無料ブログはココログ

« 2017年11月 | トップページ

2017年12月16日 (土)

ボストン茶会事件

Boston_tea_party

   1770年3月5日、ボストンで重い税金に反対した市民とイギリス軍が衝突。兵士が群集に向けて発砲し死者5人。1773年12月16日、インディアンに変装した急進的愛国派がボストン港に停泊中のイギリス船に侵入し、積み荷の茶を海中に投げ込んだ。組織したのはサミュエル・アダムズ(1722-1803)といわれる。この事件を植民地政策への挑戦と受け取ったイギリス側はアメリカに対する制裁をしたため、独立戦争へと発展していく。(Boston Tea Party,Samuel Adamus) 世界史

2017年12月15日 (金)

風と共に去りぬ

090525_r18492_p465  南北戦争をはさんだスカーレット・オハラの波乱万丈の人生を描く「風と共に去りぬ」。1939年のこの日、アトランタで映画「風と共に去りぬ」が封切り。(12月15日)

何でも知って、何でも考えよう

Abogadoscostadelsol4 「ケペル先生のブログ(日々の話題あれこれ)」 最近、頭痛・めまい・手足のしびれ・不眠などの体調不良によりコメントの返礼ができませんので悪しからず。

  閑静安適の日々を過ごしながら、学ぶことそのものを喜びとしたい。このブログにおいて「何でも知って、何でも考えよう」の精神で、歴史・時事問題、最近話題のトレンドだけではなく、古今東西の雑学ネタを集める。わからないこと知らないことは、放っておいても実のところ当面、何かに不自由するということはない。でも人間不思議なもので知らないでいることは気にかかる。ネットでも本でもなんでも使って、とことん調べてみたい。17世紀イギリスの詩人ベン・ジョンソンのことばに「多くの事をするのはやさしいが、一事を永続するのはむずかしい」とある。いわばこの10年間に調べた雑学事典である。現在の記事数は、11406件。

   記事の叙述は、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」「どのように」を軸に、わかりやすい文章を心がける。:現代的な事柄も取り上げながらも学問的にも、高い品位を保ち、一般教養人が読むに堪え得る内容につとめ、実証主義に立脚した研究をめざす。一日一日の着実な積み重ねで、あらゆる分野でもかなりの地点まで到達することができると信ずる。日頃から、見聞を広げ、多くの文献を渉猟し、知識を蓄えるように心がけたい。

   主なカテゴリーと人気記事一覧
雑学室

ケペル先生何でも相談室▽アナロギア・エンティス▽理髪店の回転看板の由来▽マクンバの呪い▽チャルメラのルーツ▽世界の郵便ポストは黄色が主流である▽「朝シャン」はもう死語なのか?▽ピースサインの起源▽読みにくい名前はなぜ増えたのか?▽じゃん拳の歴史▽必死のパッチ▽勝負は下駄を履くまでわからない▽右と左の話▽これを何と呼ぶのか?(物の名前)▽見ざる、言わざる、聞かざる▽次位者の嘆き▽ガッツポーズの研究▽これがグリコのモデル、カタロン選手のゴールの雄姿だ!?▽ラッキーセブンは本当にラッキーか?▽握手の起源▽洗濯板の研究▽正しい「シェー」とは?▽ツチブタの呪い(aaで始まる話)▽一本のマッチ棒の値段は?▽ミーハーの語源▽謎のナゾーニ▽名刺の由来▽八百長の語源は相撲にあり▽キスは奈良時代からあった▽なぜ仮名は山田太郎なのか?

地歴室
▽アジア人文地理▽日本の位置と領域▽国号「日本」ニホンか、ニッポンか▽ユーラシアの地名の由来は?▽なぜ地図の上は北なのか?▽赤と白が多く使われている国旗▽タンソネ東小島▽社会科挽歌~軍艦島、ハッカ、ニシン▽韓国の長生標▽西域とシルクロード▽ロンドン大火とテムズ川▽ハールレムを守った少年▽ヴェーバーの工業立地論▽世界発明・発見の歴史年表▽戦争の世界史▽古代エジプトの椅子▽古代エジプトの猫崇拝▽マラソン由来の伝令は誰れ?▽古代ローマのフライパン▽世界最初の王メバラゲシ▽ソクラテス「悪法もまた法なり」は作り話▽イエスは十字架刑か、杭刑か▽新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来▽コロンブスの卵▽カント 時計よりも正確▽予の辞書に不可能という言葉はない▽中国文明の歴史(概説)▽古代中国の座位(座席の順序)▽フリードリヒ大王と粉屋アーノルト事件▽マーピラの反乱▽秦の始皇帝の母・朱姫▽三顧之礼▽蒙古斑と騎馬民族説▽朝鮮王朝の禁婚令について▽女人禁制▽江戸の拷問「ぶりぶり」▽毛利元就「三矢の訓え」は作り話か?▽利休キリシタン説▽明治のうさぎブーム▽ふるさとの偉人▽補陀洛▽死んでもラッパをはなしませんでした▽ラコニア号遭難事件▽貨狄尊者

人物・伝記室
有名無名を問わず、生涯を賭して一事を成した人たち▽トリビア世界人物逸話集▽謎の俳優駒井哲▽戦国忍者列伝「走りの一平」▽丿貫(へちかん)▽寺田望南の蔵書印▽ワシントンと桜の木▽リンカーンが鬚をはやしたわけ▽林静子と廃娼運動▽平井金三▽トルストイの身長は?(有名人の身長測定)

社会科学室
▽東川徳治と「典海」▽ナイアガラ運動▽陸軍内務班の制裁▽アジアにおける「泣き女」の習俗▽朝鮮族のブランコ乗り▽チャンスンとソッテ▽山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前は?▽土用の丑の日には鰻▽桃太郎は侵略者!?▽赤道付近一帯における頭蓋骨崇拝▽イタンキ浜事件▽アメリカ東部上流婦人の歩き方▽浜松ステッキガール事件▽青い目の人形▽男雛と女雛の並べ方は?

自然科学室
▽スンプ法と鈴木純一▽消えたアマゾンの熱帯魚王・高瀬成一▽近世日本人の歩き方▽ルーの法則▽闘蟋蟀▽どこへ消えた?ヒバゴンと帝釈原人▽霊長類の進化と文明への歩み▽リマン海流の語源▽人はなぜ歳を取ると10年、1年が早く感じるのか?▽「四本足のニワトリ」論争▽「たんぽぽ」の語源は鼓の音から▽火山地形による分類▽歯ブラシの歴史▽レマゲン鉄橋▽「ラムスデン現象?」でっち上げの言葉かもしれない▽バッタとイナゴのちがい▽パンダに歴史あり

芸術・文芸室
▽古拙の微笑▽色彩の心理と象徴性▽緑衣女▽消えた最後の授業▽法隆寺エンタシスのギリシア起源説の謎▽少女へゲソの墓碑▽古代人と文様▽画像破壊▽ゴッホの「ひまわり」▽ピカソ愛用の横縞のTシャツ▽ミロのヴィーナスとリンゴ▽ロダン「考える人」は何を考えていめのか?▽「いとおし」と「いとおかし」の異同▽日本語における横書きの始まり▽日本語の中の仏教用語▽人名が由来の言葉▽文学者の自殺▽字形類似の漢字学▽芦屋裏山」吉沢独陽▽あめゆきさんの歌・山田わか▽北村兼子と人見絹枝▽柳と別離▽「冬来たりなば春遠からじ」の誤訳▽自分だけが知らなかった言葉▽小股の切れ上がったいい女▽有名人の戒名▽名と字と号の話▽「千字文」伝来考▽「漱石」筆名は円覚寺の手水舎の刻字から思いついた!?▽漱石「坊っちゃん」の謎解き▽太宰治の筆名は同級生の姓からついたらしい▽英語ことわざ「覆水盆に返らず」▽シェイクスピアは存在しなかった?▽ロマネスク美術の「枠組みの法則」

図書・文献・情報・読書室
夢の文庫、理想の図書館▽本のある風景▽現代社会と情報化▽劇画・漫画家オール名鑑▽なぜ本屋にいると便意をもよおすのか?▽広辞苑にある言葉、ない言葉▽中国関係図書文献目録▽中国史関係文献目録▽支那学文献目録▽中国漢籍図書目録▽孔子及び論語関係文献目録▽なぜ岩波新書青版に名著が集中するのか▽新聞閲覧所▽本と読書に関する名言・ことわざ・文献集▽遊園地、動物園、美術館、図書館の起源▽紙文明1900年、印刷文明560年▽橋元正一がみた映画、読んだ本

         *     *    *

 メールアドレス:nikawayuki@ jttk.zaq.ne.jp

2017年12月14日 (木)

2018年1月スタートのドラマ

   2018年から始まる新番組。年末年始のドラマ・映画・バラエティ・ドキュメンタリーなど。お正月番組だけど豪華なドラマは減って全体に地味。まずは連続ドラマから観て行こう。吉岡里帆の「きみが心に棲みついた」が期待。「平成細雪」あの谷崎の原作を現代におきかえたドラマだがキャストが地味なのも平成らしい。

毎週月から金 「越路吹雪物語」瀧本美織

月曜  「海月姫」芳根京子

火曜 「きみが心に棲みついた」吉岡里帆 石橋杏奈、「Final Cut」亀梨和也、橋本環奈、「賭ケグルイ」浜辺美波

水曜 「anone(アノネ)」広瀬すず

木曜 「隣の家族は青くみえる」深田恭子、木村拓哉「BG身辺警護人」、「リピート」貫地谷しほり

金曜「アンナチュラル」石原さとみ、「ホリデイラブ」仲里依紗

土曜 「もみ消して冬」波瑠 、「明日の君がもっと好き」市原隼人、「家族の旅路」滝沢秀明、「電影少女」西野七瀬

日曜 大河ドラマ「西郷どん」鈴木亮平、二階堂ふみ。「平成細雪」中山美穂・高岡早紀・井藤渉・中村ゆり、「わが家の問題」水川あさみ、「トドメの接吻」山崎賢人、門脇麦、神木優子

