日 (木)

2017年を騒がせた人

 今年もあと10日あまり。今年世間を騒がせた人は?小池百合子は致命的な戦略的ミスにより人気はガタ落ちした。政治家の言動や変節というのは影響力が大きい。芸能界で一番騒がせたのは船越栄一郎か。12月にようやく離婚が成立した。息子の逮捕という出来事があったベテラン俳優の橋爪功。生放送は苦手というが「ごごナマ」にゲストで登場。その際に不覚にも不適切発言で阿部アナが謝罪。将棋界では高齢の加藤一二三が「ひふみん」というあだ名で呼ばれる大ブーム。陸上界では桐生祥秀が10秒の壁を破る快挙達成。大相撲界は八百長相撲からようやく回復したと思ったが、モンゴル勢の跋扈は前途多難な課題がある。芸能界は今年も不倫ブーム。斉藤由貴が不倫を認め大河を降板。妻を寝取られた太川陽介がそれでも妻をかばい同情が集まる。ドラマでは低視聴率番組が続発、武井咲、篠原涼子らが惨敗。一方ではブルゾンちえみ、吉岡里帆、高橋一生らが好調。いちばん人気は上野のシャンシャンか。何事もついてない年もある。あせらずじっくりと、来年はよい年でありますように。

2017年12月19日 (火)

ハリウッド著名人のセクハラ騒動

   アメリカのオンライン英語辞典「メリアム・ウェブスタ」の今年の言葉に「フェミニズム」が選ばれた。女性に対する差別発言を繰り返すトランプ大統領の就任をきっかけに抗議デモが広がっていることや、ハリウッドのセクハラ騒動が理由にあげられる。「恋におちたシェイクスピア」「シカゴ」でプロデューサーとして知られるハーヴィー・ワインスタインからセクハラを受けた女性が次々と被害を告白するようになった。これに続いてケビン・スペーシー、ダスティン・ホフマン、スティーブン・セガール、ジェレミー・ピヴェンなど俳優やブレット・ラトナー監督、ジェームズ・トバック監督からセクハラを受けたとする被害者が声をあげるようになった。Break the Silence(声を上げよう) 著名人のセクハラ疑惑の動きはまだまだ広がるかもしれない。

2017年12月17日 (日)

今年印象に残った言葉

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   2017ユーキャン新語・流行語大賞は「インスタ映え」「忖度」に決まった。今年の漢字は「北」。いまひとつ盛り上がりに欠ける一年だった。神ってる(16)トリプルスリー、爆買い(15)ダメよ~ダメダメ、集団的自衛権(14)、お・も・て・な・し、じぇじぇじぇ、今でしょ!、倍返し(13)。ここ数年の流行語はほとんど印象にない。自分が時代についていけてないのだろう。むしろ「体ほぐしてもらっているだけ」(藤吉久美子)「一線を越えていない」(斉藤由貴)が印象に残った。

  マイブームはディスコでギンギンにノリノリに踊りまくり青春をエンジョイすること。そしてカワイ子ちゃんアタックして温泉マークレッツゴーアンネが来なくてやったぜベイビー。

  何が死語で、死語でないか、の判断はむずかしい。たとえば豊かな体つきの女性を「グラマー」というが、なんとなく古臭く感じる言葉だ。マルティメディア、IT化、金融ビッグバン、ルーズソックス、ポケットベル(ポケベル)、水平思考、ぶりっ子、ハウスマヌカン、ボデコンなどもほとんど今では使われることはない。

   お笑いコンビ「パイレーツ」(浅田好未・西本はるか)のギャグで、胸の谷間を強調するような仕草とともに「だっちゅうの」と言うキメゼリフ。いまではほとんど用いない言葉だが、1998年の流行語大賞である。ちなみに乳房の間のくぼみのことは、英語でクレイヴィジ(cleavage)というが、わが国では人体解剖学においては乳房間溝(にゅうぼうかんこう)と呼ぶのが正式名称である。

 

 

2017年12月13日 (水)

赤穂義士銘々伝・吉良邸絵図面取り

    赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。

赤穂義士銘々伝・赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。2月13日放送の「BS日本のうた」で山内惠介・三山ひろしが歌唱している。

 

           徳利の別れ

 

  さげた徳利を 撫でながら

 

  仇を討つ日は 何時のこと

 

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

 

  夢で兄者が また叱る

 

          *

 

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

 

  酒は呑んでも

 

  呑まれちゃならぬ

 

  武士の心を忘れるな

 

