5世紀の高句麗
国家組織を整備した高句麗は、4世紀末、広開土大王の時代に百済に対して反撃に出る一方、四方に征服戦争を開始した。広開土大王は、倭に侵入された新羅が救援を要請すると騎兵を派遣して倭軍を退け、伽耶に圧力を加えた。
北部では領土を拡張して、遼東地方を含む中国東北地方で古朝鮮時代の大部分の領土をとりもどした。続いて即位した長寿王は、首都を国内城から平壌城に移し、南進政策を積極的に推進した。そのために百済は漢江流域を失うと、都を熊津に移した。
こうして、5世紀の朝鮮半島の情勢は、高句麗、百済、新羅の三国が抗争した。 5世紀末に高句麗は、歴史上最大に領土を広め、東アジアの強大国として威勢を振るった。しかし高句麗は戦争を繰り返したために政治的な不満も強まり、経済的にも負担が大きく、6世紀には国力を消耗して危機に直面するようになった。(参考:『若者に伝えたい韓国の歴史』明石書店)
« 勝負は下駄を履くまでわからない | トップページ | 4世紀中葉の百済 »
「世界史」カテゴリの記事
- 西漢南越王博物館(2025.05.04)
- 同盟市戦争(2025.02.10)
- 英領インドにおける高等文官制度(2024.12.20)
- ムハンマドの死後(2024.10.06)
- 世界史探求(2024.05.21)
コメント