「アンナチュラル」は不自然な死の原因を究明していく法医学ミステリー。薬師丸ひろ子が石原は母役で初共演。

次は単発ドラマ、映画、ドキュメンタリーなど。

12月14日 「戦略大作戦」 450  「ラスト・コーション」 450
12月14日 世界のドキュメンタリー「ノルマンディー上陸作戦のすべて」101 24時
12月17日 「史上最大の作戦」 552  18:25
12月21日 「山の音」山村聰、原節子、上原謙
12月24日 「鬼畜」 玉木宏 常盤貴子 6  21時
12月27日 「パークランド ケネディ暗殺」 171 17時50分
1月1日 「風雲児たち」 1  19:20
1月2日 「都庁爆破」 長谷川博己 4  21
1月2日 「忘却のサチコ」高畑充希 テレビ大阪 23:15
1月5日 「エトルリアの盛衰」 222 深夜3時
1月5日 「蠢動」 平岳大 103  13時
1月8日 「娘の結婚」波瑠 テレビ大阪 20時
2月28日 「越谷サイコー」 佐久間由衣

なぜ日本人は忠臣蔵が好きなのか

Img_0029 市川海老蔵の天川屋義平

   本日は赤穂義士討ち入りの日。今日の時刻では15日の午前4時頃だが、むかしから慣例として14日に祭りがある。映画「最後の忠臣蔵」舞台あいさつで、佐藤浩市が共演の桜庭ななみを暴露。大石内蔵助の娘・可音を演じる桜庭は初め忠臣蔵の話を全然知らなかった。亡君復讐劇ということも、赤穂義挙も、内匠頭と上野介も、松の廊下刃傷も、四十七士吉良邸討ち入りも、本懐達成、高輪泉岳寺墓参も知らない。つまり若い人で知らない世代もでてくるから、忠臣蔵はいつも新鮮な話で永遠に終わらないということだ。視点を変えれば、いくらでも話のタネはつきない。増上寺畳替、烏帽子大紋、脇坂淡路守、判官切腹、赤穂開城、勘平と定九郎、与市兵衛、お軽・勘平、山科閑居、一力茶屋、南部坂雪の別れ、徳利の別れ、天川屋義平、垣見五郎兵衛、神崎与五郎東下り、堪忍袋詫び証文、笹売り源五、毛利小平太など脱盟者、茶会、吉良邸絵図面、本所松阪町、俵星玄蕃、清水一角、南部坂雪の別れ、寺坂吉衛門など忠臣蔵外伝、エピソードの宝庫つまり忠臣蔵。それにしても何故日本人は復讐劇の忠臣蔵が好きなのだろうか? (12月14日)

2017年12月13日 (水)

赤穂義士銘々伝・吉良邸絵図面取り

    赤穂討ち入り前、吉良屋敷の現況を探るため、浪士たちのさまざまな行動がフィクションで語られている。たとえば神埼与五郎は火事が発生したとき屋根に上り、吉良屋敷を上から偵察したとか、前原伊助が米屋になって邸内を探ったという逸話が伝わる。もっともよく知られる話は、岡野金右衛門が大工の棟梁、平兵衛の娘お艶といい仲になり、とうとう絵図面を借り出すことに成功するというドラマのワン・シーンである。このほか、非常に美男だった磯貝十郎左衛門が吉良邸の女中に近づき、上野介の居間がどこにあるか探ろうとしたという巷説もある。「寺坂信行筆記」や「波賀清太夫覚書」などによると、吉良邸の絵図面は2つのルートから新旧2枚を手に入れたと考えられる。一つは吉良邸の隣の旗本・本多孫太郎家来の忠見氏。忠見氏は堀部弥兵衛の生家である。今一つは吉良邸の前主の旗本・松平登之助家来、太田加兵衛。加兵衛は大石瀬左衛門の伯父である。この新古2枚の絵図面の入手はさほど困難ではなかったようである。したがって、岡野金右衛門の恋の絵図面取りはなかったであろう。

赤穂義士銘々伝・赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。

           徳利の別れ

  さげた徳利を 撫でながら

  仇を討つ日は 何時のこと

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

  夢で兄者が また叱る

          *

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

  酒は呑んでも

  呑まれちゃならぬ

  武士の心を忘れるな

  体こわすな源蔵よ

  親の無い身にしみじみと

  叱る兄者が懐かしい

            ▽                 ▽

  迫る討入り

  この喜びを

  せめて兄者によそながら

  告げてやりたや知らせたい

  別れ徳利を手に下げりゃ

  今宵名残の雪が降る

赤穂義士銘々伝・神崎与五郎、堪忍の詫証文

Img_0006

   神崎与五郎則休(1666-1703)。代々、美作津山森家に仕えた武士の家に生まれ、その少年時代を津山の城下町で過ごした。森家改易の後、赤穂浅野家に召し抱えられ、五両三人扶持と役料五石が与えられた。

    元禄15年3月、神崎与五郎は、大石内蔵助の内命を帯びて、京から江戸へ向かった。内匠頭に仕えてわずか5年、五両三人扶持の微禄ながら誠実の士であり、お家断絶ののちも内蔵助の任あつく、このたびも、その機敏、堅実、忍耐と三拍子そろった人柄を見こまれての出府であった。与五郎は道中を急ぎに急ぎ、やがてさしかかったのが箱根の山であった。とある茶屋でしばしの憩いをとっていた。そこへ馬方がひとりはいってきた。街道一の暴れ者として人々に嫌われている丑五郎というならず者である。「お侍さん、馬はどうだね」呼びかけられた与五郎は、何気なく「わしは馬は嫌いだ」と答えた。「なに!侍のくせに馬が嫌えだと、ふざけるねえ、ただの雲助とはわけが違うぜ!」罵ったかと思うと、いきなり与五郎の胸をどんと突いた。与五郎も思わず無礼者め!と刀の柄に手をかけたが、いや待て、たとえ雲助ひとりでも刀にかければ何かと取調べがあり、江戸入りが遅くなると思いなおし、「いや、わしが悪かった、許せ」と涙をのんで大地に両手を突き、丑五郎のいうままに詫証文を書いて与えた。この話は最近の忠臣蔵ドラマなどでは、詫証文を書くだけでは物足りないと感じたのか、与五郎が馬方の股をくぐるシーンが見られる。詫証文にしろ股くぐりにしろ、真偽のほどは明らかではなく、韓信の股くぐりの故事から講釈師が採った逸話のようであるが、これが大人気となった。

07bh

2017年12月12日 (火)

忠臣蔵脱盟者たちの知られざるその後

374b0c11e5fffb584596e021637277ed   刃傷事件が起こってから討ち入りまでの1年9カ月の間、さまざまな理由で義士になれなかった者たちがいる。家老の大野九郎兵衛は「逐電家老」と罵られ、岡林直之は「一家の恥」と責め立てられ、切腹に追い込まれた。小山源五右衛門、進藤源四郎、小山田庄左衛門、高田軍兵衛、毛利小平太、萱野三平、瀬尾左坐衛門なども討ち入りには参加できなかった。瀬尾は池宮彰一郎の小説「四十七人の浪士」では大石の命でお軽とその子の面倒を頼まれて脱盟したことになっている。

   赤穂浪士の1人、奥野将監定良(1647-1727)が隠れ住んだという屋敷跡が兵庫県加西市下道山にある。加西市の一部は赤穂藩の飛び地の領地だったらしい。将監は、赤穂藩で大石良雄に次ぐ重臣で、江戸城刃傷事件の後、大野九郎兵衛に代り、大石と明け渡しに努力し、最初の義盟にも加わった。しかし元禄15年7月、浅野家再興が不可能になると、8月、奥野弥五郎と共に脱盟した。その後、将監の娘が磯崎神社の神宮寺に嫁いでいるのを頼り、ここにしばらく居を構えた。奥の墓石は将監の娘の子の墓と伝えられる。将監はその後、現在の中町の延明寺に移り住んだ。享年は82歳といわれ、長命だった。

わが愛読書

   著名人の愛読書を雑誌の特集でしばしばみかけることがある。だが個々の作家の愛読書が何かという一覧を探したが見つからなかった。サミュエル・スマイルズ(1812-1904)は「人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである」といっている。さすれば著名人がどのような本を愛読しているかを研究することも全く無意味な労とはいえまい。

  「大和古寺風物誌」で知られる評論家の亀井勝一郎はゲーテの「イタリア紀行」を読んで、大和の古寺を訪れることにしたと書いている。芥川龍之介が「西遊記」、大江健三郎が「ハックルベリー・フィンの冒険」や「ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅」、北杜夫が「星の王子さま」など児童書をあげている。心理学者の河合隼雄もアルス社の日本児童文庫にあった「グリム童話集」をあげている。漫画家の水木しげるが上田秋成の「雨月物語」、文芸評論家の磯田光一が三島由紀夫「金閣寺」、将棋界のレジェンド、ひふみん(加藤一二三)の愛読書は「聖書」をあげている。

年寄りの聞き違い、いえ音韻連鎖です

T02080600_0208060011054087923   「パプアニューギニア」と発音すると、なぜか「パパは牛乳屋」と聞える、どことなく似ていると思いませんか。これを音韻連鎖というそうです。ある課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし脱ぎ始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸が見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き違いにご用心。

   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、「美文字研究家」と「いぼ痔研究家」。(9月16日)

ラディゲとベアトリス

15580
 ベアトリス・ヘイスティングス

    1914年、モディリアーニ(1884-1920)は、ザッキン(1890-1967)の紹介でイギリスの女流詩人でジャーナリストであるベアトリス・へイスティングス(1879-1943)を知る。彼女は北アフリカに生まれ、へイスティングスと結婚するも、間もなく別居。ロンドンへ行き週刊誌「ニューエイジ」のパリ特派員としてモンパルナスのノルヴァン街13番地に住んでいた。詩人エズラ・バウンドを発見し、小説家キャサリン・マンスフィールドと交友があった。モディリアーニは教養が高く、女権論者の5歳年上のベアトリスに惹かれた。やがて2人は恋仲となり同棲する。ベアトリスをめぐる詩人マックス・ジャコブ(1876-1944)との三角関係も1916年半ばには破局を迎えた。その後、ベアトリスはかつてモディリアーニから紹介されたレイモン・ラディゲ(1903-1923)と関係を持つようになる。ラディゲは年上女性との体験をもとに「肉体の悪魔」を1919年ころから書き始め、1923年に完成しベストセラーとなった。ラディゲは腸チフスにかかり、1923年12月12日、パリの病院で20歳の若い生涯を閉じた。ベアトリスはその後ファシズムのシンパとなったが、1943年に自殺している。翌年、ベアトリスの昔の恋人マックス・ジャコブもユダヤ人強制収容所で病死している。

2017年12月11日 (月)

リメイク作品はオリジナルを超えられるか?

