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2017年11月30日 (木)

現代男優№1は役所広司か?

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「越境者」(1950)ラフ・ヴァローネとエレナ・ヴァルツィは実生活でも鴛鴦夫婦

   「銀嶺の果て」(1947)で映画デビューした三船敏郎は純然たる戦後派スターだが、海外ではすでに戦前から活動していたスターも多い。「邪魔者は殺せ」(1947)のジェームズ・メイソンや「第三の男」(1949)ジョセフ・コットンも戦後派の印象があるが、実はデビューは戦前である。フランスのジェラール・フィリップは戦後派といって差し支えないだろう。イタリアのマルチェロ・マストロヤンニやラフ・バローネは純然たる戦後派。1950年代までは「にがい米」「越境者」のラフ・バローネのほうがイタリアを代表する男優だった。

   戦後日本映画でながらく男優№ワンといえば三船敏郎であった。のちに高倉健に引き継がれる。そして現在はおそらく役所広司だろうか。しかしこの方、すこしものたらない。人気があるのかないのか、名優なのか大根役者なのか、つねに「はてなマーク」が付く。映画「山本五十六」や「最後の忠臣蔵」「日本のいちばん長い日」「我が母の記」「失楽園」などを見たがあまり感心しなかった。とくに「突入せよ!あさま山荘事件」(原田眞人監督)の作品。同じ事件を扱かった低予算の映画「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」(若松孝二監督)の作品のほうがずっとリアルで良かった。役所はリアルなものより「Shall we ダンス?」のほうなファンタジーな作品が向いているのかもしれない。この映画にもタイトルに?が付くのがミソだ。是枝裕和監督「三度目の殺人」では、得体の知れない不気味な容疑者を怪演している。ドラマでは「幽婚}(1998)がいい。霊柩車運送業で働く役所が四国のとある山里に残される「幽婚」という奇妙な風習にあう。幽婚とは死者での花嫁と生者の男性による婚礼の儀。実際に青森県および山形県の一部で行われていたという。

12月、師走、春待月

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  明日からいよいよ「師走」。12月を「しはす」というのは万葉時代からである。

しはすには 沫雪(あわゆき)降ると 知らぬかも 梅の花咲く 含(ふふ)めらずして

「万葉集」にこの一首だけ「しはす」がでてくる。

    江戸時代の学者、新井白石は万葉時代に「極」の字を読んで「ハツ」というので、俗に「極月」の字を用いて「しはす」と読んだと説いている。

    では「しはす」をなぜ「師走」と書くようになったのか、諸説があってはっきりしない。平安時代の仁明天皇の承和5年12月から仏名会という行事が行われるようになって、法師がお経を読むため、師匠も趨走するので、「師趨(しすう)」という。「師馳月(しはせづき)」であるともいい、それが略されたものだという。広辞苑を引くと「師走比丘尼」(しわすびくに)という語がある。「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼」という意味。「師走坊主」「師走浪人」という語もある。江戸時代には師走は「人が極限状態にまでおちぶれやつれること」の形容でもあった。師走とは本来、極限という意味があって、1年の終りと言う意味で「師走」という漢字が充てられたのだろうか。「大言海」では「歳極」(としはす)の略転、あるいは「万事、為果(しは)つ月」の意からきたのではないかとしている。

     12月の別称は他にも多数ある。春待月、親子月、極月、梅初月、年よ積月、暮古月、三冬月、厳月、臘月、弟月、除月、蜡月(せきつき)、窮月、小歳、暮節、暮歳、嘉平、清祀、凋年、未垂、窮年、四極、三余、大呂、残冬、黄冬、晩冬などがある。

なんとなく しはすの空に なりにけり あはれかさなる 年の数かな

ピースサインの起源

Idiotoccupiedbusy   記念写真の撮影などで子どもや若い女性たちが被写体のとき、いまでもVサインをよくする。もともとは第二次世界大戦中のイギリスのチャーチルが戦争の継続と勝利への強い意志を表現するためにVサインを使用した。つまりVとは「VICTORY(勝利)」の頭文字に由来する。だがVサインはピースサインともいって、子どもたちは「ピース」と言いながら被写体になることが多い。日本では、いつ頃からVサインが流行したのであろうか?。戦時中はVサインなどをすれば、非国民と非難されたであろう。戦後もすぐに流行した記録はない。昭和40年代中頃にはVサインは一般にも知られるようになっている。グループサウンドのミュージシャンたちがVサインをしたであろうし、全共闘の学生たちがピース(平和)の象徴として使用したであろう。もっとも記憶に残るVサインといえばアニメ「巨人の星」の星一徹のVサイン。飛雄馬が甲子園へ旅立つ汽車に向かって、駅のホームから送る一徹のVサインは「百万べんの激励の言葉よりジーンときたぜ!」と飛雄馬は語る。同じころ女子バレーの「サインはV」。スポ根ブームとともにお茶の間からVサインは流行した。一説によると1972年に井上順がカメラのCFでVサインしたことで流行したともいわれている。だがピース・サインは昭和30年代半ば、すでに使用例がいくつか見られる。昭和の映画で宣伝用スチール写真(映画館の前にペタペタ貼っていたモノクロ写真)などをみると、昭和35年の東映映画「億万長者」(小林恒夫監督)で女優の中原ひとみが可愛くピース・サインをしている。これが現在確認できる日本最古のピースサインである。昭和36年頃と思われるが、ステージでザ・ピーナッツがピースサインをしている。 

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老いらくの恋

  本日し「シルバーラブの日」。辻井喬の小説「虹の岬」は、歌人の川田順と鈴鹿俊子の恋愛を描いている。1948年11月30日、2人はともに家出した。太平洋戦争中に愛国詩人として知られた川田順と、京都大学教授経済博士中川与之助の前夫人であった鈴鹿俊子が和歌を通じて恋愛におちいり、順は苦悩のあまり、1948年12月4日に自殺をはかったが未遂に終わった。そのとき彼が友人にあてて送った遺書のなかに、「若き日の恋ははにかみて面赤らめ 壮士時の四十路の恋は世の中に かれこれ心配れども 墓場に近き老いらくの 恋は怖るる何もなし」とうたっていたので、「老いらくの恋」として、一躍世間に広まった。当時、川田順は68歳であったから、俊子とは30歳の隔たりがあった。その後、事態は好転し急転解決に向かう。結婚へとゴールインする様を朝日新聞も「夕映えの恋に勝利。川田順結婚を決意、再生の大手術だった」と2人にエールをおくっている。その後、順は1966年、84歳で死去、俊子は2006年、96歳で長逝した。

2017年11月29日 (水)

はじめてタバコをすったとき

   アンデスの高地で生育する煙草の原料となる植物ルスチカ。現在、ルスチカはニコチンの含有量が多くて大規模に栽培されていないが、最も古い時代、煙草の原料として使われていた。15~16世紀に栄えたインカ帝国の人々はルスチカを愛飲していた。このルスチカを初めて紹介したのはベルギーの植物学者ドドエンス。その著書「薬用植物学全書」(1554年)にはまだ煙草のことは触れられていない。1550年頃フランスに二コティアナ(タバコ属種)を伝えたのはジャン・ニコ(その名はニコチンの由来となっている)。1580年代になると、ルスチカのことは北米の大西洋沿岸部に拠点をもちイギリス人によって知られるようになった。サー・ウォルター・ローリーはイギリスの邸内にルスチカを栽培し、社交界に広めたといわれている。ある日、ウォルター・ローリーが暖炉の前でタバコをふかしていた。今まで、タバコなるものを見たことも聞いたこともなかった召使が、部屋に入ってきて、主人の後姿から煙が上がっているのを見、これは主人の着物に火が付いたかと、バケツの水をざばっと主人に浴びせかけた。火事と間違えて、水をかけたのだ。(世界史)

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エウレカ

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  「ユリイカ」という詩や文芸批評の雑誌がある。ユリイカの発音は英語で、「わかった」の意。もとのギリシア語ではエウレカ (eureka)「見つけた」という意味で、意外な発見のよろこびをあらわすし、アルキメデスが叫んだことで知られる。

   シチリアのシラクサの王ヒエロン2世は、純金の塊を金細工師に渡して王冠をつくらせたが、出来上がった王冠に不純物がまぜられているのではないかと疑って、科学者のアルキメデス(前287-前212)にそれを調べるように命じた。王冠をこわして分析するわけにもいかず、困りはてたアルキメデスだが、ある日、公衆浴場にいったところ、水が湯ぶねから溢れるのをみて、その瞬間、ある原理を発見した。水中に物体を入れると、同容量の水が排除される。金は銀より重いから、同じ目方の銀塊は金塊より多くの水を排除するにちがいない。アルキメデスはこれに気づくや、喜びのあまり「エウレカ、エウレカ」と叫びながら丸裸のまま家へ帰り、早速に実験にとりかかって、王冠に不純物が混ぜられていることを証明した。金細工師は死刑に処されたという。(世界史)

2017年11月28日 (火)

「焼肉定食」は四字熟語ではない

Photo1342    広辞苑には、第5版まで「四字熟語」の項目はなかった。第6版で「四字熟語」の項目が新設されて「漢字四字の熟語や成語」との定義がなされた。つまり四字熟語は四字漢語に近い意味を持つ。ただし成語、つまり「古人がつくり、後人によく引用される語句」という由来が要件の一つである。例えば「百発百中」(戦国策)「百戦百勝」(周の鄧析子)は四字熟語だが、「三球三振」「農山漁村」「天地無用」は四字熟語ではない。このような問題点から四字漢語という表現をすれば、漢字四字の熟語はすべて含むことができる。角川書店から「四字漢語の用法」という本が出版されている。例えば次のような語は四字漢語に含めない。①助詞を入れて読むもの「多勢無勢」②成句の中で離れるもの「鶏口牛後」③普通は用いないもの「天長地久」④複合しただけのもの「焼肉定食」「為替相場」「児童虐待」「介護保険」「高速道路」「内閣改造」「偶像崇拝」「決選投票」「戸別訪問」「巨乳美人」「殺人予告」「打倒巨人」「向都離村」などなど。

   「四字熟語」の定義は案外と難しいものである。ここでは代表的な四字熟語をあげておこう。

悪戦苦闘 阿鼻叫喚 意気軒昂 医食同源 一石二鳥 一蓮托生 以心伝心 一日三秋 一望千里 一騎当千 因果応報 温故知新 偕老同穴 格物致知 臥薪嘗胆 眼光紙背 危急存亡 起死回生 九牛一毛 虚心坦懐 金科玉条 空前絶後 君子豹変 軽薄短小 月下氷人 乾坤一擲 甲論乙駁 故事来歴 呉越同舟 砂上楼閣 三位一体 四面楚歌 出処進退 春秋筆法 心頭滅却 精耕雨読 大器晩成 多岐亡羊 天下泰平 同床異夢 内柔外患 馬耳東風 波瀾万丈 百家争鳴 百鬼夜行 貧者一灯 風林火山 不言実行、夫唱婦随 不撓不屈 附和雷同 本末転倒 旁若無人 矛盾撞着、無我夢中 明鏡止水 明眸皓歯 明哲保身 夜郎自大 優柔不断 羊頭狗肉

「明哲保身」とは、道理にしたがって事にあたり、身をまっとうすることで、古来、ひろく事理に通じて深く事物を極め、その知恵によって出所進退をあややまらなかった賢人の処世法をたとえるときに、しばしば使用されてきたことばである。「詩経」の「大雅」「烝民」篇の中の「既にして明且哲、以て其の身を保つ」という二句がことばの語源とされている。この詩は周代の賢相仲山甫をたたえたもので、その心はつねに謹しみてうやうやしく、邦国の正邪善悪をあきらかにし、明哲保身、朝夕おこたらず天子につかえている、と歌いあげている。

(注)「一日三秋」はふつう「一日千秋」というが、漢文では、多を表わすときにも三を用いる。(「岩波四字熟語辞典」)

退屈恐怖症

5c45f2d4463b53b0190944fdd767fd39    英デイリーメールによると、退屈を常に感じる人は、心臓病や脳卒中による死亡率が、そうでない人より2.5倍も高いという。退職後の人生、やることがなくて暇をもてあます。終日テレビを見続け、飽きると長々しい欠伸をし、無聊に苦しむ。退屈恐怖症という言葉があるそうだ。ネットで調べても解説は見つからない。講談社「日録20世紀1990年」の11月29日に「若い女性に退屈恐怖症広がる」と新聞にあるだけ。新聞記事索引を調べればわかるかもしれない。新語でもあまり流行らなかったようだ。だがバートランド・ラッセルがすでに60年も前に「Fear of  boredom(退屈を恐れる心)」と題して、現代人の堪え難い特殊な退屈を分析している。

首都の話

Nijyubashi  日本の首都はどこか?ほとんどの人は東京と答えるが、実は明治維新から主要な機関が東京に集中したので、いつのまにか首都機能を持つ都市となったというだけで、「東京が首都である」と規定した法令はない。唯一、昭和31年に制定された「首都圏整備法」がそれらしきものである。古来、日本では天皇がおられるところが都となっている。昭和天皇までは京都で即位したが、平成になって天皇は東京で即位されたので、天皇の御座所が東京なので、都は東京ということになっている。

 世界一長い首都の名前はタイのバンコクで正式名称は全部で130文字にもなる。「クルンテープ・プラマハーナコン・アモーンラッタナコーシン・・・・・」とずっと続く。あまりに長いのでタイ人は、初めの部分「クルンテープ」と呼んでいる。イスラエルの首都はエルサレムか、テルアビブか?イスラエルの国民はエルサレムと考えているが、国際的(国連など)にはテルアビブを首都と考えている。日本大使館もテルアビブにある。

   世界の首都をみると、アメリカのようにワシントンが政治、ニューヨークが経済の中心というように機能分担がなされている国がある。ワシントンは1790年7月16日、180平方キロのこの地をDistrit of Columbia(略してD.C.)と言って、どの州にも属さず、合衆国政府直轄の地となった。1960年4月21日にはブラジルの首都がリオデジャネイロからブラジリアに移転した。トルコの首都はイスタンブール(人口1137万人)ではなく、アンカラ(人口372万人)。モロッコの首都はカサブランカ(人口367万人)ではなく、ラバト(人口120万人)。カナダの首都はモントリオールではなく、オタワ。政治都市・経済都市を分けておけば、災害などが発生しても、政治・経済が一緒に壊滅するという、リスクが低くなる。イスラエルの首都はテルアビブかエルサレムか、悩ましい問題である。

Photo_5   最近では、2006年ミャンマーの首都がヤンゴンからネピドーに移転している。オーストラリアの首都キャンベラはシドニーとメルボルンの中間にあるため1908年に首都に選ばれた。インドの首都はニューデリーと学校で覚えたが、最近はデリーになっている。これは首都が移転したのではなく、ニューデリーはデリー市内にある首都機能を集めた地区で単独の都市と認めなくなったためである。パキスタンは独立当初カラチであったが防衛上の観点から北部のイスラマバードに1960年代に首都施設を建設し、移転した。当時、小学生だった私はラワルピンジーと暗記していたのは、1960年から1966年にかけて、仮の首都が置かれていたからである。(Washington D.C.,Brasilia,Canberra,Naypyidaw)

世界の後宮・ハーレム

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  料理店などの店先に塩を三角錐に盛り置く風習がある。この「盛り塩」は中国の後宮に起源があるといわれる。晋の武帝は猟色家で毎夜、羊に引かせた車に乗って女を探した。そこで女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って待っていたことが「盛り塩」の由来である。

  後宮とは后妃や女官たちが住み奉仕する宮廷の一部をいい、天子以外の男性が出入りすることは禁じられた。中国では宦官が専権をにぎり、政治がみだれた例も少なくない。殷の紂王、漢の成帝、陳の後主、隋の煬帝など毎晩のように酒池肉林の宴会が開かれた。唐は隋の後宮制度を継承し、玄宗皇帝のときの楊貴妃の哀話が知られる。白楽天の長恨歌に「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身に在り」とあるが、三千人はいささか誇張があるかもしれない。清朝では宮女は2000人以下といわれるが、中国史上では少ない方といわれている。徳川の大奥は家光のときに盛大となる。11代将軍家斉は女好きで、大奥に入り浸って、多くの子女を儲け、財政を逼迫せしめた。最も多いときで女中を含めて1000人程度であったであろう。資金は小判の改鋳を行い500万両の利益を得ていたといわれる。

    朝鮮王朝では第19代国王粛宗(スクチョン)の時代、張禧嬪(チャン・ヒビン)と崔淑嬪(チェン・スクピン)との宮廷内の権力闘争が有名である。17世紀オスマン朝のスルタンの宮殿トプカプ・サライには後宮の女性たちはおよそ千人を超えたといわれる。

芭蕉忌

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   芭蕉忌。陰暦10月12日(陽暦の11月28日)。桃青忌、時雨忌、翁忌などとも呼ばれ、旧暦の気候にあわせて毎年11月の第2土曜日に法要が営まれる。

 秋深き隣は何をする人ぞ

    元禄7年秋、芭蕉(1644-1694)は各務支考と共に大坂に行く。園女亭で「秋深き」の句を詠む。斯波園女(1664-1726)は伊勢の神官の娘で芭蕉の門弟であった。数日後、下痢をして床につく。11月末、病床に侍していた呑舟を呼び、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    と書き取らせた。11月26日の暮れ方から高熱を発し、11月28日、申の刻(午後4時頃)、大坂南御堂前の旅舎で永眠した。享年51歳。その夜、遺骸を淀川の川船で伏見に送り、翌日、近江膳所の義仲寺に運んだ。埋葬し、門人の焼香者80人、まねかざるに来る会葬者は300人以上いたと伝えられる。芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺(大津市馬場)に葬られたのは、義経や義仲のような悲劇的な最期をとげた武人にとりわけ思いを寄せていたからといわれる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句がある。

2017年11月27日 (月)

忠臣蔵の虚と実

   ああ、また「忠臣蔵」か、という気分ながら、やっぱり最後まで見てしまう。新春ワイド時代劇「忠臣蔵~その義その愛」は内野聖陽が演じる堀部安兵衛とその妻ほり(常盤貴子)が主人公。堀部ほり(1675-1720)は討入り後、45歳で熊本で亡くなっている。木村拓哉の「忠臣蔵」(2001)では妻の深津絵里と離婚したことになっているが、今回は夫婦仲は良かったが、常盤貴子が明るすぎるのが不自然な感じだった。上杉家用人で吉良方についた親友吉川山右衛門(村田雄浩)との対決がドラマのメインか。吉川は清水一学の代わり。色部又四郎も千坂兵部の代わり。千坂はこのとき既に病死しているので、近年は色部となることが多い。最後の脱盟者毛利小平太の没年が不明なので、ドラマでは討入り直前に死ぬ場合と、生きのびて所帯を持って泉岳寺に墓参する場合がある。伊埼充則毛利小平太は墓参だった。全体に恋の絵図面取り、赤垣源蔵の徳利の別れや大石の東下りなどの人気の挿話を入れないのは、巷説を排し史実に近いシナリオといえる。とくに討入りで山鹿流陣太鼓はなかったのには驚いた。史実でも太鼓は打ち鳴らされなかったとされる。堀部安兵衛の人物像も巷談の「呑んべい安兵衛」とは異なり、史実に近いものとなっている。実際の安兵衛は酒を飲まなかったといわれるし、慎重で手堅い性格で能書家だったという。「武庸筆記」を書いて細井広沢に預けたことがドラマで紹介されているのも面白い。このように史実に近い忠臣蔵は評価できるものの、二刀流清水一学や和久半太夫、俵星玄蕃が登場しないと物足らなさを感じてしまう。元禄十五年十二月十四日の深夜は「仮名手本忠臣蔵」以来、雪の夜となっているが、堀部安兵衛の従妹、佐藤條右衛門が記した古文書によれば、討ち入りの日は月の夜だったとある。(浅野内匠頭殿御家士敵一件佐藤條右衛門一敞覚書)。義士の衣装も火事装束に統一されたものではなく、任意のものだったらしい。

始皇帝と徐福伝説

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   秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水にそって次第に東に移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代初めの孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅の変法によって富国強兵をおこない、中央集権化をはかった。その後、秦は戦国の七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々と滅ぼして、前221年に史上初めて中国全土を統一した。秦王政は、皇帝に即位し、自ら始皇帝と称し、法治主義を採り、文字、貨幣、度量衡、法律など諸制を一新する。そして翌年から、前後5回にわたって各地を巡幸する。皇帝の威厳を天下に示すためであったが、不老不死の仙薬を求めるのがもうひとつの目的であった。この世の全ての権力を掌中にした始皇帝といえども得られなかったもの、それは不老長生だった。始皇帝は東方の海岸地帯を訪れ、そこの方士たちから東方の海上にある仙人のことを聞いた。かれらは不老不死の研究者であって、「海上の仙人が不老不死の薬をもっている」と始皇帝に話した。絶対者である自分が死ぬことに始皇帝は不満であり、自分は死ぬべきでないと考えた。彼は権力財力のすべてを挙げて、この薬の獲得に乗り出すことになる。徐福を東海に派遣したりしたが、なかなか成果は上がらなかった。

    前210年、始皇帝は最後の巡幸に出た。随行者は、末子の胡亥、丞相の李斯、宦官の趙高である。この旅の途中で、始皇帝は病にたおれた。晩年の始皇帝は、死ということばを極端に嫌ったため、臣下のだれもが、死を口にする者はいない。が、容態が悪化するいっぽうである。さすがの始皇帝も、北方に遠ざけていた長男の扶蘇にあてて遺書をしたため、「咸陽にもどって葬儀を司れ」と指示し、7月、崩御する。享年は50歳であった。

一方、徐福は数十艘の巨船と薬物、天文、航海、造船、農業、呪術などの専門家、さらに三千人の童男童女を引き連れて出発し、弥生時代中期に紀州の熊野地方に到着したと伝えられている。しかし、この仙薬は数年経っても見つけられることができなかった。そのために、彼は譴責を恐れて始皇帝の元へ帰ることなく、そのまま熊野の地に住み着いた。一説に、徐福らの一行は不老長生の仙薬を探すために東進し、たどり着いた場所が富士山(不死山)であるというのである。これらが有名な徐福伝説であるが、多くの謎を秘めている。(世界史)

聖地奪回の十字軍を宣言(1095年)

Blackcathedral    西ヨーロッパの封建社会は11世紀から13世紀の間にもっとも安定した発展をみせてきた。人口は増加し、国王・諸侯・騎士は外へ向かっての発展欲や冒険心をかきたたせ、ベネチア、ピサ、ジェノバなどの諸都市は経済的利害から東方への進出を求めていた。またこのころの西ヨーロッパでは、人々の宗教心が旺盛であった。11世紀に広まった巡礼は、長い旅程の困難と危険を通じて自己の罪を懺悔し、霊魂の救済を得んとする禁欲精神の一つのあらわれであり、なかんずくトゥールのサン・マルタン教会よりトゥールーズのサン・セルナン教会をへてイベリア半島の西北端、コンポステラのサン・ジャック教会にいたる道程は著名であった。そしてキリストの墳墓のあるイェルサレムは、巡礼者が最後に赴くべきもっとも重要な聖地であった。

 そのころ東方は、8世紀以来、アラビア人にかわって、もとアラビアの傭兵軍であったセルジュク・トルコが支配していた。セルジュク・トルコはパレスチナを奪って巡礼するキリスト教徒を迫害したので、西ヨーロッパ人を激昂させた。こうしたときにビザンチン皇帝は、ローマ教皇に救いを求めてきた。ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月17日から27日まで、クレルモン公会議を開いて聖地回復を決議し、ここに十字軍がおこなわれることになった。1096年の第1回十字軍より1270年の第8回十字軍まで、約2世紀にわたって聖地奪回の遠征がくりかえされた。(Clermont,Crusade,11月27日、世界史)

十字軍 とっくむ(1096年) 相手は イスラム教徒

2017年11月26日 (日)

チャンスンとソッテ

Tou3862   韓国・朝鮮を歩いていると、農村では、いまも、顔が彫られた二本の柱や、高い竿の上に鳥が止まった神竿を目にすることがある。二本の柱をチャンスンといい、多くは男女一対で建てられ、天下大将軍、地下女将軍などの文字が彫られている。神竿(ソッテ)は村を災難や疫病から守り、豊作をもたらす農業神の役割をはたしてくれるものである。日本の地蔵や道祖神も韓国・朝鮮のチャンスン、ソッテの信仰も、ルーツは同じ自然そのものを神として信仰するシャーマニズムと考えられている。水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎第2巻」(中央公論社)の「朝鮮魔法」にも奇怪な形をした石仏や魔除けの像がたくさん登場する。(少年マガジン昭和43年2月初出)

韓国の長生標

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   長生標とは、朝鮮の村落社会の守護神であり、また里程標や境界標示の機能を備えていた。この画像は、象川里「国長生石標」(蔚山広域市)。

長生標は「チャンスン」というが、名称は各地さまざまで、コルマギ、スサルマギ(中部)、ポクス(南部)、ミルク(北西部)などと呼ばれ、風水説や仏教と関係が深い。この長生標の碑石は、通度寺の境界を標示するために立てられたもので、1085年(高麗宣宗2年)12個の長生標を立てたことが知られているが、これはそれらの1つと考えられる。高さが1.2m、幅62㎝程度である。

参考:稲葉岩吉「長生標及び長生庫補考」 東亜経済研究15-4、1931

長寿を得る秘訣は?