  体こわすな源蔵よ

 

  親の無い身にしみじみと

 

  叱る兄者が懐かしい

 

            ▽                 ▽

 

  迫る討入り

 

  この喜びを

 

  せめて兄者によそながら

 

  告げてやりたや知らせたい

 

  別れ徳利を手に下げりゃ

 

  今宵名残の雪が降る

2017年12月12日 (火)

年寄りの聞き違い、いえ音韻連鎖です

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   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、「美文字研究家」と「いぼ痔研究家」。(9月16日)

2017年12月10日 (日)

義挙成功の影の功労者、寺坂吉右衛門の墓

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  曹渓寺 寺坂吉右衛門夫妻の墓

    1747年、寺坂吉右衛門信行は、83歳で死去した。寺坂は軽輩ながら特に認められて義盟に加えられた。47士のうち足軽は信行ひとりである。芝高輪の泉岳寺には義士と称する墓は48基ある。はじめは46基だったが、慶応4年に寺坂信行の供養墓が建てられ、明治4年に萱野三平の供養墓が建てられ、48基になった。なぜ赤穂四十七士というのだろうか。そもそも忠臣蔵は47でなければならなかった。仮名手本忠臣蔵は「いろは四十七文字」に47人の義士がなぞらえているからである。そこで古来から義士が46人か、47人かで意見が分かれる。とくに寺坂信行が泉岳寺へ引き揚げる途中、姿を消したことをめぐって諸説紛々たるものがある。要約すると、信行は吉良邸に討ち入らず門前から逃亡したという説と、本懐達成の後、報告をさせるために逃亡者に仕立てたという密使説とに分かれる。むかし神戸大学の八木哲治教授が古文書を仔細にあたり、赤穂義士46人説をとなえたところ、郷土史家や市民から感情的な反論がでたことがある。信行を赤穂義士に入れるか外すは、現在でも一般の関心が高い問題であった。歌舞伎の忠臣蔵が47人が絶対数であることは寺坂にとって有利である。最近の忠臣蔵ドラマでは寺坂が討ち入りに加わり、刀を取って奮戦しているものもある。だが脚色された話ではなく、歴史の真実が知りたい人も多いだろう。寺坂の墓は高輪泉岳寺とは別に本当の墓が麻布の曹渓寺にある。伊藤十郎太夫に仕えたのち、旗本山内主膳に仕え、83歳で他界した。墓の隣には、妻せんの墓があることがその後の穏やかな人生を物語っている。寺坂の死は赤穂義士たちの切腹から46年後のことであった。寺坂の墓は全国各地に7か所もある。長崎の久賀島にはこのような逸話が伝わる。寺坂が討ち入り前に、長崎五島の久賀島に行き深堀騒動で流刑の身の志波原羽右衛門を訪ね、これを大石内蔵助に報告し、内蔵助は吉良邸討ち入りの手本としたとされる。また2度目はそのお礼と報告のために久賀島を訪ねるが、志波原はその前年に遠島を許され、深堀に戻っていた。しかし、寺坂は、久賀島の福見の里の恵剣寺に住みつき、83年の生涯を終えており、寺には墓もある。(10月6日)

2017年12月 9日 (土)

MGMが一番好きだった

  洋画会社。20世紀フォックス、ワーナーブラザーズ、パラマウント、ユニヴァーサル、ディズニーなど。映画みるときあまり気にしていないけど。「カサブランカ」「エデンの東」「大脱走」はワーナー、ハリーポッターもワーナーだけど、なぜかUSJでイベントしている。パラマウントは「ローマの休日」「ゴッドファーザー」、ユニヴァーサルは「ET」「スティング」、フォックスはマリリン・モンローやスター・ウォーズ。コロンビアは「ナバロンの要塞」でいまはソニーが買収している。最近好調のディズニーが20世紀フォックスを買収しようとしているらしい。ライオンが吠える映画マークのMGM、ミュージカル映画「雨に唄えば」「バンド・ワゴン」「巴里のアメリカ人」など、どれも楽しかったなあ。

ミネルバの梟は夜飛び立つ

   学問の発祥地のアテネにはミネルバの森がある。この森には梟が住んでいて、森が暗くなると、梟が飛び立って、道筋を照らすという。ギリシア神話の女神アテナは、梟をお使い鳥とし、アテネ市を保護下においていちばんに栄えた。梟はアテネの銀貨の図柄に用いられた。「ミネルバの梟は夜飛び立つ」といえば、知識の象徴である梟は「夜」すなわち「人生の晩年」になって飛躍する、という意味にも使われる。

   ドイツの哲学者ヘーゲルは「法哲学」の序言で「ミネルバの梟は夕暮れになるとはじめて飛翔する」とある。つまり学問といものは現実のあとを追うものである、という意味にも使っている。

2017年12月 8日 (金)

実はシーザーは帝王切開で生まれていなかった?