A0212807_159554

   市川崑や木下恵介が晩年、自らの作品をカラーで再映画化した。なぜ大監督は再映画化したがるのかその心理はよくわからない。リメイク作品がオリジナルより良いという例はほとんどない。アクションや特撮ものであれば技術の向上により面白い作品に仕上がるケースはある。しかし小津安二郎などの名作をリメイクすることは、かなり冒険に近いことである。山田洋次はここ数年、小津作品に関心を示している。既に舞台の演出で「麦秋」「東京物語」を手がけてきた。そして「東京物語」をモチーフに、舞台を現代に移し、家族の在り方を描く「東京家族」の制作を発表している。映画「東京物語」は世界の映画監督が選んだ「最も優れた映画」の第1位に選ばれた作品である。英国BBCは「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつく上げた」と評価した。

 小津作品のリメイクには高いハードルがあるだろう。当初予定していた主演演級の菅原文太、市原悦子、室井滋らは降板するという異例の事態となった。そして小津作品リメイクに対して「天を恐れぬ所業」(河谷史夫)との批判も噴出した。映画は観てから批判すべきだと思うのだが、なにやら暗雲がただよう。芸術は既成の名作を破壊して新しいものを創造していくことに真価があるとおもうのだが、80歳を過ぎた巨匠にはやはり過去をよりどころにするしかないのであろう。映画界も話題性と安全性とでリメイク映画が生れるのだろうか。

ハリウッドも最近リメイクブームが続いている。CG技術の向上で、スペクタクル作品が安価で作られるようになり、知名度の高い作品は映画興行だけでなく、ソフトコンテンツの収益が見込まれるからだろう。「ベンハー」「オリエント急行殺人事件」、テレビ版「戦争と平和」などなど。旧作を超えることは難しい。

漢帝国の全盛と西域経営

5199031764146760844   前141年、16歳で即位した武帝は、54年にわたって漢帝国の頂点に君臨した。そしてこの時代こそ、西漢王朝の全盛期といえる。国内に大きな争いはなく、国力は充実し、首都長安には莫大な銭や穀物が備蓄されていた。国庫に納められた穀物のなかには、あふれて腐るものも少なくなかった。

   武帝は自制心に欠け、激高しやすい性格ではあったが、政権運営の面においては有能さを発揮し、積極的な対外政策にも打って出る。前127年には衛青がオルドス地方(現・内モンゴル自治区の西部)を奪回し、前121年には霍去病が祁連山に進出し、匈奴に大勝利を収めた。これにより漢王朝は中央アジアへ勢力を拡大し、同地方への漢人の入植が促進されるのである。また、武帝は同時期に外交政策として前139年に張騫を西域へ派遣。張騫が西域に送られた目的は、西のイリ地方に建っていた大月氏と結ぶことで匈奴を挟み撃ちにするということがあったが、大月氏の拒否に遭い、目的は果たせなかった。だが、その代わり、張騫がバクトリアやフェルガナに辿り着いたことで現地の事情を深く知るとともに、遠くローマ帝国の情報を知り得ることができ、漢王朝に多大な貢献をもたらすことになる。事実、漢王朝はその後の前104年、前102年、前42年に西域へと進軍することでいわゆる交易路の「シルクロード」を開いた。

武帝時代 年号の創始・建元、皇帝の権威誇示

中央集権体制の完成

儒教の官学化 董仲舒の献策 五経博士の設置(参考:小倉芳彦「孔子から董仲舒へ」古代史講座12)

官吏任用法として 郷挙里選を制定

塩・鉄・酒の専売

経済政策 均輸・平準法 五銖銭の流通

対外政策 匈奴討伐 将軍衛青・霍去病派遣

西域経営の拠点として武威・酒泉・張掖・敦煌の4郡設置

李広利は軍馬を求め、フェルガナ(大宛)に遠征

衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡以下4郡を設置

巫蠱の乱 宮廷内での権力争い。巫蠱(ふこ)とは、木の人形を土中に埋め、これを呪詛する邪信仰。(世界史)

  漢武帝関係文献目録
漢・武氏祠画像題字 書跡名品叢刊 田中有解説 二玄社 1979
漢武帝 尹湘豪編著 南昌・江西人民出版社 1981
漢の武帝 中国の英傑3 福島吉彦 集英社 1987
楚漢春秋 漢武故事 漢武事略 叢書集成初編 中華書房 1991

お菓子が入ったクリスマスブーツの起源は?

Photo   銀のブーツにお菓子やおもちゃが入ったクリスマス・ブーツが店頭でよくみかける今日この頃。日本独自のもので外国にはない(韓国にはあるかもしれない)。戦後からだと思うがその起源についてははっきりしない。クリスマスプレゼントは1906年に救世軍が籠に果物や菓子・パン・玩具などを詰め込んだものを貧しい人にプレゼントしたという記事があるが、今日みられるような駄菓子を詰め込んだ市販用のクリスマス・ブーツが一般に普及したのは1960年頃といわれる。一説によると滋賀県の草津市の業者「近江物産」が1947年に売り出し、全国に広まったといわれている。1960年当時、わたしは小学生だったが市場の菓子店にクリスマスブーツがたくさん並んでいるのをはっきりと記憶しているので、おそらく1950年代にはどこの家庭でも、クリスマスを祝うスタイルが定着していたものと推測する。

2017年12月10日 (日)

アイスクリームはもともと兵士の健康食だった?

0231   真冬の寒い季節でもアイスクリームを食べる人が多くなった。アイスクリームが嫌いという人はあまり聞いたことがない。アイスクリームのそもそものルーツは諸説あるが、古代ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼる。冬の間に降った雪や、自然にできた氷を保存し、蜜などを加えたものを戦場で戦っている兵士に疲労回復の健康食として供したのが始まりといわれる。ほかに中国が起源とする説もある。13世紀の終わりころ、中国でアイスクリームを食べたマルコ・ポーロが帰国後、そのつくり方をイタリアに伝えたといわれる。楽聖ベートーヴェンもアイスクリームが好きだった。「今年の冬は暖かいので氷が少なく、アイスクリームが食べられるかどうか心配だ」と日記に書いている。日本で初めてアイスクリームが広まるのは明治になってから。米国で製法を学んだ出島松蔵が明治6年、明治天皇にレイシの果物と共に「あいすくりん」を献上したのが始まりである。

   歴史上の人物もそれぞれ好物がある。マリー・アントワネットがこよなく愛したのがアルザス地方に伝わる焼き菓子クグロフ。徳川家康は鯛のてんぷら。家定はスイーツ(芋、カステラ)。慶喜は豚肉。西郷隆盛は鰻。夏目漱石は甘党で羊羹と最中。高浜虚子はおでん。斎藤茂吉や淀川長治はウナギ。手塚治虫はチョコレート。マザー・テレサはチョコレートが好物だった。向田邦子は水羊羹。(Beethoven,kouglof) 

多読多憶、情報の保存と検索(雑学図書館)

Img_2605s     1851年のこの日、米図書館学者メルヴィル・ルイス・コシュート・デューイが誕生した。彼は「デューイ十進分類法」で知られる。図書館を「人類の記憶装置」というけれど、10万冊の本が並んでいれば、たいていの人は目的の本を見つけることは労力を要する。図書館の本の並び方には法則があって、日本なら「日本十進分類法」に従っている図書館がほとんどである。主題によって0から9までの数字に大きく分けられており、さらに細分されている。もちろん自分の探す目的がはっきりしていればいいのだが、「何か面白い本はないか」と気ままに本を探したいときはどうすればよいか?分類「0」は総記といって、この世のすべての事象に関することを扱っている。百科辞典などが多いが、「049」という記号の本は「雑書」である。general miscellanies。特定の主題に分類できない本がここにくる。「雑学百科」という類の本もあるが、どこにも分類できない変な本も多い。「生協の白石さん」や町のヘンなものを集めた「VOW」シリーズや「イグ・ノーベル賞」もここに分類されることが多い。049は駄本も多いが、思いもかけない本が見つかる場合もある。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していた。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワードで検索できるシステムが開発された。目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。(12月10日、雑学ブログ)

義挙成功の影の功労者、寺坂吉右衛門の墓

C0133509_19572196
  曹渓寺 寺坂吉右衛門夫妻の墓

    1747年、寺坂吉右衛門信行は、83歳で死去した。寺坂は軽輩ながら特に認められて義盟に加えられた。47士のうち足軽は信行ひとりである。芝高輪の泉岳寺には義士と称する墓は48基ある。はじめは46基だったが、慶応4年に寺坂信行の供養墓が建てられ、明治4年に萱野三平の供養墓が建てられ、48基になった。なぜ赤穂四十七士というのだろうか。そもそも忠臣蔵は47でなければならなかった。仮名手本忠臣蔵は「いろは四十七文字」に47人の義士がなぞらえているからである。そこで古来から義士が46人か、47人かで意見が分かれる。とくに寺坂信行が泉岳寺へ引き揚げる途中、姿を消したことをめぐって諸説紛々たるものがある。要約すると、信行は吉良邸に討ち入らず門前から逃亡したという説と、本懐達成の後、報告をさせるために逃亡者に仕立てたという密使説とに分かれる。むかし神戸大学の八木哲治教授が古文書を仔細にあたり、赤穂義士46人説をとなえたところ、郷土史家や市民から感情的な反論がでたことがある。信行を赤穂義士に入れるか外すは、現在でも一般の関心が高い問題であった。歌舞伎の忠臣蔵が47人が絶対数であることは寺坂にとって有利である。最近の忠臣蔵ドラマでは寺坂が討ち入りに加わり、刀を取って奮戦しているものもある。だが脚色された話ではなく、歴史の真実が知りたい人も多いだろう。寺坂の墓は高輪泉岳寺とは別に本当の墓が麻布の曹渓寺にある。伊藤十郎太夫に仕えたのち、旗本山内主膳に仕え、83歳で他界した。墓の隣には、妻せんの墓があることがその後の穏やかな人生を物語っている。寺坂の死は赤穂義士たちの切腹から46年後のことであった。寺坂の墓は全国各地に7か所もある。長崎の久賀島にはこのような逸話が伝わる。寺坂が討ち入り前に、長崎五島の久賀島に行き深堀騒動で流刑の身の志波原羽右衛門を訪ね、これを大石内蔵助に報告し、内蔵助は吉良邸討ち入りの手本としたとされる。また2度目はそのお礼と報告のために久賀島を訪ねるが、志波原はその前年に遠島を許され、深堀に戻っていた。しかし、寺坂は、久賀島の福見の里の恵剣寺に住みつき、83年の生涯を終えており、寺には墓もある。(10月6日)

