世界一の名歌手・エンリコ・カルーソー
Mステ。21世紀になって17年。CDが一番売れたアーティストは「嵐」だそうだ。でも20世紀のレコードの時代、世界中で一番レコードが売れたのはイタリアの歌手エンリコ・カルーソーだった。イタリアといえば民謡。民謡といえばナポリがまず思いうかぶ。歌とおしゃべりに明け暮れる楽天的なナポリっ子だが、南イタリア共通の貧しさがひそんでいる。ごみごみした路地にはりめぐらされた洗濯物の洪水、だがナポリっ子はそれを「ナポリの旗」だと無邪気に自慢する。
1873年2月25日、エンリコ・カルーソー(1873-1921)は、ナポリの貧民窟サン・ジョヴァンニエッロ街の機械工の18番目の子として生まれた。父親の名前は知らないが、母親はアンナ・カルーソーという。CARUSOはナポリ風に読めばカルーゾだが、日本では一般に英語風のカルーソーで通っている。ナポリの貧民窟に住む母アンナは、なけなしの金をはたいて小さなエンリコに歌を習わせた。シニョール・ヴェルジーネはエンリコの才能をあまり評価せず、「雨戸をふきぬける風みたいな歌だ」とあざけった。アンナはエンリコの成功を見ずに死んだ。1894年ナポリの新劇場でデビューし、イタリア国内のいくつかの小劇場で歌った。1898年、ミラノで「フェードラ」が初演され、大成功を収めた。1902年、ミラノのスカラ座で歌ったとき、グラモフォン社のフレッド・ガイズバーグと出会ったことが契機となり、レコード録音をする。1903年からニューヨークのメトロポリタン劇場での成功と併せて発売されたレコードによってその名は世界的に知られるようになった。カルーソはオペラ歌手というだけでなく、民謡やポピュラーソングまで歌い、世界のあらゆる階層の人々から愛される歌手であった。カルーソはアダ・ジャケッティとの間に、正式な結婚はしていなかったが二児をもうけていた。1918年、ニューヨークの実業家の娘ドロシー・P・ベンジャミンと結婚した。絶頂期の1921年8月2日に故郷で休暇中に亡くなった。若きカルーソを評して、トスカニーニは「このナポリ人がこのように歌い続けるなら、世界中、彼の噂でもちきりになるだろう」と言った。トスカニーニの言葉どおり、彼は現代につながる発声唱法とレコード産業をも確立させた。
「オーソーレミオ」(私の太陽)というエドゥアルド・ディ・カープア(1865-1917)作曲のナポリ民謡はカルーソーの創唱で世界中に知られるようになった。のちのオペラのテノール歌手たちがこぞってナポリ民謡をうたのうは、カルーソーの影響によるものだろう。
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