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王子喬

   日本は世界一の長寿国である。さらに健康で長生きするどのようにしたらよいのだろうか。今、スローライフが脚光をあびているが、ゆったりとした暮らしを送ることは長生きのコツのひとつ、といわれている。歴代の世界長寿はフランス人女性のジャンヌ・カルマンさんの122歳である。世界の長寿者のなかでもっとも有名なのは、1635年に152歳9ヵ月で死んだといわれるイギリスのトーマス・パーであろう。パーは80歳ではじめて結婚し、さらに122歳のときに17歳の少女と再婚して子どもをもうけたといわれている。ウィスキー「オールド・パー」のレッテルに肖像が描かれている。

    江戸時代の門付け歌で「鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ」というが100歳以上の長寿は珍しくなくなった。もっとも仙人を加えればいろいろいるようだ。まず不老長生の代表は彭祖で700歳。ほかに赤松子、王子喬、琴高仙人などがいる。「長生不老丹符」の呪文を何度も唱えるとよいらしい。

天道晴明 地道安寧 人道虚寧 三才一体 混合乾坤 召請帰命 万将随行 陰陽酒育 水火流通 帰根復命 龍虎奔行 必神火帝 連転無定 煉津煉液 一気成真 万魔拱服 百脉調栄 仙伝仙棗 仙化仙丹 伝成仙鼎 温飽仙霊 長生不老 果満飛昇 急急太上老君律令

不老長生の教えに魅せられた歴代の皇帝は儒教や仏教の思想の一部取り入れた道教を信奉するようになった。道教は、神仙思想に基づいて、不老長生を達成するために養生術や煉丹術を奨励した。

いい風呂の日

Photo_7_2 児(こ)の眼澄むや雪の風呂屋の籠の中

 中島斌雄、昭和22年作。銭湯脱衣場風景。外は雪の降りしきる寒い昼だが、ここばかりはあたたかい湯気を立ちこめさせている。寒い日は風呂であったまるのがいいですね。11月26日は語呂合わせで「いい風呂の日」。太宰治は、東京のアパートの窓から見る富士山をクリスマスの飾り菓子といい、天下茶屋から見た富士山を「風呂屋のペンキ絵」と言った。「おあっらえむき」にできすぎて「恥ずかしく」俗な富士であると短編小説「富獄百景」で書いている。太宰独特のユーモア精神と通俗的な権威に対する反抗心でもある。

    都会の銭湯にペンキ絵が現れたのは大正になってから。大正元年、神田猿岩町にあるキカイ湯の店主、東雄三郎が子どもが喜んで銭湯に入れるようにと思い、川越広四郎画伯に依頼してペンキで富士山の絵を描かせたのが始まりという。しかしやっぱり富士山はいい。あの有名な言葉「富士には、月見草がよく似合う」と小説にある。この言葉は聖書の「マタイによる福音書」のソロモンの栄華と野の百合の対比を想起させる。だが太宰の欧米での文学評価のイマイチなのは、聖書からの引用が作品に深みを与えていなという指摘がなされていることにあるようだ。ドナルド・キーンも太宰が私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたか懐疑的であると述べている。海外では聖書の成句をヒントにした小話は文学的な深みを感じさせないようである。

Gnj1004060508015p1   風呂といえば視聴率アップの秘策として「水戸黄門」は毎回かげろうお銀の入浴シーンがあった。全部で200回以上されたが、1回の撮影に1時間かかる。実は由美かおるは長風呂が苦手だったとか。新作水戸黄門では由美の後継者はAKBの篠田麻里子さま。

おでんと高浜虚子の凡人主義

  江戸川柳に、「どぶろくとおでんは夜の共稼ぎ」とある。屋台の寒い冬には屋台のおでんが美味しい。ホトトギスの高浜虚子(1874-1959)には、何故かおでんの句が多い。虚子は若いころから酒好きであったが、大正8年に軽い脳溢血で倒れた。そのため大好きな酒はたしなむ程度にしたが、おでん屋でおでんを食べながら少量の酒を楽しんでいたようだ。虚子におでんの句が多いのは、平凡を愛する心が人生観となっているからであろうか。

  振り向かず返事もせずにおでん食ふ

  おでんやを立ち出でしより低唱す

  戸の隙におでんの湯気の曲り消え

  硝子戸におでんの湯気の消えていく

  志 俳諧にあり おでん食ふ

  おでんやの娘愚かに美しき

2017年11月25日 (土)

王莽の簒奪

   紀元8年のこの日、王莽が新を建国した。新王朝(AD8-23)は、前漢と後漢との間に王莽(BC45-AD23)が建てたごく短命の封建王朝である。王莽は東平陵(山東省章丘)の人。漢の成帝の生母は、王莽のおばにあたる。彼は外戚の身分で大司馬に任ぜられて尚書を担当し、政治的には最高の職権を掌握した。そのうちに平帝を毒殺し、ついで漢の皇帝孺子嬰をも廃して、国号を新と称した。

   王莽の身長はやや高く、やせ形で、口が大きく、あごが短かく、大きな赤眼がとび出し、声は大きいがしわがれていた。彼は自己のこうした風采が気に入らず、高いかかとの靴、高くつくった冠、剛毛でふくらませた服を用い、臣下と会う時、ことさら胸をそらし、あごを引いて見下すようなポーズをとったという。容貌をかげでけなした臣下を殺したり、常に雲母の扇子を手にし、親しい者と会う時以外は、それで顔を隠した。また、儀式の際には、ひげや髪を黒く染めて、若く見せようとした。

   儒教を信奉していた王莽は、すべての政治を周の制度に復することを理想とした。広く流通していた漢武帝の五銖銭を改めて、軽く小さい王莽銭を鋳て、財政不足を補おうとした。また奴婢の売買を禁じ、土地を国有化して王田と称するなどして、商業利潤の国家独占を図ったため、豪族らの強い反抗をうけた。反乱のうち有力なものは、山東に蜂起した農民集団赤眉と南陽豪族群の援助をえた漢の一族劉秀である。AD23年、長安に突入した劉玄(更始帝)の軍勢によって王莽は殺された。劉玄は酒色におぼれて、側近に政治をまかせた。側近は横暴な政治を行ない、そのため赤眉集団は離反した。25年9月、赤眉軍は劉玄を殺した。赤眉集団は一時的に都長安を占領したものの、豪族連合軍に破られて山東に退却し、結局勝利は劉秀の手に帰した。この劉秀こそ後漢の光武帝(在位25-57)である。(11月25日)

2017年11月24日 (金)

善竹橋と李芳遠

   善竹橋は開城にある長さ6.57m、花崗岩でできた小さな石橋で、高麗時代の忠臣・鄭夢周が1392年、刺客の李芳遠(1367-1422)によって殺害された場所。最初は「善之橋」と呼ばれていたが、鄭夢周が流した血痕が消えず、竹が生えたという伝説から「善竹橋(ソンチュッキョ)」と改名した。善竹橋事件の3カ月のち、7月17日、李成桂は朝鮮王朝(李朝)の初代国王(太祖)に即位した。国号を朝鮮とする。刺客の李芳遠とは初代国王李成桂の五男。のちに3代国王となる。

南米のスペイン語圏とポルトガル語圏

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18世紀後半の世界 新大陸ではブラジルだけがポルトガルの植民地だった

   南米は12ヵ国あるがポルトガル語が公用語なのはブラジルだけである。ブラジルは1500年ポルトガル人カブラルによって発見され、以後19世紀初めまで新世界で唯一のポルトガル王国の植民地となっていた。そのため現在もブラジルの公用語はポルトガル語である。スペイン語圏の文学を中心とするラテン・アメリカ文学からブラジルは除かれる場合もある。これまでラテンアメリカ文学から6人(ミストラル、アストゥリアス、ネルーダ、マルケス、パス、ジョサ)のノーベル文学賞受賞者を出しているが、ブラジルからは1人もいない。スペイン語は強い。

4世紀中葉の百済

 4世紀中葉の朝鮮は北から高句麗、百済、新羅、伽耶の4国対立時代である。なかでも百済は最も広い平野地帯を持ち、ここから産出する豊かな物産を基盤に、中国、倭などと海上貿易を展開して経済力を蓄積し、次第に支配体制を整備し、積極的な領土拡張策にのりだした。やがて百済は高句麗を攻撃し、王を戦死させた。東晋から仏教を受け入れて保護し、仏教国家としてその全盛期を迎える。しかし554年の百済と新羅との管山城の戦いは朝鮮古代史の戦争でもっとも凄絶な戦いとして記憶されるが、百済の聖王は戦死する。

5世紀の高句麗

    国家組織を整備した高句麗は、4世紀末、広開土大王の時代に百済に対して反撃に出る一方、四方に征服戦争を開始した。広開土大王は、倭に侵入された新羅が救援を要請すると騎兵を派遣して倭軍を退け、伽耶に圧力を加えた。

   北部では領土を拡張して、遼東地方を含む中国東北地方で古朝鮮時代の大部分の領土をとりもどした。続いて即位した長寿王は、首都を国内城から平壌城に移し、南進政策を積極的に推進した。そのために百済は漢江流域を失うと、都を熊津に移した。

    こうして、5世紀の朝鮮半島の情勢は、高句麗、百済、新羅の三国が抗争した。 5世紀末に高句麗は、歴史上最大に領土を広め、東アジアの強大国として威勢を振るった。しかし高句麗は戦争を繰り返したために政治的な不満も強まり、経済的にも負担が大きく、6世紀には国力を消耗して危機に直面するようになった。(参考:『若者に伝えたい韓国の歴史』明石書店)

勝負は下駄を履くまでわからない

Photo    野球中継で、「勝負は下駄をはくまでわからない」という表現をしばしば耳にする。「勝負事は、すべて終わるまで結果はわからない」という意味である。もともとは囲碁からできた言葉で「下駄を履く」は、勝負が終わって碁会所から帰るときを意味する。

  これによく似た表現はアメリカにもある。ヤンキースの名選手で監督を務めたヨギ・べラが「全部終わるまで試合は終わらない」という言葉は有名である。

 The game isn't over till it's over.

しかしアメリカには他にこんな英語表現もある。

 The opera isn't over till the fat lady sings.

「太ったプリマドンナが歌わないことにはオペラは終わらない」つまり「出てくるべき人が出てきて、やるべきことをやらないと、終わりにならない」、転じて、「全部終わってしまうまでは何が起るかわからない」「まだまだこれからだ。あきらめるのは早い」の意味に使われることがある。(ことばの疑問)

 

オペラ記念日

   1894年のこの日、日本で初めてオペラが上演された。演目はシャルル・グノー(1818-1893)作曲の「ファウスト」第1幕で、オーストラリア大使館職員が出演し、ドイツ海軍軍楽隊長で「君が代」を編曲したフランツ・エッケルトが指揮をした。オペラ代表作。「トスカ」「フィガロの結婚」「セビリアの理髪師」「魔笛」「蝶々夫人」「椿姫」「カルメン」など。(Faust,Charles Gounod)

進化の日

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    1858年7月1日、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)は進化論を発表。そして1859年11月24日、ジョン・マレー社から「種の起源」が出版された。トマス・ハクスリー、エルンスト・ヘッケルから支持を受けるが、教会や保守層から激しい非難を浴びることになる。地球はいまから46億年前に、宇宙を漂う雲から生まれた。そして35億年前から、海の中に生命が生まれた。4億年前には酸素で呼吸する生物が陸に上がっていった。だがキリスト教の聖書では、天も地も、空や海も神がつくったと伝えている。

   高校生のユジンは生物の時間になると胃が痛みます。ちょうど今、ゴリラ先生からダーウィンの進化論について教わったところです。「君たち、科学者になりたいなら宗教の足かせから精神を解き放たれなければなりません。地球の生命は全く偶然によって生まれたのです」ユジンは将来、医師になろうと思っています。でも両親から、地球と生命すべては神が造ったと教えられてきました。学校では聖書の記述は単なる神話にすぎないと教えられ、とまどっています。生命は創造されたのか、それとも進化したのか。もし神などいないなら、人類の将来は政治・科学・宗教のリーダー次第ということになります。世界史をみれば、人間社会は戦争の歴史であり、今後も飢餓や貧困はなくならないでしょう。そしてもし、進化が事実なら、人生の目的が金や地位や名声を得ることであり、そして誰もが死ぬ、というそれだけのことになります。もし、神を信じるなら、神について学んで神に従うことだけが人生の意義である、と確信できるでしょう。ユジンは自分自身でしっかりと判断しようと思います。(Charles Darwin、evolution)

2017年11月23日 (木)

古代朝鮮、三国時代(4世紀前半)

 4世紀にはいって中国が五胡十六国の混乱時代になると、韓民族は中国の勢力を排除して活発な動きをはじめた。馬韓50余国のなかから百済があらわれこれを統一し、漢城(慰礼城)に都し、辰韓では12国中の斯.盧国が統一して新羅と号した。高句麗は南下を開始して楽浪・帯方2郡を滅ぼした。ただ南部の弁韓12国だけは、統一国家が形成されなかった。金首露王(?^-199)を建国始祖とする伽耶は1世紀から6世紀中葉まで現在の慶尚南道と釜山を含む地域に位置し、高句麗・百済・新羅とともに烈しい領域争いを繰り広げていた。

百済建国の母、召西奴(ソソノ)

   召西奴(ソソノ)という女性は高句麗と百済の建国に関わっている。「三国史記」によると、召西奴は北扶余の優台(ウテ)に嫁ぎ、沸流と温祚を産んだという。優台の死後、朱蒙と再婚。朱蒙は高句麗の建国を成し(BC37)、召西奴は王妃となる。しかし礼氏が正室に、召西奴は側室となる。裏切られたと感じた召西奴は沸流と温祚と共に南進し、弥鄒忽(ミチュホル、今の仁川)に至り、召西奴は温祚と共に百済を建国した(BC18)。風納(プンナプ)はソウル江東区一帯。BC6年、61歳で没する。

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古代の朝鮮王朝

 高麗時代に編まれた「三国遺事」によると、帝釈桓因の子、桓雄と熊女との間に生まれた檀君王検が紀元前2333年に平壌城を首都とする国を建てて国号を朝鮮としたのが国家の始まりと言われている。1993年、北朝鮮は檀君陵を発掘したと発表しているが、その信憑性はなく、考古学的知見によれば、朝鮮の青銅器文化は紀元前1500年ごろをさかのぼることをできないと考えられ、古代国家の成立は、紀元前7世紀頃の箕氏朝鮮からはじまる。箕氏は紀元前4世紀には燕と互いに争うほどに成長したが、紀元前2世紀はじめに衛満に滅ぼされる。衛氏は80余年にわたって繁栄したが、紀元前108年に漢の武帝の侵入を受けて滅亡。通常、箕氏朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝を合わせて古朝鮮と呼ぶ。その後、古朝鮮の遺民は各地で小国を興し、紀元前37年には鴨緑江の中流地方で力をつけた朱蒙が高句麗の指導権を握って国家体制を再整備し、王となった。2世紀末、朝鮮半島中南部では馬韓・辰韓・弁韓と総称される部族国家が併立し、北鮮地方には高句麗が興って南下の勢いを示した。ところが、3世紀前半、魏が朝鮮に勢力を伸ばすにおよんで漢時代の楽浪・帯方の2郡を手にいれ、南鮮地方を支配下におさめた。一方邪馬台国はこの魏の後援のもとに南鮮を圧迫し、弁韓地方にはかなり倭人が進出するようになった。

偉人たちの健康診断・夏目漱石

夏目漱石49年の生涯は病のオンパレードといってよい。4~5歳の頃、種痘(天然痘の予防接種)を受けたことから、却って天然痘を引き起こし、かゆみに耐えかねて顔をかきむしったせいで疱瘡のあとが残った。以来夏目は自分の顔にコンプレックスをもっていた。歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命とりとなった胃潰瘍まで多数の病気を抱えていた。最初に胃痛で苦しめられたのは小説「門」を執筆していたときで、43歳の頃である。当時知人や弟子に手紙で、胃の加減の悪いことを訴え、「門」の執筆が思うにまかせないことを述べている。漱石の胃病は、間もなく胃潰瘍の宣告を受け、やがて数回の大出血を経て、終に大正5年12月の最後の大出血となって逝くのである。最近の研究によるとその当時服用していたアスピリンの中に含まれるアセチルサル酸による副作用も胃潰瘍を悪化させる原因となったと考えられている。

一葉忌

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下村為山画「樋口一葉像」

   樋口一葉の1896年の忌日。一葉は明治19年8月20日、遠田澄庵の紹介で中島歌子の萩の舎に入る。上流家庭の子女の集まるこの歌塾にあって下級官吏の娘であった一葉はしばしば肩身の狭い思いを味わったが、早くから歌の才能を示し、姉弟子の三宅花圃とならんで同門の才媛と称された。明治22年7月12日、父の樋口則義は失意のうちに病没した。花圃が「藪の鶯」の発表以後小説家として活躍し始めたのに刺激され、生活の資を得るため小説を書く決意をし、明治24年4月15日、野々宮きく子の紹介で半井桃水を訪ねて、弟子入りした。

    明治25年3月、4月、7月発行された半井桃水主宰の同人雑誌『武蔵野』に、樋口一葉は第一編創刊号に「闇桜」、第二編に「たま襷」、第三編に「五月雨」とたて続けに載せている。ほかに、畑島桃蹊、小田果園、柳塢亭寅彦、三品藺蹊、斉藤緑雨らが寄稿した。「闇桜」は、一葉の小説がはじめて活字になったのものであり、またはじめて「一葉」という筆名を使ったのも、この『武蔵野』が最初である。だが、桃水との噂が萩の舎で問題化した。また桃水の身辺多忙と売れ行きの減退から雑誌は3号で廃刊となり、一葉は思いを残しながら桃水と絶交の形をとる。しかし、一葉の桃水への愛情は終生変わることはなかった。(11月23日)

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日本人物伝・ツヌガアラシト

5109f251e335c9866cb7b07f118d34cc     崇神天皇の時代に渡来した意富加羅国(おおからこく)の王子。はじめ穴門(あなと)(長門)にたどり着き、日本海づたいに北陸の角鹿(つぬが)(敦賀)にたどり着いた。都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、アメノヒボコの別名。敦賀駅前に像が建てられている。

2017年11月22日 (水)

百済の義慈王

   義慈王(ウィジャ)は百済の第31代、最後の王。在位641年~660年。660年に唐・新羅軍に滅ぼされる。「宮女と酒食に溺れて心ゆくまで楽しみ、酒を飲むことに際限がなかった」と三国史記にある。百済滅亡時に3千人の女官たちは、唐軍に追われて逃げ場を失い絶壁から身を投げたと伝わる。花びらが散るように美しかったことから落花岩(トックァアム)と呼ばれる。世界人物伝

ケネディ大統領暗殺

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   1963年11月22日、ケネディ大統領はテキサス州ダラスでオープンカーでパレード中に狙撃され死亡した。

John Fitzgerald Kennedy,the 35th President of the United States.His wit,grace,intelligence,and good-looking,he was a popular person.Kenndy was assassinated in Dealey Plaza,Dallas,Texas.

  ジョン・F・ケネディは第35代アメリカ合衆国大統領。機知、上品さ、知性、すばらしい容貌をもった彼は人気者だった。テキサス州ダラス、デイリー・プラザ広場で暗殺された。(11月22日)

2017年11月21日 (火)

香川京子、今田美桜

   月9「民衆の敵」悪評で低視聴率ながら、意外と豪華キャスト。前田敦子や石田ゆり子も出演している。ところで高橋一生と逢瀬を重ねる風俗嬢は誰?今田美桜。とても可愛い。深夜溝口健二の「近松物語」を見る。原作は近松門左衛門の「おさん茂兵衛」(正式には「大経師昔暦」)長谷川一夫、香川京子。シンプルな筋でわかりやすい展開。江戸版「失楽園」。香川京子は当時全盛期の美貌で顔がふっふくらとしている。

波郷忌

 綿虫やそこは屍の出でゆく門

   昭和24年、石田波郷の句。冬の日のどんよりとした風のないしずかな日など、1つ2つ3つと、いやときにはもっと数多く、白い何か灰のように浮かびとんでいるものを見かける。「屍の出でゆく門」とは病院の裏手の人目につかぬところにあり、棺桶に納められた遺体が葬儀屋によって運ばれていく出口のことであろう。波郷は大正2年愛媛県で生まれて応召後、発病し妻と病院を転々としながら焦土諷詠に徹した。病中作が多く、いっぱんに人間探究派とよばれる。1969年のこの日、石田波郷は56歳で世を去った。

 六月の女すわれる荒筵

2017年11月20日 (月)

日本人物伝「勤皇僧・宇都宮黙霖」

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  宇都宮黙霖

  下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。

    宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)

レフ・トルストイ忌日

Photo_2   レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828-1910)の晩年は、世界中の多くの人から沸き起こる喝采の嵐に包まれていたが、また一方では自分自身の信念と:現実生活の矛盾に苦しんでいた。領地や財産を他人に与えたために家庭内の不和が起った。トルストイはさまざまな反目に耐えられず、1910年10月28日、ヤースナヤ・パリャーナを出て、三等列車に乗り込みあてもない旅に出た。31日、突如、肺炎をひきおこし、寒村アスターポヴォ駅で途中下車。トルストイの容態を心配して、枕元に集まってきた人々に対してトルストイは言う。「世界には数百万人の困苦者がいるのに、なぜ君たちは私ひとりのためにここにいるのか」と。トルストイは11月20日午前6時5分、駅長の官舎で息を引き取った。享年82歳。

    トルストイの宗教論、非戦論、芸術論はチェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフなどのロシア作家に、さらに西欧や日本の白樺派などに大きな影響を与えた。京都・一燈園の西田天香(1872-1968)もその一人である。トルストイの著作に接したことがきっかけで社会奉仕に目ざめた。(Lev Nikolaevich Tolstoi)

2017年11月19日 (日)

日本人物伝・高松凌雲

   「医の時代、高松凌雲の生涯」木本至著 マルジュ社 1980年。高松凌雲(1837-1916)は幕末・明治期の医師。箱館戦争においては箱館病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされる。

ゲティスバーグ演説

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    1863年7月3日、ゲティスバーグの戦いは終結した。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

水洗トイレの話

Kani_img_01     本日は「世界トイレの日」。2010年のヒット曲「トイレの神様」。近代流行歌100年の歴史を振り返っても、トイレ、便所、うんこ・糞尿を歌った楽曲は少ない。「汚穢屋の恋歌」「いぼ痔のバラード」なんて無いよね。な~んでか?それは「トイレの神様」の歌を聴いても多くの人が水洗トイレをイメージするようになったからだ。一部のお年寄りはまだ溜め置き式、汲み取り式を想像する。溜め置き式が一般的で長く続いたのは農業の肥料としてリサイクルしていたことと関係する。水洗化が普及したのは昭和40年代だが遅いところは昭和50年代半ばになっても水洗化していない地域が都市部でもあった。屎尿を肥料としていたころは、回虫の寄生率は高かった。昭和30年代、毎年、小学校では肛門にシールを貼ってぎょう虫検査を行う。半数以上の子どもが回虫をもっていた。立小便はするし、野原で脱糞する女子もいた。昭和でもそんなだから幕末江戸期や明治期はどうだろう。これが意外にも清潔だったらしい。外国人の記録では当時のパリやロンドンでは悪臭が漂うほど路上に汚物があったが、日本は「一滴のこらず」都市の外に出されて、肥料となるというリサイクルシステムが確立されていた。都市に汲み取り人が屎尿を買い取りに来る。だが都市衛生が優れていたということではない。江戸の長屋は共同便所だが、尿は下水に放たれ、川にそのまま流れていた。立小便は当たり前だった。「トイレの神様」では亡くなったお祖母ちゃんを思い出して感動するだろうが、実は影で苦労した汚穢屋さんや下水道整備事業と屎尿処理技術の発達、すなわち地方自治体の半世紀にわたる努力の賜物と考えている。(11月10日,11月19日)

2017年11月18日 (土)

モナリザの本当のモデルは誰か!?