2017年12月 9日 (土)

MGMが一番好きだった

  洋画会社。20世紀フォックス、ワーナーブラザーズ、パラマウント、ユニヴァーサル、ディズニーなど。映画みるときあまり気にしていないけど。「カサブランカ」「エデンの東」「大脱走」はワーナー、ハリーポッターもワーナーだけど、なぜかUSJでイベントしている。パラマウントは「ローマの休日」「ゴッドファーザー」、ユニヴァーサルは「ET」「スティング」、フォックスはマリリン・モンローやスター・ウォーズ。コロンビアは「ナバロンの要塞」でいまはソニーが買収している。最近好調のディズニーが20世紀フォックスを買収しようとしているらしい。ライオンが吠える映画マークのMGM、ミュージカル映画「雨に唄えば」「バンド・ワゴン」「巴里のアメリカ人」など、どれも楽しかったなあ。

ミネルバの梟は夜飛び立つ

   学問の発祥地のアテネにはミネルバの森がある。この森には梟が住んでいて、森が暗くなると、梟が飛び立って、道筋を照らすという。ギリシア神話の女神アテナは、梟をお使い鳥とし、アテネ市を保護下においていちばんに栄えた。梟はアテネの銀貨の図柄に用いられた。「ミネルバの梟は夜飛び立つ」といえば、知識の象徴である梟は「夜」すなわち「人生の晩年」になって飛躍する、という意味にも使われる。

   ドイツの哲学者ヘーゲルは「法哲学」の序言で「ミネルバの梟は夕暮れになるとはじめて飛翔する」とある。つまり学問といものは現実のあとを追うものである、という意味にも使っている。

難しい歴史クイズ

Henricus_martellus_germanus_wirkung   人類が歩んできた道、歴史は無数の事実の集積でできている。歴史学とは多読と多憶が大事。世界の国家・都市・人物・事件・文芸作品・文化遺産などさまざまな項目の中から、大学入試問題のように限定されたものではなく、マニアックな珍問、難問、奇問など、重箱の隅をほじくるような悪問ばかりです。さあ、みんなでチャレンジしてみよう!

問1.オスマン帝国がロシアにダーダネルス・ボスポラス両海峡の自由航行を認めた1833年の条約名は?

問2.ガーフィールド大統領の暗殺を契機として1883年にアメリカで制定された公務員任用法を一般に何というか?

問3.日本に初めて暦を伝えた人物は?

問4.アメリカが第一次世界大戦に参戦する契機となったのは何という船が撃沈されたからか?

問5.ナポレオンは生涯に2度も島流しにあっているが、最初に流された島はどこか?

問6.米使ペリーが浦賀来航したときの徳川将軍は?

問7.昭和20年8月15日。このときの内閣総理大臣は誰?

問8.女人禁制だった富士山の山頂登山に初めて成功した女性は誰?

問9.漢代、15歳から56歳までの男女に課された人頭税を何という?

問10.ローマ教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世に監禁された事件は?

問11.ヨーロッパ11世紀ころに各都市に成立した商人の同業組合を何というか?

問12.諸葛孔明が宿敵・魏との戦いのさなかに陣中に没した場所は?

問13.西ローマ帝国最後の皇帝は?

問14.近代以前の中国が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んでその統治を認め、従属的関係を維持した政策を何というか?

問15.鎌倉時代から室町時代にかけて、朝廷・幕府などが土倉などの債権者・金融業者に対して、債権放棄を命じた法令を何というか?

問16.ニュートンの「プリンキピア」をフランス語に初めて翻訳した女性は?

問17.イタリア王国最後の国王は?

問18.フランス軍がスーダンに占領するなか、イギリス軍と衝突した事件、フランスが撤退したことで戦争は回避されたがこの事件とは?

問19.もとは兜をかぶるためであったが、江戸時代、頭頂の半月形に剃り落とした男子の髪型を何と言う?

問20.世界初の女性首相は?

問21.アメリカ初代大統領はジョージ・ワシントン。第2代大統領は?

問22.東海道の宿場町は53。では中仙道の宿場町の数は?

問23.明治15年、岐阜遊説中の板垣退助を襲った暴漢の名前。

問24.訪日した最初の現職米大統領は?

問25.1991年、東ティモールのディリで独立を求めるデモ行進中の市民に対してインドネシア国軍が無差別発砲した事件は?

問26.1944年7月のブレトン・ウッズ協定に出席したイギリスの経済学者は?

問27.エジプトのギゼ三大ピラミッドで一番大きいのは?

問28.19世紀帝国主義の時代、各国は利害関係から同盟を結んだりしたが、独力で海外進出して「名誉ある孤立」としてどこの国とも手を結ばなかった国は?

問29.聖徳太子の父親の名は?

問30.イギリスで唯一、軍人から首相になった人物は?

問31.明智光秀を竹槍で殺したといわれる人物は?

問32.歴代アメリカ大統領の中で暗殺されたのは何人?

問33.初代内閣総理大臣は伊藤博文。では2代目は?

問34.古代エジプトの第1王朝とか第18王朝のように、最初に番号で表した人は誰?

問35.島原・天草一揆の指導者である天草四郎時貞の洗礼名は?

問36.イスラム教の聖地にあるメッカの中心部にある、石造りの神殿といえば何か?

問37.17世紀末以後のイギリスの政党で、王権による伝統的支配体制を擁護し、ホイッグ党と対立した政党は?

問38.初めて紅茶を飲んだ日本人は?

問39.ペルーのフリアカにある空港の名前にもなっているインカ帝国の初代皇帝は?

問40.870年に東西のフランク王国が結んだ条約で、独・仏・伊の原型が成立した条約は?

問41.383年に前秦と東晋との間に起こった戦いは?

問42.源頼朝が征夷大将軍に就いたときの年号は建久。では徳川家康が征夷大将軍となったときの年号は?

問43.マルティン・ルターがザクセン選帝候フリードリヒに保護され、聖書の翻訳をしたワルトブルク城のあるドイツの州(ラント)は?

問44.ナポレオン1世がオーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世の連合軍を破った戦いは?

問45.巨大なゼウス神殿や彫刻「瀕死のガリア人」などのヘレニズム美術が作られた前3世紀から前2世に栄えた小アジアの国は?

問46.応仁の乱後に一般化した市の形態で、月に6回開く市を何と言うか?

問47.石清水八幡宮を本所とする大山崎油座の扱った油は何の油か?

問48.ギリシアの三大悲劇詩人。アイスキュロス、ソフォクレス。あと1人は誰れ?

問49.鎌倉・室町時代に盛行した禅僧の肖像画を何というか?

問50.18世紀前半のオスマン帝国の盛時をチューリップ時代という。では17世紀から18世紀にかけて「太陽の没することなき帝国」といわれたスペインの黄金時代は何と呼ばれるか?

問51.初期キリスト教徒の地下埋葬墓地。迫害弾圧のときはここに集まり、その信仰を守ったところを何というか?

問52.「この頃みやこにはやるもの、夜討、強盗、にせ綸旨…」ではじまる政治批判の落書を何というか?

問53.1865年に石器時代を大きく旧石器と新石器の時代に区分したイギリスの考古学者は?

問54.本名、矢崎鎮四郎(1863-1947)といった明治の小説家は?

問55.コロンブスが大西洋を西に向かった最初の航海のときに乗った帆船名は?

問56.著書がその身長と比べられるほどあったという江戸時代の儒者、伊藤長胤(いとう ちょういん)の号は?

問57.アメリカの歴代大統領で、最も若くして死亡したのは46歳だったJ・F・ケネディ。では日本の総理大臣で寿命の最も短かったのは?

問58.初めてアマゾン川を探検した日本人は?

問59.キリシタンに迫害を加え、残酷な処刑をおこなった島原城主で、島原の乱の原因をつくった島原藩主は?

問60.「古事記 下巻」でおしまいに登場するいちばん最後の天皇は?

問61.マルティン・ルターが隠れて聖書をドイツ語に翻訳していたアイゼナハにある古城は?

問62.フランス革命で処刑されたルイ16世やマリー・アントワネットの墓はどこにある?

問63.「美しき青きドナウ」などを作曲した「ワルツ王」と呼ばれたオーストリアの作曲家は?

問64.二・二六事件当時の首相は?

問65.明治17年、自由党の過激派が茨城県で暴動をおこした事件は?

問66.殷を滅ぼして黄河中流域を支配した中国の王朝は?

問67.1414年から1417年にかけて教会の大分裂(シスマ)解決を主目的としてドイツ南西部の小都市で開かれた公会議とは?

問68.秦兵馬俑を1974年の第一発見者の名前は?