 母親のお腹を切って赤ちゃんをとりだすことを「帝王切開」という。医学用語で、これをラテン語で「セクティオン・カエサレア」という。カエサルの出生が、こういう外科手術によったため、この言葉ができたと伝えられる。つまりカエサルは帝王切開で生まれたと考えるところだが、どうやらこれはちがうらしい。なにしろ帝王切開手術がはじまったのは、16世紀以降のことで、紀元前生まれのシーザーが帝王切開で生まれたというのは、つじつまがあわない。ラテン語で「切開する」は、caedereという。いっぽうシーザーは英語で書くとCaesarで、ひじょうにつづりが似ている。そのため両者が混同され、いつしか「シーザーの切開」という名前が誤ってシーザーに帰せられたのだといわれる。(世界史)

2017年12月 4日 (月)

ゴッホは恋多き男だった

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 シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール) 鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙

   フィンセント・ファン・ゴッホは37年の短い生涯で、愛した女性は数人いる。孤独のようにみえてかなりの恋愛体質である。カロリーナ・ハーネべーク(初恋の人)、従姉で子持ちの未亡人ケイ・フォス・ストリッケル(通称ケー)、マルゴ・べーへマン、アゴスティーン・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)、マルグリット・ガッシェ(医師の娘)。しかしシーンという名前の女性がいちばんよく知られているかもしれない。ゴッホのハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

Photo_2    1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。二人の20ヵ月間の同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

   この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。後年、ゴッホは手紙で「自分には愛とは相性が悪い」と書いている。

ゴッホの青年時代

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 雪の中の蒔き拾い 1884年

  ゴッホは、1853年3月30日、オランダのベルギー国境近くのブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師、母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性だった。ゴッホには兄がいたが数週間で死んだため、ゴッホが長子となった。両親は幼くして逝った子供をひどくいたみ、その子の面影を常にゴッホに影響したことは否めない。彼は頑固で気むずかしい少年で、ひとりで野原を散歩しては時を過ごし、弟のテオや3人の妹たちと遊ぶこともほとんどなかった。

    ゴッホは母親にすすめられ、10代の初めごろからスケッチや水彩画をぴんぱんに描いたようだ。ゴッホにはハーグで手広く事業をやっているセントという伯父がいた。この伯父の経営する画廊は、パリの有名な画商グーピル商会と合併していた。ゴッホは16歳で学校を卒業すると、伯父の紹介でこのグーピル商会ハーグ支店に就職し、美術館通いに熱中する。数年後、ロンドン支店、さらにパリ支店へ移った。その間に恋愛に失敗したり、宗教書に熱中したりして次第に職務にふさわしくない行動が多くなり、1876年に解雇された。その後はロンドン近くの寄宿学校の語学教師、ドルトレヒトの書店員などになったが、いずれも長つづきせず、一方、宗教への情熱はいよいよ高まって、1877年(24歳)アムステルダムへ出て牧師になる勉強をはじめた。そして翌年、ブリッセルの短期牧師養成所を終わると、みずから志願して貧しいベルギーの炭鉱ボリナージュにおもむいた。ここでの彼は熱烈な信仰心から、すべてを犠牲にして伝道に従事したが、結局は失敗し、それとともに宗教的情熱も薄れて、一年に近い放浪生活のなかから、1880年になってようやく画家としての道を選んだ。そして、ブリッッセル、ハーグ、アンベルスの各地で勉強をつづけたが、彼の描くものは絶えず労働者や農民など、現実の下層の人たちの姿であり、その周辺の生活、風景であった。しかもその間、貧困と病苦につきまとわれ、また二度、三度恋愛に失敗した。1883年9月、疲れ果ててドレスデンへ逃れ、同年12月にはヌエネンの両親のもとに移り、孤独に耐えつつ絵画に専念する。彼の初期の傑作といわれる「馬鈴薯をたべる人たち」(1885)は、こうした時期の作品である。