Leonardoepareu  パリのルーヴル美術館には30万点以上の名品が所蔵されているが、なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「モナ・リザ」ほど有名な絵画は他にない。謎の微笑をたたえる美女のモデルは誰なのか、永遠の謎の一つであった。ルネサンスの美術史家ジョルジョ・ヴァザーリは著作で、「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのため、彼の妻モンナ・リザの肖像画を引き受けた」と記している。1503年頃のことと思われる。近年、そのモナリザのモデルと考えられる女性の遺体を発掘して顔面を復元しようというプロジェクトがイタリアで進められている。「モナ」は婦人、「リザ」はエリザベッタの愛称であることから、フィレンツェの豪商フランチェスコ・ジョコンドの2人目の妻エリザベッタ・デル・ジョコンド(本名は長い。リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノ、あるいはリザ・ゲラルディーニ、1479-1542)とする説が有力である。彼女の遺体はフィレンチェの聖ウルスラ女子修道院にある古い建物に保存されている。調査チームがジョコンド夫人の頭蓋骨の断片を発見し、別の場所に埋葬されていたジョコンド夫人の親族とDNAの照合を行うことになった。しかし親族の遺体が多湿で保存状態が悪く現在の技術ではDNA抽出は不可能であるとわかった 。

   モナリザの謎はほかにも幾つかある。レオナルドの注文主がフランチェスコ・デル・ジョコンドだったとしたら、いったいなぜ画家は注文主に肖像画を引き渡さなかったのか。また何年も手元に置き、晩年のフランス行にまで持参したのか?フランス国立公文書館にはモナリザが売却された領収書が残っている。フランソワ1世が2604ルーブルという莫大な金額で買い上げた。売主はサライという名のレオナルドの弟子である。つまり生前贈与として弟子のためにモナリザを売り渡したのである。モデルをめぐる謎はいまだ未解決である。

   NHKドキュメンタリー「4人のモナ・リザ」。最新研究によると、1503年にフィレンツェでモナ・リザを書き上げたのち、ジュリアーノ ・デ・メディチから3歳の息子のために母親像の依頼をうけたとある。ジュリアーノはウルビーノの宮廷で恋をして庶子イッポ一リト(後の枢機卿)生まれたが母パチフィカ・ブランジーニは死んだ。母を恋しがる幼子のために、レオナルドは理想の母親像をとして、正面向きに修正しなおして、リザの肖像画の上に新しく描いたと推測している。これが今日われわれが見るモナ・リザである。レオナルドの母カテリーナを想いうかべたのかもしれない。

なぜ日本人はドーナツが好きなのか?

  「楽観主義者はドーナツの輪を見る。悲観主義者は、穴を見る」19世紀イギリスの劇作家オスカー・ワイルドの言葉だが、すでにリングドーナツは19世紀中頃あたりから見られるようになった。日本人もドーナツがたいへん好きなスイーツである。都市の市街地の人口が減少し、郊外の人口が増加する人口移動現象を「ドーナツ化現象」という。この言葉は一般には日本国内に用いられる言葉であり、海外でこれに対応する言葉はなく、近い言葉にスプロール化現象がある。地理学上、よく用いられるものの地理学者の学説ではなく、戦後、都市中心部の地価が高騰し、環境も悪化して、まるでドーナツの真ん中に穴が空くように、人口が都心を離れて郊外へと移っていったところから自然に生まれたマスコミの造語らしい。いつ、だれが作った語か明らかではない。この「ドーナツ」を日本人に親しいお菓子としたのはペギー葉山が歌う「ドレミの歌」である。「♪ドはドーナツのド、レはレモンのレ」である。原詩は、「Doe、a dear(小鹿) Ray 、a drop of golden sun(黄金の太陽の落とし物)」である。日本訳詞ではほかに「ドはどこまでも、レはレンゲ草」(九重佑三子)もあった。やはりドーナツが正解であった。urban sprawl

油小路の決闘

Img015   慶応3年3月10日、尊攘思想を抱く伊東甲子太郎は、新選組を脱退し、御陵衛士として五条橋東詰めの長円寺に移り、そのあと東山高台寺の塔頭・月真院に移った。月真院の門前に「禁裏御陵衛士屯所」の標札をかかげた。一派は高台寺党、あるいは伊東派と呼んで、近藤らの本隊と区別している。14名の名を挙げておこう。

   鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、毛内有之助、服部武雄、斉藤一、藤堂平助、加納道之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海二郎、中西登、橋本皆助、清原清である。

   この中で斉藤一は、近藤側の間者として送り込まれていて、内部の様子を逐一、報告していたようだ。

   11月18日、伊東は近藤、土方の饗応の帰途、油公路木津屋橋通りで、大石鍬次郎ら新選組の闇討ちによって斬殺された。土方の指図で、伊東の屍は七条油公路の四ツ辻へ放置した。必ず高台寺の一派が死体を取りにやって来ると読み、新選組の40余人の者が遠巻きにして取り囲んだ。そこに伊東の横死を聞いて駆けつけたのが、篠原、鈴木、加納、藤堂、服部、毛内、富山の7人である。40余人との斬り合いは激しく、「油公路の惨劇」として知られるところだ。藤堂、服部、毛内は斬り死にした。幸運にもこの惨劇を免れた3名の者たち、篠原泰之進(1829-1911)81歳、鈴木三樹三郎(1837-1919)83歳、加納道之助(1839-1902)62歳は、いずれも天寿を全うしている。

2017年11月17日 (金)

日本人物伝・正覚坊覚鑁

Taidan4    津本陽は1966年以来、旺盛な創作活動を展開している。真言宗にも造詣が深く、「大悲の海に」という覚鑁上人の伝記小説がある。覚鑁(1095-1143)は、真言洲中興祖にして新義真言宗始祖である。空海の思想を継承し、法然・親鸞への道を開いたと評される。わずか40歳で大伝法院の座主となったが、やがて高野山の旧勢力との対立から下山する。

「千字文」伝来考

0f3bb3e9cbe9fdfaab7192fd4c9e75f7     わが国の古い伝承で漢籍について述べられているものは「古事記」の応神天皇の条に16年(紀元285年)に百済の国の和邇吉師(王仁)が「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという記述がある。また「日本書紀」の応神紀には、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇太子が王仁について漢文を習ったと記されている。今日これらを史実と考える研究者はあるまい。中国ではまだ「千字文」は成立しておらず、南朝の梁の武帝(464-549)が周興嗣(470-521)につくらせたものである。だが王仁は帰化人として日本に滞在していたと考えられ実在の人物とみなされている。「千字文」を伝えたとするならば6世紀初めの人と考えられる。千字文の一節「散慮逍遥」を書いた木簡が出土している。日本に伝わった「論語」10巻が梁の武帝のとき編纂された「論語義疏」と思われる。つまり王仁は4世紀の人物ではなく6世紀の人と考えられる。王仁に関しては謎に包まれているが、記紀に見える王仁が、朝鮮側の古記録には見えない。「海東繹史」(18世紀末)になって初めて王仁の記述が見える。韓国全羅南道の霊岩に王仁の生誕伝説と遺跡が伝えられる。

千字文十種 全14巻 平凡社 1936-1937
評釈千字文 岩波文庫 山田準・安本健吉註解 岩波書店 1937
千字文詳解 増訂 伏見沖敬 角川書店 1983

良い名前、悪い名前

Img_1026365_19484702_0_2   赤ちゃんの命名には親の願いが込められている。家内の伯父に「英樹」という名前の人がいる。昭和18年生まれで東條英機にあやかったのだが、役場の届出をするとき漢字を誤って「英樹」とつけたそうだ。明治安田生命による2012年に生れた赤ちゃんの命名ランキングが発表された。男児は蓮(れん)、颯太(そうた)、大翔(ひろと)。女児は結衣(ゆい)、陽菜(ひな)、結菜(ゆいな、ゆな)。なぜ「蓮」が多いのか。石橋蓮司や大杉漣ではない。蓮は、池などに咲くハスの花の力強いイメージから「逆境に負けない人間に育ってほしい」、結衣には「幸せの糸を紡いでほしい」という願いが込められている。

     ブラジルのサッカー選手ソクラテスは父親がギリシャ哲学の崇拝者であったためソクラテスと名付けられた。阪神の藤川球児の名にも親が子どもを野球選手にしたいという願いが込められている。化学者、登山家で、南極越冬隊長だった西堀栄三郎(1903-1989)は、4人の子どもたちには、岳夫、富士夫、暁子、峯夫と名前を付けた。いまはみな成長し、医師、工業美術、物理学者となったが、探検家としての業績は寡聞にして知らない。

ところで名前にはいろいろ、使わないほうがいい漢字がある。はっきりしているのは、過去に重大事件を起こした人物とか、殺人犯の名前。隆浩、智大、勤、昭美などは避けた方がいい。また貞子や伽椰子などのホラーをイメージする名前もよくない。意外なところでは花や植物に使われる漢字もよくないといわれる。花や植物は枯れてしまうことから、人生に転落する時期があることを暗示する。「桃」「梢」「樹」「葉」「菜」「桂」「花」「草」「藤」「桐」「桜」「梅」「松」など。ひところ流行した「明菜」という名前にもはかない雰囲気がある。動物・十二支に使われる漢字もよくない。動物は人生が短いことから、人生の変化が激しすぎるという意味を持つ名前になってしまう。漢字例「馬」「虎」「龍」「鶴」。吉田松陰の名前は「寅次郎」、坂本竜馬など短くて激動波乱の人生だった。横綱鶴竜も四股名であるが、漢字「鶴」と「竜」の動物二文字は縁起が良いようで悪い。

モナ・リザの瞳

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    レオナルド・ダ・ヴィンチは1503年3月、ローマから故郷に近いフィレンチェに戻り、フィレンツェ政庁の会議室のための壁画(戦闘図)に着手した。(「アンギアーリの戦い」)現在、この壁画で残っているのは彼の素描とルーベンスによる模写だけである。ダ・ヴィンチの向かい側には、ライバルであるミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描いていた。

    この時期はダ・ヴィンチの創作意欲の盛んな時期であった。彼の作品のうちで最も有名なあの「モナ・リザ」の制作にとりかかったのは、1503年10月ころからである。「モナ・リザ」という題は、ジョルジョ・ヴァザーリが「美術家列伝」で記している。モナは婦人、リザとはエリザベッタの愛称で、ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻としている。この説をもとに、後世の美術史家は、モナ・リザのモデルは、フランチェスコ・ディ・ザノビ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタ・デル・ジョコンドであると考えられていた。本名リザ・ゲラルディーニ(正式名はリザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーノという長い名前である)は1479年10月16日に生まれ、ナポリの上流階級の出身であった。1495年にジョコンダと結婚した。モナ・リザがリザ・ゲラルディーニだとすれば、当時24歳ということになる。ダ・ヴィンチの肖像画の女性はもっと年齢が高く見える。そこで古来からモデルの女性は別人ではないかという説もあった。ナポリ公妃コンスタンツァ・ダヴァロス、イザベラ・タラゴーナ、イザベラ・デステ、はてはダ・ヴィンチの自画像説まで登場した。

    2008年1月14日、ドイツのハイデルベルク大学図書館はモナ・リザのモデルがフィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザであることを裏付ける証拠を見つけたと発表した。証拠は、1477年に印刷された所蔵図書の欄外にフィレンツェの役人による書き込みがあり「ダ・ヴィンチは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」と記述されていた。今回の発見はモナ・リザのモデルを特定する有力な証拠になったことは間違いない。

   ところが最近、モナ・リザの瞳に書き込まれた文字が、モデルの正体を示しているという新説がでてきた。文字は小さくて肉眼で確認することはできないが、超高解像度の写真を分析することでわかった。モナ・リザの右目には「LV」と書き込まれていて、ダ・ヴィンチのイニシャルが、左目には「B」または「S」、あるいは「CE」とイニシャルらしい文字が見られる。これがモデルの正体を示すものと考えられるが、リザ・デ・ジョコンドであるとする説には否定的であるという。

 近年の新発見によると、現在われわれが見るモナ・リザは若いジョコンダ夫人の像の上にに新たに描きたされたものたどする説が浮上している。ジュリアーノ・デ・メディチが庶子イッポリートのために母親の肖像をレオナルドに依頼した。パチフィカ・ブラダーニはイッポリートを生むとすぐに死んだためモデルではない。つまり現在の喪服を着て正面向きになった夫人像はレオナルドの理想の母親像といえる。モナ・リザの瞳に見える「C」というイニシャルは、母の名前カテリーナを意味しているのかもしれない。

美人すぎる尼僧

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    1956年7月25日、北大西洋ナンタケット島沖でイタリア客船アンドレア・ドリア号とスウェーデンの客船ストックホルム号が衝突し、双方で55人の死者を出す海難事故があった。両船ともレーダーを過信し、濃霧の中を20ノットの高速で航行していたのが原因であった。写真家ユージン・スミス(1918-1978)が偶然にニューヨークの桟橋で撮影した美しい尼僧の写真がよく知られている。まるで映画のワン・シーンを思わせるが、むかしの恋人を探しているのか、単なる野次馬なのか、誰にもわからない。(Andrea Doria,Eugene Smith)

関係文献
アンドレア・ドリア号沈没事件 林田金二 損害保険研究18(4) 1956年10月
アンドレア・ドリア号事件の其の後 林田金二 損害保険研究19(4) 1957年10月
客船史つれづれ草 9 竹野弘之 世界の艦船679 海人社 2007年9月号

2017年11月16日 (木)

意外な物の名前

  現代はモノにあふれていて、モノの数だけ名前がある。身近なものでふだんよく見るけど正式な名前は意外と知らないというモノは多い。名前を知りたい。

先ずはじめに、「ピジョンホール」 直訳すると、「鳩の穴」。でも鳩小屋ではない。イギリスで1940年代頃、細かい冊子などを分類整理するため、仕切りの多い棚をこう呼んだのが始まり。

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  口座番号など桁数を揃えるために数字の先頭に書いておく、ゼロのことを何という。

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 先行ゼロ。英語では、leading zeros。

ここからが、問題。

袋綴の和本や原稿用紙の中央、各丁の折り目の部分にある魚の尾の形をした飾りを何というか

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   製図用具の一種で、一様な太さの直線や円などを黒インキで描くときに使うもの

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耳かきの棒の先にある白いふわふわとした綿。

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土蔵などの外壁にみられるカマボコ形に盛り上げて塗った壁

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街路樹や生垣によく見られる。落ち葉が少なくて、刈り込みなどにも強い。

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金魚すくいに使う紙のアミ

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岩の割れ目に金属製のクサビを打ち込み、穴にザイルを通して、登攀の手がかりにする登山用具。

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理髪店にある赤白青、三色の看板。

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食パンの袋の留め具

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お葬式のとき張られる白黒の幕

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寺社建築などに見られる花形に造った特殊な窓で、禅宗寺院の窓によく見られる。桃山時代以後変形し、神社・城郭にもさかんに用いられた。

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肺の容積や、空気を出し入れする換気機能を調べる検査器

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版画の道具。

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無人で飛行することが可能な航空機

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駐車場などで見かける三角形の円錐。

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答え 魚尾(ぎょび)、烏口(からすぐち) 梵天(ぼんてん)  海鼠壁(なまこかべ) ウバメガシ ポイ ハーケン サインポール クロージャー 鯨幕 花頭窓(火燈窓) スパイロメーター 馬簾(ばれん) ドローン カラーコーン

参考:みうらじゅん「アレの名前大百科」宝島社 2010年

校正ミス

日本学術協力財団の「地球温暖化にどのように対処すべきか」1997年11月に日本学術会議(東京都港区)で開催された講演記録集。第6の講演が小川直宏の「人工面から見た地球温暖化対策」。「人工」は「人口」の誤りである。学術誌にしてはあまりにも初歩的な校正ミスである。

桐生鹵簿誤導事件

Img29130f38zikezj   鹵簿(ろぼ)とは行幸の行列のこと。1934年11月16日、群馬県桐生市で昭和天皇の警備の先導車が道順を間違え、責任を感じた本多重平警部(当時42歳)が翌日自殺を図った。幸い、素手で刃物を持っていたため、突く力が弱く、一命を取り止めた。本多にはその後も後遺症が残った。1969年、68歳で没した。この事件は、天皇がどれほど現人神であったかをまざまざと示している。戦前、すべての小学校には御真影と教育勅語が奉納してある奉安殿が設けられ、火事で御真影を焼失したため責任を取って自殺した校長がいたという。しかし天皇を神のように崇めてみても、日本国民は現世の救いを与えられることはないが、いま再び戦前のような天皇の神格化が進んでいる。松本清張の短編「尊厳」はこの事件を題材にしている。

2017年11月15日 (水)

ヘッドライト

   本日のBSプレミアム「ヘッドライト」(1955年)。中年トラック運転手ジャン・ギャバンとウェイトレスとの悲恋。病死するクロチルドはフランソワーズ・アルヌールが演じる。当時日本でも大人気女優だった。ギャバンの娘ダニー・カレルも可愛い。ルネ・クレールの「リラの門」に出演していた。フランソワーズ・アルヌールもダニー・カレルもご健在のことでうれしい。

山本文緒の小説「プラナリア」

   プラナリアは扁形動物門ウズムシ綱ウズムシ目ウズムシ亜目に属する動物の総称。体長20から25ミリメートルくらいで、日本中の渓流に生息する。神秘的なまでの再生能力があり、再生の実験によく使われる。小説の主人公春香は25歳で乳がんの手術以来、退職して現在無職。何もかも面倒くさくて、不眠症で、社会復帰ができない。「次に生まれてくるときはプラナリアにしてください」と星に願っている。こんな春香に突破口はあるのか。直木賞作家山本文緒の代表作。以前「パイナップルの彼方へ」は円形脱毛症や過呼吸症候群になったOLの恋愛青春記だったが、山本の作風は現代女性特有のストレスや心の病を題材にした作品が多い。

インカ帝国滅亡

Pizarromap   1533年のこの日、フランシスコ・ピサロ(1478-1541)がインカ帝国の首都クスコに無血入城した。

  スペインの軍人ピサロはインカの黄金に関する噂を聞いて南米大陸の西海岸を探検し、スペイン宮廷の援助を受けて180人の兵士とともにパナマを出発(1531年)、アンデス山脈を越えてペルーのインカ帝国にいたり、1531年11月、インカ皇帝の率いる2万の敵軍を破ってクスコに入り、皇帝アタワルバを処刑して(1533年7月26日)、11月15日クスコに入城し、インカ帝国を滅ぼした。

2017年11月14日 (火)

印象派の巨匠モネ

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アルジャントュイユのセーヌ川  1872年

  クロード・オスカール・モネ(1840-1926)は、印象派画家のうちで最もひたむきで、純粋な実践者であった。モネは1840年11月14日、食料品商で元船乗りのアドルフ・モネの長男としてパリに生まれた。1845年、一家はノルマンディーの港町、ル・アーブルに移り、父親は食料品店と船具商の経営を継ぎ、家計は潤っていた。セーヌ河口のこの港町で、クロードは、幸せな子ども時代、そして青年期を過ごした。

   アマチュア画家であった叔母のソフィー・ルカードルがクロード少年の絵画の才能を喚起したようだ。ル・アーブル市の学校へ通うようになったモネは、よく教科書やノートに戯画を落書きしていた。15歳になるころには、彼の絵は町の評判になり、売れるまでになった。

   モネの絵は地元の額縁屋に展示され、これが彼の人生を決定するきっかけとなった。同じように、オンフール出身の風景画家、ウジェーヌ・ブータンもこの店に絵を展示しており、ここで二人は知り合った。ブータンは年若いモネに風景画を描くことを勧め、ともに制作に励んだ。当時、風景画は室内で制作されるのが一般的だったが、海や浜辺の風景画を得意としていたブータンは、「じかにその場で描かれたものこそ、アトリエで描かれたものにはない力強さと躍動感がある」と主張して、外光のもとで描くのを好んだ。

   最初、モネはブータンの作品を「気に染まない」と感じていたが、やがて彼の考え方を理解し、共鳴するようになった。そして1858年の夏、17歳にしてモネは、「突然、目の前のベールが引きはがされ、絵画がどうあるべきかを悟った。独自の姿勢を貫いて自分自身の芸術に専念しているこの画家のただ1枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれた」と述懐している。

   1859年、モネはブータンや叔母の推薦状を手にパリに出た。アトリエ・シュイスでは、のちに印象派の中心人物となるカミーユ・ピサロと知り合いになり、また、ギュスターヴ・クールベ、エドゥワール・マネら前衛芸術家のたまり場だった。モンマルトルのブラッスリー・デ・マルティルでしばしば芸術談義にふけったりした。(参考:『モネ 週刊グレート・アーティスト3』同朋舎,Claude Monet)

2017年11月13日 (月)

シン・ゴジラを観る

   「シン・ゴジラ」2016年7月公開のこの映画が早くも地上波で放送された。ツイトーは「シン・ゴジラ」関連のワードで埋め尽くされ100万件を突破している。エヴァンゲリオン世代にはとても面白いらしいが、むかしのゴジラ映画を観たものはつまらなく感じる。もう年だからといえばそれまでのこと。宝田明、小泉博、佐原健二、高島忠夫、久保明、平田明彦、土屋嘉男ら東宝スターが真面目に演技していた。「シン・ゴジラ」は監督はじめ製作者、出演者たちがどこか腹の底で笑っているような感じがする。大災害のあと政府に対する絶望や無力感が根底にあるのだろう。脇役に至るまで有名俳優ばかりだが、外国人がみたら退屈なシーンが多いだろう。単なる怪獣もの、パニック映画ではない。北米では不評だったと聞くが、「シン・ゴジラ」は若者たちの社会への不満の捌け口として人気があるのかもしれない。

徳川綱吉と生類憐みの令

E5beb3e5b79de7b6b1e59089851d6     三代将軍家光には、家綱、綱重、綱吉という3人の子がいた。家光が死んだので、家綱は11歳で将軍になり、40歳で死んだ。次男の綱重は兄より先に35歳で死んだ。そこで三男の館林城主・綱吉が次期将軍になるはずであったが、大老酒井忠清は綱吉はふさわしくないと考えた。理由は綱吉が低身長症を患っていたからだ。しかし綱吉は勇猛果断で学問好きの英明な君主だった。堀田正俊らの意見で綱吉は35歳で五代将軍職についた。歴史上、綱吉が暗君といわれるのはあの「生類憐みの令」のためだろう。「伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉があった。江戸に多いものをいう。江戸に犬が多かったことは、綱吉の「生類憐れみの令」とも関係する。俗説では綱吉が戌年生まれであるから、犬を愛護したといわれる。実際は野犬が増えて疫病が発生したからである。「生類憐れみの令」は貞享4年(1687年)1月28日に初めて発布された。1695年11月13日、中野、大久保に犬小屋が設けられ、江戸中の野犬を収容し、お犬奉行以下の役人をおいて丁重に世話をさせた。この令を犯したものは、死罪、遠島などの極刑に処せられたが、誤って刑にふれるものが多く数万人にものぼったという。しかしこの数字はのちの新井白石らの記録によるもので誇大な数字と考えられる。「生類憐みの令」は何回となく発令された。とくに1707年8月11日の法令には、どじょう、うなぎ、鳥を扱う商売が禁止された。

   綱吉の悪評は大地震、勅願大火、宝永富士山噴火など自然災害に悩まされた庶民がその原因を為政者に押しつけたからであろう。綱吉は戦国遺風を儒学を重んじる文治政治に変革した名君であった。新田開発などの成功により、減税で庶民の暮らしに余裕がでて元禄文化が生れたのも綱吉の治世の成果である。生類憐れみの令は1709年には廃止された。(11月13日)

2017年11月12日 (日)

認知症予防には「運動+しりとり」を!