解答:問1ウンキャル・スケレッシ条約。問2ペンドルトン法、問3百済の僧・観勒、問4ハウサトニック号、問5エルバ島、問6徳川家定、問7鈴木貫太郎、問8高山たつ、問9算賦、問10アナーニ事件、問11ギルド、問12五丈原、問13ロムルス・アウグストゥルス、問14冊封体制、問15徳政令、問16エミリー・デュ・シャトレ侯爵夫人、問17ウンベルト2世、問18ファショダ事件、問19月代、問20シリマボ・バンダラナイケ。問21ジョン・アダムズ。問22中仙道67。問23相原尚褧(あいはらなおぶみ)。問24ジェラルド・フォード。問25サンタクルス事件。問26ジョン・メイナード・ケインズ。問27クフ王のピラミッド。問28イギリス。問29用明天皇。問30アーサー・ウェルズリー(ウエリントン)。問31中村長兵衛。問32.4人。問33黒田清隆。問34マネト。問35ジェロニモ。島原の乱当時はフランシスコ。問36カアバ。問37トーリー党。問38大黒屋光太夫。問39マンコ・カパック。問40メルセン条約。問41淝水の戦い。問42慶長 。問43チューリンゲン。問44アウステルリッツの戦い。問45ペルガモン王国。問46六斎市。問47荏胡麻(えごま)。問48ソフォクレス。問49頂相。問50シグロ・デ・オロ。問51カタコンベ。問52二条河原の落書。問53ジョン・ラボック。問54.嵯峨の屋お室。問55.サンタ・マリア号。問56.伊藤東涯。問57.近衛文麿の54歳。問58.中村直吉。問59.松倉重政。問60.推古天皇。問61.ワルトブルク城。問62.サン・ドニ大聖堂。問63.ヨハン・シュトラウス。問64.岡田啓介。問65.加波山事件。問66.周。問67.コンスタンツ公会議。問68.楊志初(ようしはつ)。

漱石忌と則天去私

Photo_2   夏目漱石は大正5年11月21日、築地の精養軒における辰野隆、江川久子(山田三良)の結婚披露式に出席した。翌日、机上の原稿紙に189と『明暗』の回数を書いたままうつぶせ、ひとり苦しんでいた。胃潰瘍の5度目の発作が起こった。真鍋嘉一郎が主治医となったが、11月28日、大内出血があり、12月9日午後6時50分、永眠。享年49歳。12日、青山斎場で葬儀が行われた。導師は釈宗演。戒名「文献院古道漱石居士」。狩野亨吉が友人代表として弔辞を読む。28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬された。漱石の死は明治という時代が終わったという感がある。

   その最期は、物静かに「有難い」と一口云って息を引き取ったと伝えられる。(別冊太陽、夏目漱石)漱石の臨終記録は、このほかに、

いよいよ臨終となった時、寝間着の胸をはだけ、「ここに水をかけてくれ!死ぬと困るから…」と叫んで意識を失い、そのまま息を引き取っている。

   とある。「則天去私」の境地とは程遠いが、おそらくこちらが真実であろう。

  また漱石家もその頃、家族8人、鏡子夫人、長男純一(1907生)、長女筆子(1899生)、次女恒子(1901-1936)、三女栄子(1903生)、四女愛子(1905生)、次男伸六(1908生)が住んでいた。それに、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、内田百閒、赤木桁平、松根東洋城、野上豊一郎、鈴木三重吉、岩波茂雄、安倍能成などの木曜会のメンバーたちが臨終にいたであろう。(未確認)

つまり漱石の最期はかなり賑やかなものだったと想像される。

  漱石の脳がエタノールに漬けられた状態で、東京大学医学部で保管されている。その重さは1425グラムで、日本人の男子の平均より75グラム重く、天才的頭脳の型であった。

E160b593

Photo  道後温泉本館三階の一室「漱石の間」には「則天去私」の掛け軸がある。直筆ではなく平田抱山が書いた偽物。そこには「小さな私を去って自然にゆだねて生きる」と簡潔な説明がある。弟子の小宮豊隆は「漱石先生は晩年に至って則天去私という悟りの境地に達しておられた」と書いている。東洋的な調和の境地はすでに初期の作品にもみれるが、漱石自身が晩年に至るまで「則天去私」という言葉を一度も書き残していないことから、ついに最後まで悟りの境地に達することができなかったのではないだろうか。つまり則天去私とは漱石の晩年の思想というより、悲願、こうありたい、という切実な求道であった。

 漱石揮毫の「則天去私」の四文字は最晩年に仙紙半紙より短い紙に、行書体で書かれたもの。日本文章学院編「文章日記」(大正5年)に初めて掲載されている。(参考:石崎等「漱石と則天去私」 跡見学園短期大学紀要 1978-03)

2017年12月 8日 (金)

雑学研究室 第1集

Trivia_2 この世の中には、知らなくたって生きていくのに全然困らないのだけれど、知っていたほうが楽しく生きていけるというお話が無数にある。「新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来」「リンカンが髭をはやしたわけ」「山の頂上で叫ぶのは、なぜ「ヤッホー!」なのか?」なんて話、知らなくたって、日々の暮らし、仕事になんの支障もない。でも、知っていればそれだけでなんだか楽しくなるし、人に話せば喜ばれること、間違いなし。それが雑学の面白さなのだ。

 リンカーンとダーウィンは1809年の同じ日に誕生している。▽動作が鈍重な人を「のろま」というが、江戸中期の野呂松勘兵衛という人形の遣い手がルーツである。▽講談「天保水滸伝」でおなじみの平手造酒。モデルの平田深喜は笹川繁蔵の筆の師匠。剣ではなく書道の達人だった。▽サトウキビの糖蜜または絞り汁を発酵させて作ったラム酒。日本では「バナナ・ボート」の歌がヒットした頃、バーで飲まれるようになった。▽石崎秋子が上流家庭に家政婦として派遣され、その欺瞞ぶりを覗き見る市原悦子主演ドラマ「家政婦は見た」。もとの原作者は松本清張。▽茨城弁「ごじゃっぺ」意味は「でたらめ、いいかげん」。

Langues_de_chat3 ▽細長い独特の形をしたフランスのクッキー「ラング・ド・シャー」。 猫の舌のような形をしているのでそう呼ばれる。▽すしのバッテラは、ポルトガル語でボートを意味するバッテイラからきたもので、形が似ているから。▽宮本武蔵は大男で身長は6尺、およそ180㎝くらいあった。▽「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)がベストセラーになった頃、「にわとりのジョナサン」(アルブレヒト・ワインスタイン)も刊行された。▽かぐや姫が紅白歌合戦に出場することになった時、NHK側が「神田川」の歌詞の中の「24色のクレパス」は商品名なので、「クレヨン」に変えて歌ってほしいと言った。南こうせつは悩んだすえ、「歌詞の雰囲気が壊れる」と断り、出場を断念した。

Image1 ▽木版画を摺る際に用いられる「ばれん」を漢字で書くと「馬楝」▽「バカの壁」(養老孟司)というベストセラーがあるが、「アホの壁」(筒井康隆)という本もある。▽豊臣秀吉は右手指が6本あった。▽「女心と秋の空」は元々は「男心と秋の空」だった。▽日本で出版された本でタイトルの五十音に並べると間違いなく1番最初にくるのは、大槻あかね「あ」(こどものとも絵本)である。安藤富治「嗚呼硫黄島」もかなり最初にくるようだ。(知らなくてもいい雑学,無用の雑学知識集、雑学ブログ) Langue de chat

実はシーザーは帝王切開で生まれていなかった?

 母親のお腹を切って赤ちゃんをとりだすことを「帝王切開」という。医学用語で、これをラテン語で「セクティオン・カエサレア」という。カエサルの出生が、こういう外科手術によったため、この言葉ができたと伝えられる。つまりカエサルは帝王切開で生まれたと考えるところだが、どうやらこれはちがうらしい。なにしろ帝王切開手術がはじまったのは、16世紀以降のことで、紀元前生まれのシーザーが帝王切開で生まれたというのは、つじつまがあわない。ラテン語で「切開する」は、caedereという。いっぽうシーザーは英語で書くとCaesarで、ひじょうにつづりが似ている。そのため両者が混同され、いつしか「シーザーの切開」という名前が誤ってシーザーに帰せられたのだといわれる。(世界史)

太平洋戦争開戦記念日

十二月八日よ母が寒がりぬ(榎本好宏)

  昭和16年12月8日。この日から何年経っても、日本人には決して忘れられない日である。この日を境に人々は戦争に巻き込まれ、多くの人々の運命が暗転した。昭和39年に集英社から刊行された「昭和戦争文学全集」の第4巻には昭和16年12月8日の対米英戦争開始から昭和17年5月のコレヒドール攻略、珊瑚海海戦頃までの、緒戦の時期に関する記録・作品が収められている。なかでも12月8日の記録としては、太宰治、坂口安吾、伊藤整、高村光太郎、徳田秋声など諸家のものがあるが、上林暁の「歴史の日」(「新潮」昭和17年2月号)という手記が一番素直な気持ちで当時の空気を今日のわれわれに伝えているような気がする。

昭和16年12月8日は、遂に歴史の日になってしまった。(中略)隣のラジオが突然臨時ニュースの放送をはじめたのであった。「大本営陸海軍部発表、12月8日午前6時、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」(中略)その時、妹が庭で干し物をしていて、隣の女中が、垣根越しに、話しかけている。何を話しているのかと思って耳を立てると、「今朝はとってもひどい霜ね」と隣の女中が言った。「屋根が雪みたようでしたね」と妹が答えた。戦争のはじまった朝だから、霜の印象が深いのにちがいない。そうかと思って、私は目をあげた。隣の屋根が水びたしになって濡れている。うちの樋からは湯気が立っている。私はそれを見ながら、戦争のはじまった朝に、隣の女中が、霜の話をしたのが、印象に深く残るであろうと思った。

    当時、上林暁(1902-1980)は39歳。妻の繁子が昭和14年から入院中であった。上林は9年間患い死んでいった妻のことを書いた一連の作品「聖ヨハネ病院にて」(1946)などで知られる作家である。この「歴史の日」でも病妻のことに触れている。自分の心境を書く小説家と、未曾有の国家的事件発生でとまどう不安な心理状況が文面からうかがえる。

2017年12月 7日 (木)

運命の赤い糸の伝説について

   昔から言い伝えで、結婚する男と女は、生まれたときからお互いの小指と小指が目に見えない赤い糸で結ばれているといわれている。この「赤い糸」の伝承は、いかにも西洋風に思えるが、ヨーロッパにはそのような伝承はなく、実は古代中国にあると考えられる。「南方熊楠全集3」の「月下氷人」の項に類似例が載っている。「唐の宰相張嘉、五女におのおの一糸を持てのれんのかげにならしめ、郭元振して前(すすんで)牽きえた者を妻(めと)らしめると、五色の糸のうち紅線(べにすじ)を引いて第三女を得た、とある。福引で嫁取りとは捌けた仕方だ」この話は『太平広記』に収められた唐代の「続玄怪緑」(李復言)の「定婚店」がもととなっている。「古事記」「日本書紀」にも「三輪山伝説」という話があり、赤い糸のルーツとする説もある(「雑学王 話のネタ大事典」河出書房新社 97p)