松下奈緒「ゴッホの青春 そして色彩が生まれた」で「なぜヌエネン時代は真っ黒な絵だったのか」という疑問を解き明かしている。若きゴッホが尊敬するオランダの画家レムブラントに憧れていたからだと説く。ゴッホに自画像作品が多いのもレムブラントからの影響の1つである。

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2017年12月 2日 (土)

シーボルトと義経伝説

    シーボルト(1796-1866)は日本の種子や植物を採集してヨーロッパに持ち帰ったことでよく知られている。1823年の来日から1829年に日本を離れるまでの6年間に、植物485種類、1200個体がジャワ号で長崎からヨーロッパに運ばれた。シーボルトが日本で見聞、調査したことは多岐にわたる。長崎に鳴滝塾を開設し、高野長英(1804-1850)、二宮敬作(1804-1862)、伊東玄朴(1801-1871)、戸塚静海(1799-1876)など若い蘭学者が育った。シーボルト来日以前から長崎には吉雄耕牛(1724-1800)、本木良永(1735-1794)、志筑忠雄(1760-1806)たちがオランダ語の通詞として蘭学、西洋の科学を学んでいた。シーボルトの来日時には、吉雄耕牛の三男の吉雄権之助(1785-1831)、吉雄忠次郎たちが通詞であった。

    シーボルトは帰国後に書いた「日本」(1832年)という書物で、源義経がジンギスカンになったという説が日本にはあると紹介している。これは通詞であった吉雄忠次郎が義経・ジンギスカン説の熱烈な信奉者であったからだといわれている。

    ところで、ヨーロッパではシーボルト以前に、ドーソンの「蒙古史」に「義経・ジンギスカン説」があるという記事をウェブでみるが、平凡社の東洋文庫「モンゴル帝国史」をさがしてみたが見つからなかった。ドーソン(1780-1855)はイスタンブールの生まれのスウェーデンの外交官で、パリに滞在後、オランダのハーグに1814年に駐在、ベルリンに1834年に駐在している。シーボルトはドイツ人でバイエルン州のヴェルツブルク大学を卒業後、1822年にハーグへ赴き、1823年にジャワ島から長崎出島駐在の医師として来日する。シーボルトとドーソンの直接の接点は見当たらないが、19世紀初頭のヨーロッパでは中近東からアジア、日本に至るまで東洋研究のブームであったことがうかがわれる。そのなかで西洋人にとっても義経・ジンギスカン伝説は興味をひく話であったのであろう。

2017年12月 1日 (金)

悪魔も年をとると隠者になる

   フランスのことわざ。若いときにさんざん悪事を重ねた無頼漢や道楽の限りをつくした放蕩者も、年をとると後生がこわくなったり精力が涸れたりして、素行をあらため、仏様のようになることを言う。この諺の起こりはノルマンディー公ロベール(1000年頃ー1035)「悪魔のロベールと呼ばれる)が破戒無慙な男だったのに、晩年になってすっかり懺悔し、荒地に退いて苦行したことから暗示されたという。

漱石先生この絵はお嫌いですか

  NHK日曜美術館で紹介されていた日本画家の木島櫻谷。若き日の作品「寒月」を夏目漱石が新聞紙上で酷評している。かなり見当違いな指摘で木島が可哀そうだ。漱石自身も絵画を嗜むものの素人の域をでず上手とはいえない。初期作品「草枕」などにも絵画への傾倒が見えるが、理屈が先行しているようで美術評論には偏向がうかがわれる。結論としては、どんなに博覧強記の学者であり、芸術家であっても必ずしも正しいとはかぎらない。日本古代史最大のミステリー邪馬台国論争においても典型がある。九州出身の松本清張は古代史ミステリーに取り組み邪馬台国の位置を推論している。没年が1992年であり、1989年には吉野ヶ里遺跡の発見があったので、おそらく清張本人は九州説には満足してあの世に旅だったであろう。しかし2009年、奈良の纏向遺跡で大型建物跡が発見され、大量の桃の種が出てきた。桃は古代、魔除けなどに使われ、これが邪馬台国大和説の有力な根拠として説かれることが多い。現在、畿内大和説を唱える学者は90%を超え、安本美典や高島忠平などの九州説や他は全体合わせても数%という状況である。もちろん多数決で決まるわけでもなく、決定的な証拠が見つかったというのではないので邪馬台国問題は未だ未解決である。しかし、偉い作家や学者さんも偏見や偏向で見誤ることがあるというのは事実だ。むしろ人間の知力の限界を知ることが大切であり、権威や偉人というブランドに迷わされないことが求められる。

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