   日本の認知症患者の割合がOECD加盟35か国の中で最も高いことがわかった。認知症予防としてデュアルタスク(二重課題)をキャンペーンとして展開している。デュアルタスクとは2つの作業を同時に行うこと。つまり運動+脳を使う、この2つを同時に行うと認知症防止に効果的である。おススメは、まず低いステップ台を用意し、左右の足を交互に台にあげる。そのとき背筋を伸ばすのがポイント。そして「さくら→らくだ→だるま→マントヒヒ→日の出→ディオゲネス→須恵器→キサントプロテイン反応→ウィクリフ→ファルセット→トスカネリ→リサジュー図形→イサク→クレオパトラ→ラトヴィア→アレッサンドロ・バリニャーノ→乃木坂46→SMAP→プランクトン→ンゴロンゴロ自然保護区→クサンチッペ→ペーター・カーメンチント→トルデシリャス条約→クリフクライム→ムンプス難聴→うかれ猫」と言葉を続けていく。これを1日30分、週に3回以上する。

東京ソングはいつまでも

Img_943571_34041895_0    東京を題材にした歌謡曲は佐藤千夜子の「東京行進曲」や小唄勝太郎・三島一声の「東京音頭」をはじめとして無数にある。戦後は笠置シズ子「東京ブギウギ」、灰田勝彦「東京の屋根の下」、フランク永井「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」。しかし東京ご当地ソングが急激に増加するのは1960年代になってからである。東京オリンピック前後の東京は好景気に沸き、繁華街は大盛況となり、東京は不夜城となっていった。石原裕次郎・牧村旬子「銀座の恋の物語」、新川二郎「東京の灯よいつまでも」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、松尾和子「グッド・ナイト東京」、坂本九「サヨナラ東京」、井沢八郎「ああ上野駅」、西田佐知子「赤坂の夜は更けて」、日野てる子・高城丈二「青山の灯も消えて」、三田明「アイビー東京」、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」、和泉雅子・山内賢「二人の銀座」、大木英夫・津山洋子「新宿そだち」、藤圭子「新宿の女」、青江三奈「池袋の夜」 etc.このように東京を題材としたヒット曲は無数にあるものの「東京」というシンプルなタイトルはマイペースの作品くらい。2017年に手嶌葵の新曲「東京」がある。

海外をみてもロンドンとかパリとか単に都市名のみの曲はあまり見当たらない。「モスクワの夜は更けて」「とんでイスタンブール」とか「想い出のサンフランシスコ」とか形容詞がつくものである。稀少例としてファウスト・チリアーノの「ローマ」(1972)がある。ローマの橋をテーマにした佳曲。彼は特捜最前線のエンディング「私だけの十字架」で日本でもお馴染みの歌手である。

山のあなた

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   ドイツの詩人カール・ブッセの1872年の誕生日。

山のあなたの空遠く

「幸(さいわい)」住むと人のいう。

ああ、われひとと尋めゆきて、

涙さしぐみ、かえりきぬ。

山のあなたになお遠く、

「幸」住むと人のいう。

  むかし図書館のレファレンスで、「山のあなた」以外のカール・ブッセ(1872-1918)の詩が読みたい、という依頼があった。わたしは書庫にもぐって、詩集を片ッぱしから探した。「山のアナ、アナ・・・」と。しかし、「山のあなた」はなお遠く、ついに見つからなかった。「三人兄弟」(ドイツ詩評釈1、1960年)があるだけだった。だれかドイツ語のできるかた、翻訳してくれないものだろうか。(11月12日)

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Over the  mountains,

far to travel, people say,

Happiness dwells.

Alas, and I went,

in the crowd of the others,

and retuned with a tear‐stained face.

Over the moutains,

far to fravel,people say,

Happiness dwells.

2017年11月11日 (土)

ほどよい本がなんでも揃っている私設図書館

富士の山ほど願って蟻塚ほど叶う

 大きい願いをもっても、実際にかなうのはきわめて僅かなものである。この諺は江戸中期あたりからあったらしい。若い頃は理想の図書館とは広大で世界一の蔵書を誇る図書館だと信じて疑わなかった。しかしインターネットの時代を迎えて、必要な資料の多くがデジタル化されると、必ずしも大部な本を集積することは意味が無くなった。本でなくては味わえない資料をコレクションすること、いつでも手近かにあって読みたいときに読める、というほど良い冊数の本が理想の図書館の一要件となっている。いまアメリカでは郵便ポストのような小さな本棚を庭先につくり、地域の人たちに無料貸出するリトル・フリー・ライブラリーが流行している。つまり図書館は規模の大小ではなく、収集家が長い年月をかけて愛情をもって精選されたコレクションであればどんな図書館も選ばれる資格があるといっていい。

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  NHKで放送されたドキュメント72時間「静かすぎる図書館」は京都吉田山にある私設図書館。12時から深夜0時まで開館している。ここにさまざまな人が集う。東洋医学を学ぶカナダ人。麻雀で遊び過ぎて留年した大学生。オラウータンを研究している院生。インパールに応召した父を偲んでビルマ語を学ぶ中年男性。新聞配達しながら数学教師をめざす人。不登校の体験をもつ女性。孤独のようにみえて孤独じゃない、どこか連帯感があって、居心地のよい空間なのだ。来館者はもっぱら図書館の本を使わずに閲覧席と閲覧机を利用することを目的として「持ち込み勉強=図書館」であるが、たくさんの本がかもしだす知的空間に惹かれてやってくる。

 私設図書館には、京都のような自習型の図書館もあるが、正統派は東京の大宅壮一文庫のような一級資料を揃えた調査型図書館だろう。このような専門的な図書館を形成するためには長い年月と経費がかかる。比較的日常生活に本当必要な本がコンパクトに揃っていて、新しい発見もあるような、コンビニ型のオールラウンド私設図書館がないだろうか。

   「図書館は成長する有機体である」という有名な言葉があり、たえず更新していなければ、それは死んだ書庫、あるいは本の保管庫にすぎない。段ボール箱に何万個本を詰め込んで持っていようと、それは所蔵しているとはいえない。書斎と図書館との違いは、蔵書数の違いではなく、地域に公開されているか否かではないだろうか。図書館と文庫の違いはあまり問題ではない。子ども文庫であろうが、大人向けの本があろうが、みな図書館である。理想の図書館とは、ひとそれぞれに考えは異なるであろうが、私は「たえず変化し、成長している図書館」と考える。資料的に新しくとも、すぐに色褪せ新鮮度は失われる。ジャンルが決まっていれば、その分野に興味のない人にとっては単なる紙の束にすぎない。万人が興味をいだき、手にとってみたくなる蔵書構成。そして自宅のリビングのようにくつろげる空間、無機質な近代的図書館ではなく、書斎のようでありながら、読みたい本がたくさんある。そんな理想の図書館を一生追求していきたい。

   街角の本屋、オフィスの書棚、自宅の本棚、古本屋、地域文庫、さまざまな本のある空間を画像で見ていると、ちょっとした工夫でよくなるヒントが見つかる。

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ジグソーパズルの発明者は?

   ジグソーパズルとは厚紙や板に印刷した絵や写真を、入り組んだ形の小片に切りはなし、それを嵌め合わせて元通りにする玩具のこと。英語 jigsawとは、「糸鋸(いとのこ)」のことであり、元々このパズルが木の板を糸鋸で切って作られたことからこの名がついた。1760年ロンドンの地図職人のジョン・スピルズベリ(1739-1769)が子供の教育のためにピースが国の形のジグソーパズルを作ったのが最初といわれる。日本では昭和30年代後半には書店などでディズニーキャラクターのジグソーパズルが販売されていたが詳しくは不明である。1974年、名画「モナ・リザ」の日本公開でジグソーパズルブームがおきた。 John Spilsbury、雑学

サッカーの起源

Ancientsoccer   2014サッカー・ワールドカップ・ブラジル大会が開幕。野球、サッカー、テニス、バスケットボール、ラグビー、相撲など世界中にはたくさんのスポーツ・競技があるけれど、その起源を調べることは楽しい。バスケットボールのように(1891年にジェームズ・ネイスミスが考案)起源が明確なスポーツもあるが、サッカーのように、人類としての歴史が始まった頃からある種のフットボールを行っていたと思われる遊戯もある。

    サッカーが11人対11人で行うスポーツであることから、11月11日を「サッカーの日」と制定されている。

    ところで今日アメリカではサッカー、イギリスではフットボールという。soccerという名は association の soc に -er を加えて簡単にしたものであるが、イギリスでは11世紀のはじめごろからフットボールが行われていたが、規則がまちまちで、2種類のフットボール、つまり Rugby footbal  と associastion football に区別された。

Greeksoccerhistory    足でボールを蹴る遊戯は、古代エジプト、古代ギリシア(ペニタ、エピスキロスと呼ばれる)、古代ローマ(パルパツウムと呼ばれる)などのレリーフが残されている。

   1個のボールを相手陣営のゴールに入れることで勝敗を決するというルールはヨーロッパが起源であろう。現在のゴールは城門を意味していた。14世紀のイギリスでは街中で乱暴なサッカーが氾濫し、王によって禁止令が出されたこともある。15世紀のイタリアではイギリスのフットボールによく似た「カルチョ」が生まれ、宮廷の門の前で数十人がボールを蹴り合い賞金をかけたゲームが流行した。

814ancientchinesesoccer1   このようにサッカー発祥の地は自国であると主張する国が多いが、FIFAでは最も古い形態のサッカーとして中国の「蹴鞠」を認めている。「蹴鞠」という遊戯は前漢の書物「戦国策」に記されている。

世界史の文献目録

20thcentury    人類の発生から今日にいたる人間の生活のいとなみと政治や社会の発展の過程を知ることによって、歴史的思考力を養うことは重要である。すべての人は自国だけでなく世界全体についての知識が求められている。およそ100年間にわたる世界史の基本図書を整理してみよう。高校世界史の名著といえば吉岡力の「世界史の研究」(旺文社)である。

世界歴史譚 博文館 1909
通俗世界全史 全19巻 早稲田大学出版部 1915
世界興亡史論 レオナルド・フォン・ランケ著 川村堅固訳 平凡社 1930
世界古代文化史 全6巻 東京堂 1931
世界歴史大系 全26巻 鈴木俊ほか 平凡社 1933-1936
世界文明史物語 ヘンドリック・ヴァン・ルーン著 前田晁訳 早稲田大学出版部 1933
世界文化史概観 上下 岩波新書 ウェルズ著 長谷部文雄訳 岩波書店 1939
 3冊 山川敏夫ほか著 河出書房 1942
世界史講座 全7巻 弘文堂書房 1944
世界の歴史 全6巻 毎日新聞社 1947-1954
世界史のおける東洋社会 飯塚浩二 毎日新聞社 1948
世界文化史 1・2 北川三郎著 大鐙閣 1949
世界史の研究 吉岡力 旺文社 1950
詳解世界史 木村正雄 昇龍堂 1951
世界史 村川堅太郎・江波波夫共著 山川出版社 1951
世界歴史地図 亀井高孝ほか編 吉川弘文館 1952
世界歴史講座 全6巻 民主主義科学者協会歴史部会編 三一書房 1953-1954
世界文化交流史 伊瀬仙太郎 金星堂 1953
世界史の研究 中崎米次 堀書店 1954
世界文化史物語 図説文庫 富永次郎 偕成社 1954
世界文化地理大系 平凡社 1954-58
世界史講座 東洋経済新報社 1955
世界史におけるアジア 歴史学研究会 1955
世界歴史事典 全25巻 平凡社 1955
少年少女世界史物語 全6巻 朝日新聞社 1955
世界文化史年表 加茂儀一編 三省堂 1956
世界史における現代のアジア 上原専禄 未来社 1956
世界史の傾向と対策 吉岡力 旺文社 1956
世界史大系 全17巻 誠文堂新光社 1958-1960
世界文学大系 全96巻+別巻2 筑摩書房 1958-1968
図説世界文化史大系 全27巻 角川書店 1958-1961
世界文明史物語 上下 ヴァン・ルーン著 角川文庫
世界史の基礎研究 岸辺成雄・藤田重行著 山田書院 1959
要約世界史 根本誠、五十嵐久仁平著 旺文社 1959
歴史 全17巻 中央公論社 1960
世界考古学大系 全16巻 大修館書店 1960
世界史 大学教養演習講座 吉岡力編 青林書院 1960
世界の歴史 全17巻 筑摩書房 1960
世界の歴史 目で見る学習百科9 尾鍋輝彦 偕成社 1960
世界の歴史 全8巻 ホームスクール版 中央公論社 1962
世界文化交流史 伊瀬仙太郎 金星堂 1963
世界文化史物語 少年少女・世界の名著11 ウェルズ著 金沢誠訳 偕成社 1964
世界史の基礎 バイタルズシリーズ 鈴木健一 研数書院 1965
世界歴史 全7巻 人文書院 1965
ライフ人間世界史 全21巻 タイムライフブックス 1966
世界史の研究 吉岡力 旺文社 1967
大世界史 全26巻 文芸春秋 1967-1968
世界の文化史蹟 全16巻 講談社 1967
世界歴史シリーズ 全23巻 世界文化社 1968
目で見る大世界史 全18巻 国際情報社 1968
世界の歴史 カラー版 全26巻 河出書房 1968
世界の歴史 全12巻 集英社 1968
世界の歴史 全17巻 中公バックス 1968
世界の歴史 年表要説 現代教養文庫 三浦一郎・金沢誠編 社会思想社 1968
アシェット版・世界の生活史 全23巻 河出書房 1976
日本と世界の歴史 全22巻 学習研究社 1969
デュラント世界の歴史 全32巻 日本メールオーダー 1969
岩波講座世界歴史 全31巻 岩波書店編 岩波書店 1969-1974
世界歴史シリーズ 世界文化社 1969
沈黙の世界史 全13巻 新潮社 1970
世界古代史双書 全10巻 創元社 1971
新しい世界史の見方 謝世輝 講談社 1972
岩波講座世界歴史 31 総目次・総索引 岩波書店 1974
世界の歴史 現代教養文庫 全12巻 社会思想社 1974
ランドマーク世界史 全15巻 講談社 1975
世界の歴史 全25巻 講談社 1976
世界歴史 図詳ガッケン・エリア教科事典3 学習研究社編 学習研究社 1976
世界の民族 大林太良監修 平凡社 1979
世界歴史地図 朝日タイムズ G・バラクラフ総監修 朝日新聞社 1979
ビジュアル版・世界の歴史 全20巻 講談社 1984
世界の戦争 全10巻 講談社 1985
世界歴史大事典 全22巻 江上波夫・梅棹忠夫監修 教育出版センター 1986
世界文化小史 角川文庫 ウェルズ著 下田直春訳 角川書店 1991
戦争の世界史 技術と軍隊と社会 ウィリアム・ハーディー・マクニール著 刀水書房 2002
人類と家畜の世界史 ブライアン・フェイガン著 河出書房新社 2016
図説世界史を変えた50の指導者(リーダー) チャールズ・フィリップス著 原書房 2016
性病の世界史 ビルギット・アタム著 瀬野文教訳 草思社 2016
マクニール世界史講義 ウィリアム・ハーディー・マクニール著 筑摩書房 2016

ポッキー&プリッツの日

    身近な物の値段。お茶碗1杯分のごはん。(1合150gの半分)10㎏4000円の普通のコシヒカリで、約30円。(光熱水費含まず)

   ではラーメン1杯はいくらか?約40円。(スーパーで買う即席麺198円5パックは1食あたり39.5円)。マッチ棒1本は50銭。爪楊枝1本は23銭。

Img_1032018_8661516_2   ではグリコのポッキー1本いくらか?。いろいろな種類があるがポッキーチョコレート35g2パック入りでスーパー販売価格118円。本数の表示はないが、数えると1パックは17本なので、118÷34=3円47銭。(11月11日)

孔子及び論語関係文献目録

Photo_2  1690年2月7日、孔子を祭る湯島聖堂が完成した。孔子の学問を儒学として薦めたのは江戸時代になってからだが、すでに江戸初期にもその気運はあった。加藤清正は戦国の武将の例にもれず、本などあまり読まなかったが、教養派の前田利家の影響から読書するようになった。清正が、江戸と熊本を往来する船の中で、「論語」を読みながら朱点ほほどこしているのを見ていた飼い猿が、清正が厠へ行った間に主人の真似をして「論語」の上に縦横に朱の線を走らせてしまった。戻ってきた清正はこれを見てニッコリ笑い、「おぉ、そちも聖人の教えを知りたいか」と言って、猿の頭を撫でたという。この逸話によって、清正が平生「論語」に親しんでいたことがよくわかる。清正ならずとも心ある部将はみな論語を愛読した。大内義隆、徳川家康など。明治以後は渋沢栄一、下村湖人、武者小路実篤など。第一生命の創始者・矢野恒太にも『ポケット論語』の著書がある。講談社をつくった野間清治にも、事業運営の柱に「論語」を据えたことは、あまねく知られている。最近では野球の野村克也が『野村の実践論語』の著書を刊行している。明治以降、「孔子及び論語」に関する文献は何点くらい出版されたのであろう。国立国会図書館で検索すると14063件がヒットする。