お誕生日のうた

  忘年会シーズン、カラオケの選曲に悩む方もおおいだろう。今年もさまざまな歌がつくられた。DAOKA×米津玄師「打上花火」、星野源「family song」、倉木麻衣「渡月橋」、椎名林檎「おとなの掟」、JUJU「いいわけ」、高橋優「ルポルタージュ」などなど。全世界ではもっとたくさん数えきれない歌がつくられている。では世界でいちばんよく歌われている歌は何か?世界中で一番歌われている歌として、ギネスブックにも登録されているのは、誕生日を祝うために歌われている「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」である。元歌は米国のミルドレッド&パティ・ヒル姉妹(Mildred J.Hill、Patty Smith Hill)が1893年に作詞・作曲した「グッドモーニング・トゥ・オール Good Morning to All」。1920年前後にGood MorningとHappy Birthdayを替えた歌が広まった。当初この歌は、幼稚園の朝の挨拶の歌として歌われていた。ところが、この歌のメロディに別の歌詞がつき、替え歌の「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」が歌われたところ、大ヒットし、全世界に広まることになった。1947年にビング・クロスビーが歌った「Happy Birthday」がレコード化されている。

明治のうさぎブーム

20110129212711cc2   明治初めの頃、生活の困窮した士族たちが困って珍商売やら、投機対象に何か儲け口はないか、「おぼれるものは藁をもつかむ」の社会状況であった。こうした折から、誰が思い付いたのか、うさぎを飼うことが、「カッコ」がいい、と言い出した。初めはうさぎを飼って育てることだったらしいが、やがて珍種に高値がつきだした。ウサギの流行は明治4年ごろから起こり、特に白地に黒い斑点の、「黒更紗」と呼ばれるウサギに人気があり、オスは15両、メスは5、60両、「孕兎」は7、80両という高値がついた。こうして兎ブームがおこり、明治6年4月ころになると、悪い連中がいて、外国から兎を輸入して一儲けしようという考えで、香港や上海などからいろいろの兎を輸入して、好奇心をあおった。色変わり、耳変わり等々大いに煽動した。あまりの過熱に、ついに東京市では、兎に税をかけることにする。一羽につき月一円。12月7日に通達がでるや、税逃れで兎を殺すものも現れた。値段は暴落し、明治6年の年末はウサギで大混乱となった。結局この兎投機ブームで儲けたのは一部の外国人貿易商人だけだった。(参考:白山映子「明治初期の兎投機 「開化物」とメディアから見えてくるもの」 東京大学大学院教育学研究科紀要51、2011年)

2017年12月 6日 (水)

すっきり眠れてますか?

Photo

   「睡眠」は英語でスリープ sleep、ドイツ語でシュラ―フェン Schlafen、フランス語でソメイユ sommeil。 仕事や家庭の悩みなど、ストレスで不眠になる人も多い。睡眠には、「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」があり、この2つが交互に訪れて睡眠のリズムをつくる。レム睡眠では、体の力は抜けているが、脳の一部は活動している。ノンレム睡眠では、脳は完全に休んでいる。ストレスが加わると、この睡眠のリズムが乱れ、ノンレム睡眠が減り、レム睡眠が増える。不眠を改善し、質のよい眠りを得るためには、次のような方法がある。ぐっすり眠るためには、寝る前のルーティンが大切である。

遅寝・早起き

眠くなってから床につく

昼間に太陽の光を浴びる

刺激物を避ける

ぬるめの入浴

軽い運動

寝具を選ぶ。とくに枕。

室温を整える。

寝る前には何も考えない。寝る前に脳を活発に動かしてしまうと、なかなか寝つけません。難しい本を読んだり、退屈なテレビを見たり、とにかくリラックスし、脳を単調な状態(モノトナス)に持っていく

心地よい睡眠は、リラックスした体と環境をつくることが大事である。

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

映画のキス・シーン

Call_of_the_yukon_in_japan_1945

  戦後初めてアメリカ映画が公開されたのは、昭和20年12月6日、西部劇「ユーコンの叫び」(ビヴァリー・ロバーツ主演,1938年制作)が東京の日劇と日比谷映画で上映された。そして昭和21年2月封切りの「春の序曲」(ディアナ・ダービン主演)と「キュリー夫人」(グリア・ガースン主演)も大ヒットした。(ともに1943年制作) 映画館は長蛇の列をなした。

    占領軍は毎週2本の作品を公開し、1本は娯楽作品、もう1本は民主主義の啓蒙に役立つ作品とする基本方針を立てた。つまり「春の序曲」は娯楽作品、「キュリー夫人」は啓蒙的な内容をもった作品というわけだ。

    「カサブランカ」(1942年製作)「ガス燈」(1944年製作)も昭和21年に公開され、イングリッド・バーグマンの人気は沸騰した。さらに5年間の空白を一気に埋めるかのようにバーグマンの主演作が続々と上映された。昭和23年「聖メリイの鐘」(1945年製作)、昭和24年「汚名」(1946年製作)、昭和25年「サラトガ本線」(1945年製作)、昭和26年「白い恐怖」(1945年製作)、昭和27年「凱旋門」(1948年製作)、昭和27年「誰がために鐘は鳴る」(1943年製作)、

    6年間にバーグマンのこれまでの代表作が観ることができたのであるから、この時代、日本での最高の人気女優が彼女であったことは間違いない。とくにヒッチコック監督の「汚名」は、戦後に製作された映画であり、イングリッド・バーグマン&ケーリー・グラントという美男美女カップルのため、スリラーよりもラブシーンが話題となった。当時「キス・シーンは3秒まで」という規定があったが、ヒッチコックはこの規定を逆手に取り、二人が愛し合うシーンでは、3秒以内の短いキスを何回も続けさせた。その結果、二人のキス・シーンは2分半にも及び官能描写が話題となり興行的に大ヒツトを記録した。「汚名」の「あらすじ」を紹介する。

    第二次世界大戦も終わりに近い頃、アメリカの法廷で、ひとりの男がナチスのスパイとして懲役20年の刑を宣告された。そのため、娘のアリシア・フーバーマン(イングリッド・バーグマン)世間から冷たい目で見られていた。

    ある夜のパーティーで友達からデブリン(ケーリー・グラント)という男を紹介される。悲しみを紛らすためにひどく酔ったアリシアは、デブリンと夜のドライブに行き途中でスピード違反のために警察につかまるが、その時デブリンが示した手帳から彼が何やら警察と関係ある男だと知って狂気のように怒った。

    デブリンは彼女の気を静めるために殴って家へ連れ帰り、その夜ひと晩中アリシアを看護した。翌朝、デブリンは自分がFBI情報部の一員であり、南米におけるナチのスパイ組織を調査するために、一緒にリオへ行ってくれるようにと頼みこむ。

    南米へ飛ぶ飛行機上で、アリシアは父が毒薬自殺したことを知る。アリシアとデブリンは仕事の束の間に本当の恋におちいった。やがて命令が与えられる。それはリオに亡命している金持の団体が何か陰謀を企んでいるので、その実態を調査することだった。

    アリシアはその一団の一員であるアレックス・セバスチャン(クロード・レーンズ)がかつての父の友人であり、以前彼女を恋していたこともあって、セバスチャンの身辺を探るよう命令される。偶然のような再会。アレックスは母親(ミルドレッド・ナトウィック)や来合わせていた客達を紹介した。そしてセバスチャンは熱心にアリシアとの結婚を望んだ。それに対して何の反応も示さないデブリンにつらあてするかのように、アリシアは求婚を受け入れた。

    新婚旅行から帰った日、アリシアは地下の酒倉の鍵をいつもセバスチャンが持っているのを知り、その中に秘密があることを感じとった。そしてデブリンと秘かに公園で連絡した時その話を告げる。

    結婚披露のパーティーでデブリンは招待客として招かれる。そしてアリシアが夫の鍵束から外しておいた酒倉の鍵を受け取り地下室に降りていった。ふたりは暗い酒倉で逢引きをする。そしてワインの瓶の中に黒い粉を発見する。その時、足音がしてセバスチャンが現れた。ふたりは密会中を見られたようにとりつくろう。その後、再び鍵束に地下室の鍵がついているのを見てセバスチャンは妻の行動に疑問を持つようになる。セバスチャンが最も恐れたのは、自分がアメリカのスパイを妻にしてしまった大きなミスを仲間に知られることだ。母親は、毒薬を少しずつアリシアに飲ませて病気で死んだように見せかける方法を提案する。

    デブリンの上官プレスコット(ルイス・カルハーン)は瓶の中の黒粉が原子爆弾に使われるウラニウム鉱であることを知って驚く。ドイツもまた原子爆弾の開発に力を入れていることが分かる。

    その間にもアリシアは毒薬入りのコーヒーを飲まされ、次第に衰弱していった。一方、デブリンも連絡のないアリシアの身を案じて単身セバスチャンの邸へと乗り込み、彼女を連れ出そうとした。それを制止しようとあせるセバスチャンの態度に、居合わせたナチス党員たちの疑惑の目が集中する。スパイとしての彼の失策は明らかとなった。アリシアとデブリンにようやく平和な恋が訪れた。

   原子爆弾の話は、撮影直前(1945年10月)になった、ヒッチコックによって書き加えられたためである。

2017年12月 5日 (火)

モーツァルト忌

Mozart   ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ちなみに「ヴ」というカタカナはもともとなかったが、福沢諭吉が外国語を翻訳するので作ったとされる。1756年、オーストリアのザルツブルクで生まれたモーツァルトは25歳のときに故郷を捨ててウィーンに来た。そして彼は経済的には苦しかったが、独立した音楽家として自由を勝ちとることに成功した作曲家である。歌劇「フィガロの結婚」「魔笛」にはフランス革命の自由と平等の精神が盛り込まれている。モーツァルトには時代を見る目があった。1791年12月5日未明チフスのため死亡。6日の葬儀は数人の弟子が集まっただけで、折からの雷雨のため誰1人付き添わずにウィーンの共同墓地に葬られたため、現在も遺骨の所在は不明である。その急死について、当時から、彼の才能を妬んだイタリア人の宮廷楽士サリエリによる毒殺との噂もでたが、必ずしも信頼できず、やはりチフスが原因であったであろう。

  ところで、「♪眠れよい子よ、庭や牧場に~」で知られるモーツァルトの子守歌。長い間、モーツアルトの作曲といわれていたが、実はベルハルト・フリースの作曲である。作詞はフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター。(Mozart)

2017年12月 4日 (月)