  論語関係文献
図書の部
論語微 10巻 荻生徂徠
論語古義 10巻 伊藤仁斎撰 1712
論語 全4巻 朱熹 学習館 1870
論語集説 全6巻 安井息軒 1872
論語類編心解 4冊和本 渋谷鉄臣(如意)編 京都・文石堂 1891
孔子 世界歴史譚第2篇 吉国藤吉 博文館 1899
論語新証 于省吾 1900
和論語 本社出版部 仏教図書出版 1900
孔門之徳育 亘理章三郎 開発社 1901
論語纂註 米良東嶠(倉子痩) 村上書店 1901
論語訓釈 斎藤清之丞 金華堂 1903
論語補註 山本章夫 山本読書室 1903
論語講義 上下 花輪時之輔講述 深井鑑一郎編 誠之堂 1903
孔門之徳育  1巻 亘理章三郎 開発社 1901
論語補註 2冊 和本 山本章夫註 京都・山本読書室 1903
孔夫子伝 蜷川龍夫 文明堂 1904
孔子研究 蟹江義丸 金港堂 1905
論語講義 根本通明 早稲田大学出版部 1906
孔子 西脇玉峰 内外出版協会 1909
論語経典余師 渓世尊講 宮崎璋蔵校訂 日吉丸書房 1909
論語講義 近藤元粋 篠田栗夫共著 大日本商業学会 1909
論語古義 佐藤正範 六盟館 1909
論語集説 漢文大系1 安井息軒 服部宇之吉校 冨山房 1909
論語講話 大江文城 東洋大学出版部 1909
孔子伝 遠藤隆吉 丙午出版社 1910
孔子 白川次郎 東亜堂 1910
孔子之聖訓 二條基弘 東久世通禧 名著学会出版部 1910
荻生徂徠論語辨 祥雲碓悟校 1910
論語弁 荻生徂徠 祥雲碓悟校 天書閣 1910
論語講義 一戸隆太郎 大成社 1910
論語国字解 一名経伝余師 渓世尊講 深井鑑一郎校 宝文館 1910
論語詳解 川岸華岳 郁文舎 1910
論語示蒙句解 漢籍国字解全書1 中村惕斎 早稲田大学出版部 1912
論語書目 中村久四郎編 孔子祭典会 1913
論語源流 林泰輔 自筆稿本 1915
論語年譜 林泰輔 龍門社 1916
孔子及び孔子教 服部宇之吉 明治出版社 1917
論語講義 漢文註釈全書1 三島毅(中洲) 明治出版社 1917
論語鈔 成簣堂叢書10  上村観光解題 1917
論語講義 細川潤次郎 南摩鋼紀共著 吉川弘文館 1919
孔子と其思想及教義 鈴木周作 弘道館 1922
渋沢子爵活論語 安達大寿計編 宣伝社 1922
現代に活かした論語講座 西川光二郎 丙午出版社 1924
孔子聖教之攻究 景仰子、柿本寸鉄 人文社 1924
孔子聖蹟志 馬場春吉 大東文化協会 1924
孔子研究 改版 蟹江義丸 京文社 1927
国訳論語 斯文会編 龍門社 1928
孔子鑑賞 大月隆仗 敬文館 1929
論語明解 江口天峰 至玄社 1929
孔子 小学児童学習の友 高橋喜藤治 郁文書院 1930
論語講本(集註) 島田欽一校訂 有精堂 1930
論語鈔 村上龍英 広文堂 1930
論語詳解 沢田総清 健文社 1930
孔子全集 全2冊 藤原正纂訳 岩波書店 1931
論語善本書影 大阪府立図書館編 京都・貴重書影本刊行会 1931
論語詳解 簡野道明 健文社 1931
論語證解 上中下 漢籍国字解全書28,29,30 早稲田大学出版部 1933
論語私感 武者小路実篤 岩波書店 1933
論語・孟子 東方古典叢刊7 五十沢二郎 竹村書房 1933
論語・孟子の話 国民修養講和3 西川光二郎 春陽堂 1933
孔子 室伏高信 日本評論社 1934
孔子解説 学庸篇 北村佳逸 立命館出版部 1934
論語講義 岡田正三 第一書房 1934
論語心解 西川光二郎 自動道話社 1934
論語の解釈 村田慎三 白帝社 1934
論語詳解 前島成 大修館 1934
論語全解 島田鈞一 有精堂 1934
孔子及孔子教 住谷天来 新生堂 1935
孔子教の戦争理論 北村佳逸 南郊社 1935
論語評釈 大江文城 関書院 1935
論語講義 安井小太郎 大東文化協会 1935
論語古伝 10巻 仁井田好古撰 南紀徳川史刊行会 1935
論語大学中庸 漢籍を語る叢書2 田中貢太郎 大東出版会 1935
論語新解 国語漢文研究会編 明治書院 1935
孔子 社会科学の建設者・人と学説叢書 田崎仁義 三省堂 1936
孔子の生涯 諸橋轍次 章華社 1936
仁の研究 山口察常 岩波書店 1936
精講 論語百講 松田金重編 三省堂 1936
論語講座 全6巻 高田真治・諸橋轍次・山口察常編 春陽堂 1936-37
孔子伝 岡村利平 春陽堂 1937
孔子伝 (附)弟子列伝・集語 岩波文庫 藤原正訳注 岩波書店 1937
孔子とをしえ 加藤虎之亮 国民精神文化研究所 1937
孔子の思想・伝記及年譜 論語講座研究篇 春陽堂 1937
孔子の人格と教訓 塩谷温 開隆堂書房 1937
儒教の史的概観 高田真治 春陽堂 1937
論語・孔子 室伏高信全集8 青年書房 1937
孔子 大教育家文庫1 和辻哲郎 岩波書店 1938
全釈論語 幸田露伴 双葉書房 1938
大学論語解義 四書研究 岩部撓・深谷賢太郎 啓文社 1938
論語精解 重野篤二郎 白帝社 1938
四書新釋論語 上下 内野台嶺 賢文館 1939
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1939
論語私見 上下 山本憲永弼 松村末吉家 1939
新講論語読本 西川光二郎 春陽堂書店 1939
論語読本(興亜国民) 上下 論語 東洋思想文庫 東洋思想文庫刊行会 第一出版協会 1939
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1939
論語と教養 谷口廻瀾 谷口廻瀾先生還暦記念刊行会 1940
孔子 武者小路実篤 講談社 1941
孔子と其の生涯 田中貢太郎 東海出版社 1941
孔子廟参拝記 菟田茂丸 平凡社 1941
算標論語集註 瀧川亀太郎 金港堂書籍 1941(1913)
論語と支那の実生活 後藤朝太郎 高陽書院 1941
論語詳解 最新研究 徳本正俊 芳文堂 1941
論語の組織的研究 中島徳蔵 大日本出版株式会社 1941
孔子・人とその哲学 室伏高信 潮文閣 1942
孔子の新研究 大月隆仗 新民書房 1942
孔子 和辻哲郎 植村書店 1948
論語総説 藤塚鄰 弘文堂 1949
論語十二回講話 西川光二郎 1942
論語と孔子の思想 津田左右吉 岩波書店 1946
論語抄 幸田露伴 中央公論社 1947
孔子とその弟子 下村湖人 西荻書店 1950
論語集註 簡野道明 明治書院 1950
孔子 岩波新書 貝塚茂樹 岩波書店 1951
孔子 室伏高信 潮文閣 1951
孔子廟堂碑 展大法帳1 虞世南 春潮社 1951
論語物語 角川文庫 下村湖人 角川書店 1951
論語私感 三笠文庫 武者小路実篤 1951
論語私感 新潮文庫 武者小路実篤 1951
孔子 偉人物語文庫 小田嶽夫 偕成社 1952
孔子と老子 諸橋轍次 不昧堂書店 1952
論語に学ぶ 赤木三良 池田書店 1952
論語新解 簡野道明 明治書院 1952
全訳論語精解 重野篤二郎 桜井書店 1953
論語新釈 宇野哲人 弘道館 1953
論語全解 島田鈞一 有精堂 1953
孔子 角川文庫 和辻哲郎 角川書店 1955
孔子 武者小路実篤全集11  新潮社 1955
孔子 三一新書 尾崎辰之助 三一書店 1957
論語百選 現代人のために 三省堂百科シリーズ 新垣淑明 三省堂 1957
論語の言葉 現代に生きる言葉? 堀秀彦 実業之日本社 1957
論語と現状 岩越元一郎 明徳出版社 1957
論語新釈 学生社新書 魚返善雄訳 学生社 1957
論語集注 上下 影璜川呉氏仿宋刊本 書物文物流通会 1959
孔子 その人とその伝説 H・G・クリール著 田島道治訳 岩波書店 1961
顔淵・孔子 中勘助全集10 角川書店 1962
孔子 和辻哲郎全集6 和辻哲郎 岩波書店 1962
輯佚論語鄭氏注 月洞譲 編者油印 1963
仁の古義の研究 竹内照夫 明治書院 1964
論語集註(標註) 渡辺末吉 武蔵野書院 1964
孝の孔子の新解釈 加藤常賢 斯文43   1965
孟荀における孔子 浅間敏太 中国哲学3  1965
論語のことば 中国の知恵1 吉田賢抗 黎明書房 1965
論語知言 東条一堂 原田種成校訂 書籍文物流通会 1965
論語と人間孔子 山田統 明治書院 1965
孔子 その礼説を中心とする考察 松代尚江 懐徳37   1966
孔子・孟子 世界の名著3 貝塚茂樹編 中央公論社 1966
仁の研究 下斗米晟 大東文化大学東洋文化研究所 1966
孔子と老子 ヤスパース選集22  田中元訳 理想社 1967
孔子名言集 世界名言集6 伊藤貴麿 ポプラ社 1967
孔子孟子老子荘子 世界の大思想Ⅱ‐1  本田済、松代尚江、木村英一ほか訳 河出書房 1968
論語私感想 現代教養文庫 武者小路実篤 1968
論語孟子大学中庸 世界文学大系69  倉石武四郎・湯浅幸孫・金谷治編 筑摩書房 1968
孔子 センチュリーブックス人と思想2 内野熊一郎、西村文夫、鈴木壮一 清水書院 1969
孔子伝 如是我聞 諸橋轍次 大法輪閣 1969
論語孟子荀子礼記(抄) 中国古典文学大系3 木村英一・鈴木喜一ほか訳 平凡社 1970
孔子家語 中国古典新書 清田清 明徳出版社 1971
孔子と論語 東洋学叢書 木村英一 創文社 1971
論語源流 林泰輔 汲古書院 1971
論語古義 日本の名著13  伊藤仁斎著 貝塚茂樹訳 中央公論社 1972
論語抄 足利本 中田祝夫編 勉誠社 1972
論語之研究 武内義雄 岩波書店 1972
論語を活かせ 武藤紀郎編 文進堂 1972
聖人の虚像と実像 論語 現代人のための中国思想叢書1 駒田信二 新人物往来社 1973
論語講義と長寿法 村田直彌 明治書院 1973
論語の講義 諸橋轍次 大修館書店 1973
孔子批判 中国通信社東方書店編 東方書店 1974
論語三十講 斯文会編 大修館書店 1974
論語入門 ダルマ・ブックス 阿部幸夫 日本文芸社 1974
論語の新研究 宮崎市定 岩波書店 1974
孔子伝 銭穆 池田篤紀訳 アジア問題研究会 1975
論語発掘 通釈への疑問と解明 合山究 明治書院 1975
論語講義 渋沢栄一 二松学舎大学出版部 1975
論語私見 民主主義時代の論語 小沢俊雄 岡谷 中央印刷 1975
論語大東急記念文庫講座講演録 石井千秋等講述 大東急記念文庫 1975
論語について 講談社学術文庫 吉川幸次郎 講談社 1976
修訂・論語年譜 林泰輔編 麓保孝修訂 国書刊行会 1976
論語・孟子 西谷元夫 有朋堂 1976
論語講義 全7巻 講談社学術文庫 渋沢栄一 講談社 1977
論語精義 上・下 和刻本近世漢籍叢刊思想三編 1・2 朱熹撰 佐藤仁著 中文出版社 1977
論語孟子研究 狩野直喜 みすず書房 1977
論語新釈 新装版 魚返善雄訳 学生社 1978
孔子 人類の知的遺産4 金谷治 講談社 1980
論語新釈 講談社学術文庫451 宇野哲人訳 講談社 1980
朝の論語 安岡正篤述 明徳出版社 1981
論語墨書 名筆による名言鑑賞 広論社出版局編 広論社 1981
論語私感 内田智雄 創文社 1981
論語新探 論語とその時代 趙紀彬著 高橋均訳 大修館書店 1981
よみがえる論語 色部義明 徳間書店 1981
論語八方破れ TOKUMA BOOKS 竹村健一 徳間書店 1982
論語を読む 常石茂 勁草書房 1982
孔子新伝 「論語」の新しい読み方 林復生 新潮社 1983
孔子のことば 現代語訳の「論語」 林復生 グラフ社 1983
論語に学ぶ部課長学 仁田敏男 日本経営団体連盟弘報部 1983
孔子 時を越えて新しく 中国の人と思想1 加地伸行 集英社 1984
論語のこころ 加藤富一 近代文芸社 1984
論語と孔子 人間関係論のエッセンス「論語」の新しい読み方 鈴木修次 PHP研究所 1984
孔子 伝記世界の偉人2 中央コミックス 永井道雄・手塚治虫監修 中央公論社 1985
孔子廟堂碑・他 書道基本名品集2 虞世南 雄山閣出版 1985
孔子廟堂碑   原色法帖選12  虞世南 二玄社 1985
「論語」その裏おもて 旺文社文庫 駒田信二 旺文社 1985
論語と算盤 渋沢栄一述 梶山彬編 国書刊行会 1985
「論語」&老子入門 徳間文庫 野末陳平 徳間書店 1985
論語の世界 加地伸行編 新人物往来社 1985
孔子と失われた十支族 鹿島辨 新国民社 1986
孔子の復活 孔子をめぐる虚構と真実 李家正文 冨山房 1986
孔子の末裔 孔徳懋口述、柯蘭筆記 和田武司訳 筑摩書房 1986
論語との対話 金子知太郎 竹井出版 1987
論語の活学 安岡正篤 プレジデント社 1987
論語抄の国語学的研究・索引篇 坂詰力治編 武蔵野書院 1987
孔子の経営学 孔健 PHP研究所 1988
孔子家語 岩波文庫 藤原正訳 岩波書店 1988
論語総説 藤塚鄰  国書刊行会 1988
論語と禅 半頭大雅 山田邦男 春秋社 1988
孔子 井上靖 新潮社 1989
孔子 日本人にとって「論語」とは何か 歴史と人間学シリーズ 山本七平、渡辺昇一、谷沢永一、小室直樹 プレジデント社 1989
論語は問いかける 孔子との対話 ハーバート・.フィンガレット著 山本和人訳 平凡社 1989
「論語」その裏おもて 徳間文庫 駒田信二 徳間書店 1989
論語の講義 新装版 諸橋轍次 大修館書店 1989
孔子 講談社学術文庫 金谷治 講談社 1990
孔子家の極意 ワニの本 孔健 ベストセラーズ 1990
孔子と教育 俵木浩太郎 みすず書房 1990
わが祖・孔子と「論語」のこころ 孔健 日本文芸社 1990
孔子 集英社文庫 加地伸行 集英社 1991
孔子画伝 加地伸行 集英社 1991
孔子伝 中公文庫 白川静 中央公論社 1991
孔子・孟子に関する文献目録 瀬尾邦男編 白帝社 1992
真説人間孔子 孔祥林 河出書房新社 1994
男の論語 童門冬二 PHP研究所 1999
論語名言集 村山吉廣 中央公論新社 1999
論語 石川忠久監修 サン・エデュケーショナル 2000
論語 吉田公平 たちばな出版  2000
論語紀行 坂田新 日本放送出版協会 2000
宋明の論語 松川健二 汲古書院 2000
男の論語2 童門冬二 PHP研究所 2000
論語234 吹野安、石本道明 明徳出版社  2000
人生は論語に窮まる 谷沢永一、渡辺昇一 PHP研究所 2000
孔子「論語」に関する文献目録 単行本篇 瀬尾邦雄 明治書院 2000
江戸古学派における「論語」注釈史の研究 金培懿 博士論文 2000
論語 現代五訳 宮崎市定 岩波書店 2000
論語の新しい読み方 宮崎市定 岩波書店 2000
孔子百科辞典 上海辞書出版社 2010
さまよえる孔子、よみがえる論語 朝日選書 竹内実 朝日新聞出版 2011
孔子学院伝播研究 劉程、安然 中国社会科学出版社 2012
孔子の倫理哲学論 道徳論を中心として 浅井茂紀 International Philosoply Institute
孔子論語 佐久協 NHK出版 2012
論語正 石永楙 中華書局 2012
論語の読み方 中野孝次 海竜社 2012
孔子 世界史リブレット人 高木智見 山川出版社 2013
論語集注 1~4 東洋文庫 朱熹 土田健次郎訳注 平凡社 2013
孔子聖蹟図 和版集成 竹村則行 花書院 2014
図説孔子:生涯と思想 孔祥林 科学出版社 2014
全訳論語 山田史生 東京堂出版 2014
徳川日本の論語解釈 黄俊傑著 工藤卓司訳 ぺりかん社 2014
近代における「論語」の訓読に関する研究 石川洋子 新典社 2015
孔子と魯迅 片山智行 筑摩書房 2015
日本古代「論語義疏」受容史の研究 髙田宗平 塙書房 2015
論語与近代日本 劉萍 中国青年出版社 2015
儒教 怨念と復讐の宗教 浅野裕一 講談社 2017

論文の部
泰西人の孔子を評するを評す 井上哲次郎 東学芸4  1882
孔子ノ教ハ支那国ニ如何ナル影響ヲ与ヘンヤ 赤座好義 東学芸3-46  1885
孔子の学術を汎論す 柳沢保恵 輔仁会雑23,24,28  1893~94
孔子之道と徂徠学 加藤弘之 東哲1-6  1894
孔子以後の学派 藤田豊八 東哲1-8,11,12   1894,95
孔孟の道 内藤耻叟  東哲1-3  1894
孔夫子追遠記念祭典の意義 塩谷温 斯文4-6  1922
孔夫子伝 服部宇之吉 斯文7-2  1922
孔夫子の偉大なる点に就いて 手塚良道 斯文4-5  1922
孔夫子略伝 服部宇之吉 斯文4-5  1922
周公孔子之道 今井彦三郎 朝鮮教育6-12  朝鮮教育会 1922
文廟の従祀及び清代尊孔御書匾額について 中山久四郎 斯文4-5  1922
予の孔子観 桑原隲蔵 斯文4-5   1922
余の観たる孔夫子 渋沢栄一 斯文4-5  1922
孔夫子の政治観 島田三郎 斯文5-4  1923
孔子とソクラテス 吉田熊次 斯文5-5  1923
大聖孔子 牧野謙次郎 斯文5-5  1923
孔夫子及び其の家系に就きての二三の考察 那波利貞 歴史と地理18-1  1926
孔夫子と我が国体 塩谷温 斯文8-5  1926
孔子の知天命 服部宇之吉 斯文9-9  1927
孔夫子と集大成 児島献吉郎 斯文9-5  1927
孔夫子の道 小野錬太郎 斯文9-12  1927
支那史上の偉人 孔子と孔明 桑原隲蔵 東洋史説苑 1927
孔子の敬天思想 青木晦蔵 東洋文化54  1928
孔子祭典に就て 阪谷芳男 斯文10-1  1928
孔子の徳業 小柳司気太 斯文10-2  1928
孔夫子と現代支那 塩谷温 斯文10-6  1928
孔夫子の政教 赤池濃  斯文10-11  1928
孔孟紀年 新城新蔵 高瀬還暦記念支那学論叢 1928
孔子の仁 蟹江義丸 斯文11-4  1929
孔子の聖徳に就いて 今村完道 斯文11-11  1929
孔子の大義名分説に就いて 宇野哲人 斯文10-6  1929
孔老の思想 常盤大定 丁酉倫理会倫理講演集326  1929
正しく観たる孔夫子の聖徳 中山久四郎 斯文11-8  1929
孔子の道 飯島忠夫 斯文12-9  1930
孔子の仁と儒者の学 遠藤隆吉 哲学雑誌46-535  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 歴史と地理27-1   1931
孔子教について 荻原拡 斯文14-7  1932
支那思想史上に於ける孔子の地位 高田真治 哲学雑誌47-539  1932
満州の孔子廟建築 村田治郎 満州学報1 1932
孔子教のフランス進出 後藤末雄 丁酉倫理会講演集373  1933
孔子と老子 加藤一夫 東洋哲学38-1   1931
孔子の軍事観 岡村利平 大東文化9 1935
論語より観たる孔夫子の教導法 合田万吉 斯文17-7  1935
孔子教に於ける実行の価値 飯島忠夫 斯文4-5  1936
孔子以前の仁字とその意義 山口察常 斯文18-8  1936
孔門伝授の心法 成田衡夫 服部古稀記念論文集 1936
孔子とイエス 大塚繁樹 媛大紀要1-4  1953
詩書と孔子の天及び天命の思想 米田登 文と思6  1953
孔子および孟子の兵戦思想 内田智雄 同志社法学26  1954
孔子学団 宇都宮清吉 東洋学報(京都)25  1954
天下周遊の構造 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報5  1954
孔子の管仲譚 華夷論の一端として 高田真治 東洋研究6  1963
孔子の仁の思想について 馮友蘭著 高橋均訳 漢文教室64  1963
貝塚茂樹著「孔子」についての往復書簡 西谷啓治、貝塚茂樹 図書24  1951
孔子に於ける仁思想成立の過程 石黒俊逸 支那学研究8  1951
尚書孔子伝の態度 加賀栄治 学芸3-1  1951
人間孔子 谷川徹三 斯文4  1951
孔子死生の説 那智佐典 東洋学研究7  1938
孔孟以後の儒教 秋月胤継 斯文20-6  1938
東洋史上に於ける孔子の位置 宮崎市定 東洋史研究4-2  1938
論語に現われたる孔子の人間観 西村侃三 斯文21-11,12  1939
孔子的自我の展開 牧尾良海 哲学雑誌55-639,642  1940
孔子の仁 平田栄(講演)  斯文22-1  1940
孔子の学的精神とその展開 田所義行 漢学雑9-3,10-1  1941-42
孔子より孟子に至る自己観の展開に就いて 赤塚忠(講演) 斯文24-12  1942
孔子の思索生活  1,2 田所義行 漢学雑11-2,3;12-1,2   1943~44
孔子の教学 佐藤匡玄  建大研月報38  1944
孔学総論 谷本富 東学芸4-73  1945
孔子について 貝塚茂樹 世界10  1946
人間孔子 林語堂 実藤恵秀訳 新中国1-3  1946
マルクス孔子に会う 郭沫若 実藤恵秀訳 中国文学95  1946
孔子と子産 貝塚茂樹 東光1   1947
孔子の学問精神 原佑 叙説4  1950
孔子の人間観 板野長八 学士院紀要8-1  1950
春秋著者説話の原形 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 叙説5  1950
孔子の精神に関して所感を陳ぶ 元良勇次郎 東洋哲学2-10  1895
孔子の誕生会に就て 日下寛 東洋哲学2-9  1895
孔夫子誕生祭に就き 関根正直 東洋哲学4-2  1896
孔子誕生に就きて 重野安繹 東洋哲学3-1  1896
孔子の精神 日下寛 東洋哲学4-2  1897
孔子の降誕に就きて  島田重礼 東洋哲学4-1  1897
孔子の学説 松村正一 東洋哲学8-9~12 1901
孔子の教育及宗教 穂積秀範 龍谷史壇10  1902
孔夫子と儒教 島田三郎 東洋哲学 9-1,2  1902
孔子の所謂君子に就きて 蟹江義丸 東洋哲学10-1  1903
孔子教の趣旨 星野恒 東洋哲学11-1   1904
孔夫子研究を評す 中島徳蔵 丁酉倫理会講演集33,34  1905
孔子ノ人格ニ就テ 井上哲次郎 太陽13-10  1907
孔聖の修養 山田準 東洋哲学15-6  1908
孔夫子の運命観 大島順三郎 東洋哲学17-6,8・18-3 1910~11
孔子に対する社会的信仰の矛盾 村上専精 丁酉倫理会講演集101  1911
孔子の倫理説に就て 松村正一 東洋哲学18-5   1911
支那に於ける孔夫子の尊崇 服部宇之吉 東亜研究1-1  1911
孔夫子の政治上に於ける教訓 深作安文 東亜研究3-6  1913
孔子教 及川生 慶義学208,209  1914
孔子 井上哲次郎 斯文20-6  1938
孔子伝より見たる論語の解釈 岡村利平 大東文化16  1937
孔子と老子 諸橋轍次 斯文33-4  1937
遭難 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報6  1955
文学としての孔子世家 バートン・ワトソン 中文教2  1955
孔子の思想について 吉川秀一 阪学大紀4  1956
孔孟の命について 金谷治 日中会報8  1956
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報7  1956
孔子の陳蔡厄考 田中佩刀 静岡女子大紀要4  1957
「孔子の道」の解釈をめぐる二三の疑義 近藤康信 東支学報3 1957
孔教私観 長谷川如是閑 斯文22  1958
孔子と易 高田真治(講演)  大東漢学1  1958
孔子と墨子 山室三良 九中会報5  1959
陳蔡の間 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大学研報9  1959
孔門の十哲に就いて 山本徳一 漢学研究1  1936
孔子教学の宗教性 金戸守 四天女子紀要7  1965
孔子の虚構性 山田統 国学雑誌66-10   1965
孔子の天下遊説について 木村英一 日中会報18  1966
孔子の職歴について 木村英一 立命館文学264-5  1967
弟子7、8 孔子説話の思想史的研究 渡辺卓 梨大教育報17-1  1967
孔子と易 鈴木由次郎 東方宗教31   1968
論語と人間 孔子における人間性と宗教性 西藤雅夫 彦根論叢132、133   1968
孔子の学校について 木村英一 東方学38   1969
孔子とその教育 喜多川忠一 群馬大学教育学部紀要人文社会科学18  1969
聖人の虚像と実像(孔丘) 丸山松幸 人物中国志2 1974
官吏養成を目的とした孔子学園の教育 高峰文義 福岡大学人文論叢10-3  1978-1979
論語にみる孔子の人間評価基準 その識別に関する一考察 仙田美智子 近畿大学女子短期大学研究紀要16  1986
孔子と「論語」 森野繁夫 漢文教育 1999
「論語徴」における「礼」 暢素梅 人間文化研究年報23  1999
孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価 若江賢三 人文学論叢16  2014年
孔子の仁説について 青木晦蔵 大谷大学仏教研究会  2017,4,4
孔子の仁と何か 上・下 吉永慎二郎 秋田大学教育学部 2017.2.16
孔子の天に対する思想:その宗教的性格について 三浦吉明 集刊東洋学36  2017.4.12
  このように孔子及び論語に関する文献は古来から今日に至るまで実に膨大な量にのぼる。若い読書子に一冊を奨めるとすれば、高木智見「孔子」(世界史リブレット)である。100頁たらずの冊子であるが、比較的本を求めやすい。また最新の出土資料をもとに論語のテキストを検討している。孔子の中心思想である「仁」についてしぼって論述している。論語と孔子の関係書は多いがほとんどが現代的な解釈を各自が自由に論じているが、本書は春秋という時代状況を可能な限り考察し、孔子の思想について論述している点を評価したい。

2017年11月10日 (金)

琉球・台湾関係文献目録

Yoichi   「琉球」と聞けば、多くの人は首里城守礼門の沖縄を思い浮かべる。ところが、「琉球は台湾だった」といえば話がややこしくなる。日本の九州から南、台湾島に至る間につらなる列島を、北から正確にいえるだろうか。

  種子島、屋久島、トカラ列島、奄美大島、徳之島、沖之良部島、与論島、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島、西表島、与那国島、台湾島である。

  台湾には先住民はいたが、清朝支配下となるまで、対外的な統一名は無かった。したがって、中国の古文献によって古代の地名を比定することになる。まず「漢書」地理志に次のように記されている。

「会稽の海外に東鯤人あり、分かれて二十余国となす。歳時をもって献見す」

    この「東鯤」(とうこん)が台湾であると唱えたのは日本の東洋史家・市村讃次郎であるが、確証は未だない。

   7世紀はじめ、「隋書」煬帝紀に

「流求国は海島の中に居り、建安郡の東、水行五日にして至る」

  この「流求」は、現在の台湾であることは間違いない。大業3年(603年)、煬帝は朱寛、何蛮らに台湾遠征を命じた。

  以後、「流鬼」(新唐書)、「琉求」(宋史)、「瑠求」(元史)のなどの地名が見える。

  つまり、古代において中国では、台湾のことを「琉球」とよんでいたたのであるが、現在の沖縄についても区別することなく、全体を「琉球」と称していたとおもわれる。そのため戦前の学界では、混乱が生じ、琉球沖縄説と琉球台湾説に分かれた。今日では、西洋の地図なども検討し、隋、唐、宋、元代に見える「琉球」の地名は台湾を指していると見るのが定説である。

    では、なぜ沖縄を指して「琉球」と称するようになったのか。それは、、明の洪武年間(1368-1398)、沖縄の中山王が明の冊封を受けたため、朝貢国である沖縄を「大琉球」とし、一方朝貢していない台湾を野蛮な島として「小琉球」と区別するようになったためである。もともと「大琉球」「小琉球」の区別は16世紀のヨーロッパ人によるものが最初であるらしい。オリテリオスの「太平洋図」(1589年)において沖縄と台湾を「Lequuuei grande」「Lequeio pequenno 」と区別している。「pequeno」とはポルトガル語で「小さい」の意である。レケオ・ペケニョらの地図でも台湾が「小琉球」と呼ばれていたことがわかる。日本では台湾をもともと「たかさご」と呼んでいた。豊臣秀吉の国書には「高山国」(1593年)とある。のちに「たかさくん国」などの表記が見られるが、17世紀初めの船乗りたちは台湾のことを「たかさご」と呼んでいた。 しかし、中国では沖縄が「琉球」と定まったのに対して、台湾の呼称は「東蕃」「北港」「雞籠」「台員」「大冤」などの名があてられたが、いずれも台湾全体をさした呼称ではなかった。鄭氏が清国に屈服し、台湾が清国領となって以後、「台湾」の名で呼ばれるようになった。近年、台湾人というアイデンティティが形成されつつあり、「自分たちは中国人ではなく台湾人」天然独と呼ばれる若者が急増している。国際社会では独立国と認めていない台湾の、これからを見守りたい。

  台湾関係文献
台湾諸島誌 小川琢治 1896
台湾と南方支那 田中善立 新修養社 1913
台湾殖民発達史 佐藤四郎 台北晃文館 1916
台湾の風景 田村剛 雄山閣 1929
台湾の1年 川村竹治 時事研究会 1930
台湾農業年報 昭和6年  台湾総督府殖産局 1932
台湾農業年報 昭和7年 台湾総督府殖産局 1933
台湾人四百年史 史明 音羽書房 1962
琉球史料双書 伊波普献等編 井上書房 1962
台湾 苦悶するその歴史 王育徳 光文堂 1964
台湾の現実と日中関係 台湾ナショナリズムの動向を中心に 現代アジア社会思想研究会 同研究会 1965
台湾の経済と金融 アジア諸国経済・金融シリーズ1 久保田太郎 国際図書 1967
台湾資料 秘書類纂18 明治百年史叢書 伊藤博文編 原書房 1970
台湾の経済成長 その数量経済的研究 篠原三代平、石川滋共編 アジア経済研究所 1972
台湾の農業 斎藤一夫編 アジア経済研究所 1972
台湾処分と日本人 林景明 旺史社 1973
台湾年鑑 1973年版 台湾問題研究所編 PNS通信社 1973
台湾年鑑 1975年版 PNS通信社編 新国民出版社 1975
台湾年鑑 1977年版 台湾研究所編 台湾研究所 1977
中国と琉球 野口鉄郎 開明書院 1977
壺を祀る村 台湾民俗誌 国分直一 法政大学出版局 1981
台湾風俗誌(復刻) 片岡厳 青史社 1983
海峡 台湾政治への視座 研文選書 若林正丈 研文出版 1985 
台湾人士鑑 昭和9・12・18年版 復刻 興南新聞社編 湘南堂書店 1986
台湾民主国の研究(重版) 黄昭堂 東京大学出版会 1983
台湾アミ族の社会組織と変化 末成道男 東京大学出版会 1984
台湾の旅 エリアガイド66 小林克己 昭文堂 1984
琉球・清国交易史(二集『歴代宝案』の研究) 宮田俊彦 第一書房 1984
台湾の原住民族 宮本延人 六興出版 1985
台湾の旅 ワールド・トラベル・ブック6 ワールドフォトプレス 1986
高砂族調査書 台湾総督府警務局理藩課 湘南堂書店 1986
朝鮮・琉球航海記 1816年アマースト使節団とともに ホール著 春名徹訳 岩波書店 1986
台湾難友に祈る 鐘謙順、黄昭堂編訳 日中出版 1987
台湾の民族と文化 宮本延人、瀬川孝吉、馬渕東一 六興出版 1987
台湾・爆発力の秘密 ノン・ブック 黄昭堂 祥伝社 1988
台湾の改革派 戸張東夫 亜紀書房 1989
台湾の本 旅のガイドムック 近畿日本ツーリスト 1989
台湾の前途 中国統一か、独立か 小林進編著 サイマル出版会 1989
台湾ニューシネマの旗手候孝賢(ホー・シャオシェン) 田村志津枝 岩波書店 1990
台湾の危機と転機 張俊宏著 吉田勝次・李家騰訳 社会評論社 1990
台湾百科 若林正丈編著 大修館書店 1990
台湾に革命が起こる日 鈴木明 リクルート出版 1990
台湾を愛した日本人 土木技師・八田與一の生涯 古川勝三 創風社 2009

不思議な偶然の一致

    すでに知る人ぞ知る天皇家の不思議。偶然とはいえ、あまりに偶然すぎることである。2人は揃って皇室に入ることは生まれたときからの運命だったに違いない。

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    名前を並べて、互いに読んでみると、このようになる。やはり不思議な偶然の一致である。

2014年、高倉健が亡くなった11月10日は、奇しくも森繁久彌(2009年死去)と森光子(2012年死去)の命日。歌舞伎をのぞく演劇・映画・放送分野の俳優で、過去4人しか受賞していない文化勲章の受賞者が同じ命日というのはあまりに偶然すぎる。

    惨劇の日が重なることがある。池田小学校事件(2001年)と秋葉原通り魔事件(2008年)は6月8日の同日。2013年の米サンタモニカの大学で起きた銃乱射事件は現地では6月7日だが日本時間では8日である。

中国漢籍図書目録

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 天一閣。門には「南国書城」の額がある

   天一閣は明の寧波の豪商、范欽(1506-1586)が1561年から1566年にかけて創建した蔵書楼。現存するアジアでも最古の図書館の一つといえる。蔵書家の多いことで知られる浙江省鄞県でも天一閣が珍しい書物が集められていることから、当時から天下第一といわれ、それが命名の由来である。天一閣の前庭に池があるのは防火対策である。蔵書内容は嘉靖・万暦年間(1522-1619)に刊本されたものが多く、旧鈔本、金石拓本、明代の地方志、科挙関係資料などが多数ある。清の四庫全書の編纂には天一閣の図書を参考にし、文淵閣はこの楼閣にならって作ったといわれる。

    中国漢籍目録

晏子春秋 戦国
安南史略 19巻 安南黎崱撰 元
安陽集 50巻 韓琦 北宋
郁離子 10巻18篇 劉基
委巷叢談 1巻 田汝成撰 明
夷門広牘 106巻 周履靖編 明(1597年)
韻語陽秋 20巻 葛立方撰 宋
隠秀軒詩 10巻 鐘惺撰 明
蟫史 11巻 穆希文撰 明
陰騭録 袁了凡  明
韻府群玉 20巻 陰時夫撰 元
雨窓欹枕集 洪楩 明
尉繚子(うつりょうし)
雲烟過眼録 4巻 周密 宋
雲笈七籤 120巻 張君房 宋
瀛涯勝覧 1巻 馬歓撰 明
嬴奎律髄 49巻 方国撰 元
剡源集 30巻 戴表元 元
円機活法 24巻 王世貞 明
弇山堂別集 100巻 王世貞  明
弇州山人四部稿 174巻 王世貞  明
塩邑志林 樊維城編  明
王忠文公集 20巻 王褘(金華叢書集部所収)  明
女論語 曹大家撰 説郛所収 後漢
戒庵漫筆 8巻 李翅撰 説郛・常州先哲遺書所収  明
解学士全集 11巻 解縉  明
開漢一笑 上下とも14巻 李贄  明
開元天宝遺事 4巻 王仁裕撰 五代
懐香記 2巻 陸采撰 明
艾子後語 陸灼撰  明
艾子外語  屠本畯撰  明
開闢演義 周遊  明
霞客遊記 12巻 除宏祖撰  明
花間集 10巻 趙崇祚編 (四部叢刊所収) 後蜀
格致叢書 胡文煥  明
学蔀通辨 12巻 陳建撰  明
何氏語林 30巻 何良俊撰 明
画禅室随筆 4巻 董其昌撰  明
漢魏叢書 何鏜  明
漢魏六朝七十二家集 347巻 張燮撰 明
漢魏六朝百三名家集 80巻 張溥編 明
漢詔疏 陳衍 明
邯鄲記 2巻 湯顕祖 明
漢唐事箋 朱禮 元
季漢書 60巻 謝陛撰 明
居業録 余祐編  明
今古奇観 40巻 抱甕老人撰 明
金史 135巻 托克托(トクト)等奉勅撰 元
金瓶梅 蘭陵笑笑生 明
郡齋読書志 4巻 後志2巻 考異1巻 付志1巻 晁公武撰 宋
訓纂篇 揚雄撰 漢
藝苑巵言 王世貞  明
闕里誌 24巻 陳鎬撰  明
元史 210巻 宋濂王褘等捧勅撰
兼明書 5巻 邱光庭撰 唐
孔叢子3巻 孔鮒撰 後漢
呉越春秋 趙皣  前漢
元朝秘史 15巻 元
広漢魏叢書 何允中  明
孝経 1巻 漢
孔子家語 10巻 前漢
皇朝文衡 100巻 程敏政編  明
後漢紀 30巻 袁宏撰 晋
後漢書・志 司馬彪 晋
五経大全 117巻 胡広  明
古今韻会挙要 30巻 元
古今事文類聚  祝穆
古今小説  40巻  明
古今書刻 上篇1巻、下篇1巻 周弘祖撰 明
古今説海 142巻 陸楫撰  明
古今談概 馮夢龍撰 明
古今治平略 33巻 朱健撰 明
古今注 3巻 崔豹撰 晋
古今列女伝 解縉等奉勅撰  明
五雑俎 16巻 謝肇淛撰 明
古詩源 14巻 沈徳潜撰 清
古微書 36巻 孫殻編 明
古文苑 21巻 唐
古文関鍵 2巻 呂祖謙
古文孝経 1巻  漢
古文真宝 20巻 黄堅
古列女伝 7巻 劉向  前漢
困学紀聞 20巻 王応麟
顧氏文房小説 顧元慶編 明
五車韻瑞 160巻 凌稚隆撰 明
五代会要 30巻 王薄
五代史 薛居正
菜根譚 洪自誠  明
西遊記 呉承恩  明
冊府元亀 1000巻 王欽若等奉勅撰 中華書局 1960
山谷集 70巻 黄庭堅
左氏伝解詁 30篇 賈逵  後漢
三体詩 6巻 周弼
三輔決録 2巻 趙岐  後漢
三略 3巻 黄石公
雑学辨 1巻 朱熹
雑事秘辛  楊慎  明
三国志 65巻 陳寿撰 晋
三国志演義 羅漢中 明
三才図絵 106巻 王圻  明
山堂肆考 228巻、補遺12巻 彭大翼撰  明
爾雅翼 32巻 羅願撰 宋
左氏蒙求 2巻 呉化龍 明
史記 130巻 司馬遷
史記考要 柯維騏  明
資治通鑑 294巻 目録30巻 考異30巻 司馬光
資治通鑑綱目 59巻 朱熹
詩集伝 8巻 朱熹
四書集注 19巻 朱熹
詩人玉屑 20巻 魏慶之
字説 20巻 王安石 宋
事物紀原 宋・高承撰、明・李果訂
事物原会 清・王汲編 清嘉慶2年休寧汪氏古愚山房刊本
朱子感興詩註 1巻 蔡謨
朱子行状 黄榦
朱子語類 140巻 黎靖徳
笑苑千金 張致和
七略 劉歆
諡法 劉熙
諡法劉熙注補遺 劉熙
四民月令 1巻 崔寔
釈名 8巻 劉熙
十八史略 7巻 曾先之撰 元
春秋会要 姚彦渠 中華書局  1955
春秋経伝集解 30巻 杜預 晋
春秋公羊伝 11巻
春秋穀梁伝
春秋左氏伝 30巻
春秋左氏伝解誼 服虔
春秋左伝解詁 賈逵
春秋釋例 15巻 杜預  晋
春秋繁露 17巻 董仲舒
笑海叢珠 陸亀蒙撰 元
傷寒論 16巻 張仲景
尚書大伝 4巻 鄭玄注
女誡 班昭  漢
書譜 1巻 孫過庭 唐
書目三編 別録・七略輯本・漢書藝文志補注・四史儒林文苑伝注 上・下 広文書局 1969
事林広記 陳元靚撰 宋
新五代史 75巻 欧陽脩撰 宋
真山民集 1巻 真山民撰 宋
鐔津文集(しんしんぶんしゅう) 20巻 契高 宋
神仙伝 10巻 葛洪 晋
新唐書 225巻 欧陽脩、宋祁奉勅撰 宋
水経注図 水経注疏要刪 楊守敬撰 清
随函録 20巻 可洪編 後晋
酔翁談録 10集、毎集2巻、計20巻 羅燁撰 元
崇文総目 5巻 補遺1巻  宋
図画見聞誌 6巻 郭若虚撰 宋
図絵宝鑑 5巻 夏文彦撰 元
説苑 20巻 劉向
西漢会要 上下 徐天麟撰 宋
西漢詔令 林虔  宋
西漢年紀 30巻 王益之撰  宋
西廂記 王実甫 元
正蒙書 10巻 張戴撰  宋
潜虚 1巻 司馬光撰  宋
潜夫論 10巻36篇 王符 後漢
宣和遺事 2巻  南宋
蒼頡篇 李斯 秦
宋史 496巻 脱脱(トクト)撰 元
捜神後記 10巻 隋
宋名臣言行録 朱熹撰 李幼武補編  宋
滄浪詩話 厳羽  宋
楚漢春秋 1巻 陸賈
楚辞章句 17巻 王逸
楚辞補注  17巻 洪與祖撰  宋
素書 黄石公
大学衍義 43巻 真徳秀撰 宋
太極図説 1巻 周敦頤  宋
太玄経 10巻 揚雄
太平寰宇記 200巻 楽史撰  宋
太平御覧 1,000巻  李昉等奉勅撰  宋
太平広記 500巻 李昉  宋
大載礼 85篇 載徳
中論 2巻 徐乾
長安志 20巻 宋敏求撰 北宋
朝会儀記 蔡質
地理風俗記 応劭
輟畊録(てっこうろく) 陶宗儀
點考工記 鄭玄
東漢会要 40巻 徐天麟撰 宋
東観漢記 24巻 武英殿聚珍本 姚之駰 後漢
東漢詔令 楼肪 宋
東京夢華録 10巻 孟元老撰 宋
唐才子伝 10巻 辛文房撰 元
東萊左氏博議 25巻 呂祖謙 宋
唐史論断 3巻 孫甫撰 宋
独談 2巻 蔡邕 後漢
南州異物志 楊孚 後漢
南北郊冕服議 劉蒼 漢
風俗通義 10巻、付録1巻 応劭 後漢
武経総要 宋
文献通考 348巻 馬端臨撰 元
法言 揚雄 前漢
封禅儀記 馬第伯 漢
北夢瑣言(ほくぼうさげん)  孫光憲 宋
補史記 1巻 司馬貞  唐
孟子集注 7巻 朱熹撰 宋
問礼俗 董勛 魏
野客叢書 12巻 王楙撰 宋
容斎随筆 16巻 洪邁撰 宋
酉陽雑俎 20巻、続集10巻 段成式撰 唐
與地紀勝 200巻 王象之 宋
礼記集説 160巻 衛湜撰 宋
礼記要義 33巻 魏予翁撰 宋
楽善録 10巻 李昌齢編 宋
六臣注文選 60巻  宋
律呂新書 2巻 蔡元定撰 宋
龍龕手鑑 4巻 行均編 遼
両漢詔令 洪咨夔 宋
両京新記 韋述 唐
緑窓新話 上下2巻  南宋
臨川集 100巻 王安石  宋
麟台故事 5巻  宋
類説 60巻 曽慥編  宋
類篇 15巻 司馬光撰  宋
蠣釈 27巻 洪适撰  宋
歴代故事 10巻 楊次山撰  宋
濂洛風雅 6巻 金履祥撰 元
録異記 8巻 杜光庭 前蜀
論語集注 10巻 朱熹撰  宋

2017年11月 9日 (木)

ハリウッド物語 西部劇

William_s_hart   今週のBSプレミアムは西部劇特集。西部劇はサイレントの時代から、アクションを売り物に盛んに製作されたが近年はほとんど製作されなくなった。アメリカではテレビのオン・エアもないらしい。

   本格的な西部劇は「大列車強盗」(1903)である。その後、ウェスタンは人気ジャンルになった。1910年以前の映画は俳優の名前が発表されなかったが、オクラホマの小さな町の保安官だったトム・ミックスは「大南西部の牧場生活」で西部劇スターになった。1914年にデビューしたウィリアム・S・ハート(画像)は見事な二挺拳銃のさばきでスターになった。その後、トーキーが普及するとジョン・フォード監督の「駅馬車」などのように、名作西部劇も生まれ、1940年代から50年代にかけてはプログラム・ピクチャーの王者となった。ジョン・ウェイン、ゲーリー・クーパーといった西部劇スターを生み出した。しかし1960年代に入ると、人権意識の高揚とともにネイティブアメリカンや黒人の描き方が批判の対象となり、西部劇そのものが成立しにくくなってきた。ウィリアム・ボイド主演のシリーズ「ホパロング・キヤシディ」は1938年から1944年まで66本が作られた。

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近年レオナルド・ディカプリオ「ジャンゴ 繋がれざる者」(2012)、ジョニー・デップ「ローン・レンジャー」(2013)など西部劇復権の兆しがみえる。 (10月20日)

  西部劇映画略年表

1903 大列車強盗
1910 大南西部の牧場生活
1915 二挺拳銃
1915 男の男
1917 ガンファイター
1923 幌馬車
1924 アイアンホース
1926 曠原の志士
1931 征服群
1934 ユタから来た男
1934 戦う幌馬車
1936 平原児
1939 駅馬車
1939 モホークの太鼓
1940 西部の男
1942 スポイラース
1944 西部の王者
1944 拳銃の町
1945 ダコタ荒原
1946 荒野の決闘
1947 復讐の二連銃
1947 拳銃無宿
1947 追跡
1948 赤い河
1948 アパッチ砦
1948 決闘の断崖
1948 荒原の征服者
1949 群盗の宿
1949 虐殺の河
1949 三人の名付親
1949 カナダ平原
1949 秘境
1949 黄色いリボン
1949 ケンタッキー魂
1949 死の谷
1950 幌馬車隊
1950 折れた矢
1950 ウィンチェスター銃'73
1950 拳銃王
1952 真昼の決闘
1953 シェーン
1953 カラミティ・ジェーン
1954 折れた槍
1954 ヴェラクルス
1954 大砂塵
1955 シャロン砦
1955 星のない男
1956 襲われた幌馬車
1956 誇り高き男
1956 捜索者
1957 OK牧場の決闘
1958 大いなる西部
1958 ガンヒルの決闘
1959 リオ・ブラボー
1960 荒野の七人
1960 アラモ
1962 昼下りの決闘
1962 西部開拓史
1967 墓石と決闘
1967 大西部への道
1968 レッドムーン
1969 マッケンナの黄金
1969 ワイルド・バンチ
1969 勇気ある追跡
1970 砂漠の流れ者
1976 軍用列車
1990 ダンス・ウイズ・ウルブス
1992 許されざる者
1993 黒豹のバラード

PhotoPictureofjohnwayneineldoradolargepiRandolphscottc1940114121Joel_mccrea_mike_dunbar_wichita_towRobert_ryan 
トム・ミック、ジョン・ウェイン、ランドルフ・スコット、グレン・フォード、ジョエル・マックリー、ロバート・ライアン

 

119番の日

911103    11月9日は、消防・救急のダイヤル119にちなみ「119番の日」。日本では警察への急報は110番、消防・救急は119番と区別しているが、海外では一本化している国が多い。アメリカの緊急電話番号 emergency numberは「911」。

2017年11月 8日 (水)

石川さゆり、百年の孤独!?

   生番組で司会者がとんでもない言い間違えをすることがある。年末恒例の紅白歌合戦。二大失言は1984年の生方恵一アナの「ミソラ発言」と1986年の加山雄三「仮面ライダー事件」。少年隊の「仮面舞踏会」を誤って曲目紹介。昨夜の「うたコン」では谷原章介がトリの石川さゆりの新曲「百年の抱擁」を「百年の孤独」と誤って紹介した。イケメン谷原、ガルシア・マルケスの小説を知っているなんて読書家~、と思ったら、焼酎のブランド銘だそうだ。とても笑える失敗談。実は先週も谷原くん、荻野目洋子を「ひろこ」と誤って紹介している。うたコンの先輩小田切千アナは言い間違えではなく、度忘れタイプ。曲名や歌手名がでてこない。音羽しのぶさんの名前が出るの鈍いずいぶん時間がかかったことがある。

鳴くよウグイス平安京

Student4image1   光仁天皇のあとを継いだ桓武天皇は784年、山城の長岡京に遷都した。しかし2度にわたる洪水があったため、794年10月22日、平安京に遷都し、11月8日、新京を「平安京」とする詔を発布した。桓武・嵯峨から延喜の治といわれる10世紀初めごろまでは、律令政治の再建がある程度の効果をあげ、律令国家は動揺しながらもその形態をたもっていた。律令官制の規定にない官職を令外の官という。按察使、勘解由使、蔵人頭、検非違使、押領使など。石山寺に伝わる908年の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍を見るとほとんどが女性ばかりである。女性は律令制では税が軽くなっている。そのためにこのような実際にはあり得ないような女性ばかりの戸籍が作られている。このような嘘の戸籍を偽籍という。このように平安時代中期には律令制が行き詰まってきた。

2017年11月 7日 (火)

ロシア革命100周年

Soviet_union_lenin_55   1917年11月7日、首都ペテログラード(現在のサンクトペテルブルク)で武装蜂起し、労働者らで結成された赤衛軍が政府のある冬宮に突撃した。同じ日に開かれた全ロシア・ソヴィエト大会で人民委員会が設立され、レーニンが議長(元首)に就任した。ロシア革命のはじまりである。今年はちょうど100周年にあたる。

    強大な社会主義国家誕生のニュースは世界中を震憾させた。しかし大事件の舞台となったサンクトペテルブルクだが、翌18年には再びモスクワに遷都された。あまりにも国境に近いため国防上の理由から首都としてふさわしくないと判断されたのだ。

    なお、この街は名前が何度も変更したことでも知られている。ピョートル大帝が建設した時、1703年は「サンクト・ピーテルブルック」という名称だった。これはロシア語の「サンクト」(聖なる)とオランダ語の「ペテロ(ピョートル)の市」を組み合わせた名称である。その後1825年に、これをドイツ語風に読んだ「サンクトペテルブルク」に改称されている。しかし1914年になると、「ブルグ」という言葉は、第一次世界大戦の敵国であるドイツの言葉だという理由から、スラブ語の読み方「グラード」を組み合わせた「ペテログラード」になった。さらに1924年には、ロシア革命の中心人物のひとりレーニンにちなんだ名称として「レニングラード」に変更されたのである。その後、ソヴィエト連邦崩壊の1991年に住民投票が行われ、かつての名称であった「サンクトペテルブルク」に戻されたのである。この街の名称の変遷には、この街の激動の歴史が反映されていると言えるだろう。(Lenin,Sankt Peterburg)

2017年11月 6日 (月)

「淋しい草原に埋めないで」は海の男の歌だった!?