ゴッホは恋多き男だった

Img_0017
 シーンの娘 坐像(左向きのプロフィール) 鉛筆 黒の石版用チョーク 水彩用紙

   フィンセント・ファン・ゴッホは37年の短い生涯で、愛した女性は数人いる。孤独のようにみえてかなりの恋愛体質である。カロリーナ・ハーネべーク(初恋の人)、従姉で子持ちの未亡人ケイ・フォス・ストリッケル(通称ケー)、マルゴ・べーへマン、アゴスティーン・セガトーリ(カフェ・タンブランの女)、マルグリット・ガッシェ(医師の娘)。しかしシーンという名前の女性がいちばんよく知られているかもしれない。ゴッホのハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

Photo_2    1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クラシーナ・マリア・ホールニク。クスクリスティーヌなのでゴッホはシーンとよんだ。二人の20ヵ月間の同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

   この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。後年、ゴッホは手紙で「自分には愛とは相性が悪い」と書いている。

ゴッホの青年時代

Goghp02
 雪の中の蒔き拾い 1884年

  ゴッホは、1853年3月30日、オランダのベルギー国境近くのブラバント地方の小村、フロート・ツンデルトで生まれた。父テオドリウス・ファン・ゴッホは村の牧師、母コルネリアは優しく、芸術に理解のある女性だった。ゴッホには兄がいたが数週間で死んだため、ゴッホが長子となった。両親は幼くして逝った子供をひどくいたみ、その子の面影を常にゴッホに影響したことは否めない。彼は頑固で気むずかしい少年で、ひとりで野原を散歩しては時を過ごし、弟のテオや3人の妹たちと遊ぶこともほとんどなかった。

    ゴッホは母親にすすめられ、10代の初めごろからスケッチや水彩画をぴんぱんに描いたようだ。ゴッホにはハーグで手広く事業をやっているセントという伯父がいた。この伯父の経営する画廊は、パリの有名な画商グーピル商会と合併していた。ゴッホは16歳で学校を卒業すると、伯父の紹介でこのグーピル商会ハーグ支店に就職し、美術館通いに熱中する。数年後、ロンドン支店、さらにパリ支店へ移った。その間に恋愛に失敗したり、宗教書に熱中したりして次第に職務にふさわしくない行動が多くなり、1876年に解雇された。その後はロンドン近くの寄宿学校の語学教師、ドルトレヒトの書店員などになったが、いずれも長つづきせず、一方、宗教への情熱はいよいよ高まって、1877年(24歳)アムステルダムへ出て牧師になる勉強をはじめた。そして翌年、ブリッセルの短期牧師養成所を終わると、みずから志願して貧しいベルギーの炭鉱ボリナージュにおもむいた。ここでの彼は熱烈な信仰心から、すべてを犠牲にして伝道に従事したが、結局は失敗し、それとともに宗教的情熱も薄れて、一年に近い放浪生活のなかから、1880年になってようやく画家としての道を選んだ。そして、ブリッッセル、ハーグ、アンベルスの各地で勉強をつづけたが、彼の描くものは絶えず労働者や農民など、現実の下層の人たちの姿であり、その周辺の生活、風景であった。しかもその間、貧困と病苦につきまとわれ、また二度、三度恋愛に失敗した。1883年9月、疲れ果ててドレスデンへ逃れ、同年12月にはヌエネンの両親のもとに移り、孤独に耐えつつ絵画に専念する。彼の初期の傑作といわれる「馬鈴薯をたべる人たち」(1885)は、こうした時期の作品である。

松下奈緒「ゴッホの青春 そして色彩が生まれた」で「なぜヌエネン時代は真っ黒な絵だったのか」という疑問を解き明かしている。若きゴッホが尊敬するオランダの画家レムブラントに憧れていたからだと説く。ゴッホに自画像作品が多いのもレムブラントからの影響の1つである。

( keyword;Vincent van Gogh )

「黒いナポレオン」ボカサ皇帝

Bokassai1sized 1977年のこの日、中央アジアのジャン・ベデル・ボカサ終身大統領(1921-1996)は、国名を中央アフリカ帝国と改め、自らをボカサ皇帝と宣言し、国家予算の2倍にあたる2500万ドルを費やしてナポレオン1世を真似た豪華な戴冠式 を行った。その後独裁政治が続くと、国際的な非難が高まり、旧宗主国のフランスも政府打倒を画策しはじめた。1979年9月、ダヴィド・ダッコが無血クーデターに成功、共和制に戻った。ボカサを仏大統領ジスカール・デスタンは支援したため、彼の人気は急落し、選挙でミッテランに敗れる一因となる。(12月4日,Jean Bedel Bokassa)

2017年12月 3日 (日)

ただ風が吹いているだけ

   人は死んだらどうなるのか?中川信夫監督の「地獄」(1960)は血の池地獄、針山など日本古来の地獄絵をスクリーンに再現している。水木しげるワールドのようだ。先ず「死出の山」と呼ばれる険しい山がある。暗い山道を登っていき峠を越えると、明るくなってくる。見下ろす山の麓には、曼珠沙華の美しい花畑が広がっている。山を降りると大きな川が見えてくる。これがこの世とあの世の境界となる「三途の川」である。賽の河原では奪衣婆が亡者から衣類をはぎとり、懸衣翁が枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計る。最後に閻魔大王(映画では嵐寛寿郎が扮している)が死者の生前の罪を裁く。判決が下り六道の辻と呼ばれる道にそれぞれが進む。出演は天知茂、三ツ矢歌子。沼田曜一がネズミ男のような悪魔の友人を演ずる。

   2017年もあと残すところ一か月。年の瀬になると人は「死」を考える。これは老齢になるほど身に迫ってくる。今年も多くの有名人たちが惜しまれつつ世を去った。クイズダービーの篠沢教授。時代劇の大スター松方弘樹。子供のころ「伊賀の影丸」を芦屋会館で見た。ゲバゲバの藤村俊二。黒沢組の土屋嘉男。ムシュ、かまやつひろし。フールラシュイン、あのとき君は若かった。時代屋の女房、渡瀬恒彦。ミニスカートを日本に紹介した野際陽子。「髪結いの亭主」ジャン・ロシュフォール、「恋するガリア」ミレーユ・ダルク。こうしてあげていると、はしだのりひこの訃報。長い闘病生活。歌詞のとおり「ただ風が吹いているだけ」。12月6日、海老一染之助(83歳)が死去。8日、野村沙知代(85歳)死去。死は誰にも突然にやってくる。合掌。

小山田庄左衛門

Sashie2

   赤穂浅野家が断絶し、47人が忠義の士として称賛を浴びる一方、義盟に加わった同士のなかにも70人の脱盟者がいた。高田郡兵衛、毛利小平太などの脱盟者がよく知られるが、橋本平左衛門も遊女淡路屋お初と大坂で心中した。そして小山田庄左衛門も実在の人物で、不義士としての汚名を残した1人である。

    元禄15年11月5日、大石内蔵助らが江戸入りした時は、庄左衛門も堀部安兵衛らと同居していた。12月3日の最後の深川会議の前、同志片岡源五右衛門から、金子3両と小袖を盗んで逃亡したと伝えられる。81歳になる父の十兵衛は義士に詫びて、自決した。大佛次郎の小説「赤穂浪士」では庄左衛門と穂積惣右衛門の娘の幸との悲恋が描かれている。

2017年12月 2日 (土)

少し古い流行語「だっちゅうの」

A4382c8c75dce3d6c0824a0188d05a85

   2017ユーキャン新語・流行語大賞は「インスタ映え」「忖度」に決まった。神ってる(16)トリプルスリー、爆買い(15)ダメよ~ダメダメ、集団的自衛権(14)、お・も・て・な・し、じぇじぇじぇ、今でしょ!、倍返し(13)。ここ数年の流行語はほとんど印象にない。時代についていけてないのだろう。

  マイブームはディスコでギンギンにノリノリに踊りまくり青春をエンジョイすること。そしてカワイ子ちゃんアタックして温泉マークレッツゴーアンネが来なくてやったぜベイビー。

  何が死語で、死語でないか、の判断はむずかしい。たとえば豊かな体つきの女性を「グラマー」というが、なんとなく古臭く感じる言葉だ。マルティメディア、IT化、金融ビッグバン、ルーズソックス、ポケットベル(ポケベル)、水平思考、ぶりっ子、ハウスマヌカン、ボデコンなどもほとんど今では使われることはない。

   お笑いコンビ「パイレーツ」(浅田好未・西本はるか)のギャグで、胸の谷間を強調するような仕草とともに「だっちゅうの」と言うキメゼリフ。いまではほとんど用いない言葉だが、1998年の流行語大賞である。ちなみに乳房の間のくぼみのことは、英語でクレイヴィジ(cleavage)というが、わが国では人体解剖学においては乳房間溝(にゅうぼうかんこう)と呼ぶのが正式名称である。

日野草城

仰向けの口中に屠蘇たらさるる

   病で正月も入院しているのだろうか。御節料理はないが、せめて屠蘇だけはと妻が用意してくれた。仰臥のまま草城の口へたらたらと屠蘇が流される。何とも空しい感慨が身にせまる。

日野草城は明治34年、東京市下谷区山下町に生れる。戦前、新興俳句運動の中心として活躍するが、自由主義・モダニストぶりが災いし、ホトトギスを除籍される。戦災に遭い、また病に伏した。この句を詠んだ昭和31年1月29日心臓衰弱で没した。享年54歳。戒名「克修院法誉草城居士」

本当は火を使用しなかった北京原人!?(異説世界史)

Img_1548940_28906951_0    1929年12月2日、裴文中が中国・周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を発見した。

    これまで人類が初めて火を使ったのは50万年前の北京原人(学名ホモ・エレクトス・ペキネンシス)と考えられていた。近年、南アフリカ北部で約100万年前に草木を燃やし、獲物の動物などを焼いて食べていたとみられる跡が発見された。欧米の学者は北京原人が火を使い、火種を保存する能力がなかったのではと見ている。ブラックによって学名シナントロプス・ペキネンシスと名付けられていたが、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスと改称されている。アフリカ起源の人類が世界各地域に広がったとする単一起源説が優位であるが、米学者ミルフォード・ヴォルポフらは北京原人を根拠に多地域並行起源説を唱えている。中国の学者らも単一起源説に批判的であり、北京原人が火を使い、火種を保存する能力があったと主張している。