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   本日のBSプレミアムは、ジョン・フォード監督の名作「駅馬車」(1939年)。この映画の主題曲「Oh,Bury me not on the lone prairie」。音楽を担当したリチャード・ヘージマン(アカデミー音楽賞)は、西部に伝わる古い民謡をいろいろ劇の内容にあわせて編曲したが、「淋しい草原に埋めないで」はもともとイギリスの民謡「The Ocean Burial」。危険の多い海に乗り出す船乗りの歌で、「淋しい草原」は「深い海」だった。なお乗客のひとりアル中の医師を演じたトーマス・ミッツェルは「風と共に去りぬ」ではスカーレット・オハラの父親を演じている。

お見合い

Pn2009110601000069___ci0003   本日は「お見合いの日」。1947年のこの日、東京の多摩川河畔で集団お見合いが開催された。結婚紹介雑誌「希望」が主催したもので、戦争のため根気を逃した20-50歳の男女386人が参加した。参加者は2対1の割合で男性が多かった。

  映画の中でのお見合いシーンといえば映画「遠雷」(1981年)はちょっといい加減なところもあるが農村の青年のバイタリティを感じさせる作品だった。見合いのあとすぐにモーテルに行ったり、結婚式で振りつきで桜田淳子の「わたしの青い鳥」を2人で歌うシーンなど印象深い。最近では「箱入り息子の恋」(2013)恋愛経験のない35歳独身男が目が不自由な夏帆とお見合いし、本当の愛をつかむために奔走するラブ・コメ。公開時さほど話題にならなかったが、2016年ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のブームで原点として再評価される。(11月6日)

2017年11月 5日 (日)

conで始まる英単語

英語に、conで始まる単語がやたらと多い。意味が共通しているわけでもない。覚えるしかない。

conceal   隠す

conceive  想像する

confirm   確認する

conflict   闘争

conform   一致させる

confront  直面する

confuse   当惑させる

confusion   混乱

congratulate  祝う

congress      会議

connect       つなぐ

conquer      征服する

conscience   良心

conscious    意識している

consent      承諾する

consequence  結果

conservative  保守的な

consider       熟考する

considerable かなりの

consist        …から成る

console        慰める

conspious    目だつ

constant     不変の

constitute   構成する

construct    組み立てる

consult       意見を聞く

consume     使い尽くす

contact      接触

contain      含む

contemplate  凝視する

contemporary 現代の

contempt       軽蔑

contend         主張する

content          内容

contest          競争

continent       大陸

continue        続く

contract         契約

contradict      反駁する

contrary         反対の

contribute      寄付する

contrive         考案する

control          支配する

controversy   論争

convenience  便利

convention    しきたり

conversation 会話

convert         転換させる

convey          運ぶ

convince       確信させる

 

ジュディとミッキー

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   レニー・ゼルウィガーが晩年のジュディー・ガーランドの伝記映画に主演する。ジュディといえば「オズの魔法使い」をはじめ少女スターのイメージがあるが、ミッキー・ルーニーとの名コンビも人気が高い。残念ながら日米戦争時でほんとん日本公開はなかった。一方のミッキーは長生し2014年に93歳で死去した。身長160cmという短躯ながら1930年代から現在に至るまで長い俳優生活を続けるミッキー・ルーニーの人生はハリウッドの歴史そのものである。「逃亡者」第78話「過去の女」キンブルの雇主洗濯屋のチャーリー(ミッキー・ルーニー)はむかしノミ屋などをしたため、ギャングに命を狙われていた。彼は以前に別れたポーラを呼び寄せるが、彼女が殺し屋と組んでいることをギャングは知る。デビッド・ジャンセンとミッキー・ルーニー、2人の息があっている。それは境遇がにているからか。ドラマで追われる立場というだけでなく、実生活も両親が離婚し、小さいときにハリウッドの子役となった点だ。おそらく2人は昔からの顔馴染みだろう。デビッド・ジャンセンの少年時代の映画デビューは「燃える密林」(1946年)ジョニー・ワイズミュラーの映画だ。まだ16歳の少年だった。(よく調査するとソニア・ヘニー主演の映画1945年がデビュー)そのころミッキーはジュディー・ガーランドとの「アンディ・ハーディ」シリーズで人気青春スターだった。おそらくジャンセンとはMGMスタジオで会っているはず。まだなれない撮影所で10歳年長のミッキーはアレコレとジャンセンに陽気にはなしかけていただろう。ジャンセンの孤独な陰は実生活からにじみ出るものだろう。あまり気の進まぬ俳優稼業よりも、スポーツ選手になりたかったのだろう。「逃亡者」で少年野球を指導するシーンは実にうれしそうだった。だが、不運にも高校時代に棒高跳びの事故で足の怪我をした。その後遺症が残る。ドラマのシーンでもやや足をひきずり加減に走るのはそのためである。2人は映画「でっかい札束」(1961年)でも共演している。ジャンセンもルーニーも大金持ちになったが、なぜか家庭的な幸せには恵まれなかったように見えた。ジャンセンはエリ・グラハム、ダニー・クレインと結婚、晩年にローズマリー・フォーサイスと交際していた。ルーニーは何度も結婚と離婚をくりかえした。明るくやんちゃな「みんなの弟」ミッキー・ルーニーは永遠のアメリカ青年の象徴であった。

火薬陰謀事件とガイ・フォークスデイ

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   1605年のこの日、イングランド王ジェームズ1世のカトリック教徒弾圧に憤慨した一団が、国会開院式に出席する国王と議員たちを殺そうとして国会議事堂に爆薬を仕掛けた。しかし、この陰謀は事前に発覚し、実行寸前の11月5日未明、議事堂地下で爆薬と火付け役のガイ・フォークスが発見され、一味は全員逮捕された。議会は11月5日を「救助を神に感謝する日」とし、翌年から休日にした。 Guy Fawkes'Day

いないいないばあ

Regeneration_3    擬声語を集める。突然、暴漢に襲われたときの恐怖の声。「キャーッ!」が英語ではeek(イーク)。

  くしゃみの「ハクション」はahchoo(アーチュー)。子供の泣き声「ワーン」はbaw(ボー)。赤ちゃんのしゃべるときの声「バブバブ」はbabble(バァフル)。

  赤ちゃんをあやすときに「いないいないばあ」としますよね。その「いないいないばあ」は英語で何というかご存じですか。peek-a-boo(ピーカブー)といいます。peekとは「ちらっと見る」という意味。booは日本語では人を驚かすときに「わっ!」といいますが英語では「Boo!」と驚かします。このpeekとbooが合わさってPeek‐a‐booになります。

200pxkoukou_by_georgios_iakovidisbla bla       ぺラぺラ

boohoo   ワーン

chatter     ぺチャクチャ

ha-ha       はは、あはは

hee-hee   ひっひっひっ

ho-ho       ほほー

mutter      ブツブツ

ouch         あうっ、痛いっ

tehee        ひっひ

ungh          ウ、ウーン

wah           ウワーン

wow          うわー、ああ

2017年11月 4日 (土)

ミハイル・ロマノフ

   1609年から1612年までロシア・ポーランド戦争おこる。ロシアでは皇帝不在の空位期間に陥ったが、1612年のこの日、ロシア国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻して、その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国議会にてミハイル・フョードロヴッチはツァーリに選出された。ロマノフ朝のはじまりである。(11月4日)

2017年11月 3日 (金)

ゴッホは日本の夢をみた

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グラスに差した花咲く巴旦杏の枝 1888

    アーモンドは地中海から黒海にかけて自生している。日本では巴旦杏(はたんきょう)という名前で知られている。春に白い花が咲く。ゴッホの作品には、白いアーモンドの花を描いたものが数点残っている。下の「花咲く巴旦杏の枝」の絵は、弟テオの赤ん坊へのお祝いとして描かれたといわれている。ちなみに、かつてハーグで絵の手ほどきを受けたアントン・マウヴェの知らせもこの時に受けた。「誕生」と「死」の知らせ。その両方に対して、ゴッホの優しさが表現されている。

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 花咲く巴旦杏の枝  1890

 

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花咲く巴旦杏の木  1888

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ハタンキョウ

 NHKの特別番組「ゴッホは日本の夢を見た」癒し系の女優・吉岡里帆がパリのオルセー美術館やロダン美術館、南仏アルルなどを10日間旅して、ゴッホの作品や人生にふれる。また帰国後、上野の東京都美術館「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」の内覧展にも足をはこぶ。「花咲くアーモンドの枝」を見る里帆ちゃん、アートが好きなんだ。日本美術がゴッホに与えた影響や、ゴッホのやさしい人柄を自分の言葉で語っていたのが印象的だった。水着の里帆ちゃんもいいけど、秋服の里帆も最高だね‼

支那学文献目録

09271610_542662d9b20a1  19世紀後半から中国や日本で「支那」という言葉が使われていたが、現在では使われない。一般的には「支那」を差別語と考える人が多いが、歴史的に語源を調べるとかなり古い言葉で、玄奘の「慈恩伝」の中にも使われており、成立時は差別的な意味は含まれない。英語の「チャイナ」や「ラ・シーヌ」(仏語)、「ヒーナ」(独語)、「ラ・チーナ」(伊語)、「チナ」(西語)、「シーナ」(オランダ語、ポルトガル語)もみな秦の音の訛りで、古代インド、ギリシア・ローマと伝わったものである。日本語の「支那」も本来は一般的な呼称であったが、戦時中に蔑称として用いられた歴史があり、現在は使われていない。近年、石原慎太郎が「中国をシナと呼ぼう」と会見でシナを連発したが、中国ネットで非難が集中したことは記憶に新しい。ここでは書誌学的研究の立場から、タイトルに「支那」を含む図書を集める。ちなみに「中国」という語はすでに戦前からすでに使用されていた。ことがある。実例として、「近世中国史」風間阜1937年、「中国文化界人物総鑑」橋川時雄1940年など

支那総説 1~6 金子弥兵衛、中島精一 中近堂 1883
支那地誌 総体部 下村修介編 参謀本部編纂課編輯出版 1887
支那教学史略 2冊 狩野良知 吉川半七 1891
支那全図 参謀本部編 1892
支那地誌 巻15上 満州部 参謀本部編纂課編輯出版 1893
支那地誌 巻15下 蒙古部 参謀本部編纂課編輯出版 1893
支那地理書 高島天淵編 1900 
支那探検録 新正 宮内猪三郎 1900
支那大文学史 古代篇1 児島献吉郎 冨山房 1909 
近世支那十講 稲葉君山 金尾文淵堂 1916
支那古田制の研究 法律学経済学研究叢書17 加藤繁 京都法学会 1916
支那 消夏漫筆 中山成太郎編訳 有斐閣 1916
支那制度及社会概要 支那研究叢書9 東亜実進社 1917
支那の交通 支那研究叢書7 東亜実進社編 同社 1917
支那鉱産地 小山一郎編 丸善 1918
支那古代史 ヒルト 三省堂 1918
支那教育状況一斑 朝鮮総督府編 京城朝鮮総督府 1919
近代支那史 稲葉岩吉 大阪屋 1920
支那唐代の服飾 原田淑人 丸善 1921
支那現代史 松井等 明善堂 1924
支那法制史研究 東川徳治 有斐閣 1924
支那古代史論 東洋文庫論叢5 飯島忠夫 東洋文庫 1925
支那西教史考 グスターフ・コル 鈴木哲 伊山堂 1925
近代支那史 矢野仁一 弘文堂 1926
支那学文叢薮 狩野直喜 京都・弘文堂 1927
支那道徳文化史 荻原擴 中文館 1927
支那語中の西洋語 近世支那伝来西洋語漢字音訳語彙 東亜研究講座20  中山久四郎 東亜研究会 1928
支那歴史研究 小川琢治 弘文堂書房 1928
支那古韻史 大島正健 冨山房 1929
支那古代史 フリードリッヒ・ヒルト 西山栄久訳補 丙午出版社 1929
支那歴史研究 続 小川琢治 弘文堂書房 1929
支那歴代年表 中村久四郎 山根倬三 中文館 1929
朝鮮支那文化の研究 京城帝国大学法文学会編 刀江書院 1929
支那(小説) 前田河広一郎 改造社 1930
支那研究 慶応義塾望月基金支那研究会 岩波書店 1930
支那後宮秘史 浜本鶴賓 春陽堂 1930
支那暦法起源考 飯島忠夫 岡書院 1930
支那学文献の解題と其研究法 武田熙 大同館 1931
支那古代社会史論 郭沫若 藤枝丈夫訳 内外社 1931
支那古代史と天文学 飯島忠夫 恒星社 1931
支那の排日侮日に就て 陸軍省調査課 1931
一九三〇年支那年史 長野朗 支那問題研究所 1931
支那 少年少女世界地理文庫1 西亀正夫 厚生閣 1932
支那の国民性 大谷光瑞 大乗社支部 1932
支那の排日運動 波多野乾一 東亜研究会 1932
狂乱の支那 馬郡健次郎 南光社 1933
支那の建築と芸術 関野貞 岩波書店 1933
支那歴史地理研究 正集 小川琢治 弘文堂書房 1933
古代支那人の民間信仰 岩波講座東洋思潮10  白鳥清 岩波書店 1935
支那農業経済の諸問題 田中忠夫 学芸社 1935
支那の農業と工業 R・H・トーネイ著 浦松佐美太郎・牛場友彦訳 岩波書店 1935
支那の抗日記録 日支の不幸 姫野徳一 日支問題研究会 1936
支那女人譚 村田孜郎 古今荘書房 1937
現代支那批判 尾崎秀実 中央公論社 1938
支那古代の祭礼と歌謡 マーセル・グラネー著 内田智雄訳 弘文堂 1938
支那古代社会研究 郭沫若 藤枝丈夫訳 東学社 1935
支那新聞の読み方 入江啓四郎 タイムス出版社 1935
支那游記 室伏高信 日本評論社 1935
支那古韻学階梯 松村利行 松雲堂 1936
古代支那及印度 東洋文化史大系1 新光社 1937
支那語手引と会話早わかり 甲斐靖 駸々堂 1937
現代支那人物論 吉岡文六 時潮社 1938
最新支那常識読本 山口梧郎 テンセン社 1938
支那の歴史 少年史伝叢書 塚田忠泰 大同館 1938
支那歴史研究法 梁啓超 小長谷達吉訳 改造社 1938
現代支那人名辞典 大陸文化研究所編 泰山房 1939
支那社会構成 秋沢修二 白揚社 1939
支那地方自治発達史 和田清編 中華民国法制研究会 1939
支那社会の科学的研究 岩波新書 ウィットフォーゲル 岩波書店 1939
支那の農民生活 費孝通 生活社 1939
支那の歴史と文化 上 ラトレット著 岡崎三郎訳 生活社 1939
支那游記 改造社文庫 芥川龍之介 改造社 1939
現代支那史 全6巻 グスタフ・アマン著 高山洋吉訳 育生社 1939-1940
現代支那思想史 梁漱冥著 神谷正男訳 生活社 1940
現代支那史 教養文庫 小竹文夫 弘文堂 1940 
支那教育史 支那文化叢書 上下 任時先著 山崎達夫訳 人文閣 1940
支那基督教史 東亜叢書 比屋根安定 生活社 1940
支那社会政治思想史 上 呂振羽 原勝・角田次郎訳 日本青年外交協会 1940
支那宗教思想史 王治心著 冨田鎮彦訳 大東出版社 1940
支那精神 世界精神史講座2 諸橋轍次ほか 理想社 1940
支那政治思想史 支那文化史大系2 楊幼烱著 村田攷郎訳 大東出版社 1940
支那政党史 楊幼烱著 森山喬訳 日光書院 1940
支那タングステン鉱誌 支那経済資料  江西地質鉱業調査所編 生活社 1940
支那地理大系 自然環境編 渡辺光編著 日本評論社 1940
支那の鉱床及鉱業 ウィリアム・コリンス著 西村雄三訳 白揚社 1940
支那農業経済論 上 天野元之助 改造社 1940
支那の歴史 スットヒル著 福原麟太郎・近藤正平解注 研究社 1940
支那法制史研究 瀧川政次郎 有斐閣 1940
支那歴史地理研究 続集 小川琢治 弘文堂書房 1940
概説支那仏教史 道端良秀 法蔵館 1941
支那工業合作社運動 刈屋久太郎編著 畝傍書房 1941
支那古代生活史 内野熊一郎 清水書店 1941
支那探訪 緒方昇 東京日日新聞社 1941
西洋文化の支那への影響 張星烺著 実藤恵秀訳 日本青年外交協会 1941
近世支那経済史 小竹丈夫 弘文堂書房 1942
支那官制発達史 上 和田清編 中央大学出版部 1942
支那古代哲学史 慿友蘭 柿村峻訳 冨山房 1942
支那社会経済史研究 玉井是博 岩波書店 1942
支那中世の軍閥 日野開三郎 三省堂 1942
支那土地制度論 オットー・フランケ著 清水金次郎訳 教育図書 1942
支那の農業経済 田辺勝正 日本評論社 1942
近代支那に於ける宗教結社の研究 酒井忠夫 東亜研究所 1943
古代支那研究 小島祐馬 弘文堂書房 1943
支那学論攷 石浜純太郎 全国書房 1943
支那漢代紀年銘漆器図説 京都帝国大学文学部考古学資料双刊2 梅原末治編 京都桑名文星堂 1943
支那基督教の研究 1・2 佐伯好郎 春秋社松柏館 1943
支那鉱業史 芳賀雄 電通出版部 1943
支那古代暦法史研究 東洋文庫論叢29  橋本増吉 東洋文庫 1943
支那上代思想研究 出石誠彦 藤井書店 1943
支那歴代風俗事物考 秋田成明訳 大雅堂 1943
古代支那志史要 岡崎文夫 弘文堂 1944
支那学の問題 吉川幸次郎 筑摩書房 1944
支那貨幣考 穂積文雄 京都印書館 1944
支那基督教の研究 3 佐伯好郎 春秋社松柏館 1944
支那数学史概説 藪内清 山口書店 1944
西洋文化の支那侵略史 E.R.ヒューズ著 魚返善雄訳 大阪屋號 1944
近代支那と英吉利 百瀬弘・沼田鞆雄 蛍雪書院 1945
支那経済史考証 上 加藤繁 東洋文庫 1947
支那古代暦法史研究 橋本増吉 東洋書林 1982
支那古代史と天文学 飯島忠夫 第一書房 1982
支那古代史論 飯島忠夫 第一書房 1980
支那古代の祭礼と歌謡 マーセル・グラネー 内田智雄訳 清水弘文堂書房 1967
支那古代の社会思想 岩波講座東洋思想3 小島祐馬 岩波書店 1936
支那語通解 馬場春吉 岡崎屋 1939
支那史概説 上 岡崎文夫 弘文堂書房 1935
支那思想研究 橘樸 日本評論社 1936
支那思想の展開 1 高田眞治 弘道館 1946
支那思想のフランス西漸 後藤末雄 第一書房 1933
支那思想発達史 遠藤隆吉 冨山房 1904
支那思想仏教思想 上・下 岩波講座東洋思潮10 宇井伯寿 岩波書店 1935
支那社会の測量 円谷弘 有斐閣 1937
支那社会の組織と展望 湯良礼著 中山蒐美三訳 育生社 1940
支那社会の裏表 一色忠慈郎 大阪屋号書店 1931
支那庶民金融論 井関孝雄 学芸社 1941
支那地方自治発達史 和田清編 中央大学出版部 1939
支那地方自治問題 董修甲著 岡本武彦訳 生活社 1939
支那地方政制史 支那文化叢書 鄭自明著 富樫長榮訳 人文閣 1941
支那地名集成 外務省情報部 日本外事協会 1936
支那帝国史 万国歴史全書 デュ・アルド著 北村三郎 博文館 1890
支那哲学概説 春秋文庫 高田真治 春秋社 1938
支那哲学概論 宇野哲人 支那哲学叢書刊行会 1926
支那哲学概論 現代語訳支那哲学叢書 宇野哲人 酒井雄文堂 1927
支那哲学概論 支那哲学体系5 宇野哲人 金の星社 1929
支那哲学講話 高木八太郎 荻原星文館 1935
支那哲学史 遠藤隆吉 金港堂 1900
支那哲学史 帝国百科全書 中内義一 博文館 1903
支那哲学史 高瀬武次郎 文盛堂 1910
支那哲学史 斉伯守 同文社 1942
支那哲学史 師範大学講座1 平原北堂 勅語御下賜記念事業部 1946
支那哲学史 近世儒学 宇野哲人 宝文館 1954
支那哲学史概説 渡辺秀方 早稲田大学出版部 1924
支那長生秘術 後藤朝太郎 富士書房 1927
支那哲学史概説 斉伯守 同文社 1930
支那哲学史講話 宇野哲人 大同館 1914
支那哲学思想叢書 三省堂 1931
支那哲学叢書 支那哲学叢書刊行会 新光社 1922
支那哲学総論 徳富猪一郎・宇野哲人 大東出版社 1937
支那哲学の研究 宇野哲人 大同館 1920
支那の淡水魚 東亜研究講座38 雨宮育作、木村重 東亜研究会 1931
支那の対日血戦 秋山豊三郎 大連・秋山家 1932
支那の土豪 後藤朝太郎 高山書院 1940
支那の体臭 後藤朝太郎 汎文社 1933
支那の土地と人 クレッシイ著 三好武二訳 偕成社 1939
支那土地利用地図集成 ロッシング・バッグ著 岩田孝三訳 東学社 1938
支那と仏蘭西美術工芸 小林太市郎 弘文堂 1937
支那の民族性と社会 支那問題叢書 川合貞吉 第二国民会 1937
支那と蒙古 米内山庸夫 北光書房 1943
支那中世仏教の展開 山崎宏 清水書院 1942
支那屯田兵制史 支那文化叢書 張君約著 藤田実訳 人文閣 1942
支那内閣関税制度3 台湾総督府 1932
支那の経済恐慌に関する調査 1~3 天野健雄 東京商工会議所 1935
支那の経済建設 事前と事後 目崎憲司 有斐閣 1941
支那の経済心理 東亜叢書 ウィルヘルム著 佐藤周一郎訳 生活社 1942
支那の経済地理 岩波新書 グルーシャコフ著 西尾忠四郎・高木八尺訳 岩波書店 1941
支那の経済と資源 小林幾次郎 時潮社 1939
支那の対外的国民運動 末広重雄 弘文堂 1939
支那の知識 時局知識シリーズ2 清沢冽・室伏高信編 青年書房 1937
支那地理歴史大系 全12巻 白揚社 1940-1941
支那の知性 林語堂著 喜入虎太郎訳 創文社 1940
支那の通貨と貿易 日本学術振興会 土方成美編 有斐閣 1942
支那の農業 ロッシング・バック著 塩谷安夫・仙波泰雄。安藤次郎訳 改造社 1938
支那の農業 東亜新書12 石川正義 中央公論社  1941
支那の農業経済 マヂャル著 早川二郎訳 白揚社 1936
支那の秘密 井東憲 秋豊閣 1939
支那帝国史 デュ・アルド
支那貧窮問題研究 柯象峰著 陸麻呂利輔訳 人文閣 1942
支那風俗 3冊 井上紅梅 1920-1922
支那風俗画譜 石田楳  洪洋社 1932
支那風俗綺談 井東憲訳著 大東出版社 1940
支那風俗綺談集 米田華紅 博文館 1930
支那風俗春秋 佐久間貞次郎 立命館出版部 1932
支那風俗の話 後藤朝太郎 大阪屋号 1927
支那風物記 村松梢風 河原書店 1941
支那風物志1 風景篇 東亜文化叢書6 後藤朝太郎 大東出版社 1942
支那風土記 後藤朝太郎 八洲書房 1935
支那風土記 米内山庸夫 改造社 1939
支那風土記 クレッシイ著 高垣勘次郎訳 東方文化学会 1939 
支那文化雑攷 法本義弘 国民社 1943
支那歴史地理 北京の歴史地理 小野勝年 支那地理歴史大系刊行会編 白揚社 1942
支那歴史地理叢書 冨山房 1939
支那歴代沿革図説 河村与一郎編 前川文栄堂 1881
支那歴代沿革地図  新撰 山本頼輔 赤沢政吉 1895
支那歴代親耕親蠶考 農林省米穀局 日本米穀協会 1936
支那歴代地名要覧 青山定男 東方文化学院研究所 1933
支那労働視察記 支那に於ける人間性と労働 アンダーソン著 高山洋吉訳 生活社 1939
支那労働者研究 続支那研究叢書2 小山清次 東亜実進社 1919

まんがの日

P4234018ko 本日は「まんがの日」。この日は手塚治虫の誕生日(1928年11月3日)でもある。手塚姓を天下に広めたのは漫画家の手塚治虫。曽祖父の良庵(1826-1877)は適塾に学んだ蘭方医。その父は蘭学医・手塚光照(1801-1877)。さらに遠祖をさかりぼると平安時代末期にいたる。木曽義仲が挙兵するとき斉藤実盛(?-1183)を討ち取った手塚光盛(?-1184)がご先祖さま。戦後、日本の手塚治虫はじめとする日本のコマワリと吹き出しの漫画は独自の発達を遂げて、世界の若者たちをも魅了し、グローバル化していく。ヨーロッパで日本漫画が幅広く出版されるようになったのは、1970年代の終わりに起きたアニメブームをきっかけとしている。最もよく売れた漫画ランキング。ONE PIECE、ゴルゴ13、DRAGON BALL、こちら葛飾区亀有公園前派出所、名探偵コナン、NARUTO、美味しんぼ、SLUM DUNK、ドラえもん、鉄腕アトム、タッチ、北斗の拳、金田一少年の事件簿。

2017年11月 2日 (木)

ソクラテスの妻

   ソクラテスの妻クサンチッペは、悪妻として知られている。ある青年に結婚について聞かれたソクラテスは、「そりゃあ、したほうがいいね。うまくいきゃ幸せになるし、失敗すれば、私のように哲学者になれる」と答えたという。またこんなエピソードもある。朝から晩まで、亭主の稼ぎのなさをこぼしているクサンティッペを見て、「よくまあ、あの小言に耐えられるね」と友人が言うと、ソクラテスが答えていわく、「水車の回る音も、聞きなれれば、苦にならないものだよ」と。

東西交流とガラス

Photo     ガラスの起源はエジプトやメソポタミアの古代文明が最も古いが、中国にも西周時代ものが出土している。表面の釉薬は融けてガラス化しているが、内部の胎は完全にガラス化していない、液玉、ファイアンスfaienceと呼ばれる珠である。春秋時代の珠も出土している(画像)。ファイアンスは不完全なガラスといえる。3世紀の邪馬台国時代、北九州の三雲、井原遺跡からファイアンス珠が1個だけ出土している。井原遺跡は伊都国があった地と考えられる。中国で作られたものであるか、遠く西アジアで作られたものであるのか。東西交流と日本との関係を示す数少ない貴重な文物といえる。

Yjimage08770754   5世紀になると東西交流はシルクロードを通じてさらに盛んになった。先ごろ、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群で出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国領内で見つかったローマ・ガラスとほぼ一致したという。遠方の起源の異なるガラス器が5世紀の日本に伝来を示すもので、幅広い東西交流がおこなわれ、文化の発展も、もたらされた。(世界史)

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白秋忌「からたちの花」

Img24aa7f18zikczj   からたちも秋はみのるよ

  まろいまろい金のたまだよ

   今日は白秋忌。「からたちの花」の詩が「赤い鳥」に発表されたのは、大正13年。白秋はやがて40歳になろうとする頃だった。

   北原白秋(1885-1942)。本名は隆吉。生地は福岡県山門郡沖靖村。海産物問屋、柳河藩の御用達を勤めた家の生まれ。白秋の小学生のころ、柳川の家の路地に咲くからたちの花をながめながら通学したという。当時、次々と新作童謡を発表していた。その後、白秋は2番目の妻、江口章子と離婚した後、菊子夫人と再婚している。ところが昭和12年、眼疾のため失明する。昭和17年、腎臓病で没した。(11月2日)

2017年11月 1日 (水)

ズーニーブーとはどんな意味?

C0135543_1833613  初めて覚えた英単語は「クレイジー」。丁度シャボン玉ホリデーが放送された頃、兄から「crazy」とは「気の狂った」「気違いじみた」という意味だと、教えられた。それからグループ名から英単語を覚えたことが多々ある。タイガース(虎)、スパイダース(蜘蛛)、サベージ(野蛮)、ワイルドワンズ(野生児)。オクッスは「雄牛」の意味だが、下着メーカー・シルバー・オックスよりヒントを得て命名。カーナビーツはクルマの地図ではなく、ロンドンの地名「カーナビー・ストリート」と音のビートを合わせた造語。ズーニーブーの意味は今もって分からない。ビートルズ(カブトムシ)、ローリング・ストーンズ(転石)、ディープ・パープル(深紫)、クイーン(女王)、ガンズ・アンド・ローゼス(銃とバラ)、カーペンターズ(大工)。アメリカのロックバンド「TOTO(トト)」の命名由来には複数説がある。①ロバート・トトースの捩り②便器のロゴ③映画「オズの魔法使い」に登場する犬の名前。Dragon Ash。元々はdrog on ash「だらだらしていると灰になっちまうぜ」の意味。

   バンド名を日本語に訳すと、なかなか珍妙な感じになる。

本と読書に関する名言・ことわざ・文献集

346385602_b82b599e99「本に恋する季節です」

   印刷術が広くゆきわたるまで、写本図書の利用は一握りの学者に限られていた。刊本の図書がその数を増すにつれて、書物は万人のためにあり、民主主義の精神にとって重要であることがわかってきた。ここでは、古今東西の本と読書に関する格言・箴言・名言・文献を集める。

有益な書物とは、読者に補足を要求せずにはおかれぬような書物のことである。(ボルテール)

三日、書を読まざれば、語言味わいなし。(世説新語)

単に知るのみならず、その知識に従って行動せよ。(フィヒテ)

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。(ハイネ)

人生の至楽は読書にあり。(永井荷風)

書物はひもとかなければ、一片の木片にすぎない。(イギリスのことわざ)

A closed mind is like a closed book,just a block of wood.

閉じられた本は塊でしかない

A book that is shut is but a block.

すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。(デカルト)

書を読みて栄える者を見たり、書を読みて落ちぶれる者を見ず。(金言童子教)

機知に富みうちとけた言葉は永久に生命を持つ。(ゲーテ)

身体には鍛錬、心には読書。(アディソン)

この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる。(ヘッセ)

書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。(キケロ)

私の実際的な読書の法則は三つある。
1.一年を経過していない本はどれも読まないこと
2.有名な本のほかは読まないこと
3.好きな本のほかは読まないこと(エマーソン)

私は人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。(アナトール・フランス)

人生は短い。この書物を読めばあの書物は読めないのである。(ラスキン)

人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。(スマイルズ)

読書百遍、義自(ぎおのずから)見(あら)わる。(魏志)

万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出されるようになる。(董其昌)

読書とは、著者の魂との邂逅である。(亀井勝一郎)

読書は人間としての純粋な時間である。(亀井勝一郎)

インドの全財宝をあげても、読書の楽しみには換え難い。(エドワード・ギボン)

書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。(フラア)

読書のほんとうの喜びは、なんどもそれを読み返すことにある。(ロレンス)

読書に費やしただけの時間を、考えることに費やせ。(アーノルド・ベネット)

書物は一冊一冊が一つの世界である。(ワーズワース)

用例なき辞書は骸骨である(ヴォルテール)

書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて自己改善する最良の方法である。(ソクラテス)

本は知性のさまざまな機能に働きかける(フランシス・ベーコン)

おろかな学者は、おろかな馬鹿者よりも、ずっとおろかである(モリエール)

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   書物に関する文献目録

図書の部
倭板書籍考 幸島宗意撰 1702
官板書籍解題略 杉山精一訳 1847
日本書籍考 林羅山撰 1850
文芸類纂 榊原芳郎 1878
古梓一覧 西村兼文 1882
本朝書籍刊考 黒川真頼 1895
日本訪書誌 楊守敬 1897
国書解題 佐村八郎 1897
日本印書考 中根粛治 1899
明治出版史話 三木佐助 1901
古文旧書考 島田翰 民友社 1905
漢籍解題 桂五十郎 明治書院 1905
近藤正斎全集 近藤守重 1907
日本古刻書史 朝倉亀三 1907
徳川幕府時代書籍考 牧野善兵衛 1912
朝鮮図書解題 朝鮮総督府 1914
江戸物語 和田維四郎 1915
慶長以来書賈集覧 井上和雄編 1916
嵯峨本考 和田維四郎 1916
訪書余禄 和田維四郎 1918
製本術 島屋政一 1918
図書学概論 田中敬 冨山房 1924
典籍叢談 新村出 岡書院 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 懐徳堂 1925
書庫之起原 植松安 間宮書店 1927
京阪書籍商史 蒔田稲城 1928
書物装釘の歴史と実際 庄司浅水 1929
思想名著解題 春秋社 1929
本邦書誌学概要 植松安 図書館研究会 1929
書物の敵 庄司浅水  1930
書誌学とは何か 寿岳文章 ぐろりあそさえて 1930
装釘の常識 三村清三郎 岡書院 1930
日本訪書志補 王重民 1930
修訂建武年中行事註解 和田英松 明治書院 1930
中国図書館事業的史的研究 馬宗榮 中華学藝社編 商務印書館 1930
製本術 ブレガー著 赤坂・庄司訳 ブックドム 1931
日本蔵書印考 小野則秋 文友堂 1931
書誌学 小見山寿海 芸艸会 1931
宋元版の話 内藤虎次郎 名古屋市立図書館 1931
正徹本徒然草 川瀬一馬 文学社 1931
善本影譜 長沢・川瀬編 日本書誌学会 1931~35
好書雑載 高木文 井上書店 1932
西洋書誌学要略 橘井清五郎 図書館事業研究会 1932
粘葉考 田中敬 巌松堂 1932
成簣堂善本書目 川瀬・長沢 民友社 1932
成簣堂善本書影七十種 川瀬・長沢 民友社 1932
舊刊影譜 川瀬・長沢 日本書誌学会 1932
嵯峨本図考 川瀬・長沢 一誠堂  1932
漢籍解題1 漢文学講座2 長沢規矩也 共立社 1933
書誌学論考 長沢規矩也 松雲堂書店 1937
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1960
漢籍分類目録 集部東洋文庫之部 東洋学文献センター連絡協議会 東洋文庫 1967
書林清話 葉徳輝 世界書局 1968
書林掌故 葉徳輝等撰 中山図書公司 1972
書林清話・書林雑話 楊家駱主編 台湾・世界書局 1974
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1979
図書の歴史と中国 劉国鈞著 松見弘道訳 理想社 1980
江浙蔵書家史略 呉辰伯 中華書局 1982
中国古代蔵書与近代図書館史料 春秋至五四前後 李希泌、張椒華編 中華書局 1982
書籍装幀芸術簡史 邱陵編著 黒龍江人民出版社 1984
目で見る本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 出版ニュース社 1984
造紙の源流 久米康生 雄松堂 1985
中国省市図書館概況 1919-1949 楊宝華・韓徳昌編 書目文献出版社 1985
書物に関する名句・名言・名文 エンカイリーディオン アリグザーンダー・アイアランド編 タングラム 1986
簡明中国古籍辞典 呉楓編 吉林文史出版社 1987
中国古代図書館事業史概要 来新夏 天津古籍出版社 1987
中国図書和図書館史 謝灼華編 武漢大学出版社 1987
中国図書の歴史 庄威著 吉村善太郎訳 臨川書店 1989
西洋図書の歴史 吉村善太郎 臨川書店 1990
中国蔵書史話 焦樹安著 商務印書館 1997
図書及び図書館史 寺田光孝ほか著 樹村房 1999
図説図書館の歴史 スチュアート・A・P・マレー 原書房 2011
写真でみる本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 日本図書センター 2011

論文の部
写本時代と板本時代とに於ける支那書籍の存亡聚散 市村瓚次郎 史学雑誌第13編1・3号 1902
唐以前の図書 那波利貞 歴史と地理2-2  1918
支那における図書館事業 岡野一郎 支那研究5 1923
書帙の歴史 那波利貞 歴史と地理19-3・4・5 1927
支那書籍小史 1・2・3 長沢規矩也 書誌学1-4・5・6 1933
清代図書館発展史 譚卓垣著 西村捨也訳 図書館研究14(2)~(4) 1941
中国図書館の沿革及び現況 兪爽迷 書香128  1941
国立北京図書館の概況に就いて 法本義弘 支那文化雑攷 1943
毛沢東戸図書館 平和彦 読書春秋4-11 1953
中国図書館の揺籃時代 松見弘道 図書館界6-5  1954
中国の文教政策 内田幸一 日本及び日本人 1954
転期に立つ中国の図書館活動 図書館雑誌51-3  1957
記録の文化史 小倉親雄 図説世界文化史体系別巻 1961
年表図書館物語 矢島玄亮 東北地区大学図書館協議会誌13,14,15  1962-63
図書・図書館の歴史(断章) 中村初雄 早稲田大学図書館紀要4  1963
唐本の値段 餘自録 大庭脩 東洋史研究24-4  1966
洛図洛書の一考察 原田正己 早大・東洋文学研究6  1967
支那における図書館の誕生 長沢規矩也 書誌学11  1968
中国図書館学史序説 加納正巳 静岡女子大研究紀要3  1970
中国における著作意識の発達 石田公道 図書館界21-5~23・4 1970~71
香港の図書館 木村宗吉 日本歴史270  1970
古代中国図書史 木村靖 文化史学26  1971
図書館に就いて 内藤湖南 大阪朝日新聞明治33年11月29・30日 (内藤湖南全集3所収)  1971
北周の麒麟殿と北斉の文林館 山崎宏 鈴木由次郎博士古稀記念東洋学論叢所収 1972
清代の官書局の設置について 大西寛 長沢先生古稀記念図書学論集 1973
書禁と禁書 宮崎市定 アジア史研究2所収 1974
中国に於ける図書館事業史(1) 漢代の図書館事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要1  1976
中国本ものがたり1~8  劉国鈞著 松見弘道訳 東海地区大学図書館協議会誌22  1977~78
中国の図書館事情 各地の図書館を参観して1 中原ますえ びぶろす29-11  1978
中国における図書分類法 井坂清信 参考書誌研究17  1979
図書館起源小記 黎紅 広西大学学報1979年第3期 1979
秘閣図書の源流について 神田喜一郎 「芸林談叢」所収 1981
洛陽の紙価 小池秋羊 東西交渉1 1982
中国に於ける刻書事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要7 1982
禁書に関する二三の資料 長崎聖堂文書研究1 大庭脩 史泉40 1970
篠崎小竹旧蔵の「欽定四庫全書拾遺目録」について 大庭脩 近世大阪芸文叢談 1973

中国の地理と人口

Chaina

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口13億8271万人(台湾、香港、マカオを除く)。2016年末の統計。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。人口は世界第1位である。

民族 漢人が91.5%で、少数民族が、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の民族がある。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。

中国の地域区分

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   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書書館 1975
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

コーヒー、紅茶と日本人

   11月1日は「紅茶の日」。ある調査によると、コーヒーや紅茶、嗜好品を好む人は高所得者ほど飲む量が多いという話だ。コーヒーと紅茶、日本に伝来したのは、どちらが先だろうか?答えは、ほぼ同じころだそうだ。

    コーヒーは世界で最も多くの国で飲用されている嗜好飲料である。喫茶店(コーヒー・ハウス、カフェ)は近代社会において人々が情報を得る場所として文化的にも大きな役割を果たしてきた。日本には天明年間(1781年~1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれる。

   NHK「ひるブラ」(2012年2月1日放送)で、はしのえみが幕末の弘前藩士が飲んでいた珈琲を味わっていた。酸味と苦味がある。寒さなどで殉難が多かったので薬用として珈琲を飲んでいたという。大田南畝は1804年に珈琲を飲んだときのことを次のように記している。「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ。豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるものなり。焦げくさくして味ふるに堪えず」とある。1855年ころ青森県弘前で珈琲が飲用されていたとは驚きである。

    紅茶は1791年11月1日、大黒屋光太夫がロシアのエカテリーナ2世から茶会に招かれ、日本人として初めて紅茶を飲んだとされる。日本紅茶協会は、昭和58年、この史実をもとに、11月1日を「紅茶の日」に制定している。

史記・司馬遷関係文献目録

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  前漢武帝の治世の元朔3年(前126)、司馬遷20歳のとき、天下漫遊の旅に出た。河南、安徽、江蘇、浙江、江西、湖南、湖北、山東の各省にわたる大旅行で、前後二、三年はついやしたようである。司馬遷は淮陰に立ち寄った。この地は、漢王朝の成立後、劉邦にあっけなく滅ぼされたが、劉邦、項羽の漢楚興亡のただ中にあっては斉王となり、漢室の一敵国となした名将・韓信の故郷である。司馬遷はこの地の父老たちから韓信の人柄を示す故事を聞くことができた。韓信は若い頃、屠殺屋仲間の若者にばかにされて、その股をくぐらされた「韓信の股くぐり」の話は有名であるが、のちに韓信は、その若者を召し出し、「わしの今日があるのはおまえのおかげだ」といって厚く報いたという。司馬遷は、どのように、こうしたエピソードを集めたのであろうか。じつは「史記淮陰候列伝」の論賛に、司馬遷が収集の経緯の一端を語っている。

    わたしが淮陰に行ったとき、淮陰の人々はわたしにこういった。「韓信は平民であったときでも、その気がまえは普通のものとはちがっていました。彼の母が死にましたとき、貧乏で葬式もできなかったのです。ところが、彼は高爽な、ひらけた場所に墓をつくり、将来その周囲に何万軒もの墓守りをおけるようにしたのです。」と。わたしは彼の母の墓を見にいったが、まことにその通りであった。もし韓信が道理を学び、謙虚な態度をとって自分の功績を自慢せず、その才能を鼻にかけなかったならば、漢室に対して、その勲功はかの周公、召公や太公望などにも比せられて、後世ながく国家の元勲として廟に祭られることにもなったろうものを。ところが彼はそうなろうとつとめずに、天下が統合されたあとで、なお反逆をたくらんだ。一族全滅にみまわれたのも当然ではなかろうか。

    ここには司馬遷の韓信の人柄に対する愛情と、それ故にこそあえて加える批判の筆とがよくあらわれている。(参考:大島利一「司馬遷」清水書院)

史記 影印本「二十五史」所収 2冊 台北・芸文印書館
史記考要 柯維騏 明
史記会注考証 瀧川亀太郎 東方文化学院研究所 1932-34
司馬遷の見たる古代支那の人文地理に就いて 藤田元春 地球16-2、3  1931
史記の孔子伝大要 岡崎文夫 史林17-3  1932
司馬遷と班固 岡崎文夫 史林17-3  1932
史記及注釈綜合引得 北平・哈仏燕京学社 1947
史記会注考証校補 6冊 水沢利忠著 中文出版社
史記研究資料索引和論文専著提要 楊燕起・兪樟華編 蘭州大学出版社 1989
史記研究的資料和論文索引 中国科学院歴史研究所 科学出版社 1957
史記故事精選連環画 全4冊 冀汝枢等編絵 二世一世 1990
史記三家注引書索引 段書安 中華書局 1982
史記参考書目 二十五史史記後附録 開明書店 1935
史記書録 賀次君 商務印書館 1958
史記 世界文学大系 小竹文夫・小竹武夫 筑摩書房 1962
史記 中公新書 貝塚茂樹 中央公論社 1963
史記人名索引 呉樹平 中華書局 1982
史記人名索引 鐘華 中華書局 1977
史記新論 白寿彜 北京・新華書店 1981
史記菁華録 楊姚荢田輯 王興康等標点 上海古籍出版社 1988
史記地名考 銭穆 
史記百三十篇篇目的研究 劉偉民 香港聯合書院学報第10期 1972
史記研究之資料与論文索引 王民信編 台湾学海出版会 1976
史記選注賄匯評 韓兆琦編注 中州古籍 1990
史記探源 二十四史研究資料叢刊 崔適 北京・中華書局 1986

「史才と文章上より見たる司馬遷」 日下寛 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の性行と史記の文章」 児島献吉郎 東亜研究2-5  1912
「史記と外交」 武藤長年 東亜研究2-5  1912
「司馬遷年表並に其孝道」 中山久四郎 東亜研究2-5  1912
「司馬遷の経学」 狩野直喜 哲学研究3-7  1918
「司馬遷の自由放任説」 小島祐馬 政治経済学論叢1-1   1919
「司馬遷の歴史観に就いて」 本田成之 支那学2-8,9  1922
「史記ノ漢高本紀ニ就テ」 稲葉岩吉 東亜経済研究8-2  1924
「司馬遷の生年に関する一新説」 桑原隲蔵 史学研究(東京)1-1  1929
「史記貨殖列伝論稿」 穂積文雄 東亜同文書院論文集 1930
「司馬遷の人文地理学」 藤田元春 立命館大学1-12  1934
「史記と春秋学」 岡崎文夫 文化1-9  1934
司馬遷 東洋思想叢書 武田泰淳 日本評論社 1943
司馬遷 教養文庫 岡崎文夫 弘文堂書店 1947
司馬遷之人格与風格 李長之 上海開明書店 1948
司馬遷 史記の世界 創元文庫 武田泰淳 創元社 1952
司馬遷著作及其研究資料書目 上海市歴史文献図書館 1955
司馬遷 李鎮淮  上海人民出版社 1955
司馬遷年譜 鄭鶴声編 商務印書館 1956
司馬遷 岡崎文夫 弘文堂 1958
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 文芸春秋社 1959
司馬遷 記録者の意義と生涯 小倉芳彦(世界の歴史3) 筑摩書房 1960
司馬遷所見考 金徳建 上海人民出版社 1963
司馬遷 筑摩叢書 バートン・ワトソン著 今鷹真訳 筑摩書房 1965
司馬遷 史記の世界 武田泰淳 講談社 1965
司馬遷 史記列伝 世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1968
司馬遷 史記の成立 人と歴史シリーズ 大島利一 清水書院 1972
司馬遷 史記の世界 講談社文庫 武田泰淳 講談社 1972
史記3 支配の力学 丸山松幸・和田武司訳 徳間書店 1972
世界をとらえた生涯 司馬遷 市川宏 人物中国志3 1975
司馬遷 中公バックス世界の名著11  貝塚茂樹編 中央公論社 1978
司馬遷 諷刺と称揚の精神 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1980
司馬遷 起死回生を期す 中国の人と思想6 林田慎之助 集英社 1984
司馬遷評伝 肖黎著 吉林文史出版社 1986
司馬遷的創作意識與写作技巧 范文芳 文史哲出版社 1987
司馬遷和史記 劉乃和主編 北京出版社 1987
司馬遷與其史学 周虎林 文史哲出版社 1987
司馬遷 徳間文庫 李長之著 和田武司訳 徳間書店 1988

温故知新

Photo     「紫式部日記」の1008年11月1日の記述に源氏物語に関する記事があることから、この日が「古典の日」と定められている。司馬遷は「史記」のなかで孔子が多くの人の知らぬことを明快に説き明かしている逸話を記している。歴史に詳しく、細かな故実を知り、古典の整理をなしとげ、楽器の演奏にも通じていた。孔子はやがて弟子をとって人の師となる。

故きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師為(た)る可(べ)し (為政篇)

先生が言われた。「古いことを学んで新しいことにも通じている、そうであれば人の師となれるだろう」と。

   今でもよく使われる四字熟語に「温故知新」がある。これは、人を教え導く教師になるためには、昔のことがらをよく研究してそれに精通し、また最新の知見をも得なければならない、というのがその意味である。つまり「温故」のみで、「知新」、新しい知識を持っていないと人の師にはなれない、というのが最近の解釈である。(諏訪原研「四字熟語で読む論語」)

   これまでの多くの解釈では、古典を大切にして、古いものの中から時勢に合うものを汲み取っていくことが「温故知新」の意味とされることが多い。広辞苑にも「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」とある。

   「知新」を「新しい知識」とするか、「時代に合うものを見つける」という意味に解するかでずいぶん違ってくる。たしかに古典に精通した漢文の教師にも、最新のコンピューターや国際情勢の知識が必要であろう。岩波文庫の金谷治の訳にも「古いことに習熟して新しいことにもわきまえれば、教師となれるだろう」とある。古事記、万葉集、源氏物語、枕草子、百人一首など古典の研究も図書館が整備されたことで、新研究が盛んである。

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