Dna09zu4

    20世紀初頭の北京原人の調査にあたった学者たちは米の古生物学者ヘンリー・オズボーン(1857-1935)の影響下にあった。オズボーンは中央アジアこそが人類の起源であるという仮説をたてた。1914年、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソン(1874-1934)は中国全土を調査した。1919年にカナダ人のダヴィッドソン・ブラック(1884-1934)が北京にやって来た。1921年、ブラックとオットー・ツダンスキーは周口店で北京原人の歯を発見した。続いて輩斐文中がほぼ完全な頭蓋骨の化石を発見し、世界的に注目が集まった。ワイデンライヒは北京原人を現生人類の祖先と考えたが、現在では否定する学者が多い。未だ北京原人がアジア人の祖先か、火を使用したのか、使用しなかったのか、決定的なことは謎のままである。

 

Andersson150 Davidson_black1
  アンダーソン              ブラック

( keyword;Homm erectus Pekinensis,F・Weidenreich,Davidson Black,Johan Gannar Andersson )

シーボルトと義経伝説

    シーボルト(1796-1866)は日本の種子や植物を採集してヨーロッパに持ち帰ったことでよく知られている。1823年の来日から1829年に日本を離れるまでの6年間に、植物485種類、1200個体がジャワ号で長崎からヨーロッパに運ばれた。シーボルトが日本で見聞、調査したことは多岐にわたる。長崎に鳴滝塾を開設し、高野長英(1804-1850)、二宮敬作(1804-1862)、伊東玄朴(1801-1871)、戸塚静海(1799-1876)など若い蘭学者が育った。シーボルト来日以前から長崎には吉雄耕牛(1724-1800)、本木良永(1735-1794)、志筑忠雄(1760-1806)たちがオランダ語の通詞として蘭学、西洋の科学を学んでいた。シーボルトの来日時には、吉雄耕牛の三男の吉雄権之助(1785-1831)、吉雄忠次郎たちが通詞であった。

    シーボルトは帰国後に書いた「日本」(1832年)という書物で、源義経がジンギスカンになったという説が日本にはあると紹介している。これは通詞であった吉雄忠次郎が義経・ジンギスカン説の熱烈な信奉者であったからだといわれている。

    ところで、ヨーロッパではシーボルト以前に、ドーソンの「蒙古史」に「義経・ジンギスカン説」があるという記事をウェブでみるが、平凡社の東洋文庫「モンゴル帝国史」をさがしてみたが見つからなかった。ドーソン(1780-1855)はイスタンブールの生まれのスウェーデンの外交官で、パリに滞在後、オランダのハーグに1814年に駐在、ベルリンに1834年に駐在している。シーボルトはドイツ人でバイエルン州のヴェルツブルク大学を卒業後、1822年にハーグへ赴き、1823年にジャワ島から長崎出島駐在の医師として来日する。シーボルトとドーソンの直接の接点は見当たらないが、19世紀初頭のヨーロッパでは中近東からアジア、日本に至るまで東洋研究のブームであったことがうかがわれる。そのなかで西洋人にとっても義経・ジンギスカン伝説は興味をひく話であったのであろう。

2017年12月 1日 (金)

悪魔も年をとると隠者になる

   フランスのことわざ。若いときにさんざん悪事を重ねた無頼漢や道楽の限りをつくした放蕩者も、年をとると後生がこわくなったり精力が涸れたりして、素行をあらため、仏様のようになることを言う。この諺の起こりはノルマンディー公ロベール(1000年頃ー1035)「悪魔のロベールと呼ばれる)が破戒無慙な男だったのに、晩年になってすっかり懺悔し、荒地に退いて苦行したことから暗示されたという。

漱石先生この絵はお嫌いですか

  NHK日曜美術館で紹介されていた日本画家の木島櫻谷。若き日の作品「寒月」を夏目漱石が新聞紙上で酷評している。かなり見当違いな指摘で木島が可哀そうだ。漱石自身も絵画を嗜むものの素人の域をでず上手とはいえない。初期作品「草枕」などにも絵画への傾倒が見えるが、理屈が先行しているようで美術評論には偏向がうかがわれる。結論としては、どんなに博覧強記の学者であり、芸術家であっても必ずしも正しいとはかぎらない。日本古代史最大のミステリー邪馬台国論争においても典型がある。九州出身の松本清張は古代史ミステリーに取り組み邪馬台国の位置を推論している。没年が1992年であり、1989年には吉野ヶ里遺跡の発見があったので、おそらく清張本人は九州説には満足してあの世に旅だったであろう。しかし2009年、奈良の纏向遺跡で大型建物跡が発見され、大量の桃の種が出てきた。桃は古代、魔除けなどに使われ、これが邪馬台国大和説の有力な根拠として説かれることが多い。現在、畿内大和説を唱える学者は90%を超え、安本美典や高島忠平などの九州説や他は全体合わせても数%という状況である。もちろん多数決で決まるわけでもなく、決定的な証拠が見つかったというのではないので邪馬台国問題は未だ未解決である。しかし、偉い作家や学者さんも偏見や偏向で見誤ることがあるというのは事実だ。むしろ人間の知力の限界を知ることが大切であり、権威や偉人というブランドに迷わされないことが求められる。

禅譲放伐

30n001_03_convert_20111105183718    中国の歴史は、夏、殷、周、春秋・戦国、秦、漢へと流れるが、これまで夏は伝説・神話の時代と考えられてきた。ところが、最近、黄河流域河南省の二里頭遺跡から夏王朝の王宮と考えられる遺跡と2万人以上の大集落が発見された。河南省では龍山文化→二里頭文化→二里岡文化→殷墟文化という発展段階が認められる。つまり二里頭文化をもって文献に認められる夏王朝に相当するとする説が有力となっている。じつは司馬遷の「史記・夏本紀」の中では、伝説の「五帝」の最後の王である舜から、治水の功績が認められて禅譲された禹が夏王朝を開いたとある。五帝がそれぞれ徳をもって国を治めた個人であるのに対し、禹は世襲によって王権を継いだという点で大きく異なる。17代続いた夏王朝は、最期の王・桀によりにより、呆気なく滅んだ。代わって新王朝を開いたのが、殷族の湯である。前1550年頃のことである。つまり堯・舜・禹・の交替が禅譲、夏・殷・周の交替は放伐とされる。

映画の日

    神戸湊川神社前の高橋鉄砲店の2代目店主の高橋信治、大阪心斎橋の三木福時計店店主の三木福助がリネル商会(神戸居留地14番)を通じてキネトスコープを輸入し、神戸の料亭「宇治川常盤」で明治29年11月17日に上映したのが日本で最初の映画公開である。キネトスコープとはエジソンが発明したもので、レンズをのぞいて箱の中の動画を見る装置。

    一般の人にもキネトスコープを公開しようということで、神戸花隈の有料貸席「神戸倶楽部」が11月25日から12月1日まで興行された。馬車と自転車の競走などの簡単な映像であったが、好評だった。「12月1日は映画の日」というのは、これに因んできりのよい日という理由で昭和31年に制定されたものである。

何度でも観たくなる!映画は?

Img_0026_2

  ストーリーや結末がわかっていても、何度観ても楽しめる映画がある。その反対に面白くても一度観たら十分という映画もある。その違いはどこにあるのか。第1のポイントはカタルシス効果のある、なしがその違いを生むと考える。たとえば映画「スピード」(1994)。主役はキアヌー・リーブスで見所はアクションであることは言うまでもないが、実は女性のサンドラ・ブロックがバスを運転することで全編に緊張感が生れている。このようなカタルシスを生む映画は何度観ても楽しめることができる。第2のポイントは主演者が豪華であること。パニック映画の代表作「ポセイドン・アドベンチャー」は顛覆した豪華客船が舞台の群像劇で、一種のグランドホテル形式である。「ナバロンの要塞」や「大脱走」(1963)のようなオールスターの戦争アクションも楽しい。マックイーンが草原をバイクで疾走することでカタルシスが生ずる。「ターミネーター」(1984)「インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」(1985)「トップガン」(1986)などヒットシリーズの第1作は新鮮さがある。だがアクション映画だけにカタルシスがあるのではない。韓国映画のハン・ソッキュの「八月のクリスマス」(1998)やイ・ビョンホンの「我が心のオルガン」(1999)にも清涼感がある。カタルシスとは抑圧されて無意識の中にとどまっていた精神的外傷によるしこりを、言語・行為または情動として外部に表出することによって消散させようとする心理療法の技術をいう。アリストテレスは悲劇を見て涙をながしたり、恐怖を味わったりすることによって心の中のしこりが浄化できると考えた。アルフレッド・ヒッチコックは現代人の不安や恐れという心理をドラマ化して、スリラーやサスペンスという分野を開拓した。「ダイヤルMを廻せ」(1954)「めまい」(1958)「北北西に進路を取れ」(1959)「鳥」(1963)など何度観ても楽しめる。第2は多くのスターが出演する映画。「大脱走」(1963)はそれぞれの個性ある俳優の名前を覚えるだけでも楽しみがある。「大脱走」の出演者の多くは故人となった。存命している俳優は?土処理を考案したアシュレー役のデヴィッド・マッカラムは83歳になる。暗いトンネル工事のためトラウマになる青年ウィリーはジョン・レイトン。現在80歳。当時は歌手として有名で「霧の中のジョニー」が大ヒットしていた。1963年には映画主題歌「大脱走のマーチ」をリリースしている。第3のポイントは「永遠のマンネリズム」。渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズや勝新太郎の座頭市などは、一度見た映画でもすぐに忘れて2度見しても楽しめる。恋愛ものは「ローマの休日」「ある愛の詩」「ノッティングヒルの恋人」など何度も観れる。定番で王道なのにスターの魅力があるからだろうか。昨日のNHKBSプレミアム。1000人の乗客を乗せた大陸横断列車内に広まる細菌感染の危機と事件の隠蔽を謀る軍の恐るべき陰謀を描く「カサンドラ・クロス」(1976)。カサンドラ・クロスとは大鉄橋の名前。これまで何度もプレミアムで再放送しているが、パニック&サスペンス&豪華キャストでついつい見てしまう。本日は「ナバロンの要塞」。

« 2017年11月 | トップページ

最近のトラックバック

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31